2024年02月22日

『監視資本主義』

 2007 年初頭に放映されたこちらの番組の記憶はいまも生々しい。とくに印象的だったのが、「すべてを Google に依存している」と言い放った青年。最近の買い物でさえ、Google の履歴に頼ると言うほどのヘビーユーザーで、しかも Google の広告アフィリエイト収入だけで食べていたのだから当時としてはかなりの衝撃度だった。もうひとつ、やはり澱のごとくアタマの隅にこびりついて離れないのが、Googleplex と呼ばれる Google 本社の壁面のとある落書き(?、抱負だったのかも)だった──「Google 帝国を作る」(!)

 実際、Google って何をしている会社なの? と問われて即答できる人っているんだろうか。新聞を見ても「ネット検索最大手」くらいのものだろうし、IT 専門家にしてもそれこそ十人十色で答えはバラバラになるんじゃないかと。以前、Google 幹部に取材したという内幕本も買って読んだことがあるが、イマイチ腑に落ちなかった。そして最近、その Google 傘下の YouTube で、オルガン演奏を収めた動画クリップを大きな液晶画面の TV で見ようかなと思って再生すると、フーガの演奏がいきなり途切れ、代わりにうっとうしい広告が何本も落下傘部隊のごとく出現して画面いっぱいに映し出される。

 いまやこうした IT の巨大企業は Google だけじゃありません。Facebook 改めメタ、往年の Microsoft に Apple、そして洋書屋にすぎなかったのがいまや地球最大級の通販サイトに急成長した Amazon。これらと数社を加えた大型ハイテク企業7社を総称して「マグニフィセント・セブン」と呼ぶらしい。

 MS と Apple はともかくとして、では最初の Google と後発のメタはいったい何をして利益を出しているのだろう、とギモンに思う人はいまだに多いだろうし、利益のすべてが広告料収入なはずない、といぶかる向きも少なくないと思う。

 そこでとうとう、と言うか、その長年のモヤモヤにひとつの解答だけでなく、こうした「征服者」たちへの抵抗を訴える警世の書の邦訳が 2021 年に出た。著者は米名門大学の名誉教授という肩書きで、社会心理学者。2009 年に落雷による火災で自宅が全焼し、そのとき著者を励ましてくれた最愛の夫にも先立たれるという不幸に見舞われた。30 年ほど前、台頭しつつあった情報通信デジタル技術とどう向き合えばよいかについて、地方の製紙会社の若い幹部社員に疑問を投げかけられた著者はそれ以降、一貫してこの「スマートマシン」問題の本を発表しつづけてきた。この本は、いわば集大成的なところがある。

 本文だけで 601 ページもあるたいへんな労作で、「52 人のデータ科学者」への取材も含む膨大な調査結果をもとに書き下ろされ、Google をはじめとする IT ユニコーンたちが今後どのような社会を築こうとしているのかについて精緻な考察を展開しています …… で、読後感なんですけれども、Google やメタをとくに俎上に載せて、彼らの所業を 16 世紀のスペイン人征服者の「征服の宣言」になぞらえたり、全体主義との結びつきの論考など違和感もないわけではないが、まずもって a must read な1冊である点は異論なし。ヘンリー・フォードらに代表される 20世紀の管理資本主義とはまったく別物の、最終消費者という顧客に対するサービスではなく、ほんとうの顧客(この場合は広告スポンサー企業)に対し、われわれユーザーの「行動余剰」という名の原材料を「抽出」して、それをサービスとして提供することで利益を得るという、かつて経験したことのない種類の資本主義が全世界を席巻しつつある、との主張はなるほど頷けるお話ずら、と感じたしだい(そういえばつい先日、NYC 当局が TikTok など複数の SNS 運営会社を相手取ってカリフォルニア州地裁に提訴した、との報道も見かけた。「インターネットの世界で大量の有害な情報にさらされ、若者たちの精神衛生上の危機が深まっている」と NYC 市長は訴えているが、もっともな話)。

 旧 Facebook 時代のメタがやらかした例の世界最悪と言われた個人情報漏洩事件(ケンブリッジ・アナリティカ事件)も、もちろん出てきます。もっともはじめの章で、「(本書の)目的は、この3社を批判することではない。むしろそれらは、監視資本主義の DNA を精査するためのペトリ皿なのだ」(p. 25)と断ってはいるものの、結論を述べた最終章(p.598)では政治学者のハンナ・アーレントを引用して、「監視資本主義の実態を語ろうとすると、わたしは必ず憤りを覚える。なぜなら、それらは人間の尊厳を貶めているからだ」と告白しているところからして、この本が書かれたのは監視資本主義とその親玉たちに対する激しい怒りにあるのは間違いない。どうりで最近、やたらと広告攻撃をけしかけてくるのだナ(そしてこれまた付き物の、ユーザーに不利な「使用許諾書」を一方的に押し付けてくる商法にも言及している)。

 アーレントは全体主義を論じた著作で知られているけれども、ある意味、監視資本主義(とその企業体)はそれ以上にタチが悪い。こちらが知らぬ間にそんな手合が放った刺客ならぬ常時監視(と、行動余剰の抽出とそれの無断提供)デバイスがあふれるようになり(いわゆる「モノのインターネット/IoT」製品群で、大人気のルンバも例外にあらず)、FB「ユーザーはもはやプライバシー保護を期待できない、と言い切った」メタ創業者のような監視資本家たちが提供する巣≠ノ囲い込まれた。究極的には、われわれ個人に最後に残された聖域まで強奪しようとする、と著者ズボフ女史は警告する。コレはひじょうに正鵠を射た指摘かと思う。不肖ワタシも、ポケGO に夢中の女子高生に道路に突き出されてあやうく車にはねられそうになった経験がありますし。こちとらにはさっぱり理解不能な世界ながら、ああいう顧客層って、この本で言うところの「行動修正」されちゃった人たちなんでしょうね、きっと。自戒の意味もこめて、自分までこの身を監視資本家連合に差し出さないよう、おおいに気を引き締めなくては、と決意をあらたにしたしだい。

 行動経済学だかナッジ理論( C・サンスティーンの『実践 行動経済学』の言及もあり)だかなんだか知りませんが、世の中そんなことばかりがもてはやされ、さも良いことのように喧伝されているフシがあるなか、古代ギリシャの秘儀(ミステリー)集団も顔負けの秘密主義のヴェールで事業の真の目的を覆い隠し、詭弁を弄してこちらをケムに巻いている Google やメタなどの巨大 IT 企業の実態を豊富な実例とともに暴露するこの本は、真の意味でまっすぐスジの通った良書と言ってよいでしょう。ピケティへの言及もいくつかあるけれども、この本もまた、監視資本家とその取り巻きが決まり文句のように繰り出す「不可避性」についてもしっかり批判している(cf., pp. 252−3、またはピケティ『資本とイデオロギー』のpp. 871−2)。
…… この新たな仕事の多くは、「個人化」(パーソナライゼーション)の旗の下で行われているが、それはカモフラージュであって、陰では日常生活のプライバシーに切り込む侵略的な抽出操作が進められている。(p. 20、丸括弧はルビ表記)
 ズボフ女史も繰り返し言及しているけれども、ワタシも(ほかのみなさんもそう感じていると思うが)ずっと前から、「便利なサービスをほぼロハで利用できているわれわれユーザーは、けっきょく Google という巨人の手の上でホイホイと踊らされているにすぎないのではないか」という漠然とした疑念(と不安)を抱いていたほう。なのでそのものずばり人形遣い彼らを踊らせろといった用語や見出しを見ますと、ああ、やっぱりそうなんだってストンと腑に落ちる。
3世紀以上にわたって、産業文明は人間にとって都合のいいように、自然をコントロールしてきた。その目的のために、機械によって身体の限界を超越し、克服してきた。その結果を、わたしたちはようやく理解し始めたところだ。海と空の繊細なシステムはコントロールを失い、地球は危機に瀕している。
 今、わたしたちは、わたしが情報文明と呼ぶ新しい時代の始まりにいて、それは同じ危険な傲慢さを繰り返そうとしている。…… 今回の目的は、自然(ネイチャー)を支配することではなく、人間の本質(ネイチャー)を支配することだ。(p. 590、丸括弧はルビ表記)
 また、こうした論考と主張の裏付けを、もっと巨視的な歴史から問い直しているのもこの本の書き方の特徴と言えます。とくに行動主義心理学の提唱者バラス・F・スキナーとからめて論じているのは個人的には新鮮な観点だった(スキナーは人間の自由意志を否定し、ある人がどのような行動をとりうるかについては「個人の外にある変数によって説明できる」、つまり適切な環境を与えれば適切な方向へ導くことができると主張した。彼の『自由と尊厳を超えて』という著作(1971)は当時、チョムスキーをはじめ、多方面で論争を引き起こしたことでも知られる)。

 この本では Google と同じく、行動余剰という資源を最初に発見した Apple についてはわりと好意的(?)な記述にとどめているけれども、人類の未来までもが圧倒的な知の蓄積を頼みとする監視資本主義家たちの手に握られているわれわれに残されている道は、「抵抗せよ」、そして「もうたくさんだ!」と表明することだと著者は結んでます。もうたくさんだ、just ENOUGH! …… これってずいぶん懐かしい響きがする。そう、ビル・マッキベンのこの本でした。けっきょく東洋の人間にはおなじみの「足るを知る」という中庸の道がもっとも妥当な道かと。もっともそれは監視資本主義にかぎったことじゃないですが。個人的にいちばんハラが立つのは、ふつうに辞書サイトとか表示しても、明らかなデマ・虚言広告がしれっと表示されること。PC 版なら広告ブロッカーで非表示にすることはできるが、スマホのブラウザだとうっとうしいことはなはだしい。広告を表示させる企業のアルゴリズムには、当該のバナー広告の表示基準がハナからないという、なによりの証拠です。著者ズボフ女史はこれについて、「極度の無関心の観点からは、良い目的と悪い目的は等価と見なされる」(p. 580)と書いている。シッチャカメッチャカ支離滅裂の混沌状態になろうが、利益になればそれでよし、というわけです。

追記:巻末の分厚い原注まとめページもていねいに追いながら読み進めたんですけれども、一点、第 10 章の原注(p. 112の 42)を見て FT の元記事を確認したら、どうも日本語版(p. 362)の記事公開日付が誤記のようです。ちなみにその FT 引用部分は、「今後そのゲームは小売業者やその他の者に現金を運んでくる、という見方が急速に高まっている」。あと細かいことながら、p. 598 の「同情してほしい」は、感覚的には「哀れんでほしい」の pity ではないかと愚考するものですが、どうなんでしょうか。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2024年01月31日

インプレゾンビ≠ノご用心

 新年早々、日本列島を大きく揺さぶった能登半島の大地震。輪島市側の日本海沿岸の海岸がいっきに4mも隆起するという、専門家でさえも目撃したことがないとんでもない地殻変動まで伴っていた(それで相対的に津波被害は低かったらしい。それでも甚大な被害を出していることに変わりないですが。風景写真好きにはつとに有名な「見附島」も変わり果てた姿になってしまった)。

 著名な You Tuber が被災地支援のための募金をみずから行い、世の人に協力を呼びかけるいっぽう、東日本大震災のときもあったと聞いてはいるが、今回もまた火事場泥棒が被災地をうろつき、「こわいから家に品物を取りに戻れない」との悲痛な声も聞かれた。

 しかし個人的には、2011年3月の震災と今回の震災の大きな違いは、SNS の機能にあったように思われた。2011 年のときは、「正確さよりも即時性」が比較的良い方向に発揮された印象がある。しかし今回は、発災直後、倒壊家屋から必死に SOS を発信する被災者の声をかき消すかのようにえんえんと連なった、インプレゾンビ≠ニ呼ばれる連中が忽然と出現した。ここが 2011 年のときと大きく違う。

 インプレゾンビ連中がなぜ急に現れだしたのかについては昨年、奇人で知られるこの人が、収益化と称して仕様を変更したことが大きいと言われている。仕様変更後、こうしたコピペ投稿がそれこそゾンビよろしくわらわらと湧き出した事実から見ても、この「投稿の収益化」と関連があるのは間違いない。

 と、嘆いてばかりいてもしようがないので、こうした連中(なぜかアラビア語圏が多いのは気のせい?)の見分け方を。彼らはたいてい、ユーザーネーム末尾に「青バッジ」がある。これは引用元記事にもあるように、月額有料制サブスクリプションサービスの X Premium に加入したことを示す青マーク。そしてよほど自意識過剰か、ご自身のご尊顔によほど自信がおありなのかは定かではないが、明らかに非日本人系のアイコンを麗々しく掲げているケースがほとんど。もっともワタシはここで xenophobia を喧伝しているわけじゃありませんぞ。彼らがこういう性根の腐ったやり口で火事場泥棒的荒稼ぎしているのが許せないだけ。だから自衛策、と言うにははなはだ心もとないけれども、しないよりはマシというわけで、とにかくこういう輩がいますよ、ということをこの場を借りて言いたかったわけです。

 具体的には、上記のようなリプライないしコメントを見かけたらクリックせず(クリックすると連中の懐が潤う)、ブロックするかミュートするか、またはめんどくさいけれども運営側に通報するとよいでしょう。そのうちボットじゃないけれども、半自動的に振り分けて排除するツールとかも配布されるのかもしれませんが。

 「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」なんて言わるように、テクノユートピアンたちの思い描いたようにことは運ばないのが人の世の中の常。1987 年というから消費税さえなかった昭和末期に出たこちらの本をせんだってネット古書店で買って読んでいたのですが(書名は知っていたけれども、未読だったので)、いやもう驚くほかなし。Windows もブロードバンド回線もなにもない、電話回線のモデムと、いまとは比べ物にならないほど非力で低容量なブラウン管タイプのデスクトップ PC しかなかったころ、「家にいながらにして銀行の端末に侵入し、ひとさまの預金を手を汚さずに強奪した」学生だの会社員だの米政府機関職員だの(そして経済マフィア)の武勇伝(?)がこれでもかッてくらいに書かれてありましたので。もっとも巻末に原注などのたぐいはなくて、「話、盛ってない?」と感じる箇所もなくなくはないですが、当時、米司法省や米議会で「コンピュータ犯罪」と呼ばれていた新手の犯罪の第一人者として助言していた人が書いた本なので、そうそうエエカゲンなことは書いてないことだけは保証できる(当時、高校生だった者からすれば、いまや懐かしの感ありの「東芝機械ココム違反事件」まで書かれてある)。

 …… インプレソンビたちも、こうした流れの延長線上にある。

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2023年12月31日

新訳版『文学の味わい方』

 …… を、12月16日付で刊行しました。個人出版ものとしては 2019 年 10月に発行した『《輝き》への航海:メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』についで2冊目になりますが、今回は、版権切れの古い著作をあらたに訳しおろした古典新訳本になります(原著は1909 年刊行の Literary Taste:How to form it 初版本で、拙訳はパブリックドメイン扱いになってます)。

 アーノルド・ベネット(1867−1931)については高校生当時に受講していた通信教育の演習ワークブックに、再婚した「年下妻」である女優さんの回想記の一部が掲載されていたのを見てはじめてその名前を知った。吃音癖があること、規則正しい生活を送っていたことなど、なんせ高校生なので英文読解力は拙かったが、それでもこの年下の奥さんのベネットに対する尊敬の念は文のはしばしからにじみでていて、いまなお印象に残っている(ワークブックは探したけど出てこなかった)。だからベネットの名前はそのときからずっとアタマの片隅にはあった。

 ベネットと言えばなんといっても『自分の時間』(原題は How to Live on 24 Hours a Day)ですが、すでに小説家として一流の仲間入りを果たしていたのに俗に言う「自己啓発本」を立て続けに書き、どれもよく売れたというのだから、SNS で発信したりメディアにちょくちょく顔を出しては注目を浴びるような物書きのはしりみたいな人だったのかもしれない。げんに生前から、ベネットには俗物≠ニいう世評がついて回っていた(高級ホテルに連泊して作品を執筆し、豪華なヨットも所有して乗り回していた)。

 しかし、2番目の奥さんの回想記にもあったように、じつはとんでもなく克己心の高い人で、その手書き原稿は非の打ちどころのないほど美しい清書だったという。ただでさえ執筆に多忙だったのに、自分の両親にもせっせと手紙を書き送り続けた。そんな筆まめさと誠実な人柄は、親しい友人には周知の事実だったのだろう。第一次世界大戦中には、当時の戦時連立内閣とパイプがあった新聞王のビーヴァブルック卿マックス・エイトキンに推挙され、情報省宣伝局フランス課長を務めたり、自宅を開放して回復期負傷者の病棟として提供もした。ようするにベネットという作家は、言われているほどスノッブ野郎でもなんでもなく、むしろその対極に位置するような人物だった。ついでにこれもよく言われることながら、日本の文豪、幸田露伴や夏目漱石とおない年でもある。漱石はいわゆるロンドン留学中に、書店でベネットの本を目撃していたことはじゅうぶんありえる(ロンドンに向けて横浜港を出航したのは、ワタシの亡くなった母方の祖母が生まれた 1900 年なので、まさしくベネットが自己啓発ものを書いていた時代と一致する)。

 ベネット本はすでに名だたる訳者諸兄による既訳が多く出ていて、ワタシみたいなのがという気もないわけではなかったけれども、けっきょくいつのもように好奇心のほうが勝(まさ)ってしまった仕儀と相成り、今回なんとかぶじに刊行にこぎつけてほっとしている、というのが正直な気持ちです。

 個人的には、100 年以上も前に出たベネットの「文学のすゝめ」的なこの本に書かれてあることが、ほぼそのまま芸術作品と向き合うときの心得として通用する点にいちばん心を惹かれた。というか、そういうふうにベネットが書いてくれたからこそ、浅学非才も顧みず、個人新訳版を出してみようと思い立ったしだい。本は、ひとたびページを開くだけで書き手が生きていた時代に一瞬にしてタイムワープできるというふうになぞらえられることが多いが、ベネットに言わせればそれだけではまだ足りない。まずもって「手にとったその本は、書き手の心情の表出にほかならない。それをいまを生きるあなたの生活に移し替えなければせっかく本を読んでもなんの意味もなく、むしろ時間のムダ」だとばっさり切り捨てている。さらにこうも書いている。
芸術の最大の目的のひとつは、精神を掻き乱すことにある。そしてこの「精神の掻き乱し」は、すべてが整っている人にとっては最高の愉楽となりうる。ただしこの真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか方法はない(Chp.9 「詩の世界」より)

 拙訳者当人が言うのもなんですが、まったくそのとおりですわ。「芸術は、バクハツだ!!」じゃないですけれども、ソレがないアートというのは、いくらモットモラシイ熱弁を振るったとしても、しょせんまがいものにすぎない。ベネットはこの本で「ではどんな本(作品)を読めばいいのか」について、3つの時代区分に沿ってリストアップしている(拙訳書にも注記したけれども、原書には当時いくらで売られていたか、その売価まで懇切丁寧に列挙されているが、それは割愛した。代わりに合計でいまの日本円でだいたいいくらになるのかは注記した)。また、「当時の英国ではどんな本が一般に読まれていたか」を知りたい、という向きにとっても本書は有益な資料になると思う。

 …… 個人的には、2023 年も悲喜こもごもてんこもりもりで、ほんとアっという間だった。世界情勢もそうだけれども、「地球沸騰化」というワードも印象に残った卯年の 2023 年でしたね。恒例の〆の1曲ですけれども、大好きなニジガクの楽曲(今夏公開の劇場版 OVA エンディング主題歌。「好きのチカラは強いんだよ 最強さ」はマジで spine-tingling もの)から選んでみました。それでは良いお年を。


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2023年11月30日

NHK Classic Fes.2023 に行ってきた話

 先日、NHK-FM の「今日は一日 NHK Classic 三昧」関連イベントとして開かれた野外コンサートを聴きに行きました。ナマの演奏に触れるのは何年ぶりだろう! きっかけは、解禁されたばかりのボージョレ・ヌーヴォーを呑みながらたまたま観ていたEテレの「クラシック音楽館」。番組後半で、なかば番宣のような感じで現役音大生の室内楽団3組が紹介されてまして、なかでも「洗足学園音楽大学 AQUA Woodwind Quintet」に興味を惹かれました …… なんたって「アクア」ですし(笑)。というわけで、アクアつながりで聴きに行ったしだい(しかも正午の開始早々、彼らの演奏だったのでこちらもラッキー。いくら暖かい日だったとはいえ、渋谷川! の真上の観覧席とあっては冷えるだろう、と思っていたが、まさにそのとおりだった。それに昨年暮れにいただいた身体守りをお焚き上げしてもらうため、穏田神社さんに返す[そして新しいお守りを買う]という大切な目的もあり、さらについでに近所の原宿ゲーマーズにも立ち寄って、『LoveLive! Days』ニジガク特集増刊本も買った。嵐千砂都そっくりのお団子ヘアのかわいらしい店員さんがいた)。

 ときおり日差しがあったとはいえ、どちらかといえば cloudy なお昼どきだったけれども、幸い絶好の天気に恵まれました。たった 30 分間だったとはいえ、久しぶりのライヴ演奏、それもふだんのワタシがまず耳にすることがない木管五重奏(フルート/オーボエ/クラリネット/ファゴット/ホルン)という編成だったので感激もひとしお。プログラムは、まずは NHK つながり(?)で「ゆうがたクインテット」のユーモラスな演奏で始まり、ドイツの作曲家ダンツィの「木管五重奏曲 Op. 56−1」、ジョルジュ・ビゼーの「カルメン組曲」から前奏曲・ハバネラ・闘牛士の歌、「ハウルの動く城」などの宮崎アニメメドレー、「ふるさと変奏曲」、そしてチャイコフスキーのこの時期定番の「金平糖の精の踊り」(バレエ音楽「くるみ割り人形」)でした。途中でメンバーによる MC というか楽器紹介みたいなコーナーもあり、「シングルリード」楽器と「ダブルリード」楽器の説明もありましたね(オルガンのリードパイプはシングルリード管になる。ついでにホルンを担当していた方の相貌は、某若手女優さんに瓜二つだった)。

 このあと神宮外苑前の有名なイチョウ並木の黄葉を撮りに行くため、そそくさと会場をあとにした。ふだんは Organlive.com や「らじる」といったストリーミング配信をかけっぱなしで仕事をしている身ではありますが、やっぱり音楽というのはナマがいちばんだなァとあらためて感じたしだい。そういえば Liella! じゃなくて Libera もたしか来日していたらしい。海外アーティストの公演もかなり復活してきて、ひろい意味での舞台芸術であるコンサートでなければ味わえない感動というものは、ストリーミング配信全盛時代にあっても(否、それだからこそ)あるのだと思う。

 ただ、海外来日組による❝お高い❞コンサートを否定するつもりはさらさらないが(この前、ミック・ジャガーのインタビュー記事を訳したばかり)、クラシック音楽に関しては、いまほんとうに求められているのは、このような気軽に参加できるタイプのコンサートではないかと強く思う。むしろこういうコンサート活動こそ大切で、地味ながらもこの手の演奏活動に人とおカネを入れて支援しないと、いつまでたってもクラシック音楽を聴く聴衆はこの国では育たず、また若返ることもないという気がする(テレビ画面に映るN響定演の客層を見ればわかる)。アニメつながりで言えば、ちょうどこのコンサートと時を同じくして一挙放送されていた『青のオーケストラ』もすばらしかった。いちおうこれでも元ブラバンの末席にいた過去があるから、あのアニメで描かれていた練習風景や主人公たちの葛藤は共感しかなかったですね。おかげで苦い思い出も蘇ったりしたけれども …… そういえばこの『青オケ』、演奏していたのが渋谷ストリームで実演に接した洗足学園音大のオーケストラだそうですよ。BRAVI!! 

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2023年10月31日

紙の本を読む喜びについて

 COVID-19 の流行もだいぶ落ち着いてきたかなぁ、などとぼんやり思っていたら、ガザ地区からの電撃的攻撃で突如して戦端が開かれてしまった中東情勢(下手をすると、第五次中東戦争になりかねない)。それにつられて高止まりする原油などのエネルギー価格。毎月の電力料金の明細を見て嘆息しておられる方も多いと思う、今日このごろです。

 ワタシは大の読書家でも愛書家でもないと自認してるんですが、それでも仕事に関係なく気になった本は図書館で借りたり、図書館になければこちらの専門サイト経由で注文して買ったりと、そこそこ読んでいるほうではないかと思ってます。というか、一度気になる本が出てくると読まずにいられないたち。たとえば 1987 年発行の奥付のある『ネットワーク犯罪白書』という翻訳本。インボイス問題でさんざん騒がれて、消費税というものが(とくにわれわれ零細業者にとって)益税でもなく、かつそんなもんは存在さえしないことがすこしは知られてきたのかな、などと思ってはいるんですが、とにかくその騒動の元凶である一般消費税導入前、まだ物品税で、パソコンも PC-98 全盛時代の昭和末期にアスキーから出版されたこの本の内容は、なんと「コンピューターを悪用したネットワーク犯罪」。すでにそんな知的犯罪が欧米のみならず、日本でも話題にのぼっていたなんて、いまの若い世代が知ればビックリ仰天すること請け合いです。読んで損はない、というか、資料価値もきわめて高い1冊かと思います。

 ここで個人的な話をすこしだけしますと、いまワタシは2冊めの Kindle 本を準備しています …… 今回は翻訳本。翻訳といっても、100 年以上も前の 1906 年に初版が刊行された原著の新訳になります。いま流行りの言い方を使えば、「古典新訳」というやつですね。なので原書は原則的に版権フリーです。これをいつだったか、オンライン古書店で買い求めて読んでいるうちに、つぎはこの新訳版を出そうと心に決めました(笑)。

 この Kindle 本についてはまた後日、正式に刊行したときにでも軽く触れるとして、いまいちばん強く思うのは、こういう騒がしい時代だからこそ、秋の夜長にお気に入りの1冊を手にとって、紅茶でも飲みながらページを繰る、というひとり静かに過ごすひとときがいかに人間の精神にとって大切か、ということ。どんな本だってかまわない。ワタシの場合はいちおうこれでも翻訳者なので仕事柄、アタマをカイメンみたいに絞らないとわからない、なんて難物もときには読んだりしますが …… たとえば個人的に近年、読んだなかでとくに難物だったのがコレ。おかげでダニエル・C・デネットという、米国の認知科学者にして哲学者を知ることができた。かなり時間はかかったけれども読了し、そのまま忙しさにかまけて放置していたんですが、新聞投稿の景品の図書カードが溜まりまして、ようやくいまごろになって ¥4,200 もするお高い訳書(しかもペンギンブックス版原著より分厚いハードカバー仕様!)を地元書店にて買い求め、ヒマなときに比べ読みしています。原文と人さまの訳を突き合わせるのもやはり仕事柄、必要な勉強というわけです。ちなみにこのデネット本、COVID-19 がらみで「耳タコ」になったワードの PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)に関する記述もあります! 本を書いたデネット先生自身、まさかここまで人口に膾炙するバズワードになろうとはユメにも思わなかったでしょう(分厚い本、とくると、つい最近、延び延びになっていたトマ・ピケティの最新刊の邦訳がようやく出ましたね)。

 そして前回、ここで紹介したような、読む者の背中をそっと押してくれるような爽快な読後感が期待できるラノベだっていいんです。先日、帰りのバス車内で女子高生のすぐ後ろの席に座ったんです。見るとはなしにその子のようすをうかがっていると(※ストーカーではない)、目にも止まらぬ早わざでじつに器用に親指フリックフリック! で、インスタだの LINE だの、iCloud フォトだのブラウザだのイヤフォンで聴いている音楽プレーヤー画面だの、それはそれは目まぐるしく画面を変え続けて、すこしは手も目も休めりゃええのにって、まことにお節介ながらそう感じて眺めてました。…… ま、ワタシもスマホいじくってるときは、おそらく第三者からそう見えているでしょうけれども。

 で、思ったんですね。…… なるほど、だから『ネット・バカ』とか『スマホ脳』とかの翻訳ものノンフィクションがベストセラーになったのかって。たしかにそんなことばっかり続けていたら、マジで精神的に崩壊する恐れはある(Apple 元 CEO のジョブズや、MS 共同創業者のビル・ゲイツといった IT テック企業人でさえ、子どもにスマホやタブレット端末は持たせなかったって話もあるくらい)。そこで読書の出番だ。たまにはスマホから手を離して、紙に印刷された活字を追ってみるのも楽しいですよ。ハロウィーンパーティーで盛り上がるのもいいけれども、「読書の秋」とは、けだし至言です(投稿のお題は、ショーペンハウアーの古典『読書について』のもじり)。

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2023年09月30日

小説版ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 紅蓮の剣姫〜フレイムソード・プリンセス〜

 いままでいろんな分野の本を──必要に迫られたり、たんなる好奇心からだったりといろいろだが──積ん読乱読精読してきたけれども、ウン十年生きてきてこのたびはじめて「ラノベ」(ライトノヴェル)なるもののページを繰った …… 人間の運命って不思議ずら。

 もっともこれは、通称アニガサキと呼ばれているニジガク(『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』)のある時点のエピソードを❝小説仕立て❞にしたノヴェライゼーションという体裁なので、厳密な意味でのラノベ作品とは言えないかもしれない。それでもワタシにはすごく新鮮だったし、個性豊かなニジガクのスクールアイドル同好会のめんめんの内面をアニメではなく、活字で表現するのもアリだと思った。小坊のころに読んだ(というか学んだ)マンガの描き方指南本に、「マンガは絵で表現するから意味がある。文字で表現したければ、小説を書けばよいのである」とあって、たしかに、と感じたのをつい昨日のことのように思い出す。

 小説版には、活字表現ならではの場面描写、各キャラクターの心のひだの奥に分け入った細かな心理描写の妙がある点が良いところ。だからやはりこの作品はあくまで小説版として独立した立ち位置を与えるべきかと思う。ただ、個人的な好みを言わせてもらえれば、オーディオブックとして発売してほしいところではある(高咲侑、上原歩夢、そして本作のヒロインである優木せつ菜/中川菜々の❝声❞が脳内再生されるけれども、やはり声優さんに演じてもらう朗読劇、ないしはオーディオブック版がこの作品についてはとくにふさわしいかと。オーディオブック版なら寝っ転がりながらでもこのアツい物語を楽しめますしね)。

 なんといっても唸らされたのは、さすが手練れのラノベ作家さんだけあって、巧まずしてストーリーに引き込むその筆力、そしてアニガサキのメインストーリーとの親和性かな。この小説版は、鎌倉市内の桜坂しずくの家でお泊まり会をした直後の 11月初旬から始まっている。「港区近隣の学生たちが主体となってお台場で行われる❝文化交流会❞」に虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会も参加することになり、演し物について話し合っていたちょうどそのせつな、優木せつ菜が(せつなだけに)部室に飛び込んできて、大人気ラノベ『紅蓮の剣姫(けんき)』のミニフィルムの自主制作と上映会の開催依頼が同好会に来たとみんなに告知する。

 つまりこのお話は、お泊まり会−アニメ本編の同好会 Firstライブ直前にすっぽりはまる設定になっている。小説版で描かれた「ミニフィルム上映会」というエピソードがあったからこその Firstライブなのだと知れば、さらにエモエモで尊みはもっと深まる、というわけ。ひとりひとりのキャラクターに関しても、これまでのアニメ本編のエピソードがさらりと引用されて、アニガサキをまったく観たことがない読者にも配慮が行き届いている。それでいてこうした引用はクドくならず、アニガサキをがっつり鑑賞したという向きもなんの違和感なくすっと感情移入できる。このへんはさすがとしか言いようがない。

 ただ一点だけ個人的に? がつく箇所は、p.115 の朝香果林の性格描写のくだりくらい。「…… どちらかと言えば物事を理論で考える果林に対して、直感的な[宮下]愛の意見はとても参考になる」。下線部は、テストの成績はいつも赤点すれすれでどちらか言えば学業は苦手らしい彼女にしてはずいぶん知的な言い回しで、才女的な雰囲気さえも感じるところなんですが、ようするに[DiverDiva というユニットを組む相手の]直感的に物事を捉える宮下愛と違って自分はひとつひとつ順序立てて物事を考えるたちだ、ということですから、ここはもっと通俗的な表現でいいような気がする。「論理的」でもまだカッコよすぎる感じがするので、「物事を理屈で考える果林に対して … 」くらいではないかと。

 それ以外はとくに違和感なく物語の世界にどっぷり浸れて、フィクションものとしては久しぶりにワクワクしながら読み進めることができた。アニメの小説版という先入観なしに、ふつうの文学作品としても出色の出来だと思う。アニメ世界の感動が、紙の上の活字となってよみがえってくるようだった。なによりすばらしかったのは、『ラブライブ!』シリーズに通底するメタメッセージを小説版でもしっかり伝えている点。たとえば、音楽室でふたりきりになった侑がせつ菜に声をかける場面──
「──あのね、忘れることなんてないよ」
と、ふいに侑がそう口にした。
「え……?」
「私たちが……せつ菜ちゃんのことを大好きなみんなが、せつ菜ちゃんのことを忘れることなんてない。こんな風に、せつ菜ちゃんとの思い出はいっぱいある。ここだけじゃなくて、部室にも、教室にも、屋上にも、中庭にも、たくさんたくさん、もう数え切れないくらい。それは何があったって消えないよ」
(中略)
「だから優木せつ菜≠ヘいつだってみんなの心の中にいる。どんなかたちになっても忘れられることなんて絶対にない。何もなかったことになるなんてない。せつ菜ちゃんの灯は消えないよ。お節介かもしれないけど、それだけはせつ菜ちゃんに伝えておきたくって」
 ラストシーンの「紅蓮の剣姫」の紅姫(アカヒメ)の心情をどう演じればよいか悩んでいたせつ菜の迷いは、この侑のことばと、その後、同好会メンバーも合流して演奏された「Love U my friends」で消え、剣姫としての紅姫がどんな気持ちでこの世界から消えていったか、そのほんとうの気持をつかむことができた。ここの場面を読むと、どうしても劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』の高海千歌の次の科白が思い出される。
だいじょうぶ、なくならないよ! 
浦の星も。この校舎も。グラウンドも。
図書室も。屋上も。部室も。
海も。砂浜も。バス停も。
太陽も。船も。空も。
山も。街も。
Aqoursも。
帰ろう! 
ぜんぶぜんぶぜんぶここにある。ここに残っている。0には、
ぜったいならないんだよ。
私たちの中に残って、ずっとそばにいる。
ずっといっしょに歩いていく。
ぜんぶ、私たちの一部なんだよ。
「変わるものと、変わらないもの」。この小説版では、卒業を控える朝香果林と、下級生の宮下愛とのやりとりにもそれが描かれているが、これはまさに永遠のテーマと言えるもの。「さよならだけが人生だ」と訳したのは井伏鱒二だったか。英語には ❝Life goes on.❞ という言い方があるけれども、人が生き続ける以上、年をとってゆく以上、変化はしかたないこと。し・か・し、それでも変わらないものというのはある。「永遠をいまここで経験しなければ、それを経験することは決してない」と比較神話学者のキャンベルは言った。『ラブライブ!』シリーズにもそれがしっかり描かれているとワタシは思っている。だから人生の教科書だという人もいるし、文字どおり人生が一変したような人もいる。こんな強烈なパワーを秘めた物語(コンテンツという言い方はあまり好きじゃない。もともとの意味は「中が満たされたもの」、字義どおり中身というただそれだけなので)はそうそうお目にかかれるもんじゃないと個人的には思っている。

 本文に添えられた相模氏によるかわいらしい挿絵も良き。巻末のせつ菜のイラストには「虹ちゃんに出会えてよかった」と添えられているが、この本を読んだすべての読者もおそらく同じ気持ちかと思う。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

2023年08月27日

Barbie

 この夏、物議を醸したことのひとつが、いわゆる“Bubenheimer”。で、オラには関係ないや、なんてのほほんと構えていたら天の配剤(?)か、やむを得ない事情で急遽、鑑賞することに。

 ごく手短に感想を書きますと、作品じたいはとてもよくできていて、配給元はなんであんなバカげた騒動を引き起こしたのかがさっぱりわからない。そしていまやかまびすしい感すらある(皮相的な)フェミニズム云々に偏向することもなく、のっけから『2001年宇宙の旅』のパロディで幕を開けるなど、楽しい仕掛けも盛りだくさん(バービー製造元マテル社の男の CEO が何度か“sparkling”と口にするが、ひょっとしたらこれも米国在住の近藤麻理恵氏のパロディかもしれない。「心がトキメクものだけを残せ」がこんまりメソッドにあると思うが、そのトキメキの英訳に使用されている単語が sparkling)。

 あらすじは、「なにもかも完璧で、毎日が同じことの繰り返し」なバービーランドから、現実の人間世界で起きたある事件をきっかけに、万年ボーイフレンドのケンとともにピンクのオープンカーでバービーランドと現実世界との“結界”を超えて人間の住む現実のカリフォルニア州へと乗り込む。人間世界にやってきたふたりは、バービーランドにいたときには感じなかった疑問に直面し、それがきっかけでバービーランドは大混乱……みたいな展開。結末はなんか人魚姫的にも思えたが、ミュージカル仕立てで(こちらも過去の映画作品のパロディを連想させる)ストーリーが進行するなか、ひとりの女性が、旧態依然な男中心社会がいまだに残るこの世界でどう生きるべきかも深く問いかける内容で、2時間近い上映時間もまったくダレることがなかった。

 ところで主人公バービーが模索した「女性の生き方」、いや、男女のべつに関係なく人としての生き方の参考になると膝を打った本があります。それが、初代バービー人形の着せ替え衣装を米国人デザイナーとともに開発した日本人、宮塚文子さんの回想記『バービーと私』。「ふつうの女子社員に名刺を持たせるということがない時代」に、「自分の時間はすべてバービーにささげました」と胸を張る宮塚さんのこの半世記はすばらしく、心を打たれた(宮塚さんはその後、自身の縫製会社を起業し、志村けん人形(!)やモンチッチ(!!)の衣装作りも担当したという)。

 映画の評価はるんるんるんるんるんるんるんるん

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2023年07月28日

「自分の限界を決めるのはやめます」

 とくにコロナ禍後の、いまの日本(と世界)を見て感じること。それは“All for one”だけを叫び、ご自分の責務(“One for all”)を果たそうとはツユほどにも感じない人が洋の東西を問わず大多数だということです。この OVA 作品は上映時間が短いながらも、世界を変えるとは、自分を変えることという真実をあらためて教えてくれる佳作です。

 このさい一言しておくと、ワタシが一貫してこのアニメシリーズを追っているのは、狭い意味でのオタク根性(C.V. の◯◯さん推しとかのたぐい。基本的にストーリーとキャラクター重視派で、キャラに生命を吹き込む声優さんをはじめ、監督さんやその他制作陣のみなさんは「裏方」であり、主役は「作品」だという作品本位主義)からではない。一連の作品群が、J.ジョイスの『ユリシーズ』(1922)に出てきた「あれが神です」というスティーヴン・ディーダラスの科白を地で行く、音楽主体の「教養小説」アニメだと本気で考えているからだ(だから『ラブライブ! サンシャイン!!』の考察小冊子も書いた)。

 で、ここに書いたのはもうずいぶん前になるけれども、通称アニガサキと呼ばれる TV アニメ版『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の1期と2期も、機会あるごとに繰り返し観てきた(そういえばこの前、某ネット TV にて『ラブライブ!』シリーズ全作一挙配信もあった。現時点で全 104 話、50 時間強というトンデモない分量なので、さすがに一気見はムリだったが)。

 そしてこれは脚本の方向性ないしクセというのにも左右されるかも知れないが、一見、「同好会」という独自の活動を展開しているニジガクのスクールアイドルたちは、「ラブライブ!」という大会からもっとも遠く離れているように見えるが、じつはこのアニメシリーズが終始一貫、訴え続けてきたことをもっともわかりやすいかたちで体現していると個人的には感じている。ぶっちゃけた話、このシリーズでいちばん好きになったのがアニガサキで、われながらこんな展開になって驚いている。Aqours ももちろん好きですよ、なんたって地元民ですし、スピンオフの『幻日のヨハネ』がいまちょうど放映されていますしね。もっともこちらは完全に方向性の異なる「異世界もの」に仕立てられているから、大会としての「ラブライブ!」うんぬんとは直接的な関係はありません。

 というわけで TV アニメ2期の最終話で英ロンドンの短期留学へ旅立った上原歩夢が2週間の滞在を終えて帰国するシーンから今回の OVA 作品は始まります …… で、毎度ここで断っているように、内容に関してはワタシなんかよりはるかに深い洞察を披瀝してくれるブロガーさんたちが一定数おりますので、内容に関してはそちらを参照いただくとして、いくつか印象的な場面を記しておきます。

 またもや「桜坂しずくプロデュース」(?)かどうかはわからないが、のっけから意味深なバラード調の楽曲と、これまでのニジガク同好会の軌跡をたどるかのような MV で始まる(ちなみにワタシは初回を聖地のお台場の劇場で鑑賞してきたので、いまさっき見てきた風景がそのままスクリーンに大きく映し出されていて、いつもながらちょっと不思議な感じがした)。アニガサキを全話観た人ならたちまちピンとくるけれども、この曲を歌っているのは三船栞子・鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)・ミア・テイラーの3人からなるユニット R3BIRTH(リバース)。TV アニメ本編では出番のなかったこの3人組の歌唱で OVA 版が始まるという、すばらしく自然な展開になっていたのが好感できる(さらに、秋葉原・沼津・金沢と他シリーズの舞台までさりげなく出して、おまけに高咲侑や宮下愛らが「おいしいね!」とのっぽパンや寿太郎みかんジュースを味わうカットまであるというサービスの細かさ)。というか、この作品は最初からそんな「神」展開ばかりで、『ラブライブ!』シリーズお得意の風景描写にキャラの心理を重ねる手法も、アニガサキがいちばん洗練されている。ちなみにミアちが MC で言っていたのは、「ボクたちはまだまだ止まらない YO! だからみんなもしっかりついてきて!」だと思う(“We're not stopping here, hang on tight!”)。

 R3BIRTH の登場で、カンのいい人はさてはと思ったかもしれないが、歩夢がロンドンから連れてきたアイラというスクールアイドル志望の子の物語ながら、じつは栞子が抱えていた悩みの解決が果たされる展開で、隠れ主役は栞子だった。これまでの栞子は「適性」というタームで、みずからの無限の可能性を「鳥かご」に閉じ込めていたひとりだった──それを解放するのは誰か? 自分しかいない。
アイラさん。やはり、あなたはわたしに似ています。無理なものは無理って、自分で限界を決めてるところ。
…… 私も自分の限界を決めるのはやめます! だから、思い切り楽しみましょう! 
たしかに世の中、「思ったとおり不条理」というのはどうしてもあるが、それでも頭角を現すような人はいるわけで。差はなにかと問われれば、これまた以前から繰り返し書いてきたことの蒸し返しになるが、「あきらめずに続けてきた」人だけが限界を突き抜けて、「ほんとうになりたかった自分」、「ほんとうにやりたかった仕事」などをつかみとることができるのではないかって思う。トシとってきてますます強くそう感じるようになった。アイラの場合は、たとえ学校の正式な認可が得られくてもダイスキは貫くことができる、ということを栞子から身をもって教えられたところに現実味があり、大きな感動があったのではないだろうか。こういうバタフライ効果が広がれば広がるほど、世界を変える原動力となる。

 また「スクールアイドルの聖地」のひとつ、神田明神の男坂を降りているときの、天王寺璃奈と宮下愛のやりとり──「愛さんは何をお願いしたの?」「これからもみんなと楽しく、スクールアイドルやれますようにって」「わたしも同じ!」──は、今後の展開に影を落とすカジュアルトークかもしれない(来年以降、劇場版3部作として制作が決まっている)。

 そして相変わらず楽曲も攻めていて、いかにもニジガクらしくて最高。まだ ED シングルは買ってないが、冒頭の「Feel Alive」の盤はラジカセの CD デッキに入れっぱなしにして仕事中もかけっぱなしにするほど気に入っている。ラップ系はニガテなはずなのに、なぜかこちら(「Go Our Way!」)は心地よいのが不思議(Oh E Ah Oh Oh E Ah!)。

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 あと本編とはカンケイないが、エンドロールの「発表会」について。自分もメッセージ寄せて応募した身だからそれだけでバイアスが〜とか言われそうだが、この企画、一部の人はお気に召さないようで。個人的にはもうすこしじっくり見たかったのはしかたないとして、こういう企画をアタマごなしにダメとか言う人は、はっきり言って軽蔑する。「◯◯大学でがんばります」「りっぱな教員をめざしてがんばります」「政治家を目指します」「人前でしっかり話せるようになりたい」などなど …… これのどこがいけないというのだろう? 「みんなで叶える物語」で始まったこのシリーズらしい参加企画で無問題ラ! と思いますがね。みなさんのメッセージはいまはあまり見られないけれども、じつに多くの方が真摯に「決意の光」を表明されていて、ワタシもおおいに刺激を受けた口。それに虹ヶ咲学園ですからね。虹ってほら、昨今では diversity の象徴でしょう。なんでもありな寛容さも作品の売りのひとつかと(そういえばつい最近、訳したのがその「虹」のでき方に関する記事だった)。それを自由闊達に表現するには、必然的に「ラブライブ!」大会出場を目指さない主人公たちのストーリーとして描く手法に行き着くわけです。

 蛇足ながらアニガサキの脚本を書いたのは田中仁さんという方で、こちらも大人気ご当地もの TV アニメ『ゆるキャン△』の脚本を書いた方でもある …… のはファンなら百も承知でしょうが、伊豆半島も出てきた2期はとても楽しめた(西伊豆町の黄金崎までまさかの聖地認定)。アニガサキは脚本の秀逸さも光る作品であるのは間違いない。

2023年05月23日

古典が古典と言われる理由

日本を代表する名翻訳家のおひとり、柴田元幸先生がジョナサン・スウィフトの名作『ガリヴァー旅行記』の個人完訳を新聞夕刊に週1のペースで2年間、掲載していたという驚愕の事実を「ラジオ深夜便」(しかも今年1月の再放送)でこのたび知るという …… いくら自分の仕事に追われていたとはいえ、ソレはないやろ、とこれは自分自身への悔悟のセリフ(柴田訳は版元が新聞社のせいなのか、「ガリバー」と中古車販売会社みたいな表記にされているが、ヴィヴァルディを「ビバルジ」と書けないのとおなじで、ここはしっかり v の音写で表記する。ちなみにウィーンよりヴィーンと書きたいのはやまやまながら、こちらはぐっとコラえて慣習に従う)。

 また、柴田先生訳の少し前に出た高山宏先生による新訳版とご自身の訳書とを比較して、「ぼくの訳はお茶の間に届くガリヴァーです」とおっしゃっていたのはさすがだなァと感銘を受けた。「古典は酒。わたしの本は水。みんなが飲むのは水だ」と言ったとか言わないとか、マーク・トウェインのよく知られたアフォリズムが思い出されますね〜。

 ところでこれけっこうな大作でして、こびとのリリパット国の話はつとに有名ながら、巨人の国や馬の国、そしてなんと日本まで出てくる(!)。ほぼ同時期にデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)も出てます。当時は旅行記の体裁を借りた諷刺文学(パスティーシュもの)がもてはやされていたようです。『ガリヴァー』が書かれたのは、柴田先生も言っていたが、バッハの「マタイ(BWV 244)」が初演された前年の 1726 年。大バッハと同時代人でもある、アイルランドの司祭さんというわけ(正確には、アングロアイリッシュ系の人)。「馬の国」に出てくるヤフー(人間もどき)は、たしかポータルサイトの YAHOO! の語源だって聞いたことがある(間違っていたらごめんなさい)。

 原文とまともに向き合ったことがないからこれもはじめて知ったけれども、柴田先生によれば、きわめて現代的な British 英語で書かれているという。スウィフトは召使いに書き上げた分の原稿を見せて、意見を求めたとか。リーダブル重視だったんですねぇ、これもはじめて知った。アイルランドとくれば、20世紀の大小説家ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』があるけれども、そうそう、やはりちょうどこの時代にはローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』というトンデモない散文作品もありますね。日本にはじめて紹介したのがかの夏目漱石という話もしていました。邦訳に際して、柴田先生はパラグラフを自由に切ったとおっしゃっていたのが印象的だった。たいてい海外の純文学ものの翻訳はエンタテインメント系と違って、パラグラフはそのまま尊重して訳すのがふつうなので(海外ミステリもの翻訳も、たいていは原文のパラグラフを尊重しますが)。

 スウィフトが『ガリヴァー』を書いた当時、まさかこれが「古典」の仲間入りして、300 年近く経過した地球でも読みつがれる物語になるとは思ってなかったんじゃないかって思う。いまちょうど Kindle 本としてアーノルド・ベネットのエッセイの邦訳の準備を進めているところなんですが、教養=読書量、つまりなんでもかんでもとにかく活字を読みなさい的な発想はいまだ根強いとも思う。でも ── たいした読書家でもない門外漢が喋々(ちょうちょう)すべきじゃないが ── それってホントなんだろうか? 最近、どうにも挨拶に困る本が増えてるなぁと感じているもので。そんなワタシの困惑は、最近の書評もどきにも表れていると思う。つい最近も、そんな「科学もの」の邦訳文庫本を(仕事で入り用になり、どうしても)買うハメになったし(著者は理論物理学者にして「ネットワーク科学」なるものの提唱者。たとえばラン・ランの演奏にケチつけて音楽コンクールは意味がないと切って捨てたり、絵画のコレクターのくせして美術そのものに価値はなく、美術界における名声しだいで値がつくとかなりの偏向ぶりで、はっきり言って途中で読む気が失せた。そもそも「成功する人・しない人」なんか腑分けしてなんか意味があるんですかね。世渡りがうまいとかヘタとかそんな次元の話じゃないの? だれもが億万長者になれるわけでも、それで確実に幸福でハッピーな人生が送れるわけでもなかろうて[カネ持ちになればなったで強殺される危険も高まる]。これならまだ『サピエンス全史』を読んだほうがマシというもの)。

 最後に、柴田先生が朗読した『ガリヴァー』の記述が心に刺さらない人は世界のどこにもいないだろう。だから『ガリヴァー』は時代を超越して、古典としての永遠の生を獲得したのだと思う。
……(戦争の)原因も動機も無数にありますが、主たるものをいくつかご紹介します。君主が野心家で、統治する土地や人民が、いくらあっても足りないと考える場合。腐敗した大臣たちが悪政に対する臣民の抗議を押さえつけるか、矛先をそらすかしようと、君主をそそのかして戦争に走らせる場合。また、意見の相違がもとで、これまでに数百万の命が失われてきました。たとえば、肉体がパンなのか、パンが肉体なのか。ある種の果汁が血なのか、葡萄酒なのか。口笛は悪か徳か。…… 意見の相違がもとで起きる戦争ほど、しかもそれが些末な事柄に関する相違であればあるほど、戦争は激しく、血生臭くなり、かつ長引くのです。…… 敵が強すぎるという理由で戦争を始める場合もあれば、弱すぎるという理由で始まる場合もあります。ときにはわが国が持っているものを隣国が欲し、あるいは、わが国が欲するものを隣国が持っていて、いずれにせよ、戦え。彼らがわれわれのものを奪うか、われわれに、自分のものを明け渡すかするまで続けるのです。…… ある君主が敵の侵入に対抗しようとべつの君主に支援を請い、支援し敵を駆逐した君主がその領土をみずから奪い取り、支援を要請してきた君主を殺害、投獄、追放することも、王にふさわしい名誉あるふるまいとして頻繁に行われます。

 それでも、「どのように読んでもかまわない。視点を決めないように!」と訳者の柴田先生はしっかりお断りしている。たしかにそれこそが原著者が望んだ「読み方」だったとワタシも思う。I couldn't agree more! 

 ちなみに柴田先生がつぎにとりかかりたい翻訳の仕事は、メルヴィルの『白鯨』とか。ぜひ実現されることを祈念しております。

posted by Curragh at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2023年02月11日

『公式より大切な数学の話をしよう』

 邦訳書名(原題はオランダ語の Plussen en minnen『プラスとマイナス』)だけパッと見すると、なにやら 10年くらい前に一世を風靡(?)した、米国人政治学者の書いた本っぽくも思えますが、そちらの先生が説いた「政治的な正義の話」より、ダンゼンこっちのほうが目からウロコが落ちるだろうし、役にも立つと思われます。

 著者はなんと! まだ 20 代の若き天才数学者のステファン・ボイスマン氏。といっても、某週刊誌に「私の愚妻が〜」などと差別用語丸出し寄稿文を長年連載しつづけてきた先生のような思想的に偏った人でもありません。「文は人なり」って申しますが、それはオランダ語原文から直接邦訳された訳文からもいきいきと伝わってきます。

 のっけから、「数学は何の役に立つのか」と「そもそも論」からいきなり入る。この手の一般教養書(いまはあまりこう呼ばないのかもしれないが)を手にとる読み手なら、だれしも必ず抱く通過儀礼のようなこの大きなギモンに真正面から切り込んでゆく。しかも著者自身、「本書は、高校時代の自分に向けて書いたとも言えるが」と告白しているように、かつては公式やグラフの使い方を丸暗記する必要がなぜあるのかと、数学の素養もなにもないワタシとおんなじギモンを抱いていたという! 

 こういう経歴の持ち主が書いた本がおもしろくないはずがない。2018 年にオランダ語初版が刊行されるとたちまちベストセラー入りして、日本語も含む世界 18 か国で翻訳出版されているというのもうなずけるお話ではあります。

 数学の本、とくると数式がゴチャゴチャ出てきてイヤずら、という向きはワタシも含めて大多数かと思いますが、この本で出てくるのは高校までに習った図形の面積や円柱などの立方体の体積を求める公式くらい。著者が繰り返し説いているのは、「数学は現実世界と無縁な抽象世界」ではけっしてない、ということ。公式はあまり出てこない代わりに、わたしたちの身近な応用例をこれでもかってくらいにバンバン提示してきて、それこそ息もつけないくらいです。そんな数学の応用例として、いきなり(?)大阪の地下鉄路線が登場したのには目を丸くしたが(p.19、微苦笑)。数学の歴史について書かれた章はまんま人類がたどった歴史でもあるし、それを読めば(ヒトの赤ちゃんには目に映る物体について、すでに足し算・引き算ができる可能性があるとする研究の引用もあったりとこちらもすこぶるおもしろい)、古代メソポタミアやエジプトのような、わたしたちの祖先が築いてきた文明社会から現代社会にまでつづく人類の営みには、使い方の問題はむろんあるが、数学的思考と、数字や計算式といった数学のツールなくしては実現不可能だったことがしつこいくらいに具体例を紹介して語ってくれる(それゆえ古代ギリシャ人が、音楽を数学の一分野とみなしたのも当然の話。この本によると、古代ギリシャ人は自然数をなによりも重視していたそうですが、そのギリシャでピタゴラス音律が生み出されたのもよくわかる話ではある)。

 ワタシももちろん数学が苦手(なのに、なぜか工業系高校だったが。ドイツの数学者ベルヌーイの名前をこの本でひさしぶりに見たときは、「いやぁベルヌーイの定理か、懐かしいずらぁ」ってひとりごちたもの(これはたとえばポンプなど、流体力学系装置の設計に応用される。ついでにその手の文書で head と出てきたらたいていは「水頭」の意味だと思ってよい)。この本には微積分の応用例もたくさん出てくる。橋や自動車や飛行機といった乗り物の安全設計や建物の構造計算、天気予報(数値予報という言い方を聞いたことがあるでしょう)、果ては政府統計でもちいられる経済予測や税制にまで、人間の活動する分野はほぼすべてではないかっていうくらい、微積分のお世話になっていることを力説する。

 数学ってたしかにとっつきが悪い。数字にもいろいろ種類(有理数・無理数・自然数・素数・因数)があり、数学を数学たらしめている最大の要素である抽象性が、さらにとっつき悪さに拍車をかける。けれども、「こんなのなんのために勉強するのか? 学校ではもっと社会に出て役立つことを教えればよい」などというのはただの詭弁であり、危険でさえある実例も引いている。それは確率と統計の話だ。

 確率と統計 ── は、この前ここでも紹介した本がまさにそんな内容だったが、この数学の本にもやはりその重要性と落とし穴が、憶測ではなくしっかりしたファクトにもとづいて書かれている。そして、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックがまだ終息していないいまを想起させるような、 170 年くらい前の話も出てくる。
1850 年ごろ、人々はコレラに苦しんでいた。断続的に流行が繰り返されるなか、感染経路は明らかになっていなかった。原因についてはいくつかの説があり、「悪い空気(瘴[しょう]気)」、つまり悪臭を吸うことで病気になると広く信じられていたが、怒るとコレラにかかりやすくなるという妙な考え方もあった。コレラに倒れることがないように、楽しく穏やかにすごしましょう ── ニューヨークの住人は 1832 年と 1844 年にこんな通知を当局から受け取っている。コレラは水を媒介して感染するのであって、本人が怒っているかどうかは無関係であるという正しい原因を予想した者もいた。(ibid., pp.178−179 )

 21 世紀の人間は、この一節を見てとても笑えまい。

 また統計をめぐっては、相関関係と因果関係をゴッチャにする分析やそれを根拠にしたウソ八百(?)のでっち上げがあとを絶たないんですが、この点についても、「ニコラス・ケイジ(!)と溺死者数の関係」のグラフを引いてたいへんわかりやすく、そして的確な警告を呼びかけてもいる。統計統計ってみなさんすぐ口にするが、トランプ政権時代の司法長官の悪用例(pp. 187−88)のように、これを正確に「読み解く」のは、じつはけっこう難しい(おなじことは、X 線写真、つまりレントゲン写真にも言える。そのせいで少年王ツタンカーメンは「後頭部を殴られて」暗殺された、なんて説がでっち上げられた)。

 そして著者は巻末、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリア主題よろしく、また最初の出発点にもどってくる。
毎日の生活のなかで、複雑な計算式を目にすることはまずない。それでも、これは 15 歳のときの僕に向けて言いたいが、身のまわりにあるものは数学が研究した(ママ)ことの成果なのだ。複雑な構造の建物、天気予報、大量のデータに基づく世論調査や予想、検索エンジンや AI。数学の基本的な概念がわかっていれば、これらのことはもっとよく理解できる。(ibid., p. 249)

 検索エンジンのアルゴリズムとして、Google のページランクの計算原理なんかも出てくるけれども、そうそう、Google 以前の検索エンジンってほんと使いものにならなかった。インターネット黎明期なのだから、それもしかたないとはいえ(イン○トミのことね)、それがいまではなんですか、あの ChatGPT というのは。つい先日、Microsoft が自社のブラウザの検索エンジンに順次搭載するってニュースで報じられてましたけれども、これもまた高度な数学を応用した成果。もっとも危険性はある。こういうことが究極まで進んだ世の中が果たしてよいものかどうかは、数学とはまた違う次元と異なる視点でじっくり考え、検討する必要がある。つまり、そのためにも数学以外の学問は存在するわけでして、文学や音楽といった芸術一般も含め、それを身につける、教養を身につけることがなぜ必要かという問いにもつながってくると思う。これは勉強というより、人はなぜ学ぶ必要があるのかという問いです。古代ギリシャの有名な数学者もまた似たようなことばを残しているけれども、勉強、いや学問というものは、「すぐに役に立つか立たないか」で判断したらぜったいにマズいと思う。それがあるなしで、人の一生が変わってしまうこともありうる。それがあったからこそ生きるよすがとなったというケースもある。ようは、生きるために必要なんですよ。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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