2018年11月18日

Sailing to the Sunshine !! 

 きのうと本日は Aqours のライヴだそうで、図書館で調べものを終えて駅南口に向かったら(途中、この時期恒例の Beaujolais-Village Primeur を買ったけど)、ちょうど折よく(?)、ラッピングタクシーがずらり勢ぞろいしてました。

 4回目となる今回のライヴのタイトルはずばり "Sailing to the Sunshine" でして、なんとふさわしいタイトルかと勝手に感じ入っていた。
Ascendit sanctus Brendanus in navim. Extensis velis coeperunt navigare contra solstitium aestivale.

聖ブレンダンは舟に乗りこみ、一行は帆を揚げて、夏至の太陽に向かって船出した[ちなみにこれを Google 先生に英訳させたら 'St. Brendan up on the boat. Stretching to do after the summer solstice and began to sail against the waning Summer.' と、けっこういい感じに仕上がって出力されたのにはちょっとビビりました。ラテン語の 'contra solstitium aestivale' というくだりは直訳すれば 'against the summer solstice' 。引用したのは『聖ブレンダンの航海』最新の校訂版となるオルランディ版から]。

 ようするに5世紀のアイルランド人修道院長ブレンダンたちが夏至の太陽へ向かって、つまりほぼ真北に南中する太陽を目印にして船出したように、Aqours 声優さんたちによるライヴもまた、おなじ太陽、もっと言えば輝き(radiance)に向かって船出した、ということになる。

 不肖ワタシは自分の住む街が思いがけずこの作品の主要な舞台となり、かつこの作品を自分なりにしっかり見てきたひとりとして思うところを以下、書き出してみたい。というか、言わずにはおれなかった、というのが本音ではある。

1). アニメ作品『ラブライブ! サンシャイン !! 』1期放映を見たのは前にも書いたとおり、昨年夏の Eテレでの全話再放映からで、遅くやってきたという感じではあるが、ちょうど昨年あたりから明らかに街のようすが変わってきた。市広報紙で特集を組んだり、「街歩きスタンプ」設置店舗が急増したり。そもそもこの作品に興味を持ったのもその市の広報の特集を読んだからで、だから再放映を知ったとき、「特集を組むほどの作品ならば、なら見てみますか」というごく軽い気持ちからだった。

 … あれからはや一年、「寝そべり」を月見団子よろしく積み上げた店がずいぶんと多くなり、関連イベントも開催されるようになったし、駅前のコラボカフェを訪れる人もずいぶんと増えた。もちろん内浦地区を散策する人も目に見えて増え、シリーズ2期の放映が開始されるとその数はますます増えていった。

 市民のなかには白眼視する向きも少なくない、というような話も聞くけれども、すくなくともワタシが見るかぎりでは聖地巡礼のお客さんと地元民とのあいだの関係は表立ってよくない、なんてことはまったくないと思う。一部、心ない茶々ないし作品ファンに対するクレームをネット上で見かけるが、個人的には悪い印象、というのは皆無(もっとも駅前に三脚を立てたりバスターミナルのベンチを荷物で占領するといったことはたまさか見かけるが)。むしろこの作品の放映が始まったおかげで市中心部の治安が改善された印象のほうがつよい。商店街も、Aqours メンバー9人のフラッグや横断幕、タペストリーなんかが整然と掲げられ、それだけでも街全体の雰囲気がずいぶん明るく、華やかになった。そしてクラウドファンディングの資金で製作・設置されたカラーマンホール蓋。はじめてあれを目にしたときはアートワークとしての出来のよさにほんとうに驚いたものだ。

 聖地巡礼にやってくる人を十把ひとからげに「オタク」だ、とのたまうのもどうかと思う。ワタシの見聞したかぎりでは、ワタシのようにアニメなんぞにまるで興味がなかった人がこの作品にハマった、という事例のほうが大多数でして、こういう人たちまでいかにもダゲレオタイプならぬステレオタイプに「アニメオタク」と揶揄するような発言はよろしくないし、だいいち失礼だ。彼ら / 彼女らは観光客でもある。もしワタシがこの作品に対してなんの興味もないままだったとしても、数年前までの駅前と商店街のさびれた状況を知っている者としては、このにぎわいはありがたい、という気持ちのほうが勝ると思う。アニメだろうとなんだろうと、「よいものはよい」という主義なので、こういう偏見ははっきり言って理解不能。はるばるドイツからやって来てくれたお客さんに向かってそんなこと言えますか。

2). もし、『ラブライブ! サンシャイン !! 』が一部ネット上で叩かれているような低俗な作品だったら、ではなぜ十代、二十代のみならず、幼い子どもを持つ若い夫婦といった社会人までこの作品のファン層が幅広いのか、説明がつかない。「メディアミックス展開だから」という意見もあるかもしれない。ゲーム、声優さんたちによるリアルな Aqours、アニメに登場する挿入歌などの楽曲や「寝そべり」やフィギュアの販売も、たしかにあるとは思うし、商売に走っている感じもなくなくはない。でもそれもこれも「浦の星女学院スクールアイドル Aqours の成長と奮闘の物語」というストーリーそのものが観る者のココロに訴えないかぎり、いくらメディアミックスしたってとうていここまでの社会現象的ななにか、にはいたらないはず。なんたってこの作品がきっかけで移住する人までいるんですぞ! 何十年も鉄道高架化が遅々として進まず、2011 年の大震災以降、内浦をはじめとする沿岸地区の過疎化に拍車がかかり、街からは住民がどんどん出ていくいっぽうさびれるいっぽうだった、というのに !! これを「奇跡」と言わずしてなんと言うのか

 いいトシした大人が「寝そべり」持って歩いていたり、キャラクターをあしらったマンホール蓋のそばにフィギュア置いて写真撮影しているのが気持ち悪い? たしかに Aqours マンホールの蓋をごしごしやってる人とかはたまに見かけますよ。個人的には布の繊維くずのほうが問題だと思うので、やるんならダストブロワーでシュッとひと吹き、くらいでいいとは思ってますけど、通行人の邪魔にならないていどならばべつにいいじゃないですか。チャリンコ暴走族のほうがよっぽどコワいですよ、それにくらべたらかわいいもんですわ。5月の狩野川こいのぼりフェスティヴァルのときだって、津島善子 a.k.a. ヨハネの住む設定になっている商店街に向かって、女子高生らしきふたりの女の子がニッコニコしながら「伊勢海老」のぬいぐるみかついで走ってました。またあるとき帰りのバスを駅前で待っていたら、だしぬけに「全速前進、ヨーソロー!」と元気よくかけ声かけていた女の子もいました。たちの悪いヨッパライが管巻いている光景しか見たことのない一住民としては、こっちのほうがよっぽど精神衛生によいし、よもやこんな時代が来ようとは beyond my wildest imagination だったずら。

3). そんなふうに思ってるのってオレだけなのかな、なんてショボくれていたら、西浦地区で民宿を営んでいる方のツイート見て小躍りしたくなるくらいに、「わたしはうれしかった[英国人作曲家パリーの同名の合唱曲のパロディです]」。本日の Aqours 声優さんたちのライヴ(しかも東京ドームずら!)、なんとその方と息子さんが「参戦」するという内容だったんですけれども、「『学校で先生が見せてくれたアニメにみんなで驚いたあの日、こんな日が来るとは思わなかった』と語る、高校生になった息子と明日、東京ドームに向かいます」とあり、トシなんでつい涙腺が緩んでしまった。しゃすが本家、「みんなで叶える物語」だと感じ入ったしだいです。

 キャッチフレーズでもある「みんなで叶える物語」、ほかにもいくつか事例はあって、地元商業高校の生徒さんたちがコラボ商品の開発と販売をしたり、あとアルミ缶入りの地元産お茶飲料のパッケージに描かれた高海千歌をはじめ茶娘姿の Aqours のあのイラストも、地元の女子高校生が描いたもの。この物語は、確実にこの街を変えつつある。

4). でもさあ、『ラブライブ! サンシャイン !! 』もリアル Aqours もいずれ終わっちゃうんでしょ、先代の音ノ木坂学院スクールアイドル μ's のときのようにさ、という声がチラホラ聞こえもする、今日このごろ。「『サンシャイン !! 』は黒船だったな」といううまい表現も見かけたりしたけど、たしかに黒船なのかもしれない。でもあの作品の制作に関わった監督はじめスタッフさんたちの「本気度」はどうですか。ワタシがなによりもこの作品と Aqours が好きになったのも、ひとえにこの「本気度の高さ」。たとえば地元ゆかりの小説家、芹沢光治良氏との関連はかなり指摘されているけれども、黒澤ルビィの「ルビィ」は幼少期の芹沢氏が近所に住んでいた兄ちゃんにいつもくっついていて、それが「漢字のルビみたいだ」ということで、寺子屋の先生が芹沢氏のことを「ルビちゃん」と呼んでいたことにちなむ、とか、主人公の高海千歌の千歌も、芹沢氏の幼少時に面倒を見ていた叔父さんの奥さんの名前の「千賀」から、また小原鞠莉の鞠莉も、芹沢氏が学生時代に世話になっていた実業家の娘の名前「鞠」から、といったぐあい(以上の説は芹沢光治良記念館配布資料によるもので、「ラブライブ!」シリーズの運営元の公式見解ではありません)。

 そしてなんといってもあの緻密な風景の描写と Aqours メンバーの内面の掘り下げ方、そして音楽が主役な物語だけに、挿入歌も含めて「劇伴」ものどれをとっても出色のできのよさで、とくに作詞の畑亜貴さんの歌詞はじつにすばらしい(NHK-FMでも「今日は一日ラブライブ! 三昧」を長時間にわたってオンエアしてましたっけ。かかった楽曲なんと 74 曲 !! これでもまだぜんぶじゃないからもっと驚く)。なるほど、これだからみんなライヴに行きたがるのもうなずけるお話ではある。そういえばいまさっき NHK-FM 聴いていたら、リスナーのこんなお便りが読まれました。なんでもバンド活動をしていた方のようで、バンド仲間は結婚を機に音楽活動から遠ざかり、いまだに活動をつづけているのは自分だけ、ひさしぶりに仲間どうしで再会したとき、「まだ音楽やってるの?」と言われるのではないかと不安だったが、いざ会ってみたら昔、みんなが大好きだった洋楽をいまも心の支えにして生きている、と聞かされうれしかった、というものでした。これですよ、アートの力というのは! 『ラブライブ! サンシャイン !! 』の音楽にも当てはまると思う。スターバックスじゃないけれども、人間ってのは「第三の場所」が必要だ、とする主張には全面的に賛成する。比較神話学者キャンベルの言う「神聖な空間」とも近いものがあるように思う。こういう体験なり空間なりを提供できるのは、質の高い作品だけ。『ラブライブ! サンシャイン !! 』は長い間の鑑賞にもしっかり耐えられる物語だと思ってます。

 アニメシリーズが終わったあとはどうなるか、についてですけど … 図々しいのは承知のうえで言わせてもらえば、8月に急逝されたさくらももこさんの代表作『ちびまる子ちゃん』のようになってくれれば、というのが個人的な理想。『まる子ちゃん』と『サンシャイン!! 』はそもそも比較にならんだろ、と突っこまれるのはわかってます。わかってるが、地元出身ではない人びとがこれだけ真剣に向き合い、ここまで丁寧に物語を作ってきてくれたのだから、これをシリーズ終了、ハイおしまい、ではなんとも情けない。こんどは地元が主体となって永続的な取り組みにすべきだと思う。前にも書いたがこの物語はただたんに消費されるだけのコンテンツなんかじゃない、これはすぐれた文学作品とおなじく、長く残る「作品」であり「物語」なのだから。

 … というのがようするにワタシの結論です(聖地巡礼の人はアニメに関係する場所しか興味がなく、ほかの名所とかには見向きもしない、という声もときおり聞くけど、たとえば前にも書いたようにワタシなんか地元民のくせに知らなかったあの場所、この場所を「浦の星写真部」の作品を通じてずいぶん教えてもらった口なので、その批判も当たっていない。だいたい人間なんて最初はそうでも、しだいに興味関心の間口は広がっていくもんですよ。ついでに脱線すれば、自分はこの街の出身者ではなく、生まれは東京。つまり「梨子ちゃんビーム!」の桜内梨子と立ち位置がおなじだったりします)。

 そういう意味では、「みんなで叶える物語」はまだ始まったばかり。Let's SAIL TO THE SUNSHINE !! 

2018年10月30日

ルオーとキャンベルにとっての radiance とは

 今日、10 月 30 日は Halloween eve … じゃなくて、米国の比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルが異界へと旅立った日。自分が好きでコツコツ訳しためているとあるキャンベル本に収録された文章に、ゴーギャンやジョイスといった「破滅型の芸術家」についての考察がありまして、たとえばこんなふうに言っている。*
 もしあなたが壁で囲まれた集落に留まって生きてゆくのなら、身のまわりのことはその集落が面倒を見てくれるでしょう。でもひとり冒険の旅に出るのだったら、果たしていまが出発すべき時なのか、よくよく考えてみなくてはなりません。冒険の渇望に取り憑かれるのが人生後半、すでにあれやこれや責任を負っている年齢にそんな炎が灯ったとしたら、これはのっぴきならない問題になります。ゴーギャンがそうです。彼の後半生は破滅そのものでした。自身の人生はおろか、家族の人生までもが滅茶苦茶になったのですから。ですが、ゴーギャンの人生は破滅だったでしょうが、彼の芸術はそのためにかえって偉大なものとなりました。彼が絵を描くことに真剣に向き合いはじめたのは、45歳くらいから。以後、彼の人生は絵を描くこと以外になくなりました。ゴーギャンの生き方は、ある種の英雄の旅だったでしょうが、その代償はあまりにも高くつきました。なんとも皮肉なことです。ゴーギャンは人間としては大いなるしくじりを犯したと言えるでしょうが、しかし芸術家としては勝利者だったのです。[中略]

 最後の大作『フィネガンズ・ウェイク』を書き上げるのに、ジョイスはじつに16年を費やしています。さてこの作品が出版されたとき、いかなる書評が書かれたのか、ぜひ読んでみるべきでしょう。曰く、「この男はいったいなにをしようとしているのだろうか? 発狂でもしたのか? いかれた破壊行為を働いているだけなのか?」。『フィネガンズ・ウェイク』初版本は2か月と経たないうちに見切り本扱いとして安売りされました。わたしはこの作品を4部、それぞれたったの56セントで買いました。見切り売りがはじまったとき、版元はどうにかして出版費用を回収しようと立ち回ってました。よって著者のジョイスの手許にはなんの見返りもありませんでした。
 ジョイスは生涯最後の本として計画していた作品に手をつけることなく、59歳の誕生日を迎える3週間前に亡くなっています。ジョイスの生き方は、わたしにとっては手本たりえない。ですがわたしにとっての芸術の手本は、まちがいなくジョイスです。トーマス・マンはジョイスについて、おそらく20世紀最高の小説家だと評しました。でも、そのために彼が払った犠牲がどれほどのものだったか。
 またこの文章には『4分 33 秒』で有名な前衛作曲家ジョン・ケージのことば「名声などつまらんもの」という引用もあったりで興味は尽きないけれども、引用者がキャンベルのこの文章(もとはエサレン・インスティテュートというリトリート研修施設で行われた集中セミナーみたいな場での講義)でもっとも感動したのは(下線強調は引用者)、
 ジョイスは、これらもろもろの苦難を耐え忍んだ。ひとえに自身の希求する「完全さ」ゆえに。この完全さこそ、芸術の内包する成就であり、ジョイスはそれを成し遂げました。対して「生きる」というのは、不完全なものです。生きる上で立ち現れるあらゆるものはみな不完全なものにすぎませんが、芸術の働きというのはこの不完全な生を貫く「輝き(radiance)」を目に見えるようにすることにほかなりません
 先日、たまたま見たこちらの番組で、フランスの宗教画家ジョルジュ・ルオーの展覧会のことを取り上げてました。ルオー、とくると、パブロフのなんとかですぐ、あのぶっとい黒い線に囲繞されたキリストのご聖顔を思い出すんですけれども、イエスと聖家族を描いた最晩年の作品『秋、またはナザレット(1957)』を見た瞬間、ジョイスの言うエピファニーを感じてしまった。ルオーは十代のとき、ステンドグラス職人の徒弟修業に出ていたとのことでして、なるほどそれであんなぶっとい黒線か、とも思ったんですが、こちらの作品でつよく感じるのは背後から差しこむ後光のようなおごそかな「輝き」のほうでした。ステンドグラスから教会堂の石の床にまだらに投げかける、あの光、あの輝きが、その作品にはたしかにあった。もっとも絵画というのはホンモノを見るにかぎる、というわけで、まだ会期中だし、見てこようかなと思案中です(エドヴァルド・ムンクのほうも気にはなってる)。

 ところでキャンベル先生は最晩年になっても若々しくて、あんなふうに年を取りたいものだなんてのほほんと思っていたりするんですが(白髪は増えたが)、そんなキャンベル先生はわりと新しもの好きだったようで、
モイヤーズ われわれは自己のイメージに従って世界を改造したい、われわれがそうあるべきだと思ったとおりに作り直したい、という願望を持っており、機械はそれを実現するのに役立っている。
キャンベル そうです。ところが、そのうちに機械が人間に指図を与える時期がやってきます。たとえば、わたしは例のすばらしい機械、コンピュータを買いました。いまわたしは神々に関する一権威者といったところです。コンピュータをそんなふうに見てるんですよ。旧約聖書に出てくる、たくさんの掟を持つ情けを知らぬ神のようなものだと。…… わたしは自分のコンピュータから神話についての啓示を得ました。あるソフトウェアを買うと、そこに自分の目標を達成するために必要なすべての記号がセットされているのです。べつのシステムのソフトウェアに属する記号をいろいろ操ったところで、なんの役にも立たない。
…… ある人がほんとうにある宗教にのめり込み、それを基盤にして自分の人生を築こうとするのなら、その人は自分が得たソフトウェアだけを用いつづけたほうがいい。でも、このわたしみたいに、あれこれのソフトウェアをもてあそびたい人間は、たぶん聖者に近い経験を持つことは永久にないでしょうな。―― 『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房 1992[なお表記は自分のスタイルにあわせてあることをお断りしておきます、以下同].
 いま、インターネットをめぐってはさまざまな問題があり、そうは言ってもすばらしい可能性もまだまだ未開拓のまま残されている余地はひじょうに多い、と個人的には思うけど、「移民集団にはおおぜいのギャングや悪いヤツらが交じっている。どうか引き返してくれ。これはわが国への侵略でわが軍が待ちかまえているぞ!(「讀賣新聞」サイトの訳)」といったたぐいのツイートを垂れ流し、悪いのは fake news をまき散らす CNN や NYT だ、オレはなーんも悪かない、みたいな人間が世界の超大国にしてキャンベル先生の故国のリーダーでもある現状は、先生の眼にはいったいどう映るんだろうと、そういう妄言録を見聞きするたびに思う、今日このごろ。あの人の言っていることにいちいち心酔するような人たちってちょっとゾッとするんですけど、ひとことで言えば前にも言ったけど、90 年近くも前にオルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で書いたような人々なんでしょうな(どうでもいいけど、いまの米国大統領ってどうしてこう「時計の針」をもどそうもどそうとばかりするのか? なんかもう『風と共に去りぬ』の世界にまでもどってしまいかねない危惧がある)。

*... from A Joseph Campbell Companion: Reflections on the Art of Living, selected and edited by Diane K. Osbon, Harper Collins, New York, 1991.

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2018年10月22日

「生きているあいだは輝きなさい」

 いまごろなんですけど、本庶佑先生のノーベル医学生理学賞の受賞はすばらしかったですね! オプジーボでしたか、従来の抗がん剤とはまったく発想の異なる免疫療法による特効薬の研究開発。そして寡聞にして知らなかったが、なんと静岡県ともゆかりがけっこう深くて、昨年まで静岡県公立大学法人理事長を務められ、そして「ふじのくに地域医療センター」の現理事長でもある、というからさらにびっくり(→ 関連記事)。そしてなによりも自身の経験に裏打ちされた「名言」もまた、すばらしい。やっぱりこういう「個」をしっかり持った人というのはけっして狭量ないわゆる専門バカであるはずもなく、普遍的な「輝き」、radiance を放つ人物なのだ、ということを再認識させられもした。

 「一生をかけるなら、リスクが高くても自分がやりたいことをすべき」、「生命科学はどの研究が実を結ぶかはわからない。一見役に立たない、すぐに結果が出ないように見えても無駄ではないのでいろんな分野やパターンに挑戦するべき。だから教科書に書いてあることも正しいとはかぎらない。まず疑うこと」といったことば、胸に響きますね … とくに「健全な批判精神」ということを強調されていたことなんか、もう感激。そういえば地元紙もノーベル賞受賞が決まったとき、本庶先生のことばとしてつぎのように掲載していた[引用は一部抜粋、下線強調は引用者]。
一般的にいまの学生は浪人する人が少ないなど安全志向が強い。人生は一度しかないからチャレンジしてほしい。自分が決めた枠の中にいるだけではおもしろくない。好奇心やおもしろいと思ったことに挑戦してほしい。

 1回や2回失敗したっていい。再起は可能。失敗してもあきらめず継続すること。やる以上は全力で集中してやる。ずっとやっていると、そのうちなんとなく自分に自信がでてきて開けてくる
本庶先生は研究室で若い院生に、よくこんなふうに問いかけたんだそうです。「それは、ほんとうにキミがやりたいことなのか?」。心からやりたいと思っているのかどうか、これが判断のひとつの基準だったことはまちがいない(→「いちばん大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ!」by 高海千歌)。この点もしごく共感できて涙が出そうになる。

 自分が夢中になれるかどうか。ほんとうに好きなら、たとえカベにぶつかってもあきらめたりせず、やかましく無責任な外野の声なんぞいっこう気にもとめず、おのれの究めたいことをひたすら追求すること。… っておや、なんかどっかで聞いたことある話 … そう、比較神話学者のキャンベルの言う「あなたの至福に従え」ですよ、まさしくこれ。言わんとするところはけっきょくおんなじじゃないですかね。 

 前にも書いたけど、ほんとうに自分のしたいことならば、あるいは自分が大好きな分野ならば、とにかく喰らいついてなにがあろうと離さない、そうすれば ―― 確約はできないが ―― 以前、ここでも触れたある翻訳家の先生の言われたごとく、「きっといいこともありますよ」。不肖ワタシもそうかたく信じている( → 本庶研究室で助手、講師を勤めた弟子筋の方の書かれた寄稿文)。

 そういえば先日、原稿書きの調べものをしていたら、まったく予期せずこんなことばに巡り合った。古代ギリシャの墓碑銘だかに刻まれていた歌詞の一部らしき一文で、こう訳されてました。「生きているあいだは輝きなさい。命は短いのだから、思い悩まないように」。かくあれかし、と思う。語学の勉強もこれと似たところがあるかな。ほんの数年くらい学んだからといって澎湃たることばの海を泳ぎきれると思ったらそれはちがうゾ、といっつも思っているので。でもいまはインターネットとか Google とかあるし、調べものひとつとっても昔とくらべれば、そりゃラクにはなりましたわ(その代償? に、ワード当たり単価もどんどん落っこちているというのは好事魔多し、ということなのかどうか)。

 地元紙の読者投稿欄に、学校の英語教育で生きた英会話を教えてほしいという、ある意味切実なお悩みの声が掲載されていた。が、とくに公立学校においてそこまで求めるのはどだいムリだろう、というのが偽らざる感想。そこでインターネットを十全に活用しまくるのだ !! と、声を大にして言いたい。ポケモンGO とか課金ゲームもいいけど、昔にはなかった「特権」がみなさんにはあるのだから、もっともっと活用すればよい。べつにムリして語学留学に行くこともないと思う。ロハでもいくらだって勉強できますよ、ほんとうにその気があるのならば。相手が用意してくれるのをポカンと待ってるだけじゃイカンです。昔、翻訳の勉強をはじめたころに読んだあるエッセイに出てきた「水族館に飼われている太ったイルカ」の比喩とおんなじ。「サメやシャチに襲われる心配もないし、食事だって飼育員がすべて用意してくれる。18, 9 歳くらいでこんな感じになり、ただひとつの不安といえば、退屈すること」。学校では、英語だったら英語ということばの成り立ちと「基礎」さえ身につけてくれればよいと思う。そこから先は、「好奇心やおもしろいと思ったことに挑戦」すればいいだけのこと。じゅうぶん羽ばたけるだけの力は身についているはずです。なんでもかんでも学校の英語の先生に求めちゃダメずら。そんなことしたら倒れちゃう。

 科学研究の場合、もうずいぶん前から基礎研究の研究費の削減と優秀な研究者の不足が問題になっています。お金というのはこういうところにこそ使うべき、と主張してもいる本庶先生はほんと正しいと思いますね。カネの使い道、ひいては税金の使途という点でも、真剣に考えなくてはいかんと思います。

タグ:本庶佑
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2018年09月10日

Aestas Horribilis 2018

 いまさっき、米国の臨床医向けポータルサイトでこういう ↓ 書き出しの論説文を見た。
Toward the end of 1992, Queen Elizabeth II of Great Britain referred to a year of misfortune that had befallen the British royal family as “annus horribilis.”

As I write this editorial, I feel much the same about the summer that has just passed − aestas horribilis − with death, misery and destruction wrought upon the Mexican, Caribbean and U.S. populations by a series of hurricanes, earthquakes, gunmen and political extremists.

1992年暮れ、英国女王エリザベス II 世は英王室につぎつぎと降りかかった災厄だらけの一年を回顧して、「ひどい年」だと評した。

 この論説を書く筆者もまた、過ぎ去ったばかりの今夏について、ほとんどおなじことを感じている −− ひどい夏。今年の夏、メキシコやカリブ海諸国、そして米国の人びとはハリケーンに地震、銃撃犯に政治過激派と立てつづけに襲われ、死と困窮と破壊とに見舞われている。

aestas horribilis ―― 今年の夏をひとことで言えば、「今年の漢字」じゃないけど、まさしくこれだったのではないか。ほんとうに「ひどい夏」だった。天候不順、雨が降ればスコール、ゲリラ豪雨にゲリラ雷雨、かと思えば「熱波(ここ静岡県でもほぼ全域で最高気温も軒並み過去最高を記録。これは太平洋高気圧とチベット高気圧の二段重ねが原因とのことらしいが、これはもう、欧州などでここ数年頻発しているりっぱな熱波ですよ)」、そして台風のたまごがオニヒトデよろしく異常発生、昔のギャグアニメの主題歌でもあるまいに東から西へ「逆走」した台風は出るわ(海蝕崖にへばりついて建つ熱海の某ホテルの大食堂の窓ガラスが台風の高波&高潮の直撃を受けて木っ端みじんになった、なんてこともあったが、個人的にはもっとはやく食堂を閉鎖すべきだったと思う。台風が直撃コースをとることはとっくにわかっていたはずで、これは人災的要素が大)、西日本では過去に例のないほどの広域での浸水害や土石流被害が発生。そして追い打ちをかけるように先週の北海道南東部を深夜、襲った M 6.7 の激震。

 東日本大震災のときもそうだったし、毎度、おなじことの繰り返しで申し訳なく思いますが、被災された方には心からのお見舞いと、亡くなられた方のご冥福を祈りたい。地元紙朝刊に大きく掲載された厚真町のひじょうに広範囲におよぶ地滑り的な山体崩壊の航空写真には、しばらく絶句して見入るばかりだった。

 日本の自然は四季がはっきりしていて、四季折々ということばがあるように基本的には昔、さる著名な風景写真家が評したように、「欧米などの大陸の自然とちがってやさしい」。でも同時に台風に代表される風水害や冬の雪害、たまさか発生するも甚大な被害をもたらす竜巻などの突風、そして火山の噴火に、地震、地震に伴う津波や軟弱地盤の液状化。思いつくだけでもこんなにある。ちょっと歴史を顧みれば日本の歴史はそのまま自然災害の歴史でもあり、互いに助け合わなければ生きてゆけない(日本が「超」がつくほどの均質社会と言われるのも、ひとつにはこの自然災害の突出した多さに起因するのはまちがいない。ひとり勝手なことをしようものならたちまち「村八分」になっただろうから)。

 言いたいことはいろいろあれど、やはりなにかお役に立てることを、ということで、「災害への備え」に特化した情報などを提供する Web サイトをここでもすこしご紹介したいと思う。

1). NHK の「災害もしもブック」&「災害もしもマニュアル
2). 無印良品の「わたしの備え。いつものもしも。七日間を生き延びよう[PDFファイル]」
3). 「いつでも持ち歩きたい防災ママバッグ」 幼児を抱えたお母さん向けに、必要最小限の用品を入れたバッグを用意しよう! という情報をまとめたもの。

ちなみに不肖ワタシが、たいしたことではないけれどふだん実践していることは ――

 ・懐中電灯を含む、携帯用 LED ライトをいくつか携行する。うちひとつはカバンにくっつけていて、夜間の発光材代わりにもなっている。
 ・ふだんからよく歩く。ブロック塀など、危険個所の点検という意味もあるが、津波がきたらこのルートで、とか、ここが使えなくなったらどうするかとか、安全に避難可能なルートを頭に入れておくため。
 ・「ハイレモン」とか飴玉類やハサミ、手袋、タオル、絆創膏、ポケットティッシュのたぐいもいつも持ち歩いてます。
 ・はじめて行く場所[コンサートホールとか美術館とかも含む]の避難経路の確認

 災害がとくに多かった印象を受ける今年の夏でしたが、最後にあの2歳の幼児をみごと発見救出したヴォランティアの師匠的存在の方について率直に感じたこと ―― それは、いくら当該分野の専門知識や経験があっても、「幼い子どもは上へ行く習性がある」という一見、まるで畑ちがいにも思える児童心理学的直観にはまるで歯が立たなかった、ということ。いまひとつはあまりに人任せな人が多い、ということ。たとえば大水害に見舞われた岡山市の低地地区の方が、「浸水予想区域地図」なんか見たことがない、と嘆いていたのを TV で見たとき、地元自治体広報紙にはさまってなかったのかなってちょっと信じられなかった。周知のしかたに問題ありかもしれないが、やはり「自分の命は自分で守る」のが、最強の初動態勢なんじゃないでしょうかね。危ないと感じたらさっさと逃げる、その場を離れる。大津波がきたら「てんでんこ」に散り散りになってとにかく高い場所へ高い場所へ逃げる。避難訓練はもちろんだいじだけれども、天災には、人間の都合でこさえた避難マニュアルなんて通用しない。そのときそのときの判断で生き死にが分かれる(昔見た風景写真雑誌に、「自然が発する警告にまるで気づかず、『わたしは危険がわからない』みたいな人が増えている」という趣旨のコラムを読んだことがあるが、最近、とくにそれをつよく感じる。台風接近時にサーフィンしに行くなんて、論外ずら)。

 また、こんどの地震でもこんなコメントを伝え聞く。「ここでは起きないと思っていた」。固定していない家具の下敷きになって亡くなった方もまた出てしまった。液状化とかはほんとどうしようもないですけど、せめてできることからはじめましょうよ。大阪の地震だって、あんな危険なブロック塀が何十年も放置されていたとは信じがたし。40年ほど前の宮城県沖地震の教訓がちっとも生かされてなかったってことでしょうね。人任せにしてはいけません。

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2018年07月08日

「餅は餅屋」ずら

 先日、地元紙に小さな扱いながらこんな記事が。「英大調査 / ソーシャルメディア曲がり角? ニュース利用減少」というもの。

 『自分の時間』という邦訳書名で知られる古典を書いたことでも有名な英国人小説家アーノルド・ベネットは、どこで読んだかかんじんなことは失念してしまったが、たしか自分自身の意見や考えというものを持たない人を「毎朝、新聞を読んでからでないと仕事に行けないような人間」というふうに評していた。そんなベネットが、この記事見たらどう反応するのかな? ほえ、21世紀人はソーシャルメディアなるもので、紙の上ではなく光る平滑な画面上に映し出される文字を読んでいるのか、しかもこの写真は動くし音も出る、まるで持ち運べる映画じゃ、なんて思うかも。

 ニュースを知るためのツールとくると、マスメディアの代表格のひとつでもある紙の新聞、あるいは NYT に代表されるようなインターネット上の「電子版」と称される媒体が思い浮かぶ。でもここ数年は事情が変わってきて、いまなにが起きているのかを知るのに Facebook や Twitter なんかで配信されるモノを頼りにするんだそうな。とくに FB は前回の大統領選以来、fake news の温床だとして叩かれてきたから、逆に言うと、ここ数年は旧来の新聞ではなくて、ソーシャルメディア経由でニュースに接する人が存外多いということを示している。これ、もっぱら地元の地方紙と、たまさか図書館なんかで「東京新聞」とか読んでいるにすぎない古いタイプの人間にはいささか信じられない。

 なんというか、やはり「モチは餅屋」、だと思うんですよね。記者が足で稼いで取材してきた記事や写真原稿を編集者がいったんまとめて、それにデスクがダメ出しする。最終的によしということになった記事原版が校閲・校正を経て印刷に回る。販売店に輸送されてきた新聞が配達員によって各家庭に配達される。これだけの労力と手間とカネがかかっているわけです。オンライン版とか電子版はどうか。まず印刷しなくて済むから木材資源の節約にはなる。省資源、省エネルギー。で、配達する必要もないから、とくに速報系、 breaking news 系にはとくに威力を発揮するでしょう。これはたいへんなメリットだと思う。でもなににも増してネット新聞の最大の利点は、ウチにいながらにして、いや iPhone などのモバイル端末さえあれば、いつでも、どこでも世界中のニュースをリアルタイムで知ることができちゃうことだろう。伊豆半島にいたってアイルランドの英字紙 The Irish Times が読める時代。

 問題なのは、そもそも報道機関でもなんでもないプラットフォーム企業の手のひらの上でめいめいが好き勝手に「配信」しちゃってるニュース「もどき」、報道「もどき」だろうと思う。fake news のたぐいはたしかに昔から存在しているし、写真の世界ではたとえば「心霊写真」なんか、150 年以上も前の写真術草創期にもう世間を騒がせていたりで、言ってみれば古く、かつ新しい話なんではあるけれども、いまは Instagram などの出現でだれもがかんたんに写真の加工や編集ができちゃったりする。ようするに小学生でも腕っこきの記者よろしく情報発信できてしまう世の中なので、文責というか、よほどハラをくくっていかないとマズい、とワタシなんかは感じるんですけれども … Twitter で遊んでばかりいる大統領閣下はじめ、甚大な災害が発生してただでさえ「正確な」情報がほしいときにじつにくだらないデマやホラを垂れ流す輩もいたり(この人の発言はしょせんプロパガンダにすぎない)。とくに Twitter は企業の PR、もしくは災害の現場がいまこうなっているからなんとかして、みたいな情報に使うぶんにはなんら問題ないし、このプラットフォームの持つ強みが十全に発揮されるように思う。でも現実はね …… これ以上は推して知るべし。

 キューバ危機の時代、米国ではいまだ LIFE とかの写真ジャーナリズム系雑誌がいまとはくらべもののないほどのパワーを持っていた。ユージーン・スミスとか、報道写真家と言われる人々も矜持を持って仕事に打ちこんでいたように思う。ジャーナリズムとジャーナリストの地位がこれほどまでに凋落したのは、ひとつにはネットでだれもが発信できるようになったということも大きいのではないか(ジャーナリズムの本場と思っていた米国でさえ、昨今は大学のジャーナリズム学科に入ろうものなら親が猛反対するんだそうな)。なにかとバッシングを受けたりする新聞ですが、英国 The Times の社説が書いているように、最後のよりどころとしての新聞はまだまだ捨てたもんじゃないと思いますね。とくに紙の新聞の持つ、パッと広げただけでだいたいが把握できる「情報の一覧性」は、すぐれた特性だと思う。

 ベネットですけど、こちらの方のブログ記事にたいへん興味深いことが書かれてあった。限られた可処分時間を有効活用するには関心領域の本を読むべし、でもそもそも「読解の基礎ができてない人が多い」。これ、ホントそう思う。「たおやめ」だの「ゆめゆめ」だのといった古風な言い回しはしかたないとしても、「気の置けない友だち」という表現が通じない。最近、日本大好きな YOU さんたちが多いみたいだけど、彼ら彼女らのほうがよっぽど日本語を知っている(「こうもり[傘]」がわからない若い日本人がけっこういる)。Twitter だろうとブログだろうとなんだろうと、カネをとる、とらないに関係なく、人さまに自分の主義主張を伝える前にまずもって「先人の書いた著作なり文章なり」をそこそこの量仕込んで自家薬籠中のものにするくらいでないとイカンでしょう。あと、タブレット世代のいまの小学生は習うかどうか知らんけど、「原稿用紙の使い方」とか、句読点の打ち方や禁則といった書きことばとしての日本語のルールも大事ですね。

 でもそれ以上に個人的にもっとも大切にしている原則は ―― 読んだ人が不快になるようなことはきょくりょく書かない、または自分が読んだとき、「これつまんねー」的な文は書かない。いわゆる『文章読本』ものじゃないけど、文章を書くという行為はそうとう疲れるもんです。かなり注意しているつもりでも誤字脱字が出てきたり、翻訳だったら誤訳していたり …… Twitter なんか見てますと、どうも日本語で文を綴ることのむつかしさ、こわさを知らないで御託を並べてるたぐいが多すぎて閉校、じゃなかった、閉口する。

 それと、ここで紹介したベネットの『自分の時間』、この夏の読書感想文どうしようかな、なんて考えあぐねている高校生の方は、ぜひ読んでみれば。この本の原題には How to live ... なんてあるものだからハウツーものかい、と思われるかもしれないが、はっきり言って百年以上も前に書かれたこの本はイマドキのなんとかハックものだの薄っぺらな self-help ものとはまるで似て非なる名著。マーク・トウェインは「古典は酒、でも自分の本はだれもが飲む水」であり、「古典はみなが褒めるだけで読みはしないご本」なんて言ってるけれども、おなじ一日 24 時間使うんならこういう本を読むくらいの時間は持ったほうがよいですよ。

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2018年05月20日

オルランディ版「専門家向け」の『航海』新校訂本について

1). 昨年のいまごろ、というかわれらが「聖ブレンダンの祝日 Lá Fhéile Bhreanainn 」に、イタリア人学者ジョヴァンニ・オルランディ教授による新校訂版『聖ブレンダンの航海』のことを書いた。…… そんなこんなではや一年。いまや地元が舞台のスクールアイドルを描いたアニメ作品にハマり、自宅から3時間(!)かけて歩いて現地に向かって発端丈山から昇る朝陽を撮りに行ったりとほとんど酔狂なことをしていた折も折、セルマー版の邦訳者の太古先生より「いつまでも遊んでるんじゃない、朝が来た!」とばかりにふたたびのメールを頂戴しまして、昨年、ついにオルランディ本の editio maior、つまり専門家を対象とした「大きな版」が上梓されたことをはじめて知った(ついでに「朝が来た!」のくだりは中世南仏のトルバドゥールたちが好んで歌った「アルバ[暁]」の転用。「アルバ」は、夜の逢瀬を楽しむ恋人たちに朝が来たことを警告する歌の形式のことで、やがてこれが北に伝わりシャンソンの原型となる)。

 太古先生によるとこちらの原著刊行は予定より遅れ、図らずもオルランディの没後 10 周年の節目の昨年になったのだとか。で、とりあえず目次だけでもというわけで先生みずから邦訳されたものをそのまま転記しますと、
前書き[pp. IX-X]

序文[pp. 3-429]
I. 写本[pp. 3-140]
II. エディションおよびテクスト伝承研究[pp. 141-157]
III. 祖型と「修正」[pp. 158-179]
IV. ファミリーα[pp. 180-235]
V. ファミリーβ[pp. 236-244]
VI. ファミリーγ[pp. 245-299]
VII. ファミリーδ[pp. 300-304]
VIII. ファミリーε[pp. 305-373]
IV. ファミリー間の不確かな関係[pp. 374-378]
X. 作品伝承の概要[pp. 379-390]
XI. 「選択」および他のテクスト選択[pp. 391-415]
XII. テクストへの注記[pp. 416-429]

参考文献[pp. 431-453]

『聖ブレンダンの航海』(ラテン語テクストとヴァリアント)[pp. 454-695]

補遺[pp. 697-714]

索引[pp. 715-745]
 「一般読者向け」とされる前著でさえ 515 ページ(!!)もある大著なのに、こちら editio maior は文字どおりの greater edition、さらにスケールアップしてまして、なんとなんと 745 ページ !!! 『ハリー・ポッター』シリーズかい、ってついツッコミたくなるとんでもない超絶労作でございます。個人的には拙サイト英語版にまるまる収録した「アランソン写本」や、セルマー校訂本の底本だった「ヘント写本」が、オルランディ−グリエルメッティ校訂による「写本系統」のどのグループに属するのか、というのが最大の関心事ではある。

 興味ある方は拙サイトの「参考文献ページ」から、となるとめんどうなので、版元 SISMEL 社のページに飛ばれて検討するとよいでしょう。

2). そんな折も折、って毎度こればっかで申し訳ないですけど、英国王室のハリー王子とメガン・マークルさんの結婚式、すばらしかったですね !! ってウチは BS 持ってないから、地上波のダイジェスト版みたいな映像しか見てないんですけど。それにしても型破りというか、よい意味でコチコチの「〜すべし」を徹底的に排除した式典だったように思う。ロイヤルウェディングにはちがいないが、こちらは王位継承権が低いというわりと身軽な(?)立場だったからなのかは知りませんけど、「ナイト[勲爵士]」の叙任式典が挙行されるウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で行われたんですね。ゴスペルで Stand By Me が歌われたり、慣習を破って王子が結婚指輪をはめたり、一般の招待客がいたりとどこをとっても unprecedented。もっとも印象的だったのは聖ジョージ礼拝堂の門前が純白のバラのアーチで飾られていたこと。あれはみごとでした。それで思い出すのがミンネゼンガー騎士、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの書いた聖杯物語群のひとつ『パルツィヴァール[当時の古い独語読みでは「パルチヴァール」]』。大団円近くで、パルツィヴァールの腹違いの兄フェイレフィースが受洗する場面があるんですけれども、この兄貴の名前は文字どおりに訳すと「まだらの息子」。肌が黒と白のいわば混血児でして、不遜かもしれないが今回の花嫁嬢と二重写しになってしまった。そしてインタヴューでだれかさんが答えていたけれども、「今回の結婚式のすばらしいことはなんといっても diversity だ!」みたいに快哉を叫んでいた。これですよ、これ !! いまの時代にもっとも足りないものにして、プチ独裁者だかなんだか知りませんけどやれ fake news だのなんだのとそれこそ鳥じゃないけどウソ八百をつぶやいて瞬時に世界中に拡散させている指導者なんかもげんに出現しているご時世であるからして、ハリー王子ならびにサセックス公爵夫人となられたメガン・マークル妃の結婚式は、見ている者をひさしぶりに晴れ晴れとした気分にさせてくれたのであった。

 ところでメガン・マークル妃ですけれども、綴りは Meghan Markle で、とくにファーストネーム(ほんとうは Rachel Meghan Markle なのでちがうが)がちょっと珍しい。手許の『固有名詞発音辞典』にも載ってなくて、手っ取り早く Wikipedia のぞいたら「父親はオランダ・アイルランド系」とあり、どうもこれゲール語圏の人名らしい。で、これの日本語表記がこれまた「メーガン」派と「メガン」派に分かれてまして、どっちじゃね、と思っていたら、



どうやら音引きしない「メガン」が、「原音主義」の日本ではよろしいようで(でもべつのクリップで発音聞いたら「メイガン」のごとく発音していたが …)。そういえば昔、「ロナルド・リーガン」なんて表記していたのにいつのまにか「レーガン」になったり、「シュレジンガー」なのか「シュレシンジャー」なのかモメたりと、ほんとこの「原音主義」は翻訳者のみならず頭痛のタネ。もう原語そのまんまでいいじゃない、ってつい乱暴なこと考えてしまうんですけれども、やっぱりダメですかね? 

追記:いまさっき太古先生よりご返信がありまして、「アランソン写本」も「ヘント写本」もともに「ファミリーε」の同グループに分類される「祖型」にはない「帰還と聖ブレンダンの死[ch. 29]」付きで流布した写本で、ブレンダン院長一行の乗った革舟カラハの材料が「イチイ ivus 」という特定の木から包括的な「木、木材 silva 」に変更されている点が特徴だ、とのことです。

2018年04月15日

大学入学共通テスト「英語」に民間試験導入

 お題にもあるとおり、「大学入学共通テスト英語試験に民間試験導入」というニュースがありました。もうだいぶ前になりますけど( もっと早く書こうかと思っていたけど、書くヒマがなかった )。で、地元紙にもその試行問題というのが掲載されてたんで、どんなものかとちょっとやってみました。センター試験の英語も掲載されたときに解いていたから、個人的感想ながら感じたこととか相違点なんかをすこしだけ。

 今年のセンター試験「英語」は、まず発音記号のちがいとアクセントの位置のちがいとかをみる問題から始まって動詞フレーズなどの穴埋めに適語選択、長文読解と毎度おなじみな感ありのパターン。とエラソーなこと言っておきながら当方予備校の先生でもなんでもないので満点なんてありえず、とくに発音問題でポカが多かった。それはそれで反省するとしまして、では「試行試験」のほうの英語の筆記問題をやってみたら、なるほどこれはまるで別物。はっきり言ってこれ TOEIC とかの民間試験業者の出すタイプの問題にそっくり入れ替わってました。

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 ネイティヴスピーカーにいまのセンター試験の英語の問題を解かせたら果たして満点とれるんだろうか … かつてそんなことを実験した民放の TV 番組とか見たことがあったけれども、結果はこちらの想像以上(?)に悲惨な結果だったのをいまでも憶えてます(「ナニコレ、百年前の英語?」みたいな失望とも嘆息ともつかないボヤきが英米人の回答者先生たちから漏れていた)。

 内容は現行センター試験「英語」よりはたしかに実用的で、長文を読ませて理解度を図る、という趣旨の問題は基本的に賛成ながら、はっきり言って似たような趣旨の問題ばっかで少々退屈だったのも事実。列挙される選択肢も本文をしっかり読んでいればありえないものとか相変わらず出てくるし、こんな似たかよったかの長文読解問題をえんえん6つも( !! )用意する必要性はないんじゃないかと思いますね。これなら時事ニュース記事の手ごろな長さのものまるまる一本転載して、それに関していろいろな角度から質問する、そして終わりにあなたはどう考えるか、を英語で書かせる、みたいなほうがいいように感じます。紙上に掲載された試行問題は冗長にすぎると思う。

 英語の試験問題ついでに静大と県立大の「英語」もいちおうやってみたけれども、静大って児童文学から出題するのが好きなのかしら? 今年はなんとあの『くまのパディントン』!!! でした。前にも書いたことだが英国の児童文学の原文ってけっこうむつかしかったりする。パディントンに関しては、たとえばイディオムの多用とか、hands を paws と言い換えたりする書き方が頻出するので、あるていどの慣れが必要かも。でも逆に考えるとパディントンシリーズを原文で曲がりなりにも読んで親しんでいるような生徒さんたちの場合、あるいは松岡享子訳でもいい、とにかく話を読んで知っていればかなり有利な問題だったかもしれないな、というふうにも感じた。

 TOEFL は国内では有名どころですが、IELTS のほうはそれほど知名度は高くない印象がある。いずれにせよ検定料がネックになるから、そのへんの配慮は必要だと思う( するとは思いますけど )。2021 年度はまだマークシート方式と民間試験の併用みたいですが、受験生の負担がむやみに増えなければよいがとも思う。

 ちなみに米国ではセンター試験のような共通試験の SAT は存在するが、各大学ごとに行う筆記試験はなし。もっとスリム化したほうがいいと思う。そうすればそのぶん浮いたお金が出るはずだから、公立大学はすべて無料というアイルランド並みにとは言わないまでも、それに近づけることはできるはず。

 全世界に大学は約2万校あるんだそうな。全講義をインターネット上で完結させる大学もあるし、名門大学でも一部の講義をオンラインで全世界に公開していたりする。日本の現行の大学入試制度はもはや時代遅れもいいところで、その最たるものが英語かもしれない(「世界史B」とかの設問のしかたもなんとかならんか、とも思うが。たとえば「ルーヴル美術館の地下には中世の城塞遺構がある」という話について、「ピサ大聖堂の斜塔で、パスカルによる物体落下の実験[ 重力実験 ]が行われた」なんてなんで訊くかなあ。いくら「歴史的建造物について述べた文として正しいものを選べ」って言ったって、こんな前後の脈略おかまいなしの問題を解かされる身にもなってくれよ、と気の毒になってしまう。こんな訊き方するんなら最初から時系列か地理順に選択肢をずらっと並べてマークシート記入したほうがよほどいい )。海外ではいちど社会に出た人が大学にまたもどる、なんてザラですし、18 歳のときに「みんないっせいに」おんなじ筆記試験受けてパスしなくちゃいけない「一発勝負型科挙的大学入試」スタイルにいつまでもしがみつく理由はどこにもないと思う。ぼやっとしていたら日本の大学はどんどん世界のほかの国と地域の優秀な大学の後塵を拝すことになると思うが、これはたんなる門外漢のいらんお世話にすぎないだろうか。

posted by Curragh at 20:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学関連

2018年03月02日

本邦バッハ研究の巨星墜つ

 先日、いつものように寝ながら OTTAVA 聴いていたら、耳を疑うような情報が飛びこんできた。日本のバッハ研究の第一人者のおひとりで、NHK-FM「古楽の楽しみ」案内役として長く親しまれていた礒山雅先生が急逝されていた、ということ。え … しばし絶句。そういえば最近、あんまり出番がないなぁなんて、まったくもって呑気にのほほんと考えていた口だったので、にわかに信じられない。

 報道によると、磯山先生は1月 27 日夜、「埼玉ヴォーカルアンサンブルコンテスト」の審査をつとめたあとの帰宅途上、折からの大雪で凍結した路上で転倒して頭部を打ち、病院に担ぎこまれたという。先生は昏睡状態のまま、先月 22 日、冬季五輪での日本選手の活躍が日々報じられるさなかにみまかった、とのことらしい。

 不肖ワタシが磯山先生の名前を知るきっかけとなったのが、( 磯山先生を偲んで『マタイ受難曲』の終曲合唱をリクエストした OTTAVA リスナー氏もおなじく )、「NHK 市民大学 バロック音楽[ 1988年4−6月期 ]」の TV 講座。このとき講師だったのが、磯山先生だった。先生の書き下ろされた市民大学テキストはいまだにワタシの重要な資料のひとつとなっている、と言うとかっこよく聞こえるが、ようするにここでの拙記事など書くときのアンチョコとして役に立っている。あれからまる 30 年、テキストはいまやすっかり黄ばみ、薄汚れているけれども、本文 140 ページくらいの薄っぺらな小冊子ながら、その中身の充実ぶりにはいまだに目を見張る。「古楽の楽しみ」での起きぬけの耳にも心地よいバリトンヴォイスの解説もじつに親しみやすくて、失礼ながらほかの大先生もすばらしいとは思いつつも、語り口の親しみやすさという尺度だったら磯山先生の右に出る方はおそらくいまい( と、思う )。日本におけるバッハ研究では、往年の角倉一郎先生もおられるけれども、角倉先生もさぞショックだったろう、と思う。まだ 71 歳です。聞くところによると、『ヨハネ受難曲』にかんする博士論文の出版準備中だったとか … 。

 磯山先生の著作でもっとも有名な本はおそらく『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』だろうと思うが、個人的には講談社学術文庫に収録された『J.S. バッハ』の、つぎの一文がたいへん印象に残っている( いつものように下線強調は引用者 )。
… バッハを知れば知るほど、私には、バッハは深く宗教的な人間であると同時に、狭い意味での宗教を超えた人だ、という印象が強くなってきている。大切なのは、バッハがなにを信じたかという信仰の内容ではなく、信仰に貫かれたバッハの生き方、精神の方向性なのである。
これは、「バッハあるある」的なお悩み質問、つまり「バッハを聴くのにキリスト教の信仰は必要か?」。先生自身もこの問題におおいに悩まれたすえ、到達した結論として書かれた文章です。「かんじんなのはキリストという人が実践した精神のほう」というのは、たとえばニーチェなんかも似たようなことを言っている。そんなニーチェも、じつは『マタイ受難曲』が大好きだった、という逸話が残されている( 友人宛て書簡で「今週、わたしは『マタイ』の演奏を 3回、聽きました」と当の本人が告白している )。また当然のことながら磯山先生はバッハ研究書の訳業も数多くて、近年ではクリストフ・ヴォルフの『バッハ ロ短調ミサ曲』というすごい本も上梓されている。

 ほんとはワタシのようなディレッタントが磯山先生について知ったような顔してつらつら書くもんじゃないとは思ったが、やはり個人的に影響を受けたバッハ研究者のおひとりでもあるし、「古楽の楽しみ」でもずっとおなじみだったし、まさかこんな不慮の事故でいきなり不帰の人になろうとはまったく予期していないなかったので( 当たり前ですが )、すこし思うところを書かせていただきました。バッハ研究で言えば古くは杉山好先生、そしてライプツィッヒの「バッハ・アルヒーフ」研究員も務めていた筆跡鑑定の権威・小林義武先生もすでに泉下の人だし、いまはただただ、合掌。

posted by Curragh at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | おくやみ

2018年02月18日

「記録は並ばれるためにある」

 正直に打ち明けると、今回の冬季五輪はさして興味がなかった。代表選手のみなさんがこの大会目指して精神も肉体も文字どおり削る思いで乗りこんでいったのは当然、承知しておきながらも、今回ほど政治プロパガンダの強烈な雑音に掻き消されるような、かつてのミュンヘン夏季五輪を思い起こさせるような暗い政治色に染まった冬季大会はちょっと記憶にない気がする( 冷戦時代、西側がモスクワ五輪をボイコットしたことはたしかにあったが )。

 でもいざ始まってしまえば TV はもちろん競技中継一色になるので、個人的に好きなカーリングとかは見てました。高梨沙羅選手の五輪初メダル、スノーボードハーフパイプの平野歩夢選手といった若手の活躍もあって、フィギュアスケート競技が始まるころには北朝鮮情勢云々 … といったことも印象が薄れていき、いつもの五輪観戦気分になってきた。なんだかんだ言ってもやはり特別な大会ですからね。

 フィギュアスケート競技って、以前にも似たようなこと書いたかもしれないけれども、たんなるスポーツというよりは舞台芸術に近いものと思ってます。スケーターは氷盤という大舞台で舞を舞うわけです。でも今回の羽生結弦・宇野昌磨両選手のとんでもなくすばらしい偉業 … は、いったいどこのだれが予見したでしょうか。

 あれだけの大けがを負い、氷の上に立って練習を開始したのがたったの3週間前だという。でも彼は成し遂げた。いちばん心に去来したであろうことは、やはり地元・仙台のことだったと思う。あの瞬間、全国各地でみな NHK の生中継を食い入るように見守っていたのではないか。大真面目な話、ほんとうにあの4分半こそ、ひとりびとりの想いがひとつになった瞬間だったんじゃなかろうか。と、ずいぶん勝手な独善的感想を書いてしまったが、ほんとうに超一流の人ってやっぱり超一流なのだ、とも感じた。年齢ではないですね。あとで地元紙の記事見てはじめて知ったのだが、羽生選手は約2か月間、陸上での基礎トレーニング以外の時間は解剖学や方法論関連の論文を読み漁っていたのだそうです。コーチのブライアン・オーサー先生いわく、「これは運ではない」。

 フィギュアスケート競技での五輪連覇というのはじつに 66 年ぶりの快挙、ということもはじめて知りまして、66 年前に大記録を打ち立てたディック・バトンという元フィギュア選手のツイートも紹介されてました。興味をそそられたのでさっそくのぞいてみたら[ いつものように下線強調は引用者 ]、
... Hanyu - Quad Salchow, beautiful easy and light
... Fernandez - strong, musical and theatrical.
... Uno - A powerful sparkplug,
... Bravo Hanyu, Records are made to be tie( sic )

とまあ、観戦しながら iPhone なのか iPad なのかはたまた Macbook なのかはわからんが、Twitter 上で実況してますねぇ。でも「記録は並ばれるためにあるものだ」なんてさすが。いい表現なのでメモっておきました(
笑 )。おなじ人さまの tweet を見るなら、ここの国の大統領の品性下劣丸出しコメントなんかよりよっぽど精神衛生によい。

 ところで SP の日の夜、NHK ニュースで羽生選手のことを報じた NYT 記事が紹介されてまして、なんと 'Yuzuru Hanyu Shines' なんて見出しだったそうです。確認しようと思って電子版見たら、いつのまにか( ? )'Yuzuru Hanyu Commands the Stage' に差し替えられていた( 泣 )。電子版は紙の新聞とちがって、ちょちょっと訂正削除ができるということか( ちなみにこういうことはよくある )。やっぱり向こうの人の感覚って、「ユヅル、光り輝く」という、地元を舞台にしたスクールアイドルの物語じゃないけどいかにも抒情的で日本人好みのタイトルより、もっとパンチの効いた「ユヅルの独擅場 / ユヅルの独り舞台」みたいな言い方のほうが広告費が稼げるとでも思ったのかな[ どこのメディアのコメントかは知らないけど、羽生選手のフリーの演技を 'ethereal' と評していた。TV 字幕の訳は「この世のものとは思えない」とかなんとか、そんな日本語だったが、字義通りには「エーテルのような」。人間離れしていかにも空気の精みたいに軽やか、あるいは妙なる美しいスケーティングだった、ということなのだろうけれども、たしかにこれうまく日本語にならない見本のような言い回しではある。昔のさる音楽評論家の言い方だったという「絶美なる」なんかはどうかな?]。

 羽生選手、とくると、例の黄色のクマさんの山。海外メディア記者( ほんとは Japan Times みたいですけど )が記者会見で挙手して、なに訊いてくるかと思ったら、なんとそのプーさんのことだった( … そんなことどうでもいいじゃないかって TV の前のおっさんはひとりごちていた。ちなみにバトン氏も 'Hanyu - Beautiful Programs , beautiful choreography it looks like its raining teddy bears.' とコメントしていた )。でもその受け答えがまた、ふるってました。「地元の子どもたちに寄付する。いくつかは持って帰るけど」[ → 関連報道記事 ]。

こんなこと書くと当の羽生選手からクレームがくるかもしれないが、彼はいまの日本がとっくの昔に失ってしまった、いわゆる「サムライ」精神の化身みたいな人だと思っている。たとえはヘンだが福音書の有名なたとえの表現を借りて言えば、

'For this Samurai spirit was dead and is alive again; it was lost, and is found.'

[ 付記。スペイン代表のフェルナンデス選手もみごと3位入賞で Congrats !! 愚直にやりつづけることの大切さをあらためて感じたしだい。この人もまたある意味スペインのサムライ、いや中世騎士道の体現者のように思える。受け答えとかいちいちすばらしいし、彼の性格のよさ、あたたかい人柄があふれてますね ]

He made history indeed !! #congrats #yuzuruhanyu #shomauno #javierfernandez #pyeongchang2018 #winterolympics2018 #wintergames2018 #figureskating


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2018年02月11日

「SW ep.8:最後のジェダイ」

 前作を静岡の映画館で見たのが 2016 年 1月末。ついこの前のことのような … と思ってはいたものの、今回ばかりはなぜか(?)あんまり期待してなくて、年明けになってようやく見てきた。前にも書いたけれどもなんたって小学3年生のときに「ep.4 新たなる希望」を映画館で見て、きみまろさんじゃないが「あれから 40 年」。それ以来この作品だけはずっと劇場の大スクリーンで全作品見る、と決めているので、やっぱり見ないわけにはいかない。

 で、見た感想なんですけど … いままで見た「スターウォーズ・サーガ」中、最高傑作 !! と思った。見に行ってヨカッタ。やっぱり裏切られなかった。

 あんまり細かいことはもう書きません。気になる人はぜひ劇場へ。昔みたいに「特別作品」扱いしてないから、「メンズデイ」とかうまく利用すればこんなすごい大作がたったの 1,000 円( 税抜 )で見られますし。個人的にはやっぱりあの前作ラストシーンで登場した例の絶海の孤島、アイルランド西海岸沖の世界遺産のスケリグ・マイケル[ アイルランドゲール語ではスケリグ・ヴィヒール Sceilig Mhichíl ]のジェダイ寺院跡に引きこもっていたルーク・スカイウォーカーと最後の3部作シリーズのヒロイン、レイちゃんのその後が、気になってしかたなかった。激しい空中戦シーンと交互に、まるでヴィヴァルディの合奏協奏曲よろしく急−緩−急−緩みたいに静謐そのもののスケリグ島のシークエンスが繰り返し登場して、やっとの思いで邂逅した「最後の」ジェダイマスターと「最後の」弟子とのやりとりがひじょーにていねいに描かれていたのもすばらしかった。

 もちろん前にも書いたことだが déjà vu は今回もありまして、カジノや弟子に倒されるシスの師匠、ダークサイドへの誘惑とその抵抗、あるいはスケリグ島にぽっかり口を開けた「洞穴」のエピソードなんかはある意味お決まりのパターンかと。でもコアなファンでさえ、「大騎士ヨーダ」先生のご登場にはおおッ、と思ったんじゃないかな。

 ヨーダ先生、今回もまた名言のオンパレードで、個人的には 'The greatest teacher, failure is.' なんかもう最高! さすがはヨーダ。以下、Wikiquote サイトからの転記でかつての師と弟子とのやりとりを書き出すと[
下線強調は引用者。直前の流れは老いたルークが古いジェダイの「聖典」を燃やして終わりにします、とヨーダに宣言して火を携え大木の穴に向かおうとするも、ヨーダの召喚した「雷」の一撃であっという間に焼失する ]、
Luke:So it is time for the Jedi Order to end?
Yoda: Time it is...hmm, for you to look past a pile of old books, hmm[ おまえさんが時代遅れの本の山を見ないようにする時が来たのじゃ ]?
Luke: The sacred Jedi texts!
Yoda: Oh? Read them, have you?
Luke: Well, I ...
Yoda: Page-turners they were not[ あんなもんひも解くような代物じゃあない ]. Yes, yes, yes. Wisdom they held, but that library contained nothing that the girl Rey does not already possess[ ああそうとも、いくばくかの知恵らしきものは、そりゃあ、書かれてあったろう。じゃがああいう書物の山には書かれてないものを、あのレイという娘はすでに身に帯びておる ]. Ah, Skywalker... still looking to the horizon. Never here! Now, hmm? The need in front of your nose[ ああ、スカイウォーカーよ、おまえときたらまだ水平線の彼方にばっかり目がいっておるな、そうじゃない、ここなのだ! そうじゃろ、んん?   見るべきは、おまえの目の前じゃ ]!
Luke: I was weak. Unwise.
Yoda: Lost Ben Solo, you did. Lose Rey, you must not.
Luke:I can't be what she needs me to be!
Yoda:Heeded my words not, did you? "Pass on what you have learned[ いままで学んできたことをつぎの世代に伝えよ ]." Strength, mastery, hmm ... but weakness, folly, failure, also. Yes :  failure, most of all. The greatest teacher, failure is. Luke, we are what they grow beyond[ よいかルーク、わしらはみな、次の世代に乗り越えられる存在なのじゃ ]. That is the true burden of all masters.
( ついでに雷で大木もろともジェダイの本を燃やしちゃったヨーダ先生がさも愉快そうにゲラゲラ笑っていたのは、見ているこっちもそうそう、YES !! そうこなくっちゃ、って思いましたよ。神話学ふうに解釈すれば、典型的なトリックスターですな、ヨーダは。さらに聖ブレンダンつながりで言えば、ドイツ語版の揺籃期本『航海』冒頭で、ブレンダン院長が「なんだこんなもの」と「神聖な書物」を火にくべちゃったのと通底する )

 名言といえば、ローズ・ティコという女性のレジスタンス兵士が捨て身で敵のキャノン砲に飛びこもうとする同僚フィンを決死の体当たりで阻止し、気絶する直前に言ったことば( 'That's how we win! Not fighting what we hate ; saving what we love.' )あたりなんかは、明らかに「過去との決別」という印象が強かったですね。たしかにこういう言い回しというか発想は、過去作品にはありませんでした。

 なんといっても最終3部作はヒロインですし、なんというかお決まりのパラダイムがジェダイオーダーとともに解体して、いっときは混沌状態となるがやがてはまったく新しい世界が、新しい希望がもたらされる( はず )みたいに解釈できなくもない。だから、最後のジェダイなのかな、と。よくよく考えてみればフォースのダークサイドを代表するシスという連中はパルパティーンとかその師匠プレイガス以外はだいたい「ブライトサイド」のジェダイオーダーの出身者。好事魔多しじゃないけど、よかれと思ってこさえたもののなかからこういう者たちが生まれる。これはけっこう真実を突いている。ゲーテも似たようなこと言ってるけど、完成形というのはあとはエントロピー過程というか下り坂というか、ようするにほころびが出ていずれは解体して消滅する定めなんですな。成ったもの、じゃなくて、成りつつあるものがとって代わる( ライトセーバーがまっぷたつに切断されるなんてのもすこぶる示唆的なシーンではある )。

 ドロイド関係で言えば、もう C-3PO も R2-D2 もすっかり脇役扱いで、いまや BB-8 の独擅場(「どくせんじょう」と読む、念のため )、といったおもむき( でも、R2 がレジスタンス救援にまるで乗り気じゃないルークに例のホログラムをさりげなく見せたのはさすが )。で、ほんとにちっぽけではあるがかろうじて灯りつづけている「最後の希望」を垣間見せて長い物語( 上映時間は2時間半、ある方のブログ記事の表現を借りれば、「序・破・急の連続」)は終わるわけですけど、このあとの展開は … どうなるのかな? 泣いても笑っても次回でほんとうの大団円。で、最後に涙したのは、このエンドロールクレジットでした。

In Loving Memory of our Princess,
CARRIE FISHER


評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連