今月中旬になって、『ラブライブ!』や『バンドリ!』シリーズものの動画のおススメ一覧の中に、ふと気になるクリップがいきなり出現した。??? と思ってクリックしたら、トン・コープマンがバッハゆかりのライプツィヒ・聖トーマス教会の通称「バッハオルガン」で未知の楽曲を2曲、つづけて演奏する動画だった。
その後、海外配信記事の邦訳などで、この2作品がじつはアルンシュタット時代のハイティーンの若き教会オルガン奏者だったバッハその人の「真作」だとつい最近、認定されたばかりだと知って、文字どおり驚愕した。
とりあえず BWV 1178 のほうのスコアを眺めると、古楽ではよくあるダ・カーポを多用した繰り返しの多いシャコンヌなのだけれども、なぜか? 真ん中にフーガが挟み込まれた A−B−A❜ 形式になっているのが変わっているところ。校訂楽譜はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から入手可能。
ともに3拍子の変奏曲(その起源は中南米だと言われる)シャコンヌ/パッサカリアは、バッハの場合、超有名な2曲しか例がない(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004/オルガンのためのパッサカリアとフーガ ハ短調 BWV 582)。今回、バッハアルヒーフ所長ペーター・ヴォルニー氏が学生時代から追い続けてじつに 35 年(!)越しにバッハの真作と特定したこの2曲を聴くと、どことなくゲオルク・ベーム(リューネブルク)やラインケン(ハンブルク)といった当時の北ドイツオルガン楽派の老巨匠の作品にも似ているように思わなくなくないのではあるが、正直よくわからない。バッハの真作の決め手≠ニなったのは、使用されている用紙の「透かし」と、筆写譜作者がバッハの弟子筋ザロモン・ギュンター・ヨハンだと特定されたため、ということみたいです(⇒こちらの記事によると、出所はパッヘルベルの「シャコンヌ ヘ短調」と同じ、ベルギー王立図書館所蔵の写本に収められた筆写譜らしい)。
だいぶ前にもここで書いたけれども、この手の研究には二通りあり、ひとつは「透かし」模様や用紙の判定といった科学的検証、いまひとつは作品の様式面からバッハの真作かどうかを検討する様式研究がある。透かしや用紙に関してはクリアしているように見えるけれども、様式研究的にバッハ作品だと断言できるかどうかは、これだけではちょっと弱いのではないか、というのが、はるか極東の島国にいる一バッハ好きとしての偽らざる感想。もっとも当のヴォルニー先生自身、「つい2、3年前までバッハの作品の可能性があると真剣に考えたこともなかった」と言っているくらいだから、その後は予想もしない展開だったのだろう…。バッハ直筆を連想させる根拠としては、たとえば「バッハに特徴的なハ音記号」がスコア冒頭で確認できる、とのこと。私たちバッハ好き、音楽好きにとっては、たまさかこうしてバッハ関連で盛り上がってくれればとくに言うこともないので、2025 年も待降節を迎えようとしている時期になってこの手のサプライズが飛び込んでくるのはむしろありがたい、と言うべきか。
参照先:バッハアルヒーフの当該ページ
英ガーディアン報道記事その❶
同 その❷
2025年11月30日
2025年11月15日
生演奏で初の「オルガン付き」
先日、オーケストラ・ゾルキーという団体の演奏を聴きにミューザ川崎シンフォニーホールへ行きました。コロナ禍以降、野外の演奏会(渋谷ストリーム稲荷橋広場で開催された NHK Classic Festival)を1回だけ聴いたのを例外として、コンサートホールに赴いての演奏会はほんとうに久びさのこと。ここのホールも初めてで、音響はホールに入ってすぐわかるほどバッチリながら、選んだ席がハズれ(?)だったせいか首が痛くてしかたなかった(苦笑)。ゾルキー(Зоркий)という名称は聞き慣れないけれども、カメラ好きの人は、旧ソ連製のライカ型 35 mm カメラから来ているのではと「鋭く」気づくかもしれない。
プログラムはレスピーギの交響詩「ローマの祭」、G.V. スヴィリードフの組曲「吹雪〜プーシキンによる音楽的イラストレーション」、そしてサン=サーンスの「交響曲第3番 ハ短調 “オルガン付き”」。オルガン好きなので、もちろんお目当てはサン=サーンス。ここのコンサートオルガンは大阪のザ・シンフォニーホールと同じスイスのクーン社製で、実動ストップ 71 /4段手鍵盤と足鍵盤の大型楽器。演奏者は野田美香氏、指揮は長田雅人氏。
レスピーギ作品はいわゆる「ローマ三部作」のひとつとして有名で、古代ローマ・中世・ルネサンス・20 世紀と時代を超えたローマの祭典の変遷を描いている。出だしの暴力的な(描写されているのが血なまぐさい殺戮の祭りだから当然と言えば当然ながら)ファンファーレを奏でる3人のトランペット奏者による「バンダ」は、ヴィンヤード形式のステージ後方、オルガン手前のひな壇席中央に陣取っていた。手回しオルガンや素っ頓狂なメロディーを奏でるクラリネットや金管が入り乱れ、混沌とした大音響で幕となる終曲は、オルガンも加わって文字どおりどんちゃん騒ぎ。腹の底に響く重低音、ホール空間を揺さぶるオケサウンドに圧倒されっぱなしだった。
組曲「吹雪」の作曲者ゲオルギー・ヴァシリエヴィチ・スヴィリードフ(表記はプログラムのママ)という人は寡聞にして知らなかったけれども、ショスタコーヴィチ最初の弟子のひとりだった人らしい。そして驚くことに早世した息子さんが日本文学の研究者で、晩年は日本に滞在していたという(なんと『宇治拾遺物語』のロシア語訳まで手掛けている! アーサー・ウェイリーの旧ソ連版といったところか。松本清張作品も訳しているらしい)。
作品を聴いての第一印象は、トロイカだったりワルツだったり、どことなく「懐かしさ」みたいなものを強く感じた。とくにワルツは師匠のショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」を真っ先に思い出した。「ロマンス」と題された楽章では、コンサートミストレスによるソロがまるで演歌かエレジーのようにも感じられた。
休憩後は待ってましたサン=サーンスで、楽曲構成はこちらに丸投げするとして、オルガンの音に関して言うと、サントリーホールのリーガーオルガンに似てるかな、という印象。木をふんだんに使用したホールの空間をすっぽり包み込むような、温かみのある(やたらキンキンしない、わざとらしい音の分離のない)サウンドで、個人的にたいへん好ましかった。レジストレーションのバランスも良く、オケと渾然一体となった堂々たるハ長調の終結部はここ数年、疎遠になっていたオケの生演奏≠フ高揚感を十二分に堪能させてくれた。
… そしてコレは自分が知らないだけなのかもしれないが、ここのオケは全体的に女性奏者の割合が高くて、どちらかと言うと男性奏者が多いイメージのコントラバスセクションも女性奏者のほうが多かった。
プログラムはレスピーギの交響詩「ローマの祭」、G.V. スヴィリードフの組曲「吹雪〜プーシキンによる音楽的イラストレーション」、そしてサン=サーンスの「交響曲第3番 ハ短調 “オルガン付き”」。オルガン好きなので、もちろんお目当てはサン=サーンス。ここのコンサートオルガンは大阪のザ・シンフォニーホールと同じスイスのクーン社製で、実動ストップ 71 /4段手鍵盤と足鍵盤の大型楽器。演奏者は野田美香氏、指揮は長田雅人氏。
レスピーギ作品はいわゆる「ローマ三部作」のひとつとして有名で、古代ローマ・中世・ルネサンス・20 世紀と時代を超えたローマの祭典の変遷を描いている。出だしの暴力的な(描写されているのが血なまぐさい殺戮の祭りだから当然と言えば当然ながら)ファンファーレを奏でる3人のトランペット奏者による「バンダ」は、ヴィンヤード形式のステージ後方、オルガン手前のひな壇席中央に陣取っていた。手回しオルガンや素っ頓狂なメロディーを奏でるクラリネットや金管が入り乱れ、混沌とした大音響で幕となる終曲は、オルガンも加わって文字どおりどんちゃん騒ぎ。腹の底に響く重低音、ホール空間を揺さぶるオケサウンドに圧倒されっぱなしだった。
組曲「吹雪」の作曲者ゲオルギー・ヴァシリエヴィチ・スヴィリードフ(表記はプログラムのママ)という人は寡聞にして知らなかったけれども、ショスタコーヴィチ最初の弟子のひとりだった人らしい。そして驚くことに早世した息子さんが日本文学の研究者で、晩年は日本に滞在していたという(なんと『宇治拾遺物語』のロシア語訳まで手掛けている! アーサー・ウェイリーの旧ソ連版といったところか。松本清張作品も訳しているらしい)。
作品を聴いての第一印象は、トロイカだったりワルツだったり、どことなく「懐かしさ」みたいなものを強く感じた。とくにワルツは師匠のショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」を真っ先に思い出した。「ロマンス」と題された楽章では、コンサートミストレスによるソロがまるで演歌かエレジーのようにも感じられた。
休憩後は待ってましたサン=サーンスで、楽曲構成はこちらに丸投げするとして、オルガンの音に関して言うと、サントリーホールのリーガーオルガンに似てるかな、という印象。木をふんだんに使用したホールの空間をすっぽり包み込むような、温かみのある(やたらキンキンしない、わざとらしい音の分離のない)サウンドで、個人的にたいへん好ましかった。レジストレーションのバランスも良く、オケと渾然一体となった堂々たるハ長調の終結部はここ数年、疎遠になっていたオケの生演奏≠フ高揚感を十二分に堪能させてくれた。
… そしてコレは自分が知らないだけなのかもしれないが、ここのオケは全体的に女性奏者の割合が高くて、どちらかと言うと男性奏者が多いイメージのコントラバスセクションも女性奏者のほうが多かった。
2025年10月13日
『雨と君と』
先日もすこし触れたけれども、この手の「何気ない日常に潜む非日常」を感じさせてくれる作品が個人的に好きでして、なんの予備知識もなく見始めたこの作品はまさにジャストフィット(微苦笑)。
お話は、梅雨入りしたとおぼしき季節、ヒロインの小説家が、見ず知らずの目の不自由な老婦人に高校時代に使っていた傘を差し上げるシーンから始まる。ずぶ濡れになって、ひとり暮らししているマンションに帰る途中、どう見てもタ✕キにしか見えない(しかも頭頂部に葉っぱまで乗せている)自称犬≠拾い、自宅へ連れ帰り、次の年の梅雨を迎えるまでの「ひとりと1匹」のほのぼのとした日常が活写されている。
… 全 12 話を見終わって感じたのは、ひとことで言えばジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)に出てくる次の一節とほぼ同じではないのか、という感慨だった。
これは、ダブリン市内の学校で歴史を教えているスティーヴン・デッダラス(※ 柳瀬尚紀訳版。ほかの邦訳書ではディーダラス表記が一般的)が、校長のディージーに向かって言った科白。「創造主の道は人間の歩んできた道とは違う」と説教じみたことを言い出した校長に、窓の外でサッカーに興じている子どもたちを指差して、「そうじゃない、神は、ああいう『街の声』の中にこそいるのだ」とそれとなく反論したくだり。一見なんの変哲もない、とりたててどうということのない日常がじつは奇跡の連続なのだ、ということをふんわりと包むこむようなやわらかい科白まわしと人物描写で表現しているようにワタシはこのアニメ作品から感じとれたので(唯一、シリアスっぽかったのは、第4話の神社の夏祭りで「君」がいっとき行方不明になった場面くらい)。
それがいちばんよく表れているのが第7話「なんでもない」のラストで出てくる。フリップ(スケッチブック?)にペンで文字を書くという特技を持つ自称犬の「君」の飼い主になったヒロインの小説家・藤が、「今日はいい日?」と「君」に問われる。「べつに。なんでもない日だけど…」と答えると、こんどは「ぜひあしたも同じ日で」と書いた紙を見せられた。すると藤はやさしく微笑みながら、「同じ日はないのよ」と返す。「なんでもない日なんてあるんだろうか …… やっぱり書けないや」
小説家としての日常(つまり執筆)と小説家ならではの創作の苦しみを描いているところもすごくリアルで、いちおうこれでも文筆業やってる端くれとしては「わかるわ〜その気持ち」という共感しかない場面が多かったのもおおいに◯なんだ YO(Zoom かな? ああいう形式で編集者と打ち合わせしたことなんかも思い出された)!
藤の高校時代からの2人の親友とのやりとり、動物病院の獣医、隣家のドイツ系ハーフの饒舌な少女、毛色の変わった女子生徒2人組とのややすっとぼけたユーモアを交えたやりとり、季節が移り変わる空気感や、いかにもおいしそうな食事やデザート etc. が丁寧に、いとおしく描かれている点もいい。すこしお高めの紅茶を淹れて、さらに手許にお気に入りの一冊もお供にして、それこそアーノルド・ベネットじゃないけど文学本を熟読玩味するように、秋の夜長に慈しむように味わいたいアニメ作品。
そしてこれは余談ながら、第8話「鳴き声」で藤が偶然出会った老婦人の声は、バンドリ! シリーズでおなじみのライヴハウスの元オーナーでマイゴ(MyGO!!!!!)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)の祖母の中の人と同じで、「君」の声は、『ラブライブ!』シリーズで有名な動物の声が専門の声優さんがアテている。
──これが神です(by スティーヴン・デッダラス)
* episode0で、藤が髪をばっさり短くしてショートにする場面がある。その偶然≠ェ、「君」との出会いの伏線になっているように思う。
評価:




お話は、梅雨入りしたとおぼしき季節、ヒロインの小説家が、見ず知らずの目の不自由な老婦人に高校時代に使っていた傘を差し上げるシーンから始まる。ずぶ濡れになって、ひとり暮らししているマンションに帰る途中、どう見てもタ✕キにしか見えない(しかも頭頂部に葉っぱまで乗せている)自称犬≠拾い、自宅へ連れ帰り、次の年の梅雨を迎えるまでの「ひとりと1匹」のほのぼのとした日常が活写されている。
… 全 12 話を見終わって感じたのは、ひとことで言えばジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)に出てくる次の一節とほぼ同じではないのか、という感慨だった。
スティーヴンは窓のほうへ親指をぐいっと突き出して言った。
──あれが神です
(柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1−12』 河出書房新社刊, 2016, p.66)
これは、ダブリン市内の学校で歴史を教えているスティーヴン・デッダラス(※ 柳瀬尚紀訳版。ほかの邦訳書ではディーダラス表記が一般的)が、校長のディージーに向かって言った科白。「創造主の道は人間の歩んできた道とは違う」と説教じみたことを言い出した校長に、窓の外でサッカーに興じている子どもたちを指差して、「そうじゃない、神は、ああいう『街の声』の中にこそいるのだ」とそれとなく反論したくだり。一見なんの変哲もない、とりたててどうということのない日常がじつは奇跡の連続なのだ、ということをふんわりと包むこむようなやわらかい科白まわしと人物描写で表現しているようにワタシはこのアニメ作品から感じとれたので(唯一、シリアスっぽかったのは、第4話の神社の夏祭りで「君」がいっとき行方不明になった場面くらい)。
それがいちばんよく表れているのが第7話「なんでもない」のラストで出てくる。フリップ(スケッチブック?)にペンで文字を書くという特技を持つ自称犬の「君」の飼い主になったヒロインの小説家・藤が、「今日はいい日?」と「君」に問われる。「べつに。なんでもない日だけど…」と答えると、こんどは「ぜひあしたも同じ日で」と書いた紙を見せられた。すると藤はやさしく微笑みながら、「同じ日はないのよ」と返す。「なんでもない日なんてあるんだろうか …… やっぱり書けないや」
小説家としての日常(つまり執筆)と小説家ならではの創作の苦しみを描いているところもすごくリアルで、いちおうこれでも文筆業やってる端くれとしては「わかるわ〜その気持ち」という共感しかない場面が多かったのもおおいに◯なんだ YO(Zoom かな? ああいう形式で編集者と打ち合わせしたことなんかも思い出された)!
藤の高校時代からの2人の親友とのやりとり、動物病院の獣医、隣家のドイツ系ハーフの饒舌な少女、毛色の変わった女子生徒2人組とのややすっとぼけたユーモアを交えたやりとり、季節が移り変わる空気感や、いかにもおいしそうな食事やデザート etc. が丁寧に、いとおしく描かれている点もいい。すこしお高めの紅茶を淹れて、さらに手許にお気に入りの一冊もお供にして、それこそアーノルド・ベネットじゃないけど文学本を熟読玩味するように、秋の夜長に慈しむように味わいたいアニメ作品。
そしてこれは余談ながら、第8話「鳴き声」で藤が偶然出会った老婦人の声は、バンドリ! シリーズでおなじみのライヴハウスの元オーナーでマイゴ(MyGO!!!!!)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)の祖母の中の人と同じで、「君」の声は、『ラブライブ!』シリーズで有名な動物の声が専門の声優さんがアテている。
雨が降らなかったら、出会わなかったかもしれない。わたしと、わたしの書いた本はべつだから、いまは内緒でいいの。たくさん本を読んでいたら、いつか出会うよ。(出会った)。わたしと希依ちゃんだってこうして出会ってるんだから……
(出会わなかった、出会いたかった、そうかもしれないけど、出会えた)。似たような顔をしているから間違えてしまうけど(出会いは偶然なんだろうか?)。ほんとうに必要なら、ちゃんと出会えるよ。すこし不思議だけどね
…… 偶然じゃないとしたら、あなたはなぜわたしを選んだんだろう? ──第9話「秘密」より
──これが神です(by スティーヴン・デッダラス)
* episode0で、藤が髪をばっさり短くしてショートにする場面がある。その偶然≠ェ、「君」との出会いの伏線になっているように思う。
評価:
2025年10月03日
軌跡・奇跡・キセキ
先日、『Aqours Documentary』を鑑賞してきました。地元民としては、東池袋のサンシャインシティ文化会館で開かれた9周年記念展示会についで、ぜったいに観に行かなければならないと思ったもので。なお前置きというか disclaimer なんですけれども、ワタシは芸術至上主義的な人なので、いわゆる「中の人」については、ほんらいは翻訳者と同じで黒子に徹すべし、評価はあくまで作品本位、というのが基本スタンス(東京ディズニーランドでゲストを迎えるチップとデールの中の人を考える人はまずいない)。しかしご存知のように Aqours が主人公の『ラブライブ! サンシャイン!!』を含めた『ラブライブ!』シリーズは 2.5 次元のはしりと言っていいのかどうかわからないが、2次元世界線上のキャラクターたちと現実の演者さんとがシンクロしてライヴを披露する、というシリーズの元祖的存在 μ's 以来の定着した様式がある。つまり演じる声優さんたちも作品のキャラ同様にスポットライトを浴びる宿命を背負うことになる。そしてこのシリーズ初の、そしてきわめて特異な記録映画の主人公≠ニして描かれているから、やはり一筆書き留めておきたいと思ったしだい。
構成:おおまかな流れは、❶ 6月にベルーナドームで開催された、9人全員がそろう最後の<宴Cヴ3か月前に行われたインタビュー ❷ 2015 年2月の Aqours メンバーとして初めての顔合わせなど、10 年におよぶ活動と、その間に生じたメンバー間の葛藤についての掘り下げ ❸ 作品の舞台となった沼津との関係 そして ❹ フィナーレライヴふたたび、という構成。ほかの媒体とかを見ると、各メンバーは数時間にもわたるインタビューの受け答えをしていたようですが、尺の関係か構成上の都合か? 3年生組の発言とかはほとんどなくて、伊波さん、逢田さん、斉藤さんの2年生トリオが中心、ついで1年生トリオの小林さん、高槻さん、降幡さんがそのときどきの「想い」を口にしていた。
❶ μ's の後継というプレッシャーとの戦い:以前もここで書いたように、ワタシは『サンシャイン!!』でこのシリーズの存在を知り、その後『ラブライブ!』『同 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』『同スーパースター!!』と観てきた人なので、初期のバッシングの話とかは直接知らないが、はっきり言って常軌を逸したものだったらしいことがキャストさんたちの心情の吐露(諏訪さんなど)からうかがえた。μ's の名が神聖四文字のごとく口にするのも憚られるほど、船出≠オたばかりだというのにキャストさんたちを襲った時化≠ヘひどくて、運営側から箝口令が出ていたという話が事実だったことが語られている。
『同スーパースター!!』のファン層は、Eテレで放映していたり「リエラのうた」という新機軸(?)があったりしたせいか、園児から小中学生という子どものファンが多い、という若年傾向を個人的には感じてるんですが、そういうイマドキの若手ファンからは想像しがたいほどの重圧を Aqours は最初から受けていた。じつは薄々、こっち(沼津)でもソレは感じていて、たとえば 2018 年の紅白出場が決まったとき、なんと某オンライン署名プラットフォーム上で「出場阻止」を掲げた署名運動まであって、地元民のひとりとして呆れ返っていたことを鑑賞中に思い出していた。
❷「ラブライブ! フェス」からコロナ禍を経たグループの変容:重圧は内側からもかかる。逢田さんが Aqours のファーストライヴで、作品挿入歌のひとつで桜内梨子が奏でるピアノ伴奏を再現する場面で失敗したときのことを語っていたが、そのとき演奏を中断させ、リトライさせた判断を瞬時に下した舞台監督さんのインタビューがすこぶる印象的だった──「このまま続けていたら、きっと彼女の心に消えない傷を残してしまうと思ったから」
結果としてこの判断は大成功で、「あがこう! 全身全霊で!」と走り続けた高海千歌たちの姿とみごとに重なり、チームとしての Aqours の結束もいっきに高まったように見える。それでも μ's の呪縛は残り続け、それがほんとうに解けたと思えたのは、2020 年初頭に開催された初のシリーズ合同ライヴイベントの「ラブライブ! フェス」で憧れの先輩たちと共演を実現したときだったという(伊波さんの話)。
しかしその直後に襲いかかったのは、とんでもない伝染病の世界的大流行(パンデミック)だった。ライヴは軒並み中止、白紙にされる。クラシック界隈でもどこでもそうだったけれども、音楽家も一般人もなるべく密にならないよう要請され、沼津市も地元紙に全面広告を出して「いまは来ないで」と呼びかけていた。内浦小海漁港前の有名な海鮮料理店も大量のマアジのひらきが余って、クラファンを活用して冷凍品として一般販売するなど手探り状態だった。
それでも芸能活動という仕事の性質上、さすがに心が折れただろうことは想像に難くない。当時の振り返りに耳を傾けていると、このへんからメンバー間の距離≠站C持ちのズレが顕在化していったのかもしれないと感じた。
❸ Aqours と沼津のキズナ:先日、地元紙にこの映画の監督さんのインタビュー記事が掲載されてまして、(寡聞にして存じ上げなかったが、ゾンビものの作品があるみたい)「『サンシャイン!!』の物語にあるまっすぐさを現実の世界でも背負い、貫き通すのは並大抵じゃない。取材しながら、彼女たちの『きつさ』に思い至った」のが制作のきっかけだったようです。
舞台となった沼津とのつながりでは、Finale LIVE テーマシングル「永久 hours」のメイキングを中心に構成されてました。観ながら、ああそういえばこんなこともあったっけなと頷くことしきり …… 2018 年のエイプリルフールの朝、たまたま内浦地区に出向いたときに、三津海水浴場に巨大な千歌寝そべり(まんま普通怪獣)がデンと横たわっているのを見て、さらには詰めかけた人の多さとにぎやかさに仰天したこと、紅白出場が決まったときの商店街の盛り上がりよう、そしてついこの前も、フィナーレライヴ後の余韻を楽しむかのように作品のファンがどっとやってきて、内浦方面行き路線バスが臨時便を出していたこと、などなど(駅前のバスターミナルがそれこそ原宿の竹下通り並みに、コスプレ組も含めたファンでごった返していた)。印象的だったのは、逢田さんが(沼津との交流が)「10 年も続いているというのは、決して当たり前のことではない」という主旨の発言をしていたことだった。アニメの「聖地巡礼」ブームのきっかけを作ったのは『らき☆すた』らしいが、10 年間もキャストさんたちとともに歩んできたというのはおそらく尋常ではない息の長さなのではないだろうか。諸説あるでしょうが、「ここには何もない」と思い込んでいた市民が大多数だったことが、結果的にまっさらなカンヴァスに虹を描いたみたいな展開になったのでは、と個人的には考えている(拙小冊子参照)。
げんに沼津でも長らく人口の転出超過が続いていたが、それが数年前から微増に転じた。『サンシャイン!!』関連の転入組は 100 を超えているらしい。市役所に就職してあらたな転入組向けにいろいろプランを打ち出しているとも伝え聞く。そもそもこのシリーズの舞台に決まったことじたいが偶然の成り行きで、ロケハンしていた酒井和男監督が「海辺の町で、高校が多くて、首都圏からあまり離れていないところ」を探しに来て伊豆半島に入り、「海越しに富士山を真正面に望む絶景の地」に佇む中学校を発見したことからすべてが始まった。思うに、リーダーを交代するとか制度を変えるとかもけっこうながら、けっきょく人々の意識≠ェ変わらなければ何も起こらないよね、ということをあらためて痛感させられる。「この出会いが みんなを変えるかな/今日も太陽は照らしてる 僕らの夢」(「君のこころは輝いてるかい?」)。Aqours という「普通怪獣」が上陸してからの沼津は確実に変わったと思う。
❹ Aqours の成熟度を示すメンバー間の距離:『ラブライブ!』シリーズに関して、無名の新人さんの起用に関する批判をときおり耳にする。そもそも若くて元気な人でなければとてもじゃないが務まらんでしょ、というのが個人の意見だけど(ニジガクの場合は子役などの芸能経験者が多いようですが)、まだ二十代になるかならないかの女の子たちが 10 年も同じ釜の飯を食った company ともなれば、そりゃどんなグループやバンドだって方向性の違いは出てくるでしょう。『バンドリ!』シリーズの最新作でラテン語多めメタルバンド設定の Ave Mujica でも、こうした現実のバンドでありがちな解散の危機が描写されていたし、「個性豊かな子たちなんですよ〜」とメンバーのひとりが発言していたとおり、個性のカタマリが9人も集合すれば時間の経過とともに目指すものも違ってくるよね、と。
そのメンバー間の温度差を象徴していたのが、公演前にやっていたという円陣を組まなくなった、というエピソード。高海千歌役の伊波さんの話では、コロナ禍以降の公演では円陣を組まなくなっていたとのことで、互いを想う気持ちが強いゆえに言いたいことも言えなくなってしまった的な葛藤も明かされていた。これも個性豊かな集団ではよく聞かれる話です。でもこういう葛藤やモヤモヤを抱えながらも笑顔で聴きに来てくれているファンたちを楽しませなければならない。真に強靭な精神力の持ち主でないと務まらないたいへんなお仕事です。無名の新人ガ〜とかいう批判は当たらない。ベテランだってキツいことに変わりないでしょう。もっとも経験値の差は出ると思いますが。
いまや「愛♡スクリ〜ム!」で世界的にバズっている黒澤ルビィ役の降幡さんが、ひとり黙々とランニングしているシークエンスが出てきたのも印象的だった。その降幡さんが最後の公演のときにメンバー全員に手紙を書いて手渡していた。伊波さんはストイックなあまり、自分の本心を伝えるのが苦手なタイプなのかもと観ながら感じてもいたが、それを降幡さんがみごとに補っていたかのようで、ここでワタシはうるっときましたね。個人的には最後は内浦の海をバックにエンドロールしてもよかったのかなとも思ったが、あえて黒一色背景にしたのがやはり正解なのだろう。
…… じつはこの日は商店街の休日で、それでかどうかは知らないけれども、商店街の人たちと内浦の人たちも団体さんみたいにやってきて後方席に陣取っていた。上映が終了すると自然と拍手が起こり、「よくがんばったね、ありがとう」と声も飛んでいた。かつて千歌のスカートが透けてるとかイチャモンつけてきた外野連中もいたけど、これが 10 年間を Aqours とともにあがきながら歩んできた地元民の偽らざるキモチなんだよ、とタンカを切ってやりたくもなったずらね。
※ 地元ラジオ局制作の番組のコーナーで記者さんが語っていることで、「成り上がり」(の軌跡)という表現はまったく同感ですわ。コチラもぜひ聴いてほしい(ちなみにラッピングタクシーを埼玉の会場まで乗り付けたって話は、ライヴ定番の話デス。紹介されていた本はこちら)。
評価:



構成:おおまかな流れは、❶ 6月にベルーナドームで開催された、9人全員がそろう最後の<宴Cヴ3か月前に行われたインタビュー ❷ 2015 年2月の Aqours メンバーとして初めての顔合わせなど、10 年におよぶ活動と、その間に生じたメンバー間の葛藤についての掘り下げ ❸ 作品の舞台となった沼津との関係 そして ❹ フィナーレライヴふたたび、という構成。ほかの媒体とかを見ると、各メンバーは数時間にもわたるインタビューの受け答えをしていたようですが、尺の関係か構成上の都合か? 3年生組の発言とかはほとんどなくて、伊波さん、逢田さん、斉藤さんの2年生トリオが中心、ついで1年生トリオの小林さん、高槻さん、降幡さんがそのときどきの「想い」を口にしていた。
❶ μ's の後継というプレッシャーとの戦い:以前もここで書いたように、ワタシは『サンシャイン!!』でこのシリーズの存在を知り、その後『ラブライブ!』『同 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』『同スーパースター!!』と観てきた人なので、初期のバッシングの話とかは直接知らないが、はっきり言って常軌を逸したものだったらしいことがキャストさんたちの心情の吐露(諏訪さんなど)からうかがえた。μ's の名が神聖四文字のごとく口にするのも憚られるほど、船出≠オたばかりだというのにキャストさんたちを襲った時化≠ヘひどくて、運営側から箝口令が出ていたという話が事実だったことが語られている。
『同スーパースター!!』のファン層は、Eテレで放映していたり「リエラのうた」という新機軸(?)があったりしたせいか、園児から小中学生という子どものファンが多い、という若年傾向を個人的には感じてるんですが、そういうイマドキの若手ファンからは想像しがたいほどの重圧を Aqours は最初から受けていた。じつは薄々、こっち(沼津)でもソレは感じていて、たとえば 2018 年の紅白出場が決まったとき、なんと某オンライン署名プラットフォーム上で「出場阻止」を掲げた署名運動まであって、地元民のひとりとして呆れ返っていたことを鑑賞中に思い出していた。
❷「ラブライブ! フェス」からコロナ禍を経たグループの変容:重圧は内側からもかかる。逢田さんが Aqours のファーストライヴで、作品挿入歌のひとつで桜内梨子が奏でるピアノ伴奏を再現する場面で失敗したときのことを語っていたが、そのとき演奏を中断させ、リトライさせた判断を瞬時に下した舞台監督さんのインタビューがすこぶる印象的だった──「このまま続けていたら、きっと彼女の心に消えない傷を残してしまうと思ったから」
結果としてこの判断は大成功で、「あがこう! 全身全霊で!」と走り続けた高海千歌たちの姿とみごとに重なり、チームとしての Aqours の結束もいっきに高まったように見える。それでも μ's の呪縛は残り続け、それがほんとうに解けたと思えたのは、2020 年初頭に開催された初のシリーズ合同ライヴイベントの「ラブライブ! フェス」で憧れの先輩たちと共演を実現したときだったという(伊波さんの話)。
しかしその直後に襲いかかったのは、とんでもない伝染病の世界的大流行(パンデミック)だった。ライヴは軒並み中止、白紙にされる。クラシック界隈でもどこでもそうだったけれども、音楽家も一般人もなるべく密にならないよう要請され、沼津市も地元紙に全面広告を出して「いまは来ないで」と呼びかけていた。内浦小海漁港前の有名な海鮮料理店も大量のマアジのひらきが余って、クラファンを活用して冷凍品として一般販売するなど手探り状態だった。
それでも芸能活動という仕事の性質上、さすがに心が折れただろうことは想像に難くない。当時の振り返りに耳を傾けていると、このへんからメンバー間の距離≠站C持ちのズレが顕在化していったのかもしれないと感じた。
❸ Aqours と沼津のキズナ:先日、地元紙にこの映画の監督さんのインタビュー記事が掲載されてまして、(寡聞にして存じ上げなかったが、ゾンビものの作品があるみたい)「『サンシャイン!!』の物語にあるまっすぐさを現実の世界でも背負い、貫き通すのは並大抵じゃない。取材しながら、彼女たちの『きつさ』に思い至った」のが制作のきっかけだったようです。
舞台となった沼津とのつながりでは、Finale LIVE テーマシングル「永久 hours」のメイキングを中心に構成されてました。観ながら、ああそういえばこんなこともあったっけなと頷くことしきり …… 2018 年のエイプリルフールの朝、たまたま内浦地区に出向いたときに、三津海水浴場に巨大な千歌寝そべり(まんま普通怪獣)がデンと横たわっているのを見て、さらには詰めかけた人の多さとにぎやかさに仰天したこと、紅白出場が決まったときの商店街の盛り上がりよう、そしてついこの前も、フィナーレライヴ後の余韻を楽しむかのように作品のファンがどっとやってきて、内浦方面行き路線バスが臨時便を出していたこと、などなど(駅前のバスターミナルがそれこそ原宿の竹下通り並みに、コスプレ組も含めたファンでごった返していた)。印象的だったのは、逢田さんが(沼津との交流が)「10 年も続いているというのは、決して当たり前のことではない」という主旨の発言をしていたことだった。アニメの「聖地巡礼」ブームのきっかけを作ったのは『らき☆すた』らしいが、10 年間もキャストさんたちとともに歩んできたというのはおそらく尋常ではない息の長さなのではないだろうか。諸説あるでしょうが、「ここには何もない」と思い込んでいた市民が大多数だったことが、結果的にまっさらなカンヴァスに虹を描いたみたいな展開になったのでは、と個人的には考えている(拙小冊子参照)。
げんに沼津でも長らく人口の転出超過が続いていたが、それが数年前から微増に転じた。『サンシャイン!!』関連の転入組は 100 を超えているらしい。市役所に就職してあらたな転入組向けにいろいろプランを打ち出しているとも伝え聞く。そもそもこのシリーズの舞台に決まったことじたいが偶然の成り行きで、ロケハンしていた酒井和男監督が「海辺の町で、高校が多くて、首都圏からあまり離れていないところ」を探しに来て伊豆半島に入り、「海越しに富士山を真正面に望む絶景の地」に佇む中学校を発見したことからすべてが始まった。思うに、リーダーを交代するとか制度を変えるとかもけっこうながら、けっきょく人々の意識≠ェ変わらなければ何も起こらないよね、ということをあらためて痛感させられる。「この出会いが みんなを変えるかな/今日も太陽は照らしてる 僕らの夢」(「君のこころは輝いてるかい?」)。Aqours という「普通怪獣」が上陸してからの沼津は確実に変わったと思う。
❹ Aqours の成熟度を示すメンバー間の距離:『ラブライブ!』シリーズに関して、無名の新人さんの起用に関する批判をときおり耳にする。そもそも若くて元気な人でなければとてもじゃないが務まらんでしょ、というのが個人の意見だけど(ニジガクの場合は子役などの芸能経験者が多いようですが)、まだ二十代になるかならないかの女の子たちが 10 年も同じ釜の飯を食った company ともなれば、そりゃどんなグループやバンドだって方向性の違いは出てくるでしょう。『バンドリ!』シリーズの最新作でラテン語多めメタルバンド設定の Ave Mujica でも、こうした現実のバンドでありがちな解散の危機が描写されていたし、「個性豊かな子たちなんですよ〜」とメンバーのひとりが発言していたとおり、個性のカタマリが9人も集合すれば時間の経過とともに目指すものも違ってくるよね、と。
そのメンバー間の温度差を象徴していたのが、公演前にやっていたという円陣を組まなくなった、というエピソード。高海千歌役の伊波さんの話では、コロナ禍以降の公演では円陣を組まなくなっていたとのことで、互いを想う気持ちが強いゆえに言いたいことも言えなくなってしまった的な葛藤も明かされていた。これも個性豊かな集団ではよく聞かれる話です。でもこういう葛藤やモヤモヤを抱えながらも笑顔で聴きに来てくれているファンたちを楽しませなければならない。真に強靭な精神力の持ち主でないと務まらないたいへんなお仕事です。無名の新人ガ〜とかいう批判は当たらない。ベテランだってキツいことに変わりないでしょう。もっとも経験値の差は出ると思いますが。
いまや「愛♡スクリ〜ム!」で世界的にバズっている黒澤ルビィ役の降幡さんが、ひとり黙々とランニングしているシークエンスが出てきたのも印象的だった。その降幡さんが最後の公演のときにメンバー全員に手紙を書いて手渡していた。伊波さんはストイックなあまり、自分の本心を伝えるのが苦手なタイプなのかもと観ながら感じてもいたが、それを降幡さんがみごとに補っていたかのようで、ここでワタシはうるっときましたね。個人的には最後は内浦の海をバックにエンドロールしてもよかったのかなとも思ったが、あえて黒一色背景にしたのがやはり正解なのだろう。
…… じつはこの日は商店街の休日で、それでかどうかは知らないけれども、商店街の人たちと内浦の人たちも団体さんみたいにやってきて後方席に陣取っていた。上映が終了すると自然と拍手が起こり、「よくがんばったね、ありがとう」と声も飛んでいた。かつて千歌のスカートが透けてるとかイチャモンつけてきた外野連中もいたけど、これが 10 年間を Aqours とともにあがきながら歩んできた地元民の偽らざるキモチなんだよ、とタンカを切ってやりたくもなったずらね。
…… 気づいたんだ。ぼくたちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。……楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことを Aqours が、Saint Snow が気づかせてくれたんだよ。ありがとう──劇場版『同サンシャイン!! Over the Rainbow』の渡辺月の科白から
※ 地元ラジオ局制作の番組のコーナーで記者さんが語っていることで、「成り上がり」(の軌跡)という表現はまったく同感ですわ。コチラもぜひ聴いてほしい(ちなみにラッピングタクシーを埼玉の会場まで乗り付けたって話は、ライヴ定番の話デス。紹介されていた本はこちら)。
評価:
2025年09月30日
シュテフェンス、カルゲス、バール
最近は深夜アニメを地上波で観るクセがすっかりついてしまって、今夏のアニメでは『Summer Pockets』や『雨と君と』、春アニメだと『前橋ウィッチーズ』、『ロックは淑女の嗜みでして』、『紫雲寺家の子供たち』なんかをよく観てました(『ウィッチウォッチ』は「トゥンク、トゥンク、…… トゥングースカ…大爆発」とか、昭和世代なら誰もがツッコミを入れたくなる抱腹絶倒ものの小ネタがテンポ良く仕込まれていた怪作だった。ちなみに最初、この「トゥンク」なる科白を聞いたとき、てっきりラテン語の tunc かとカン違いしていた人)。
というわけで、いつものことながらなんの前触れもなく久しぶりに、「さてこのへんで一発、NHK-FM ネタでもいってみようか」(方倉陽二『ドラえもん百科』第❶巻から)
今週月曜(29 日)朝放送の「古楽の楽しみ」を仕事の〆切に追われつつ耳だけはそばだてて聴いていたら、まだまだ知らない北ドイツオルガン楽派の作曲家が出てくる出てくる! スウェーリンクは言わずと知れた「ドイツのオルガニスト作り」の異名をとるこの流派の元祖だからいいとして、つぎのヨハン・シュテフェンスとはそは何者? 状態になった。
シュテフェンス(1559/60−1616)については詳細は不明みたいですが、北ドイツで活躍した人で、バッハゆかりの地のひとつリューネブルクで没している。番組でかかったのは、どこか牧歌的なやわらかい音色の印象的な「ファンタジア イ短調」で、オルガン曲のほか、6声のドイツ語によるマドリガーレも残しているらしい。使用楽器はリューベックの聖ヤコブ教会の「小さいほうの」オルガンを改作したことでも知られるシュテルヴァゲンが、シュトラールズントというバルト海に面した港町の聖マリア教会に建造した歴史的楽器(1659 年;3段手鍵盤と足鍵盤、実動 51 ストップ)。
ヴィルヘルム・カルゲス(1613/14−1699)はベルリン生まれ、同地で没した人で、生涯、ベルリン近辺で活動していたらしい。スウェーリンクの弟子アンドレアス・デューベンに教わったようなので、ようは孫弟子ですな。6曲のオルガン作品が現存しているようで、そのひとつ「前奏曲 ホ短調」がかかった。コーダ近くで足鍵盤に野太いリード管の低音が響いていた。使用楽器はゴスラーという街にある旧修道院付属教会に 1737 年にクリストフ・トラウトマンというビルダーによって建造された歴史的楽器(3段手鍵盤と足鍵盤、実動 42 ストップ)。ということは、大バッハのライプツィヒ時代に建造された楽器になる(もちろんその頃には修道院教会はプロテスタントに改組済み)。げんにバッハ時代の音響を求めて、多くのオルガニストがここを詣でているみたい(↓ の埋め込みクリップはバッハではなく、ブクステフーデの「パッサカリア ニ短調」 BuxHV 161 ですけど。ちなみにこの曲は、アニメムジカの豊川祥子が読んでいたヘッセの教養小説『デミアン』(1919)に出てくる、「悪魔信仰」な若いオルガニストが主人公シンクレールに弾いて聴かせていた曲でもある)。
最後にヨハン・バールなる作曲家(1655−1700)。出身はオーストリアで、宮廷人にして著述家でもあった多芸多才な人だったらしいけど、佳人薄命と言われるがごとく、狩猟中の事故で 45 歳 で亡くなっている。インキュナブラ特有の太いゴシック体の判読しずらい古いドイツ語で書かれてあるからよくわかんないけれども、ユーモラスな挿絵本を Jan Rebhu なる偽名で(!)何冊かものしているらしい(リンク先の書物は €5,000 〜 でオークションにかけられてますね ……)。こちらの使用楽器も同じ、トラウトマンの建造した大型の楽器になる(同一音盤)。
スウェーリンクについで2番めにかかっていたのは、ドイツ3Sのひとりザムエル・シャイトの有名な「タブラトゥーラ・ノヴァ」からの1曲。録音に使用された楽器は番組で紹介されていた音源ではもっとも古く、1612/13 年に建造されたルネサンス様式の歴史的オルガンだった(いわゆる「燕の巣型オルガン」)。
しんがりにかかったブクステフーデの「前奏曲 ト短調」BuxWV 148 を奏でていたオルガン(リューディングヴォルトの聖ヤコビ教会のヴィルデ/アルプ・シュニットガー改作の歴史的楽器)のピッチは、解説でも触れられていたけれども現代ピッチより高い、いわゆるコーアトーン(合唱ピッチ)で調律されている。北ドイツの、とくにシュニットガーのオルガンではわりとよくある話で、絶対音感の持ち主だったらとても気持ち悪くて聴いていられない……かもしれない(この国では絶対音感が神聖視(?)されているようですが。たしかにかんたんに「耳コピ」できるから一見、良さげではあるが、こういう場面では思わぬ苦痛を味わわされたりする)。
…… というわけで、9月も終わろうというのに残暑が続くなか、朝からなんとも言えず清々しい風≠ェ吹き抜けたのであった。マルっ ◯ (Liella! の嵐千砂都ふうに)
というわけで、いつものことながらなんの前触れもなく久しぶりに、「さてこのへんで一発、NHK-FM ネタでもいってみようか」(方倉陽二『ドラえもん百科』第❶巻から)
今週月曜(29 日)朝放送の「古楽の楽しみ」を仕事の〆切に追われつつ耳だけはそばだてて聴いていたら、まだまだ知らない北ドイツオルガン楽派の作曲家が出てくる出てくる! スウェーリンクは言わずと知れた「ドイツのオルガニスト作り」の異名をとるこの流派の元祖だからいいとして、つぎのヨハン・シュテフェンスとはそは何者? 状態になった。
シュテフェンス(1559/60−1616)については詳細は不明みたいですが、北ドイツで活躍した人で、バッハゆかりの地のひとつリューネブルクで没している。番組でかかったのは、どこか牧歌的なやわらかい音色の印象的な「ファンタジア イ短調」で、オルガン曲のほか、6声のドイツ語によるマドリガーレも残しているらしい。使用楽器はリューベックの聖ヤコブ教会の「小さいほうの」オルガンを改作したことでも知られるシュテルヴァゲンが、シュトラールズントというバルト海に面した港町の聖マリア教会に建造した歴史的楽器(1659 年;3段手鍵盤と足鍵盤、実動 51 ストップ)。
ヴィルヘルム・カルゲス(1613/14−1699)はベルリン生まれ、同地で没した人で、生涯、ベルリン近辺で活動していたらしい。スウェーリンクの弟子アンドレアス・デューベンに教わったようなので、ようは孫弟子ですな。6曲のオルガン作品が現存しているようで、そのひとつ「前奏曲 ホ短調」がかかった。コーダ近くで足鍵盤に野太いリード管の低音が響いていた。使用楽器はゴスラーという街にある旧修道院付属教会に 1737 年にクリストフ・トラウトマンというビルダーによって建造された歴史的楽器(3段手鍵盤と足鍵盤、実動 42 ストップ)。ということは、大バッハのライプツィヒ時代に建造された楽器になる(もちろんその頃には修道院教会はプロテスタントに改組済み)。げんにバッハ時代の音響を求めて、多くのオルガニストがここを詣でているみたい(↓ の埋め込みクリップはバッハではなく、ブクステフーデの「パッサカリア ニ短調」 BuxHV 161 ですけど。ちなみにこの曲は、アニメムジカの豊川祥子が読んでいたヘッセの教養小説『デミアン』(1919)に出てくる、「悪魔信仰」な若いオルガニストが主人公シンクレールに弾いて聴かせていた曲でもある)。
最後にヨハン・バールなる作曲家(1655−1700)。出身はオーストリアで、宮廷人にして著述家でもあった多芸多才な人だったらしいけど、佳人薄命と言われるがごとく、狩猟中の事故で 45 歳 で亡くなっている。インキュナブラ特有の太いゴシック体の判読しずらい古いドイツ語で書かれてあるからよくわかんないけれども、ユーモラスな挿絵本を Jan Rebhu なる偽名で(!)何冊かものしているらしい(リンク先の書物は €5,000 〜 でオークションにかけられてますね ……)。こちらの使用楽器も同じ、トラウトマンの建造した大型の楽器になる(同一音盤)。
スウェーリンクについで2番めにかかっていたのは、ドイツ3Sのひとりザムエル・シャイトの有名な「タブラトゥーラ・ノヴァ」からの1曲。録音に使用された楽器は番組で紹介されていた音源ではもっとも古く、1612/13 年に建造されたルネサンス様式の歴史的オルガンだった(いわゆる「燕の巣型オルガン」)。
しんがりにかかったブクステフーデの「前奏曲 ト短調」BuxWV 148 を奏でていたオルガン(リューディングヴォルトの聖ヤコビ教会のヴィルデ/アルプ・シュニットガー改作の歴史的楽器)のピッチは、解説でも触れられていたけれども現代ピッチより高い、いわゆるコーアトーン(合唱ピッチ)で調律されている。北ドイツの、とくにシュニットガーのオルガンではわりとよくある話で、絶対音感の持ち主だったらとても気持ち悪くて聴いていられない……かもしれない(この国では絶対音感が神聖視(?)されているようですが。たしかにかんたんに「耳コピ」できるから一見、良さげではあるが、こういう場面では思わぬ苦痛を味わわされたりする)。
…… というわけで、9月も終わろうというのに残暑が続くなか、朝からなんとも言えず清々しい風≠ェ吹き抜けたのであった。マルっ ◯ (Liella! の嵐千砂都ふうに)
2025年05月29日
海外メディアによるインタビュー記事から
たまたま、モーティス/若葉睦の画像が大きく掲載された海外記事を見かけた。米ジョージア州の州都アトランタに拠点を置く Paste という芸能関係の Web メディアのようでして、せっかくの機会だからと引用の範囲を超えないていどに抄訳としてここでも少し紹介しておきます。インタビューに答えているのは Ave Mujica バンドプロデューサー/音楽ディレクターの松本拓輝氏。
──ムジカは前作のマイゴよりはるかに暗い作風です。音楽面ではその変化をどのように取り込んだのでしょうか?…… ついでに、「人はだれかを守ろうとするほど自分自身を守れなくなる。自らを投げ出し、“消えてもいい”とすら思うだろう。それが“愛する”という感情だ」という引用を紹介した考察動画クリップを見かけた。対訳になっていたから念のためウラをとってみたら、フロイトの『文明にひそむ不満』(1930)なる著作の引用らしい。しかし英訳(?)されたとおぼしき原文を見ると「超訳」っぽい気もする。高校生でもわかる平易な文なので訳は不要なくらいだけれども、いちおう普通に訳せば ──
M:… 光は闇があるから、闇は光があるから存在しますし、誰しも内面に暗い面を抱えています。だから『Ave Mujica』の音楽は楽しく聴かせたい、あまり重々しくならずに、という気持ちがあります
──アニメムジカは舞台、ゴシック的美学、ヘッセ『デミアン』まで取り込んでいますが、音楽に関しては何か特定のバンドの影響は受けていますか?
M:制作中に参考にした楽曲やバンドはもちろんあります。個人的にはシンフォニックメタル、メロスピ、メタルコアなどから影響を受けています。図らずも自分自身の嗜好とムジカのテーマが一致した点は幸運だったと思います
──バンドとしてのムジカは、マイゴが終わった段階で自然に出てきた着想なのでしょうか? それとももっと早い段階でバンドリ! シリーズの次期作のバンドはもっとメタル色を前面に押し出すと決まっていたのでしょうか?
M:マイゴとムジカは当初から、正反対のバンドとして構想されたものです。物語が進むにつれて、マイゴはパンク調、ムジカはメタルを核とするバンドにする流れへ自然に落ち着きました。シリーズ全体で見ても、パンクとメタルロックのバンドはなかったので、差別化に一役買っています
──脚本が先でそのあとに音楽が作られたのか、音楽が先だったのでしょうか? それとも同時進行だったのでしょうか?
M:脚本が先です。挿入歌は物語に合わせて作られています。脚本の一部が未完成で、楽曲のほうが先になる場合もありましたが、楽曲は基本的にできあがった脚本に合わせて作られています
──バンドリ! シリーズでいつも感心させられるのは、現実のバンドメンバーが、ゲームやアニメのキャラクターの声優でもある点です。この2つをこなせる才媛を、ブシロードはどうやって見つけ出しているのですか?
M:じつは『バンドリ!』シリーズの声優には初めは楽器ができなかった人、反対に、ミュージシャンだけど声の演技は初めて、という人が何人かいます。なので楽器も声の演技もできる人をとくに集めたわけではないんです。
We are never so vulnerable as when we love, and never so hopelessly unhappy as when we lose the object of our love.くらいでしょう。対訳文だと、逆に英訳すればそれは“The more you try to protect someone else, the less you can protect yourself. You will give yourself up and even think ❛it'd be all right if it lets you disappear.❜ ; that is the emotion of ❛love❜." あたりになると思う。
人がもっとも無力感をおぼえるのは誰かを愛するときであり、絶望的なまでの不幸を味わわされるのは、そうした愛を注ぐ対象を失ったときである
2025年05月18日
"I wish you had told this to Mutsumi-chan."
アニメムジカ(BanGDream! Ave Mujica)の第 10 話「Odi et amo.」(憎み、かつ愛す)。自身の言動がことごとく強烈なブーメランとなって返り討ちされ、それを受け止める覚悟を決めた豊川祥子(とがわ・さきこ)が幼馴染の若葉睦の自宅を訪問する。そこではベース担当の八幡海鈴(やはた・うみり)が、自室の寝台で休んでいる睦(それまでの主人格ムツミ❶と、主人格の幼少時からのイマジナリーフレンドで、ムジカ解散の危機にムツミ❶が破壊されそうになったとき、交代人格となって肉体を乗っ取った「モーティス」が、主人格の象徴と言えるシェクター7弦ギターを奪い合ったすえ、主人格を無意識の奈落の底へ転落させてしまったあとの話なので、この時点ではモーティスとして生きている)を見守っていた。そして寝ているモーティスに対し、祥子は鋭く、冷徹に言い放つ。
再結成したメタルバンド Ave Mujica は、復活公演をホームグラウンド的なライヴハウスの RiNG で開催する。これまでの大規模会場とは異なりちんまりした会場で予算も限られ、セットも必要最低限。初華が作詞した激重(!)のリリックをハ長調の美しいバラード調に仕上げたリーダーの祥子。そんな祥子に、初華は楽屋の控室でお礼を言う。いっぽう睦/モーティスはひとり、照明テストでどす黒い赤(!!)一色となったステージ上でギターの当てフリを練習していた。そこへ近づいてきたのがドラムスの祐天寺にゃむ。にゃむはモーティスに向かってこう言う。
そこへもってきて、ムツミ相手に言ってほしかったことをまたしても自分に言われてしまった(海鈴宅での当てフリ練習を終えて電車に乗っていたときも、「あれ! ヤッバ〜、睦ちゃんだ!」「ギター持ってる」と興奮気味に話す女生徒らの声を聞いたモーティスは、「…… 違うもん」とつぶやく)。けっきょく、にゃむの「愛してる」告白と、ステージ上で「Imprisoned XII」の演奏が始まり、初華の歌うリリックが心に文字どおり突き刺さったのだろう。足許にぽっかりと口を開けた奈落へ吸い込まれるようにして自ら身投げして(Cf. ムジカメンバーとしてのモーティスの決めゼリフは「われ、死を恐れることなかれ」)、先に落ち、いまや消えかかっているそれまでの主人格とギターが深い深い「無意識の海」の中で漂っているのを見つける。
電車のシーンはこのひとつ前のエピソード(「Ne vivam si abis.」、「あなたが去るなら、わたしは生きられない」)の話で、主人格の転落はその後半(Bパート)に起こる。転落する直前がまたゾっとさせられるカットで、なんと主人格が、倒れているモーティスの首をぐいぐい締め付けているのだ(!!!)。でもいまや対立する相手はなく、求められているのはそのいなくなった相手のムツミのほう。ふたりのあいだにはもはや対立する理由もなく、モーティスは消えつつある主人格をしっかと抱きしめ、「愛してる」と言わんばかりに涙を散らして、ふたりとも消滅する …… 。
…… その刹那、当てフリだったはずの睦の指はしっかりとギターを爪弾いていた。ベースの海鈴がいち早くそれに気づき、にゃむは、ドラムセットを叩きながらなぜかうつむく。そして大多数の睦ファンにとってそれは、かんたんには答えの出ないモーむつ問題というミノタウロスの迷宮の始まりだった(と、思う) …… ここで、モーむつファンのひとりとしてひとこと言わせてもらえれば ──「誰かムツミちゃんをほんとうのお医者さんに診せてあげて!!」
※ 「歪んだ声」は、おそらく元ネタのひとつっぽい『サスペリア』(1977)に登場する「闇の女王」こと、魔女ヘレナ・マルコスの殺害場面をも想起させる。また「モーティスにギターの当てフリを要求しに来た祥子」「無意識の水の中を落ちてゆくモーティス」、「にゃむから『愛してる』と告白されるモーティス」などの場面で流れるオルゴールのような劇伴も、個人的には「サスペリアのテーマ」を奏でるチェレスタの旋律を思い起こさせる。
追記:第9話のラストで、ライヴハウス RiNG のカフェラウンジに集まったムジカメンバーと、かつて結成した学生バンドの CRYCHIC(クライシック)復活の相談に来ていた祥子とが、モーティスの処遇をめぐって鋭く対立する場面があるが、そこで繰り出されるのが、従来のバンドリ!シリーズを知っている人なら仰天しそうな、およそバンドストーリーらしからぬことばの応酬となる。
ムツミ。あなたにはギターを弾く真似をしていただきますわ、ムツミ。……ただ、一度のズレも許しません。できますわね? あなたなら ……もちろん祥子は、いま目の前で寝ているのが幼馴染の睦その人ではなく、交代人格にすぎないことをわかったうえでこう宣告している。
再結成したメタルバンド Ave Mujica は、復活公演をホームグラウンド的なライヴハウスの RiNG で開催する。これまでの大規模会場とは異なりちんまりした会場で予算も限られ、セットも必要最低限。初華が作詞した激重(!)のリリックをハ長調の美しいバラード調に仕上げたリーダーの祥子。そんな祥子に、初華は楽屋の控室でお礼を言う。いっぽう睦/モーティスはひとり、照明テストでどす黒い赤(!!)一色となったステージ上でギターの当てフリを練習していた。そこへ近づいてきたのがドラムスの祐天寺にゃむ。にゃむはモーティスに向かってこう言う。
…… ホントに消えちゃったんだぁ、ムーコ。この先ずっと若葉睦を演じるつもり? …… あんたの演技見てると、アタシって何、ってなる。ずるいよ …… ずるくて、うらやましくて …… 愛してるそうささやいたにゃむは、演劇の科白の練習を始める。思いがけない告白を受けたモーティスは不意に何かに気がついたような顔つきとなり、練習するにゃむを振り返り、そしてギター(=主人格)に視線を落として、こうひとりごちる。
──ムツミちゃんに、言ってほしかったな ……ワタシは当初、「いまのことばをモーティスがムツミに言ってほしかった」という意味にとっていたが、公式さんの英訳字幕を見て取り違えていたことに気づいた。…… 科白じたいがあいまい・両義的言い回しで、あえてそう言わせたのかもしれないが、この科白の正しい解釈は「それはわたしではなく、ムツミちゃんに言ってほしかった」だった。
──I wish you had told this to Mutsumi-chan.モーティスは、精神世界の舞台セットから主人格が転落したのは「わたしのせいじゃないもん! 勝手に落ちたんだもん!」とムジカメンバーの前で思わず叫んだように、守るべきはずのムツミ❶をギターもろとも意識下の奈落へと落としてしまったことに強い衝撃を受けていた。「わたしの役とらないでッ!」という歪んだ声※とともに、睦に似た巨大な影がセット背後の大窓に立ち上がる。「ムツミちゃんがいなければ、わたしがその役をやればいいんだ …… わたしが、若葉睦を ……」。しかし悲壮な決意とは裏腹に、ムツミの仮面は早々に剥がれ落ちた。常識人で、演技の勉強に打ち込んできたにゃむ(と、そのうしろで見ていた要楽奈)の目はたちどころにこの三文芝居を見抜き、ビジネスライクな交渉に来たはずがいっきに興ざめしたのか、「なにソレ …… きんも!」と吐き捨てる。ようするにモーティスは祥子訪問時にはすっかり弱っていたので、寝込んでいたんだと思う。
そこへもってきて、ムツミ相手に言ってほしかったことをまたしても自分に言われてしまった(海鈴宅での当てフリ練習を終えて電車に乗っていたときも、「あれ! ヤッバ〜、睦ちゃんだ!」「ギター持ってる」と興奮気味に話す女生徒らの声を聞いたモーティスは、「…… 違うもん」とつぶやく)。けっきょく、にゃむの「愛してる」告白と、ステージ上で「Imprisoned XII」の演奏が始まり、初華の歌うリリックが心に文字どおり突き刺さったのだろう。足許にぽっかりと口を開けた奈落へ吸い込まれるようにして自ら身投げして(Cf. ムジカメンバーとしてのモーティスの決めゼリフは「われ、死を恐れることなかれ」)、先に落ち、いまや消えかかっているそれまでの主人格とギターが深い深い「無意識の海」の中で漂っているのを見つける。
電車のシーンはこのひとつ前のエピソード(「Ne vivam si abis.」、「あなたが去るなら、わたしは生きられない」)の話で、主人格の転落はその後半(Bパート)に起こる。転落する直前がまたゾっとさせられるカットで、なんと主人格が、倒れているモーティスの首をぐいぐい締め付けているのだ(!!!)。でもいまや対立する相手はなく、求められているのはそのいなくなった相手のムツミのほう。ふたりのあいだにはもはや対立する理由もなく、モーティスは消えつつある主人格をしっかと抱きしめ、「愛してる」と言わんばかりに涙を散らして、ふたりとも消滅する …… 。
…… その刹那、当てフリだったはずの睦の指はしっかりとギターを爪弾いていた。ベースの海鈴がいち早くそれに気づき、にゃむは、ドラムセットを叩きながらなぜかうつむく。そして大多数の睦ファンにとってそれは、かんたんには答えの出ないモーむつ問題というミノタウロスの迷宮の始まりだった(と、思う) …… ここで、モーむつファンのひとりとしてひとこと言わせてもらえれば ──「誰かムツミちゃんをほんとうのお医者さんに診せてあげて!!」
※ 「歪んだ声」は、おそらく元ネタのひとつっぽい『サスペリア』(1977)に登場する「闇の女王」こと、魔女ヘレナ・マルコスの殺害場面をも想起させる。また「モーティスにギターの当てフリを要求しに来た祥子」「無意識の水の中を落ちてゆくモーティス」、「にゃむから『愛してる』と告白されるモーティス」などの場面で流れるオルゴールのような劇伴も、個人的には「サスペリアのテーマ」を奏でるチェレスタの旋律を思い起こさせる。
追記:第9話のラストで、ライヴハウス RiNG のカフェラウンジに集まったムジカメンバーと、かつて結成した学生バンドの CRYCHIC(クライシック)復活の相談に来ていた祥子とが、モーティスの処遇をめぐって鋭く対立する場面があるが、そこで繰り出されるのが、従来のバンドリ!シリーズを知っている人なら仰天しそうな、およそバンドストーリーらしからぬことばの応酬となる。
祥子:モーティス …… あなたの願いは、睦を苦しめることですわ!教養小説的にはトーマス・マンの『魔の山』あたりを連想するけれども、日本にも超絶スゴい大作がある。埴谷雄高(はにや・ゆたか)の『死霊』(「しれい」と読む)だ。バンドアニメでまさか生き死にをめぐる論争が出てくるとは想像すらしていなかった。おかげで考察がはかどる(微苦笑)。
海鈴:どういうことですか?
祥子:モーティスは、苦しむ睦を助けるために生まれた。だから、睦が苦しみ続けることになる Ave Mujica の復活を望んでいるのです。自分が消えないために …… わたくしは、睦を苦しめる選択などぜったいにしない。幸せにしなくては ……
海鈴:幸せである必要はあるんですか? 満たされたら、終わりじゃないですか! Ave Mujica をすれば、モーティスさんは生きられる。2人とも生き続けられる …… 生きていないと、幸せにだってなれないんですよ!
祥子:それでも、わたくしに Ave Mujica は選べませんわ ……
(ここでモーティスの精神世界の舞台へカットバック。存在理由を失いつつあるモーティスの立っている舞台セットが崩れはじめる ── ここのシーンも、魔女殺しを終えたアメリカ娘のスージーが「赤い館」から脱出する『サスペリア』のラストと重なる。魔女という「蛇の胴体」でもある「赤い館」は頭を失い、崩壊しはじめる ── わたしの役とらないでッ!!」)
海鈴:豊川さんはモーティスさんを見殺しにするんですかッ!
祥子:覚悟のうえですわ!
2025年05月09日
AI 翻訳機の限界(?)
A. 有名なエジプト考古学者ザヒ・ハワスによって書かれたツタンカーメンの生涯を描いたオペラが、11 月5日にルクソールで初演される。ツタンカーメン王の墓の発見 100 周年を記念して、このオペラはハトシェプスト神殿の前で5日間上演される
B. 著名なエジプト考古学者ザヒ・ハワスが作曲したツタンカーメンの生涯を描いたオペラが、11 月5日にルクソールで初演されます。ツタンカーメン王の墓発見 100 周年を記念したこのオペラは、ハトシェプスト女王葬祭殿前で5日間上演されます。まさに壮大な舞台と言えるでしょう
いきなり失礼。これは DeePL 翻訳と Google 翻訳にそれぞれ投入した英文記事の出だしを比較したもの。なんでこの記事を選んだかについては、昔、まだ Google 翻訳サービスが出始めた頃に「エジプトのショウビズファラオ」なる見出しの NYT 原文を放りこんだらザヒ・ハワス博士(!)を「ザヒ・家博士」(!!!)なんてやっていてのけぞった記憶があったもので、では最新版はどんなものなのかとちょっと試してみた、ただそれだけの理由から。
singularity だかなんだか知りませんが、巷にはどうも AI 支援による機械翻訳(MT、マシン・トランスレーション)に対して過大と思えるほど期待をかけている言説が大多数のような気がする。たしかにイマドキの機械翻訳はスゴイ。それを利用するのにもはや PC も必要なし。日本で利用者の多い iPhone にも標準搭載され、SNS に流れてくる中国語や韓国語やアラビア語の投稿やコメントをとりあえず(あくまでもとりあえずね)確認するのにこれほど便利な機能はないし、アニメムジカ(「BanGDream! Ave Mujica」)を通じてアニメ考察組を中心に注目が集まったラテン語(!)まで邦訳可能ときている(ラテン語邦訳機能が実装されたのはここ数年の話)。
ここまで多種多芸となれば、Trados のような翻訳支援メモリ(TM/翻訳支援ツール)ならまだしも、いよいよ「人間の」翻訳者はお役御免になりかねない、とは思う。
しかしながら機械翻訳/自動翻訳スゴイみたいな話はじつはずいぶん昔から喧伝され続けてきたんです。たとえばいま手許にある、40 年も前(!)に出ていた翻訳批評本(1985 年発行)を見ますと、なんでも当時の新聞1面にデカデカと「新型自動翻訳機」が開発されたとかって載っていたんだそうですよ。何新聞かは書かれてないからわからないけれども、おそらく全国紙のどれかだろう。
その翻訳批評本は、「…… 改めて自動翻訳機のことを考えてみると、こういうどちらにもとれる of の解釈だとか、全体の論旨だとか、…… コンピューターはいったい正しく判断できるようになるものだろうか。それもまた『メタレベルの活動で、コンピューターやコンピューターになりたがる人の能力のとうてい及ぶところではない』ような気がする」と疑問視していた。
最後に以前、ここでもちょこっと触れた英ガーディアン紙の調査報道記事のこの一文(We don’t know if the discussion with Putin was friendly, or a dressing down. )をそれぞれの AI 翻訳にかけてみたら──
A. プーチンとの話し合いが友好的だったのか、それとも着服だったのかはわからない“a dressing down” を前後の文脈もムシして「着服」はないでしょう! あとなぜか勝手に端折るのもなんでって思う(最初の訳例)。もっとも、最近のネット証券などの取引口座乗っ取りの報道でも感じてはいるが、いままで「非関税障壁」として日本語の特殊性がおおいに機能してきたわけだけれども、AI 翻訳の進化とともにこちらもいよいよ風前の灯となるのだろうか。
B. プーチン大統領との会談が友好的なものだったのか、それとも叱責だったのかは不明だ
2025年04月05日
モーむつと DID
『BanG Dream! Ave Mujica』(以下アニメムジカ)の物語が「音楽バンドもの」としてきわめて異形だと感じたのは、ラテン語サブタイ以上に、メンバーそれぞれの「表と裏の顔」(あるいは、仮面と役)という二重性を、ギター担当の若葉睦の多重人格問題と絡めて同時進行していた点にあると思う。頻出するラテン語関係の拙い考察は前記事のとおり。ここでは勝手に「モーむつ問題」と名付けた事柄について思うところを書き出してみます。
他のムジカメンバーの科白にもはっきり出ているとおり、睦は多重人格者(Multiple Personality Disorder、MPD)として描かれてます。* ストーリー全体から受ける印象としては、幼少期のネグレクトを起因とした解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder、DID)により、「睦を守るために出現したモーティス人格」(交代人格、以下モーティス)と、「ギターが大好きだが自分を肯定できない主人格の睦」(以下、ムツミ1)の2者に分裂し、その2者が物理的にひとつしかない身体を奪い合う、といった流れです(親のネグレクト、一種の虐待を受けていたことは、ムツミ1が表情に乏しく、口下手で、ギター演奏の才があるにもかかわらず肯定できずに苦しんでいる描写に暗示されている。そして現実の DID 患者のほとんどが、そうした幼少期の問題がきっかけで発症している)。
初見のときは当然、違和感のほうが強かった(そういう向きは少なくないと思うが…)。しかし何度か注意深く見ていくと、睦の内面問題を深く掘り下げていくことで、じつは各メンバーが抱えている問題も浮き彫りにする、一種のメタファーとして機能していることに気づいた。いちばんそれがよく出ていたと感じたのは「#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す」の回。一見、女優志望の祐天寺にゃむが、自分のキャリアの前に立ちはだかる睦に抱くアンビヴァレントな感情を指しているのかと思ったが、これはそのままモーティスとムツミ1の関係にもあてはまる(し、もともと睦本人にはなんの感情も抱いていなかったはずの初華までギリシャ悲劇の仮面のごとき形相で、「私から祥ちゃん取らないで!」と憎しみを爆発させる#9の妄想カットとか)。モーティスはムツミ1が消えたら存在できない。ムツミ1を存続させるためにムジカ復活を画策するが、もともとが幼少期のイマジナリーフレンドだったお人形(モーティスのモデルについては、睦の部屋に転がっていて、#5で様子を伺いに来た元 CRYCHIC メンバーで現 MyGO!!!!! メンバー、クラスメイトでもある長崎そよが後退りしたときに踏んづけた青い髪の少女の人形ではないかという指摘がある)のため、思いどおりにいかなくなるととたんに赤ちゃん返りのような駄々をこねたり感情を爆発させたりする。愛憎相半ばしているのは物理的な他者のにゃむだけでなく、若葉睦という身体を取り合っている彼女の2つの人格でもある。
発起人の豊川祥子ほどではないにしても(初華は抱えている闇がめちゃくちゃ深いが…)、Liella!(『ラブライブ! スーパースター!!』)の澁谷かのんが「不器用さんが多すぎだよ〜、あ、ワタシもか」と言ったように、ムジカのメンバーも皆、内面に問題を抱えている子たちの集合体。2つの人格のあいだを激しく揺れ動く少女の内面描写に時間をかけたのも、メンバーが抱える問題をただ同時に語らせるのではなく、多重人格に苦しむ若葉睦の姿を通して重層/重奏的に語らせたほうがより説得力が増す(現実味が出てくる)と判断したからかもしれない。もしこれ抜きだったら、ここまで強烈な印象は残らなかったと思うし、その企ては(完全というわけではないだろうが)成功したと思う。
じつは先日、このようなスレッド投稿を見かけてひじょうに驚いた。投稿主自身が4年越しの DID の当事者で、この作品には、当事者にしかわからないような DID 特有の症状の描写が至るところに散りばめられていると絶賛している。しかもこれ制作した監督さん本人が謝意を述べているからもっと驚く。多重人格ものとくると、往年のダニエル・キイスの一連のベストセラー著作(『24人のビリー・ミリガン』など)がすぐ想起されるけれども、わたしたちが観たムジカという「かりそめの箱庭で歌い、舞う人形たちのマスカレード」は、現実の DID の症状をわかりやすく可視化した稀有なアニメ作品でもある、と評することもできる。DID の描写でとくに印象的だったのは #6、顔の右半分をムツミ1が、左半分をモーティスが支配して、それぞれ相反する表情を浮かべようと顔をひきつらせているカットでしたね。
モーむつに関する最大のナゾは、「消滅していなくなったのか?」。これについても(はっきり言ってこの手の発言じたいが異例中の異例だと思うが)監督さん自身が明かしている。監督さんが言うには([]は引用者)、
…だそうです。
手鏡の中でモーちゃんとおぼしき姿が微笑んでいるカットついては、「モーティスも数ある『役』のひとつに面影を残すのみになった、というイメージ」で、「メタ構造」になっていると明言している。それでもそれを見えるように表現したのは、たんなるサービスカットを超えちゃってるんじゃないかとは思う。それまでのムツミ1と、それなしでは生きられないモーティスが、ユング心理学では無意識を表象する深い深い水の底(cf. 夜の海の航海)へと沈みつつ、互いの体のアウトラインが一体化するかのように消えていったとき、いままでのムツミ1とも違う、ほんとうの意味でありのままの、素の自分を肯定できつつある若葉睦(あるいは、その役回り)が形成されたように感じる。いま、ムツミ1と対立していた交代人格のモーティスはそれを無条件に受け入れ(無条件の愛、あるいは存在の全肯定)、「よくがんばったね」と笑顔を返すようになった、それが見えているのは若葉睦当人と、彼女の DID 問題で祥子やそよ、その他メンバーとともに「苦しみを共にしてきた」わたしたち視聴者だけだ、という理解でいいような気がする。ギターを巧みに弾いていたのは、自分の存在をあるがままに肯定できつつある、成長の階段を一歩上った現在進行形の若葉睦なのかもしれないし、監督さんが言うように、ムツミという人間の役の引き出しのひとつにすぎないのかもしれない。
#8の個室カラオケのカットで、「ムツミちゃんなんて、最初からいないよ」とすごむモーティスについては、その前のエピソードで祥子が言っていたように、ほんとうにいない、存在していないのではないと思う。あくまでもモーティス主観の発言であり、自分の目的達成のためならなんだってしそうなにゃむと同様、「自分が消えたくない」モーティスの膨れ上がるエゴ、自我がそう言わせたのだと解釈している。
ムツミ1とモーティスとの争いという視点で見返すと、動物的な直観(?)にすぐれた要楽奈の顔つきの微細な変化描写も真実味があって軽く感動を覚える。#6で「ギター、弾く…」と言って、祖母から譲り受けた年季の入ったギターを演奏しはじめると、楽奈のギターが「歌ってる…」と気づいたムツミ1が深い眠りからようやく覚醒した。覚醒後のムツミ1が1日限りの CRYCHIC で演奏し終えたとき(成り行きでそういうことになった)、楽奈がそれとなく鋭い目でムツミ1のほうを見やったのは、ムツミ1が目覚めたこと、そして自分にとって好敵手となりそうだとピンときたからだろう。
あと本題とは関係ないが、最終話の最後にかかったムジカ楽曲はいわゆる天球の音楽で、クラシック音楽好きでもあるのでつい ↓ なんかも思い出していた。
──すべて過ぎゆくものは比喩に過ぎない ……
名状しがたいことが ここで成し遂げられた
永遠に女性的なるものが われらを高みへ引き上げる
(G. マーラー「交響曲 第8番」〈千人の交響曲〉から第2部の神秘の合唱から)
* ... 『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM、全米精神医学協会刊行)、および国際疾病分類(ICD、世界保健機関刊行) による多重人格障害/解離性同一性障害の定義の一部:
@ 患者の内部に二つ以上の異なる人格が存在し、ある特定の時点にはそれらの一つが優勢となる
A これらの人格または人格状態の少なくとも2つが反復的に、その人の行動を完全に制御している
B … 1つの人格から他の人格への変化は最初の場合は通常突然に起こり、外傷的な出来事と密接な関係をもっている ── F.パトナム 他[著]、笠原敏雄 編『多重人格障害 : その精神生理学的研究』春秋社、1999
他のムジカメンバーの科白にもはっきり出ているとおり、睦は多重人格者(Multiple Personality Disorder、MPD)として描かれてます。* ストーリー全体から受ける印象としては、幼少期のネグレクトを起因とした解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder、DID)により、「睦を守るために出現したモーティス人格」(交代人格、以下モーティス)と、「ギターが大好きだが自分を肯定できない主人格の睦」(以下、ムツミ1)の2者に分裂し、その2者が物理的にひとつしかない身体を奪い合う、といった流れです(親のネグレクト、一種の虐待を受けていたことは、ムツミ1が表情に乏しく、口下手で、ギター演奏の才があるにもかかわらず肯定できずに苦しんでいる描写に暗示されている。そして現実の DID 患者のほとんどが、そうした幼少期の問題がきっかけで発症している)。
初見のときは当然、違和感のほうが強かった(そういう向きは少なくないと思うが…)。しかし何度か注意深く見ていくと、睦の内面問題を深く掘り下げていくことで、じつは各メンバーが抱えている問題も浮き彫りにする、一種のメタファーとして機能していることに気づいた。いちばんそれがよく出ていたと感じたのは「#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す」の回。一見、女優志望の祐天寺にゃむが、自分のキャリアの前に立ちはだかる睦に抱くアンビヴァレントな感情を指しているのかと思ったが、これはそのままモーティスとムツミ1の関係にもあてはまる(し、もともと睦本人にはなんの感情も抱いていなかったはずの初華までギリシャ悲劇の仮面のごとき形相で、「私から祥ちゃん取らないで!」と憎しみを爆発させる#9の妄想カットとか)。モーティスはムツミ1が消えたら存在できない。ムツミ1を存続させるためにムジカ復活を画策するが、もともとが幼少期のイマジナリーフレンドだったお人形(モーティスのモデルについては、睦の部屋に転がっていて、#5で様子を伺いに来た元 CRYCHIC メンバーで現 MyGO!!!!! メンバー、クラスメイトでもある長崎そよが後退りしたときに踏んづけた青い髪の少女の人形ではないかという指摘がある)のため、思いどおりにいかなくなるととたんに赤ちゃん返りのような駄々をこねたり感情を爆発させたりする。愛憎相半ばしているのは物理的な他者のにゃむだけでなく、若葉睦という身体を取り合っている彼女の2つの人格でもある。
発起人の豊川祥子ほどではないにしても(初華は抱えている闇がめちゃくちゃ深いが…)、Liella!(『ラブライブ! スーパースター!!』)の澁谷かのんが「不器用さんが多すぎだよ〜、あ、ワタシもか」と言ったように、ムジカのメンバーも皆、内面に問題を抱えている子たちの集合体。2つの人格のあいだを激しく揺れ動く少女の内面描写に時間をかけたのも、メンバーが抱える問題をただ同時に語らせるのではなく、多重人格に苦しむ若葉睦の姿を通して重層/重奏的に語らせたほうがより説得力が増す(現実味が出てくる)と判断したからかもしれない。もしこれ抜きだったら、ここまで強烈な印象は残らなかったと思うし、その企ては(完全というわけではないだろうが)成功したと思う。
じつは先日、このようなスレッド投稿を見かけてひじょうに驚いた。投稿主自身が4年越しの DID の当事者で、この作品には、当事者にしかわからないような DID 特有の症状の描写が至るところに散りばめられていると絶賛している。しかもこれ制作した監督さん本人が謝意を述べているからもっと驚く。多重人格ものとくると、往年のダニエル・キイスの一連のベストセラー著作(『24人のビリー・ミリガン』など)がすぐ想起されるけれども、わたしたちが観たムジカという「かりそめの箱庭で歌い、舞う人形たちのマスカレード」は、現実の DID の症状をわかりやすく可視化した稀有なアニメ作品でもある、と評することもできる。DID の描写でとくに印象的だったのは #6、顔の右半分をムツミ1が、左半分をモーティスが支配して、それぞれ相反する表情を浮かべようと顔をひきつらせているカットでしたね。
モーむつに関する最大のナゾは、「消滅していなくなったのか?」。これについても(はっきり言ってこの手の発言じたいが異例中の異例だと思うが)監督さん自身が明かしている。監督さんが言うには([]は引用者)、
…奈落の底でもうほぼ消えている「睦」[ムツミ1に相当]と最後の邂逅だけは果たしたというシーンになります。その後ギターを弾き始めたのはもう誰だかわかりません。睦もモーティスもいない、第3の人格というわけでもない。いろんな役が入れ替わり状況に対応するだけの状態という感じです。現在のムツミは、以前、みなみがにゃむに語っていた頃の状態とも若干違っていて、役ごとに人格と呼べるものがない。…いまはそれぞれの「役」がその状況で必要になったら勝手に出てきているような感じの、つかみどころのない人になっています
…だそうです。
手鏡の中でモーちゃんとおぼしき姿が微笑んでいるカットついては、「モーティスも数ある『役』のひとつに面影を残すのみになった、というイメージ」で、「メタ構造」になっていると明言している。それでもそれを見えるように表現したのは、たんなるサービスカットを超えちゃってるんじゃないかとは思う。それまでのムツミ1と、それなしでは生きられないモーティスが、ユング心理学では無意識を表象する深い深い水の底(cf. 夜の海の航海)へと沈みつつ、互いの体のアウトラインが一体化するかのように消えていったとき、いままでのムツミ1とも違う、ほんとうの意味でありのままの、素の自分を肯定できつつある若葉睦(あるいは、その役回り)が形成されたように感じる。いま、ムツミ1と対立していた交代人格のモーティスはそれを無条件に受け入れ(無条件の愛、あるいは存在の全肯定)、「よくがんばったね」と笑顔を返すようになった、それが見えているのは若葉睦当人と、彼女の DID 問題で祥子やそよ、その他メンバーとともに「苦しみを共にしてきた」わたしたち視聴者だけだ、という理解でいいような気がする。ギターを巧みに弾いていたのは、自分の存在をあるがままに肯定できつつある、成長の階段を一歩上った現在進行形の若葉睦なのかもしれないし、監督さんが言うように、ムツミという人間の役の引き出しのひとつにすぎないのかもしれない。
#8の個室カラオケのカットで、「ムツミちゃんなんて、最初からいないよ」とすごむモーティスについては、その前のエピソードで祥子が言っていたように、ほんとうにいない、存在していないのではないと思う。あくまでもモーティス主観の発言であり、自分の目的達成のためならなんだってしそうなにゃむと同様、「自分が消えたくない」モーティスの膨れ上がるエゴ、自我がそう言わせたのだと解釈している。
ムツミ1とモーティスとの争いという視点で見返すと、動物的な直観(?)にすぐれた要楽奈の顔つきの微細な変化描写も真実味があって軽く感動を覚える。#6で「ギター、弾く…」と言って、祖母から譲り受けた年季の入ったギターを演奏しはじめると、楽奈のギターが「歌ってる…」と気づいたムツミ1が深い眠りからようやく覚醒した。覚醒後のムツミ1が1日限りの CRYCHIC で演奏し終えたとき(成り行きでそういうことになった)、楽奈がそれとなく鋭い目でムツミ1のほうを見やったのは、ムツミ1が目覚めたこと、そして自分にとって好敵手となりそうだとピンときたからだろう。
あと本題とは関係ないが、最終話の最後にかかったムジカ楽曲はいわゆる天球の音楽で、クラシック音楽好きでもあるのでつい ↓ なんかも思い出していた。
──すべて過ぎゆくものは比喩に過ぎない ……
名状しがたいことが ここで成し遂げられた
永遠に女性的なるものが われらを高みへ引き上げる
(G. マーラー「交響曲 第8番」〈千人の交響曲〉から第2部の神秘の合唱から)
* ... 『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM、全米精神医学協会刊行)、および国際疾病分類(ICD、世界保健機関刊行) による多重人格障害/解離性同一性障害の定義の一部:
@ 患者の内部に二つ以上の異なる人格が存在し、ある特定の時点にはそれらの一つが優勢となる
A これらの人格または人格状態の少なくとも2つが反復的に、その人の行動を完全に制御している
B … 1つの人格から他の人格への変化は最初の場合は通常突然に起こり、外傷的な出来事と密接な関係をもっている ── F.パトナム 他[著]、笠原敏雄 編『多重人格障害 : その精神生理学的研究』春秋社、1999
2025年03月29日
「ラテン語」バンドアニメ『Ave Mujica』解題
だいたいいつもそうなのだけれども、この作品と出逢ったのも、何気なくチャンネル変えたらいきなりゴシック体のラテン語サブタイトルが飛び込んできたのがきっかけ。"Exitus acta probat." ??? のまま見始めたらジョイスの小説よろしく、ストーリーや設定がブッ飛んでいてよくわからない。この作品の前編に当たる『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』とセットで観ないと理解不能なため、無料配信中だったこともありそちらも全編観て、『BanG Dream! Ave Mujica』(以降アニメムジカ)の物語と並行してその都度見返してました(『バンドリ!』シリーズは初期のポピパしか知らない人なので)。
つい先日、「ガールズバンドもの」としてはきわめて異形のアニメムジカ本編が大団円を迎えたので、視聴しているあいだにいろいろ思ったことなどをエピソード順に思いつくまま書き出してみます。あくまでもワタシはこう思ったていどなので、その点はご了承を。以下、サブタイトルの日本語版は拙訳、公式さんの解釈とはいっさい関係ありません。[ ]は、下敷きにした可能性のある神話伝承や雑記とか。
最終話の演劇については、神話的でありながらそのじつメンバー個人がくぐり抜けてきた苦難(per aspera ...)そのものがカタチを変えて語り直されているだけで、それを知っているのはムジカのメンバーと「共に苦しみ」(compassionate)、「共犯者」(accomplice)となったわたしたち視聴者(目撃者、witness)で、マスカレードの観客ではない。だからわたしたちも彼女たちの共犯者という「仲間」なのだ。
初回から「月の光でかりそめの命を宿した人形たち」という舞台劇だったり、祥子が学校の音楽室のピアノで弾いていたのも「月光ソナタ」で、メンバーネームも月の湖と入江※ からとられているので、マイゴが太陽の物語だとしたら、こちらはそれに照らし出される月の物語、と言えるかもしれない。いずれにしてもモーむつ氏の内面世界の描写の多さや(終盤にきてやっとカタルシスが訪れるとはいえ)、個人的にはわたしたちの誰もが抱える普遍的でありながらきわめて個人的な問題、つまり人間がよく描きこまれた作品だと感じた。それゆえ見た目はどぎつい色彩のオカルト色満載ゴリゴリのメタルバンドの物語ながら、もしこれをアニメではなく最初から小説として発表したら、日本発の最高にロックな教養小説(ビルドゥングスロマン)になるのは間違いないと思う。「Imprisoned XII」のサビ(I say you're mine, your mine/ほら すぐそこにいるのに)でモーティスが、ボロボロに崩壊した精神世界の屋敷から身投げして、ギターを奪い合っている最中に突き落としてしまった睦をかき抱(いだ)き、涙の雫を散らしながらギターを睦に託して沈んでいく描写は、こちらも涙なしに見ることができなかった。最終話で、客席に挨拶する睦が手にした手鏡の中で微笑むモーティスを見て救われたように感じた人はきっと少なくないだろう。前編のマイゴとのバランスをぶち壊すほどの圧倒的なストーリー展開だったけれども、まだ描かれてない部分や伏線も残っているため、続編が制作(北欧ロケ ?!)されるとのことでうれしいかぎり。「なんでバンドアニメでラテン語なの?」で見始めた本作だが、『ラブライブ!』シリーズと並んでまたひとつ楽しみができた。
❋ 祥子の科白に出てくる「同じ穴のむじな」(mujina)と musica の造語の可能性も指摘されている。またヘッセの『デミアン』にはほかにも「牧師さんの教えているとおりではない、違った見方もできる、それには批判が可能だ」(ibid., p.81)、「それは、責任の声と、もう子どもではいられない、ひとり立ちになるのだという声とを宿していたので、きびしく、荒い味がした」(ibid., p. 95)とある。祥子が結成した当時の Ave Mujica は「同じ穴のむじな」とは程遠い、各メンバー間のエゴ丸出しのてんでバラバラなユニットでしかなく、そのため祥子は孤立し、結果的にバンドは解散という死を迎える(前編のマイゴは学生アマチュアバンドとしての絆が描かれていたから、最初から商業バンドとして結成された Ave Mujica とはこの点でも対照的)。しかしその後のメンバーの声と、初華を連れ帰るフェリー上での「すべてを肯定したうえで、なかったことにする」と決意したときの祥子は明らかに精神的な変容を遂げた。祥子視点で見た Ave Mujica は思春期に通過するイニシエーション装置のようなものとも言えるが、物語後半でバンド復活を望む各メンバー間にははっきりとした絆が生まれはじめていた。だから Ave Mujica というバンドはほんとうの意味でのスタートラインにここでようやく立てた、それを描くための物語(舞台装置)だったと思っている。
※ 悲しみの湖(Lacus Doloris)/死の湖(Lacus Mortis)/忘却の湖(Lacus Oblivionis)/恐怖の湖(Lacus Timoris)/愛の入江(Sinus Amoris)
つい先日、「ガールズバンドもの」としてはきわめて異形のアニメムジカ本編が大団円を迎えたので、視聴しているあいだにいろいろ思ったことなどをエピソード順に思いつくまま書き出してみます。あくまでもワタシはこう思ったていどなので、その点はご了承を。以下、サブタイトルの日本語版は拙訳、公式さんの解釈とはいっさい関係ありません。[ ]は、下敷きにした可能性のある神話伝承や雑記とか。
#1 Sub rosa./薔薇の下で;恋愛の神クピド(アモール)が母のウェヌスの情事の秘密を漏らさないよう、沈黙の神ハルポクラテスに薔薇を贈ったことに由来。転じて、「『秘密』を象徴するバラを天井に描いたり、吊るすことで、その部屋の中で話された内容の秘密厳守を求めた習慣に由来」(英オックスフォード大学出版局の X 投稿より)
降りしきる雨の中、隠そうともせず慟哭しながら歩く豊川祥子(とがわ・さきこ)と、傘を差し出そうとしてもできずに立ち尽くす幼馴染の若葉睦(わかば・むつみ)。明るかった祥子は人が変わったように表情が翳り、彼女の事情を唯一知る睦も祥子の苦境を思う同苦(compassion)のあまり、しだいに精神が壊れていく[cf. ユングの言う「夜の海の航海」、オルペウスなどの古くからある「冥府行き」伝説群]
#2 Exitus acta probat./結果がすべてを明かす;オウィディウス『名婦の書簡』第2歌の引用。「ある者はこう言った。『いますぐ彼女をアテナイへ送れ。武器を担うトラキアの支配者はほかにもおろう。結果が良ければそれで良し』」
#3 Quid faciam? /どうすればいいの? 出典不明。cf. ウルガタ訳ルカ福音書16:3の「不正な管理人」のたとえ話に、”ait autem vilicus intra se quid faciam quia dominus meus ...”(どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている…)という一節ならある。睦がいままで内面の奥底に閉じ込めていたもうひとつの人格が初めて「モーティス人形」の姿で出現。「モーティス TV ショー」≒睦の脳内で再生されるカルテジアン劇場。自分のせいでまたバンドが壊れるという極度のストレスで不眠に陥っていた睦は、差し出せなかった傘を差し出すモーティスの誘惑をついに受け入れ、巨大化したモーティスに呑みこまれる[cf. ダニエル・キイス『五番目のサリー』などが取り上げた多重人格と、その元凶となった両親のネグレクトを暗示。モーティス人形は、たとえば『サスペリア2』(1975)に登場するグロテスクな人形なども連想させる]。ステージ上でただひとり、ドラム担当の祐天寺にゃむ(地方から単身上京してショービズ世界で活動するメンバーで、「普通の感性」の持ち主)が睦の天賦の才に気づき、慄然とする
#4 Acta est fabula./芝居は終わった;初代ローマ皇帝アウグスティヌス臨終のことばとされているもの。ドアをコツコツ叩くモーティスのカットは往年のオカルト洋画そのもの[cf.『シャイニング』(1980)]。睦に嫉妬していたにゃむが、睦の多重人格に気づいた祥子の発した「睦に戻ってきてほしい」という弱音を聞いて、怒りを爆発させる
#5 Facta fugis, facienda petis./成したことから逃れ、これから成すことを追う;出典はオウィディウス『名婦の書簡』のディードーの手紙から。元 CRYCHIC(クライシック)の仲間だった長崎そよが睦の寝室に入るラストカットも、やはり '70 年代オカルト洋画『サスペリア』(1977)によく似ている[cf. 主人公のスージーが、バレエ学校院長の年取った魔女の眠る秘密の部屋に忍び込み、寝ていた魔女に気づかれ、それに驚いた拍子に背後の金属製のクジャクの調度品を床に落下させる]。
#6 Animum reges./汝、心を制すべし;“Animum rege”と s なしのほうなら、ローマの詩人ホラティウスの『書簡詩』に用例がある[cf. ロアルド・ダール『魔女がいっぱい』(評論社、2006)が『いじわるな青い魔女』の元ネタか(?)]。絵本の表紙に赤クレヨン(またしても赤…)ぐりぐり描いていた ⊗ は交通標識の通行止め。モーティスと「祥子を想う」主人格の睦との闘争の暗示。MyGO!!!!!(以下、マイゴ)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)がモーティスの中で眠る主人格の睦の存在を見抜く。楽奈の「歌っているギター」を聴いて、眠っていた睦が「小さな人形」として覚醒。真相を知り衝撃を受けた祥子が、マイゴの現メンバーで元 CRYCHIC の仲間だった高松燈(たかまつ・ともり)とマイゴの事実上の発起人の千早愛音(ちはや・あのん)に問われて、思わず「CRYCHIC も睦もムジカも知らない」と3度否定する[cf. バッハ「マタイ受難曲」の「ペトロの3度の否認」]
#7 Post nubila Phoebus./雲の背後に太陽;Phoebus はギリシャ神話のアポロン。強制的に睦の家に連れて行かれた祥子は自分の犯した罪を悔い、泣き崩れる[cf. 鶏が鳴いたとき、ペトロはイエスを裏切ったことを激しく後悔して泣き崩れる]。はじめ人形だった主人格の睦の自我がだんだん大きくなり、鏡の中に閉じ込められた姿で描かれる。睦が鏡から出ようとすると、体を乗っ取ったモーティスは逆上し、鏡を割る。モーティスはどうも退行人格のようで、行動も直情的かつ幼児的。そのくせ「お塩撒いてちょうだい!」という古風な言い方は知っているのね…。鏡の中から抜け出した睦は、お百度参りよろしく睦の家に通い詰める祥子にようやく会えたものの、主導権を握ったモーティスが祥子を突き飛ばす[cf. ダブルバインド的行動]。睦のいなくなった学校の野菜園でとれた「曲がりくねったキュウリ」の差し出しの描写(睦が育てないとまっすぐで「健康な」キュウリにならない)
#8 Belua multorum es capitums./多くの頭を持った怪物;ほんらい capitum (head を意味する caput の複数属格)で終わるべきだが、不要な s が付されているのは睦の多重人格やメンバーの表の顔と裏の顔の暗示か? 出典はホラティウスの『書簡詩』(Epodi)第1巻/第1歌。ホラティウスはローマの民衆を「多くの頭を持つ怪物」と呼び、「民衆の意見と欲望は多種多様で変わりやすい。いったいわたしは何に従えばよいのか」「あるいは誰に従えばよいのか?」と続ける
#9 Ne vivam si abis./あなたが去るなら、わたしは生きられない;出典不明。アイドルデュオ sumimi のひとりで、祥子に誘われてムジカ入りした三角初華(みすみ・ういか)が、CRYCHIC 復活の噂を聞きつけ、たまたまマイゴの燈といた睦に真意をただす。祥子を守る一心で発したことばに初華は激昂し、モーティス化した睦を階段から突き飛ばす妄想に苛まれる。ムジカ復活を企てるメンバーのベース担当の八幡海鈴(やはた・うみり)が睦、祥子、初華、マイゴのメンバーと話し合っている現場にやって来たにゃむ(と、その場に居合わせたマイゴの楽奈)だけがモーティスの三文芝居を見抜く。苦境に立たされたモーティスの背後に睦の人格を象徴するギターが落下し、睦とギターを奪い合ううちに睦のほうが階下へ転落する[cf. 赤基調の一連の闘争シーンと劇場セットの建物は前出の『サスペリア』のバレエ学校「赤い館」も連想させる。睦の自室にも同じくトウシューズ(よくよく見たら正確にはバレエシューズのようです)が転がっていて、「睦ちゃんが死んじゃった! もしもし!」とパニックになったモーティスがトウシューズの受話器に必死にすがりつく。観客席で何十人もの睦が拍手しているのは、かつて存在し、いまは消滅した内面世界のさまざまな副人格の睦たちだろうか。建物セットが崩壊しつつあるのは、消えた睦たちのいる観客席側にはやくおまえも来いという暗示か?]
#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す;出典は、ローマの恋愛詩人カトゥルスの「85番」と言われる短詩の冒頭句「わたしは憎み、かつ愛す。なぜそうするのかきみは尋ねるかもしれない。自分でもわからない。ただ、そんな気持ちになるのを感じ、苦しいのだ」から[cf. ドイツの作曲家カール・オルフのカンタータ「カトゥリ・カルミナ」(=カトゥルスの歌、1943)]。初華は廃棄処分寸前の祥子のオブリヴィオニス衣装を自分のアパートに持ち帰って添い寝したり、祥子の邸宅に連れ込もうとするにゃむに抵抗するなど、ここまで隠されてきた初華の秘密があぶり出されていく。にゃむが初華を豊川邸まで連れてきて部屋に入れてもらうと、ヘッセの教養小説『デミアン』(1919)を読む祥子がいた[cf.「一つの宿命が私の上におおいかぶさっていた。それを突き破ろうとするのは無益なことだった」──『デミアン』新潮文庫版、p.53]。「アモーリス」のにゃむに「ずるくて、うらやましくて、愛してる」と言われたモーティスは、それをほかならぬ睦に言ってほしかったことに気づく。復活公演の舞台で演奏するフリをしていたモーティスだが、自分は睦なしでは生きられないと悟り、身投げする。先に落下していた主人格の睦を抱いてともに転落していく[cf. ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』のフィネガンの転落≒人類の転落とその救済]。イマジナリーフレンドに戻ったモーティスと統合した主人格の睦は、初華の歌唱に合わせるように突然ギターを奏で始める。睦はギターを歌わせることができるようになっていた[cf. Crucifix X の出だしはベートーヴェンの「月光ソナタ」1楽章冒頭+バッハ「トッカータとフーガ」BWV565 のフレーズからだろう。嬰ハ短調 ⇒ ニ短調の転調。ついでに“X”は、イエスの弟子のひとりアンデレが磔にされた十字架の姿であり、出だしの「月光ソナタ」冒頭の調号もシャープ4つの十字形 ⇒ 聖アンデレ十字]。海鈴は睦の変化を感じ、にゃむはうつむく。ムジカ復活公演の屋外広告に書かれたラテン語(auferte memoriam vestram)は、英訳すれば Take away your memory くらいの意味
#11 Te ustus amem./灰になっても愛す;出典は、ローマの恋愛詩人プロペルティウスの『哀歌』3巻 15 章(「火葬の積み薪で焼かれてもあなたひとりを愛す」)から。マイゴ最終回で、ムジカのデビューライヴ冒頭で初華が独唱したイングランド古謡「グリーンスリーヴス」(歌詞に「長い間あなたを愛していた/そばにいるだけで幸せだった」という一節がある)が再び初華自身によって歌われ、隠された彼女の過去が 20 分超のモノローグで明かされる[cf. 私生児設定で思い出すのはたとえばケルト航海譚の『メルドゥーンの航海』]。三日月が照らす小豆島の海のカット[Ave Mujica がなんで musica でないのかが不明だったが、ひとつ可能性として、もともとラテン語アルファベットは 23 文字しかなく、i=j だったことを思い出した(u ももとはなくて、中世教会ラテン語の時代は v と混用されていた。cf. Nauigatio Sancti Brendani = Navigatio Sancti Brendani)。それで表記すれば Muiica。これを分解すると m〈isumi〉+uiica でム+ウィイカ、すなわち≒三角初華と読める。ほとんど恋愛感情と言ってよいほど祥子に対する思慕が強い初華の名前に、幼くして亡くした母を思って祥子が Ave Mujica と命名したのかもしれない。もしそうだとすれば、このメタルバンドのラテン語コンセプトも世界観もすべて祥子・初華の合作ということになる*]
#12 Fluctuat nec mergitur./たゆたえども沈まず;16 世紀からあるパリ市のモットー。[cf. デルフィの神託によれば、アテナイは海に浮かぶワインを満たした革袋のように波に揉まれるが、沈むことはないという(『ラテン語名句小辞典』 研究社、2010)]。「他者の敷いたレール」という運命の歯車に抗うかどうか逡巡する祥子に突風が吹きつけ、彼女はスイス行きから逃れる[cf. 祥子が読んでいた『デミアン』の作者ヘッセは 1924 年にスイスに帰化している]。祥子が初華と再会したのはバラ園で、ここで初回のラテン語サブタイ“Sub Rosa”が回収される(2人だけの秘密の共有)。また、「おお友よ、このような調べではなく…」で開始されるベートーヴェンの「第九」終楽章的な転換、あるいはバッハの「フーガの技法」の 12度・10 度で原形主題と新主題が互いに入れ替わる転回対位法による4声二重フーガのように、ここまでの「運命の歯車」が逆転し始める。それを暗示するかのようにオープニング/エンディング曲の反転。ちょうど真ん中のエピソードの #11 を挟むように、#12 と #10 ではオープニングとエンディングが変更されている]。また「キュウリの代わりにゴーヤを育てる」に関して、ゴーヤの花言葉は「強壮」「生命力」など
13 Per aspera ad astra./艱難を経て星へ;英訳すれば Through hardships to the stars. 出典不明だが、一説には、セネカの長編詩『狂えるヘルクレス』(Hercules furens)の“ Non est ad astra mollis e terris via.”、「この大地から天へ至る道は険しい」からとも。米カンザス州のモットーに採用されるなど、ひじょうに有名な格言。ライヴハウスでのマイゴのライヴと同時進行する復活したムジカのマスカレードライヴ。演劇のモティーフは順に円卓の騎士/アーサー王伝承群、騎士叙階(剣先で騎士の肩を叩く、dub して騎士として認めること)、ラグナロク/『エッダ』や北欧神話など。そういえば公演ポスターにもラテン語で mythologia(神話)と表記されていた
最終話の演劇については、神話的でありながらそのじつメンバー個人がくぐり抜けてきた苦難(per aspera ...)そのものがカタチを変えて語り直されているだけで、それを知っているのはムジカのメンバーと「共に苦しみ」(compassionate)、「共犯者」(accomplice)となったわたしたち視聴者(目撃者、witness)で、マスカレードの観客ではない。だからわたしたちも彼女たちの共犯者という「仲間」なのだ。
初回から「月の光でかりそめの命を宿した人形たち」という舞台劇だったり、祥子が学校の音楽室のピアノで弾いていたのも「月光ソナタ」で、メンバーネームも月の湖と入江※ からとられているので、マイゴが太陽の物語だとしたら、こちらはそれに照らし出される月の物語、と言えるかもしれない。いずれにしてもモーむつ氏の内面世界の描写の多さや(終盤にきてやっとカタルシスが訪れるとはいえ)、個人的にはわたしたちの誰もが抱える普遍的でありながらきわめて個人的な問題、つまり人間がよく描きこまれた作品だと感じた。それゆえ見た目はどぎつい色彩のオカルト色満載ゴリゴリのメタルバンドの物語ながら、もしこれをアニメではなく最初から小説として発表したら、日本発の最高にロックな教養小説(ビルドゥングスロマン)になるのは間違いないと思う。「Imprisoned XII」のサビ(I say you're mine, your mine/ほら すぐそこにいるのに)でモーティスが、ボロボロに崩壊した精神世界の屋敷から身投げして、ギターを奪い合っている最中に突き落としてしまった睦をかき抱(いだ)き、涙の雫を散らしながらギターを睦に託して沈んでいく描写は、こちらも涙なしに見ることができなかった。最終話で、客席に挨拶する睦が手にした手鏡の中で微笑むモーティスを見て救われたように感じた人はきっと少なくないだろう。前編のマイゴとのバランスをぶち壊すほどの圧倒的なストーリー展開だったけれども、まだ描かれてない部分や伏線も残っているため、続編が制作(北欧ロケ ?!)されるとのことでうれしいかぎり。「なんでバンドアニメでラテン語なの?」で見始めた本作だが、『ラブライブ!』シリーズと並んでまたひとつ楽しみができた。
❋ 祥子の科白に出てくる「同じ穴のむじな」(mujina)と musica の造語の可能性も指摘されている。またヘッセの『デミアン』にはほかにも「牧師さんの教えているとおりではない、違った見方もできる、それには批判が可能だ」(ibid., p.81)、「それは、責任の声と、もう子どもではいられない、ひとり立ちになるのだという声とを宿していたので、きびしく、荒い味がした」(ibid., p. 95)とある。祥子が結成した当時の Ave Mujica は「同じ穴のむじな」とは程遠い、各メンバー間のエゴ丸出しのてんでバラバラなユニットでしかなく、そのため祥子は孤立し、結果的にバンドは解散という死を迎える(前編のマイゴは学生アマチュアバンドとしての絆が描かれていたから、最初から商業バンドとして結成された Ave Mujica とはこの点でも対照的)。しかしその後のメンバーの声と、初華を連れ帰るフェリー上での「すべてを肯定したうえで、なかったことにする」と決意したときの祥子は明らかに精神的な変容を遂げた。祥子視点で見た Ave Mujica は思春期に通過するイニシエーション装置のようなものとも言えるが、物語後半でバンド復活を望む各メンバー間にははっきりとした絆が生まれはじめていた。だから Ave Mujica というバンドはほんとうの意味でのスタートラインにここでようやく立てた、それを描くための物語(舞台装置)だったと思っている。
※ 悲しみの湖(Lacus Doloris)/死の湖(Lacus Mortis)/忘却の湖(Lacus Oblivionis)/恐怖の湖(Lacus Timoris)/愛の入江(Sinus Amoris)
