2023年08月27日

Barbie

 この夏、物議を醸したことのひとつが、いわゆる“Bubenheimer”。で、オラには関係ないや、なんてのほほんと構えていたら天の配剤(?)か、やむを得ない事情で急遽、鑑賞することに。

 ごく手短に感想を書きますと、作品じたいはとてもよくできていて、配給元はなんであんなバカげた騒動を引き起こしたのかがさっぱりわからない。そしていまやかまびすしい感すらある(皮相的な)フェミニズム云々に偏向することもなく、のっけから『2001年宇宙の旅』のパロディで幕を開けるなど、楽しい仕掛けも盛りだくさん(バービー製造元マテル社の男の CEO が何度か“sparkling”と口にするが、ひょっとしたらこれも米国在住の近藤麻理恵氏のパロディかもしれない。「心がトキメクものだけを残せ」がこんまりメソッドにあると思うが、そのトキメキの英訳に使用されている単語が sparkling)。

 あらすじは、「なにもかも完璧で、毎日が同じことの繰り返し」なバービーランドから、現実の人間世界で起きたある事件をきっかけに、万年ボーイフレンドのケンとともにピンクのオープンカーでバービーランドと現実世界との“結界”を超えて人間の住む現実のカリフォルニア州へと乗り込む。人間世界にやってきたふたりは、バービーランドにいたときには感じなかった疑問に直面し、それがきっかけでバービーランドは大混乱……みたいな展開。結末はなんか人魚姫的にも思えたが、ミュージカル仕立てで(こちらも過去の映画作品のパロディを連想させる)ストーリーが進行するなか、ひとりの女性が、旧態依然な男中心社会がいまだに残るこの世界でどう生きるべきかも深く問いかける内容で、2時間近い上映時間もまったくダレることがなかった。

 ところで主人公バービーが模索した「女性の生き方」、いや、男女のべつに関係なく人としての生き方の参考になると膝を打った本があります。それが、初代バービー人形の着せ替え衣装を米国人デザイナーとともに開発した日本人、宮塚文子さんの回想記『バービーと私』。「ふつうの女子社員に名刺を持たせるということがない時代」に、「自分の時間はすべてバービーにささげました」と胸を張る宮塚さんのこの半世記はすばらしく、心を打たれた(宮塚さんはその後、自身の縫製会社を起業し、志村けん人形(!)やモンチッチ(!!)の衣装作りも担当したという)。

 映画の評価はるんるんるんるんるんるんるんるん

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2023年07月28日

「自分の限界を決めるのはやめます」

 とくにコロナ禍後の、いまの日本(と世界)を見て感じること。それは“All for one”だけを叫び、ご自分の責務(“One for all”)を果たそうとはツユほどにも感じない人が洋の東西を問わず大多数だということです。この OVA 作品は上映時間が短いながらも、世界を変えるとは、自分を変えることという真実をあらためて教えてくれる佳作です。

 このさい一言しておくと、ワタシが一貫してこのアニメシリーズを追っているのは、狭い意味でのオタク根性(C.V. の◯◯さん推しとかのたぐい。基本的にストーリーとキャラクター重視派で、キャラに生命を吹き込む声優さんをはじめ、監督さんやその他制作陣のみなさんは「裏方」であり、主役は「作品」だという作品本位主義)からではない。一連の作品群が、J.ジョイスの『ユリシーズ』(1922)に出てきた「あれが神です」というスティーヴン・ディーダラスの科白を地で行く、音楽主体の「教養小説」アニメだと本気で考えているからだ(だから『ラブライブ! サンシャイン!!』の考察小冊子も書いた)。

 で、ここに書いたのはもうずいぶん前になるけれども、通称アニガサキと呼ばれる TV アニメ版『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の1期と2期も、機会あるごとに繰り返し観てきた(そういえばこの前、某ネット TV にて『ラブライブ!』シリーズ全作一挙配信もあった。現時点で全 104 話、50 時間強というトンデモない分量なので、さすがに一気見はムリだったが)。

 そしてこれは脚本の方向性ないしクセというのにも左右されるかも知れないが、一見、「同好会」という独自の活動を展開しているニジガクのスクールアイドルたちは、「ラブライブ!」という大会からもっとも遠く離れているように見えるが、じつはこのアニメシリーズが終始一貫、訴え続けてきたことをもっともわかりやすいかたちで体現していると個人的には感じている。ぶっちゃけた話、このシリーズでいちばん好きになったのがアニガサキで、われながらこんな展開になって驚いている。Aqours ももちろん好きですよ、なんたって地元民ですし、スピンオフの『幻日のヨハネ』がいまちょうど放映されていますしね。もっともこちらは完全に方向性の異なる「異世界もの」に仕立てられているから、大会としての「ラブライブ!」うんぬんとは直接的な関係はありません。

 というわけで TV アニメ2期の最終話で英ロンドンの短期留学へ旅立った上原歩夢が2週間の滞在を終えて帰国するシーンから今回の OVA 作品は始まります …… で、毎度ここで断っているように、内容に関してはワタシなんかよりはるかに深い洞察を披瀝してくれるブロガーさんたちが一定数おりますので、内容に関してはそちらを参照いただくとして、いくつか印象的な場面を記しておきます。

 またもや「桜坂しずくプロデュース」(?)かどうかはわからないが、のっけから意味深なバラード調の楽曲と、これまでのニジガク同好会の軌跡をたどるかのような MV で始まる(ちなみにワタシは初回を聖地のお台場の劇場で鑑賞してきたので、いまさっき見てきた風景がそのままスクリーンに大きく映し出されていて、いつもながらちょっと不思議な感じがした)。アニガサキを全話観た人ならたちまちピンとくるけれども、この曲を歌っているのは三船栞子・鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)・ミア・テイラーの3人からなるユニット R3BIRTH(リバース)。TV アニメ本編では出番のなかったこの3人組の歌唱で OVA 版が始まるという、すばらしく自然な展開になっていたのが好感できる(さらに、秋葉原・沼津・金沢と他シリーズの舞台までさりげなく出して、おまけに高咲侑や宮下愛らが「おいしいね!」とのっぽパンや寿太郎みかんジュースを味わうカットまであるというサービスの細かさ)。というか、この作品は最初からそんな「神」展開ばかりで、『ラブライブ!』シリーズお得意の風景描写にキャラの心理を重ねる手法も、アニガサキがいちばん洗練されている。ちなみにミアちが MC で言っていたのは、「ボクたちはまだまだ止まらない YO! だからみんなもしっかりついてきて!」だと思う(“We're not stopping here, hang on tight!”)。

 R3BIRTH の登場で、カンのいい人はさてはと思ったかもしれないが、歩夢がロンドンから連れてきたアイラというスクールアイドル志望の子の物語ながら、じつは栞子が抱えていた悩みの解決が果たされる展開で、隠れ主役は栞子だった。これまでの栞子は「適性」というタームで、みずからの無限の可能性を「鳥かご」に閉じ込めていたひとりだった──それを解放するのは誰か? 自分しかいない。
アイラさん。やはり、あなたはわたしに似ています。無理なものは無理って、自分で限界を決めてるところ。
…… 私も自分の限界を決めるのはやめます! だから、思い切り楽しみましょう! 
たしかに世の中、「思ったとおり不条理」というのはどうしてもあるが、それでも頭角を現すような人はいるわけで。差はなにかと問われれば、これまた以前から繰り返し書いてきたことの蒸し返しになるが、「あきらめずに続けてきた」人だけが限界を突き抜けて、「ほんとうになりたかった自分」、「ほんとうにやりたかった仕事」などをつかみとることができるのではないかって思う。トシとってきてますます強くそう感じるようになった。アイラの場合は、たとえ学校の正式な認可が得られくてもダイスキは貫くことができる、ということを栞子から身をもって教えられたところに現実味があり、大きな感動があったのではないだろうか。こういうバタフライ効果が広がれば広がるほど、世界を変える原動力となる。

 また「スクールアイドルの聖地」のひとつ、神田明神の男坂を降りているときの、天王寺璃奈と宮下愛のやりとり──「愛さんは何をお願いしたの?」「これからもみんなと楽しく、スクールアイドルやれますようにって」「わたしも同じ!」──は、今後の展開に影を落とすカジュアルトークかもしれない(来年以降、劇場版3部作として制作が決まっている)。

 そして相変わらず楽曲も攻めていて、いかにもニジガクらしくて最高。まだ ED シングルは買ってないが、冒頭の「Feel Alive」の盤はラジカセの CD デッキに入れっぱなしにして仕事中もかけっぱなしにするほど気に入っている。ラップ系はニガテなはずなのに、なぜかこちら(「Go Our Way!」)は心地よいのが不思議(Oh E Ah Oh Oh E Ah!)。

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 あと本編とはカンケイないが、エンドロールの「発表会」について。自分もメッセージ寄せて応募した身だからそれだけでバイアスが〜とか言われそうだが、この企画、一部の人はお気に召さないようで。個人的にはもうすこしじっくり見たかったのはしかたないとして、こういう企画をアタマごなしにダメとか言う人は、はっきり言って軽蔑する。「◯◯大学でがんばります」「りっぱな教員をめざしてがんばります」「政治家を目指します」「人前でしっかり話せるようになりたい」などなど …… これのどこがいけないというのだろう? 「みんなで叶える物語」で始まったこのシリーズらしい参加企画で無問題ラ! と思いますがね。みなさんのメッセージはいまはあまり見られないけれども、じつに多くの方が真摯に「決意の光」を表明されていて、ワタシもおおいに刺激を受けた口。それに虹ヶ咲学園ですからね。虹ってほら、昨今では diversity の象徴でしょう。なんでもありな寛容さも作品の売りのひとつかと(そういえばつい最近、訳したのがその「虹」のでき方に関する記事だった)。それを自由闊達に表現するには、必然的に「ラブライブ!」大会出場を目指さない主人公たちのストーリーとして描く手法に行き着くわけです。

 蛇足ながらアニガサキの脚本を書いたのは田中仁さんという方で、こちらも大人気ご当地もの TV アニメ『ゆるキャン△』の脚本を書いた方でもある …… のはファンなら百も承知でしょうが、伊豆半島も出てきた2期はとても楽しめた(西伊豆町の黄金崎までまさかの聖地認定)。アニガサキは脚本の秀逸さも光る作品であるのは間違いない。

2023年05月23日

古典が古典と言われる理由

日本を代表する名翻訳家のおひとり、柴田元幸先生がジョナサン・スウィフトの名作『ガリヴァー旅行記』の個人完訳を新聞夕刊に週1のペースで2年間、掲載していたという驚愕の事実を「ラジオ深夜便」(しかも今年1月の再放送)でこのたび知るという …… いくら自分の仕事に追われていたとはいえ、ソレはないやろ、とこれは自分自身への悔悟のセリフ(柴田訳は版元が新聞社のせいなのか、「ガリバー」と中古車販売会社みたいな表記にされているが、ヴィヴァルディを「ビバルジ」と書けないのとおなじで、ここはしっかり v の音写で表記する。ちなみにウィーンよりヴィーンと書きたいのはやまやまながら、こちらはぐっとコラえて慣習に従う)。

 また、柴田先生訳の少し前に出た高山宏先生による新訳版とご自身の訳書とを比較して、「ぼくの訳はお茶の間に届くガリヴァーです」とおっしゃっていたのはさすがだなァと感銘を受けた。「古典は酒。わたしの本は水。みんなが飲むのは水だ」と言ったとか言わないとか、マーク・トウェインのよく知られたアフォリズムが思い出されますね〜。

 ところでこれけっこうな大作でして、こびとのリリパット国の話はつとに有名ながら、巨人の国や馬の国、そしてなんと日本まで出てくる(!)。ほぼ同時期にデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)も出てます。当時は旅行記の体裁を借りた諷刺文学(パスティーシュもの)がもてはやされていたようです。『ガリヴァー』が書かれたのは、柴田先生も言っていたが、バッハの「マタイ(BWV 244)」が初演された前年の 1726 年。大バッハと同時代人でもある、アイルランドの司祭さんというわけ(正確には、アングロアイリッシュ系の人)。「馬の国」に出てくるヤフー(人間もどき)は、たしかポータルサイトの YAHOO! の語源だって聞いたことがある(間違っていたらごめんなさい)。

 原文とまともに向き合ったことがないからこれもはじめて知ったけれども、柴田先生によれば、きわめて現代的な British 英語で書かれているという。スウィフトは召使いに書き上げた分の原稿を見せて、意見を求めたとか。リーダブル重視だったんですねぇ、これもはじめて知った。アイルランドとくれば、20世紀の大小説家ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』があるけれども、そうそう、やはりちょうどこの時代にはローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』というトンデモない散文作品もありますね。日本にはじめて紹介したのがかの夏目漱石という話もしていました。邦訳に際して、柴田先生はパラグラフを自由に切ったとおっしゃっていたのが印象的だった。たいてい海外の純文学ものの翻訳はエンタテインメント系と違って、パラグラフはそのまま尊重して訳すのがふつうなので(海外ミステリもの翻訳も、たいていは原文のパラグラフを尊重しますが)。

 スウィフトが『ガリヴァー』を書いた当時、まさかこれが「古典」の仲間入りして、300 年近く経過した地球でも読みつがれる物語になるとは思ってなかったんじゃないかって思う。いまちょうど Kindle 本としてアーノルド・ベネットのエッセイの邦訳の準備を進めているところなんですが、教養=読書量、つまりなんでもかんでもとにかく活字を読みなさい的な発想はいまだ根強いとも思う。でも ── たいした読書家でもない門外漢が喋々(ちょうちょう)すべきじゃないが ── それってホントなんだろうか? 最近、どうにも挨拶に困る本が増えてるなぁと感じているもので。そんなワタシの困惑は、最近の書評もどきにも表れていると思う。つい最近も、そんな「科学もの」の邦訳文庫本を(仕事で入り用になり、どうしても)買うハメになったし(著者は理論物理学者にして「ネットワーク科学」なるものの提唱者。たとえばラン・ランの演奏にケチつけて音楽コンクールは意味がないと切って捨てたり、絵画のコレクターのくせして美術そのものに価値はなく、美術界における名声しだいで値がつくとかなりの偏向ぶりで、はっきり言って途中で読む気が失せた。そもそも「成功する人・しない人」なんか腑分けしてなんか意味があるんですかね。世渡りがうまいとかヘタとかそんな次元の話じゃないの? だれもが億万長者になれるわけでも、それで確実に幸福でハッピーな人生が送れるわけでもなかろうて[カネ持ちになればなったで強殺される危険も高まる]。これならまだ『サピエンス全史』を読んだほうがマシというもの)。

 最後に、柴田先生が朗読した『ガリヴァー』の記述が心に刺さらない人は世界のどこにもいないだろう。だから『ガリヴァー』は時代を超越して、古典としての永遠の生を獲得したのだと思う。
……(戦争の)原因も動機も無数にありますが、主たるものをいくつかご紹介します。君主が野心家で、統治する土地や人民が、いくらあっても足りないと考える場合。腐敗した大臣たちが悪政に対する臣民の抗議を押さえつけるか、矛先をそらすかしようと、君主をそそのかして戦争に走らせる場合。また、意見の相違がもとで、これまでに数百万の命が失われてきました。たとえば、肉体がパンなのか、パンが肉体なのか。ある種の果汁が血なのか、葡萄酒なのか。口笛は悪か徳か。…… 意見の相違がもとで起きる戦争ほど、しかもそれが些末な事柄に関する相違であればあるほど、戦争は激しく、血生臭くなり、かつ長引くのです。…… 敵が強すぎるという理由で戦争を始める場合もあれば、弱すぎるという理由で始まる場合もあります。ときにはわが国が持っているものを隣国が欲し、あるいは、わが国が欲するものを隣国が持っていて、いずれにせよ、戦え。彼らがわれわれのものを奪うか、われわれに、自分のものを明け渡すかするまで続けるのです。…… ある君主が敵の侵入に対抗しようとべつの君主に支援を請い、支援し敵を駆逐した君主がその領土をみずから奪い取り、支援を要請してきた君主を殺害、投獄、追放することも、王にふさわしい名誉あるふるまいとして頻繁に行われます。

 それでも、「どのように読んでもかまわない。視点を決めないように!」と訳者の柴田先生はしっかりお断りしている。たしかにそれこそが原著者が望んだ「読み方」だったとワタシも思う。I couldn't agree more! 

 ちなみに柴田先生がつぎにとりかかりたい翻訳の仕事は、メルヴィルの『白鯨』とか。ぜひ実現されることを祈念しております。

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2023年02月11日

『公式より大切な数学の話をしよう』

 邦訳書名(原題はオランダ語の Plussen en minnen『プラスとマイナス』)だけパッと見すると、なにやら 10年くらい前に一世を風靡(?)した、米国人政治学者の書いた本っぽくも思えますが、そちらの先生が説いた「政治的な正義の話」より、ダンゼンこっちのほうが目からウロコが落ちるだろうし、役にも立つと思われます。

 著者はなんと! まだ 20 代の若き天才数学者のステファン・ボイスマン氏。といっても、某週刊誌に「私の愚妻が〜」などと差別用語丸出し寄稿文を長年連載しつづけてきた先生のような思想的に偏った人でもありません。「文は人なり」って申しますが、それはオランダ語原文から直接邦訳された訳文からもいきいきと伝わってきます。

 のっけから、「数学は何の役に立つのか」と「そもそも論」からいきなり入る。この手の一般教養書(いまはあまりこう呼ばないのかもしれないが)を手にとる読み手なら、だれしも必ず抱く通過儀礼のようなこの大きなギモンに真正面から切り込んでゆく。しかも著者自身、「本書は、高校時代の自分に向けて書いたとも言えるが」と告白しているように、かつては公式やグラフの使い方を丸暗記する必要がなぜあるのかと、数学の素養もなにもないワタシとおんなじギモンを抱いていたという! 

 こういう経歴の持ち主が書いた本がおもしろくないはずがない。2018 年にオランダ語初版が刊行されるとたちまちベストセラー入りして、日本語も含む世界 18 か国で翻訳出版されているというのもうなずけるお話ではあります。

 数学の本、とくると数式がゴチャゴチャ出てきてイヤずら、という向きはワタシも含めて大多数かと思いますが、この本で出てくるのは高校までに習った図形の面積や円柱などの立方体の体積を求める公式くらい。著者が繰り返し説いているのは、「数学は現実世界と無縁な抽象世界」ではけっしてない、ということ。公式はあまり出てこない代わりに、わたしたちの身近な応用例をこれでもかってくらいにバンバン提示してきて、それこそ息もつけないくらいです。そんな数学の応用例として、いきなり(?)大阪の地下鉄路線が登場したのには目を丸くしたが(p.19、微苦笑)。数学の歴史について書かれた章はまんま人類がたどった歴史でもあるし、それを読めば(ヒトの赤ちゃんには目に映る物体について、すでに足し算・引き算ができる可能性があるとする研究の引用もあったりとこちらもすこぶるおもしろい)、古代メソポタミアやエジプトのような、わたしたちの祖先が築いてきた文明社会から現代社会にまでつづく人類の営みには、使い方の問題はむろんあるが、数学的思考と、数字や計算式といった数学のツールなくしては実現不可能だったことがしつこいくらいに具体例を紹介して語ってくれる(それゆえ古代ギリシャ人が、音楽を数学の一分野とみなしたのも当然の話。この本によると、古代ギリシャ人は自然数をなによりも重視していたそうですが、そのギリシャでピタゴラス音律が生み出されたのもよくわかる話ではある)。

 ワタシももちろん数学が苦手(なのに、なぜか工業系高校だったが。ドイツの数学者ベルヌーイの名前をこの本でひさしぶりに見たときは、「いやぁベルヌーイの定理か、懐かしいずらぁ」ってひとりごちたもの(これはたとえばポンプなど、流体力学系装置の設計に応用される。ついでにその手の文書で head と出てきたらたいていは「水頭」の意味だと思ってよい)。この本には微積分の応用例もたくさん出てくる。橋や自動車や飛行機といった乗り物の安全設計や建物の構造計算、天気予報(数値予報という言い方を聞いたことがあるでしょう)、果ては政府統計でもちいられる経済予測や税制にまで、人間の活動する分野はほぼすべてではないかっていうくらい、微積分のお世話になっていることを力説する。

 数学ってたしかにとっつきが悪い。数字にもいろいろ種類(有理数・無理数・自然数・素数・因数)があり、数学を数学たらしめている最大の要素である抽象性が、さらにとっつき悪さに拍車をかける。けれども、「こんなのなんのために勉強するのか? 学校ではもっと社会に出て役立つことを教えればよい」などというのはただの詭弁であり、危険でさえある実例も引いている。それは確率と統計の話だ。

 確率と統計 ── は、この前ここでも紹介した本がまさにそんな内容だったが、この数学の本にもやはりその重要性と落とし穴が、憶測ではなくしっかりしたファクトにもとづいて書かれている。そして、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックがまだ終息していないいまを想起させるような、 170 年くらい前の話も出てくる。
1850 年ごろ、人々はコレラに苦しんでいた。断続的に流行が繰り返されるなか、感染経路は明らかになっていなかった。原因についてはいくつかの説があり、「悪い空気(瘴[しょう]気)」、つまり悪臭を吸うことで病気になると広く信じられていたが、怒るとコレラにかかりやすくなるという妙な考え方もあった。コレラに倒れることがないように、楽しく穏やかにすごしましょう ── ニューヨークの住人は 1832 年と 1844 年にこんな通知を当局から受け取っている。コレラは水を媒介して感染するのであって、本人が怒っているかどうかは無関係であるという正しい原因を予想した者もいた。(ibid., pp.178−179 )

 21 世紀の人間は、この一節を見てとても笑えまい。

 また統計をめぐっては、相関関係と因果関係をゴッチャにする分析やそれを根拠にしたウソ八百(?)のでっち上げがあとを絶たないんですが、この点についても、「ニコラス・ケイジ(!)と溺死者数の関係」のグラフを引いてたいへんわかりやすく、そして的確な警告を呼びかけてもいる。統計統計ってみなさんすぐ口にするが、トランプ政権時代の司法長官の悪用例(pp. 187−88)のように、これを正確に「読み解く」のは、じつはけっこう難しい(おなじことは、X 線写真、つまりレントゲン写真にも言える。そのせいで少年王ツタンカーメンは「後頭部を殴られて」暗殺された、なんて説がでっち上げられた)。

 そして著者は巻末、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」のアリア主題よろしく、また最初の出発点にもどってくる。
毎日の生活のなかで、複雑な計算式を目にすることはまずない。それでも、これは 15 歳のときの僕に向けて言いたいが、身のまわりにあるものは数学が研究した(ママ)ことの成果なのだ。複雑な構造の建物、天気予報、大量のデータに基づく世論調査や予想、検索エンジンや AI。数学の基本的な概念がわかっていれば、これらのことはもっとよく理解できる。(ibid., p. 249)

 検索エンジンのアルゴリズムとして、Google のページランクの計算原理なんかも出てくるけれども、そうそう、Google 以前の検索エンジンってほんと使いものにならなかった。インターネット黎明期なのだから、それもしかたないとはいえ(イン○トミのことね)、それがいまではなんですか、あの ChatGPT というのは。つい先日、Microsoft が自社のブラウザの検索エンジンに順次搭載するってニュースで報じられてましたけれども、これもまた高度な数学を応用した成果。もっとも危険性はある。こういうことが究極まで進んだ世の中が果たしてよいものかどうかは、数学とはまた違う次元と異なる視点でじっくり考え、検討する必要がある。つまり、そのためにも数学以外の学問は存在するわけでして、文学や音楽といった芸術一般も含め、それを身につける、教養を身につけることがなぜ必要かという問いにもつながってくると思う。これは勉強というより、人はなぜ学ぶ必要があるのかという問いです。古代ギリシャの有名な数学者もまた似たようなことばを残しているけれども、勉強、いや学問というものは、「すぐに役に立つか立たないか」で判断したらぜったいにマズいと思う。それがあるなしで、人の一生が変わってしまうこともありうる。それがあったからこそ生きるよすがとなったというケースもある。ようは、生きるために必要なんですよ。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2023年01月27日

金をかけずに英語の基本を身につけたい人は

 「大西泰斗の英会話☆定番レシピ」と「ラジオ英会話」をおススメします。

 といっても、ステマじゃないよ。ワタシがここでこういうことを書くのはめったになく、書くときはホントに自分がそう思っているから書くんです。とにかくこの番組、だいぶ以前に放映していた「NHK3か月トピック英会話・ハートで感じる英文法」以来のヒット作とさえ思っております。

 個人的には、ちょうど納品したばかりのインタビュー記事にもおんなじこと(そちらは英語ではなくて数学の話だったが)が書かれていたけれども、英語をとくべつ必要とせず、人並みの IT 知識さえあれば、AI(!)支援の最先端の通訳/翻訳アプリもあるし、人力だって問いかければロハ(=只、つまりロハ)で何でも教えてくれるという、その昔バカ高い国際電話料金払って海の向こうのインフォーマントに問い合わせてた、なんて往年の世代からしたらディズニーランド級の夢の世界が IT の進化でいともあっさり実現しちゃってるんだから、文明の利器を利用しない手はない。

 しかしこと英語に関しては、他の外国語に比べてなぜか(?)、「ラクして身につけたい」とか、あるいは逆に、そういう人をカモにした(pace、言い方失礼)詐欺的商法があいもかわらず横行しているのはどういうことなんでしょうねぇ、といつも慨嘆せざるをえない。

 語学留学という手もあるが、あれだって(またまた失礼)けっきょく業界が儲かるからであって、必ずしも払った対価に見合った効果(流暢な会話力とか)が身につくなんて保証はどこにもないんですね、冷静に考えていただければすぐわかりそうなことですが(現地に行って現地民と触れ合うのは貴重な経験ではありますが)。

 では、留学資金もなし、忙しくてそんな時間もなし、それでも最低限の英語力だけはなんとしても身につけたい。そんな方にうってつけだと思っているのが、この番組なのです。

 大西先生の教授法は掛け値なしにピカ一だと思う。とにかく教え方がうまいし、説明の仕方がストンと腑に落ちまくりです。ここでもかなり以前に書いたことがあるけれども、「to 不定詞と ing 形の違い」についてもじつにわかりやすかった。

 というわけで、まことに僭越ではありますが、ここでもすこし大西先生のみごとな講義を補足(いや、蛇足か?)しておこうかと思ったしだい。

 ❶ It is difficult to study English.
 ❷ To study English is difficult.

上記2文、文法的にも正しく、意味もおんなじなんですが、では何が違うのか。大西先生は、「to不定詞句を主語に据えた文だともったいつけて大げさに振りかぶっている感じ」、ようするにオーバーな言い方だと指摘して、ふつうは ❶ を使う、と言ってました。補足すると、❷ だと to不定詞句の主語がダラダラ長くなると、頭デッカチでカッコ悪いんです。❝It is ...❞ といわゆる仮主語(+真主語)構文のほうが、スマートな言い方だと言える。英語では、先頭に来るものがなんでも目立つ、つまり「重要度高」ということになります。だから、❝For​ ​several​ ​years,​ ​Mrs.​ ​H.​ ​T.​ ​Miller​ ​had​ ​lived​ ​alone​ ​in​ ​a​ ​pleasant​ ​apartment​ ​(two​ ​rooms​ ​with​ ​kitchenette) in​ ​a​ ​remodeled​ ​brownstone​ ​near​ ​the​ ​East​ ​River...❞ (カポーティ『ミリアム』冒頭から)ときたら強意構文なので、訳すときは注意が必要になる(時間や場所などを表す副詞句はふつう文尾に置かれる。英語は先頭に来ることばほど目立つ、強い)。

 そしてこれがもっとも大切かと思うんですが、なによりも口に出したときにすっと言える。❝To err is human, to forgive (is) divine.❞ という定型文みたいなのもあるにはあるが、ソレ以外の日常会話で to不定詞から切り出す、という言い方は個人的にはほとんどお目にかかったことがない。ミステリとかも含めて文芸ものに出てくる科白でこういう表現はめったにない、と言い切ってよいでしょう。

 to 不定詞と ing 形の違いは、ずばり「いまそのときの動きが感じられるかどうか」だと思ってます。似たようなことは大西先生も指摘されてましたが、たとえば、

 ❶ He stopped to say hello to Kate.
 ❷ He stopped saying hello to Kate.

で、なぜ文意が反対になるのか。to不定詞は「ing 形と違って動きがなく、これから起こることをただ待っている状態」というイメージ(つまり未来を向いている)。ing 形だと「すでにやっちゃったこと」という動きがすでにあるから、意味的に過去のことを指す、というイメージだと言ってよいと思う。

 「英会話☆定番レシピ」に関してさらに付け加えると、エンディングの前置詞・基本動詞のイメージをとらえる(コアイメージ)ミニコーナー。あれだけ見てもいいくらい。英語の前置詞や基本動詞こそ、日本人がもっとも苦手としているところだから。何度目かの蒸し返しでたいへん申し訳ないけれども、英語学習に関しては昔から「前置詞3年、冠詞8年」って言われてますから、必要最低限と言いながらも、それなりに腰を据えて取り組むことはなんにせよ大事かと思いますね。

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2023年01月05日

「統計」もクリティカルに見よ

 昨年の初夏だったか、日経新聞に広告が出ていたこちらの本。著者は現役の英 FT 紙シニアコラムニストで、BBC ラジオ番組のプレゼンターでもある人。「統計にダマされるな」的なご本かと思いきや、『データ探偵(The Data Detective : Ten Easy Rules to Make Sense of Statistics)』という原書名が暗示するように、統計のウソを暴くことより、統計とはそもそもどんなもので、どのように扱えばよいかを 10 の方法として提示し、論じた本になります。

 たとえば「とっさの感情には注意する」、「俯瞰する」、「背景を知る」……とかはなんか既視感ありあり。「背景を知る」なんて、拙訳書に出てくるクリティカル・シンキングの技術として語られるものですね。なので共通項はかなり多い、という印象がまずあった。「とっさの感情には注意する」では、著者自身の失敗例(グラフの時間軸も確認せずリツイートした話)もさらけだして、その危険性を訴えてます。ほかにもあのフローレンス・ナイチンゲールがじつは「近代統計学の母」的存在でもあったことなどの歴史トリビアも満載で、教えられるところは多い。「公的統計の存在を重視する」では、ギリシャとアルゼンチンそれぞれの公的統計部門のトップが被った妨害工作の事例なんかも暴露されていて、このへんはよくあることですけれども、ジャーナリストたる原著者の腕の冴えが光っている。しかし公的統計の信頼が揺らいじゃったら、それこそわたしたちの生命財産に直結しかねない。そういえばこの国でも、ついせんだって似たような失態があったような …… 。

 ただ、この本を読んでもっとも印象に残ったのは、COVID-19、つまり新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)初期の混乱を記述したくだりです。「疫学者、医療統計学者、経済学者といった現代のデータ探偵たち」が、「生死にかかわる判断を手探りで模索する状態」だったが、「数週間が経つ頃には、彼らの捜査と探索のおかげで、ウイルスの主な特徴と、そのウイルスがもたらす疾病の性質について、多少なりと把握した全体像が浮かび上がってきた」。
無症状の感染者も多数いることがわかった。…… 若者よりも高齢者において大幅にリスクが高いこともすぐに明白になった。感染致死率の合理的な推定値も出た。…… 特に、イギリス国家統計局などの機関が実施・分析する適切な検査の価値はどれほど大きかったことか。パンデミックという戦争において、統計は、いわばレーダーに相当する存在だった。
…… 正確でシステマティックに収集された数字というものを、ふだんの私たちがどれほど当然視しているか、これ以上にありありと描き出す例はほかに考えつかない。…… 私たちは、「嘘、大嘘、そして統計」などと気軽に口に出し、統計のありがたみを軽んじる。今回のコロナ危機は、統計データが出そろっていないと状況がどれほど混乱するものか、私たちにあらためて思い出させている。
 最近、この手の本でときおりお目にかかるのが、tribalism という単語。この本にも顔を出していて、「同族意識」と訳されています。で、たいていこれはどっちかの陣営(同族)から見た「真実」しか見ないというきわめて偏向した態度を助長し、すんなりケリがつくはずの話も尾ひれがついていっそうややこしくして、対立を先鋭化させたりするのですが、そんな陥穽にはまらないためにも統計、とくに公的機関の発表する統計をないがしろにしてはいけませんよということも強調されています。その最たる実例としてやり玉に挙げられているのが、くだんの放言ばっかかましていた米国前大統領の話。しかし、もっとも信頼に足るはずの公的統計も、このような政治的圧力の前に歪曲されるリスクがどこの国にも起こりうることは、引き合いに出したギリシャとアルゼンチンの教訓で警告しています。

 あと、よく言われることですけれども、この手の本にはたいていダニエル・カーネマンの著作『ファスト&スロー』からなにかしらの引用があったりするものですが、この本ではたとえば「出版バイアス」が、公正な研究成果をゆがめかねないものとして出てきます。たとえば、世間をアっと言わせる、意外性のある論文のほうが出版物として世に出る確率が高い、というのも出版バイアスの一例。そのじつ、真に価値あるデータなり統計は、じつに地味ぃ〜なグラフやチャートのほうだったりする(でもこちらはなかなか出版されない)。またそれとはべつに「速い統計」(拙速な集計データによる統計)と、「遅い統計」という用語も持ち出しているけれども、たとえ信頼できそうな「遅い統計」でも、「個人的な印象のほうを信じるべき場合」は、ゼロではない。世の中の問題すべてが数値化され、見える化されて、表計算シートに転記できるものばかりじゃないから(マスク着用問題なんかがそうかも。呼吸器系に問題があると自覚していれば、統計的に問題なくても予防的に着用するのはごく当たり前の行動でしょう)。

 昨今はやりの AI(人工知能)やアルゴリズムについても、新型インフルエンザの予測に失敗した「Google インフルトレンド」プロジェクトを引き合いに出して警鐘を鳴らしてます。こと統計学に関する本にはほとんど縁がない人間とはいえ、やはり統計と無縁では済まされない時代に生きている者のひとりとして、この本は読むべき1冊だと思ったしだい(数式はいっさい出てこないので、その点はご安心を)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2022年12月31日

We are observing your Earth ...

 ウクライナ侵攻に始まり、乱高下するドル円に世界的な景気後退局面入り、終わりの見えないコロナ禍、そしてまたもや台風や風水害、地震や火山噴火などの天災に見舞われた寅年でした。来年は個人的にも大好きな卯(うさぎ、とくにネザーランドドワーフが好き)年ということで、なんとかぶじに、そして飛躍の年にしたいものだと内心、願っております(先日、念願かなって、『ラブライブ! スーパースター!!』の Liella! メンバーのひとり、平安名すみれの実家設定の穏田神社さんにお参りに行って、「茅の輪くぐり」して、御朱印と、「技芸上達守」もいただいてきましたずら)。

 毎年、この時期になると古い欧州の音楽伝統における「クリスマスと新年」が流れる「古楽の楽しみ」ですが、シュッツの「クリスマス物語」、そしてこの時期おなじみの「高き天よりわれは来たれり」(パッヘルベル)、「古き年は過ぎ去りぬ」(バッハ、BWV 614)などのオルガンコラールの名品もかかっていやがうえにもクリスマス気分がアガったのですが、フランスバロックのルイ=クロード・ダカン(1694−1772)が編んだオルガンのための「ノエル集」もまたこの時期よくかかります。でも先日の放送では「ノエル第3番」がかかる前に、MC の先生がなにやらもったいつけて「ある仕掛け」があるから聴き逃さないように、と言っていたのでたぶんアレだろうと思ったら BINGO でした。

 ありていに言いますと、「水笛」というオルガンの自動演奏装置のストップが曲の後半で追加されていた、ということ。水笛はフランスでは「ナイチンゲール」を意味する「ロシニョール」(rossignol)とも呼ばれているのだそうで(こちらは初耳でした)、オンライン辞書でてっとり早く調べてみたら、rossignol にはなんと「売れ残りの本」、「流行遅れの品」なんて意味まであるじゃないですか! 「国家とは怪物である」とかつて喝破したニーチェじゃないですけれども、国家の指導者が誰も望んでなどいない侵略戦争を勝手に起こし、失われずにすんだ人命を殺戮するという、このアナクロ全開な動物以下の業(ごう)は、いつになったら「時代遅れ」になるのでしょうか。

 そんな折も折、やはり NHK-FM のこちらの番組で流れていた「星空に愛を」を、2022 年を締めくくる1曲としてご紹介しようと思ったしだいです。じつはこちらの楽曲、カナダのプログレバンドのクラトゥの作品で、カーペンターズがそれをカバーして 1976 年に発表したものです。…… いかにも '70 年代な「オールヒットレイディオ」なる音楽番組で、「電リク」(もはや死語か …)してきた「マイク・レジャーウッド」なる人物に、DJ がやたらと早口で「リクエストをどうぞ!」とまくしたてて曲は始まる(気温 11℃、番組開始 13 分過ぎ)。
「ワレワレハ、キミタチノ地球ヲ観察シテキタ…」
「あ〜、マイクごめんよ、そういう曲はうちのプレイリストにはないんだ」
「ワレワレハ、キミタチノ地球ヲ観察シテイル ……」
「あ〜ごめんマイク、それはないんだ、あのね ……」
「ワレワレハ コンタクトヲトリタイ キミタチト …… BABYチャン」
[※最後のはミア・テイラーふうにしてみました]

お願い どうか平和的にやってきて
(降り立てばきっとわかる)
わたしたちの地球はもう持たないかも
(だからお願い、来て)
どうかお願い、惑星間お巡りさん
サインをくれませんか? サインを
応答を示すサインを? 
(↑、"Only a landing will teach them" で太字部分がなぜか? love となっている誤記が散見されるため、ご注意。そうとったらそもそも意味がつながるはずもなし)

 まさにいま、この歌詞のまんまな事態に陥りつつあるのは、まことに遺憾ながら認めざるをえない気がする(この前ここで触れた例の本の読後感は年明けに。もうひとつちょっと書きたいこともべつにあるので)。良き新年を。



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2022年11月30日

バッハの無伴奏チェロ組曲

 先週の「古楽の楽しみ」は、バッハの6つの無伴奏チェロ組曲の特集みたいな構成でして、聴いたことがない珍しい音源があったり、じつは「フーガの技法」や「平均律」とおなじく、このケーテン時代の傑作にも「先行例」があったことなど、たいへん興味深く聴取させてもらった。願わくばこの番組も、「らじる」の聴き逃し対応にしてくれませんかね ……

 珍しい音源とは、ちょうど祝日だった先週水曜の回でかかった、グスタフ・レオンハルト自身がチェンバロ独奏用に編曲した版で自作自演した音源のことでして、ワタシはもうずいぶん前になるが、たしか東京芸術劇場で開かれたレオンハルトのオルガンリサイタル(招聘したアレグロミュージックさんの前宣伝には「貴(あて)なる人」とか書いてあった)会場にて購入した、「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」のチェンバロ独奏用編曲自作自演盤なら持っていて、ときおり耳を傾けたりしているけれども、こちらはまったくの初耳。さすがレオンハルト大人(たいじん)、無伴奏ものはヴァイオリンソナタ/パルティータのみならず、しっかりチェロ組曲も鍵盤用に編曲されていたんですね〜、掛け値なしにすばらしいとしか言いようがない(いま探してみたら、鍵盤編曲ヴァージョンの全曲盤もありました)。というか、気がつけば今年は没後 10 年ではないですか。レオンハルトは若かりしころがちょうど第二次大戦真っ只中で、電気も水もなく食料もわずかななかで、音が外に漏れないように練習していたとかどこかで読んだ記憶があります。いままた暗雲垂れこめつつある欧州の現状を、草葉の陰でどう思っているのだろうか。またレオンハルトには、こんなレアものの音源まであるみたいです。

 「無伴奏チェロ」の先行例として紹介されていたのが、ドメニコ・ガブリエッリ(ca. 1650〜1690)という北イタリアのボローニャの音楽家が残した「チェロのためのリチェルカーレ」という曲集のようで、こちらも寡聞にして初耳だった(遅かりし由良之助)。ちなみにこちらのガブリエッリ氏、ヴェネツィアの有名なガブリエリ一族とは無関係の人。バッハはこの人の出版譜かなにかを所有していたのかな? 『バッハ事典』に転載されていた「遺産目録」のコピーとか、あとで確認してみよう。 この「無伴奏チェロ」づくしな「古楽の楽しみ」、かかった演奏者もレオンハルトをはじめアンナー・ビルスマ、そしてバッハのこの作品ときたらぜったいに外せないパブロ・カザルスなど、往年の名手の懐かしい名録音も聴けて、なんだか心洗われる思いがした。

posted by Curragh at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2022年10月29日

お金の使いみち考

 仕事柄、ウラをとるためにいろいろな参考文献を読む(否、読まされる?)ことが多々あるんですが、先だってもこちらの本を読みまして、すこし思うところがあったのでまたしても妄評多謝ということでお願いします。

 著者が主張していることはたいへんシンプルです。慈善事業、たとえば数か月前に来日したこちらの方が奥さま(当時)と設立した超がつくくらい有名な財団とかに寄付する場合、キャッシュフローや費用対効果(B/C または ROI)もすごく大事、だからくれぐれも大切なあなたのお金がほんとうに世の中に役立てられているか、貧困にあえいでいる人びとの援助に有効に充てられているか、批判的に考えて(これまたクリティカル・シンキングですかね?)からにしましょうね、というもの。

 著者はなんと! 28 歳であのオックスフォード大学の哲学科准教授となった俊英で、たしかにそのとおりでございます、と最初は思いました …… でも、とくに6章の内容はオラのアタマではやや大きなハテナマークがついてしまい、そのまま呑み込むのも気分悪いからこの場を借りて吐き出してみようと思ったしだい。たとえばこんな一節はいかがですか? 
…… ベンジャミン・フランクリンは 1790 年、アメリカ議会に奴隷制廃止を嘆願する書簡を記した。議会はこの嘆願について2日間議論した。奴隷制の支持者たちからはとめどない反論が押し寄せた。…… それでも、奴隷制は撤廃され、今ではそうした反対意見を養護するのは不可能だ。女性、黒人、LGBT の人々の権利向上を訴えてきた活動家たちの行動が正しかったといえるのは、すぐに成功する確率が高かったからではなく、成功した場合の見返りがあまりにも巨大だったからなのだ。(p.99)

下線部を読んで、「ちょっとなに言ってんのかよくわかんない」とツッコミたくなった。ことばのあやってやつかもしれない。しかしこの本はそこここにこの手の功利主義的な発想が顔を出していて、その点、誤解されぬようにということなのか、巻末注にも「効果的な利他主義」と功利主義は似て非なるものだと先回りして断ってもいるが、こういう「活動家」の人たちは、そもそも見返りなんて期待すらしていない(はず)。みずから信じるところこそ、世の中をより良くするはずだ! そういう内なる理想を追求する情熱に突き動かされておのおの活動しているものだと思いますけれどもね。原文見てないからなんとも言えないが、ここは個人的には「直感に反する(counterintuitive)」箇所で、経験とも反して引っかかってしまった。

 引き合いに出したのは、政治家になるべきかどうか決めかねて、著者(この手の意識高い系の後輩が進むべきキャリアに関してコーチングもやっている人)にお伺いを立てに来た女子大生の話のくだり。彼女は、どうすれば世のため人のためになる費用対効果が最大化されるキャリアに就けるのか、「寄付するために稼ぐ」か、政治家になって影響力を直接振るえる立場の人間になるか、どっちがよいかわからない、と著者に助け舟を求めているわけなんですが、有権者の立場から言わせれば、まだなんの経験もないヒヨッコ同然の(失礼)世間知らずの高学歴なだけの人に投票しようなんてぜったいに思わないですね、悪いけど。ワタシが著者の立場だったらこう訊き返しますわ。「あなたの政治家になりたいという志には、そのていどの覚悟しかないのか?」って。政治家にほんとうになりたい若者には、キルケゴールばりに「あれか、これか」なんて迷いはないでしょう。

 なんかこう、この本は全編が費用対効果のモノサシしかないんです。慈善事業だって人さまからカネを集めて行うりっぱなビジネスだ。だからキャッシュフローを見て、「行っている活動がほんとうに世の中を良くすることに寄与しているのか、現地の人の役に立っているのか、ワタシのおカネはほんとうに役立てられているのか」という視点に立って寄付するのは、ひじょうに重要だと思う。いくら非営利の慈善事業だからって、寄付している人はある意味、投資家とおんなじだし。ただ、「その事業内容は人さまや世の中を変えるためにほんとうに効果的か?」というモノサシだけで十把一絡げにされては当事者はかなわないんじゃないかって思ったりもする。新型コロナウイルスのメッセンジャー RNA ワクチンが好例だと思いますよ。このワクチン、なんか急ごしらえに作られたみたいな都市伝説(?)が一部でまことしやかに流布していたりするんですが、事実ではない。開発にはじつに 30 年もかかっていて、実用化まであともうちょい、のタイミングでまさかのパンデミックになっただけの話。だから世の中、なにが役に立つかなんて最後までわからんものだ、とここにいる門外漢は考える(そのワクチンのおかげで、いまこうして書いていられる。オラはもう4回め打ったずら)。

 ただ、当の女子大生からすれば、不安だったからそう尋ねたんでしょう。それだったら引用もされている、スティーヴ・ジョブズが 2005 年にスタンフォード大学で行った卒業生へのはなむけのスピーチの引用のほうがよっぽどマシかと思う。この本では、「あなたの夢と情熱」にやみくもにこだわると、かえって道を誤る恐れがある(ダ・ヴィンチも言ったとされる、「できることとやりたいこととのギャップ」を指摘している)とジョブズのスピーチを批判的にとらえ、ジョブズ自身もまた日本で禅僧になろうとしていたりと行きあたりばったりを繰り返したすえ、「しかたなく」入ったコンピューター業界で道が開けた、みたいなふうに書いてありますが、だからって自分の心の声を聞かなくていいということにはならない。どんなキャリアに適性があるかなんて、本人もよくわからない。でも、ほんとうにやりたいことは捨てるべきではないと思う。「これがなければワタシは死ぬ」くらいの覚悟があるのなら、どんな嵐にも動じないだろうと思うから。というかこの本の後半では、試行錯誤を奨励してもいるんですよね …… 費用対効果の最大化ガ〜と言っているかと思えば返す刀でこう来たりと、よくワカリマセン。

 たとえば、この先、どうしようかと白紙状態の人が費用対効果式の計算のみで晴れて弁護士になったとしましょう。もちろん世の中には良い弁護士もいれば、弁護士の風上にも置けないトンデモナイ輩もいる。アメリカだったら、後者のほうが多いかもしれない(訴訟大国だから、ようするに儲かるんです)。もし就職先がそんなトンデモ弁護士事務所だったとしたら、はたしてこの若き弁護士は「ほんとうに世のため人のため」の働きをしてくれる、りっぱな弁護士になるでしょうか? 

 けっきょくそれを最終的に左右するのは法律の専門知識ではなくて、哲学だったり文学だったり歴史だったり、まったくカンケイがなさそうに見え、本業になんの役にも立たないと一般には思われているムダな「教養」をどれだけたくさん身に着けているかどうかだとオラは思ってます。

 会話のおもしろい人っていうのは間口が広い。アメリカはよくパーティー文化の国、パリピ連中ばっかでお付き合いするだけでクタクタになる、とは、かつて日系企業の駐在社員さんたちがこぼす定番のネタみたいな話でしたが、ほんとうに英語ができる人というのは、話がシェイクスピアから『空飛ぶモンティ・パイソン』にトンでも会話のキャッチボールを自分なりに相手に返せる人です。弁護士の実例では、昔、TV でこんな趣旨のすばらしい答えを返した米国人青年弁護士がおりましたよ──「ぼくは、世の中の弱い人たちをひとりでも多く救いたくて弁護士になった」。

 話をもとにもどして、明日は比較神話学者ジョー・キャンベルの命日。で、その次がみなさんお待ちかねの ❝Trick or treat!❞ な日なわけですが(⇒ こちらの拙記事)、キャンベルはお金の使いみちについて、こんな趣旨のことを講演で話してます。「食事にお金を使うより、精神の糧となる本に使ったほうがいい。食事の場合はもっと安価で同じくらいの栄養価がとれるが、本の場合は代わりがきかない」。また、キャンベルが若かったころ、自身は「金儲けするような手合を侮蔑していた」そうなんですが、後年、そんな不倶戴天の敵たち(?)とも交友を重ねるにつれて、「たとえばアートとか、ビジネスの収益で得たお金の一部でも回すのが、しかるべき使い方ではないか」とも言ってます。この点に関してはまったく同感ですわ。ダ・ヴィンチやベートーヴェンくらいまでの時代で言う「パトロン」みたいなものです。

 ただし、いまの NFT ってのはいただけない。暗号資産ベースで使いにくい。そもそも暗号資産が胡散臭い。昨今、わたしたちの生活を直撃しているドル円為替も真っ青の乱高下相場。そういうリスクマネーというものは通例、地政学的危機やエネルギー危機、政策金利の大幅な引き上げといった金融引き締め政策が開始されると ❝マニー(鬼塚夏美ふうに)❞ の流れが逆回転して、「ミーム株」とか暗号資産みたいな高リスク資産から潮が引くみたいにいっせいに引いてゆくもの。だから現状の NFT は解決すべき課題がまだまだ多いと感じてマス。

 なんか悪口みたいになってしまったけれども、この本に出てくる計算の根拠とか統計に関して補強したい向きは、まずはこちらの本を読んだほうがいいと思うずら。次回はよほどのことがないかぎり、この本について書く予定。今回、紹介した本の評価はるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2022年10月19日

気がつけばグールド超え

 先日、こちらの番組を観まして、カナダの伝説的なピアニストのグレン・グールドが亡くなって今月4日でちょうど 40 年(!)になることを知りました …… ピアニストでは、先月、奇しくもグールドとほぼ同い年でみまかった、ドイツの著名ピアニスト、ラルス・フォークト氏のこととかも思い出されるが …… 幼娘を残しての早逝。さぞ無念だったろうと思う。合掌。

 グールドとくると、あのハミングしながらくねくねと体を動かして、まるでチェンバロみたいにピアノを演奏していた姿が思い浮かぶけれども、ご本人はさっさとピアノ演奏活動を引退して、作曲と指揮をやりたかったとかって伝記本かなにかで読んだ記憶がある。もっとも左利き(sinistral)だったから、指揮される側からすればめちゃやりにくかった、なんて話もあります。たしか最晩年の録音って、リヒャルト・ヴァーグナーの室内管弦楽作品「ジークフリートの牧歌」だったと思う。だからグールドはピアノ弾きとして一生を終えたのではなく、願望どおり指揮者として終えたことになります。

 グールドはとかく奇行癖ばかりが取り沙汰されるきらいがありますけれども、グールドが書いた作品評なり、録音した音源のためにみずから書き下ろしたライナーノーツなりを読むと、びっくりするほど博学で、芸術の本質を深く見抜いていたことにあらためて気づかされる。手許にグールドが録音した、「バード&ギボンズ作品集」という国内盤アルバムがあるんですが、この直筆ライナー(の邦訳版)の四角四面な音楽学者然とした生真面目そのものの考察読まされると、コレがあのグールドが書いた文章なのかって不遜ながら思ってしまう。

 「父さん、ぼくはやりたいと思ったことはだいたいできたと思うよ」。これが、グールドが倒れて、トロント市内の病院に担ぎこまれる前に、父親と電話で話した内容だったようです。当たり前ですけれども、音楽好きとしてはリヒターともども、もっと長生きして活躍してほしかった。バッハ学者の故礒山雅先生はかつて担当していた「NHK 市民講座」の番組内で、「コンサートは死んだ」と演奏会場を捨てて録音スタジオに閉じこもった演奏家としてのグールドを、「不幸だ」と残念がっていたのがなぜか頭にこびりついていて、あれから 30 ウン年経ったいまもグールドの話が出るたびに思い出す。

 でもたぶんそれは磯山先生の勇み足だったように思う。たとえば、DTP(いわゆる打ち込みってやつ)とインターネット上の動画共有サイトの存在。もしあれをグールドが見たらもろ手をあげて喜ぶんじゃないでしょうかね。歌手の Ado さんとか、以前ここでも書いた、ボーカロイドとボカロPさんたちとか。いまや自宅にいながらにして、世界のどこかで視聴しているかもしれない音楽プロデューサー宛てに自作自演の楽曲を届けられちゃうんですぞ。もちろん音楽、ことにクラシック畑は、そりゃ生演奏にかなうものはないですよ。オルガンなんかまさしくそう。あのサウンドを体感するには、なにはともあれ楽器が設置された会場に行かないことには始まらない。

 それでもグールドは、音楽以外の夾雑物をいっさいシャットアウトするために録音という表現を選び取ったんだと思う(ってこれもいつか書いたかもしれませんが)。録音テープの切り貼り(文字どおりのカット&ペースト)までして、自身が理想とする音楽を再現することに徹底的にこだわったグールドの姿勢は、音楽ジャンルは違っても、いまのボカロPさんたちもきっと共感してくれるはずです。と、フト気づけばトシだけはグールドを超えていた(苦笑)しがない門外漢はアタマを掻きながら、みずからの本分に折角精進しようと誓ったしだい。

↓ は、グールド自身が出演した TV 番組用に作曲した「じゃあフーガが書きたいの?」



追記:静岡県東部の街で、オラの住む沼津にも近い裾野市にある市民文化センターでこんなとんでもない事故があったらしい。…… あそこのホールは思い出があって、パリ木(パリ木の十字架少年合唱団)の来日公演をはじめて聴いたのがそこだったし、2011 年初夏に NHK 交響楽団の公演を聴いたのもそこだった。だから今回のような事案はたいへんに遺憾。思うんですが、もしこれが N 響でも、こんな塩対応したんでしょうか? まさかずっと音沙汰なしってことはあるまい。常識を疑ってしまう。水浸しといえば、なんとシドニーのオペラハウスでも似たような事故があったらしい。改装工事中にスプリンクラーが誤作動して …… こういうことってよく起こるんだろうか? 調整中だったコンサートオルガンも被水して、詳細は不明ながら、まだ修復中らしい。※

 1996 年だったか、浜松のアクトシティ中ホールのコンサートオルガンもスプリンクラーの誤作動で冠水、大修理したことがあった。そのとき建造したオルガンビルダーがフランスから駆けつけて、こう悲しげにつぶやいたそうです。「もっと楽器に愛情を持ってほしい」。

 「仏作って魂入れず」じゃないけれども、とかく日本人ってウツワばっか気にして、完成すればあとは良きに計らえみたいなところがあって困る。納税者から「ハコモノ行政」って言われてもしかたない話ではある。

※…… 事実誤認していたため、悪しからず訂正しました。

posted by Curragh at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連