2020年02月20日

『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 先週末、前にも書いたとおり『スター・ウォーズ エピソード9』と『ラブライブ! サンシャイン!! Over the Rainbow』の 11 回目鑑賞をしてきたばかりというのに、こんなニュースがそれこそ「藪から棒」に飛びこんできた。

 まず結論から申し上げると、個人的には猛烈に怒っている。というか、いまから 85 年前にスペインの思想家オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)が代表作『大衆の反逆』で書いたような、そのまんまの展開に戦慄さえ覚えた。こんなことを野放しにしていたら、芸術文化活動全体に波及しかねない。というわけで、この悲しいニュースを知ってからはずっと悶々として過ごすこととあいなってしまった。

 こんな「フェイクニュース」の発信源はだれか、はこのさいどうだっていい。知っている範囲で書くと、「多様性」と HN に謳う一個人が、悪名高き SNS の Twitter(ほら出た …)上で、「なんでこのポスターに描かれている女の子のスカートは透けているの…?」とじつにかる〜〜い、のほほんと発信した一文がことの発端。するとこの「声」に呼応するシス・エターナルよろしく、非難の声が澎湃(どうせ読めないだろうからルビィちゃんふっとくわ、「ほうはい」ね)と同 SNS 上で沸き起こり、とうとう当事者の JAなんすん(ご苦労さまです)がすべて撤去した、というもの。フェミニストだかなんだか知らんが、この人たちの炯眼ぶりには『トムとジェリー』じゃないが、アゴが地べたにくっつくほどに、まっこと驚くほかなし。JA さんにはせめて、「安心してください、穿いてますよ!」のユーモアひとつくらい、あってもよかっただろう。

 彼らの主張ないしその結果について、問題点がいくつかある。まず、1). 非難の矛先を向ける先をまちがえている。「描き方が不穏当」と言いたければ、どうぞ制作会社にその旨お伝えください。不特定多数の第三者に向かってこういう不用意な発言をして知らんぷり、というのは、まさにオルテガの言う無責任な「大衆」そのもの。いや、これは「一億総トランプ化」なのか(ワタシが小学生だった当時、下田市にやってきたジミー・カーター元米国大統領は現職大統領に対し、「Twitter をやめろ!」と言ったそうな。むべなるかなではある)? 
…… 社交においては「礼儀作法」が姿を消し、文学は「直接行動」として罵詈讒謗に堕している。……
 手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理! これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。…… 文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこっていた時代であったのである。
──── オルテガ・イ・ガセット / 神吉敬三 訳『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫刊、いつものように下線強調は引用者)から

 2). 「表現の自由」=何を言ってもかまわない、匿名なら何を言ってもおとがめなしと思いこんでいる。かつてアイルランドのケルト人氏族は、人間のことばの持つ力をたいへん恐れていた。相手を呪えばその呪いが矢となって相手を射抜くとさえ考えていた。ひるがえって SNS 全盛のいまはどうか。情報が情報が、と言いながら、そのじつ情報の最小単位たる「ことば」がこれほど軽んじられ、悪用されている時代などかつてなかったのではないか。Twitter に関してはホントは言いたいことがいろいろあって、それはまた別の機会に書くつもりだが、よく耳にする「災害時に威力を発揮する」なんていうのも幻想に近い。最近の身近な例を引くと、台風 19号が伊豆半島に上陸したとき、「狩野川の氾濫が始まったようだ」というデマを見かけたことがある。北伊豆地区を中心にたしかに甚大な浸水被害は出たけれども、じっさいには「内水氾濫」のたぐい。狩野川の堤防はしっかり持ちこたえていた、なんてことがありました。こっちも垂直避難を考えていた矢先だったので、さすがにこのツイートには凍り付いたが、こういうときにもっとも役に立つのは TV の「データ放送」だ、ということを再認識させられた。もっとも Twitter だってツールですので、「助けてくれ!」と発信すれば、だれかの目に留まる可能性はある。でも、個人的にはこういうじつにクダラナイことでただ無益に時間を浪費するだけの壮大な資源と労力の無駄遣い、という印象しかない。人生はあっという間に終わるよ。

 以前、おなじ SNS 投稿の内容でも Twitter と Instagram でその反応が正反対になった、という海外のおもしろい報道を読んだことがあります。前にも書いたかもしれないが、写真好きなワタシは Instagram はけっこう好きでして、ヒマなときはよくみなさんの作品とか見ていたりする。おなじ SNS でなんでこうも反応が分かれるのかっていつも感じるんですけど、ひとつは「文字ならだれでも表現可能で、すぐ反応があるから」というのがその根底にあるように思う。写真ってだれでも撮れるようでいて、そうでもない(もっとも、日本人だから日本語の文章を書くのはかんたんだ、と思ったらそれはちがう。いまじゃ漢字も知らず、「心のおけない」も誤解する読み手が大多数で、国籍不明語ばかりが跋扈する)。

 3). 一連の示威行為は威力業務妨害。一部の悪質なクレーマーのせいで、ほんらい、果たすべきタスクが正常に終わらない、もしくは遅延を被った場合、これは威力業務妨害ではないのか。あろうことか、弁護士を名乗る人間まで、「スカートが透けている」に乗っかって攻撃している。そこで先生方にお尋ねしますが、あなたがた、高海千歌のスカートが「透けて」いるのはだれが見てもまぎれもない「事実」でしょうか? あるいは、この PR ポスターのせいで、だれかが明らかに損害や苦痛を被りましたか? 法廷ではこういった事実の「証明」が必須かと愚考しておりますがいかが? もしあなたがたが証明できない場合、あきらかな「誹謗中傷」に当たりませんか? 弁護士って人権とか差別とか、まずもって弱者を擁護する側であって、「多数という驕り(「100分 de 名著」NHK テキスト『大衆の反逆』の表紙から)」に味方することではないと思いますがいかがですか。

 最後に、この『ラブライブ!』シリーズを誤解している向きがホント多くてそっちにも驚いている。聖地民のひとりとしてこの作品を通じて個人的に感じたこと、それは劇場版『Over the Rainbow』で Aqours のメンバーのひとり、渡辺曜のいとこの渡辺月の科白とまったくおんなじことだ。
気づいたんだ。ぼくたちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことを Aqours が、Saint Snow が気づかせてくれたんだよ。ありがとう ……

 2018 年の暮れ、Aqours の声優さんたちが紅白のアニメ枠で出場したとき、さる女性芸能評論家が作品を観たこともないのに、「メイドカフェみたいな格好で出場するとはどういうことだ」とコキおろしていたことがあった。こういうのを偏見差別と言うんじゃないですか。オタクがどうのこうのとのたまうのも侮蔑表現やね。あなたたち一度、ここ沼津に来て視察でもなんでもすればよろしい。地元の人間からクレームが出ていないのに、あることないことないまぜにしてフェイクニュースをばら撒き、せっかく築き上げてきた「宝物」をこれ以上、ぶち壊しにする権利などだれにもないはず。この作品をきっかけに結婚された方、移住された方、写真をたくさん撮って地元民でさえまるで気づいていなかったすばらしさを表現してくれた方、ドイツやポーランド、香港からはるばる「なにもないところ」だと思いこんでいたこの街に「まちあるきスタンプ」や缶バッジをたくさん付けて観光に来てくれる海外のファンに対し、失礼だと思わないのか。また彼らは、長井崎のすぐ下の入り江に停泊していた「スカンジナビア」号の思い出さえ、蘇らせてくれた(「浦の星」の「星」は、おそらくスカンジナビアのもとの船名「ステラ・ポラリス[北極星]」からではないかと言われている。また TV アニメ第2期オープニングに登場する「桟橋」状の背景も、かつてスカンジナビアにつながっていた桟橋がモデルらしい)。それが、自称「おもてなし」精神の民族の態度なのか。片腹痛い、片腹痛いですわ! 『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 不肖ワタシだってこの作品に出会い、芹沢光治良から内浦の地理・歴史にいたるまで、制作スタッフのリサーチの本気度の高さに心打たれて、こちらの記事でも書いたように、『《輝き》への航海 ── メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』という小冊子まで書いてしまった。それもこれもみな、「楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ」ということを教えてもらったからだ。
「生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から
 ひとつ補足事項。Aqours の前の物語の主人公 μ's を描いた『ラブライブ!』でも、やはりネットのデマで炎上した案件があったらしい。また、「卑猥だ」と言っている人は、こちらのキャラについてはどう思ってんのだろうか。

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2020年02月17日

'Some things are stronger than blood.'

 先月と今月、劇場の「サービスデイ」にて『スター・ウォーズ』サーガの最終エピソード、「スカイウォーカーの夜明け(もちろん「字幕版」で)」を観てきました。きみまろさんじゃないがこれでもかれこれ 42 年、日本初公開作だった「エピソード4 新しい希望」以来、『スター・ウォーズ』シリーズはずっと映画館で観てきた口なので、「ああ、これでやっと終わったか」という安堵のほうが大きかったりする。壮大な物語の結末を生きて見届けることができて、まずは感謝、といった気持ちが正直なところ。

 で、のっけからなんですけど、なんですかコレは、え? みたいな話の展開。銀河帝国元皇帝パルパティーンが生きていたですと ?¿! おなじみのタイトルロールからして 'The dead speak!' なんて思わせぶりな一文で、すべてちゃぶ台返し(古いか)で始まった感じ。でもよくよく見ると当のパルパティーンはなにやら生命維持装置みたいな機械にスパゲティ状態でつながっているわ、白目むいているわで、いわゆる living dead、生ける屍状態なのかしらとも思った。どうもシスのアジトのエクセゴルという惑星は、シスのカルトたちがパルパティーンのクローンかなにかを用意していて、マスター・ルークの父親アナキン・スカイウォーカーにもどったダース・ヴェイダーによって第2デススターの底なしリアクターシャフトに投げ落とされ、「自爆」したはずのパルパティーンの「霊魂」をこっちの不完全なクローンに転送した … のかもしれない(あまりに唐突な展開だったので、作中のレジスタンスの科白などから推測するにどうもそういうことらしい)。で、このゾンビなパルパティーンはその証拠にラスト近くで「ほんらいの自分」を取りもどしたベン・ソロとレイの若いふたりからエネルギーを「吸い取って」パワーアップ。しかもいつの間にか生命維持装置を離れて自分の足でしっかり立って、はるか上空に展開するレジスタンスの船団に向かって強烈な電撃攻撃を仕掛けたりする。

 今作はワタシのようなオールドファンから見ると、懐かしい科白があっちこっちで顔を出していたり(「イヤな予感がする['I have a bad feeling about this.']」、「フォースのダークサイドは超常的にも思える多くの能力に通じておる['The dark side of the Force is a pathway to many abilities some consider to be unnatural.']」とか)、これまでの要素ぜんぶ出しの大盤振る舞い、みたいなファンサービス? も観ていて感じましたね。

 このシリーズでは超有名な「フォースとともにあらんことを['May the Force be with you.']」のような印象深い科白、心に刺さる名科白がたくさん生まれてもいますが、最終章ということだけあって、今作もまたけっこう印象的な言い回しが多かった気がする。たとえばルークがレイに語りかけていた場面で出てくる「血のつながりよりも強いものがある('Some things are stronger than blood.')」、かつての同盟軍将軍ランド・カルリジアンの「われわれには仲間がいた。だから勝てた['We had each other. That's how we won.']」、C-3PO が全記憶を消去される直前に繰り返した「この作戦が失敗すれば、いままでやってきたことすべてが無になってしまう['If this mission fails, it was all for nothing. All we’ve done. All this time.']」とか。

 あとやはり「自分はシスのすべて」だと言い放つパルパティーンに対し、「わたしはジェダイのすべて」だと言い返したレイとの直接対決が印象に残ったかな。フォース+「それまでの戦いで斃れた全ジェダイ騎士の霊」とに支えられて「立ち上がった」レイが、ベンから受け取ったレイアのライトセイバーとルークのセイバーとを「十文字」にして立ち向かう。またしても自分の放った強烈な電撃をハネかえされ、逆にそれをモロに喰らって、なんか最後はシェイクスピアに出てくる 'hoist by one's own petard' という表現そのまんまか、あるいは断末魔を上げつつ吹っ飛んでしまうパルパティーンの正真正銘の最期の描写が、まるで古代ギリシャ悲劇もどきにも思えたり。ついでにエクセゴルのパルパティーンのいた場所ってずいぶん地下深く、というか地底王国の最深部みたいなところでしたね。あれなんかもたとえばダンテの『神曲 地獄篇』っぽい感じがしないわけでもない。中世ヨーロッパでは「ルシファー[Lucifer、もとは「光をもたらす者」の意]」がいた場所が地上楽園の対蹠地にして当時考えられていた地球の最深部に位置するインフェルノ、火炎地獄だったけれども、エクセゴルのシス拠点は「光をもたらす」とは真逆の闇の深淵。このへんも、どこかメタファー的な描写手法、のような解釈も可能かと思う。

 で、今作のストーリーとまったく関係ない余談ながら、レイがシスの権化たる自分のじいさん(!!!)をやっつけてしまうシーンは、これまたどっかで観たことがあるような … そういえば昔、ドラキュラ伯爵とその宿敵、ヘルシング教授との対決が、まさしくこんな感じだった。なんでかってあの「十文字」に結んだライトセイバーがね …… で、かつてドラキュラ役で出演した故クリストファー・リーと、ヘルシング役の故ピーター・カッシング、お二方ともなんと、『スター・ウォーズ』シリーズにしっかりと出ているんですよね。カッシングについては、旧帝国軍のターキン提督役を覚えている向きも多いと思う。

 いろいろ映画の感想とか拝見しますと、「けっきょくパルパティーン家 x スカイウォーカー家」の対決の系譜に全銀河が巻き込まれただけじゃん、みたいな見方もあって、たしかにそういうふうにも見えるかもしれないけれども、むしろこの「エピソード9」でもっともつよく訴えたかったのは、やはり 'Some things are stronger than blood.' だったのではないかと。そして『サンシャイン!!』じゃないけど、最後の最後まであきらめないってことですかね。個人的には「ダース・プレイガス」とかも登場してほしかったところ。お話としてはこれにて完、でこれはこれでいいとは思うが、なんかこう消化不良感が否めない。パルパティーンの復活からしてそうですし。それとミディクロリアン云々 …… なのかはわからないが、死んだはずの人間がよみがえったりとスペースオペラのはずがどことなくオカルトっぽい脚色も感じられて、「はて、『スター・ウォーズ』シリーズってそういうのだったっけ?」というのも率直な感想としてはありました。どうせここまで踏み込むのならプレイガスあたりにもなにかひと言、しゃべらせてもよかったのでは、とつい思ったり。もっともストーリーじたいはとてもすばらしいと思っているので、「再・続編制作決定!!」っていうのはナシでお願いしますぜ旦那(とても体がもたないので、これ以上はカンベンして)。それとジャナという若い女性戦士、ひょっとしたらランドの娘? かもしれませんねぇ。

 最後に、邦題の訳について。原題の The Rise of Skywalker は ↑ でもそれとなく書いたように、レイがいまは亡きジェダイの騎士たちの声に支えられ、力を得て「立ち上がる」ことを表現したものですが、ではなぜ「夜明け」とまるでイメージの異なる訳語を与えたのか? 最終シーンはルークの育った砂の惑星タトゥイーンに沈む双子の夕陽ですし、なぜ、とも思うんですが、「《夜明け》で行こう」となるまでにはそうとうな紆余曲折があったはずで、当事者はタイヘンだったと察します。「スカイウォーカー、立ち上がる」ではとんとイメージが湧きませんし、じゃどうするか。ジェダイの再興 ⇒「黎明」⇒「夜明け」⇒「新時代の到来」、古い世界が滅んで新しい「夜明け」がレイ・スカイウォーカーとともにやってきた、みたいなイメージ戦略だったのかなと思ったんですけど …… ちょっと気になったもので。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 04:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連

2020年01月20日

Ghosn is GONE !! 

 年末年始、↑ の方のかなり長め(原文で約6千語)の取材記事を訳出していたちょうどそのとき、ま・さ・か・の海外逃亡劇発生! で、こちらの予想どおり(?)クライアントさんから「悪いけど最短で入稿してほしい」旨の督促が。というわけで、短時間勤務 + こっちの納品で正月どころか、ホントぶっ倒れそうになりました。orz

 で、ワチャワチャしながらも入稿した訳出記事が、やはり年末年始もっとも注目された国内ニュースのひとつなのはまちがいない、ということもあってか、いわゆる「ヤフトピ」にも転載されてました。自分が手がけたこの手の翻訳仕事で「ヤフトピ」さんに転載されるのはこれまでも数回、あるにはあったが、なんせ日本中の人を敵に回したかのようなこのトンデモおっさんのトンずら劇のこと、コメントがハンパない(ずらぁ〜!)。

 こちらがこさえた訳文にはもちろん編集の手が入って、チェックも受けて晴れて掲載、とあいなるのですが、以前にも書いたように「全訳一挙掲載!」のようにとくに断わりのない邦訳記事はすべて「抄訳」扱いになります。だからといって原文を書いた記者ないしコラムニストの言っていること、趣旨じたいには影響のないように微妙なサジ加減はしっかり利かせているので、とんでもなく論旨からかけ離れた、明らかに別物、というのはほとんどないはずです。

 ただ、今回のような急ぎの仕事、たとえば出版系なら映画の原作ものとか「著者来日、緊急出版!!」みたいなたぐいにはある意味しかたないかもしれないが、その限りではない。昔の実例だと『大国の興亡』なんかが代表例かもしれませんが … このへん、翻訳者の仕事を奪うのではと危惧されてもいる AI とか、MT と呼ばれる機械翻訳テクノロジーがさらなる進化を遂げれば、現在ではとうてい不可能な短期間の納期でそれこそ「早い、安い、うまいラーメン」よろしく、「へい、一丁あがり!!」な翻訳商品を仕上げられるようになるのかもしれません。もっとも、どうなるのかはわかりませんけれども。

 転載記事のコメント欄ですけれども、内心、ちょっとドキドキしつつも拝見させてもらいました。で、思ったんですが、記事の内容よりも、日本語版の記事タイトルがお気に召さなかった方がたくさんおられたようでして、「大企業のトップに友だち、ハァ ?! なに言ってんだこの記者、大企業トップが孤独なのは当然じゃんか !!」といったお叱り(?)にも近い指摘がほとんどだった。言っておきますが、タイトルは編集サイドが考案したもの。で、翻訳本のタイトルもほぼ九割は、編集サイドが「売れるように」と知恵を絞って考えだしたもの(Webメディアだと、いわゆる SEO 対策みたいなことになるのかと思う)。で、翻訳者はとにかく中身で勝負、記事本文を、理想を言えば「鏡写しにしたような」日本語訳文に落とし込むのが仕事になる(こちらがまだまだ未熟者なのか、それともよほどの手練れでないと到達不能の境地なのか、いまだに「鏡写し」的な出来栄えとはほど遠いのは日々、反省しきりではありますが)。

 で、みなさんのコメントに目を通しているうちに一点だけ引っかかったコメントがありまして、引用記事はとうに削除の憂き目にあっているものの、ここですこし言い訳をしておきます。

 問題の個所は(下線強調はいつものように引用者)、
この状態は 2020 年以降も続くはずだった。2つの公判のうちひとつが春から開始され、検察と日産の元同僚側は、会計上の広範な不正行為と、企業の資産を私的利益のために横領したと訴える予定だった。対してゴーンの弁護団は、不正行為はいっさいしていないと反論し、自分はルノーとの合併に反対する日産経営陣および日本政府の策略にはめられた被害者だと主張するつもりだった。いずれの公判でも有罪が決まれば、ゴーンは 2020 年代を日本の拘置所で過ごす可能性が大きかった。
ついでに自分が書いたのはこっち ↓
この状態は 2020 年以降も続く。ふたつの公判のうちひとつが春から開始され、検察と日産の元同僚側は、会計上の広範な不正行為と、企業の資産を私的利益のために横領したと訴える。対してゴーンは不正行為はいっさいしていないと反論、自分はルノーとの合併に反対する日産経営陣および日本政府の策略に絡めとられた被害者だと主張。いずれの公判でも有罪が決まれば、彼は 2020 年代を日本の拘置所で過ごすことになるかもしれない。

[原文記事]... These conditions will persist well into 2020, when Ghosn begins the first of two trials for what prosecutors and his former colleagues at Nissan call a pervasive pattern of financial misconduct and raiding of corporate resources for personal gain. He denies wrongdoing, saying he’s the victim of a plot by Nissan executives and Japanese government officials to prevent further integration with Renault. A guilty verdict in either case could put the 65-year-old in a Japanese prison through the 2020s.

「はず」、というのはもちろん、当の本人がズラかったから編集サイドで追加したんでしょう。コメント主の方がミソをつけたのは、「起訴事実に横領はないはず」という点。たしかにそう。でも原文を見るかぎり、かなり強い言い方を使ってます。なのでその「勢い」を伝えたくて、ここはズバリ「横領」、ようするに会社のカネをネコババしたという表現を使ったしだい。

 刑事事件関係に詳しい向きは目くじら立てるところかもしれない。たとえばこちらの記事に書いてあるように、厳密に言えば「横領」と「流用」の定義はちがうし、横領に当たる正式な用語の英語表現は embezzlement になる。でも raiding、つまり「盗み取る」という言い方を使っている以上、さすがに「盗み取った」はキツいので、「横領」という訳語を充てることにした、ということです(名詞の raid には警察のガサいれ、手入れという意味もある)。

 大半のコメントが批判していた「社内に友人がひとりもいない」云々、についても、この記者の書いた記事を読むかぎりでは、いわゆる「なあなあなおトモダチ」という意味ではなく、真の友人、村岡花子訳『赤毛のアン』で言うところの、腹を割って話せる「腹心の友」がだれひとりとしていなかった、危険なまでの孤立状態にあったことも今回の転落の要因ではないか、彼の転落劇は社内の権力闘争という側面だけではなく、カルロス・ゴーンという「個人」に起因する要素も多々あるのではないか、という結論で終わっていたので、「読者第一号」としてこの原文記事を読み取ったかぎりでは、「この記者、なに言ってんの?」みたいな気持ちは微塵も湧かず、共感しかなかった。どころか、サウジルートだのオマーンルートだの、ただでさえ時間ないのに事実確認に追われるうちに、マジでこのおっさん「金の亡者だわ」、「やることがあまりにセコいずら !!!」としか思わんかったのも事実(苦笑 × 九層倍)。

 書き手を擁護するわけではないが、この記事は典型的なアメリカジャーナリズムが感じられる良質な取材記事だと思う … それが「ヤフトピ」に掲載された「抄訳」でどれだけ伝わっているか … という点はなかなかむずかしいかもしれないけれど、少なくとも煽情的タイトルで耳目を引きつけるだけのヘッポコ記事ではない、ということだけは、この記事を書いた記者の名誉にかけて言えるかと思います。

 … しかしそれにしてもこのゴーンという人は、なんだろう、ホントにハリウッド映画化なんて実現できるとかって思ってんのかな? スペインの新聞の取材でなぜ大晦日を狙って脱出したのかと問われ、「人々がのんびりと休暇やスキーに行く時期でいいタイミングだった」と自画自賛するようなお人。こういう人に違法な出国を許したほうもほうですが、情けないのはテロリストとか水際で防がないといけないところを「音響機器ケース」ごと突破されたこと。常識的に考えれば、これは国際刑事事件のみならずゆゆしき外交問題事案でもあるわけでして、それなのに突破された国の政府を代表する人間が「… 神奈川県のゴルフ場着。… 名誉顧問らとゴルフ」、「六本木のホテル内 ×× フィットネスで運動」、「『決算! 忠臣蔵』を鑑賞」、「午前中は来客なく、東京で過ごす。午後も来客なく、私邸で過ごす」…… こんなのほほんとした正月気分でいて、ほんとに大丈夫なんでしょうかね。今年はいよいよ世界中から人間がわんさとやってくる年なのに。

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2020年01月13日

「ボージョレの帝王」、逝く

 仕事が立てこみなにかとワチャワチャし、また世界的にもトンでもない事件や国際情勢の緊張などがたてつづけに発生するという前例のない子年の正月。そんななか、ジョルジュ・デュブッフさんが亡くなられたとの報が入った。享年 86 歳。

 ボージョレ・ヌーヴォーは世界でいちばん、理屈抜きに呑んで楽しいお酒だと思う。そのヌーヴォーの楽しさ、すばらしさをデュブッフ・ブランドで証明した功績は、まちがいなく長く語り継がれていくと思います。

 じつはメル友だったフランスの方が一昨年に亡くなったのですが、その方にデュブッフのボージョレ・ヌーヴォーのことを書いたら、「彼は作り手じゃナイよ」とたしなめられた。たしかにデュブッフさんは葡萄栽培農家ではない。デュブッフさんが自身の名を冠した会社はいわゆるネゴシアンで、その会社で契約農家から集めた原酒をアッサンブラージュ、つまりウィスキーで言う「ブレンド」を行っていたのがデュブッフさんだった。ようはブレンダー、それも名伯楽と言えるような、他の追随を許さない嗅覚、味覚の持ち主だった。有名レストランのポール・ボキューズのお墨付きを得たのち、デュブッフ・ブランドのボージョレは世界的に知られるようになり、リヨン地方の地酒でしかなかったこのガメイの醸造酒のステータスも飛躍的に向上、いまや世界のワイン好きが毎年 11月になるとここの新酒を首を長くして待つというのが当たり前になった。

 フランスワインの消費量は右肩下がりみたいですが、ボージョレワインが大好き、という日本の呑助さんはきっと多いはず。ボージョレワインの生産業者はじめ、故郷ボージョレに果たした貢献は計り知れません。

 デュブッフさん、ありがとう! 某コンビニ向け商品として、最後に醸してくれたボージョレヴィラージュ・ヌーヴォーを呑みましたが、心躍るような芳しいアロマ、ブーケのすごいこと !! 翻訳やライティングの仕事の合間に口にした 2019 年ヴィンテージのデュブッフさんのボージョレ・プリムールは、ほんとうにうまかった。Merci beaucoup, M. Dubœuf !!! 

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posted by Curragh at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | おくやみ

2019年12月31日

ウン十年生きてきて、初の「著作」を刊行した話

 厳密にはまだ完全にフリーランスではないけれど、フリーという仕事形態に軸足をだんだんに移していくなかでもっとも悩ましいのが、「仕事の切れ目」。なるべく依頼が切れないようにと考えて引き受けたつもりが、こちらの予測をはるかに超えて? うれしいのか悲しいのか、よくわからない状態になることってときおりあると思うんです。で、いまのワタシがちょうどそんな感じ。2年ほど前からいまのような生活スタイルになったんですが、まさか年末年始も休まず稼働しっぱなしになるとは思ってもみなかったので、困惑しつつも楽しんで自分の好きな仕事に励んでおります。

 と、前置きはこれくらいにして、ホントはもっともっと大事なお知らせがあるんです … じつはワタシ、人生初の本を書きました! 本、と言っても、小冊子といったほうがふさわしいくらいの、ささやかなもんです。

 書名は、『《輝き》への航海──メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン !!」』でして、これは紙の本じゃなくて、Amazon Kindle ストア経由で流通している電子書籍というやつでして、本屋さんで売られているふつーの紙の本のような「実体」というものがありません。で、なんせはじめてのことだから、いったいどうやって「出版」すればよいのかもまるでわからず、脱稿したあとはほんとに手探りでやっとこさ、自分の誕生月である 10月にむりやり間に合わせ、なんとか刊行の運びとなりました(当たり前ですけど、原稿を書き終えるだけで1年くらいはかかっている)。

 じつはさらに「じつは」があって、「やっぱ紙の本も作りたいな〜」と思ってググったら、なんとなんとこういう Web サービスがありまして、何冊か作ってもらいました(と言うと聞こえはいいが、じっさいは目次にノンブル入れ忘れたりでおシャカにしてしまった分もカウントしてのこと。Kindle 本は「リフロー」形式でいわゆる「ページ」という概念がないので、目次にページ番号を割り振っていなかったのが失敗のもと)。

 自分の本の宣伝、とくると、今年は京都の観光大使だかなんだかを仰せつかっていた若い芸人さんが Twitter で、いわゆる「ステマ」もどきなことしてしっかり報酬はもらっていた、なんてことがバレて叩かれたりしました。自分の書いた本を自分が宣伝するぶんには問題なかろう、とは思うんですけども、インスタントに世界とつながってしまうこのご時世、うっかり不用意なこと書こうものなら矢だのテッポウの弾だのどこから飛んでくるかもしれぬ。なのであんまりおおっぴらに言いたくはないんですけど、このさいだからハッキリ言います──「みんな、買ってね !!(『サンシャイン!!』第1期5話、「リトルデーモン4号」になった黒澤ルビィふうに)」。

 もうすぐ年明けを迎えますが、この小冊子についてはいくつか書きたいことがあるので、また稿を改めてここでも告知がてら、書き足すことにします。それでは本年はこのへんで。ちなみにいま、なんの仕事をしているかといえば、レバノンにトンズラした哀れな男に関する長めの取材記事の訳出(なんとタイムリーな、というか TV の前でひっくり返っていた)。これ以上は守秘義務上、言えませんので悪しからず。

 … 来たる年も、とにかく前を向いて歩いていきましょう。「人生はすべてが苦である」と言ったのはお釈迦さまですけど、だからこそ、「うわっ! と思う瞬間がある」と高倉健さんは生前、おっしゃっていた。「《いまここ》で永遠を経験しないかぎり、どこへ行っても経験することはできない」と比較神話学者ジョー・キャンベルも言っている。たとえどのような世界であっても、そこに生きる人がみな生き生きしていれば、それだけで世界は救われることになる。これでも人並みに 50 年、生きてきて、ますますつよくそう感じるようになりました。

【書いた本人による広告】
京都の観光PRで芸人さんがをもらっていながらステマっぽいことして叩かれたりしたので、「コレは広告です」と、まずは断っておきます。

このたび、人生初(!)の電子書籍を出版しました。書名は『《輝き》への航海−−メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』。Amazon のKindle ストアで販売中です! 価格はワンコイン100円、安い!

https://www.amazon.co.jp/《輝き》への航海-メタファーとしての『ラブライブ!-サンシャイン-』-Ryuichi-ebook/dp/B07ZBZKPT4/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&keywords=《輝き》への航海&qid=1572425044&s=digital-text&sr=1-1

率直な気持ちを書けば、いままで生きてきたのはこのささやかな小冊子を書くためだったのかな…なんて思うこともあります。とにかくこのアニメ作品に出逢ったことじたいが嘘偽りなくキセキみたいな話なので、このすばらしい作品を作ってくれた人すべてに、まずは感謝、感謝です。
下世話なことを申しますと、一度くらいはバズりたい…なんて思ったりもしますが(a thought-provoking booklet だと思ってます)、とにかく中身で勝負! というわけで、興味ある方は読んでいただけますと幸いです。

そして今日は、本文でいちばん多く引用している比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの命日でもあり、謹んでこの小冊子を捧げたいと思います。

千歌ちゃんとAqours のみんな、thanks a lot❣️ #amazonkindlebook #輝きへの航海 #voyagetoradiance #沼津芹沢光治良記念館 #未体験horizon #国木田花丸 #Aqours #ラブライブサンシャイン #lovelivesunshine #manuscripts #samplepagesfrommybook #macbook12 #pahoehoelava #questedelsaintgraal #聖杯の探索 #カールユング #carljung #josephcampbell #内浦地区沼津 #三津海水浴場沼津 #shizuokaprefecture #shizuokaprefecturejapan


2019年12月22日

フィンランド発 MaaS サービスの衝撃

 先々月の地元紙で見かけて興味を惹かれ、クリッピングしておいた記事についてもうじきクリスマスで冬至だというのに書いてます。

 昨今は SaaS(=Software as a Service)だの、PaaS(=Platform as a Service)だの、「モノのインターネット」を表す IoT が急激に普及してからだしぬけに飛び交うようになった感があります。で、その記事が報じているのは、フィンランドで開発された MaaS アプリが日本上陸した、というもの。

 MaaS とは Mobility as a Service、「サービスとしての移動手段」のことでして、ようは ICT による交通手段利用の革命ってことらしい。なにが革命的かって言うと、この記事で紹介されているフィンランドのスタートアップの開発した「Whim」の場合、「スマホ1台で目的地までの最適ルート選択、および鉄道、バスなどの交通手段の支払いがまとめてできる」という! 

 ふだんから公共交通機関を使い倒しているおっさんですので、この手の MaaS とかいうサービスをはやく試してみたい、と思ったりします。もちろんどんなテクノロジーにも思わぬ落とし穴はあるから、最低限の現金はあいかわらず持ち歩かないといけないとは思うけど、あれほど嫌っていた「なんとかペイ」、よもや自分がその「なんとかペイ」のキャッシュバックに喜ぶようになるとは昨年のいまごろはツユほども思わなかった(でもこれはいたしかたないこと。こっちだって好きでデジタル決済で支払ってるんじゃないです。おなじようなご同輩は多数いるものと思われる)。

 ちなみにこのサービス、千葉県柏市で年内にも試行するとかで、思うに過疎地域でもあり、観光地でもある伊豆半島なんかまさにぴったりのような気がするんですけどね … 『ラブライブ! サンシャイン!!』効果で自分の住む街には全国どころか海外のお客さんもたくさん来てくれてますが、よく耳にするのが「PASMO 使えないの?」という声。もしこのフィンランド発のサービスがここでも利用できるようになったら、それだけでも「伊豆半島めぐりは楽しい! また来よう!!」ってことに、つまりアピールポイント、差別化につながるんじゃないかな。東海バスの乗り放題パスだけではダメで、タクシーも電車もぜんぶ入りではなければこれからはお客さんを呼べない時代になった、と言えるかもしれない。

 … 自動運転の EV バスとか試験運行するみたいで、それはそれでけっこうとは思うが、もっと利用者の立場に立ったこの手の MaaS の導入に本腰入れないとイカンと思われますがどうでしょうかね。ちなみにヘルシンキの公共交通機関利用者のうち、この会社のサービスを利用した人の利用率はそうでない人が 48 %だったのに対し、63%もいたそうです。目的地までの経路検索+交通機関のデジタル決済付き、とくれば、当然利用者は増えますよね。公共交通機関が元気になれば、地域社会にももっと活力が生まれるはずです。

タグ:MaaS

2019年12月04日

南アルプスの恩人、逝く

 日本の山岳写真の第一人者が亡くなった。白籏史朗氏です。

 静岡県民としては、南アルプスの自然を美しいラージフォーマット(大判写真)やハッセルブラッドなどの中判カメラで捉えた写真作品として世界に発信した功績がまずまっさきに思いつくんじゃないかって感じるんですけれども … それと静岡県主催の「秀景ふるさと富士写真コンテスト」の審査委員長を 2010 年度から 10 年間務め、また NHK 静岡主催の「富士山とわたし」写真コンテストの審査委員長も務めていたこともありました。床一面に並べられたプリント写真を長い指揮棒みたいなスティックで仕分けしていく場面も TV で拝見したことがあります。

 白籏氏は師匠にあたる富士山写真の先駆者、岡田紅陽の強力(ごうりき)みたいなことをしていたそうですが、偉大な写真家ながらたいへん気さくな方でして、ここにいる門外漢も一度だけだが、アットホームな講演会を聴きに行って、質疑応答のときに「寒さでシノゴ(4 x 5 インチの大型カメラ)のレンズシャッターのオイルが効かなくなってシャッターが壊れたことがあるのですが、先生はどんなオイルを使っているのですか?」とおよそ一般人が訊くような質問ではない質問をしたことがあります。そのときの白籏氏のお答えは「ぼくは鯨油を使っています」だったが、その後、自身の写真や主宰する写真愛好会「白い峰」の作品を前にだれとでも気さくに歓談しておられたその姿は、まだ 20 代だった自分にもとてもまぶしく、ああ、こんなふうに歳を重ねていったらすばらしいものだと思ったものでした。とにかく人徳と言うのか、まわりにすぐ人が集まる感じのやさしい人柄の方でした。

 ザイルごと転落して九死に一生を得た話とか、活動拠点が高山なので、常人にはおよびもつかないとてつもない「体験」もふつうの人の何倍もされているから、きっとそういう体験の幅の厚みがすなわち人間力だったのかとも思う … とにかく訃報に接したとき、まず思ったのはああ、先生が愛してやまなかった南アルプスをめぐって大問題が持ち上がっているさなかに逝かれてしまった、という悲嘆だった(ご自宅がなんと三島市だったのにはびっくりした。あのへんはよく通りがかっているんですけども … )。生前、「リニア中央新幹線計画はほんとうに必要なのか」という地元紙のインタビューにも応じていたそうで … 「日本の国土を蜂の巣のようにしてなんのプラスがあるのか」。利潤追求の究極のエゴとマイホーム主義で取り返しのつかない結果を招く愚だけは、なんとしても避けなければならない、と静岡県民のひとりとしてつよく思う。合掌。

 もし白籏氏の意を汲んで南アルプス保全のための署名活動とかが始まることがあれば、まっさきに署名したいと考えている。先日も地元のラジオ番組でパーソナリティーの方が、「(リニア新幹線トンネル工事予定地の)南アルプス直下の破砕帯は巨大な地下ダム。ここにトンネルを通すということは、この地下ダムをいっきに破壊する、ということだ」と卓抜な比喩で危機感をあらわにしていたのが印象的だった。

付記:「署名」、ということに関してすこしだけ補足。インターネットの普及とインフラ化にともない、いろいろなサービスがネット経由で行われるのがごく当たり前な 21 世紀前半のいまなんですが、いまひとつフに落ちないのが、いわゆる「ネットで署名運動ができちゃう」プラットフォーム。以前、高尾山古墳の保存を求める署名活動を進めていた市民団体がそこを利用していて、自分もそこを経由して署名したんですけど、他のネットサービス同様、そもそも「署名を集める」ということをまるで理解していないか、悪ノリ、ないし悪用さえしている例が目立つ気がする(いや、気がするんじゃなくて、じっさいにそう)。たとえば昨年のいまごろ、自分の住む街を舞台にしたアニメ作品『ラブライブ! サンシャイン!!』の主人公のスクールアイドル Aqours を演じる声優さんたちが晴れて紅白に出る、ということになったらなったでさっそく(?)、「彼女たちを出演させるな!」みたいなネガティヴキャンペーンもどきな「署名集め」がそのプラットフォーム上で展開されたことがある。

 ワタシ自身、かつて西伊豆町宇久須[うぐす]の旧珪石鉱山だった山のてっぺんにアスベスト処分施設を造る話が持ち上がったとき、ほんとガラにもなく署名用紙握りしめて親戚や知り合い、馴染みの床屋や写真材料店なんかに飛びこんでは、建設計画の白紙撤回を求める署名をお願いしますと頭下げて廻ったもんだ。もちろん、人によっては断られたりもした。ひとさまの署名を集めるって、よほどの cause がなければとてもできませんよ、ふつうは。紅白出場無効を求めた話については署名を集める正当性もないし、だいいちそんなことよけいなお世話もいいところで時間のムダ、ですわぁ〜、とおおいに呆れたことがあります。そして自分がそこで「署名」して以来、迷惑メールよろしく、そのプラットフォームから「署名のお誘い」メールが頻繁に来るようになった。ほんとよけいなお世話。署名すべきかどうかその当人が判断すればいいだけのこと。Amazon のような商売するためのプラットフォーマーとは根本がちがう。

 いずれにせよ署名活動のキホンはしっかり「顔出し」して、なんでそうする必要があるのか、ほんとうに署名を集めなければならないのか、を第三者にわかるように主義主張を訴えたうえで、「よろしくお願いします」と頭を下げるのが常識ではないですか。だれもかれも「署名集め」にかこつけて揚げ足を取ったり誹謗中傷まがいのことをするのはどこの世界に行ったって許されるもんじゃないって思うんですけどどうですかね。ネットが普及していちばん目につくようになったのは、この手のあと先考えない「安直人間」が爆発的に増えたこと。これには疑いの余地がない。

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2019年11月23日

Totally beaten! 参った …

 前々から行こう行こうと思ってはやウン十年、このたびようやく浜松市楽器博物館に行ってきました。いまこれを宿泊先のホテル(われながら柄にもなく!)で書いてます。

 中央エントランスを入っていきなりデデンと鎮座ましますのは、ミャンマーの「サイン・ワイン」と呼ばれる大型伝統楽器。ドラゴンとかのきらびやかな装飾の施された太鼓やゴングからなる楽器なんですが、この楽器を使用して以前、行われた実演の映像を観ると、なんとこの楽器の中に演奏者が入って演奏するというからさらにビックリ。

 … 展示室に入るなり、すでにしてやられた感ありですが、向かって右手に雅楽や歌舞伎、寺院などで使われてきた邦楽の楽器の展示室が、サイン・ワインを挟んで反対側に有名な「ガムラン」を含むアジアの伝統楽器や中東の民族楽器が広〜い展示室内を埋め尽くすように配置されていて、それだけでも壮観のひとこと。ガムランの奥に、世界最大とされる竹でできたガムラン「ジェゴグ」もあります。

 楽器専門の博物館らしく、展示楽器のなかにはヘッドフォンでじっさいの音が聴ける仕掛けもあります。そして写真撮影 O.K. という、なんともありがたいサービスに甘えて、もうキュルケゴールじゃないが「あれかこれか」って感じで食指をそそられるものは手当たりしだいにバシャバシャ撮りまくっていた。サントゥールやカーヌーンというツィターや現代ピアノのご先祖様に当たるイランの古楽器をはじめ、チャルメラみたいなダブルリード楽器に、リュートや琵琶の共通の祖先のような弦楽器ウードとか、名前こそ聞いたことはあれど現物を目の当たりにするのはもちろんはじめてなのでおのずと血が騒ごうというもの。

 ほかに印象的だったのはパプア・ニューギニアのいわゆる成人儀礼、イニシエーションのときに吹かれるという尺八みたいな湾曲した巨大な縦笛や、中南米に伝わったマリンバのような打楽器、あと原始的な太鼓をはじめとするアフリカ各地の民族楽器なんかはまるで知らないから、ヘッドフォンで試聴したりするうちに自分のなかで西欧クラシック音楽以外の民族音楽というものに対する考え方、いや偏見なのかもしれないが、とにかく短時間のうちにそれがどんどん変わっていくのに気がついた。たしかにリュートもピアノも、もとははるかかなたの中東起源だから、ほんらいこういう感慨に浸るのはヘンだとは思うが、「クラシック音楽の楽器」というあまりに偏ったモノの見方にいかに慣れきってしまっているか、ということがこうした楽器たちが一堂に会するすばらしい博物館に来るとよくわかった気がして、ほんともう目からウロコが落ちっぱなしで、泣けてきた。

 で、当然ながら、当方にとってはなじみの古楽器たちももちろんおりました。その名のとおり真っ黒な蛇がのたくったかのような管楽器セルパン(チューバの先祖、ちなみにセルパンの名はオルガンのストップ名称に残っている)、「愛のヴィオラ」ヴィオラ・ダモーレをはじめとするヴィオール属、そしてオルガンやチェンバロ、フォルテピアノからピアノロールと呼ばれた自動演奏装置付きピアノまで、よくぞこれだけの数を収集なすった、と終始圧倒されどうしでした。

 ワタシの大好きなオルガンですけど、見かけは本物のポジティフオルガンかと見紛うほどよくできたストップ付きリードオルガンが三つほどと、チェンバーオルガンが展示してありました。でもここの鍵盤楽器コレクションの白眉は、「鍵盤楽器展示室」を入ってすぐ目につく場所にスポットライト浴びて展示されている、フランソワ・エティエンヌ・ブランシェ2世(F.E. Blanchet II, c.1730-1766)製作の二段手鍵盤のクラヴサン(チェンバロ、ハープシコードの仏語名)。たしかこの楽器、記憶が正しければ、あのレオンハルトも何十年か前に録音で弾いたという歴史的名器だったように思う。例の試聴ヘッドフォンから流れてきたのは、ジャック・デュフリの「三美神 ニ長調」という『クラヴサン曲集 第3巻』に収められた音源から(ちなみにニ長調という調性は、「輝かしさ」や「明るさ」を表現する作品に多く使われる)。音源はたぶん、この楽器を使用して録音された中野振一郎氏のアルバムからだと思う。典型的な古典フレンチの二段手鍵盤タイプの、重厚ではあるがどこか軽やかさ、典雅さも感じられる音色の楽器です。

 とにかく今回、来て、じっさいに観て、触れて(チェンバロ、クラヴィコード、ピアノはアクションと呼ばれる発音機構の模型も置いてあって、だれでも触って音を出してみることができる)、これまでの音楽観を揺さぶられるほどの感動を味わった。こんなとてつもない施設が楽器の街として知られるここ浜松にあるとは、なんともうらやましく、ぜいたくにも感じられたのでありました。というわけで、いまはNHK杯女子・男子フリーをホテルの TV で観ながら持参した読みかけの洋書を読むところ。

@とA 浜松も負けずにsunshine!!
B〜I 浜松市楽器博物館
C サントゥールと
D カーヌーン、ともに現代ピアノの遠い先祖
FとG 陶器のオブジェですけど、オルガンの造りの芸の細かいこと❣️
HとI フランスバロックの歴史的名器、ブランシェ2世製作のクラヴサン(チェンバロ)
このシリーズしばらくつづける予定です〜〜、はじめて来たけど、いや〜〜もうオラびっくりしたずら〜〜
#浜松アクトタワー #浜松アクトシティ #浜松市楽器博物館 #サントゥール #カーヌーン #ブランシェのクラヴサン #clavecin #harpsichord #cembalo #santur #qanún #qanun #shizuokaprefecture #shizuokaprefecturejapan

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2019年11月20日

まずは「読める」ことから

 NHK も含む TVニュースのアナウンサーでさえまともな日本語が使える人がめっきり減ったと感じる昨今ですが(「今日はなまぬるい陽気で … 」なんてだしぬけに切り出され、目が点になったことが最近あったばかり)、こちらもまたうっかり本音が出たにせよ、ヒドいし乱暴な話でほんとあきれる。なにがって、「身の丈」知らずの大臣のアホな発言ですわ。おそらくそんなこんなスッタモンダして収拾がつかなくなったんでしょう、ええいままよ、でいきなり大学入試英語の民間丸投げ計画を唐突に延期すると決定したものだから、現役受験生のみならず非難の嵐轟々、といった混乱状態になってます。

 やはりこれも以前、ここで書いたことの焼き直しになるかもしれませんけれども、大学に入るための試験なのに、なぜ英語の「聴く・話す・読む・書く」のすべてを「採点」しようとするのだろうか? いちばんワケわからないのは、なぜそれをビジネスライクな利益を追求する民間会社に丸投げするのだろうか。そんな共通試験なんてやったところで、カネと時間と貴重な労力のとほうもないムダ遣い、まったく意味がないって思うのはこれ書いてる門外漢だけじゃないはず。

 いつも思うんですけど日本を含む東アジア文化圏って、やはり昔の「科挙」思想の残滓が残っているせいなのか、やたら入試、入試で騒ぎますよね。ぶじ難関を突破して大学に入りました、ではそこで 4年間、なにをテーマにしてどんな分野を深く掘り下げて学ぶのか。あるいは休学してバックパックの旅に出て実地の体験を通じてなにかを学ぶのか(こういうことができるのも若い人の特権)、あるいは留学するのか、大学院に進むのか。はじめからなにか「大学ではこれこれをしたい」というものを持っている人ならいいんですけど、いちばん困るのは「合格して入学したはいいけど、さてどうしたものか、とりあえずサークル活動中心でいこうか」なんていう学生じゃないかと個人的には思う。サークル活動が悪いって言ってるんじゃなくて、全入時代、目的意識ゼロのくせにただ「みんなが行ってるからオレも」ていどの認識ってどうなのよって言ってるんです。

 だっていまどき大学くらい出てないと就職が … なんて声も聞こえてきそうだが、大学出なくても「手に職」つけておられる先達はたくさんおられますし、家庭の事情もあるとは思うが、ワタシは前出の消極的理由だけだったら、背伸びしてでも大学に行くことはないと思っている。大学というところは入学希望者をほぼ合格させる代わりに、本気で学ぼうとしない、もっと言えばデキの悪い学生をバンバン落として落としまくって選ばれた少数のみが卒業するという、英米の大学によく見られるシステムのほうがよっぽど健全かと思うんですけどね。もっとも『21世紀の資本』によれば、アイビーリーグなどの名門大学の財団とかに多額の寄付したいいとこの坊っちゃんや令嬢のみが不当に優遇されてるんじゃないか疑惑がけっこうあるようですけど …。

 大学入試の英語にもどすと、先日、元外交官の佐藤優氏が地元紙に、「英語圏に暮らした経験がある帰国子女を除いて、大多数の高校生は日常的に英語に接していない。そのような生徒にいきなり『書く・話す』能力を求めることにそもそも無理がある」と主張する論説文を寄稿しておりまして、まったくそのとおりだなあ、とひとりごちた[いつものように下線強調は引用者]。「読んでわからないことは、聞いてもわからない。読んでわからないことについて、話したり書いたりすることもできない(当たり前だ)」。

 じつはワタシも大学は出ていない。でもいま、二足も三足もワラジ履きながらではあるが、こうして翻訳や原稿書きの仕事をあまり途切れることなくいただいてたりする。ほんとうにありがたい、と思う。ちなみにべつにこれ自慢じゃないですけど、ワタシの拙サイト『聖ブレンダンの航海』の英語版、あそこに書かれた英文がすらすら読め、かつ、「ここのところ表現おかしくない?」なんてコーヒー片手に思えるような学生は、ほぼまちがいなく世界を相手に活躍できることでしょう。ちなみに書いた当人は、いまだ日本国外に一歩も出たことはないが。

 今回の騒動に巻き込まれてしまった受験生のみなさんは、ほんとうに災難だったと思う。でもかつて高校の先生に、「おまえらは不幸の星の下で生まれたっていうか、こんな円高不況のときにぶつかってしまったが … 」なんて慰めにもクソにもならないことばをかけられた記憶のある元高校生から言わせてもらえれば、かつてスタッド・ターケルの著作を邦訳した先生とおなじことばをここでも繰り返したいと思う──「あきらめずにつづけていれば、そのうちいいこともありますよ」。人生すでに半世紀を生きたしがない人間は、このことばは真実だと思っている。ほんとうに好きなことがあるのなら、それにあきらめずに食らいついていくべきだと思う。

 ついでながら、大政奉還後の徳川家によって設立された「沼津兵学校」というのがありまして、今年は設立から 150 周年にあたるんだそうです(地元民のくせしてだそうです、はないと思うけれども)。で、初代校長だった西周[にし・あまね]という人はいまふうに言えば超絶デキる人でして、哲学者にして教育家、そしてなんといっても福沢諭吉や森有礼と並ぶ近代日本語の基礎をなす数々の「翻訳日本語」を作った人でもあり、「哲学」、「芸術」、「理性」、「科学」、「技術」といった、いまやふつうに使用されている日本語もすべてこの人が作ったもの。で、たとえば新聞なんかぴろっと広げれば、やれ「CSF」がどうしたとかってある。はて? セルロースナノファイバー (こっちは CNF)?? なんてツッコみたくなるところだが、なんとこれ例の「豚コレラ」のことだそうでして。なんでも Classical Swine Fever の頭文字かららしいが … いつぞやの「修飾麻疹(modified measles)」も挨拶に困るけど、もうすこし芸がないのかってつい思ってしまう。西がこれ見たらいったいなんとコメントするのだろうか。「典型的 / 標準的豚熱病」じゃダメなんだろうか。国際標準だからこれでいいんだ、というのはたしかにわかるが、なんでもかんでも横文字の符牒みたいなナゾナゾ用語にして事足れり、では千数百年、受け継がれてきた日本語に対して申し訳ない気がする。

タグ:佐藤優 西周
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2019年11月11日

比較神話学者キャンベルの絶筆について

 毎週更新、と言っておきながら早くも公約違反 … orz フリーの身なんでいつ仕事が来るかは予測不能、予定は未定、なしがない門外漢のこと、そこは生暖かい目で見逃してくださいませ。

 と、前置きしているあいだ(?)にも、ついにみんなの大好きな Halloween はとうに過ぎ、そして「日本晴れ」のなかすばらしい祝賀御列の儀のパレードもぶじ終わって(まったく関係ない感想ながら、この前買い替えたばかりの 4K TV に国立国会図書館前の通りが大写しにされたとき、個人的にはすごく懐かしく感じた。何度もおなじこと言って申し訳ないけど、あのころはネットもなにもなかった時代。いまこうしてフツーにググって調べ物して仕事もらってる人間としては、いったいどうやって訳文をひねり出してたんだろっていささか信じられない気分にもなってくる)、ではあるけれど、先月 30 日は米国の比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの命日(1987 年没)ということもあり、ひさしぶりにキャンベルのことについて書きます。

 キャンベルの「遺作」は、ジャーナリストのビル・モイヤーズとの対談を収録した『神話の力』ということになってますが、本人が書いたほんとうに最後の著作は Historical Atlas of World Mythology という大部の巻本もの。文字どおりの「白鳥の歌」で、当初計画されていた4巻本のうち、キャンベル自身が書き終えたのは最初の巻のみ。みまかるその当日も原稿を執筆していたという2巻目は、親友の編集者の手によって補筆完成というかたちで日の目を見た。ちなみにその編集者がキャンベルの未亡人ジーン・アードマンとともに設立したのが、いまのキャンベル財団(JCF)。

 で、著作についてはたしかに上記の本がキャンベルの絶筆なんですが、印刷された最後の文章、というのがべつにあります。それが、リトアニア出身の米国人女性考古学者マリヤ・ギンブタスの著した、The Language of the Goddess: Unearthing the Hidden Symbols of Western Civilization という研究書に寄せた「まえがき」。

 この絶筆となった「まえがき」なんですけど、じつは JCF から刊行されているキャンベル本シリーズの一冊 Goddesses の巻末付録として収録されてまして、昨年、勝手に試訳をつけたままずっと仕事用 PC のデスクトップ上に放置してました。仕事や雑事にかまけているうち、やっぱりここでも紹介したいずら、と思いまして、書籍の一部引用にしては長いのでクレームがくる可能性もありますが、書いてある内容はやはりすばらしいと考えるので、僭越ながら全文を転記しておくしだい[JCFからなにか言われたら即、引っこめます。あとする人はいないと思うが、二重引用は厳禁]。
 ジャン=フランソワ・シャンポリオンは 150 年前、ロゼッタストーン解読作業を通じたヒエログリフ(神聖文字)の用語法の確立によって、紀元前 3200 年前からプトレマイオス朝時代にいたるエジプト宗教思想というすばらしい大宝典の解明の糸口を開いた。シャンポリオンとおなじくマリヤ・ギンブタスも、紀元前 7000 年から前 3500 年にかけてのヨーロッパ最古の新石器時代村落跡から出土した二千点あまりの象徴的遺物の収集、分類、特徴の解釈といった作業を通じて、絵画的モティーフという基本語彙を、それ以外の方法では記録されえなかった時代の神話を解く鍵として提供することに成功している。それだけではない。ギンブタスはまた、それら表象の解釈にもとづき、当時崇拝されていた宗教の主要思想と主題の確立にも成功した。彼女の解釈によれば、それは母たる創造の女神の生ける体としての宇宙であり、女神に宿る神性の一部としての生きとし生けるものすべてである。ここでただちに想起されるのが、新石器時代ヨーロッパにおける「宗教」とは、「創世記」第3章19節に出てくる「父たる創造主」とは対照的だ、ということだ。アダムはその父たる創造主に言われる。「おまえは顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵にすぎないおまえは塵に返る」。ところが「創世記」よりさらに古いこのヨーロッパの神話では、全被造物が生み出された大地はたんなる「塵」ではなく「生きて」おり、母たる女神の創造主と同格なのだ。

 ヨーロッパ学文献で、ヨーロッパ地域と近東で形成された歴史形態に先立ち、また基盤でもある前述のような母権制時代の思想と生活について最初に言及した著作が、1861 年に出版されたヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンの『母権制』である。彼はその著作で、古代ローマ法に母系相続法の痕跡が残存していることを示した。またバッハオーフェンの著作の 10 年前にアメリカで、ルイス・H・モーガンが『ホ・デ・ノ・ショ・ニー連邦、またはイロクォイの諸部族』を刊行している。この二部の調査報告で彼は「母権制」原理がいまなお生きている部族社会を確認し、その後のアメリカ・アジア大陸全域の親族制度の系統的調査によって、父権制支配以前にこのような母権制原理の集団生活がほぼ世界全域に分布していたことを実証した。1871 年ごろにバッハオーフェンがモーガン研究と自身の研究との関連性を認めたことが突破口となり、この社会学的現象の理解は従来のヨーロッパ地域から地球規模へと拡大する。同様にマリヤ・ギンブタスが再構築した< 女神の言語> においても、その歴史的重要性は紀元前 7000 年から 3500 年にかけての大西洋からドニエプルまでの古代ヨーロッパ世界にとどまらない、ひじょうに広範な地域においても認識されるようになるだろう。

 さらに、このような母権制はインド−ヨーロッパ語族系の牧畜部族に見られる神話群とも対照的である。インド−ヨーロッパ語族系諸部族は紀元前 4000 年以後、古代ヨーロッパ諸地域を波状的に侵略し、侵略された土地では彼らの社会的理想や法、彼らの属する部族の政治的目的の反映たる男性上位の神々へと取って代わられた。それに対して大地母神は大自然の法則の反映と尊重の表れとして生まれたものだ。ギンブタスに言わせれば、万物の驚異やその美しさの理解と共生をめざした人間側の原初の試みと言えるのが彼らの残した絵画的表象群であり、有史以後、西洋で優勢になる人為的に歪められたシステムとは元型シンボル的に見て、あらゆる点において対極にある人間の生き方の輪郭を描くものなのだ。

 ちょうど世紀の変わり目にさしかかっているこの時期に本書が世に出たことと、意識の全般的変革の必要性がひろく認識されていることには明らかな関連がある、との思いを禁じ得ない。本書のメッセージは、有史以前の四千数百年のあいだ、自然の創造的エネルギーと調和し、平和に暮らしていた時代が現実に存在していた、ということである。その後の五千年はジェイムズ・ジョイスの言う「悪夢[『ユリシーズ』のスティーヴン・ディーダラスの発言]」の時代、部族間や国家間の利害の衝突といった悪夢がつづいたが、この惑星は目覚めのときをいま、確実に迎えつつある。──© 2013 Joseph Campbell Foundation

… 繰り返しになるが、この絶筆の「まえがき」が書かれたのは 1987 年。ベルリンの壁崩壊は、その2年後のことでした。とくに最終パラグラフの文章は書かれて 32 年が経過しているいまなお、これを読む者の胸にひしひしと響いてくるものがあります。昨今の情勢を見るにつけ、キャンベルの残した「遺言」はとても重い。

 なお、この拙訳についてもコメントしたいので、それは次回に書く予定 … あくまでも予定 … 。

posted by Curragh at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に