2026年01月18日

【番外編】「訳者あとがき」が読みたい【ジジイ放談】

 今回は正攻法の「読んだ本の感想」ではなく、番外編。最近、邦訳書、とくにノンフィクションやビジネス本を含む「一般教養書」の訳書の巻末を見ても、「訳者あとがき」のない本が主流になりつつあります。「訳者あとがき」のない訳書にも二通りあって、ひとつはな〜んにもない本。いまひとつが、その本が扱っている分野の専門家とおぼしき大学の先生が書評もどきにしたり顔で書いたあとがきならぬ「解説」付きの訳書。

 訳者あとがきを入れる/入れないの判断は、翻訳書の邦題をどうするかも含めて担当編集者さんの裁量に一任されているのが一般的だと思う(文芸もので、しかも訳者が出版社に話を持ちかけた「持ち込み企画」の場合は、訳者の熱量にほだされてそのままあとがきもお願いしますねってこともあるかもしれないが)。

 問題は、そうやって翻訳者以外の第三者が書いた解説がてんで明々後日の方向を向いていたり、牽強付会我田引水的だったり、はっきり言ってつまらなかったりピンポケだったりしている場合。そういうわけで今回は、日本でもよく知られたハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデル氏の能力主義を批判した邦訳書の文庫版を例に引いて、ちょこっとジジイ放談してみたくなりました(※老婆心ながら、ワタシが小学生時代の日曜の朝に放映していた、政治評論家のおっさん2名が言いたい放題意見をぶつけ合う「時事放談」という番組タイトルをもじったもの)。

 のっけから「本書は、〜 の邦訳である」とバーンと(それこそ優木せつ菜のえいがさき楽曲「BURN!!」じゃないけど)いきなり書き出されていて、なんかこうムズムズしちゃいます。そんなこと読了したばっかの読者は百も承知ずら。それに訳者でもないのに「でR」(ネタが古すぎるか)と断言されても …… そして巻末なのにまるでこの本を読んでない人向けに書いたような各章の「要約」がつづき(長ッ!)、「以上が本書の概略である」と要約だけにようやく(?)ここから本題でございって感じになる。しかしサンデルの言わんとするところを深堀りするというより、ご自身の用語系なんかを引っ張り出して、「…… 何を善とみなすかについての議論の必要性を説くことに留まっており、曖昧さを含むことは否めない印象である」とまたしても「でR」調なのはいいとして、そもそもキチンとこの本読んだのかいなって、本文/原注に誤植を見つけた読者は率直に思う(p. 419 の Open Crass は著者名 Oren Cass の間違い)。言い方はたいへん失礼ながら、ハズレの解説に当たっちゃった感じは否めない印象である(おまけに merit の原義は「功績」という話までくっつけてる …… この本が問題視しているのは功績は功績でも、成果主義のほうでは? ご丁寧に文庫版にもあらたな解説を書き下ろし、それがさらに脱線気味なのも挨拶に困ってしまう)。
 …… 市場化によって締め出される道徳的規範について熟慮し、人々のあいだで議論することの意義は、市場の力が増す現代社会においてこそいっそう高まっていると言える。社会の市場化を擁護する人々は、市場は道徳的価値から中立だと主張するが、それは間違いなのだ。そもそも、市場化は社会における幸福の量を増すのだから望ましいとする時点で、功利主義的な価値観を前提としているのは明らかだろう。道徳的価値からの中立は幻想だとするこの主張は、サンデルの著作に多く現れる重要なテーマでもある。──M. サンデル/鬼澤忍 訳『それをお金で買いますか:市場主義の限界』(p. 300)
 ↑ は、同一の訳者による 2014 年に刊行された文庫版の「訳者あとがき」から。同じ読むのなら、一読者としてはこちらの「訳者あとがき」のほうがはるかに好ましく思われますけどね(個人的印象としては、日本語版としては最新刊のお題のご著書より、10 年以上前に出たこちらの本のほうが内容的におもしろいから、こちらは書店に行ってしっかり買っておきました)。

 …… 文庫化されたキャンベル本にも、そんな迷解説≠ェかつてあったっけ──「つまりこういうことなのだ。私は、小説家で、数ヵ月前に五十歳になった。それは一つの『区切り』なのだと思った。で、私は何をしたのか? これは現在も続行中なのだが、モノの片付けに入った …… なにしろ膨大な量がある。
(中略)さて、私はここまで何を書いているのか? ジョーゼフ・キャンベルの『生きるよすがとしての神話』の文庫解説用の文章で、何を書き連ねているのか?」ってきて、「至高のもの=究極点に人類が近接したいと望む時、やはりそこにもニ種のアプローチがあり、そのことをキャンベルは本書できっちりと書いている ── 講演録なのだから『語っている』がまず最初に来る ── ということだ」(pp. 440−442)

 ハァ???(『ちいかわ』のうさぎで)

 幸い、こちらの文庫版には初版の「訳者あとがき」が全文再録されている。なのでよけいに蛇足感が否めないのである。

 というわけで、ようするにワタシは訳者御本人が書き下ろした「訳者あとがき」が読みたい人なんです。せっかく多大な労力と時間をかけて(それこそサンデル教授が「貢献の真の価値は、受け取る賃金では測れない。賃金は、経済哲学者フランク・ナイトが指摘したように …… 需要と供給の偶発性に左右されるからだ。貢献の価値を決めるのはそのような需要と供給ではなく、力を注ぐ対象の道徳的・市民的重要性だ」と書いているように[p. 369]、金銭的にまったく割に合わない仕事、という事実もものともせず!)ヨコのものをタテにして(場合によっては横書きの訳書もあるけど)いる翻訳者自身による分析や解釈や批評が読みたいんです。そういえば『訳者解説』なんてタイトルの本もありました …… すこぶる fun to read な本でした。

【補足】:❶ 「能力主義の専制」(本書の原題)の残酷な副作用として、苛烈な競争を経た高学歴者もまた精神がボロボロに傷ついている、という話に関しては、ビル・マッキベンの本にもこんな一節が出てくる(下線強調は引用者)。
…… 中国青年報の最近の調査によれば、若者の 66 %が成功しなければならないという「厳しいプレッシャーにさらされていると考えている」…… 中国の一流大学を卒業して年俸1万1000ドルの職に就いているという典型的な 三〇代男性の言葉を引用している。「人生はストレスだらけです。いつも肩にものすごいプレッシャーがかかっているのがわかります。どうにかしてもっとうまくやりさえすれば、金持ちで幸せになれるのかもしれません」(『ディープ・エコノミー』, 2008, p. 268)
 米国の場合も、まったく同じ病理が学歴競争の勝者のあいだにはびこり、一方、ありもしない「白人の特権」をタテに社会から忘れられたそうでない人々(おもに白人男性)はそんな彼らを憎悪し、こうして社会の2極化と分断は容赦なく進行して、その結果がいまわたしたちが目の当たりにしている現米政権のやりたい放題の横暴、ということになる。また、「アメリカン・ドリーム」の考察も個人的にはおおいに興味を惹かれた(昔、アメリカン・ドリームは論文のテーマに値すると書いていた英米文学翻訳家の先生がいたので。ついでに第7章後半に出てくるラナ・フォルーハーは、日経を読んでいる人にはおなじみな感ありの、 英 FT 紙のグローバルビジネスコラムニスト。引用されていた原著はおもしろそうなのに、あいにく邦訳はないみたい)。

❷ 第4章原注(p. 448)の 74. の著作は邦訳が出ている(のに、なぜか引用がないから)⇒ スティーブン・レヴィ/仲達志・池村千秋 訳『グーグル:追われる立場から追う立場へ』(2011)の第7章(pp. 499−519)。たまたまコレ持っていたので気がついたしだい。「監視資本主義」的な本ももちろん良いけど、巨大 IT 企業の内幕暴露的なノンフィクションが好きな方には合わせておススメしたい1冊。

❸ 同じ章の原注 11.(p. 455)について。原記事を見たら "Turning to his central theme, education , he said: 'Ask me for my three main priorities for government and I tell you: education , education and education .'" とあり、おそらくコレは往年の洋画に出てくる、「新聞記者にとって重要なものが3つある。第一に accuracy、第二に accuracy、第三に accuracy だ!」という科白が元ネタだろうと思う*

❹ 本文中、トマ・ピケティの論文と著作の引用もいくつか出てくるけれども、そのピケティ先生、じつはこのサンデル本の「大ファン」だって御本人の前で明かしちゃってもいる(『平等について、いま話したいこと』, p. 64)。ハーバードを含むアイビーリーグなどの米名門大学のブラックボックス化している寄付金とその問題について、ピケティは『21 世紀の資本』(2014)でも触れている(pp. 464−469, pp. 504−506)

*:うろ覚えだったため、最初にそれを知ったタネ本が地元の公共図書館に納本されていることも知っていたから(ホントは持ってるんですけれども、行方不明中 …)確認しに行って、タリーズでエスプレッソ飲み飲みスマホでウラとりしていたけれどもいっこうに出てこず。??? のまま帰宅してあらためて PC で検索したら、こちらのラブコメものが引っかかった(本にはグレゴリー・ペックなんて書いてあったけれども、正体を隠してジャーナリズム講座に潜り込んだ腕っこき新聞記者を演じたのはクラーク・ゲーブルだった orz)。どうもピュリッツァーの逸話の孫引用らしい(ピュリッツァーは「新聞作りで忘れてならない重要な3点とは何か?」と訊かれたとき、「それは正確性、正確性、そして正確性です」と返した)。

評価:るんるんるんるんるんるん

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2025年12月25日

Finem lauda! と快哉を叫びたい「えいがさき」第2章

 昨秋公開された『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編 第1章』(えいがさき第1章、以下えいがさき)』を観てからずっと楽しみにしていた続編が封切となり、公開初日にさっそく地元劇場にて鑑賞へ。以来、ことあるごとにいろいろな場面やシークエンス、科白回しなど気になる箇所がぽんぽん出てきてはまた観に行く、を繰り返した(じつは今日も観に行った…お台場くんだりまで[木曜を待たずに上映終了したため。だからお台場行きは直前までアタマになかった])。

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※ ユナイテッド・シネマ アクアシティお台場

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※シネマサンシャイン沼津

 『ラブライブ!』シリーズは(自分の持論っぽくなってしまってなんか申し訳ない気もするが)、音楽要素てんこ盛り盛りな、ひとかどの教養小説(Bildungsroman、ビルドゥングスロマン)だと思っている。それは無印=wラブライブ!』から始まり、『ラブライブ! サンシャイン!!』、『虹ヶ咲』(通称アニガサキ)、『ラブライブ! スーパースター!!』へと受け継がれ、アプリゲーム上の「活動日誌」を主体に展開する『ラブライブ! 蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』、そして現在進行中の新しいプロジェクト『イキヅライブ! LOVELIVE! BLUEBIRD』に至るまで、このシリーズの物語の核≠ヘ、高校生のあいだだけという期間限定で活動するスクールアイドルたちの精神的成長を描くことで、いま若い人、かつて若かった人とに関係なく、幅広い世代のココロに深く突き刺さる普遍的真理をさりげなく示していることにあると思っている。そんな描き方の手法にすっかりハマって、気がつくと数年が経っていた(微苦笑)。

 とくに「アニガサキ」からの OVA(NEXT SKY)、そして完結編と銘打たれた本作までの流れは、もうまんま教養小説(成長小説)と言って遜色ない仕上がりだし、実際そうだと思う。前作では沖縄組6人(と、途中で合流した高咲侑)と、彼らを支える高咲侑との関係性、とくに本作を貫く中心思想的な“friendly rivalry”、「仲間でライバル」「ライバルで仲間」の、前者の「仲間でライバル」とはどういうことなのかが、鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)と上原歩夢の関係を通じて深堀りした脚本の妙に感動した。

 だいたい三部作というのは中央のエピソードで人間ドラマが急転したり、思わぬ事実が判明したりと登場人物(キャラクター)の内面をぐいぐい掘り下げる展開が少なくない(序・破・急の破)。かの 『スター・ウォーズ』シリーズなんかもそう(とくに、初期三部作のエピソード5など)。

 というわけで、ここではえいがさき第2章に登場する「関西組」メインの6人について、各キャラクターの視点に立って思うことを書き出してみたい。

すれ違いと互いのほんとうのキモチ/家族≠ニいう永遠のテーマ: 劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』(2019)でも、小原鞠莉とその母とのギクシャクした親子関係が描かれていたように、本作でも家族≠ニいう、絶つことのできない血のつながりと、血のつながりに依存しないもうひとつのつながり≠観る者に深く考えさせるような展開が、名門音楽一家出身のミア・テイラーのエピソードに出てくる。

 ミアは日本に来て、ニジガクのスクールアイドル同好会に入ったあと、なんの制約も受けずに思いのままに歌うことができていた …… ように見える。しかし、少し歳の離れた姉クロエがスクールアイドルグランプリ(SIGPX)のアンバサダー(ようは広報大使ね)として来日し、ミアと再会したことで、ミアは幼少時のトラウマを再び突きつけられることになる。

 今回、自分の出番も顧みず(?)、「ライバルで仲間」のために狂言回し的裏方に徹するのが、離島出身者の朝香果林。方向音痴をものともせず、果敢にもクロエの居場所を突き止め(綾小路姫乃さんナイスアシスト!)、相手とサシで向き合い、「家族は一生続くものでしょ」と突っぱねられたあとでこう切り返す──「わたしは、一生続くのは家族だけだとは思いません」

 これは、離島から単身上京して、学業のかたわら芸能関係の仕事をこなしてきた彼女にしか言えない科白だと思うし、家族というのはあまりに近すぎてじつはまるで見えてないこともよくあったりするもの。げんに、なんですかあのフリフリなロリータファッションは(苦笑)。baseball 大好きでボーイッシュなぼさぼさショートヘアなミアちがあんな衣装をあてがわれて内心、いい気分でいられるはずがない。
──なんでこんな服着なきゃいけないのさ? 
──よく似合うと思ったからよ
["What's supposed to all this ? / Just supposed it did suit you ! のように聞こえた]
 このやりとりだけでも、この姉さんが、自分の妹の趣味嗜好がまるでわかってないことが露呈している(着せ替え人形的な扱い)。さらに言えば、「スクールアイドルはしょせん期間限定の寄り道的な活動。そこに時間を割いているヒマなんてない」みたいな発言もして、そこに残りの高校生活を全投入してきた優木せつ菜(中川菜々)の心を再起不能なまでに打ちのめしてしまう…けっきょくクロエの認識も、鞠莉ママとたいして変わらなかった、ということです(この時点では)。

 ミアはクロエに急かされるようにして、いったん帰国を決意する。その後の璃奈とミアの顔の向きや顔に差す影の細かい描写がまた絶妙で、心理描写といい風景描写といいほんとうにムダなコマというのがまったくない。しかし観ているほうもぼんやりしていると見過ごしてしまうくらいさりげない(subtlety の極致といふべきか)ので、それで何回も観て確認に追われたりする(GPX アプリの異変は、璃奈がミアのためにアプリ専用の配信カメラを操作したときのタイムラグに現れていて、天才肌のメカニックでもある璃奈はその瞬間、アプリの不調を見抜いていた。直後のカメラの挙動もなにやらおかしいし)。

 以前、アニメムジカの若葉睦/モーティスの DID 問題に関する拙記事で、海外の DID 当事者が実際の症状と比較して、アニメムジカで描かれていた睦の解離性障害や解離性健忘などを仔細に論じた長文を読んだって書いたけれども、「線画だけになった睦とモーティスが互いに1本のギターを抱き合ったまま無意識の奈落へ沈んでいく」カットをなんとその人は「ユリ」(百合)と表現していた。最初は読み間違いかとも思ったけれども、よくよく考えてみると、「精神的合一」というのも百合と言って良くない理由はとくに見当たらず …… だからあえて言いましょう。高咲侑役の声優さんもある配信でフリップに書いたとおり、あれは「けっこん」です。もちろん大真面目に書いている。アプリはぶっ壊れているから、当然 NO SIGNAL。ミアの歌と、その「返歌」であるボードをはずした素顔の璃奈の歌は、互いのほんとうのキモチを通わせた「連詩」のような歌となっている(たとえばミアちの歌に出てくる intertwine が、璃奈の歌では weave together で返されている)。
そうか …… これがボクのほんとうの気持ちか。璃奈も、ボクと同じように感じてくれてたんだね。だったら、ボクもこの気持ちに従う
 小原鞠莉のときと同じく、ミアも「他人の敷いたレール」(Cf. アニメムジカ 12 話で豊川祥子が放った「もうお祖父様の言いなりにはなりません!」)の呪縛から解き放たれて、純粋に「自分の心の声」に従う道をみずから選択する。
… 璃奈のボードは気持ちを隠すためじゃなくて …… 伝えるためのものだろ?
 不肖ワタシはこのカットを見たとき、ルーク・スカイウォーカーが、いまやライトサイドに戻った父アナキン・スカイウォーカーの顔から黒い鉄仮面マスクをはずした場面を思い出していた。そして、
── Chloe, meeting school idols reminded me how much fun singing could be. They saved me ! I can't choose between family and friends. So ... I do need your support. Please, let me stay here a little longer !
 ミアはこのときはじめて、クロエ姉さんに本心を打ち明けることができた。

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※ atré 秋葉原のラブライブ! シリーズ オフィシャルストア/
スクールアイドルシアター

「突破力のある人」を復活させた栞子のコトバと、心からの respect の告白: この作品が好きな人はみんなそうだろうと思うけれども、前半のミアちと璃奈のキズナもじゅうぶん感動的なんですが、それ以上のトンでもない感情の起伏を物語後半、宮下愛と優木せつ菜から食らわされることになろうとは、誰が予測できただろうか? しかもアニガサキの最初のほうのエピソードにまでそれはさかのぼる。解像度が高いとかもうそんな次元ではないですよ。強いて言えば、キャラクターへの愛の深さが生み出したキセキのような展開、としか言いようがない。そして、いままで追ってきたどの『ラブライブ!』シリーズよりも深い、普遍的真理をさらりと示す至高のシークエンスが続く(たまんねぇ〜 by 嵐千砂都 ○️)

 その前に、「スクールアイドルは一生続けられるものではない」ことに悶々とする優木せつ菜に関しては、個人的にはこの小説版を下敷きにしていると強く感じさせられる。小説版のヒロインは文字どおり優木せつ菜/中川菜々で、小説版でもやはり「スクールアイドルとしての有限性」について物思いにふける描写が出てくる。
「紅姫(アカヒメ)は忘れられてしまうことは怖くなかったのでしょうか ……」
「忘れられてしまうことを受け入れる気持ちとは、どんなものなのでしょうか ……」
…… 自分が生徒会長ではなくなって、やがて──そんな日は考えたくないけれど──学生という与えられた期間が終わってスクールアイドルでもなくなる──そうなった時に、はたして、優木せつ菜≠ヘ覚えていてもらえるのかと。(ibid., pp. 252−253)
 果林がミアちのほんとうのキモチを見抜き、彼女のために動いていたように、そういう適性≠ノすぐれたもうひとりの助っ人である三船栞子が、ここでついに行動を起こす(ちなみにアプリカメラがちゃんと稼働していた初日に先陣を切った彼女の MV もまたシンボリックで良き。卵から突き出す鳳凰の尾≒本に挟まった栞、そしてすぐあとでミアちが Wow! と感嘆の声をあげた、宇治の平等院鳳凰堂ともつながっていく。ついでに GPX 開始時刻は正午きっかりで、GPX 運営のファイナル決定の発表があったのも正午と、きっちりシンメトリックにまとめている)。

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※ 特典デュープフィルムより、三船栞子の歌唱シークエンスの一部カット

──愛さんとわたしは、少し似ているところがあると思っていましたから、意外とは思いません
──んん? 似てるかなぁ、アタシたち ……
──人のためには動けるけど、自分のためには動けない。一見、感覚的に行動しているように見えますけど、ほんとうはとても周りに気を配っていますよね? 
──言われてみればたしかに …… そうかも! なんで?! 
 こうして動ける≠謔、になった宮下愛は、雨が降りしきる大阪の街並みを眺めていたせつ菜を見つけると、彼女が「人生のバイブル」だと言い、優木せつ菜というステージネームを与えてくれた SF ものアニメをいっしょに鑑賞する。
──カッコよかったね …… でも、せっつーとは少し違うよね? やっぱり愛さんにとっては、せっつーがヒーローだなあ …… ほんとうだよ ……
──アタシ、せっつーが学校の屋上でライヴしたときのこと、いまでもはっきり覚えてるよ。愛さん、あのときのせっつーにめっちゃ憧れちゃって、スクールアイドルをやってみたくなったって言ったよね? それからずっと、同好会のみんなを、キミのことを見ていたよ。自分の弱いところを認めて、どんどん成長していくキミを、すごいなって思って見てた。キミは強くなった。それってぜんぶ、優木せつ菜がいたからじゃない? だから、いなくなるなんて言わないでよ。キミが思い描いたアイドルは、きっといまのキミになっていて、これから先もずっと、たくさんの人たちに力を与えていける …… みんなにも。アタシにも
 この場面を最初に目にしたときにアタマに浮かんだのは、「宝玉の網」(インドラの網)という古代インドの神話のイメージだった。互いが互いをキラキラと反射し合う。愛とせつ菜/菜々の関係には、心から互いをリスペクトし合う揺るぎない感情がある。それはきっと血縁関係を超越している。愛とせつ菜だけでない。ひとり斜に構えたところがあった朝香果林が、本作でまさかの役回りを演じるまでに「成長」を遂げている。ニジガク同好会の 13 人すべてにおいてそうした「成長」が描かれている。friendly rivalry、「仲間でライバル」「ライバルで仲間」をここまで描ききった教養小説というのを、寡聞にして自分は知らない。

 スクールアイドルフェスティバルのときのようなやり方で、自分たちの力で「お祭り」を続行したニジガク関西組。そのトリをつとめた宮下愛は、神戸港のシンボル・ポートタワーを背景に、最初はせつ菜のアイコンと自分のアイコンが組み合わさった同心円状の円形ステージ(円≠ヘ永遠性の象徴でもあるし、愛の歌う楽曲タイトルもまた Circle of Love と円環のイメージがある)で、その後さらに上の頂点のステージから、かわいらしい王冠≠斜に被ってパフォーマンスする。愛のせつ菜に対するリスペクト、せつ菜の愛に対するリスペクトが文字どおり愛をいちばん高い地点にまで引き上げ、彼女はせつ菜をオマージュした力強い右脚の蹴り上げを繰り出す。それを見た他校のスクールアイドルたちも奮起し、彼女たちと同じく不完全燃焼だったオーディエンスの目に輝きがもどり(ココで、三宮センター街のカラオケ会場で愛に励まされたモブの子が、ポートタワーのてっぺんから愛がオーディエンスに向かって「みんなはどう?」と問いかけたとき、まっさきに声を上げる …… こういう作り込みの細やかさもニジガクならではの見どころ)、愛の理想とする「みんなが楽しくなれるステージ」の盛り上がりは最高潮に達する。それが圧倒的な映像技術を駆使して縦横無尽に表現されていく ── 古代ケルトの豊穣のシンボル「ダクザの大釜」の饗宴にも思える、Circle of Love の楽しさ全開のステージ …… だから、彼女たちの活動は限られた時間でしか咲かないように見えて、じつは永遠性(eternity)を宿した存在でもある。せつ菜はきっと、宮下愛からまったく思いがけない告白≠受けて、その真理に気づけたのではないかと個人的には感じている。(※ お題のラテン語は、「結末を賛美せよ」という意味。くわしくは『ラテン語名句小辞典』を見てね)。

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※ 特典デュープフィルムより、宮下愛の圧巻のステージ

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

2025年11月30日

30 数年越しの「真作」認定 > BWV 1178 & 1179

 今月中旬になって、『ラブライブ!』や『バンドリ!』シリーズものの動画のおススメ一覧の中に、ふと気になるクリップがいきなり出現した。??? と思ってクリックしたら、トン・コープマンがバッハゆかりのライプツィヒ・聖トーマス教会の通称「バッハオルガン」で未知の楽曲を2曲、つづけて演奏する動画だった。

 その後、海外配信記事の邦訳などで、この2作品がじつはアルンシュタット時代のハイティーンの若き教会オルガン奏者だったバッハその人の「真作」だとつい最近、認定されたばかりだと知って、文字どおり驚愕した。

 とりあえず BWV 1178 のほうのスコアを眺めると、古楽ではよくあるダ・カーポを多用した繰り返しの多いシャコンヌなのだけれども、なぜか? 真ん中にフーガが挟み込まれた A−B−A❜ 形式になっているのが変わっているところ。校訂楽譜はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から入手可能。

 ともに3拍子の変奏曲(その起源は中南米だと言われる)シャコンヌ/パッサカリアは、バッハの場合、超有名な2曲しか例がない(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004/オルガンのためのパッサカリアとフーガ ハ短調 BWV 582)。今回、バッハアルヒーフ所長ペーター・ヴォルニー氏が学生時代から追い続けてじつに 35 年(!)越しにバッハの真作と特定したこの2曲を聴くと、どことなくゲオルク・ベーム(リューネブルク)やラインケン(ハンブルク)といった当時の北ドイツオルガン楽派の老巨匠の作品にも似ているように思わなくなくないのではあるが、正直よくわからない。バッハの真作の決め手≠ニなったのは、使用されている用紙の「透かし」と、筆写譜作者がバッハの弟子筋ザロモン・ギュンター・ヨハンだと特定されたため、ということみたいです(⇒こちらの記事によると、出所はパッヘルベルの「シャコンヌ ヘ短調」と同じ、ベルギー王立図書館所蔵の写本に収められた筆写譜らしい)。

 だいぶ前にもここで書いたけれども、この手の研究には二通りあり、ひとつは「透かし」模様や用紙の判定といった科学的検証、いまひとつは作品の様式面からバッハの真作かどうかを検討する様式研究がある。透かしや用紙に関してはクリアしているように見えるけれども、様式研究的にバッハ作品だと断言できるかどうかは、これだけではちょっと弱いのではないか、というのが、はるか極東の島国にいる一バッハ好きとしての偽らざる感想。もっとも当のヴォルニー先生自身、「つい2、3年前までバッハの作品の可能性があると真剣に考えたこともなかった」と言っているくらいだから、その後は予想もしない展開だったのだろう…。バッハ直筆を連想させる根拠としては、たとえば「バッハに特徴的なハ音記号」がスコア冒頭で確認できる、とのこと。私たちバッハ好き、音楽好きにとっては、たまさかこうしてバッハ関連で盛り上がってくれればとくに言うこともないので、2025 年も待降節を迎えようとしている時期になってこの手のサプライズが飛び込んでくるのはむしろありがたい、と言うべきか。

参照先:バッハアルヒーフの当該ページ
英ガーディアン報道記事その❶
同 その❷

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2025年11月15日

生演奏で初の「オルガン付き」

 先日、オーケストラ・ゾルキーという団体の演奏を聴きにミューザ川崎シンフォニーホールへ行きました。コロナ禍以降、野外の演奏会(渋谷ストリーム稲荷橋広場で開催された NHK Classic Festival)を1回だけ聴いたのを例外として、コンサートホールに赴いての演奏会はほんとうに久びさのこと。ここのホールも初めてで、音響はホールに入ってすぐわかるほどバッチリながら、選んだ席がハズれ(?)だったせいか首が痛くてしかたなかった(苦笑)。ゾルキー(Зоркий)という名称は聞き慣れないけれども、カメラ好きの人は、旧ソ連製のライカ型 35 mm カメラから来ているのではと「鋭く」気づくかもしれない。

 プログラムはレスピーギの交響詩「ローマの祭」、G.V. スヴィリードフの組曲「吹雪〜プーシキンによる音楽的イラストレーション」、そしてサン=サーンスの「交響曲第3番 ハ短調 “オルガン付き”」。オルガン好きなので、もちろんお目当てはサン=サーンス。ここのコンサートオルガンは大阪のザ・シンフォニーホールと同じスイスのクーン社製で、実動ストップ 71 /4段手鍵盤と足鍵盤の大型楽器。演奏者は野田美香氏、指揮は長田雅人氏。

 レスピーギ作品はいわゆる「ローマ三部作」のひとつとして有名で、古代ローマ・中世・ルネサンス・20 世紀と時代を超えたローマの祭典の変遷を描いている。出だしの暴力的な(描写されているのが血なまぐさい殺戮の祭りだから当然と言えば当然ながら)ファンファーレを奏でる3人のトランペット奏者による「バンダ」は、ヴィンヤード形式のステージ後方、オルガン手前のひな壇席中央に陣取っていた。手回しオルガンや素っ頓狂なメロディーを奏でるクラリネットや金管が入り乱れ、混沌とした大音響で幕となる終曲は、オルガンも加わって文字どおりどんちゃん騒ぎ。腹の底に響く重低音、ホール空間を揺さぶるオケサウンドに圧倒されっぱなしだった。

 組曲「吹雪」の作曲者ゲオルギー・ヴァシリエヴィチ・スヴィリードフ(表記はプログラムのママ)という人は寡聞にして知らなかったけれども、ショスタコーヴィチ最初の弟子のひとりだった人らしい。そして驚くことに早世した息子さんが日本文学の研究者で、晩年は日本に滞在していたという(なんと『宇治拾遺物語』のロシア語訳まで手掛けている! アーサー・ウェイリーの旧ソ連版といったところか。松本清張作品も訳しているらしい)。

 作品を聴いての第一印象は、トロイカだったりワルツだったり、どことなく「懐かしさ」みたいなものを強く感じた。とくにワルツは師匠のショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」を真っ先に思い出した。「ロマンス」と題された楽章では、コンサートミストレスによるソロがまるで演歌かエレジーのようにも感じられた。

 休憩後は待ってましたサン=サーンスで、楽曲構成はこちらに丸投げするとして、オルガンの音に関して言うと、サントリーホールのリーガーオルガンに似てるかな、という印象。木をふんだんに使用したホールの空間をすっぽり包み込むような、温かみのある(やたらキンキンしない、わざとらしい音の分離のない)サウンドで、個人的にたいへん好ましかった。レジストレーションのバランスも良く、オケと渾然一体となった堂々たるハ長調の終結部はここ数年、疎遠になっていたオケの生演奏≠フ高揚感を十二分に堪能させてくれた。

 … そしてコレは自分が知らないだけなのかもしれないが、ここのオケは全体的に女性奏者の割合が高くて、どちらかと言うと男性奏者が多いイメージのコントラバスセクションも女性奏者のほうが多かった。

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2025年10月13日

『雨と君と』

 先日もすこし触れたけれども、この手の「何気ない日常に潜む非日常」を感じさせてくれる作品が個人的に好きでして、なんの予備知識もなく見始めたこの作品はまさにジャストフィット(微苦笑)。

 お話は、梅雨入りしたとおぼしき季節、ヒロインの小説家が、見ず知らずの目の不自由な老婦人に高校時代に使っていた傘を差し上げるシーンから始まる。ずぶ濡れになって、ひとり暮らししているマンションに帰る途中、どう見てもタ✕キにしか見えない(しかも頭頂部に葉っぱまで乗せている)自称犬≠拾い、自宅へ連れ帰り、次の年の梅雨を迎えるまでの「ひとりと1匹」のほのぼのとした日常が活写されている。

 … 全 12 話を見終わって感じたのは、ひとことで言えばジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)に出てくる次の一節とほぼ同じではないのか、という感慨だった。
スティーヴンは窓のほうへ親指をぐいっと突き出して言った。
──あれが神です
(柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1−12』 河出書房新社刊, 2016, p.66)

 これは、ダブリン市内の学校で歴史を教えているスティーヴン・デッダラス(※ 柳瀬尚紀訳版。ほかの邦訳書ではディーダラス表記が一般的)が、校長のディージーに向かって言った科白。「創造主の道は人間の歩んできた道とは違う」と説教じみたことを言い出した校長に、窓の外でサッカーに興じている子どもたちを指差して、「そうじゃない、神は、ああいう『街の声』の中にこそいるのだ」とそれとなく反論したくだり。一見なんの変哲もない、とりたててどうということのない日常がじつは奇跡の連続なのだ、ということをふんわりと包むこむようなやわらかい科白まわしと人物描写で表現しているようにワタシはこのアニメ作品から感じとれたので(唯一、シリアスっぽかったのは、第4話の神社の夏祭りで「君」がいっとき行方不明になった場面くらい)。

 それがいちばんよく表れているのが第7話「なんでもない」のラストで出てくる。フリップ(スケッチブック?)にペンで文字を書くという特技を持つ自称犬の「君」の飼い主になったヒロインの小説家・藤が、「今日はいい日?」と「君」に問われる。「べつに。なんでもない日だけど…」と答えると、こんどは「ぜひあしたも同じ日で」と書いた紙を見せられた。すると藤はやさしく微笑みながら、「同じ日はないのよ」と返す。「なんでもない日なんてあるんだろうか …… やっぱり書けないや」

 小説家としての日常(つまり執筆)と小説家ならではの創作の苦しみを描いているところもすごくリアルで、いちおうこれでも文筆業やってる端くれとしては「わかるわ〜その気持ち」という共感しかない場面が多かったのもおおいに◯なんだ YO(Zoom かな? ああいう形式で編集者と打ち合わせしたことなんかも思い出された)! 

 藤の高校時代からの2人の親友とのやりとり、動物病院の獣医、隣家のドイツ系ハーフの饒舌な少女、毛色の変わった女子生徒2人組とのややすっとぼけたユーモアを交えたやりとり、季節が移り変わる空気感や、いかにもおいしそうな食事やデザート etc. が丁寧に、いとおしく描かれている点もいい。すこしお高めの紅茶を淹れて、さらに手許にお気に入りの一冊もお供にして、それこそアーノルド・ベネットじゃないけど文学本を熟読玩味するように、秋の夜長に慈しむように味わいたいアニメ作品。

 そしてこれは余談ながら、第8話「鳴き声」で藤が偶然出会った老婦人の声は、バンドリ! シリーズでおなじみのライヴハウスの元オーナーでマイゴ(MyGO !!!!!)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)の祖母の中の人と同じで、「君」の声は、『ラブライブ!』シリーズで有名な動物の声が専門の声優さんがアテている。
……(雨が降らなかったら、出会わなかったかもしれない)。わたしと、わたしの書いた本はべつだから、いまは内緒でいいの。たくさん本を読んでいたら、いつか出会うよ(出会った、……)。わたしと希依ちゃんだってこうして出会ってるんだから
(…… 出会わなかった、出会いたかった。そうかもしれないけど、出会えた。似たような顔をしているから、間違えてしまうけど。出会いは偶然なんだろうか?)
ほんとうに必要なら、ちゃんと出会えるよ。すこし不思議だけどね ……
(偶然じゃないとしたら、あなたはなぜわたしを選んだんだろう?)── 第9話「秘密」より

 ──これが神です(by スティーヴン・デッダラス)

* episode0で、藤が髪をばっさり短くしてショートにする場面がある。その偶然≠ェ、「君」との出会いの伏線になっているように思う。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

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2025年10月03日

軌跡・奇跡・キセキ

 先日、『Aqours Documentary』を鑑賞してきました。地元民としては、東池袋のサンシャインシティ文化会館で開かれた9周年記念展示会についで、ぜったいに観に行かなければならないと思ったもので。なお前置きというか disclaimer なんですけれども、ワタシは芸術至上主義的な人なので、いわゆる「中の人」については、ほんらいは翻訳者と同じで黒子に徹すべし、評価はあくまで作品本位、というのが基本スタンス(東京ディズニーランドでゲストを迎えるチップとデールの中の人を考える人はまずいない)。しかしご存知のように Aqours が主人公の『ラブライブ! サンシャイン!!』を含めた『ラブライブ!』シリーズは 2.5 次元のはしりと言っていいのかどうかわからないが、2次元世界線上のキャラクターたちと現実の演者さんとがシンクロしてライヴを披露する、というシリーズの元祖的存在 μ's 以来の定着した様式がある。つまり演じる声優さんたちも作品のキャラ同様にスポットライトを浴びる宿命を背負うことになる。そしてこのシリーズ初の、そしてきわめて特異な記録映画の主人公≠ニして描かれているから、やはり一筆書き留めておきたいと思ったしだい。

構成:おおまかな流れは、❶ 6月にベルーナドームで開催された、9人全員がそろう最後の<宴Cヴ3か月前に行われたインタビュー ❷ 2015 年2月の Aqours メンバーとして初めての顔合わせなど、10 年におよぶ活動と、その間に生じたメンバー間の葛藤についての掘り下げ ❸ 作品の舞台となった沼津との関係 そして ❹ フィナーレライヴふたたび、という構成。ほかの媒体とかを見ると、各メンバーは数時間にもわたるインタビューの受け答えをしていたようですが、尺の関係か構成上の都合か? 3年生組の発言とかはほとんどなくて、伊波さん、逢田さん、斉藤さんの2年生トリオが中心、ついで1年生トリオの小林さん、高槻さん、降幡さんがそのときどきの「想い」を口にしていた。

❶ μ's の後継というプレッシャーとの戦い:以前もここで書いたように、ワタシは『サンシャイン!!』でこのシリーズの存在を知り、その後『ラブライブ!』『同 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』『同スーパースター!!』と観てきた人なので、初期のバッシングの話とかは直接知らないが、はっきり言って常軌を逸したものだったらしいことがキャストさんたちの心情の吐露(諏訪さんなど)からうかがえた。μ's の名が神聖四文字のごとく口にするのも憚られるほど、船出≠オたばかりだというのにキャストさんたちを襲った時化≠ヘひどくて、運営側から箝口令が出ていたという話が事実だったことが語られている。

 『同スーパースター!!』のファン層は、Eテレで放映していたり「リエラのうた」という新機軸(?)があったりしたせいか、園児から小中学生という子どものファンが多い、という若年傾向を個人的には感じてるんですが、そういうイマドキの若手ファンからは想像しがたいほどの重圧を Aqours は最初から受けていた。じつは薄々、こっち(沼津)でもソレは感じていて、たとえば 2018 年の紅白出場が決まったとき、なんと某オンライン署名プラットフォーム上で「出場阻止」を掲げた署名運動まであって、地元民のひとりとして呆れ返っていたことを鑑賞中に思い出していた。

❷「ラブライブ! フェス」からコロナ禍を経たグループの変容:重圧は内側からもかかる。逢田さんが Aqours のファーストライヴで、作品挿入歌のひとつで桜内梨子が奏でるピアノ伴奏を再現する場面で失敗したときのことを語っていたが、そのとき演奏を中断させ、リトライさせた判断を瞬時に下した舞台監督さんのインタビューがすこぶる印象的だった──「このまま続けていたら、きっと彼女の心に消えない傷を残してしまうと思ったから」

 結果としてこの判断は大成功で、「あがこう! 全身全霊で!」と走り続けた高海千歌たちの姿とみごとに重なり、チームとしての Aqours の結束もいっきに高まったように見える。それでも μ's の呪縛は残り続け、それがほんとうに解けたと思えたのは、2020 年初頭に開催された初のシリーズ合同ライヴイベントの「ラブライブ! フェス」で憧れの先輩たちと共演を実現したときだったという(伊波さんの話)。

 しかしその直後に襲いかかったのは、とんでもない伝染病の世界的大流行(パンデミック)だった。ライヴは軒並み中止、白紙にされる。クラシック界隈でもどこでもそうだったけれども、音楽家も一般人もなるべく密にならないよう要請され、沼津市も地元紙に全面広告を出して「いまは来ないで」と呼びかけていた。内浦小海漁港前の有名な海鮮料理店も大量のマアジのひらきが余って、クラファンを活用して冷凍品として一般販売するなど手探り状態だった。

 それでも芸能活動という仕事の性質上、さすがに心が折れただろうことは想像に難くない。当時の振り返りに耳を傾けていると、このへんからメンバー間の距離≠站C持ちのズレが顕在化していったのかもしれないと感じた。

❸ Aqours と沼津のキズナ:先日、地元紙にこの映画の監督さんのインタビュー記事が掲載されてまして、(寡聞にして存じ上げなかったが、ゾンビものの作品があるみたい)「『サンシャイン!!』の物語にあるまっすぐさを現実の世界でも背負い、貫き通すのは並大抵じゃない。取材しながら、彼女たちの『きつさ』に思い至った」のが制作のきっかけだったようです。

 舞台となった沼津とのつながりでは、Finale LIVE テーマシングル「永久 hours」のメイキングを中心に構成されてました。観ながら、ああそういえばこんなこともあったっけなと頷くことしきり …… 2018 年のエイプリルフールの朝、たまたま内浦地区に出向いたときに、三津海水浴場に巨大な千歌寝そべり(まんま普通怪獣)がデンと横たわっているのを見て、さらには詰めかけた人の多さとにぎやかさに仰天したこと、紅白出場が決まったときの商店街の盛り上がりよう、そしてついこの前も、フィナーレライヴ後の余韻を楽しむかのように作品のファンがどっとやってきて、内浦方面行き路線バスが臨時便を出していたこと、などなど(駅前のバスターミナルがそれこそ原宿の竹下通り並みに、コスプレ組も含めたファンでごった返していた)。印象的だったのは、逢田さんが(沼津との交流が)「10 年も続いているというのは、決して当たり前のことではない」という主旨の発言をしていたことだった。アニメの「聖地巡礼」ブームのきっかけを作ったのは『らき☆すた』らしいが、10 年間もキャストさんたちとともに歩んできたというのはおそらく尋常ではない息の長さなのではないだろうか。諸説あるでしょうが、「ここには何もない」と思い込んでいた市民が大多数だったことが、結果的にまっさらなカンヴァスに虹を描いたみたいな展開になったのでは、と個人的には考えている(拙小冊子参照)。

 げんに沼津でも長らく人口の転出超過が続いていたが、それが数年前から微増に転じた。『サンシャイン!!』関連の転入組は 100 を超えているらしい。市役所に就職してあらたな転入組向けにいろいろプランを打ち出しているとも伝え聞く。そもそもこのシリーズの舞台に決まったことじたいが偶然の成り行きで、ロケハンしていた酒井和男監督が「海辺の町で、高校が多くて、首都圏からあまり離れていないところ」を探しに来て伊豆半島に入り、「海越しに富士山を真正面に望む絶景の地」に佇む中学校を発見したことからすべてが始まった。思うに、リーダーを交代するとか制度を変えるとかもけっこうながら、けっきょく人々の意識≠ェ変わらなければ何も起こらないよね、ということをあらためて痛感させられる。「この出会いが みんなを変えるかな/今日も太陽は照らしてる 僕らの夢」(「君のこころは輝いてるかい?」)。Aqours という「普通怪獣」が上陸してからの沼津は確実に変わったと思う。

❹ Aqours の成熟度を示すメンバー間の距離:『ラブライブ!』シリーズに関して、無名の新人さんの起用に関する批判をときおり耳にする。そもそも若くて元気な人でなければとてもじゃないが務まらんでしょ、というのが個人の意見だけど(ニジガクの場合は子役などの芸能経験者が多いようですが)、まだ二十代になるかならないかの女の子たちが 10 年も同じ釜の飯を食った company ともなれば、そりゃどんなグループやバンドだって方向性の違いは出てくるでしょう。『バンドリ!』シリーズの最新作でラテン語多めメタルバンド設定の Ave Mujica でも、こうした現実のバンドでありがちな解散の危機が描写されていたし、「個性豊かな子たちなんですよ〜」とメンバーのひとりが発言していたとおり、個性のカタマリが9人も集合すれば時間の経過とともに目指すものも違ってくるよね、と。

 そのメンバー間の温度差を象徴していたのが、公演前にやっていたという円陣を組まなくなった、というエピソード。高海千歌役の伊波さんの話では、コロナ禍以降の公演では円陣を組まなくなっていたとのことで、互いを想う気持ちが強いゆえに言いたいことも言えなくなってしまった的な葛藤も明かされていた。これも個性豊かな集団ではよく聞かれる話です。でもこういう葛藤やモヤモヤを抱えながらも笑顔で聴きに来てくれているファンたちを楽しませなければならない。真に強靭な精神力の持ち主でないと務まらないたいへんなお仕事です。無名の新人ガ〜とかいう批判は当たらない。ベテランだってキツいことに変わりないでしょう。もっとも経験値の差は出ると思いますが。

 いまや「愛♡スクリ〜ム!」で世界的にバズっている黒澤ルビィ役の降幡さんが、ひとり黙々とランニングしているシークエンスが出てきたのも印象的だった。その降幡さんが最後の公演のときにメンバー全員に手紙を書いて手渡していた。伊波さんはストイックなあまり、自分の本心を伝えるのが苦手なタイプなのかもと観ながら感じてもいたが、それを降幡さんがみごとに補っていたかのようで、ここでワタシはうるっときましたね。個人的には最後は内浦の海をバックにエンドロールしてもよかったのかなとも思ったが、あえて黒一色背景にしたのがやはり正解なのだろう。

 …… じつはこの日は商店街の休日で、それでかどうかは知らないけれども、商店街の人たちと内浦の人たちも団体さんみたいにやってきて後方席に陣取っていた。上映が終了すると自然と拍手が起こり、「よくがんばったね、ありがとう」と声も飛んでいた。かつて千歌のスカートが透けてるとかイチャモンつけてきた外野連中もいたけど、これが 10 年間を Aqours とともにあがきながら歩んできた地元民の偽らざるキモチなんだよ、とタンカを切ってやりたくもなったずらね。

…… 気づいたんだ。ぼくたちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。……楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことを Aqours が、Saint Snow が気づかせてくれたんだよ。ありがとう──劇場版『同サンシャイン!! Over the Rainbow』の渡辺月の科白から


地元ラジオ局制作の番組のコーナーで記者さんが語っていることで、「成り上がり」(の軌跡)という表現はまったく同感ですわ。コチラもぜひ聴いてほしい(ちなみにラッピングタクシーを埼玉の会場まで乗り付けたって話は、ライヴ定番の話デス。紹介されていた本はこちら)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

2025年09月30日

シュテフェンス、カルゲス、バール

 最近は深夜アニメを地上波で観るクセがすっかりついてしまって、今夏のアニメでは『Summer Pockets』や『雨と君と』、春アニメだと『前橋ウィッチーズ』、『ロックは淑女の嗜みでして』、『紫雲寺家の子供たち』なんかをよく観てました(『ウィッチウォッチ』は「トゥンク、トゥンク、…… トゥングースカ…大爆発」とか、昭和世代なら誰もがツッコミを入れたくなる抱腹絶倒ものの小ネタがテンポ良く仕込まれていた怪作だった。ちなみに最初、この「トゥンク」なる科白を聞いたとき、てっきりラテン語の tunc かとカン違いしていた人)。

 というわけで、いつものことながらなんの前触れもなく久しぶりに、「さてこのへんで一発、NHK-FM ネタでもいってみようか」(方倉陽二『ドラえもん百科』第❶巻から)

 今週月曜(29 日)朝放送の「古楽の楽しみ」を仕事の〆切に追われつつ耳だけはそばだてて聴いていたら、まだまだ知らない北ドイツオルガン楽派の作曲家が出てくる出てくる! スウェーリンクは言わずと知れた「ドイツのオルガニスト作り」の異名をとるこの流派の元祖だからいいとして、つぎのヨハン・シュテフェンスとはそは何者? 状態になった。

 シュテフェンス(1559/60−1616)については詳細は不明みたいですが、北ドイツで活躍した人で、バッハゆかりの地のひとつリューネブルクで没している。番組でかかったのは、どこか牧歌的なやわらかい音色の印象的な「ファンタジア イ短調」で、オルガン曲のほか、6声のドイツ語によるマドリガーレも残しているらしい。使用楽器はリューベックの聖ヤコブ教会の「小さいほうの」オルガンを改作したことでも知られるシュテルヴァゲンが、シュトラールズントというバルト海に面した港町の聖マリア教会に建造した歴史的楽器(1659 年;3段手鍵盤と足鍵盤、実動 51 ストップ)。

 ヴィルヘルム・カルゲス(1613/14−1699)はベルリン生まれ、同地で没した人で、生涯、ベルリン近辺で活動していたらしい。スウェーリンクの弟子アンドレアス・デューベンに教わったようなので、ようは孫弟子ですな。6曲のオルガン作品が現存しているようで、そのひとつ「前奏曲 ホ短調」がかかった。コーダ近くで足鍵盤に野太いリード管の低音が響いていた。使用楽器はゴスラーという街にある旧修道院付属教会に 1737 年にクリストフ・トラウトマンというビルダーによって建造された歴史的楽器(3段手鍵盤と足鍵盤、実動 42 ストップ)。ということは、大バッハのライプツィヒ時代に建造された楽器になる(もちろんその頃には修道院教会はプロテスタントに改組済み)。げんにバッハ時代の音響を求めて、多くのオルガニストがここを詣でているみたい(↓ の埋め込みクリップはバッハではなく、ブクステフーデの「パッサカリア ニ短調」 BuxHV 161 ですけど。ちなみにこの曲は、アニメムジカの豊川祥子が読んでいたヘッセの教養小説『デミアン』(1919)に出てくる、「悪魔信仰」な若いオルガニストが主人公シンクレールに弾いて聴かせていた曲でもある)。



 最後にヨハン・バールなる作曲家(1655−1700)。出身はオーストリアで、宮廷人にして著述家でもあった多芸多才な人だったらしいけど、佳人薄命と言われるがごとく、狩猟中の事故で 45 歳 で亡くなっている。インキュナブラ特有の太いゴシック体の判読しずらい古いドイツ語で書かれてあるからよくわかんないけれども、ユーモラスな挿絵本を Jan Rebhu なる偽名で(!)何冊かものしているらしい(リンク先の書物は €5,000 〜 でオークションにかけられてますね ……)。こちらの使用楽器も同じ、トラウトマンの建造した大型の楽器になる(同一音盤)。

 スウェーリンクについで2番めにかかっていたのは、ドイツ3Sのひとりザムエル・シャイトの有名な「タブラトゥーラ・ノヴァ」からの1曲。録音に使用された楽器は番組で紹介されていた音源ではもっとも古く、1612/13 年に建造されたルネサンス様式の歴史的オルガンだった(いわゆる「燕の巣型オルガン」)。

 しんがりにかかったブクステフーデの「前奏曲 ト短調」BuxWV 148 を奏でていたオルガン(リューディングヴォルトの聖ヤコビ教会のヴィルデ/アルプ・シュニットガー改作の歴史的楽器)のピッチは、解説でも触れられていたけれども現代ピッチより高い、いわゆるコーアトーン(合唱ピッチ)で調律されている。北ドイツの、とくにシュニットガーのオルガンではわりとよくある話で、絶対音感の持ち主だったらとても気持ち悪くて聴いていられない……かもしれない(この国では絶対音感が神聖視(?)されているようですが。たしかにかんたんに「耳コピ」できるから一見、良さげではあるが、こういう場面では思わぬ苦痛を味わわされたりする)。



 …… というわけで、9月も終わろうというのに残暑が続くなか、朝からなんとも言えず清々しい風≠ェ吹き抜けたのであった。マルっ ◯ (Liella! の嵐千砂都ふうに)るんるん

posted by Curragh at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2025年05月29日

海外メディアによるインタビュー記事から

 たまたま、モーティス/若葉睦の画像が大きく掲載された海外記事を見かけた。米ジョージア州の州都アトランタに拠点を置く Paste という芸能関係の Web メディアのようでして、せっかくの機会だからと引用の範囲を超えないていどに抄訳としてここでも少し紹介しておきます。インタビューに答えているのは Ave Mujica バンドプロデューサー/音楽ディレクターの松本拓輝氏。
──ムジカは前作のマイゴよりはるかに暗い作風です。音楽面ではその変化をどのように取り込んだのでしょうか? 
M:… 光は闇があるから、闇は光があるから存在しますし、誰しも内面に暗い面を抱えています。だから『Ave Mujica』の音楽は楽しく聴かせたい、あまり重々しくならずに、という気持ちがあります

──アニメムジカは舞台、ゴシック的美学、ヘッセ『デミアン』まで取り込んでいますが、音楽に関しては何か特定のバンドの影響は受けていますか? 
M:制作中に参考にした楽曲やバンドはもちろんあります。個人的にはシンフォニックメタル、メロスピ、メタルコアなどから影響を受けています。図らずも自分自身の嗜好とムジカのテーマが一致した点は幸運だったと思います

──バンドとしてのムジカは、マイゴが終わった段階で自然に出てきた着想なのでしょうか? それとももっと早い段階でバンドリ! シリーズの次期作のバンドはもっとメタル色を前面に押し出すと決まっていたのでしょうか? 
M:マイゴとムジカは当初から、正反対のバンドとして構想されたものです。物語が進むにつれて、マイゴはパンク調、ムジカはメタルを核とするバンドにする流れへ自然に落ち着きました。シリーズ全体で見ても、パンクとメタルロックのバンドはなかったので、差別化に一役買っています

──脚本が先でそのあとに音楽が作られたのか、音楽が先だったのでしょうか? それとも同時進行だったのでしょうか? 
M:脚本が先です。挿入歌は物語に合わせて作られています。脚本の一部が未完成で、楽曲のほうが先になる場合もありましたが、楽曲は基本的にできあがった脚本に合わせて作られています

──バンドリ! シリーズでいつも感心させられるのは、現実のバンドメンバーが、ゲームやアニメのキャラクターの声優でもある点です。この2つをこなせる才媛を、ブシロードはどうやって見つけ出しているのですか? 
M:じつは『バンドリ!』シリーズの声優には初めは楽器ができなかった人、反対に、ミュージシャンだけど声の演技は初めて、という人が何人かいます。なので楽器も声の演技もできる人をとくに集めたわけではないんです。
 …… ついでに、「人はだれかを守ろうとするほど自分自身を守れなくなる。自らを投げ出し、“消えてもいい”とすら思うだろう。それが“愛する”という感情だ」という引用を紹介した考察動画クリップを見かけた。対訳になっていたから念のためウラをとってみたら、フロイトの『文明にひそむ不満』(1930)なる著作の引用らしい。しかし英訳(?)されたとおぼしき原文を見ると「超訳」っぽい気もする。高校生でもわかる平易な文なので訳は不要なくらいだけれども、いちおう普通に訳せば ──
We are never so vulnerable as when we love, and never so hopelessly unhappy as when we lose the object of our love.
人がもっとも無力感をおぼえるのは誰かを愛するときであり、絶望的なまでの不幸を味わわされるのは、そうした愛を注ぐ対象を失ったときである
くらいでしょう。対訳文だと、逆に英訳すればそれは“The more you try to protect someone else, the less you can protect yourself. You will give yourself up and even think ❛it'd be all right if it lets you disappear.❜ ; that is the emotion of ❛love❜." あたりになると思う。

posted by Curragh at 03:14| Comment(0) | TrackBack(0) | BanGDream! Ave Mujica

2025年05月18日

"I wish you had told this to Mutsumi-chan."

 アニメムジカ(BanGDream! Ave Mujica)の第 10 話「Odi et amo.」(憎み、かつ愛す)。自身の言動がことごとく強烈なブーメランとなって返り討ちされ、それを受け止める覚悟を決めた豊川祥子(とがわ・さきこ)が幼馴染の若葉睦の自宅を訪問する。そこではベース担当の八幡海鈴(やはた・うみり)が、自室の寝台で休んでいる睦(それまでの主人格ムツミ❶と、主人格の幼少時からのイマジナリーフレンドで、ムジカ解散の危機にムツミ❶が破壊されそうになったとき、交代人格となって肉体を乗っ取った「モーティス」が、主人格の象徴と言えるシェクター7弦ギターを奪い合ったすえ、主人格を無意識の奈落の底へ転落させてしまったあとの話なので、この時点ではモーティスとして生きている)を見守っていた。そして寝ているモーティスに対し、祥子は鋭く、冷徹に言い放つ。
ムツミ。あなたにはギターを弾く真似をしていただきますわ、ムツミ。……ただ、一度のズレも許しません。できますわね? あなたなら ……
 もちろん祥子は、いま目の前で寝ているのが幼馴染の睦その人ではなく、交代人格にすぎないことをわかったうえでこう宣告している。

 再結成したメタルバンド Ave Mujica は、復活公演をホームグラウンド的なライヴハウスの RiNG で開催する。これまでの大規模会場とは異なりちんまりした会場で予算も限られ、セットも必要最低限。初華が作詞した激重(!)のリリックをハ長調の美しいバラード調に仕上げたリーダーの祥子。そんな祥子に、初華は楽屋の控室でお礼を言う。いっぽう睦/モーティスはひとり、照明テストでどす黒い赤(!!)一色となったステージ上でギターの当てフリを練習していた。そこへ近づいてきたのがドラムスの祐天寺にゃむ。にゃむはモーティスに向かってこう言う。
…… ホントに消えちゃったんだぁ、ムーコ。この先ずっと若葉睦を演じるつもり? …… あんたの演技見てると、アタシって何、ってなる。ずるいよ …… ずるくて、うらやましくて …… 愛してる
 そうささやいたにゃむは、演劇の科白の練習を始める。思いがけない告白を受けたモーティスは不意に何かに気がついたような顔つきとなり、練習するにゃむを振り返り、そしてギター(=主人格)に視線を落として、こうひとりごちる。
──ムツミちゃんに、言ってほしかったな ……
 ワタシは当初、「いまのことばをモーティスがムツミに言ってほしかった」という意味にとっていたが、公式さんの英訳字幕を見て取り違えていたことに気づいた。…… 科白じたいがあいまい・両義的言い回しで、あえてそう言わせたのかもしれないが、この科白の正しい解釈は「それはわたしではなく、ムツミちゃんに言ってほしかった」だった。
──I wish you had told this to Mutsumi-chan.
 モーティスは、精神世界の舞台セットから主人格が転落したのは「わたしのせいじゃないもん! 勝手に落ちたんだもん!」とムジカメンバーの前で思わず叫んだように、守るべきはずのムツミ❶をギターもろとも意識下の奈落へと落としてしまったことに強い衝撃を受けていた。「わたしの役とらないでッ!」という歪んだ声※とともに、睦に似た巨大な影がセット背後の大窓に立ち上がる。「ムツミちゃんがいなければ、わたしがその役をやればいいんだ …… わたしが、若葉睦を ……」。しかし悲壮な決意とは裏腹に、ムツミの仮面は早々に剥がれ落ちた。常識人で、演技の勉強に打ち込んできたにゃむ(と、そのうしろで見ていた要楽奈)の目はたちどころにこの三文芝居を見抜き、ビジネスライクな交渉に来たはずがいっきに興ざめしたのか、「なにソレ …… きんも!」と吐き捨てる。ようするにモーティスは祥子訪問時にはすっかり弱っていたので、寝込んでいたんだと思う。

 そこへもってきて、ムツミ相手に言ってほしかったことをまたしても自分に言われてしまった(海鈴宅での当てフリ練習を終えて電車に乗っていたときも、「あれ! ヤッバ〜、睦ちゃんだ!」「ギター持ってる」と興奮気味に話す女生徒らの声を聞いたモーティスは、「…… 違うもん」とつぶやく)。けっきょく、にゃむの「愛してる」告白と、ステージ上で「Imprisoned XII」の演奏が始まり、初華の歌うリリックが心に文字どおり突き刺さったのだろう。足許にぽっかりと口を開けた奈落へ吸い込まれるようにして自ら身投げして(Cf. ムジカメンバーとしてのモーティスの決めゼリフは「われ、死を恐れることなかれ」)、先に落ち、いまや消えかかっているそれまでの主人格とギターが深い深い「無意識の海」の中で漂っているのを見つける。

 電車のシーンはこのひとつ前のエピソード(「Ne vivam si abis.」、「あなたが去るなら、わたしは生きられない」)の話で、主人格の転落はその後半(Bパート)に起こる。転落する直前がまたゾっとさせられるカットで、なんと主人格が、倒れているモーティスの首をぐいぐい締め付けているのだ(!!!)。でもいまや対立する相手はなく、求められているのはそのいなくなった相手のムツミのほう。ふたりのあいだにはもはや対立する理由もなく、モーティスは消えつつある主人格をしっかと抱きしめ、「愛してる」と言わんばかりに涙を散らして、ふたりとも消滅する …… 。

 …… その刹那、当てフリだったはずの睦の指はしっかりとギターを爪弾いていた。ベースの海鈴がいち早くそれに気づき、にゃむは、ドラムセットを叩きながらなぜかうつむく。そして大多数の睦ファンにとってそれは、かんたんには答えの出ないモーむつ問題というミノタウロスの迷宮の始まりだった(と、思う) …… ここで、モーむつファンのひとりとしてひとこと言わせてもらえれば ──「誰かムツミちゃんをほんとうのお医者さんに診せてあげて!!」

※ 「歪んだ声」は、おそらく元ネタのひとつっぽい『サスペリア』(1977)に登場する「闇の女王」こと、魔女ヘレナ・マルコスの殺害場面をも想起させる。また「モーティスにギターの当てフリを要求しに来た祥子」「無意識の水の中を落ちてゆくモーティス」、「にゃむから『愛してる』と告白されるモーティス」などの場面で流れるオルゴールのような劇伴も、個人的には「サスペリアのテーマ」を奏でるチェレスタの旋律を思い起こさせる。

追記:第9話のラストで、ライヴハウス RiNG のカフェラウンジに集まったムジカメンバーと、かつて結成した学生バンドの CRYCHIC(クライシック)復活の相談に来ていた祥子とが、モーティスの処遇をめぐって鋭く対立する場面があるが、そこで繰り出されるのが、従来のバンドリ!シリーズを知っている人なら仰天しそうな、およそバンドストーリーらしからぬことばの応酬となる。
祥子:モーティス …… あなたの願いは、睦を苦しめることですわ! 
海鈴:どういうことですか? 
祥子:モーティスは、苦しむ睦を助けるために生まれた。だから、睦が苦しみ続けることになる Ave Mujica の復活を望んでいるのです。自分が消えないために …… わたくしは、睦を苦しめる選択などぜったいにしない。幸せにしなくては ……
海鈴:幸せである必要はあるんですか? 満たされたら、終わりじゃないですか! Ave Mujica をすれば、モーティスさんは生きられる。2人とも生き続けられる …… 生きていないと、幸せにだってなれないんですよ! 
祥子:それでも、わたくしに Ave Mujica は選べませんわ ……
(ここでモーティスの精神世界の舞台へカットバック。存在理由を失いつつあるモーティスの立っている舞台セットが崩れはじめる ── ここのシーンも、魔女殺しを終えたアメリカ娘のスージーが「赤い館」から脱出する『サスペリア』のラストと重なる。魔女という「蛇の胴体」でもある「赤い館」は頭を失い、崩壊しはじめる ── わたしの役とらないでッ!!」)
海鈴:豊川さんはモーティスさんを見殺しにするんですかッ! 
祥子:覚悟のうえですわ! 
 教養小説的にはトーマス・マンの『魔の山』あたりを連想するけれども、日本にも超絶スゴい大作がある。埴谷雄高(はにや・ゆたか)の『死霊』(「しれい」と読む)だ。バンドアニメでまさか生き死にをめぐる論争が出てくるとは想像すらしていなかった。おかげで考察がはかどる(微苦笑)。

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2025年05月09日

AI 翻訳機の限界(?)

A. 有名なエジプト考古学者ザヒ・ハワスによって書かれたツタンカーメンの生涯を描いたオペラが、11 月5日にルクソールで初演される。ツタンカーメン王の墓の発見 100 周年を記念して、このオペラはハトシェプスト神殿の前で5日間上演される

B. 著名なエジプト考古学者ザヒ・ハワスが作曲したツタンカーメンの生涯を描いたオペラが、11 月5日にルクソールで初演されます。ツタンカーメン王の墓発見 100 周年を記念したこのオペラは、ハトシェプスト女王葬祭殿前で5日間上演されます。まさに壮大な舞台と言えるでしょう

 いきなり失礼。これは DeePL 翻訳と Google 翻訳にそれぞれ投入した英文記事の出だしを比較したもの。なんでこの記事を選んだかについては、昔、まだ Google 翻訳サービスが出始めた頃に「エジプトのショウビズファラオ」なる見出しの NYT 原文を放りこんだらザヒ・ハワス博士(!)を「ザヒ・家博士」(!!!)なんてやっていてのけぞった記憶があったもので、では最新版はどんなものなのかとちょっと試してみた、ただそれだけの理由から。

 singularity だかなんだか知りませんが、巷にはどうも AI 支援による機械翻訳(MT、マシン・トランスレーション)に対して過大と思えるほど期待をかけている言説が大多数のような気がする。たしかにイマドキの機械翻訳はスゴイ。それを利用するのにもはや PC も必要なし。日本で利用者の多い iPhone にも標準搭載され、SNS に流れてくる中国語や韓国語やアラビア語の投稿やコメントをとりあえず(あくまでもとりあえずね)確認するのにこれほど便利な機能はないし、アニメムジカ(「BanGDream! Ave Mujica」)を通じてアニメ考察組を中心に注目が集まったラテン語(!)まで邦訳可能ときている(ラテン語邦訳機能が実装されたのはここ数年の話)。

 ここまで多種多芸となれば、Trados のような翻訳支援メモリ(TM/翻訳支援ツール)ならまだしも、いよいよ「人間の」翻訳者はお役御免になりかねない、とは思う。

 しかしながら機械翻訳/自動翻訳スゴイみたいな話はじつはずいぶん昔から喧伝され続けてきたんです。たとえばいま手許にある、40 年も前(!)に出ていた翻訳批評本(1985 年発行)を見ますと、なんでも当時の新聞1面にデカデカと「新型自動翻訳機」が開発されたとかって載っていたんだそうですよ。何新聞かは書かれてないからわからないけれども、おそらく全国紙のどれかだろう。

 その翻訳批評本は、「…… 改めて自動翻訳機のことを考えてみると、こういうどちらにもとれる of の解釈だとか、全体の論旨だとか、…… コンピューターはいったい正しく判断できるようになるものだろうか。それもまた『メタレベルの活動で、コンピューターやコンピューターになりたがる人の能力のとうてい及ぶところではない』ような気がする」と疑問視していた。

 最後に以前、ここでもちょこっと触れた英ガーディアン紙の調査報道記事のこの一文(We don’t know if the discussion with Putin was friendly, or a dressing down. )をそれぞれの AI 翻訳にかけてみたら──
A. プーチンとの話し合いが友好的だったのか、それとも着服だったのかはわからない
B. プーチン大統領との会談が友好的なものだったのか、それとも叱責だったのかは不明だ
 “a dressing down” を前後の文脈もムシして「着服」はないでしょう! あとなぜか勝手に端折るのもなんでって思う(最初の訳例)。もっとも、最近のネット証券などの取引口座乗っ取りの報道でも感じてはいるが、いままで「非関税障壁」として日本語の特殊性がおおいに機能してきたわけだけれども、AI 翻訳の進化とともにこちらもいよいよ風前の灯となるのだろうか。

posted by Curragh at 07:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に