2023年01月27日

金をかけずに英語の基本を身につけたい人は

 「大西泰斗の英会話☆定番レシピ」と「ラジオ英会話」をおススメします。

 といっても、ステマじゃないよ。ワタシがここでこういうことを書くのはめったになく、書くときはホントに自分がそう思っているから書くんです。とにかくこの番組、だいぶ以前に放映していた「NHK3か月トピック英会話・ハートで感じる英文法」以来のヒット作とさえ思っております。

 個人的には、ちょうど納品したばかりのインタビュー記事にもおんなじこと(そちらは英語ではなくて数学の話だったが)が書かれていたけれども、英語をとくべつ必要とせず、人並みの IT 知識さえあれば、AI(!)支援の最先端の通訳/翻訳アプリもあるし、人力だって問いかければロハ(=只、つまりロハ)で何でも教えてくれるという、その昔バカ高い国際電話料金払って海の向こうのインフォーマントに問い合わせてた、なんて往年の世代からしたらディズニーランド級の夢の世界が IT の進化でいともあっさり実現しちゃってるんだから、文明の利器を利用しない手はない。

 しかしこと英語に関しては、他の外国語に比べてなぜか(?)、「ラクして身につけたい」とか、あるいは逆に、そういう人をカモにした(pace、言い方失礼)詐欺的商法があいもかわらず横行しているのはどういうことなんでしょうねぇ、といつも慨嘆せざるをえない。

 語学留学という手もあるが、あれだって(またまた失礼)けっきょく業界が儲かるからであって、必ずしも払った対価に見合った効果(流暢な会話力とか)が身につくなんて保証はどこにもないんですね、冷静に考えていただければすぐわかりそうなことですが(現地に行って現地民と触れ合うのは貴重な経験ではありますが)。

 では、留学資金もなし、忙しくてそんな時間もなし、それでも最低限の英語力だけはなんとしても身につけたい。そんな方にうってつけだと思っているのが、この番組なのです。

 大西先生の教授法は掛け値なしにピカ一だと思う。とにかく教え方がうまいし、説明の仕方がストンと腑に落ちまくりです。ここでもかなり以前に書いたことがあるけれども、「to 不定詞と ing 形の違い」についてもじつにわかりやすかった。

 というわけで、まことに僭越ではありますが、ここでもすこし大西先生のみごとな講義を補足(いや、蛇足か?)しておこうかと思ったしだい。

 ❶ It is difficult to study English.
 ❷ To study English is difficult.

上記2文、文法的にも正しく、意味もおんなじなんですが、では何が違うのか。大西先生は、「to不定詞句を主語に据えた文だともったいつけて大げさに振りかぶっている感じ」、ようするにオーバーな言い方だと指摘して、ふつうは ❶ を使う、と言ってました。補足すると、❷ だと to不定詞句の主語がダラダラ長くなると、頭デッカチでカッコ悪いんです。❝It is ...❞ といわゆる仮主語(+真主語)構文のほうが、スマートな言い方だと言える。英語では、先頭に来るものがなんでも目立つ、つまり「重要度高」ということになります。だから、❝For​ ​several​ ​years,​ ​Mrs.​ ​H.​ ​T.​ ​Miller​ ​had​ ​lived​ ​alone​ ​in​ ​a​ ​pleasant​ ​apartment​ ​(two​ ​rooms​ ​with​ ​kitchenette) in​ ​a​ ​remodeled​ ​brownstone​ ​near​ ​the​ ​East​ ​River...❞ (カポーティ『ミリアム』冒頭から)ときたら強意構文なので、訳すときは注意が必要になる(時間や場所などを表す副詞句はふつう文尾に置かれる。英語は先頭に来ることばほど目立つ、強い)。

 そしてこれがもっとも大切かと思うんですが、なによりも口に出したときにすっと言える。❝To err is human, to forgive (is) divine.❞ という定型文みたいなのもあるにはあるが、ソレ以外の日常会話で to不定詞から切り出す、という言い方は個人的にはほとんどお目にかかったことがない。ミステリとかも含めて文芸ものに出てくる科白でこういう表現はめったにない、と言い切ってよいでしょう。

 to 不定詞と ing 形の違いは、ずばり「いまそのときの動きが感じられるかどうか」だと思ってます。似たようなことは大西先生も指摘されてましたが、たとえば、

 ❶ He stopped to say hello to Kate.
 ❷ He stopped saying hello to Kate.

で、なぜ文意が反対になるのか。to不定詞は「ing 形と違って動きがなく、これから起こることをただ待っている状態」というイメージ(つまり未来を向いている)。ing 形だと「すでにやっちゃったこと」という動きがすでにあるから、意味的に過去のことを指す、というイメージだと言ってよいと思う。

 「英会話☆定番レシピ」に関してさらに付け加えると、エンディングの前置詞・基本動詞のイメージをとらえる(コアイメージ)ミニコーナー。あれだけ見てもいいくらい。英語の前置詞や基本動詞こそ、日本人がもっとも苦手としているところだから。何度目かの蒸し返しでたいへん申し訳ないけれども、英語学習に関しては昔から「前置詞3年、冠詞8年」って言われてますから、必要最低限と言いながらも、それなりに腰を据えて取り組むことはなんにせよ大事かと思いますね。

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2023年01月05日

「統計」もクリティカルに見よ

 昨年の初夏だったか、日経新聞に広告が出ていたこちらの本。著者は現役の英 FT 紙シニアコラムニストで、BBC ラジオ番組のプレゼンターでもある人。「統計にダマされるな」的なご本かと思いきや、『データ探偵(The Data Detective : Ten Easy Rules to Make Sense of Statistics)』という原書名が暗示するように、統計のウソを暴くことより、統計とはそもそもどんなもので、どのように扱えばよいかを 10 の方法として提示し、論じた本になります。

 たとえば「とっさの感情には注意する」、「俯瞰する」、「背景を知る」……とかはなんか既視感ありあり。「背景を知る」なんて、拙訳書に出てくるクリティカル・シンキングの技術として語られるものですね。なので共通項はかなり多い、という印象がまずあった。「とっさの感情には注意する」では、著者自身の失敗例(グラフの時間軸も確認せずリツイートした話)もさらけだして、その危険性を訴えてます。ほかにもあのフローレンス・ナイチンゲールがじつは「近代統計学の母」的存在でもあったことなどの歴史トリビアも満載で、教えられるところは多い。「公的統計の存在を重視する」では、ギリシャとアルゼンチンそれぞれの公的統計部門のトップが被った妨害工作の事例なんかも暴露されていて、このへんはよくあることですけれども、ジャーナリストたる原著者の腕の冴えが光っている。しかし公的統計の信頼が揺らいじゃったら、それこそわたしたちの生命財産に直結しかねない。そういえばこの国でも、ついせんだって似たような失態があったような …… 。

 ただ、この本を読んでもっとも印象に残ったのは、COVID-19、つまり新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)初期の混乱を記述したくだりです。「疫学者、医療統計学者、経済学者といった現代のデータ探偵たち」が、「生死にかかわる判断を手探りで模索する状態」だったが、「数週間が経つ頃には、彼らの捜査と探索のおかげで、ウイルスの主な特徴と、そのウイルスがもたらす疾病の性質について、多少なりと把握した全体像が浮かび上がってきた」。
無症状の感染者も多数いることがわかった。…… 若者よりも高齢者において大幅にリスクが高いこともすぐに明白になった。感染致死率の合理的な推定値も出た。…… 特に、イギリス国家統計局などの機関が実施・分析する適切な検査の価値はどれほど大きかったことか。パンデミックという戦争において、統計は、いわばレーダーに相当する存在だった。
…… 正確でシステマティックに収集された数字というものを、ふだんの私たちがどれほど当然視しているか、これ以上にありありと描き出す例はほかに考えつかない。…… 私たちは、「嘘、大嘘、そして統計」などと気軽に口に出し、統計のありがたみを軽んじる。今回のコロナ危機は、統計データが出そろっていないと状況がどれほど混乱するものか、私たちにあらためて思い出させている。
 最近、この手の本でときおりお目にかかるのが、tribalism という単語。この本にも顔を出していて、「同族意識」と訳されています。で、たいていこれはどっちかの陣営(同族)から見た「真実」しか見ないというきわめて偏向した態度を助長し、すんなりケリがつくはずの話も尾ひれがついていっそうややこしくして、対立を先鋭化させたりするのですが、そんな陥穽にはまらないためにも統計、とくに公的機関の発表する統計をないがしろにしてはいけませんよということも強調されています。その最たる実例としてやり玉に挙げられているのが、くだんの放言ばっかかましていた米国前大統領の話。しかし、もっとも信頼に足るはずの公的統計も、このような政治的圧力の前に歪曲されるリスクがどこの国にも起こりうることは、引き合いに出したギリシャとアルゼンチンの教訓で警告しています。

 あと、よく言われることですけれども、この手の本にはたいていダニエル・カーネマンの著作『ファスト&スロー』からなにかしらの引用があったりするものですが、この本ではたとえば「出版バイアス」が、公正な研究成果をゆがめかねないものとして出てきます。たとえば、世間をアっと言わせる、意外性のある論文のほうが出版物として世に出る確率が高い、というのも出版バイアスの一例。そのじつ、真に価値あるデータなり統計は、じつに地味ぃ〜なグラフやチャートのほうだったりする(でもこちらはなかなか出版されない)。またそれとはべつに「速い統計」(拙速な集計データによる統計)と、「遅い統計」という用語も持ち出しているけれども、たとえ信頼できそうな「遅い統計」でも、「個人的な印象のほうを信じるべき場合」は、ゼロではない。世の中の問題すべてが数値化され、見える化されて、表計算シートに転記できるものばかりじゃないから(マスク着用問題なんかがそうかも。呼吸器系に問題があると自覚していれば、統計的に問題なくても予防的に着用するのはごく当たり前の行動でしょう)。

 昨今はやりの AI(人工知能)やアルゴリズムについても、新型インフルエンザの予測に失敗した「Google インフルトレンド」プロジェクトを引き合いに出して警鐘を鳴らしてます。こと統計学に関する本にはほとんど縁がない人間とはいえ、やはり統計と無縁では済まされない時代に生きている者のひとりとして、この本は読むべき1冊だと思ったしだい(数式はいっさい出てこないので、その点はご安心を)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2022年12月31日

We are observing your Earth ...

 ウクライナ侵攻に始まり、乱高下するドル円に世界的な景気後退局面入り、終わりの見えないコロナ禍、そしてまたもや台風や風水害、地震や火山噴火などの天災に見舞われた寅年でした。来年は個人的にも大好きな卯(うさぎ、とくにネザーランドドワーフが好き)年ということで、なんとかぶじに、そして飛躍の年にしたいものだと内心、願っております(先日、念願かなって、『ラブライブ! スーパースター!!』の Liella! メンバーのひとり、平安名すみれの実家設定の穏田神社さんにお参りに行って、「茅の輪くぐり」して、御朱印と、「技芸上達守」もいただいてきましたずら)。

 毎年、この時期になると古い欧州の音楽伝統における「クリスマスと新年」が流れる「古楽の楽しみ」ですが、シュッツの「クリスマス物語」、そしてこの時期おなじみの「高き天よりわれは来たれり」(パッヘルベル)、「古き年は過ぎ去りぬ」(バッハ、BWV 614)などのオルガンコラールの名品もかかっていやがうえにもクリスマス気分がアガったのですが、フランスバロックのルイ=クロード・ダカン(1694−1772)が編んだオルガンのための「ノエル集」もまたこの時期よくかかります。でも先日の放送では「ノエル第3番」がかかる前に、MC の先生がなにやらもったいつけて「ある仕掛け」があるから聴き逃さないように、と言っていたのでたぶんアレだろうと思ったら BINGO でした。

 ありていに言いますと、「水笛」というオルガンの自動演奏装置のストップが曲の後半で追加されていた、ということ。水笛はフランスでは「ナイチンゲール」を意味する「ロシニョール」(rossignol)とも呼ばれているのだそうで(こちらは初耳でした)、オンライン辞書でてっとり早く調べてみたら、rossignol にはなんと「売れ残りの本」、「流行遅れの品」なんて意味まであるじゃないですか! 「国家とは怪物である」とかつて喝破したニーチェじゃないですけれども、国家の指導者が誰も望んでなどいない侵略戦争を勝手に起こし、失われずにすんだ人命を殺戮するという、このアナクロ全開な動物以下の業(ごう)は、いつになったら「時代遅れ」になるのでしょうか。

 そんな折も折、やはり NHK-FM のこちらの番組で流れていた「星空に愛を」を、2022 年を締めくくる1曲としてご紹介しようと思ったしだいです。じつはこちらの楽曲、カナダのプログレバンドのクラトゥの作品で、カーペンターズがそれをカバーして 1976 年に発表したものです。…… いかにも '70 年代な「オールヒットレイディオ」なる音楽番組で、「電リク」(もはや死語か …)してきた「マイク・レジャーウッド」なる人物に、DJ がやたらと早口で「リクエストをどうぞ!」とまくしたてて曲は始まる(気温 11℃、番組開始 13 分過ぎ)。
「ワレワレハ、キミタチノ地球ヲ観察シテキタ…」
「あ〜、マイクごめんよ、そういう曲はうちのプレイリストにはないんだ」
「ワレワレハ、キミタチノ地球ヲ観察シテイル ……」
「あ〜ごめんマイク、それはないんだ、あのね ……」
「ワレワレハ コンタクトヲトリタイ キミタチト …… BABYチャン」
[※最後のはミア・テイラーふうにしてみました]

お願い どうか平和的にやってきて
(降り立てばきっとわかる)
わたしたちの地球はもう持たないかも
(だからお願い、来て)
どうかお願い、惑星間お巡りさん
サインをくれませんか? サインを
応答を示すサインを? 
(↑、"Only a landing will teach them" で太字部分がなぜか? love となっている誤記が散見されるため、ご注意。そうとったらそもそも意味がつながるはずもなし)

 まさにいま、この歌詞のまんまな事態に陥りつつあるのは、まことに遺憾ながら認めざるをえない気がする(この前ここで触れた例の本の読後感は年明けに。もうひとつちょっと書きたいこともべつにあるので)。良き新年を。



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2022年11月30日

バッハの無伴奏チェロ組曲

 先週の「古楽の楽しみ」は、バッハの6つの無伴奏チェロ組曲の特集みたいな構成でして、聴いたことがない珍しい音源があったり、じつは「フーガの技法」や「平均律」とおなじく、このケーテン時代の傑作にも「先行例」があったことなど、たいへん興味深く聴取させてもらった。願わくばこの番組も、「らじる」の聴き逃し対応にしてくれませんかね ……

 珍しい音源とは、ちょうど祝日だった先週水曜の回でかかった、グスタフ・レオンハルト自身がチェンバロ独奏用に編曲した版で自作自演した音源のことでして、ワタシはもうずいぶん前になるが、たしか東京芸術劇場で開かれたレオンハルトのオルガンリサイタル(招聘したアレグロミュージックさんの前宣伝には「貴(あて)なる人」とか書いてあった)会場にて購入した、「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」のチェンバロ独奏用編曲自作自演盤なら持っていて、ときおり耳を傾けたりしているけれども、こちらはまったくの初耳。さすがレオンハルト大人(たいじん)、無伴奏ものはヴァイオリンソナタ/パルティータのみならず、しっかりチェロ組曲も鍵盤用に編曲されていたんですね〜、掛け値なしにすばらしいとしか言いようがない(いま探してみたら、鍵盤編曲ヴァージョンの全曲盤もありました)。というか、気がつけば今年は没後 10 年ではないですか。レオンハルトは若かりしころがちょうど第二次大戦真っ只中で、電気も水もなく食料もわずかななかで、音が外に漏れないように練習していたとかどこかで読んだ記憶があります。いままた暗雲垂れこめつつある欧州の現状を、草葉の陰でどう思っているのだろうか。またレオンハルトには、こんなレアものの音源まであるみたいです。

 「無伴奏チェロ」の先行例として紹介されていたのが、ドメニコ・ガブリエッリ(ca. 1650〜1690)という北イタリアのボローニャの音楽家が残した「チェロのためのリチェルカーレ」という曲集のようで、こちらも寡聞にして初耳だった(遅かりし由良之助)。ちなみにこちらのガブリエッリ氏、ヴェネツィアの有名なガブリエリ一族とは無関係の人。バッハはこの人の出版譜かなにかを所有していたのかな? 『バッハ事典』に転載されていた「遺産目録」のコピーとか、あとで確認してみよう。 この「無伴奏チェロ」づくしな「古楽の楽しみ」、かかった演奏者もレオンハルトをはじめアンナー・ビルスマ、そしてバッハのこの作品ときたらぜったいに外せないパブロ・カザルスなど、往年の名手の懐かしい名録音も聴けて、なんだか心洗われる思いがした。

posted by Curragh at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2022年10月29日

お金の使いみち考

 仕事柄、ウラをとるためにいろいろな参考文献を読む(否、読まされる?)ことが多々あるんですが、先だってもこちらの本を読みまして、すこし思うところがあったのでまたしても妄評多謝ということでお願いします。

 著者が主張していることはたいへんシンプルです。慈善事業、たとえば数か月前に来日したこちらの方が奥さま(当時)と設立した超がつくくらい有名な財団とかに寄付する場合、キャッシュフローや費用対効果(B/C または ROI)もすごく大事、だからくれぐれも大切なあなたのお金がほんとうに世の中に役立てられているか、貧困にあえいでいる人びとの援助に有効に充てられているか、批判的に考えて(これまたクリティカル・シンキングですかね?)からにしましょうね、というもの。

 著者はなんと! 28 歳であのオックスフォード大学の哲学科准教授となった俊英で、たしかにそのとおりでございます、と最初は思いました …… でも、とくに6章の内容はオラのアタマではやや大きなハテナマークがついてしまい、そのまま呑み込むのも気分悪いからこの場を借りて吐き出してみようと思ったしだい。たとえばこんな一節はいかがですか? 
…… ベンジャミン・フランクリンは 1790 年、アメリカ議会に奴隷制廃止を嘆願する書簡を記した。議会はこの嘆願について2日間議論した。奴隷制の支持者たちからはとめどない反論が押し寄せた。…… それでも、奴隷制は撤廃され、今ではそうした反対意見を養護するのは不可能だ。女性、黒人、LGBT の人々の権利向上を訴えてきた活動家たちの行動が正しかったといえるのは、すぐに成功する確率が高かったからではなく、成功した場合の見返りがあまりにも巨大だったからなのだ。(p.99)

下線部を読んで、「ちょっとなに言ってんのかよくわかんない」とツッコミたくなった。ことばのあやってやつかもしれない。しかしこの本はそこここにこの手の功利主義的な発想が顔を出していて、その点、誤解されぬようにということなのか、巻末注にも「効果的な利他主義」と功利主義は似て非なるものだと先回りして断ってもいるが、こういう「活動家」の人たちは、そもそも見返りなんて期待すらしていない(はず)。みずから信じるところこそ、世の中をより良くするはずだ! そういう内なる理想を追求する情熱に突き動かされておのおの活動しているものだと思いますけれどもね。原文見てないからなんとも言えないが、ここは個人的には「直感に反する(counterintuitive)」箇所で、経験とも反して引っかかってしまった。

 引き合いに出したのは、政治家になるべきかどうか決めかねて、著者(この手の意識高い系の後輩が進むべきキャリアに関してコーチングもやっている人)にお伺いを立てに来た女子大生の話のくだり。彼女は、どうすれば世のため人のためになる費用対効果が最大化されるキャリアに就けるのか、「寄付するために稼ぐ」か、政治家になって影響力を直接振るえる立場の人間になるか、どっちがよいかわからない、と著者に助け舟を求めているわけなんですが、有権者の立場から言わせれば、まだなんの経験もないヒヨッコ同然の(失礼)世間知らずの高学歴なだけの人に投票しようなんてぜったいに思わないですね、悪いけど。ワタシが著者の立場だったらこう訊き返しますわ。「あなたの政治家になりたいという志には、そのていどの覚悟しかないのか?」って。政治家にほんとうになりたい若者には、キルケゴールばりに「あれか、これか」なんて迷いはないでしょう。

 なんかこう、この本は全編が費用対効果のモノサシしかないんです。慈善事業だって人さまからカネを集めて行うりっぱなビジネスだ。だからキャッシュフローを見て、「行っている活動がほんとうに世の中を良くすることに寄与しているのか、現地の人の役に立っているのか、ワタシのおカネはほんとうに役立てられているのか」という視点に立って寄付するのは、ひじょうに重要だと思う。いくら非営利の慈善事業だからって、寄付している人はある意味、投資家とおんなじだし。ただ、「その事業内容は人さまや世の中を変えるためにほんとうに効果的か?」というモノサシだけで十把一絡げにされては当事者はかなわないんじゃないかって思ったりもする。新型コロナウイルスのメッセンジャー RNA ワクチンが好例だと思いますよ。このワクチン、なんか急ごしらえに作られたみたいな都市伝説(?)が一部でまことしやかに流布していたりするんですが、事実ではない。開発にはじつに 30 年もかかっていて、実用化まであともうちょい、のタイミングでまさかのパンデミックになっただけの話。だから世の中、なにが役に立つかなんて最後までわからんものだ、とここにいる門外漢は考える(そのワクチンのおかげで、いまこうして書いていられる。オラはもう4回め打ったずら)。

 ただ、当の女子大生からすれば、不安だったからそう尋ねたんでしょう。それだったら引用もされている、スティーヴ・ジョブズが 2005 年にスタンフォード大学で行った卒業生へのはなむけのスピーチの引用のほうがよっぽどマシかと思う。この本では、「あなたの夢と情熱」にやみくもにこだわると、かえって道を誤る恐れがある(ダ・ヴィンチも言ったとされる、「できることとやりたいこととのギャップ」を指摘している)とジョブズのスピーチを批判的にとらえ、ジョブズ自身もまた日本で禅僧になろうとしていたりと行きあたりばったりを繰り返したすえ、「しかたなく」入ったコンピューター業界で道が開けた、みたいなふうに書いてありますが、だからって自分の心の声を聞かなくていいということにはならない。どんなキャリアに適性があるかなんて、本人もよくわからない。でも、ほんとうにやりたいことは捨てるべきではないと思う。「これがなければワタシは死ぬ」くらいの覚悟があるのなら、どんな嵐にも動じないだろうと思うから。というかこの本の後半では、試行錯誤を奨励してもいるんですよね …… 費用対効果の最大化ガ〜と言っているかと思えば返す刀でこう来たりと、よくワカリマセン。

 たとえば、この先、どうしようかと白紙状態の人が費用対効果式の計算のみで晴れて弁護士になったとしましょう。もちろん世の中には良い弁護士もいれば、弁護士の風上にも置けないトンデモナイ輩もいる。アメリカだったら、後者のほうが多いかもしれない(訴訟大国だから、ようするに儲かるんです)。もし就職先がそんなトンデモ弁護士事務所だったとしたら、はたしてこの若き弁護士は「ほんとうに世のため人のため」の働きをしてくれる、りっぱな弁護士になるでしょうか? 

 けっきょくそれを最終的に左右するのは法律の専門知識ではなくて、哲学だったり文学だったり歴史だったり、まったくカンケイがなさそうに見え、本業になんの役にも立たないと一般には思われているムダな「教養」をどれだけたくさん身に着けているかどうかだとオラは思ってます。

 会話のおもしろい人っていうのは間口が広い。アメリカはよくパーティー文化の国、パリピ連中ばっかでお付き合いするだけでクタクタになる、とは、かつて日系企業の駐在社員さんたちがこぼす定番のネタみたいな話でしたが、ほんとうに英語ができる人というのは、話がシェイクスピアから『空飛ぶモンティ・パイソン』にトンでも会話のキャッチボールを自分なりに相手に返せる人です。弁護士の実例では、昔、TV でこんな趣旨のすばらしい答えを返した米国人青年弁護士がおりましたよ──「ぼくは、世の中の弱い人たちをひとりでも多く救いたくて弁護士になった」。

 話をもとにもどして、明日は比較神話学者ジョー・キャンベルの命日。で、その次がみなさんお待ちかねの ❝Trick or treat!❞ な日なわけですが(⇒ こちらの拙記事)、キャンベルはお金の使いみちについて、こんな趣旨のことを講演で話してます。「食事にお金を使うより、精神の糧となる本に使ったほうがいい。食事の場合はもっと安価で同じくらいの栄養価がとれるが、本の場合は代わりがきかない」。また、キャンベルが若かったころ、自身は「金儲けするような手合を侮蔑していた」そうなんですが、後年、そんな不倶戴天の敵たち(?)とも交友を重ねるにつれて、「たとえばアートとか、ビジネスの収益で得たお金の一部でも回すのが、しかるべき使い方ではないか」とも言ってます。この点に関してはまったく同感ですわ。ダ・ヴィンチやベートーヴェンくらいまでの時代で言う「パトロン」みたいなものです。

 ただし、いまの NFT ってのはいただけない。暗号資産ベースで使いにくい。そもそも暗号資産が胡散臭い。昨今、わたしたちの生活を直撃しているドル円為替も真っ青の乱高下相場。そういうリスクマネーというものは通例、地政学的危機やエネルギー危機、政策金利の大幅な引き上げといった金融引き締め政策が開始されると ❝マニー(鬼塚夏美ふうに)❞ の流れが逆回転して、「ミーム株」とか暗号資産みたいな高リスク資産から潮が引くみたいにいっせいに引いてゆくもの。だから現状の NFT は解決すべき課題がまだまだ多いと感じてマス。

 なんか悪口みたいになってしまったけれども、この本に出てくる計算の根拠とか統計に関して補強したい向きは、まずはこちらの本を読んだほうがいいと思うずら。次回はよほどのことがないかぎり、この本について書く予定。今回、紹介した本の評価はるんるんるんるんるんるん

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2022年10月19日

気がつけばグールド超え

 先日、こちらの番組を観まして、カナダの伝説的なピアニストのグレン・グールドが亡くなって今月4日でちょうど 40 年(!)になることを知りました …… ピアニストでは、先月、奇しくもグールドとほぼ同い年でみまかった、ドイツの著名ピアニスト、ラルス・フォークト氏のこととかも思い出されるが …… 幼娘を残しての早逝。さぞ無念だったろうと思う。合掌。

 グールドとくると、あのハミングしながらくねくねと体を動かして、まるでチェンバロみたいにピアノを演奏していた姿が思い浮かぶけれども、ご本人はさっさとピアノ演奏活動を引退して、作曲と指揮をやりたかったとかって伝記本かなにかで読んだ記憶がある。もっとも左利き(sinistral)だったから、指揮される側からすればめちゃやりにくかった、なんて話もあります。たしか最晩年の録音って、リヒャルト・ヴァーグナーの室内管弦楽作品「ジークフリートの牧歌」だったと思う。だからグールドはピアノ弾きとして一生を終えたのではなく、願望どおり指揮者として終えたことになります。

 グールドはとかく奇行癖ばかりが取り沙汰されるきらいがありますけれども、グールドが書いた作品評なり、録音した音源のためにみずから書き下ろしたライナーノーツなりを読むと、びっくりするほど博学で、芸術の本質を深く見抜いていたことにあらためて気づかされる。手許にグールドが録音した、「バード&ギボンズ作品集」という国内盤アルバムがあるんですが、この直筆ライナー(の邦訳版)の四角四面な音楽学者然とした生真面目そのものの考察読まされると、コレがあのグールドが書いた文章なのかって不遜ながら思ってしまう。

 「父さん、ぼくはやりたいと思ったことはだいたいできたと思うよ」。これが、グールドが倒れて、トロント市内の病院に担ぎこまれる前に、父親と電話で話した内容だったようです。当たり前ですけれども、音楽好きとしてはリヒターともども、もっと長生きして活躍してほしかった。バッハ学者の故礒山雅先生はかつて担当していた「NHK 市民講座」の番組内で、「コンサートは死んだ」と演奏会場を捨てて録音スタジオに閉じこもった演奏家としてのグールドを、「不幸だ」と残念がっていたのがなぜか頭にこびりついていて、あれから 30 ウン年経ったいまもグールドの話が出るたびに思い出す。

 でもたぶんそれは磯山先生の勇み足だったように思う。たとえば、DTP(いわゆる打ち込みってやつ)とインターネット上の動画共有サイトの存在。もしあれをグールドが見たらもろ手をあげて喜ぶんじゃないでしょうかね。歌手の Ado さんとか、以前ここでも書いた、ボーカロイドとボカロPさんたちとか。いまや自宅にいながらにして、世界のどこかで視聴しているかもしれない音楽プロデューサー宛てに自作自演の楽曲を届けられちゃうんですぞ。もちろん音楽、ことにクラシック畑は、そりゃ生演奏にかなうものはないですよ。オルガンなんかまさしくそう。あのサウンドを体感するには、なにはともあれ楽器が設置された会場に行かないことには始まらない。

 それでもグールドは、音楽以外の夾雑物をいっさいシャットアウトするために録音という表現を選び取ったんだと思う(ってこれもいつか書いたかもしれませんが)。録音テープの切り貼り(文字どおりのカット&ペースト)までして、自身が理想とする音楽を再現することに徹底的にこだわったグールドの姿勢は、音楽ジャンルは違っても、いまのボカロPさんたちもきっと共感してくれるはずです。と、フト気づけばトシだけはグールドを超えていた(苦笑)しがない門外漢はアタマを掻きながら、みずからの本分に折角精進しようと誓ったしだい。

↓ は、グールド自身が出演した TV 番組用に作曲した「じゃあフーガが書きたいの?」



追記:静岡県東部の街で、オラの住む沼津にも近い裾野市にある市民文化センターでこんなとんでもない事故があったらしい。…… あそこのホールは思い出があって、パリ木(パリ木の十字架少年合唱団)の来日公演をはじめて聴いたのがそこだったし、2011 年初夏に NHK 交響楽団の公演を聴いたのもそこだった。だから今回のような事案はたいへんに遺憾。思うんですが、もしこれが N 響でも、こんな塩対応したんでしょうか? まさかずっと音沙汰なしってことはあるまい。常識を疑ってしまう。水浸しといえば、なんとシドニーのオペラハウスでも似たような事故があったらしい。改装工事中にスプリンクラーが誤作動して …… こういうことってよく起こるんだろうか? 調整中だったコンサートオルガンも被水して、詳細は不明ながら、まだ修復中らしい。※

 1996 年だったか、浜松のアクトシティ中ホールのコンサートオルガンもスプリンクラーの誤作動で冠水、大修理したことがあった。そのとき建造したオルガンビルダーがフランスから駆けつけて、こう悲しげにつぶやいたそうです。「もっと楽器に愛情を持ってほしい」。

 「仏作って魂入れず」じゃないけれども、とかく日本人ってウツワばっか気にして、完成すればあとは良きに計らえみたいなところがあって困る。納税者から「ハコモノ行政」って言われてもしかたない話ではある。

※…… 事実誤認していたため、悪しからず訂正しました。

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2022年08月25日

ヴィヴァルディとバッハ

 まったく久しぶりに NHK-FM がらみで。今週の「古楽の楽しみ」、今年聴取したなかでは個人的にいちばん気に入った特集だったかも(ここんところ『ラブライブ!』シリーズの話題多めで、以前からこの拙い脱線だらけのブログを見てくださっている少数の方がたにとっては、ワタシがすっかり別人になってしまったかのように心配[?]している向きもおられるかもしれませんが、バッハ大好きオルガン大好き路線にはいささかも揺るぎなし、ということだけはハッキリさせておきます。しかしワタシは音楽をジャンルべつに腑分けするというのがそもそもキライで、バッハだろうと Aqours やニジガクだろうと、良いものは良い、という芸術至上主義者でありますのでそのへんはお間違いなく)。

 案内役の先生のおっしゃるとおり、若き日のバッハの「イタリア体験」がなかったら、おそらくいまのわたしたちが知っているようなあの16分音符ペコペコ進行多しみたいな独特なバッハ様式はなかっただろうし、その後の西洋音楽(クラシック)もいまとは異なる方向に発展していたかもしれない。ただ、お話を聞いていて、「え、なんだアレもか?!」とヴィヴァルディ体験の影響を受けたバッハ作品の多さにちょっとびっくりしたり。たとえばけさの放送で聴いた、「教会カンタータ第 146 番」のシンフォニアおよび8声の合唱曲とか。シンフォニアはなるほど、たしかに現存するチェンバロ協奏曲(ニ短調、BWV 1052)の出だしの楽章のパロディ(転用)ですが、8声の合唱のほうは注意して聴いてないと BWV 1052 の緩徐楽章だと気づきにくい。「大規模に発展させた見返りに、ここではヴィヴァルディにあったわかりやすさは犠牲にされている」と先生は指摘されていたが、いやいやこの大規模ヴァージョンの精神的な深さはどうですか。バッハは、シンプルさが多少消えても、「マタイ」や「ヨハネ」を思わせる劇的効果はこれくらい声部を分厚くした対位法書法じゃなきゃダメだ、ということがわかったうえで書いたんだと思う。というわけで、今週はヴィヴァルディの『調和の霊感(L'estro Armonico)』とバッハ作品との相関関係について取り上げてます。



 ヴィヴァルディ体験がもたらした果実は、たとえば以前ここにも書いた、BWV 544 の「前奏曲とフーガ ロ短調」にも現れているという。言われてみればたしかに。前半の前奏曲は、リトルネッロ形式のイタリアバロックな協奏曲を思わせます。そしてバッハは南の代表のイタリア様式と、師匠とも言うべきブクステフーデから学んだ北ドイツの幻想様式(北ドイツ・オルガン楽派)とが渾然一体と化した、「前奏曲とフーガ ホ短調 BWV 548」の巨大なフーガへと発展させる。…… 先生のお話を聴きながら、すこし spine-tingling な気持ちを味わってました。

 ただしヴィヴァルディは、バッハをはじめとする当時の名だたる大音楽家に多大な影響を与えた功績の持ち主らしからぬ最期を遂げてしまったのがいかにも悲しい。彼は 1740 年の春ごろ、ウィーン(ほんとはヴィーン)へと旅立った。最晩年のバッハとおなじく、自分の音楽(彼の場合はオペラ・セリア)が時代に合わなくなったこともひとつの要因となって、新天地を求めた、というわけ。かの地には、あらたにパトロンになってくれそうな神聖ローマ皇帝カール6世がいて、その援助を当てにしたのだけれども、なんとなんとヴィヴァルディのウィーン到着後、ほどなくして皇帝その人が急死してしまった。当然、国内は喪に服すことになったから、現代の新型コロナではないが、音楽どころでなくなった。翌 1741 年、彼もまた病気になり、貧窮と失意のうちに亡くなる。身寄りのない expat だった彼は貧民墓地に埋葬されて、現在、遺骨は行方不明のままです。

 それでも彼の明朗快活な調べはまさしく不朽。バッハやヘンデル、テレマン、ラモー、クープラン、スカルラッティ父子、コレッリなどとともに、バロック時代を代表するヴァイオリンの大家にして大作曲家として、時代を超えていつまでも愛聴されつづけるでしょうね。前にも書いたけれども、歩行器の赤ちゃんがヴィヴァルディの合奏協奏曲を聴かせると、ヒョコヒョコお尻振って喜ぶってのは、どう考えてもスゴいことずら。



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2022年08月18日

けっきょく二元論なのでは…? 

 ジェフ・ホーキンスというすごい方がいる。iPhone もなにもなかった 30 年くらい前、伝説のパームというモバイルコンピュータの先駆とも言うべき携帯型情報端末(PDA)を世に送り出して、「モバイルコンピュータの父」の異名をとり、しかもその後、ほんとうにやりたかった脳の構造を解明する理論構築のため、自前の脳科学研究所を設置したりと型破りどころか、かなりぶっとんだ経歴をお持ちの先生でもあります。

 とはいえ、さてなんでこの本を読もうかと思ったのかさえすでに記憶の彼方に行っちゃっているボンクラな脳しか持ち合わせていない当方なぞ、それこそ月とスッポンなのでどうしようもないわけですが、せっかく読んだのでまた好き勝手に読後感などを書き散らすしだい。たぶん、なにかの記事を訳していたときにこの本の引用が出てきたものと思っていたが、直近の仕事で提出した当方の元訳稿を探してもそれらしいのが見当たらず……? ま、これはどうでもいいマクラですね、失礼しました。

 本の内容は3つに分かれておりまして、まずわたしたちの大脳新皮質の仕組みに関する「1000の脳理論」の解説、つぎにそれを応用した「真の意味での汎用 AI のあり方」について、最後が「わたしたちの脳が持っている知識をいかにして保存するか」、それも人類絶滅後にやってくるであろう知的な地球外生命体に対してどのようにボトルメッセージとして残せばよいか、その方法をかなり具体的に(!)考察してます(以下、引用文の下線強調は引用者)。

 神経科学者が本業の著者先生によると、どうも私たちの「知能」というのは、「大脳新皮質の皮質コラムそれぞれに座標軸があり、各座標軸によってモデルが立てられ、それにもとづいて世界像が作られていくプロセス」なんだそうです。よくあるだまし絵のたぐいも、なぜその絵がそう見えてしまうのかの説明もきわめて説得力に富んで、前半はとても刺激的でおもしろく感じた。ただ一点、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造が気になってはいた。完全に使い物になる汎用AI(AGI)の話は良しとしても、最後の「人間の知能」と括られたセクションの数章は、にわかに首肯できない書き方で、個人的には完全な蛇足とさえ思えた。ま、いくら天才肌の先生でも、いわゆるテクノユートピアン的な発想がよほどお好きな読み手でないと、先生の繰り出す「論理的な推論」、というか完全なる妄想の世界に取り残されて目をパチクリって感じ。そして巻頭から漠然と感じていた、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造がここにきてむくむくとアタマをもたげてくるからさらにタチがよくないときている。

 どこが問題か。たとえば、無思慮な判断や行動(「…専制君主を支えるポピュリスト運動も、人種差別や外国人嫌いのような古い脳の特性にもとづいている」[p. 283]!)の原因が、だいたい「遺伝子の命令に忠実な古い脳」にされちゃっている点。もっとも古い脳も大脳も複雑に結びついていますと書いてはあるんですが、なんかこう、大脳新皮質のつくり出す「幻影(マーヤ)」にすぎないであろう、何万通りもの座標系モデルが映し出すわたしたちの知能の成果とも言うべき知識だけを人類が絶滅したあともなんとしても遺したい、地球外生命体にもぜひ見てほしい。そうお考えのようです。
…… 知的機械をつくる目的のひとつは、人間がすでに行っていることを複製することだろう。コピーをつくってばらまくことによって、知識を保存するのだ。この目的で知的機械を使いたい理由は、私たちがいなくなったずっとあとまで知識を保存し続けることができ、ほかの星のような私たちには行けない場所まで知識を広められることにある。[p. 296]

そりゃたしかにわたしたちは、言ってみれば「138億年前のビッグバンの遠い遠い残響、わたしたちの肉体じたい、究極的には星屑にまでさかのぼれる」んですが、マーク・トウェインが言ったとか言わなかったとかいう、「地球からすれば、人間なんて微生物みたいなもの」的な発言のほうが信憑性を感じてしまうタチなので、つい「かつて存在したホモサピエンスの知識なんて、知りたいと思う地球外高等生物が果たしているのかなぁ」なんて思ってしまうんです。

 この本は読み進めるにつれて、けっきょくお決まりの二元論的な話にはまり込んでいるという印象がどうしても拭えなかった。『利己的な遺伝子』のドーキンスが序文を寄せているくらいだし、似たような傾向になるのはしかたないが、個人的にはこういうところにいかにも西洋人的な傲慢さを感じる。※ なぜコロンブスやマゼランみたいな人があちらの世界から出てきたり、かつての大英帝国みたいに、自分たち以外の非白人・非キリスト教徒の民族からなる国家や地域を支配するまっとうな権利がそなわっていると思ってたりしていたのか。たしかに当時の西欧諸国は政治や経済のみならず、啓蒙思想や人権など、他の民族より優れた思想と、なんと言っても合理主義とルネサンス期以降の自然科学の発展と、それらが後押しした産業革命もすでに経験済みだったから、音楽の世界における楽譜と同様に、いまに至るまで近代文明をリードし、「自分たちこそ世界標準である」との自負がおそらくあるのでしょう。しかし東洋の人間からすると、鈴木大拙師じゃないけど、大脳も古い脳もともに分かちがたく結びついているのであって(ふたつを分離する発想ないし意図がわからない)、一方の上位版の機能のみ持ち上げるってのはどうなんでしょうか。

 人の「意識」は、たしかにその人が肉体的な死を迎えればこの世界から立ち消えてしまうでしょうけれども、ドイツ語で言うところの「時代精神(Zeitgeist)」みたいな集合的な意識というのは確実に残って、後世に伝えられていくと思うんですね。比較神話学者のキャンベルがさかんに強調していた「脳は意識の容れ物」説も、おそらくそんな意味だったのではと思う。テスラ CEO よろしく著者ホーキンス先生もえらく火星移住に熱心なようですが、庶民的発想では、核戦争や気候変動で人間が地球を住めなくしたら、その道義的責任はどうなってんのかってまず思いますね。地球はもう住めない! なら新天地の火星へ移住しよう! そのための火星環境の大改造は汎用 AI たちにやらせてね、みたいな話はどう考えても不遜だし、あまりに人間中心のそしりは免れないでしょう。だいいちそんな地球にしてしまったら、いくら火星コロニーの建設に成功しても子孫に対していったいどんな顔を向ければよいのやら。また、その過程でどれだけの動植物などの生命体が絶滅することか。──こういう感傷まで、まさか「遺伝子の命令に忠実な古い脳」のせいにはしませんよね? 

 著者は「あとがき」で第1部について、「…途中、そこで終わりにすべきかどうか熟慮した。一冊の本に書く内容として、新皮質を理解するための枠組みだけで十分に野心的であることはたしかだ」と書いています。……個人的にはそのほうが何倍もありがたかったかも。「1000の脳理論」を応用した汎用 AI の話なんかはすこぶるおもしろかったですし。

※……ドーキンスが序文で引用している、同業の進化生物学者で認知科学者のダニエル・デネットの近著『心の進化を解明する/バクテリアからバッハへ』の原書(From Bacteria to Bach and Back、2017)は読んだことがある。原書は手許にあるし、日本語版は図書館にあるしで、こちらもいずれは取り上げたい、と思ってもう2年以上が経過した(苦笑)。内容的にははっきり言ってこっちのほうがムズかったずら。「カルテジアン劇場」ってのももちろん出てきます。

評価:るんるんるんるん

posted by Curragh at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2022年07月31日

最近目を引いた記事2題

❶ まずは日経新聞夕刊の連載コラムから、歴史学者の藤原辰史氏による「就活廃止論」という刺激的なお題の記事。少し長くなるけれどもまずは引用から(下線強調は引用者)↓
前任校では3年ほど卒業論文の指導にあたった。他大学の非常勤講師で 20人近くの3、4回生のゼミや卒業論文の指導を受け持つこともある。実は今年も頼まれて、講師を引き受けている。やはり、雑談の話題は就職に関することが多い。数か月教えたことのあるハイデルベルク大学では、日本のように就職で頭がいっぱいの学生に会ったことがない。就職活動を在学期間中にしないからである。

このような経験から、日本政治経済の担い手に提案したい。日本の閉塞状態を打破する劇薬として日本型の就職活動を廃止しませんか。勉強への関心が高まる3回生の夏、多くの学生が就職活動で頭がいっぱいになる。突然、染めていた髪を黒くして、白黒スーツに身を固める。精神が細やかで感度が高い学生ほど過剰な圧迫面接で精神を病み(これまで何度、心を病んだ学生の相談に乗ったことか!)、それをなんとか乗り越えた学生でも労働商品としての自己を見直す過程で、自由な精神の動きを弱めていく。理想に燃えた若者が、こうやって毎年元気がなくなっていくことをもっと自覚してほしい
 このあとに、「大学は専門学校ではない。…… カネで測定される社会の価値判断から身を剥がし、自然と人間の驚異と美に慄(おのの)き、言葉の森に分入る。…… あなたはあなた以外の人に代替できない存在であることの尊厳(人文科学の基本)に触れ、世界の美しさの根源を探る(判断力の基本)。考える時間の多い大学では、人間の精神を事前にふかふかに耕すことができる」とつづく[ちなみに「3回生」という呼び名はなぜか関西の大学で多いようですね]。

 かつてこの島国では、新卒一斉採用のみが有無を言わせずまかり通っていて、それ以外の道を歩んだ若い人はアーティストのタマゴか、画一的な日本社会が敷いたレールから脱落した落伍者として片付けられて一顧だにされなかった時期が昭和〜平成と長らく続いた。海外の学生はどうかと言えば、希望する職種のある会社(ココ重要、日本みたいに「どこどこのカイシャ」で就職するのではない!)インターン、つまり下働き、いまふうに言えば「試用期間」社員として職につくのが一般的。もちろん卒業と同時にヨーイドンみたいな一括採用ではないから、しばらく世界中をほっつき歩いて無銭旅行に出かける者も珍しくない。就職するか、無銭旅行に出るか。すべては当人が自分で決めるんです。

 いまでこそ差別的なニュアンスはなくなったと思うが、1990年代まで、フリーターという呼称にはつねに侮蔑的な響きがあった。当時を顧みると、社会が敷いたレールから外れた人はみな落伍者でありそれは自己責任なのだと、十把一絡げにしてハイそれで解決、みたいな風潮が強かったように感じている(その恐るべき画一性の証拠に、かつて中学生相手に「正社員にならないと年収にこれだけの生涯格差がつきます YO!」みたいな脅迫まがいの出張授業まで行われていた。猫も杓子も、はヘンかな、diversity 全盛時代のいまはさすがにこんなバカげたことやってないと思うが)。

 この手の話を目にするといつも思うんですけれども、ある意味理不尽かつ摩訶不思議かつ非合理的なこの「新卒一括採用」システムにずっと拘泥し、そこにアグラをかいてきた政財界をはじめとする日本社会の硬直性、というか、「ほんとうにこのままでよいのか?」とお偉いさんも含め、だれもモノを考えなくなったことが日本の最大の不幸かと感じます。大学の先生からこういう内容のコラムが発信されたのを見ると、「へ? いまごろ?……」という慨嘆もなくなくはないが、それ以上に、当事者からようやく、それこそが危機なのだという見解を目にすることができたうれしさのほうが勝っているのが正直なところ。

 令和ないまはどうでしょう。ワタシはむしろいまの若い人のほうがチャンスがたくさんあって、うらやましいと思う。終身雇用前提の雇用関係で宮仕えする必要なんてどこにもない。スタートアップの起業家をシリコンヴァレーに派遣云々……という話も聞くけれども、そうじゃなくて、早く大量生産大量消費時代の遺物たる「新卒一括採用」の慣行こそ廃止すべきでしょう(ついでに入試制度もね。卒業が難しい制度こそ大学教育のほんらいの姿だと思っているので。バ✗でもチ✗ンでも全入全卒 OK、なんてそれこそトンでもない話。これとはべつに、大学で教えている内容の問題、それを教えている人の質の問題はあるけれども ⇒ たとえばこちらの本参照)。それから9月入学制にも早く移行すべき。国際化国際化と、掛け声モットーばかりがやたらかまびすしく、そのじつ問題だらけの外国人労働者の雇用環境(と、必然的に移民労働者をどうすべきかという議論)は放置プレイで、気がつけば「失われた〜十年」とか呆けたことを口にする平和ボケな二流三流島国に成り下がってしまった。

 いろいろ注文つけたいこともないわけではないが、いまの若い人は少子化とはいえ、ワタシたちが 20 代だったころに比べてはるかにしっかりした考え方を身につけた人が大多数なので、「こんな国にしやがって」とかクサらず、どうか反面教師として奮起してほしい、と思う今日このごろ。あと、いまの若い人って Twitter はどうなのかわからないが、そのときの気分で発信された発言や意見に振り回されてはイカンと思いますね。コロナワクチンが好例だが、明らかな misinformation もわんさとあるし。あんなもんばっか追っていたら眼精疲労起こすわドライアイになるわ、ストレスたまるわで。週に一度くらいはスマホの画面も目も心も休める休日(海外ではこういうのを screen-free day と言うみたいだが)を作って、山や海に行ったり、「積んどいた」本を読んで一日まったり過ごしてみてはいかが(積ん読に関しては、あまり人のことは言えないが…)。

❷ そんな折も折、こんどはこういう驚愕の話を知った。乳幼児が包丁をにぎって、魚を三枚におろす! 園長さん曰く、「料理を通して、さまざまなものの解像度を上げたり、ものごとの全体を想像する力を身につけてほしい」。

 料理だけでなく、商店街の人たちとの交流など、こうやって育てられた子どもって心身ともにものすごくたくましくて、なにかネガティヴな問題にぶつかっても自分の命を粗末に扱うこともなく、なによりも大所高所からの視点で森羅万象をみはるかす力を持った、すばらしい大人になるだろうと、読んでて涙が出てきた(トシずら)。超がつくほどの少子高齢化進行中のこの島国で、もしほんとうにこの島国と、そこに生きる民族を救いたいと思ったら、参考にすべきはこういう取り組みなのではないかと。「園児の声がやかましい!」とか文句垂れてる手合は、子ども時代にこの保育園の子どもたちのような「想像力」を持つ機会がないまま成人したたぐいのアダルトチルドレンなのだろうと、つくづく思われたしだい。前にも書いたかどうか忘れたが、人としての成熟に年齢なんて関係ないです。

本文とまったく関係ない追記:先日、たまたまコンビニで買った地元紙朝刊(昨年暮れまでに日経電子版に切り替えたから、こちらは購読解約済み)の論壇コラム見たら、またしてもアラが目に付いたのでひと言だけ。温室効果ガス削減の話で、テクニカルには難しい問題がある、ときて、
…… 野球場の例でいえば、LED 照明に替えることで野球場は温室効果ガスの排出を抑制したと主張するし、電機メーカーも削減に貢献したと主張する。同じ行為が二重にカウントされ、排出削減が過大評価されることになる。これをグリーンウォッシュと呼ぶ。[「論壇」2022年7月16日付]

えっと、たとえば「グリーンウォッシュ(見せかけだけの気候変動対策)」、「環境への配慮を誇大にアピールして顧客や投資家を欺く『グリーンウォッシュ』を告発する声も上がっている」との記述が、英 Economist 誌に出てきます。というかこっちのほうが正真正銘のグリーンウォッシュの定義なんですけれども? どこで仕入れたのか知りませんが、なんとまたヤヤコシイ解説をなさるもんです(ほかの執筆陣も相変わらずで、いいかげん世代交代させてやりなさい YO!)。

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2022年06月10日

stars we chase 最高ずら

 いま放映中の『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』2期の第9話。このTV アニメシリーズはどういうわけか3の倍数回、とくにいままでのグループが9人組だったこともあってか、ストーリー展開の重要回が9の場合が多いような印象を受けますが、今回もまさにそんな展開でした。

 個人的にちょっと驚いたのは、全編英語歌詞の挿入歌が披露されたこと。メインで歌唱されるアニソン(いや、前にも書いたが『ラブライブ!』シリーズの全楽曲はもはやアニソンなどではない、と言い切ってよいと思っている)で全編英語歌詞というのは、これがはじめてなのでは? ミア・テイラー(米国の名門音楽家一族の生まれの14歳で、ニジガクには飛び級で3年に編入)は当初、香港からやってきた留学生で自分の「ビジネスパートナー」の鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)のために書いた楽曲を、自分が歌うために「転用(バッハもよくやっていたパロディと呼ばれる技法)」するわけですが、MIDI キーボードでポロンポロンと音出ししていたフレーズ、あれもしっかり楽曲に再現されてましたね。

 それはともかく、あいかわらず攻めているというか、やっぱり『ラブライブ!』シリーズらしいなぁ、と感じたのも事実。『スーパースター!!』の Liella! 5人グループのときもラップ(!)調の楽曲が登場したりと、つぎつぎと新しいことに挑む姿勢は見ていてすがすがしいとさえ感じます。今回の楽曲なんかまんま洋楽、Billboard Hot なんたら、という感じの仕上がりで、向こうの人がなんの先入観もなくコレ聴かされたらブッとぶんじゃないでしょうかね。

 で、その歌詞内容がこれまた刺さりまくりで、このシリーズに一貫して流れているメタメッセージがしっかり歌われているのがまたすばらしい。すばらしすぎて、つい試訳をこさえてしまったほど(後述)。

 じつはこれ、↓ にもあるように、公式さんが限定公開している MV に日本語歌詞が掲載されているんですけれども、こちらに関しては、一部からこんな声も寄せられています。いわく、「公式訳、意訳がすごすぎて原語のニュアンスが伝わらないのでは?」、「stars we chase 試聴動画の訳見てるけど、押韻最優先で書かれてんのか意訳すぎてまったくわからん」……

 また、日本語歌詞が先にあって、それに英語歌詞をアテていったようだという話もあります(真偽のほどは不明、こちらなどが参考になるかも)。

 ワタシも公式さんの公式「訳」を見たとき、こっちがオリジナルで、英語歌詞はそれをベースにしたものではないか、という印象を受けた。双方を比べ読みしてそう思っただけで、なんの根拠もないが …… おおまかな内容はどちらもほぼ同じで(当たり前)、ようは聴く人の好みの問題なんですが、解釈的に引っかかりやすいところがひとつあります。
Shadow walk and dealing, truth inside revealing / Still, a part of me's seeking that feeling
 ここの ‘truth inside revealing’ は、「どうせオラなんてこんなもん」というイジけた気持ちが「現れた」くらいの意味でしょう。そうとらないと直後の歌詞とつながらない。ちなみに c.v. の内田秀さんがこの箇所を的確に説明されていたので、重複も顧みず、ここでも引用しておきますね(発言内容は YouTube で配信されていた、「最新話直前生放送」から)。
(あの輝きは時間とともに小さくなっていった、だから目を閉じたんだ)…… 英語の歌詞もね、“Shadow walk and dealing,”とあるんだけど、「影の中歩いて」、dealing というのがなんだろ、「慣れる」とか、もう長いこと暗闇にいるから(慣れちゃったけど)、でも、“Still, a part of me's seeking that feeling”というのが、一部の自分が、まだその感情を求めてる、ていう。だから、あの輝きを忘れられない、みたいな。……
(また、“It's back and now / Take your hand out, we can reach”のくだりですが、now は take your hand out にかかる。だからほんらいは It's back / and now take your hand out, we can reach となるべきところ)

 本編に「領域展開」して組み込まれた MV もまたすばらしい。暗い部屋(?)の中にぽつんと置かれた空っぽの鳥かごのモティーフは、Aqours の桜内梨子が内浦の海に潜り、求めていた「音」を見つけたときを思い出させるような描写だった。「夜の海の航海」というやつですね(こちらとはまるでカンケイないけれども、昔、『ナイチンゲールのかご』というパリ木の子どもたちが主演した映画があったのも思い出した)。不肖ワタシもすっかりミア・テイラーの熱唱にアテられてしまって、このシングル盤は買うずら、と思ったしだい。というわけで、最後に僭越ではありますが、拙試訳をくっつけておきます。
stars we chase sung by Mia Taylor[TV 挿入歌版]

昔 ぼくは星を見上げて ずっと追いかけてた
手を伸ばせばつかめるって信じてた
でもぼくが思ってたより それはずっと遠くて
あの輝きもずっと小さくて だから目を閉じた

いつだろう 顔をそむけるようになったのは? 
いつだろう 苦しい気持ちばかり大きくなっていったのは? 
いつしか影を見て歩いてた これがほんとの姿なんだと
でも心のどこかで あの輝きを追ってた

きみにささげた音楽に 夢をこめた
それは巡り巡って ぼくの中にもどってきたよ
きみが教えてくれたんだ この光がまぶしく輝く場所を

それはもどってきた
手を伸ばそう ぼくらなら届くよ
解き放たれるときを ずっと待ってたんだ
それはどんどん大きくなって 叫びになる
ぼくらの明日はもっと輝くよ

勇気を出して

あの星にはどんな色も どんな輝きもある
ここから見つけよう
ともに輝こう
きみの輝きを隠さないで



posted by Curragh at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に