2025年01月26日

1973年のNHKホール落成記念公演

 … を先日、こちらの番組にて視聴した。

 当時 49 歳(!)、めちゃ若々しいマエストロ・サヴァリッシュのキレのある棒さばきから紡がれる“ブラ1”(「交響曲第1番 ハ短調 op.68」)、いやぁ感動的でしたねぇ。昨今はやりの通勤快速的テンポのせかされ感はまるでなく、タメるところはタメる、聴かせどころは聴かせるというメリハリがなんとも心地よく、しかし楽曲全般はいかにもドイツ的に小気味よく進行してゆく、そんな印象を受けました。

 初回放映当時はまだ入園前の幼児(!)の身ゆえ、映りの悪い半世紀以上も前のブラウン管(!!)のちっこい画面の受像機で果たしてコレを観ていたのかどうか …… は、記憶があいまい。しかしうろ覚えながらも記憶に残っているのは、「ほら見てごらん、世界最大級のパイプオルガンだってよ」という母のことばだった。

 …… そういうしだいでふと、「そうだ。同時期に開催されたイジー・ラインベルガーのオルガン開きリサイタルってプログラムとかどこかに転がってるのかな?」と思い立ち、いつもの「日本の古本屋」さんに行ったらあっさり見つかった。即お買い上げ。

 中学生のころ、巷にまだ LP(老婆心ながら Long Playing の頭文字ね)アナログレコードがあふれていた時代、どこのレーベルかは失念したがそのチェコスロヴァキアのオルガン奏者ラインベルガーさんの「バッハ・オルガン名曲集」が売られていた(ジャケット写真はブクスフーデゆかりのリューベック・聖マリア教会)。で、たしかライナーの解説には、「生粋のアルピニストで、来日したときに海抜0mから歩いて富士登山した」とか書いてあったと思う。…… あれから幾星霜、ついにご本人の肖像写真を拝見できた。やはり、というか謹厳実直なタイプの端正な横顔の紳士だったが、つぶらな感じの目だったので、どことなく私たち日本人的な顔立ちにも見えた。

 オープニングリサイタルの当日、ストップの入れ替えとか譜めくりとかの助手として演奏を支えていたのは奥さんだったらしい。ググれば当時、コロンビアレーベルから発売されていたほうのラインベルガー氏のアナログ音盤ジャケットが出てくると思うけれども、そのジャケ写真こそ、1973 年6月 22 日、24 日とサヴァリッシュ/N響の杮(こけら)落とし公演をあいだに挟んで開かれた新 NHK ホール大オルガンのオープニングリサイタルになります。

 半世紀以上も前の美品のプログラムを繰ってみると、初日(6月 22 日)のリサイタル最初の楽曲は、バッハの例の有名曲(BWV 565)でした。なにしろ本場のオルガン、しかも世界最大級のバカでかい本格的コンサートオルガンなんて一般的な日本人は誰も見たことも、そのサウンドを体験したこともなく、そもそも西洋の器楽ということでは最古参ジャンルのひとつオルガン音楽に親しむリスナーなど皆無といっていい時代。だからコレは耳慣らしとしてはしごくまっとうな選択でしょう。2日目のほうはこれまた有名な「小フーガ」(BWV 578)が入ってます。ほかにバッハは17(18)のコラールとして知られる一連のコラール前奏曲から待降節の有名な曲(BWV 659)、「パッサカリア」(BWV 582)。2日目ではクリスマス時期によく演奏される「パストラーレ」(BWV 590)も加わってました。

 でもバッハは数曲で、すぐにレーガーやフランクやヒンデミット、そしてチェコの作曲家がふたり続いて終わってます。なんかいきなりツウ好みな、バッハしか聴いたことのない聴衆にはまるで馴染みがないであろう楽曲のオンパレードな印象。とくに同郷人のチェコの人の作品はオラもまったく知らず。だからなおさら聴いてみたいと思う。以前、NHK ホールのオルガンつながりでは、なんとあの古関裕而氏が弾いている貴重な映像を歌謡番組かなにかでチラっと拝見したことはあるが、こんどはぜひ杮落としオルガンリサイタルの映像を放映してほしい、と「心からのせつ菜る願い」を申し添えておきます。

 プログラムに解説を書いているのは高名なバッハ学者の角倉一郎先生なんですが、ところどころ欧州の古いオルガンのモノクロ写真が添えられてます。でもこれってパっと見てどこどこの楽器だなとかわかる人はおそらく誰もいなかったでしょうね。せめてキャプションでもつけるべきだったのではないかな? 最初のほうに掲載されている、現存する世界最古の演奏可能な「燕の巣オルガン」については、解説の本文でも触れられてはいますがね …… いちおうルネサンスからバロックと時代を追って並べられているようですが、イタリアの1段手鍵盤ものの古オルガンやオランダのバロックオルガン(おそらくマーススライス大教会の、ルドルフ・ガレルスが建造した歴史的楽器)、そしてお兄さんのほうのジルバーマンが建造した、スイス・バーゼル州のアルレスハイム大聖堂の歴史的楽器あたりは特定できた。あと、駐日チェコスロヴァキア大使さんの賛辞文の「現代のチェコ・オルガン学派の創始者」ってのは、「楽派」のミスプリでしょう。

 紙数(?)が尽きたのでいったんこの話はここまで。ほんとはまだ続きがあるんですけど、それはまた後日にでも。いずれにしても今回の半世紀の時空を超えた再放映は、まことにありがたいかぎり。今後もどんどんやってね。

※ 昨年 11 月、『スパスタ!!』3期の聖地巡礼がてら、これまたウン十年ぶりに NHK ホールの前まで行ってみた。プロムナードなんかすっかり変わっていて、ワタシがN響定演を聴くため初めて連れて行ってもらったとき(1985年3月末。プログラムは三善晃の児童合唱付きの初演作品と、メシアンの「トゥランガリラ交響曲」)、ホール前の道路はフツーに舗装道路だったと思う。いまは Liella! のランニングコースとして登場するようなケヤキ並木の広い散歩道といった感じのタイル舗装になっていた。それと NHK ホール正面玄関へのアプローチもだいぶ変わった。なんか放送センターは絶賛建て替え中らしいけれども、とりあえずホールのほうはこのまま現役続行のようです。あとは、かつてのようにオルガンリサイタルの復活を望むばかり ……。ついでに文中の「心からのせつ菜る願い」は、有名な受難のコラール(ハンス・レオ・ハスラーの失恋の歌が原曲なんですが)をバッハがオルガン独奏用に編曲したコラール前奏曲(BWV 727)に、ニジガク成分を混ぜ込んだパロディ(メンバーの優木せつ菜から拝借)。

posted by Curragh at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連

2024年12月31日

「救いは、あなたの中にある」

 はじめに個人的な話を少々。10 月に高齢の母が緊急入院して以降、いろいろありまして、グループホームに落ち着き(初の高額医療費申請)、年の瀬になってようやくほっとできまして、いま「クラシック名演・名舞台 2024」を視聴しているところ。ココの更新をサボっていたのはそれがおもな理由になります。その間もふつうに仕事していたから、書く時間がない、というより、なにをどう書こうかがなかなかまとまらずに時間だけ過ぎていったというしだい。

 で、書きながら番組観ていたら、マエストロ・井上道義氏が登場して、2月のN響定演で指揮したショスタコーヴィチの「交響曲第 13 番 バビ・ヤール」(バビ・ヤールは、ウクライナの首都キーウ郊外にある峡谷の名)について語った名言をまた聞くことができた。井上氏は自身の指揮活動の掉尾を飾る作品として、この「問題作」を選んだ。では、いまなぜ「バビ・ヤール」なのか、については次のように発言している。
… いま実際に、この音楽で糾弾しているようなことが起こっているじゃない、何万人も死んだりさ。演奏したくないぐらいだよ …… でも若い人にこれ聴いてほしいね。[この作品で]ショスタコーヴィチが最後に何を言いたかったっていうと、「希望はあるか? … 希望はあるか? ないとしたら、おまえのせいだぞ …… そういうことを、心の底から問いかけているから。いい曲だよ。答えはないよ。救いはないよ。救いは、あなたの中にある。そういう内容なんですね。おもしろい、おもしろい。知れば知るほどおもしろいよ」
 このときはじめて(だと思う)この作品を聴いたけれども、個人的にもっとも心惹かれたのは、「ユーモア」と題された第2楽章。世界の支配階級を引き合いに出した歌詞に、こんな一節が出てくる。
ツァーリをはじめ、地球上の全権力者は閲兵式を指揮できても、ユーモアだけは指揮できなかった ……
ユーモアは永久不滅 ……
ユーモアはすばしこい ……
ユーモアはあらゆるもの、あらゆる人をすり抜けてゆく
ユーモアに栄光あれ! 
 また例の人(!)が米国大統領に選ばれたから、残念ながらウクライナはもう打つ手がないだろう。しかしユーモアというものは、どんなに弾圧されても死に絶えるなんてことは決してない。似たようなことはジェイムズ・ヒルトンの『チップス先生さようなら』(1934)にも書かれている。そしてこれもまた耳タコかもしれないが、何度でも繰り返して言う。世の中、いくら制度を変えてもリーダーの首をすげ替えても良くはならない。いちばん大切なのは、各人が活き活きとすることだ。活き活きとさえしていれば、どんな世界でもまっとうな世界(ジョーゼフ・キャンベル)なんである。これはラディカルで無政府主義的でニヒリズム的で刹那的で御しがたいしょーもない危険思想に思えるかもしれない。が、ほんとうにそうだろうか。個人的には、これは突き詰めて考えるべき深遠なテーマだと思っている。

 もっとも、各人がてんでばらばら好き勝手してかまわない、と言っているのではない。公共の福祉の観点が欠けていたら、そもそも人間社会は成り立たない。不利益を被る他者がいるから己が存在する。逆もまた然り。それはつねに留意すべき。大切なのは、コレだけは死んでも譲れない、不可侵の領域を作ること、ようするに「聖地」を持つことかと。

 「推し活」という用語が定着して久しいが、依存症と混同されるのは困りもの。アーノルド・ベネットが『文学の味わい方』(拙新訳版も出したけれども)でも書いているように、もし心から共鳴し感動した作品(アート)があれば、現実の人生にそれを取り込むことが大切だと思う。アニメとか文学とかは関係ない。ほんもののアートは、人種も民族も言語の障壁も超越して普遍的なパワーが宿っているものなのだから。趣味嗜好が変わるのは、トシをとってくればそりゃ仕方ないでしょう、自分も含めて。しかしその核となる部分はそうそう変わるもんじゃない。そういう核心部分は失われずに残るものだと思う。

 母の緊急入院からグループホームに落ち着くまでの2か月余りは、ちょうど『ラブライブ! スーパースター!!』(スパスタ)の第3期の放映時期と重なった。その間、何度か『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編第1章』(通称えいがさき)も観に行った。グループホームは、母校の高校のすぐ近くだった。数十年ぶりに母校を眺めた。マルに目がない Liella! のちぃちゃん部長(嵐千砂都)じゃないけれど、自分自身が大きな円環を描いているような錯覚に襲われた。だからスパスタの最終回を迎えたときは感慨深いものがありましたね。来たる年はもう少しまじめに更新しようと思いマス。

posted by Curragh at 23:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽関連

2024年09月30日

戦後まもない頃に AI 到来を予言していた N・ウィーナー

 せんだって読んだこちらの本。この本を読む前にここにも書いたショシャナ・ズボフの『監視資本主義』の邦訳ももちろんすばらしいんですが、どっちかオススメしろと言われたらアセモグル本のこちらの訳書を推すかな。理由は、いわゆる独自理論臭さがあまり感じられない(歴史的事実にもとづき慎重に考察を論述するスタイルで、ズボフ本に散見されるようなポエティックな箇所もない)のと、読みやすい、という点で。理想的には上記2冊を読んだほうがいいとは思うが、アセモグル本の日本語版は上下巻と分かれているため、そこがとっつきにくいという向きもいるかもしれない。

 ワタシは仕事の裏をとるために下巻をまず読んだんですが、これだけでも読む価値のある本だと思いますよ。とくに好感が持てたのは、いまや子どもでも知ってる AI(人工知能)と、技術革新と民主主義の危機について論じた章。時間のないオイソガ氏さんは、まずはここだけでも目を通すべきかと。

 とくに心惹かれたのは、戦後まもない頃、すでに 21 世紀の AI 天国(?)時代の到来を予言した寄稿文の原稿があると紹介されていたくだり(同訳書 pp. 149−151)です。書いたのはマサチューセッツ工科大学(MIT)教授だったノーバート・ウィーナー(1894−1964)という科学者で、当時勃興しつつあったオートメーション技術を人間の役に立つようなかたちで発展させよ、という「機械有用性」と言われる概念を支持した人。1950 年代に刊行された翻訳技術に関する本に、すでに機械翻訳が英仏語間で試験的に行われていた実例が書かれていた話を以前、ここでもちょろっと書いたけれども、ちょうど時同じくしてこのような原稿が書かれていたとは。ウィーナーの著作や論文には、ズボフ女史の言う「スマートマシン」を想起させる内容も含まれている。

 この原稿についてはこちらの NYT 記事に詳しく書いてあるとおり、行き違いと本人にもはやその気がなくなったというのもあって、原稿が書かれてから 63 年後の 2012 年にたまたまカール・ポパーの調べ物をしていた学者が「再発見」されるまで、ずっと MIT の書庫に眠っていたらしい。しかも日の目を見てから 10 年ほどでシンギュラリティ的展開を見せているいまの世界を書いた御本人が見たら …… きっと嘆息されるに違いない。そういえば OpenAI で退職者が相次いでいるとかっていう話を海外ニュースでも見かけますが、ここの組織はかなり変わっていて、持株会社的な役割の非営利組織の下に OpenAI を含む「子会社」がつながっている、という形態。こういう特殊なかたちにすることで「研究者の暴走」を食い止めている転ばぬ先の杖的な構造に敢えてしているのですが、そんなのもうやめたら? ということでゴタゴタが起きているようです。いままでインターネットやクラウドや IoT などの IT 技術がらみで、こんなことって起きたでしょうか? 今回のお家騒動を見るだけでも、AI 界隈がこれまでとは一線を画する危険性を孕んでいる、ということが門外漢にもわかろうというもの。以下、印象的な箇所のみ拙訳で引用しておきます。
いまや一般人でも、「動力機械ではなく、計算する機械によって成立する機械の新時代が間近に迫っている」ことを良く認識している。この手の新しい機械には、人間の労力や能力を機械の労力と能力に置き換えるというより、かなり高レベルの判断が要求される場面以外の、ありとあらゆる人間の判断に取って代わる傾向がある。このあらたな置き換えが起これば、私たちの生活に多大な影響をおよぼすことはすでに明らかだが、それがどのようなものなのか、一般人は知る由もない。
…… 人間の体の構造にもっとよく似た機械の理解も進み、いままさにそうした機械が製造されようとしている。それらは工業生産の工程全体を制御し、ほぼ従業員のいない工場の実現さえ可能になるだろう。
…… 未来のマシンエイジにわれわれが頼ることになる装置は、そのほとんどが反復的であり、しかも明らかに大量生産方式で製造可能である。
…… 人間と、人間が制御する強力な機関との関係を論じるとき、民話に登場する格言的な知恵のほうが、社会学者の手になる本よりはるかに役に立つ。過去のどの民族においても、「人間は自らの意志に見合った権力を与えられると、それを正しく使うより間違って使う可能性のほうが高く、賢明な使い方ではなく愚かな使い方をする可能性のほうが高い」というのが、賢者と目されていた人びとの共通認識だった。

 …… 然り! としか言いようがない。聖ブレンダンがらみの記事でも似たようなことは何度か言及したけれども、昔の賢者をバカにしてはいけません。滅亡の足音が大きく聞こえてくるのは、まさに過去から学ぶ謙虚さを忘れたときなんです。

posted by Curragh at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2024年05月31日

翻訳というより、超訳本だった話

 以前もここで書いた、米 SF 界の往年の大御所のひとり、ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ。最近、たまたまここのページを眺めていたら、見覚えのない邦訳書が出ていることを発見。しかもあの電撃文庫からかつて出ていたという。電撃文庫って、「紅蓮の剣姫(けんき)」のようなラノベ専科みたいなイメージしかなかったから、コレハぜひ入手! と息巻いたものの「日本の古本屋」にもなくて、しかたないから期間限定で又借り(静岡県内の公立図書館の相互貸出サービス経由で。というか電撃文庫って創刊当初はなんと主婦の友社から発売されていたんですねぇ、知らなかった)。

 で、さっそく地元の図書館で 27 年も前(!)に刊行された日本語版の上巻を受け取りまして、Kindle 版の原書(コレはもちろん買いました)と出だしから2章にかけて突き合わせてみた …… 結果、コレは翻訳というより、いっとき日本ではやった超訳ずら、という結論とあいなった。

 超訳の元祖ってじつはけっこう古くて、記憶がおぼろげで申し訳ないけれども、ウン百年前にオランダ語原典から英訳した本には原典には出てこないアヒルとかの動物の鳴き声がやたらと追加されてにぎにぎしくなっている、というものがあるって高名な翻訳家が書いた本で読んだことがある。その伝でいけばこちらの訳書(?)もりっぱな超訳書ということになる。

 どれだけ脚色≠ウれているかをちょっとだけ見ていきます。まずは冒頭部[拙試訳は、字義通りに訳すとこんな感じ、というていどのもの。下線は引用者]。
On the first day of the Month of the Crow, in the fifth year of King Tonio of Xylar(according to Novarian calendar)I learnt that I had been drafted for a year's service on the Prime Plane, as those who dwell there vaingloriously call it. They refer to our plane as the Twelfth, whereas from our point of view, ours is the Prime Plane and theirs, the Twelfth. But, since this is the tale of my servitude on the plane whereof Novaria forms a part, I will employ their terms.
〈試訳〉ザイラー国トーニオ王の治世5年目、ノヴァリア暦でカラスの月の1日に、おれは第1平面(うぬぼれ屋の住人たちは自分たちの住む世界をそう呼んでいる)で1年間、奉公するお役目に召喚されたと知った。向こうはこちらを「第 12 平面」なんて呼んでいるが、こちらから見れば「第1の」平面はここで、奴さんたちの住む世界が「第 12 平面」だ。と言ったところで、そもそもこれは、ノヴァリアを形成する時空世界で丁稚奉公した顛末をあれこれ語るお話なので、ここはおとなしく、奴さんがたの用語で「第1平面」と呼ぼう。
 で、同じ箇所が日本語版では … ↓
ノバリア暦ザイラーの王トニオの年、烏の月の一日。
いきなりなんのことやらさっぱりわからないのだがかまわずにいこう
この日、ズドムは強制丁稚奉公の命令通知を受け取った。
強制丁稚奉公とは強制的に丁稚として奉公させられることである。第一地界のノバリアで一年の間丁稚としてこき使われてこいという内容だった。
なにかのまちがいではないか。
「厳正なる抽選により、あなたが今年の丁稚に選ばれました」
ちっとも嬉しくなかった。(p.11)
 下線部、間違いなく訳者のココロの声ですな。
 そのすぐあとに「ノバリアのある地界が第一地界で、ズドムの住んでいるのが第十二地界というのはノバリアから数えた場合で ……」とある。英語版 Wikipedia 記事 を見ると、ノヴァリアは地球(と、そこに住むわれわれ)のパラレルワールドで、こことあちらの違いは「魔法が使えること」。魔法使いがいて、ほかの平面(plane)の住人を呼びだすことができる。ノヴァリアからいちばん離れた平面世界が主人公の悪魔の住む「第 12 平面」。言語も異なり、向こうはノヴァリア語を話す。それが日本語版では
…… 現に今こうして語られているこの言語も、これは実はノバリアの言葉なのである。
 ノバリア語は日本語にとてもよく似ている。(p.12)
に化けてしまう。もちろんディ・キャンプはそんなこと書いてないし、だいいちクドすぎる。完全な創作。

 日本語版には巻頭カラーの4コマ漫画(!)まであって、そこに描かれているのが、これまたいかにもという感じの、丸っこくデフォルメされた各キャラクター(『Dr.スランプ アラレちゃん』に出てくるような絵柄)。訳文はとんでもなく自由闊達ながらも、キャラクターたちのイラストを見ると、主人公や、「第1平面」に住む魔法使いのモルディヴィウスの体つきや身なりなんかはわりと忠実に再現≠ウれている …… 気はした(金属的な青光りするうろこにとがった耳、ナマズのような巻き毛のひげにしっぽを持つズディム[Zdim、邦訳の表記は読みやすさを最優先にしたんでしょう]、もじゃもじゃのひげをたくわえ、猫背だが背丈はズディムと同じくらい高く、ツギハギだらけの黒衣をまとった魔法使いモルディヴィウス、など)。脚色や創作箇所がそれこそあっちこっちにあり、前述したように冗長さはあるものの、そこに目をつぶれば、上巻を見たかぎりは全体的にストーリーや世界観が大きく逸脱したり、破綻はなさそう …… と感じた、あくまで一読したかぎりでは。

 しかし出だしからもうすこし先、主人公の悪魔(fiend)ズディムが魔法陣の真ん中に立ち、自分が属する「第 12 平面」から人間の住む「第1平面」へ転送≠ウれた直後の描写(p.20)はどうも落とし穴に落ちておいでのようです。その箇所の原文をすなおに訳せば、「……[ニンの役所の]長官の間が目の前から消えたと思ったら、いきなり荒削りな地下室の中、いまさっきまでいたのとまったく同じ五芒星の上に突っ立っていた。このとき、いま自分が立っているところに 100 ポンドの鉄のインゴットが置かれていて、そいつが自分の代わりに第 12 平面に運ばれたと知った」。過去完了の見落としが原因かと。たしかに巻末近くにも、ノヴァリア第1平面における任務(?)を終え、都市国家どうしの侵略戦争もどうにか切り抜けたこの悪魔(で、しかも哲学者!)氏は、愛する妻と赤ん坊が待っている故郷へハレて帰還するとき、“I sat down on the two hundredweight ingots of iron” ってあるけれども、これはおみやげ的な追加の鉄のインゴット(Wikipedia の要約記事にもしっかり “extra” って付いてる)。彼の住む世界である「第 12 平面」は慢性的な鉄不足で、人間の住む「第1平面」から鉄のインゴットを用立ててもらう代わりに、1年間の「丁稚奉公」要員として悪魔を差し出すという「契約」を、かの地の人間の魔法使いと交わしている、という設定になってます。魔法陣に描かれた五芒星は、一種の転送装置です。

 老魔法使いのモルディヴィウスに「メシ炊きと掃除をしろ」と命じられた丁稚奉公の悪魔ズディム。魔法使いの若い弟子グラックスに、キッチンに行く道が迷路みたいでわからん、とこぼしたら、歌みたいにして覚えればいいときて、「いいかい? まず左左右右左右左。はいっ。ごいっしょに」(p.32)なんて調子良く続くがこれもウソ(創作)。原文は「行きは右左右左左右右、帰りは左左右右左右左。できるか?」です。

 これくらいにしておきます。キリないし、そんなにヒマじゃないし(苦笑、つづく第2章ものっけから訳者はブッとばしてスピード違反の連続。いもしないロバ[原文は mule、ラバ]だの存在しない「鳥居」だの、グラックスがズディムに「夜這いにいっしょに行かないか」なんてお誘いしているのもぜ〜んぶ訳者の創作だから恐れ入る。全編この調子では、さすがに読まされるほうはたまったもんじゃない)。日本語版はどういうわけか(?)上下巻と分冊になってますが、原書のこちらの版の場合は 200 ページほど。ほかの版も調べた限り似たりよったりで、日本語版を1冊本として出版したとしてもさほどガサばらなかったはず(とはいえ、あれだけあることないこと詰め込まれるといきおい分量は増す…)。

 今回、これを書くときに参照した読書家の方が書かれたページがあります。この超訳本については一定の評価をしつつも、「翻訳の出来不出来、原典の再現性はさておいて、海外のおもしろそうなファンタジーを適当に訳してマネーを稼ぐ、悪しき前例とならないように」とクギを刺しています。電撃文庫で翻訳ものっておそらくほかにはないだろうとは思うが、ワタシとしては、やっぱり前にもここで書いたような、ハヤカワファンタジー文庫版『妖精の王国』の名訳者である浅羽莢子先生の訳で読みたかったなァ、というのが率直な感想。

posted by Curragh at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2024年04月25日

『オッペンハイマー』

 ここのところ大好きな『ラブライブ!』シリーズの劇場版作品のリリースが続いて(昨夏のアニガサキ OVA とか今春の『ラブライブ! The School Idol Movie』4DX 版とか)、鑑賞するのもいきおいそっち方面に偏りがちではあるけれど、日本人としてはやはり観ておきたかった作品がコレ  

IMG_7940.jpeg


 オッペンハイマーとはじつは少しばかり縁がありまして、まだ翻訳を学ぶ側だったころ、当時の師匠の教室の生徒さんたちと共同で下訳したのが写真の歴史に関する大部の著作で、たまたまワタシが担当した箇所がずばり「広島に落とされた原爆」の写真について考察された章だった。人類史上初の核兵器の話なので、「トリニティ実験」も、そして映画でも何度か登場する『わたしは死、世界の破壊者となりし』という、古代インドの聖典『バガバッド・ギーター』の引用句も出てきた。

 映画ではこの引用句が印象的に使用されているのだが、映画の原作にあたるこちらの本(ハードカバー初版本では上巻末尾近く)を見ますと、どうもこれ、オッペンハイマー自身は 1945 年時点で口にしていないって書いてあります。じゃあ初出はいつか、というと、なんと 1965 年(昭和 40 年)、NBC テレビのインタビューだったと明かされている[↓動画クリップ参照]。なので、「きみはわたしのようなジプシーではない」(アインシュタイン)のように、映画に登場する人びとの科白はほぼ原作を忠実になぞっている、と言えそうだが、コレに関してはどうもそうではなさそう、つまり映画の脚色っぽいのです。



 そうなると、当時交際していた精神科医のタマゴだった女性がアラレもない姿で本棚から引き抜いた一冊をオッペンハイマーの目の前に掲げて、「このサンスクリットはなんて書いてあるの?」と訊いた云々も史実とは違う、ということになる(ここの箇所は時間がなくて、原作本で確認できなかった。というかこのベッドシーンその他は必要なカットなのか? ただのサービス? もしこうした一連のカットのせいでこの作品がR指定にされたんじゃ、それこそ本末転倒だと思うが。それと文学の出典つながりでは、冒頭近く、オッピー(オッペンハイマーの愛称)の愛読書らしかった T・S・エリオットの詩集『荒地』も一瞬だけ映っていた)。

 ただ、それ以外は(確認したかぎりでは)ほぼ原作どおりに進行し(実在した人物の評伝的作品だから、当然と言えば当然ながら)、宿敵ルイス・ストローズ(戦後、米政府原子力委員会トップに就き、オッペンハイマーの公職追放を主導した。彼の視点で語られるときは、モノクロ画面に切り替わる仕掛けが施されている)とのやりとり、アインシュタインとのやりとり、そしてトリニティ実験当日に奥さんのキティと交わした「シーツは入れなくていい」「シーツは入れてくれ」のような暗号じみた電話などは史実を丹念に拾っている。カリフォルニア大学バークレー校教員時代、同僚のひとりルイス・アルヴァレズが理髪店で散髪中、たまたま広げた新聞にとんでもないニュースが書かれてあり、「食い逃げッ!」とばかりに店主が追いかけるも、脱兎のごとく(笑)外に飛び出し、そのまま全速力でキャンパスまでもどり、「オッピー、オッピー! ドイツのハーンとシュトラスマンだ! 核分裂に成功したぞ!」と叫ぶ場面とか、細かいところも史実に沿って描かれている。

 トリニティ実験当日のようすも克明に描かれていて、オッペンハイマーが感じていたであろう重圧は観ている側にもダイレクトに伝わってくる。早朝5時30分、やぐらのてっぺんに固定された「ガジェット」に点火。そして──約1分にわたって続く静寂のシークエンス。太陽よりも眩しい閃光。ベース基地にまで届く熱。ややあって猛烈な爆風と轟音。このへんも、実験に居合わせた科学者らの証言をうまく映像化していると感じた。

 しかし …… 地球をもふっとばしかねない「プロメテウス的な」強大な破壊力を手に入れたオッピーたち(と旧ソ連、その他の核兵器保有国)をあれだけ克明に描きながら、なぜ被爆直後のスチル写真のカットひとつも入れないのかと、被爆国の人間としては心情的にどうしても感じてしまう。あそこまで真摯に描いておきながら、じつに惜しい気がした。いくら「原爆の父」の視点中心とはいえ、戦後は一貫して、(かつてマンハッタン計画の仲間だった)エドワード・テラーらが推進した水爆開発が米ソの歯止めの効かない核軍拡競争に全世界を巻き込むことになると異を唱え続けた経緯もあるし、それくらいは許容範囲内だったと思う(日本でもかつて邦訳本がベストセラー入りした物理学者R・ファインマンもマンハッタン計画に参加した研究者で、もちろん映画にも登場する)。

 オッピーと決別したテラーの "Nobody knows what you believe. Do you?"(「きみが何を考えているのか誰にもわからない。きみもそうだろ?」)のオッピー評を含む登場人物たちの科白の端々に、オッペンハイマーという不器用な男の内面が、自分自身でもどうすることもできない複雑性をはらんでいた、ということもしっかり伝わるように描かれていた点は好感が持てた。3時間という長大な作品だけれども、それでもなお尺が足りないくらいだったかもしれない。トリニティ実験以後の世界はそれまでの世界から永久に変わった世界(人新世)であり、ティム・オブライエンなど、'60 年代の狂った核軍拡競争時代を描く文学作品やアートが次々と生み出されていくことになるのは周知のとおり。

※ 参考:広島原爆に使用されたウランの供給源となった鉱山労働者の話

評価:るんるんるんるんるんるん
posted by Curragh at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連

2024年04月11日

『シリコンバレー式 よい休息』

 最近、仕事の裏をとるための読書がよくあります。これはこれで「知は楽しみなり」で良しとしても、なかにはなんてヒデぇ本! みたいな噴飯ものもある。本を読みなさい、とは言うものの、明らかに良書どころか悪書のたぐいは昔から引きも切らずでして、「読書案内」的なガイド本より、「☓☓☓という本が本屋に平積みされているが、貴重な人生の時間のムダ遣いだから読まんでいい」的な、反面教師的反骨精神的忖度一切ナッシングの読書案内本もあっていいような …… 気がする今日このごろ。

 今回はラッキーなことに、真に掘り出し物とでも言うべき1冊と巡り会えた。それがお題の本(日本語版は 2017 年 刊行)。原題はあっさり Rest でして、ひと口に言えば、「正しい休息のとり方指南書」といった本。著者は邦題にもあるように、シリコンバレーを拠点に活動してきたコンサルだから、ある意味ハウツー系、自己啓発系のビジネス書と言えるかもしれない(しかし『シリコンバレー式◯◯』という書名の本のなんと多いこと)。

 それでものっけからディケンズ、ポワンカレ、ダーウィンとジョン・ラボック、ベルイマンなど錚々たる面々の休息にまつわる興味深いエピソードが最後の章までてんこ盛りで、読んでいて飽きない。経験上、この手の本はなんとか科学と銘打って、「成功の法則」を伝授します的な胡散臭さが漂うものなんですが、それはこちらの思い過ごしだった(この点で、個人的な基準はパスした本)。物理学者のアルバート・マイケルソンという人の逸話も、映画『リバー・ランズ・スルー・イット』原作本を書いたノーマン・マクリーンの思い出話(!)というかたちで出てきたり、トーマス・マンやアンソニー・トロロープにヘミングウェイ、最近ではスティーヴン・キング、そしてあの村上春樹氏(『走ることについて語るときに僕の語ること』、2007)や、IPS 細胞で一躍時の人になった、山中伸弥氏のエピソードまで出てくる! 

 ただし、休息というのはなにもシエスタをとれとか体を休めろ、と言っているのではない(短い昼寝は創造力を回復させるから有効、とこの本でも推奨されてはいるが)。つまり休息とは必ずしも「物理的に体を休める」ことではない。チャーチルのように風景画を描いたり、名著『夜と霧』で知られる精神科医のヴィクトール・フランクルのように山登りをしたり、クォークに関する先駆的実験で 1990 年のノーベル物理学賞共同受賞したヘンリー・ケンドールのようにフリークライミングに興じたりするのも、りっぱな休息≠スりえるのだということを、最新の脳科学実験の結果も交えて楽しく語り聞かせてくれる(DMN[デフォルトモード・ネットワーク]の働きとか)。

 そうは言っても、たとえば「戦略的休息」といったキーワードを見ると、やはりこの本の想定読者はビジネスパーソンなのだ、ということに気づく。だから広義のビジネス書と言っても間違いではないが、べつに会社で働いてなくてももっと健康的に過ごしたい、と願う一般庶民にとってもいますぐ実行可能なヒントがたくさん詰まっているし、ときには「これってオラも実践しているじゃん」みたいに膝を叩く場面もあった。また、「仕事と休息は対立するものではない」という主張もすばらしい。誰しも経験的に納得しているはずなのに、社会的要請に人間関係のシガラミといった、さまざまなプレッシャーをかけられて、いつの間にか「仕事 vs. 休息」という二項対立のワナにはまりこんで身動きがとれなくなっているのかもしれない。
労働と休息は白と黒、あるいは善と悪のように対立するものではない。むしろ両者は、生活の波の異なるポイントと見なすことができる。谷のない山頂はなく、低地のない高地はない。どちらも、互いがなければ存在し得ないのである。(p.6)

 休息法≠フ具体例としてこの本が提案しているのは……
❶ 仕事や研究に集中的に取り組むのは、4時間が限度。有名な「1万時間の法則」も出てくるが、じつは適切に休息をとることではじめて最高のパフォーマンスを発揮できることが判明している(ラボック、スコット・アダムズ)、トロロープ、ディケンズ、ヘミングウェイ、アリス・マンロー、サマセット・モーム、ノーマン・マクリーン、ソール・ベロー、エドナ・オブライエンガブリエル・ガルシア=マルケスなど)
❷ 歩くこと(キルケゴール、トーマス・ジェファーソン、ベートーヴェン、C・S・ルイス、スティーブ・ジョブズ[ウォーキング会議]、ダニエル・カーネマン、チャイコフスキーなど)
❸ 昼寝をとること(チャーチル、J・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン[あとのふたりはチャーチルの習慣にならって昼寝をとっていた]、レイ・ブラッドベリ、J・R・R・トールキン、村上春樹、ウィリアム・ギブスン、トーマス・マン、S・キング、サルバドール・ダリなど)
❹ 中断すること(ヘミングウェイ「次にどうなるかがわかっている時に、その日の仕事を終える」、サルマン・ラシュディ、ロアルド・ダール、マリオ・バルガス・リョサなど)
❺ 息抜きと回復(アイゼンハワー、ライマン・スピッツァー、ケビン・シストロム[Instagram 創業者。2010 年にメキシコにて休暇中に写真共有型 SNS を着想した]、ブライアン・メイ、ベン・カゼズ[コンピューター科学者でバリトン歌手]など)
❻ 遊ぶこと(この本で「ディープ・プレイ」と呼ばれる活動的休息のことだが、ようするに仕事以外に何かライフワークを持て、ということ。そういえば昔、翻訳教室の先輩生徒だった方が「SE はライスワーク、翻訳はライフワーク」とすばらしいことをおっしゃっていたのを思い出す。出てくる人はマクリーンのシカゴ大学時代の先輩マイケルソン、トールキン、ブラム・ストーカー、フランクル、ヘンリー・ケンドール[ハーケンの発明者でもある])

あと、「長期休暇」に関して述べた章もあるけれども、これはいわゆる「研究休暇(サバティカル休暇)のことで、バカンスではない。でもこの本が引用した実験結果によれば、バカンスがもたらす幸福感って、せいぜい1週間が限界らしいですよ。休暇は長ければ長いほどよいわけじゃないってことです。言われればたしかにそうだろうとは思いますが(もうすぐ皆さんの大好きな GW が巡ってくるけれども、連休明けのあのグッタリ感を思い出せば納得されるでしょう)。

 そして最終章の「現在、わたしたちは、ストレスと過剰労働を名誉なこと、真面目さと献身の証しと見なしているが、それは近年の傾向にすぎない」「疲れ果ててパニックになっている人を、最も真剣に働いていると見なすのは、間違いだ」(p.283)という指摘と警告はまったくそのとおりで、とくに日本企業に言えるのではないかと強く感じたしだい。最後の「遊び」については、1970 年代に書かれた古い本ながら、日本人の「間違った遊び方」に警鐘を鳴らしているという点でいまも読む価値があると思っている、こちらの文庫本も併読されることをお勧めしたい(「日本の古本屋」サイトで探せばあるかも。かく言うワタシも何度かお世話になっている)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん
posted by Curragh at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2024年03月28日

劇場版『ラブライブ! The School Idol Movie』

 劇場版『ラブライブ! The School Idol Movie』(2015)が、このたび 4DX 版(!)となって劇場に帰ってくる、と聞いては行かない手はない。というわけで鑑賞してきました。なんと言ってもこのシリーズの元祖にしてファンのあいだでは伝説化している、国立音ノ木坂学院のスクールアイドル、μ's(ミューズ。石鹸じゃないよ。もちろんギリシャ神話に出てくる美をつかさどる9女神[ムーサイ]が下敷きになっている)の物語ですからね……。

 何度か言及しているように、ワタシがこのシリーズとはじめて邂逅したのは 2017 年の夏で、たまたま深夜のEテレで『ラブライブ! サンシャイン!!』1期 13 話の一挙放送があり、自分の住む街が舞台のアニメっていったいどんなのずら、とほとんどなにも考えずに観たのがきっかけ。それから幾星霜 …… は大袈裟ながら、この『ラブライブ!』シリーズを知ってしばらくしてから、不肖ワタシも劇場版『ラブライブ!』で主人公の高坂穂乃果(こうさか ほのか)に「飛べるよ!」と背中を押した謎の「女性シンガー」のことばどおり、思い切って飛んで=Aいまの自分がいるみたいな経験もしているので、よりいっそう思い入れが深い。2015 年と言えば、じつは大晦日の「紅白」で、それとは知らずに μ's の「中の人」たちによるパフォーマンスを観ていた。…… よもや数年後、こんな展開になろうとは当の本人がいちばんオドロいている。

 4DX 版ということで、われわれ観客もじっと静かに鑑賞させてはもらえない。穂乃果が走っている場面でさえ座席がゆさゆさ揺れ、NYC の摩天楼の展望ポイントで東條希や絢瀬絵里が風に吹かれれば肘掛けあたりから風が吹き付け、ハイウェイで μ's メンバーを乗せたタクシーと並走するコンボイトレーラーがホーンを鳴らせばその振動が伝わり、「Angelic Angel」、「SUNNY DAY SONG」、そしてバッハが音名 B-A-C-H でやったように、歌詞に μ's メンバーの名前を織り交ぜた感動的なエンディング曲「僕たちはひとつの光」といったライヴシーンでは座席が動くだけでは飽き足らず、スクリーンに映し出されている世界と同じく紙吹雪まで降ってくる。こちとら 4DX なんて経験したことないから、初回を観に行ったときは正直、面食らった。Don't disturb me! ってな感じで。2回目はもちろん織り込み済みだから、鑑賞に集中することはできましたが。

 たとえばこちらのブログ記事のように、鑑賞がもっと楽しくなること請け合いの小ネタやトリヴィアのたぐいは μ's の物語ゆえ、すでに語り尽くされた感ありなので、ストーリーの感想とかは不要でしょう(cf. 星空凛が、「わかったよ! この街にすごくワクワクする理由が! この街ってね、すこしアキバ[秋葉原]に似てるんだよ!」という科白がある。劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』では、浦の星女学院スクールアイドルの Aqours のめんめんがローマのスペイン広場でライヴを披露したあと、メンバーの国木田花丸が「なんとなく、沼津の海岸にある石階段に似てたからずら」とそこを選んだ理由を答える科白があるが、個人的に花丸の回答は凛の科白とのアナロジーを感じる。花丸が学校の図書室で隠れて読んでいたスクールアイドル雑誌の表紙に登場していたのは、その星空凛で、花丸は彼女に憧れていた)。4DX 版は残念ながら本日で終了するけれども、ダマされたと思ってまずは虚心坦懐に作品をご覧になることをおススメします。何度も言うけれども、ワタシは決して「自分が呑んだことのないワイン」をうまいだのマズイだのと言わない人なので。ただ、エンディングの μ's のラストステージで歌われた「僕たちはひとつの光」に出てくる「いまが最高」という歌詞こそ、この作品がいちばん訴えたかったメッセージが集約されているように感じる。過去でも未来でもなく、「いまここ」で永遠性を経験しなければそれは決して経験することはできないという、比較神話学者キャンベルのことばがどうしてもオーバーラップしてきますね。

 最後に、謎の女性シンガーが歌っていたあの楽曲について。「500 曲(!)にものぼる『ラブライブ!』シリーズ全楽曲がプレイできる」が売りのリズムゲームアプリ「スクフェス2」にも収録されてないから? と思っていたところ、なんとこれ、1930 年代のミュージカルナンバーのカバーだったことが判明した(1942 年の映画『カサブランカ』にも使われている)。どうりでないわけか(ちなみに「中の人」は、あの『名探偵コナン』主人公の中の人)。ブロードウェイの街ということでこの往年の名曲が採用されたのかどうかは不明ながら、『ラブライブ!』オリジナル曲と言われてもわからないほどこの作品にぴたりハマっていて、この楽曲を選んだセンスにも脱帽するほかない。

 観に来ていたお客さんも若い女性が多くて、さすがは名曲と言われる「スノハレ(Snow halation)」の μ's だなァ、と感じたしだい。
…♪切なくて 時を巻き戻してみるかい? 
No no no いまが最高! 
だって だって いまが最高! 

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

2024年03月15日

カザルス弦楽四重奏団によるバッハ「フーガの技法」

 先週の「ベスト・オヴ・クラシック」最後の放送回は、個人的には待ってましたな感ありのバッハ最晩年の大作「フーガの技法」BWV.1080 を取り上げたスペインを代表する弦楽四重奏団のひとつ、カザルス弦楽四重奏団(Cuarteto Casals)の来日公演(2023年 11月2日、浜離宮朝日ホール)でした。カザルス弦楽四重奏団のレパートリーは、ワタシも寡聞にして耳にしたことのないスペインのモーツァルトと称される夭逝の作曲家ホアン・クリソストモ・アリアーガとかエドゥアルド・トルドラといった珍しい作品から、ラベル、ドビュッシー、バルトークなど近現代も手がけるほど守備範囲が広い。

 いまは「らじるらじる」の聴き逃し配信で放送後1週間はぞんぶんに楽しめるので、以前の NHK-FM を知っている人間としてはありがたいかぎり。で、公演とは直接、カンケイないけれどもこの作品の説明で、「……その死をもって未完のまま出版された」作品、と紹介してましたが、たしかにバッハは出版するつもり(おそらく「クラヴィーア練習曲集」の続編のようなかたちで)だったけれども、作品後半の各楽曲の配列にはもはやバッハの意図は反映されていない。はっきり言えば、「このフーガで、対位主題に BACH の名が持ち込まれたところで、作曲者は死去した」なんて息子カール・フィリップ・エマニュエル・バッハが書き込んでいるのも、「せっかく高額な銅板まで彫ったんだからモトはとらないと」という切実な(?)事情のもとにあえて未完のままエエイママヨ的に刊行された、というのがほんとうのところのようです。

 演奏の感想に入る前に、まずこの作品で最大の問題が楽曲配列なのでそのへんを少しだけ。上記のような出版に至る経緯に加え、バッハの死後に出版を急いだ息子たちの手になる「初版」譜と、いわゆる「ベルリン自筆譜」(SBB-PK P200)とで曲の書法そのものが一部違っていること、楽曲の構成がバッハの息のかかっていない後半部に大きく食い違っていること(詳細は拙過去記事。バッハは「コントラプンクトゥス11」までは確実に彫版を監督していたと考えられている)があって、事態をさらにややこしくしている。

 先週の放送でかかった浜離宮朝日ホールでの公演で演奏された楽曲の順番は以下のとおり。演奏者は4声曲では全員参加、3/2声曲では手すきのメンバーは舞台後方の椅子に控える、というちょっとおもしろい趣向も盛り込まれていたみたい。そのためなのか、8 ⇒ 13a という変則的な順番になっているのも、「3人で3声を演奏する」ということで3声部曲でまとめたのかな、と。

プログラム前半:コントラプンクトゥス1, 2, 3, 4[4声], カノン 14, 15[2声], コントラプンクトゥス5, 6, 7, 9[4声]
プログラム後半:コントラプンクトゥス10, 11[4声], 同 8, 13a[3声], カノン16, 17[2声], コントラプンクトゥス12a、3つの主題による3重フーガ[4声], コラール「汝の御座の前にわれはいま進み出で(われら苦しみの極みにあるとき)」BWV.668a


 で、聴いた感想ですが、手許にあるケラー弦楽四重奏団のアルバムのように、弦楽四重奏ならではの弾むような、丁々発止とした各パートのやりとりがまるで生き物のように躍動して、それがこちらにビンビン伝わってくるかのような演奏ですばらしい。音友社のポケットスコア繰りながら神経を集中して聴くと、たとえば初版譜にあるスラーなどの指示書きに忠実だったり、さりげなく装飾音を入れたりフレーズの切り方を変えたりしているので、あまりこの特殊作品≠聴く機会のない聴き手でもわりと容易に主題−応答の入り/原形主題−変形主題(の反行形など)がくっきり立ち上って聴こえてきたんじゃないでしょうか。

 なんでもカザルス弦楽四重奏団がこのバッハ畢生の大作を取り上げる気になったのは、結成 25 周年を迎えるに当たり、さてどんな作品がふさわしいか、と考えたとき、「どんな楽器編成でも演奏可能な作品だったから」(アベル・トーマス氏、Vn.)、「フーガの技法」を選曲したんだそうですよ。

 ただ、全曲演奏とはいえ、「鏡像フーガ」の2曲は基本形 a のみの演奏で、「鏡写しにした」ほうのヴァージョン b は省略してます。ま、基本形のあとにまた最初に戻って「鏡像」形を演奏してもいいんでしょうけれども、ライヴ公演的にはあまり意味のないことかもしれない。「ゴルトベルク」BWV.988 の「繰り返し箇所」を演奏するか/しないか問題のようなもの。

 最後の未完の3重フーガですけれども、「すべてニ長調の和音で終結させているので、それに合わせた」ということで、最後のワンフレーズでふにゃふにゃっと尻すぼみで終わるよくあるパターンではなくて、その少し前、ニ長調の和音になるところでキレイに終わらせています。なので、出だしの4声単純フーガの終結部の食い違いと同様、カザルス弦楽四重奏団が演奏で使用しているのは初版譜にもとづく校訂版かと思われます。

 テンポもやたら感傷的に遅くなったりせず、終始一貫安定しています。そして彼らが演奏で使用しているのはバロック・ボウ。「細かい表情や響きが加わり、モダンの弓とは違った音のつながりを感じることができ、音の息遣いが変わる」(ヴェラ・マルティネス・メーナー氏、Vn.)からというのが理由のようです。

 初版譜つながりで言えば、この未完フーガのすぐあとにオルガンコラール BWV.668a で〆ているのもその証拠と言えそう。メンバーによれば、「この作品には、感謝の祈りのような、解放的な結末が必要だと感じる」(ジョナサン・ブラウン氏、Va.)という理由のようですが。公演のアンコールにはスペインらしく、そして、いまだに各地で戦争が続く現代世界を思ってか、カタルーニャ民謡の「鳥の歌」でした。

posted by Curragh at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2024年02月22日

『監視資本主義』

 2007 年初頭に放映されたこちらの番組の記憶はいまも生々しい。とくに印象的だったのが、「すべてを Google に依存している」と言い放った青年。最近の買い物でさえ、Google の履歴に頼ると言うほどのヘビーユーザーで、しかも Google の広告アフィリエイト収入だけで食べていたのだから当時としてはかなりの衝撃度だった。もうひとつ、やはり澱のごとくアタマの隅にこびりついて離れないのが、Googleplex と呼ばれる Google 本社の壁面のとある落書き(?、抱負だったのかも)だった──「Google 帝国を作る」(!)

 実際、Google って何をしている会社なの? と問われて即答できる人っているんだろうか。新聞を見ても「ネット検索最大手」くらいのものだろうし、IT 専門家にしてもそれこそ十人十色で答えはバラバラになるんじゃないかと。以前、Google 幹部に取材したという内幕本も買って読んだことがあるが、イマイチ腑に落ちなかった。そして最近、その Google 傘下の YouTube で、オルガン演奏を収めた動画クリップを大きな液晶画面の TV で見ようかなと思って再生すると、フーガの演奏がいきなり途切れ、代わりにうっとうしい広告が何本も落下傘部隊のごとく出現して画面いっぱいに映し出される。

 いまやこうした IT の巨大企業は Google だけじゃありません。Facebook 改めメタ、往年の Microsoft に Apple、そして洋書屋にすぎなかったのがいまや地球最大級の通販サイトに急成長した Amazon。これらと数社を加えた大型ハイテク企業7社を総称して「マグニフィセント・セブン」と呼ぶらしい。

 MS と Apple はともかくとして、では最初の Google と後発のメタはいったい何をして利益を出しているのだろう、とギモンに思う人はいまだに多いだろうし、利益のすべてが広告料収入なはずない、といぶかる向きも少なくないと思う。

 そこでとうとう、と言うか、その長年のモヤモヤにひとつの解答だけでなく、こうした「征服者」たちへの抵抗を訴える警世の書の邦訳が 2021 年に出た。著者は米名門大学の名誉教授という肩書きで、社会心理学者。2009 年に落雷による火災で自宅が全焼し、そのとき著者を励ましてくれた最愛の夫にも先立たれるという不幸に見舞われた。30 年ほど前、台頭しつつあった情報通信デジタル技術とどう向き合えばよいかについて、地方の製紙会社の若い幹部社員に疑問を投げかけられた著者はそれ以降、一貫してこの「スマートマシン」問題の本を発表しつづけてきた。この本は、いわば集大成的なところがある。

 本文だけで 601 ページもあるたいへんな労作で、「52 人のデータ科学者」への取材も含む膨大な調査結果をもとに書き下ろされ、Google をはじめとする IT ユニコーンたちが今後どのような社会を築こうとしているのかについて精緻な考察を展開しています …… で、読後感なんですけれども、Google やメタをとくに俎上に載せて、彼らの所業を 16 世紀のスペイン人征服者の「征服の宣言」になぞらえたり、全体主義との結びつきの論考など違和感もないわけではないが、まずもって a must read な1冊である点は異論なし。ヘンリー・フォードらに代表される 20世紀の管理資本主義とはまったく別物の、最終消費者という顧客に対するサービスではなく、ほんとうの顧客(この場合は広告スポンサー企業)に対し、われわれユーザーの「行動余剰」という名の原材料を「抽出」して、それをサービスとして提供することで利益を得るという、かつて経験したことのない種類の資本主義が全世界を席巻しつつある、との主張はなるほど頷けるお話ずら、と感じたしだい(そういえばつい先日、NYC 当局が TikTok など複数の SNS 運営会社を相手取ってカリフォルニア州地裁に提訴した、との報道も見かけた。「インターネットの世界で大量の有害な情報にさらされ、若者たちの精神衛生上の危機が深まっている」と NYC 市長は訴えているが、もっともな話)。

 旧 Facebook 時代のメタがやらかした例の世界最悪と言われた個人情報漏洩事件(ケンブリッジ・アナリティカ事件)も、もちろん出てきます。もっともはじめの章で、「(本書の)目的は、この3社を批判することではない。むしろそれらは、監視資本主義の DNA を精査するためのペトリ皿なのだ」(p. 25)と断ってはいるものの、結論を述べた最終章(p.598)では政治学者のハンナ・アーレントを引用して、「監視資本主義の実態を語ろうとすると、わたしは必ず憤りを覚える。なぜなら、それらは人間の尊厳を貶めているからだ」と告白しているところからして、この本が書かれたのは監視資本主義とその親玉たちに対する激しい怒りにあるのは間違いない。どうりで最近、やたらと広告攻撃をけしかけてくるのだナ(そしてこれまた付き物の、ユーザーに不利な「使用許諾書」を一方的に押し付けてくる商法にも言及している)。

 アーレントは全体主義を論じた著作で知られているけれども、ある意味、監視資本主義(とその企業体)はそれ以上にタチが悪い。こちらが知らぬ間にそんな手合が放った刺客ならぬ常時監視(と、行動余剰の抽出とそれの無断提供)デバイスがあふれるようになり(いわゆる「モノのインターネット/IoT」製品群で、大人気のルンバも例外にあらず)、FB「ユーザーはもはやプライバシー保護を期待できない、と言い切った」メタ創業者のような監視資本家たちが提供する巣≠ノ囲い込まれた。究極的には、われわれ個人に最後に残された聖域まで強奪しようとする、と著者ズボフ女史は警告する。コレはひじょうに正鵠を射た指摘かと思う。不肖ワタシも、ポケGO に夢中の女子高生に道路に突き出されてあやうく車にはねられそうになった経験がありますし。こちとらにはさっぱり理解不能な世界ながら、ああいう顧客層って、この本で言うところの「行動修正」されちゃった人たちなんでしょうね、きっと。自戒の意味もこめて、自分までこの身を監視資本家連合に差し出さないよう、おおいに気を引き締めなくては、と決意をあらたにしたしだい。

 行動経済学だかナッジ理論( C・サンスティーンの『実践 行動経済学』の言及もあり)だかなんだか知りませんが、世の中そんなことばかりがもてはやされ、さも良いことのように喧伝されているフシがあるなか、古代ギリシャの秘儀(ミステリー)集団も顔負けの秘密主義のヴェールで事業の真の目的を覆い隠し、詭弁を弄してこちらをケムに巻いている Google やメタなどの巨大 IT 企業の実態を豊富な実例とともに暴露するこの本は、真の意味でまっすぐスジの通った良書と言ってよいでしょう。ピケティへの言及もいくつかあるけれども、この本もまた、監視資本家とその取り巻きが決まり文句のように繰り出す「不可避性」についてもしっかり批判している(cf., pp. 252−3、またはピケティ『資本とイデオロギー』のpp. 871−2)。
…… この新たな仕事の多くは、「個人化」(パーソナライゼーション)の旗の下で行われているが、それはカモフラージュであって、陰では日常生活のプライバシーに切り込む侵略的な抽出操作が進められている。(p. 20、丸括弧はルビ表記)
 ズボフ女史も繰り返し言及しているけれども、ワタシも(ほかのみなさんもそう感じていると思うが)ずっと前から、「便利なサービスをほぼロハで利用できているわれわれユーザーは、けっきょく Google という巨人の手の上でホイホイと踊らされているにすぎないのではないか」という漠然とした疑念(と不安)を抱いていたほう。なのでそのものずばり人形遣い彼らを踊らせろといった用語や見出しを見ますと、ああ、やっぱりそうなんだってストンと腑に落ちる。
3世紀以上にわたって、産業文明は人間にとって都合のいいように、自然をコントロールしてきた。その目的のために、機械によって身体の限界を超越し、克服してきた。その結果を、わたしたちはようやく理解し始めたところだ。海と空の繊細なシステムはコントロールを失い、地球は危機に瀕している。
 今、わたしたちは、わたしが情報文明と呼ぶ新しい時代の始まりにいて、それは同じ危険な傲慢さを繰り返そうとしている。…… 今回の目的は、自然(ネイチャー)を支配することではなく、人間の本質(ネイチャー)を支配することだ。(p. 590、丸括弧はルビ表記)
 また、こうした論考と主張の裏付けを、もっと巨視的な歴史から問い直しているのもこの本の書き方の特徴と言えます。とくに行動主義心理学の提唱者バラス・F・スキナーとからめて論じているのは個人的には新鮮な観点だった(スキナーは人間の自由意志を否定し、ある人がどのような行動をとりうるかについては「個人の外にある変数によって説明できる」、つまり適切な環境を与えれば適切な方向へ導くことができると主張した。彼の『自由と尊厳を超えて』という著作(1971)は当時、チョムスキーをはじめ、多方面で論争を引き起こしたことでも知られる)。

 この本では Google と同じく、行動余剰という資源を最初に発見した Apple についてはわりと好意的(?)な記述にとどめているけれども、人類の未来までもが圧倒的な知の蓄積を頼みとする監視資本主義家たちの手に握られているわれわれに残されている道は、「抵抗せよ」、そして「もうたくさんだ!」と表明することだと著者は結んでます。もうたくさんだ、just ENOUGH! …… これってずいぶん懐かしい響きがする。そう、ビル・マッキベンのこの本でした。けっきょく東洋の人間にはおなじみの「足るを知る」という中庸の道がもっとも妥当な道かと。もっともそれは監視資本主義にかぎったことじゃないですが。個人的にいちばんハラが立つのは、ふつうに辞書サイトとか表示しても、明らかなデマ・虚言広告がしれっと表示されること。PC 版なら広告ブロッカーで非表示にすることはできるが、スマホのブラウザだとうっとうしいことはなはだしい。広告を表示させる企業のアルゴリズムには、当該のバナー広告の表示基準がハナからないという、なによりの証拠です。著者ズボフ女史はこれについて、「極度の無関心の観点からは、良い目的と悪い目的は等価と見なされる」(p. 580)と書いている。シッチャカメッチャカ支離滅裂の混沌状態になろうが、利益になればそれでよし、というわけです。

追記:巻末の分厚い原注まとめページもていねいに追いながら読み進めたんですけれども、一点、第 10 章の原注(p. 112の 42)を見て FT の元記事を確認したら、どうも日本語版(p. 362)の記事公開日付が誤記のようです。ちなみにその FT 引用部分は、「今後そのゲームは小売業者やその他の者に現金を運んでくる、という見方が急速に高まっている」。あと細かいことながら、p. 598 の「同情してほしい」は、感覚的には「哀れんでほしい」の pity ではないかと愚考するものですが、どうなんでしょうか。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2024年01月31日

インプレゾンビ≠ノご用心

 新年早々、日本列島を大きく揺さぶった能登半島の大地震。輪島市側の日本海沿岸の海岸がいっきに4mも隆起するという、専門家でさえも目撃したことがないとんでもない地殻変動まで伴っていた(それで相対的に津波被害は低かったらしい。それでも甚大な被害を出していることに変わりないですが。風景写真好きにはつとに有名な「見附島」も変わり果てた姿になってしまった)。

 著名な You Tuber が被災地支援のための募金をみずから行い、世の人に協力を呼びかけるいっぽう、東日本大震災のときもあったと聞いてはいるが、今回もまた火事場泥棒が被災地をうろつき、「こわいから家に品物を取りに戻れない」との悲痛な声も聞かれた。

 しかし個人的には、2011年3月の震災と今回の震災の大きな違いは、SNS の機能にあったように思われた。2011 年のときは、「正確さよりも即時性」が比較的良い方向に発揮された印象がある。しかし今回は、発災直後、倒壊家屋から必死に SOS を発信する被災者の声をかき消すかのようにえんえんと連なった、インプレゾンビ≠ニ呼ばれる連中が忽然と出現した。ここが 2011 年のときと大きく違う。

 インプレゾンビ連中がなぜ急に現れだしたのかについては昨年、奇人で知られるこの人が、収益化と称して仕様を変更したことが大きいと言われている。仕様変更後、こうしたコピペ投稿がそれこそゾンビよろしくわらわらと湧き出した事実から見ても、この「投稿の収益化」と関連があるのは間違いない。

 と、嘆いてばかりいてもしようがないので、こうした連中(なぜかアラビア語圏が多いのは気のせい?)の見分け方を。彼らはたいてい、ユーザーネーム末尾に「青バッジ」がある。これは引用元記事にもあるように、月額有料制サブスクリプションサービスの X Premium に加入したことを示す青マーク。そしてよほど自意識過剰か、ご自身のご尊顔によほど自信がおありなのかは定かではないが、明らかに非日本人系のアイコンを麗々しく掲げているケースがほとんど。もっともワタシはここで xenophobia を喧伝しているわけじゃありませんぞ。彼らがこういう性根の腐ったやり口で火事場泥棒的荒稼ぎしているのが許せないだけ。だから自衛策、と言うにははなはだ心もとないけれども、しないよりはマシというわけで、とにかくこういう輩がいますよ、ということをこの場を借りて言いたかったわけです。

 具体的には、上記のようなリプライないしコメントを見かけたらクリックせず(クリックすると連中の懐が潤う)、ブロックするかミュートするか、またはめんどくさいけれども運営側に通報するとよいでしょう。そのうちボットじゃないけれども、半自動的に振り分けて排除するツールとかも配布されるのかもしれませんが。

 「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」なんて言わるように、テクノユートピアンたちの思い描いたようにことは運ばないのが人の世の中の常。1987 年というから消費税さえなかった昭和末期に出たこちらの本をせんだってネット古書店で買って読んでいたのですが(書名は知っていたけれども、未読だったので)、いやもう驚くほかなし。Windows もブロードバンド回線もなにもない、電話回線のモデムと、いまとは比べ物にならないほど非力で低容量なブラウン管タイプのデスクトップ PC しかなかったころ、「家にいながらにして銀行の端末に侵入し、ひとさまの預金を手を汚さずに強奪した」学生だの会社員だの米政府機関職員だの(そして経済マフィア)の武勇伝(?)がこれでもかッてくらいに書かれてありましたので。もっとも巻末に原注などのたぐいはなくて、「話、盛ってない?」と感じる箇所もなくなくはないですが、当時、米司法省や米議会で「コンピュータ犯罪」と呼ばれていた新手の犯罪の第一人者として助言していた人が書いた本なので、そうそうエエカゲンなことは書いてないことだけは保証できる(当時、高校生だった者からすれば、いまや懐かしの感ありの「東芝機械ココム違反事件」まで書かれてある)。

 …… インプレソンビたちも、こうした流れの延長線上にある。

posted by Curragh at 23:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 最近のニュースから