2018年05月20日

オルランディ版「専門家向け」の『航海』新校訂本について

1). 昨年のいまごろ、というかわれらが「聖ブレンダンの祝日 Lá Fhéile Bhreanainn 」に、イタリア人学者ジョヴァンニ・オルランディ教授による新校訂版『聖ブレンダンの航海』のことを書いた。…… そんなこんなではや一年。いまや地元が舞台のスクールアイドルを描いたアニメ作品にハマり、自宅から3時間(!)かけて歩いて現地に向かって発端丈山から昇る朝陽を撮りに行ったりとほとんど酔狂なことをしていた折も折、セルマー版の邦訳者の太古先生より「いつまでも遊んでるんじゃない、朝が来た!」とばかりにふたたびのメールを頂戴しまして、昨年、ついにオルランディ本の editio maior、つまり専門家を対象とした「大きな版」が上梓されたことをはじめて知った(ついでに「朝が来た!」のくだりは中世南仏のトルバドゥールたちが好んで歌った「アルバ[暁]」の転用。「アルバ」は、夜の逢瀬を楽しむ恋人たちに朝が来たことを警告する歌の形式のことで、やがてこれが北に伝わりシャンソンの原型となる)。

 太古先生によるとこちらの原著刊行は予定より遅れ、図らずもオルランディの没後 10 周年の節目の昨年になったのだとか。で、とりあえず目次だけでもというわけで先生みずから邦訳されたものをそのまま転記しますと、
前書き[pp. IX-X]

序文[pp. 3-429]
I. 写本[pp. 3-140]
II. エディションおよびテクスト伝承研究[pp. 141-157]
III. 祖型と「修正」[pp. 158-179]
IV. ファミリーα[pp. 180-235]
V. ファミリーβ[pp. 236-244]
VI. ファミリーγ[pp. 245-299]
VII. ファミリーδ[pp. 300-304]
VIII. ファミリーε[pp. 305-373]
IV. ファミリー間の不確かな関係[pp. 374-378]
X. 作品伝承の概要[pp. 379-390]
XI. 「選択」および他のテクスト選択[pp. 391-415]
XII. テクストへの注記[pp. 416-429]

参考文献[pp. 431-453]

『聖ブレンダンの航海』(ラテン語テクストとヴァリアント)[pp. 454-695]

補遺[pp. 697-714]

索引[pp. 715-745]
 「一般読者向け」とされる前著でさえ 515 ページ(!!)もある大著なのに、こちら editio maior は文字どおりの greater edition、さらにスケールアップしてまして、なんとなんと 745 ページ !!! 『ハリー・ポッター』シリーズかい、ってついツッコミたくなるとんでもない超絶労作でございます。個人的には拙サイト英語版にまるまる収録した「アランソン写本」や、セルマー校訂本の底本だった「ヘント写本」が、オルランディ−グリエルメッティ校訂による「写本系統」のどのグループに属するのか、というのが最大の関心事ではある。

 興味ある方は拙サイトの「参考文献ページ」から、となるとめんどうなので、版元 SISMEL 社のページに飛ばれて検討するとよいでしょう。

2). そんな折も折、って毎度こればっかで申し訳ないですけど、英国王室のハリー王子とメガン・マークルさんの結婚式、すばらしかったですね !! ってウチは BS 持ってないから、地上波のダイジェスト版みたいな映像しか見てないんですけど。それにしても型破りというか、よい意味でコチコチの「〜すべし」を徹底的に排除した式典だったように思う。ロイヤルウェディングにはちがいないが、こちらは王位継承権が低いというわりと身軽な(?)立場だったからなのかは知りませんけど、「ナイト[勲爵士]」の叙任式典が挙行されるウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で行われたんですね。ゴスペルで Stand By Me が歌われたり、慣習を破って王子が結婚指輪をはめたり、一般の招待客がいたりとどこをとっても unprecedented。もっとも印象的だったのは聖ジョージ礼拝堂の門前が純白のバラのアーチで飾られていたこと。あれはみごとでした。それで思い出すのがミンネゼンガー騎士、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの書いた聖杯物語群のひとつ『パルツィヴァール[当時の古い独語読みでは「パルチヴァール」]』。大団円近くで、パルツィヴァールの腹違いの兄フェイレフィースが受洗する場面があるんですけれども、この兄貴の名前は文字どおりに訳すと「まだらの息子」。肌が黒と白のいわば混血児でして、不遜かもしれないが今回の花嫁嬢と二重写しになってしまった。そしてインタヴューでだれかさんが答えていたけれども、「今回の結婚式のすばらしいことはなんといっても diversity だ!」みたいに快哉を叫んでいた。これですよ、これ !! いまの時代にもっとも足りないものにして、プチ独裁者だかなんだか知りませんけどやれ fake news だのなんだのとそれこそ鳥じゃないけどウソ八百をつぶやいて瞬時に世界中に拡散させている指導者なんかもげんに出現しているご時世であるからして、ハリー王子ならびにサセックス公爵夫人となられたメガン・マークル妃の結婚式は、見ている者をひさしぶりに晴れ晴れとした気分にさせてくれたのであった。

 ところでメガン・マークル妃ですけれども、綴りは Meghan Markle で、とくにファーストネーム(ほんとうは Rachel Meghan Markle なのでちがうが)がちょっと珍しい。手許の『固有名詞発音辞典』にも載ってなくて、手っ取り早く Wikipedia のぞいたら「父親はオランダ・アイルランド系」とあり、どうもこれゲール語圏の人名らしい。で、これの日本語表記がこれまた「メーガン」派と「メガン」派に分かれてまして、どっちじゃね、と思っていたら、



どうやら音引きしない「メガン」が、「原音主義」の日本ではよろしいようで(でもべつのクリップで発音聞いたら「メイガン」のごとく発音していたが …)。そういえば昔、「ロナルド・リーガン」なんて表記していたのにいつのまにか「レーガン」になったり、「シュレジンガー」なのか「シュレシンジャー」なのかモメたりと、ほんとこの「原音主義」は翻訳者のみならず頭痛のタネ。もう原語そのまんまでいいじゃない、ってつい乱暴なこと考えてしまうんですけれども、やっぱりダメですかね? 

追記:いまさっき太古先生よりご返信がありまして、「アランソン写本」も「ヘント写本」もともに「ファミリーε」の同グループに分類される「祖型」にはない「帰還と聖ブレンダンの死[ch. 29]」付きで流布した写本で、ブレンダン院長一行の乗った革舟カラハの材料が「イチイ ivus 」という特定の木から包括的な「木、木材 silva 」に変更されている点が特徴だ、とのことです。

2018年04月15日

大学入学共通テスト「英語」に民間試験導入

 お題にもあるとおり、「大学入学共通テスト英語試験に民間試験導入」というニュースがありました。もうだいぶ前になりますけど( もっと早く書こうかと思っていたけど、書くヒマがなかった )。で、地元紙にもその試行問題というのが掲載されてたんで、どんなものかとちょっとやってみました。センター試験の英語も掲載されたときに解いていたから、個人的感想ながら感じたこととか相違点なんかをすこしだけ。

 今年のセンター試験「英語」は、まず発音記号のちがいとアクセントの位置のちがいとかをみる問題から始まって動詞フレーズなどの穴埋めに適語選択、長文読解と毎度おなじみな感ありのパターン。とエラソーなこと言っておきながら当方予備校の先生でもなんでもないので満点なんてありえず、とくに発音問題でポカが多かった。それはそれで反省するとしまして、では「試行試験」のほうの英語の筆記問題をやってみたら、なるほどこれはまるで別物。はっきり言ってこれ TOEIC とかの民間試験業者の出すタイプの問題にそっくり入れ替わってました。

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 ネイティヴスピーカーにいまのセンター試験の英語の問題を解かせたら果たして満点とれるんだろうか … かつてそんなことを実験した民放の TV 番組とか見たことがあったけれども、結果はこちらの想像以上(?)に悲惨な結果だったのをいまでも憶えてます(「ナニコレ、百年前の英語?」みたいな失望とも嘆息ともつかないボヤきが英米人の回答者先生たちから漏れていた)。

 内容は現行センター試験「英語」よりはたしかに実用的で、長文を読ませて理解度を図る、という趣旨の問題は基本的に賛成ながら、はっきり言って似たような趣旨の問題ばっかで少々退屈だったのも事実。列挙される選択肢も本文をしっかり読んでいればありえないものとか相変わらず出てくるし、こんな似たかよったかの長文読解問題をえんえん6つも( !! )用意する必要性はないんじゃないかと思いますね。これなら時事ニュース記事の手ごろな長さのものまるまる一本転載して、それに関していろいろな角度から質問する、そして終わりにあなたはどう考えるか、を英語で書かせる、みたいなほうがいいように感じます。紙上に掲載された試行問題は冗長にすぎると思う。

 英語の試験問題ついでに静大と県立大の「英語」もいちおうやってみたけれども、静大って児童文学から出題するのが好きなのかしら? 今年はなんとあの『くまのパディントン』!!! でした。前にも書いたことだが英国の児童文学の原文ってけっこうむつかしかったりする。パディントンに関しては、たとえばイディオムの多用とか、hands を paws と言い換えたりする書き方が頻出するので、あるていどの慣れが必要かも。でも逆に考えるとパディントンシリーズを原文で曲がりなりにも読んで親しんでいるような生徒さんたちの場合、あるいは松岡享子訳でもいい、とにかく話を読んで知っていればかなり有利な問題だったかもしれないな、というふうにも感じた。

 TOEFL は国内では有名どころですが、IELTS のほうはそれほど知名度は高くない印象がある。いずれにせよ検定料がネックになるから、そのへんの配慮は必要だと思う( するとは思いますけど )。2021 年度はまだマークシート方式と民間試験の併用みたいですが、受験生の負担がむやみに増えなければよいがとも思う。

 ちなみに米国ではセンター試験のような共通試験の SAT は存在するが、各大学ごとに行う筆記試験はなし。もっとスリム化したほうがいいと思う。そうすればそのぶん浮いたお金が出るはずだから、公立大学はすべて無料というアイルランド並みにとは言わないまでも、それに近づけることはできるはず。

 全世界に大学は約2万校あるんだそうな。全講義をインターネット上で完結させる大学もあるし、名門大学でも一部の講義をオンラインで全世界に公開していたりする。日本の現行の大学入試制度はもはや時代遅れもいいところで、その最たるものが英語かもしれない(「世界史B」とかの設問のしかたもなんとかならんか、とも思うが。たとえば「ルーヴル美術館の地下には中世の城塞遺構がある」という話について、「ピサ大聖堂の斜塔で、パスカルによる物体落下の実験[ 重力実験 ]が行われた」なんてなんで訊くかなあ。いくら「歴史的建造物について述べた文として正しいものを選べ」って言ったって、こんな前後の脈略おかまいなしの問題を解かされる身にもなってくれよ、と気の毒になってしまう。こんな訊き方するんなら最初から時系列か地理順に選択肢をずらっと並べてマークシート記入したほうがよほどいい )。海外ではいちど社会に出た人が大学にまたもどる、なんてザラですし、18 歳のときに「みんないっせいに」おんなじ筆記試験受けてパスしなくちゃいけない「一発勝負型科挙的大学入試」スタイルにいつまでもしがみつく理由はどこにもないと思う。ぼやっとしていたら日本の大学はどんどん世界のほかの国と地域の優秀な大学の後塵を拝すことになると思うが、これはたんなる門外漢のいらんお世話にすぎないだろうか。

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2018年03月02日

本邦バッハ研究の巨星墜つ

 先日、いつものように寝ながら OTTAVA 聴いていたら、耳を疑うような情報が飛びこんできた。日本のバッハ研究の第一人者のおひとりで、NHK-FM「古楽の楽しみ」案内役として長く親しまれていた礒山雅先生が急逝されていた、ということ。え … しばし絶句。そういえば最近、あんまり出番がないなぁなんて、まったくもって呑気にのほほんと考えていた口だったので、にわかに信じられない。

 報道によると、磯山先生は1月 27 日夜、「埼玉ヴォーカルアンサンブルコンテスト」の審査をつとめたあとの帰宅途上、折からの大雪で凍結した路上で転倒して頭部を打ち、病院に担ぎこまれたという。先生は昏睡状態のまま、先月 22 日、冬季五輪での日本選手の活躍が日々報じられるさなかにみまかった、とのことらしい。

 不肖ワタシが磯山先生の名前を知るきっかけとなったのが、( 磯山先生を偲んで『マタイ受難曲』の終曲合唱をリクエストした OTTAVA リスナー氏もおなじく )、「NHK 市民大学 バロック音楽[ 1988年4−6月期 ]」の TV 講座。このとき講師だったのが、磯山先生だった。先生の書き下ろされた市民大学テキストはいまだにワタシの重要な資料のひとつとなっている、と言うとかっこよく聞こえるが、ようするにここでの拙記事など書くときのアンチョコとして役に立っている。あれからまる 30 年、テキストはいまやすっかり黄ばみ、薄汚れているけれども、本文 140 ページくらいの薄っぺらな小冊子ながら、その中身の充実ぶりにはいまだに目を見張る。「古楽の楽しみ」での起きぬけの耳にも心地よいバリトンヴォイスの解説もじつに親しみやすくて、失礼ながらほかの大先生もすばらしいとは思いつつも、語り口の親しみやすさという尺度だったら磯山先生の右に出る方はおそらくいまい( と、思う )。日本におけるバッハ研究では、往年の角倉一郎先生もおられるけれども、角倉先生もさぞショックだったろう、と思う。まだ 71 歳です。聞くところによると、『ヨハネ受難曲』にかんする博士論文の出版準備中だったとか … 。

 磯山先生の著作でもっとも有名な本はおそらく『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』だろうと思うが、個人的には講談社学術文庫に収録された『J.S. バッハ』の、つぎの一文がたいへん印象に残っている( いつものように下線強調は引用者 )。
… バッハを知れば知るほど、私には、バッハは深く宗教的な人間であると同時に、狭い意味での宗教を超えた人だ、という印象が強くなってきている。大切なのは、バッハがなにを信じたかという信仰の内容ではなく、信仰に貫かれたバッハの生き方、精神の方向性なのである。
これは、「バッハあるある」的なお悩み質問、つまり「バッハを聴くのにキリスト教の信仰は必要か?」。先生自身もこの問題におおいに悩まれたすえ、到達した結論として書かれた文章です。「かんじんなのはキリストという人が実践した精神のほう」というのは、たとえばニーチェなんかも似たようなことを言っている。そんなニーチェも、じつは『マタイ受難曲』が大好きだった、という逸話が残されている( 友人宛て書簡で「今週、わたしは『マタイ』の演奏を 3回、聽きました」と当の本人が告白している )。また当然のことながら磯山先生はバッハ研究書の訳業も数多くて、近年ではクリストフ・ヴォルフの『バッハ ロ短調ミサ曲』というすごい本も上梓されている。

 ほんとはワタシのようなディレッタントが磯山先生について知ったような顔してつらつら書くもんじゃないとは思ったが、やはり個人的に影響を受けたバッハ研究者のおひとりでもあるし、「古楽の楽しみ」でもずっとおなじみだったし、まさかこんな不慮の事故でいきなり不帰の人になろうとはまったく予期していないなかったので( 当たり前ですが )、すこし思うところを書かせていただきました。バッハ研究で言えば古くは杉山好先生、そしてライプツィッヒの「バッハ・アルヒーフ」研究員も務めていた筆跡鑑定の権威・小林義武先生もすでに泉下の人だし、いまはただただ、合掌。

posted by Curragh at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | おくやみ

2018年02月18日

「記録は並ばれるためにある」

 正直に打ち明けると、今回の冬季五輪はさして興味がなかった。代表選手のみなさんがこの大会目指して精神も肉体も文字どおり削る思いで乗りこんでいったのは当然、承知しておきながらも、今回ほど政治プロパガンダの強烈な雑音に掻き消されるような、かつてのミュンヘン夏季五輪を思い起こさせるような暗い政治色に染まった冬季大会はちょっと記憶にない気がする( 冷戦時代、西側がモスクワ五輪をボイコットしたことはたしかにあったが )。

 でもいざ始まってしまえば TV はもちろん競技中継一色になるので、個人的に好きなカーリングとかは見てました。高梨沙羅選手の五輪初メダル、スノーボードハーフパイプの平野歩夢選手といった若手の活躍もあって、フィギュアスケート競技が始まるころには北朝鮮情勢云々 … といったことも印象が薄れていき、いつもの五輪観戦気分になってきた。なんだかんだ言ってもやはり特別な大会ですからね。

 フィギュアスケート競技って、以前にも似たようなこと書いたかもしれないけれども、たんなるスポーツというよりは舞台芸術に近いものと思ってます。スケーターは氷盤という大舞台で舞を舞うわけです。でも今回の羽生結弦・宇野昌磨両選手のとんでもなくすばらしい偉業 … は、いったいどこのだれが予見したでしょうか。

 あれだけの大けがを負い、氷の上に立って練習を開始したのがたったの3週間前だという。でも彼は成し遂げた。いちばん心に去来したであろうことは、やはり地元・仙台のことだったと思う。あの瞬間、全国各地でみな NHK の生中継を食い入るように見守っていたのではないか。大真面目な話、ほんとうにあの4分半こそ、ひとりびとりの想いがひとつになった瞬間だったんじゃなかろうか。と、ずいぶん勝手な独善的感想を書いてしまったが、ほんとうに超一流の人ってやっぱり超一流なのだ、とも感じた。年齢ではないですね。あとで地元紙の記事見てはじめて知ったのだが、羽生選手は約2か月間、陸上での基礎トレーニング以外の時間は解剖学や方法論関連の論文を読み漁っていたのだそうです。コーチのブライアン・オーサー先生いわく、「これは運ではない」。

 フィギュアスケート競技での五輪連覇というのはじつに 66 年ぶりの快挙、ということもはじめて知りまして、66 年前に大記録を打ち立てたディック・バトンという元フィギュア選手のツイートも紹介されてました。興味をそそられたのでさっそくのぞいてみたら[ いつものように下線強調は引用者 ]、
... Hanyu - Quad Salchow, beautiful easy and light
... Fernandez - strong, musical and theatrical.
... Uno - A powerful sparkplug,
... Bravo Hanyu, Records are made to be tie( sic )

とまあ、観戦しながら iPhone なのか iPad なのかはたまた Macbook なのかはわからんが、Twitter 上で実況してますねぇ。でも「記録は並ばれるためにあるものだ」なんてさすが。いい表現なのでメモっておきました(
笑 )。おなじ人さまの tweet を見るなら、ここの国の大統領の品性下劣丸出しコメントなんかよりよっぽど精神衛生によい。

 ところで SP の日の夜、NHK ニュースで羽生選手のことを報じた NYT 記事が紹介されてまして、なんと 'Yuzuru Hanyu Shines' なんて見出しだったそうです。確認しようと思って電子版見たら、いつのまにか( ? )'Yuzuru Hanyu Commands the Stage' に差し替えられていた( 泣 )。電子版は紙の新聞とちがって、ちょちょっと訂正削除ができるということか( ちなみにこういうことはよくある )。やっぱり向こうの人の感覚って、「ユヅル、光り輝く」という、地元を舞台にしたスクールアイドルの物語じゃないけどいかにも抒情的で日本人好みのタイトルより、もっとパンチの効いた「ユヅルの独擅場 / ユヅルの独り舞台」みたいな言い方のほうが広告費が稼げるとでも思ったのかな[ どこのメディアのコメントかは知らないけど、羽生選手のフリーの演技を 'ethereal' と評していた。TV 字幕の訳は「この世のものとは思えない」とかなんとか、そんな日本語だったが、字義通りには「エーテルのような」。人間離れしていかにも空気の精みたいに軽やか、あるいは妙なる美しいスケーティングだった、ということなのだろうけれども、たしかにこれうまく日本語にならない見本のような言い回しではある。昔のさる音楽評論家の言い方だったという「絶美なる」なんかはどうかな?]。

 羽生選手、とくると、例の黄色のクマさんの山。海外メディア記者( ほんとは Japan Times みたいですけど )が記者会見で挙手して、なに訊いてくるかと思ったら、なんとそのプーさんのことだった( … そんなことどうでもいいじゃないかって TV の前のおっさんはひとりごちていた。ちなみにバトン氏も 'Hanyu - Beautiful Programs , beautiful choreography it looks like its raining teddy bears.' とコメントしていた )。でもその受け答えがまた、ふるってました。「地元の子どもたちに寄付する。いくつかは持って帰るけど」[ → 関連報道記事 ]。

こんなこと書くと当の羽生選手からクレームがくるかもしれないが、彼はいまの日本がとっくの昔に失ってしまった、いわゆる「サムライ」精神の化身みたいな人だと思っている。たとえはヘンだが福音書の有名なたとえの表現を借りて言えば、

'For this Samurai spirit was dead and is alive again; it was lost, and is found.'

[ 付記。スペイン代表のフェルナンデス選手もみごと3位入賞で Congrats !! 愚直にやりつづけることの大切さをあらためて感じたしだい。この人もまたある意味スペインのサムライ、いや中世騎士道の体現者のように思える。受け答えとかいちいちすばらしいし、彼の性格のよさ、あたたかい人柄があふれてますね ]

He made history indeed !! #congrats #yuzuruhanyu #shomauno #javierfernandez #pyeongchang2018 #winterolympics2018 #wintergames2018 #figureskating


posted by Curragh at 17:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2018年02月11日

「SW ep.8:最後のジェダイ」

 前作を静岡の映画館で見たのが 2016 年 1月末。ついこの前のことのような … と思ってはいたものの、今回ばかりはなぜか(?)あんまり期待してなくて、年明けになってようやく見てきた。前にも書いたけれどもなんたって小学3年生のときに「ep.4 新たなる希望」を映画館で見て、きみまろさんじゃないが「あれから 40 年」。それ以来この作品だけはずっと劇場の大スクリーンで全作品見る、と決めているので、やっぱり見ないわけにはいかない。

 で、見た感想なんですけど … いままで見た「スターウォーズ・サーガ」中、最高傑作 !! と思った。見に行ってヨカッタ。やっぱり裏切られなかった。

 あんまり細かいことはもう書きません。気になる人はぜひ劇場へ。昔みたいに「特別作品」扱いしてないから、「メンズデイ」とかうまく利用すればこんなすごい大作がたったの 1,000 円( 税抜 )で見られますし。個人的にはやっぱりあの前作ラストシーンで登場した例の絶海の孤島、アイルランド西海岸沖の世界遺産のスケリグ・マイケル[ アイルランドゲール語ではスケリグ・ヴィヒール Sceilig Mhichíl ]のジェダイ寺院跡に引きこもっていたルーク・スカイウォーカーと最後の3部作シリーズのヒロイン、レイちゃんのその後が、気になってしかたなかった。激しい空中戦シーンと交互に、まるでヴィヴァルディの合奏協奏曲よろしく急−緩−急−緩みたいに静謐そのもののスケリグ島のシークエンスが繰り返し登場して、やっとの思いで邂逅した「最後の」ジェダイマスターと「最後の」弟子とのやりとりがひじょーにていねいに描かれていたのもすばらしかった。

 もちろん前にも書いたことだが déjà vu は今回もありまして、カジノや弟子に倒されるシスの師匠、ダークサイドへの誘惑とその抵抗、あるいはスケリグ島にぽっかり口を開けた「洞穴」のエピソードなんかはある意味お決まりのパターンかと。でもコアなファンでさえ、「大騎士ヨーダ」先生のご登場にはおおッ、と思ったんじゃないかな。

 ヨーダ先生、今回もまた名言のオンパレードで、個人的には 'The greatest teacher, failure is.' なんかもう最高! さすがはヨーダ。以下、Wikiquote サイトからの転記でかつての師と弟子とのやりとりを書き出すと[
下線強調は引用者。直前の流れは老いたルークが古いジェダイの「聖典」を燃やして終わりにします、とヨーダに宣言して火を携え大木の穴に向かおうとするも、ヨーダの召喚した「雷」の一撃であっという間に焼失する ]、
Luke:So it is time for the Jedi Order to end?
Yoda: Time it is...hmm, for you to look past a pile of old books, hmm[ おまえさんが時代遅れの本の山を見ないようにする時が来たのじゃ ]?
Luke: The sacred Jedi texts!
Yoda: Oh? Read them, have you?
Luke: Well, I ...
Yoda: Page-turners they were not[ あんなもんひも解くような代物じゃあない ]. Yes, yes, yes. Wisdom they held, but that library contained nothing that the girl Rey does not already possess[ ああそうとも、いくばくかの知恵らしきものは、そりゃあ、書かれてあったろう。じゃがああいう書物の山には書かれてないものを、あのレイという娘はすでに身に帯びておる ]. Ah, Skywalker... still looking to the horizon. Never here! Now, hmm? The need in front of your nose[ ああ、スカイウォーカーよ、おまえときたらまだ水平線の彼方にばっかり目がいっておるな、そうじゃない、ここなのだ! そうじゃろ、んん?   見るべきは、おまえの目の前じゃ ]!
Luke: I was weak. Unwise.
Yoda: Lost Ben Solo, you did. Lose Rey, you must not.
Luke:I can't be what she needs me to be!
Yoda:Heeded my words not, did you? "Pass on what you have learned[ いままで学んできたことをつぎの世代に伝えよ ]." Strength, mastery, hmm ... but weakness, folly, failure, also. Yes :  failure, most of all. The greatest teacher, failure is. Luke, we are what they grow beyond[ よいかルーク、わしらはみな、次の世代に乗り越えられる存在なのじゃ ]. That is the true burden of all masters.
( ついでに雷で大木もろともジェダイの本を燃やしちゃったヨーダ先生がさも愉快そうにゲラゲラ笑っていたのは、見ているこっちもそうそう、YES !! そうこなくっちゃ、って思いましたよ。神話学ふうに解釈すれば、典型的なトリックスターですな、ヨーダは。さらに聖ブレンダンつながりで言えば、ドイツ語版の揺籃期本『航海』冒頭で、ブレンダン院長が「なんだこんなもの」と「神聖な書物」を火にくべちゃったのと通底する )

 名言といえば、ローズ・ティコという女性のレジスタンス兵士が捨て身で敵のキャノン砲に飛びこもうとする同僚フィンを決死の体当たりで阻止し、気絶する直前に言ったことば( 'That's how we win! Not fighting what we hate ; saving what we love.' )あたりなんかは、明らかに「過去との決別」という印象が強かったですね。たしかにこういう言い回しというか発想は、過去作品にはありませんでした。

 なんといっても最終3部作はヒロインですし、なんというかお決まりのパラダイムがジェダイオーダーとともに解体して、いっときは混沌状態となるがやがてはまったく新しい世界が、新しい希望がもたらされる( はず )みたいに解釈できなくもない。だから、最後のジェダイなのかな、と。よくよく考えてみればフォースのダークサイドを代表するシスという連中はパルパティーンとかその師匠プレイガス以外はだいたい「ブライトサイド」のジェダイオーダーの出身者。好事魔多しじゃないけど、よかれと思ってこさえたもののなかからこういう者たちが生まれる。これはけっこう真実を突いている。ゲーテも似たようなこと言ってるけど、完成形というのはあとはエントロピー過程というか下り坂というか、ようするにほころびが出ていずれは解体して消滅する定めなんですな。成ったもの、じゃなくて、成りつつあるものがとって代わる( ライトセーバーがまっぷたつに切断されるなんてのもすこぶる示唆的なシーンではある )。

 ドロイド関係で言えば、もう C-3PO も R2-D2 もすっかり脇役扱いで、いまや BB-8 の独擅場(「どくせんじょう」と読む、念のため )、といったおもむき( でも、R2 がレジスタンス救援にまるで乗り気じゃないルークに例のホログラムをさりげなく見せたのはさすが )。で、ほんとにちっぽけではあるがかろうじて灯りつづけている「最後の希望」を垣間見せて長い物語( 上映時間は2時間半、ある方のブログ記事の表現を借りれば、「序・破・急の連続」)は終わるわけですけど、このあとの展開は … どうなるのかな? 泣いても笑っても次回でほんとうの大団円。で、最後に涙したのは、このエンドロールクレジットでした。

In Loving Memory of our Princess,
CARRIE FISHER


評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2018年01月28日

伝説の宇宙飛行士に 'Nouvelle cuisine' の大御所、そして …

 2018年はしずかに幕を開けた …、と思ったらいきなりの噴火。これだから日本の自然は予測できない。いや、予測なんて言い方じたい不遜きわまりないのかも、と最近、つくづく思う。

 東海地震説から 40 年経った昨年、地元紙も
当事者たる石橋氏の取材も交えて検証記事の特集組んだりして問題提起してましていろいろ考えさせられた。それ読んで感じたのは、いまの地球物理学的知見についてとうしろうが乱暴にひとことで要約すれば「予測・予見なんてとてもムリ」ということ。地下深くで起こる地震( 直下型・海溝型ともに )の予測は残念ながらいまの科学では予測不可能、そして目に見える現象の火山噴火でさえ、今回の本白根山の突然の火口列形成と火砕サージ発生で地震と同様にいまの科学では「予見不能」ということがあらためて証明されたかたちになった、ということです。

 今回のことで思い出されるのが、2011 年3月のあの大震災。15日の火曜の夜、突然の大揺れで度肝を抜かれ、しかも震源が富士山西麓直下ということを聞き及んだとき、正直なところ、噴火するかもって真っ青になったこと。さいわいそんなことはなく、こんにちまで富士山は静穏状態なんですけれども、活火山っていつどこで噴火が始まるかなんてわかりっこないんだ、ということを痛感した。本白根山が 3000 年ぶりに噴煙を上げたとき、その場に居合わせたスキー客の方が TV ニュースの取材かなにかにこたえていたのがすこぶる印象に残ってます −−「日本人はだれでも被災者になる。生きていてよかった」。

 そんな折も折、今月は各界の著名人の訃報があいついだような気もする( レオルハルトが亡くなったのも 1月。今年ではや 6年になるのか … )。まずは NASA の伝説的宇宙飛行士だったジョン・ヤング氏。享年 87 歳。「ジェミニ」、「アポロ」、「スペースシャトル」の3つの宇宙計画すべてに参加したただひとりの宇宙飛行士で、ワタシは世代的にとくに「アポロ 16 号( 1972 年 )」で月面着陸した人、という印象が強いです。

 つづいて 20 日、往年のフランス料理界の巨人、ポール・ボキューズ氏の訃報が。享年 91 歳。フランス料理だの、'Nouvelle cuisine' だの、といったものとはまるで縁のない門外漢がああだこうだとコメントするのははなはだお門違いなのだが、ワタシがこの人の名前をはじめて知ったのは大好きなボージョレワインのムックの巻頭を飾っていた寄稿記事でした。へェ、こんなすごい人がいるんだーくらいの感覚でしたが、それでもサントリーの宣伝文句をそのまま借りれば「ボージョレの帝王」と呼ばれるジョルジュ・デュブッフ氏と仲がよくて、みずからボージョレ地区に専用の畑を持っていたらしい。そのムックの記事では日本とボージョレとのつながりについて触れて、「日本万歳。そしてボージョレに感謝」と結んでいた。ボキューズ氏が逝去したということを間接的に知ったのは、いつも見ていたデュブッフ社の公式 Instagram ページ経由だった。あれ、ずいぶんと若いころのデュブッフ氏にボキューズ氏が並んで写ってるなー、なんてのんきに思っていたら、そういうことだったのか。

 そして地元紙の「追想メモリアル」に掲載されていたのが、昨年暮れに 72 歳で亡くなった歌手のはしだのりひこ氏。その記事を読んで、もっとも心打たれたのはこのくだりでした −−「晩年はパーキンソン病と診断され、約 10 年の長い闘病生活を送った。長男端田篤人さんによると、『神はみんなの中にいる』と優しく話していたという」

 ワタシなんかはっきりいって「へっぽこぴー」なたぐいの人間なんだけれども、やはりある境地に到達した人ってみんな異口同音にキャンベルとおんなじことを言うもんだなぁ、ひとりごちたしだい。そこだよね、問題は。ワタシは根っからのアニメ好きでないにもかかわらず(『サザエさん』は例外 )、なぜ居住する街の一角をなす内浦地区を舞台にした『ラブライブ! サンシャイン !! 』にみごとにハマったのか。ひとつには、あの物語にはひとりびとりの内面に輝く原石を見つけることをていねいに描いていたから、と言える。それは言い方や捉え方によっては「神」だったり「輝き」だったりするだけ、と個人的には考える。ニーチェの言う「運命を愛する者 Amor fati 」という発想とも通じると思う。たとえば例の仮想通貨騒動。おまえはひとごとだからそんなこと言えるんだ、と誹りを受けるかもしれないが、ようはアルベルト・シュヴァイツァーじゃないけど「人間はみなエピゴーネン」ならぬ「人間はみなへっぽこぴー」だと思っていれば、こんな危ない橋を渡るわけがない。しつこいようだがここの拙いブログの隠れテーマ「健全な批判精神」が、自分の内面との対話が、徹底的・的なまでに顧客側にもなかった、ということではないのか。「利殖」なんてことばが流行っていた時代やバブルのころとなんにも変わっちゃいない、ってことだろう。取引所を責めるだけでは、またおんなじ愚が繰り返されるだけだ( とくにあの風体の社長さんに大枚預けよう、なんてユメにも思わん )。と、「おくやみ」のはずがけっきょく脱線してしまった。妄評失礼。

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2017年12月31日

マルのいまの気持ち … ずら !! 

 「なによッ、こんなとこに呼び出して!」
 「ゴメンずらぁ。ルビィちゃんも来てるよ!」
 「うゆ。あれ、その手に持ってるのは … なに?」
 「これ、マルのいまの気持ちを書き留めたものずら。千歌ちゃんたちに見せる前に、まずふたりに読んでもらおうと思って」
 「フッフッフッ、わがリトルデーモンよ、闇の契約書の文面なのね!」
 「ちがうずら」
 「 … ちょっとなにヨこれ、改行がぜんぜんないじゃない !! アンタ人さまに自分の書いた文章を見せるときは … 」
 「わざとずら ♪ このマルの書いた文だけど、アイルランドの小説家にジェイムズ・ジョイスという人がいるずら。その人の代表作『ユリシーズ』最後の挿話のマル版パロディになってるずら。だからちょっと読みにくいのは目をつむって、とにかく読んでほしいずら!」
 「目をつむって読む … むずかしいな」( そういう意味じゃないずらよー )

            *     *     *      

 だってそうずら yes マル信じられないずら yes 浦の星の図書室でルビィちゃんといっしょに過ごすのが当たり前だと思っていたそんなマル自身がいまではひとかどのスクールアイドル憧れだったスクールアイドルに知らない子たちからも声をかけられる存在になったんだよ yes ヘタレ堕天使の善子ちゃんの言い方を借りれば「現実こそリアル、リアルこそ正義」になるんだろうけれどもそもそもなにが正しくてなにが正しくないのかなんていずれ塵芥に死ぬ定めの人間が勝手にこさえたものにすぎないんじゃないずらか yes たとえば宇宙から見た地球がそうずら「国境」なんてないずらそもそもそんなものははじめから存在してないずら yes そして最近マルはこう思うずら人間の目から見たこの世界って黒か白かあなたかオラかあるいはキェルケゴールじゃないけれど「あれかこれか」とかどうしてもそう見えちゃうけれどもそんなこともはやどうでもよいずら問題じゃないずらものごとの本質ではないずらってこと yes こんなこといきなり言い出してマル本の読みすぎでニーチェみたいについに頭にきたかなんて思わないでほしいずら yes だってよおく考えてほしいずらだれかにとっての正しいこと正義っていうのはそうではないだれかにしてみればはなはだ害悪かもしれないってことそういうこともあり得るんだってことよかれと思ってやっていたことがじつは環境に悪影響を与えていたりするしもっと言えば正義のための戦いなんてのもありえないってこと( でもマルも人のことあまり言えないずらみんなといっしょにみとしーでバイトしたとき洗剤ぜんぶ入れて泡だらけになってあとでダイヤちゃんにやんわりとブッブーですわ! されたっけ )ようするにだれしも自分のことになるとへっぽこぴーなんだからある物差しや尺度や価値判断や道徳を他人に押しつけちゃダメだってことずら yes 絶対なるものがないことに疑問をもつずらかでもたとえば一日の長さだってそうずら地球は一日 24 時間だけどすぐ外側の火星の一日は地球より 40 分長いずら yes それじゃもっと外側をまわってる土星の一日はもっと長いと思ったらじつはそうじゃないずら土星は地球より自転が速いから土星の一日はたったの 10 時間 30 分しかないずらこんなとこじゃとても生活できないずら yes ようするに絶対的基準というか「汝 … すべし」by ニーチェなるものははじめから存在してないずら yes そういえば日本の諺にもあるじゃん「甲の損は乙の得」ってマルはこれすばらしい先人の知恵先人の叡智だと思うずらだれかが損すればだれかが得するそれが人の世だからこれこそ正義絶対に正しいことなんてハナからないずら yes そうそうマルはお寺の子どもだからどうしても仏教の僧侶みたいな発想をしてしまうマルにはそういうクセがあるずら yes 「ラブライブ!」予備予選の曲作りのときだってそうずら yes そのときルビィちゃんちでマルみんなにこう言ったずら「すなわち『無』というのはすべてがないのではなく『無』という状態があるということずら」ところがマルの言おうとしていたことわかってくれたのは自称堕天使ヨハネの善子ちゃんだけだったずら yes 善子ちゃんてああ見えてほんとはとても友だち思いで線の細い傷つきやすい女の子ほんとうは心根のやさしい子なんずら「善子」という名前のとおりずら「名は体をあらはす」一例ずら yes マルはちゃんとわかってるずら ♪ だってマルは幼稚園のころから善子ちゃんを見てきたから yes それでね善子ちゃんとマルとは見た目も趣味も言動もまるで水と油コインの裏と表つまり正反対かつ対照性に思われているようだけどじつはそうじゃないずら yes マルにも善子ちゃんのような素質と言うか要素というかつまりユングの言う「アニマ / アニムス」のように善子ちゃんにはマルみたいな素質要素がマルには善子ちゃんとおなじような素質要素がじつは生来備わっているずら yes 本題にもどるけれども正義か悪か正しいか悪いか主体か客体かというのはしょせん人間のモノの見方でいかようにも変わるし時代風潮常識為政者のご意向あるいはどこの地域に生まれたかその他もろもろのことが壁ないしヴェールとなってそれを通してしか世界を見るからにほかならないのであってほんらいは単純だったはずの事柄がややこしくあるいはむつかしく思えたり見えたりするだけかもしれないってことずら幼稚園に通っていたころを思い起こせばそれがすぐわかるというものずら yes この輝きを見えなくしているのは古代アフリカの神話に出てくる「トリックスター」なのかもしれないずらあるいは古代インドのサンスクリット古典なんかに出てくるこの世界を「もや」のように覆って世界の真の姿を隠している「マーヤー」なのかもしれないずら yes ある高名なお坊さまで学者の先生でもあるおじさんがテレビでこう言っていたらしいずら yes 言っていたらしいというのはマルの家にはテレビとかスマホとか電気で動く文明の利器があんまりないからずら yes とにかくその先生が言うには「自分」が見ている「自分」なんてものはそもそも存在していない幻想幻影虚像だって yes マルそれはじめて聞いたとき自分の心の中をのぞかれたような不思議な気持ちがしたずら yes じつはマルも昔からと言ってもまだ人生15( 3月4日の早生まれずら )年しか生きてないけれどもそれでも Aqours としてルビィちゃんや善子ちゃんや千歌ちゃんたちと行動を共にしてきて心からそう思っているずら yes 千歌ちゃんはよく自分のことを「普通怪獣ちかちー」と自虐的に表現しているけれどもそれを言ったらマルたちも超絶地味な普通怪獣トリオずら yes 地味アンド地味アンド地味を地で行くようなここ内浦も普通なんだって思っていたずらでもそれはマーヤー幻想虚像自分で勝手にそう思いこんでいただけずらほんとうはそうじゃないってことを Aqours のみんなそしてクライメイトそして地域の人たちから教えてもらったずらマルは今年一年 Aqours の仲間といっしょにたっくさんいろんな経験を積んできてそういうことがわかっただけでもマルじゅうぶん幸せずら Aqours そして Aqours という名の宝物のような輝きのかたまりのようなスクールアイドル部を作ってくれた千歌ちゃんには感謝しかないずら Aqours はマルの運命だったずら yes でも考えてみればたしかにそうずら自分が考えている「自分」あるいは「自我」なんてしょせん幻影うつろう影もうひとつのさすらう影ゲーテもこう言ってるずら「すべて移ろうものは比喩に過ぎない」ってあっこれ『ファウスト』の結びの有名な一節ずら yes あるいは夏目漱石の「則天去私」の書も言わんとするところはおなじだと思うずら yes 突き詰めて考えるとこの世の中には絶対的なものなどなにひとつないってことずらそれゆえ究極的存在とは人間のことばで翻訳すればけっきょく「無」の一語に尽きるずら yes だからマルは「無」ということばをそのとき使ったんずら yes マルうれしかったなだってダイヤちゃんがマルの提案を生かした歌詞をちゃんと歌ってくれてマルの想いを実現させてくれたから3年生と1年生をまとめてくれたダイヤちゃんにも感謝ずら yes とにかく話もどすと善子ちゃんにはマルの要素がマルには善子ちゃんの要素があるってことその証拠にマルが「無」と言ったときにまっさきに理解してくれたのが善子ちゃんずら yes マルほんとにうれしかったずら yes だからねマルが言いたいのはこういうことわたしたちはひとりびとりみんなちがっているけれどもそれは「マーヤー」にすぎない永遠の究極的存在絶対的存在に対して人間が「神」とか「仏」とかあるいは「無」とかそういうイメージなり名称なりを与えて象徴あるいはシンボルとして捉えているものがそれぞれ各人に反映あるいは影あるいは一部に … とにかくそういうふうに「映って見えている」にすぎないのであってもともとはひとつマルも善子ちゃんもルビィちゃんもダイヤちゃんも千歌ちゃん梨子ちゃん曜ちゃん鞠莉ちゃん果南ちゃん浦の星のみんなみーんな究極的には一者つまりひとつひとりはみんなみんなはひとりということなんずら yes だからみんなちがってみんないいずらそれはすばらしいことずら正しいとかまちがってるとかないずら yes そうそれであのときなにもない古寺のお堂でみんながあんなふうに言ったずらかすなわちそれは「テンポも音色も大きさも」「ひとつひとつぜんぶちがってばらばらだけど」「ひとつひとつが重なって」「ひとつひとつが調和して」「ひとつの曲になっていく」マルたちもずら ♪ yes そしてその曲が生まれたのもほかならない「無」の中からだったずら音楽もそうだけど芸術アートというのはおしなべて「無」から生まれるもんずらマルはそう思うずら yes そしてこれは飛躍かもしれないけどいちばん強い人ってマッチョとか力があるとかお金持ちとかそんなんじゃなくて「無」ととことん向き合って生きてきた人じゃないずらかこういう人の精神的な力ってものすごく強いはず場合によっては世の中を動かす力に変わったりもするずら yes だからほんとうに大切なこと進路とかもそうだけどそういうことを決めるときはほかのみんなの意見は聞いてもいいけど最後にどうするか決めるのは自分しかいないずら「無」とじっくり向き合うことずら yes 自分がほんとうにやりたいことはなんだろうかとか自分がほんとうに好きなことってなんだろうとかとことん自問していくうちにこたえはおのずと見つかると思うずら yes だから Aqours の3年生はめいめいが進むべき道を自分の心と向き合って心の声を聞き取って自分で決めたずら yes 他人の指図する道他人の歩いた道そういうのではなくまだだれも歩いたことのない自分だけの道を自分で見つけたずらこれはとてもとても勇気がいることずらだって人もうらやむいかなる大金持ちでさえ自分の人生を 100% コントロールして人生設計どおりに人生を送ってる人そんな人なんてこの地球上にただのひとりもいないずらだれひとりとして自分の思うように生きてる人なんていないずらだから自分の歩むべき道からはずれないようにするってことはものすごく勇気がいることずら yes そしてこれはアーサー王伝承のひとつともみごとに重なるずら「森のもっとも深いところ、道も小径もないところへとそれぞれ出発した」ってね yes えっじゃあマルは将来なにになりたいかってそうずらね … やっぱりマルは本が大好きだからカズオ・イシグロみたいなすごい小説家になるのはムリかもしれないし太宰のようなあるいは郷土の偉大な先達の芹沢光治良とか井上靖とかそういうふうにもなれないかもしれないけれどもでも小説家になりたいずら yes あと英文がしっかり読めるようになれたらイシグロ作品を原書で読んでみたいずらそして村上春樹のように好きな作家のアンソロジーを自分で編んで翻訳して出版してみたいずら yes ひょっとしたら外国にもスクールアイドルがいるかもしれないしスクールアイドルの物語というのもあるかもしれないずらもしスクールアイドルものを運よく見つけられたらぜったいマルが翻訳して日本の読者に紹介するずらだってマル自身スクールアイドル経験者だもんスクールアイドルの世界はよく知ってる当事者のマル以外にだれが訳すずら yes そこでマルたちのユニット Aqours についてマルが思ってることもすこしだけ yes Aqours もわたしたちもつねに変わりつづけるいっときだってひとつのある状態にとどまったりはしないずらそしてこれはすべての生きとし生けるものみんなそうこれは定めずら世の理あっこれ「ことわり」ずら yes そしてマルたちもいずれ年とってこの世界から消えるずらだから Aqours もマルたちもこの澎湃たる宇宙広大無辺な宇宙悠久の時を刻む宇宙におけるマルたち Aqours の存在した時間なんてほんとうに一瞬のそのまた一瞬のそのまた一瞬にすぎないずら yes だからこそとマルは思う「永遠の輝き」とはこの刹那束の間の生のなかにこそあるって yes Aqours というユニット名からしてそれを表しているずら Aqua つまり水と ours とのカバン語造語合成語ずらでも大事なのはカバン語とかそんなんじゃなくてマルたちはいやマルたち人間はみんな「水」だってこと水とおなじ性質をもった存在だってこと yes 水は一瞬たりともおなじ形にとどまったりしはないマルたちもおなじずら yes 人間みんなそうずらそしてこの世は平安時代からいや地球いや太陽系いや全宇宙のはじまりビッグバンのとき以来ずっとおなじだったためしはないずらそれが世の理永遠不変の真理ずら yes だからマルは Aqours という名前が大好きダイヤちゃんに感謝ずら yes 脱線するけどこの広い宇宙には地球のような惑星がいくつもあるらしいって聞いたずら yes 昔こんなこと言ってた作家がいたずら「アンドロメダとわれわれの住む銀河は約 230 万光年離れている。こう聞くとはるかかなたにあると思えるかもしれないがそれぞれの銀河の直径は 15 万年から 20 万光年はある。だからアンドロメダを十何回か転がせばわれわれの住む銀河にたどりつく。そのアンドロメダにはもうひとりの自分つまり『分身X』がいるかもしれない」って yes そうずら yes アンドロメダ銀河のどこかに地球のパラレル惑星みたいのがあってそこにパラレル日本みたいな島国があってそこにパラレル伊豆半島みたいなのがあってそこに内浦そっくりで淡島もある美しい入江があってそこに「Xハナマル」がいるずらマル信じてるずら yes その「Xハナマル」がこっちを見てこう思うずら「あっあそこに『Yハナマル』がいる」って yes Aqours と言えば「輝き」が最大のテーマだけどこれ仏教にも通じるずら yes 仏教では「一切衆生悉有仏性  いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」と教えているずら yes アイルランドの小説家もこれとまったくおんなじこと言ってるずら「万物の輝き」って yes ことばも文化もみんなちがうけれどもわたしたち人間はけっきょくみんなおんなじってことずら根源的に「一」なんずら yes すべてのものに「輝き」はあるずら yes マルたちだけじゃないどんな人にも輝きはあるずらそれに気づくか気づかないかで生き方それじたいが変わると思うずら yes そんなことどもをつらつら考えていたらあるとき内浦の海がそれまでとまったくちがって見えたずらこんなに輝いていたんだってことにはじめて気がついてしばらくその場から動けなくなったずらこれがいわゆるエピファニーってやつずらか yes 一見「ふつう」に思ってるこの毎日平凡な毎日こそ非凡の連続「ある」ことがむつかしいということの連続だから「輝き」があるし文字どおりありがたいことずら yes マルたちもあのときみんなで歌ったずら「明日への途中じゃなくいまはいまだね」「この瞬間のことが重なっては消えてく」これまさしく Aqours そのものずら yes 過去現在未来すべてはつながっているすべてを肯定しないと人生は先に進めないずら yes マルほんとうにそう思ってるずらたとえどんなにつらいことがあっても全力で否定したいときがやってきても起きたことは取り返せないしどんなに時間がかかったとしてもすべてを受け入れる肯定するしかすべは道はないずら yes とにかく「勇気はどこに」と自分の心に訊いてみることこれがやっぱり大事だと思うずら yes マルたち Aqours はいまこの瞬間ただ舞を舞っているだけ yes 外国の神話学の先生が昔日本に来たときに見たんだって同行していたべつの学者先生が神職の人に訊いたんだって「あなたたちの宗教にはどんな教義があるのか」って yes そしたらその人しばらく考えこんでやおらこうこたえたんだって「わたしたちには教義などありません。ただ舞を舞うだけです」って yes マルたちが歌った歌にもあるずら「踊れ踊れ」「世界はいつもあきらめない心に」「道を探す手がかりを与えてくれる」って yes Aqours つまりいっときたりともおなじ状態ではない水とおなじくマルたちの過ごす時間もあっという間に消えていくマルたちもあっという間に卒業する yes でもマルは思うあのときみんなといっしょにすごした時間 Aqours として活動した時間 Aqours として成し遂げたことは大人になってもけっして忘れないって yes あのときの「輝き」はまちがいなく永遠の光 yes これぞ音楽の力音楽のもつすばらしさずら yes 音楽と言えば Aqours 作曲担当梨子ちゃんスゴイずらこの前その梨子ちゃんに教えてもらったずら「想いよひとつになれ」は「海に還るもの」の姉妹版というか Aqours 版なんだけどパッヘルベルという300年以上も前のドイツの作曲家だった人のカノンという曲をコード進行に使ってるって話してくれたずら yes 閉校祭のとき善子ちゃんの手伝いで弾いていたあのゴシック(?)な曲もそのパッヘルベルという人が生きていた当時そしてそれは音楽の父って言われてるバッハも生きていた時代で梨子ちゃんに言わせれば正しくはゴシックじゃなくてバロック音楽と呼ばれる時代のオルガン曲っぽく作ったんだって梨子ちゃんはほんとすごいずら yes でねマル思ったんだけど昔のヨーロッパの古い音楽がこうしてちゃんと生きてるんだってことを梨子ちゃんは肌で感じているんだなってもちろんマルだって知ってはいたずらでも感じると知ってるのとでは天と地ほどもちがいがあるずら yes こんなマルもいちおう女学院の聖歌隊で歌ってたけどいままでそのことをあまり意識してはいなかったずら yes 西洋の音楽って英語だとミュージックずらその語源は古代ギリシャの「ミューズ」つまりギリシャ語で「ムーサ 美を司る女神さま」ずら yes ミューズって聞いてマルびっくりしたずらだってマルが図書室で眺めていたアイドル雑誌に載っていたマル憧れの人がいたスクールアイドルユニットそれこそが「μ's 」だったからずら yes ギリシャ語とくればやっぱ善子ちゃんずら yes たまたま出会った仔犬を勝手に「ライラプス」なんて名づけちゃうんだからほんとは「あんこ」なんだけどね yes でもそういうところが善子ちゃんのいいとこずら yes だからだからマルは思うマルが大人になってこの先どんなことが待ち受けていようとも Aqours のひとりとしてみんなといっしょに行動できたこと歌ってきたこと合宿したこと楽しかったこと辛かったこと悔しかったことうれしかったこと決勝に出て最高のパフォーマンスをしたことヨキソバシャイ煮THEフトッチョバーガーその他おいしいものをいっぱい食べられたことその他もろもろの思い出がぜんぶすべてマルを支えてくれる生きるよすがとなってくれるつまり Aqours はこれからのマルとともにあるずらこれは奇跡以外のなにものでもないずらマルの人生を変えてくれたのだから yes 生きているかぎり色褪せることなく輝きつづける光の源ずら Aqours は yes そうずら yes そうずら yes いまも yes これからも yes ずっと yes

* ... ジョイス『ユリシーズ( Ulysses 1922 )』の結尾はつぎのとおり[ 柳瀬訳版が未完のため、原文を引用しておきます ]。最終挿話「ペネロペイア」は主人公レオポルド・ブルームの妻モリーの yes に始まり yes で終わる改行句読点いっさいなしのえんえんとつづく長大な一文で書かれている。

... and Gibraltar as a girl where I was a Flower of the mountain yes when I put the rose in my hair like the Andalusian girls used or shall I wear a red yes and how he kissed me under the Moorish wall and I thought well as well him as another and then I asked him with my eyes to ask again yes and then he asked me would I yes to say yes my mountain flower and first I put my arms around him yes and drew him down to me so he could feel my breasts all perfume yes and his heart was going like mad and yes I said yes I will Yes.

[ 代筆者より ]:今年は個人的にもいろいろとありましたが … まさか年末恒例の締めの記事が『サンシャイン !! 』がらみになるとは今年のはじめにはほんとユメにも思ってませんでした。キャンベル本やら『フィネガンズ・ウェイク』やら、気に入るととことんのめりこむタイプなので、その点はご容赦を。みなさまにとっても新しい年が平穏無事な一年となりますように。

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Many many thanks for visiting and enjoying my images !! そしてこれが先日予告したものずら !! http://curragh.sblo.jp/s/article/181988799.html

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2017年11月19日

「普通怪獣」の逆襲

 前にも書いたけれども、いま、『ラブライブ! サンシャイン !!』第2期放映を見てます … 1期全 13 話のときも感じたけど、この物語はなんか3つでひとつの大きなエピソードで、それが連なるというストーリー展開になっているようです。つまり1). 統廃合決定 → 精一杯あがこう、2). メンバー間の個性のちがいの認識、それをすべて採り入れた楽曲の誕生 3). 予備予選出場とちいさな「奇跡」。4). だれしも「自分のことになると不器用[ メンバー全員、なんらかのコンプレックスを抱えている ]」→ それに対する全肯定 5). 見えない力を信じること → 「すべてに意味がある」ことの気づきおよび今後起こり得ることの全肯定[ 最後の「しいたけ」を撫でながら言う桜内梨子の科白は、なんだかショーペンハウアー晩年の「個人の運命における意図らしきものについて」という小論をも思わせる ] 6). 「普通怪獣」の変容( 変身 )と地区予選大会トップ通過、みたいな感じで。

 新しいエピソード開始回( と、勝手に思っているが )の7話も、すばらしいストーリー展開だったと思う。現実の地方都市における学校統廃合問題はまちがいなく切実で、1990 年代に教育テレビで放映された学校ドラマの舞台になった市立静浦西小学校もすでになく、もっと南の伊豆市土肥の八木沢地区にあった土肥南小学校も 2010 年に廃校になっている。ここ 20 年あまりで相当数の公立学校の統廃合が加速している現実をしっかり見て作っているな、だからここは安易な展開にしなかったのだなと地元の一住民は納得するのであった( 静岡県ではここ数年、公立高校の統廃合が加速しているから、現実の状況も浦の星女学院とほぼ当てはまっている。たとえば県立土肥高校は今年3月をもって県立伊豆総合高校土肥分校となっており、その県立伊豆総合高校も以前は県立修善寺工業高校で、県立高校再編で現行体制に。現在、西伊豆地区で県立の普通高校[ 本校 ]は松崎高校のみ )。

 いままで見てきて、この物語に通奏低音のように流れているのは個人的には「普通怪獣」というワードのような気がする。普通怪獣ちかちー。自分は普通星人だと思って生きてきて、このままじゃ普通怪獣になっちゃう、と主人公の高海千歌が転校してきた同級生の桜内梨子に打ち明けたのは1期最初の回。ここでキャンベル好きとしてはどうしても頭に浮かんでくるフレーズが、ビル・モイヤーズとの対談本『神話の力』にある。
凡人などという者がひとりだっているとは、わたしは思いませんね。すべての人が人生を生きるなかで、めいめい自分自身の幸福への可能性を持っている。その人がしなくてはならないことは、それを認識し、育て、それとともに歩むことです[ この直前に、ジョイスが「万物の輝き( radiance )」と呼んだものを認識し、それを表現することを学んだ者が真の芸術家だ、とも発言している ]。
アニメ作品なので、「普通怪獣」なんてユーモラスな言い方を採っているけれども、だれしも自分のことを「ふつうだ」と思いこんでいるはず。だがそうじゃない !! とこの愛くるしい普通怪獣は教えてくれる。「精一杯あがく」という科白にも、それが表れている気がします。

 「まだ自分はふつうだって思ってる?」

 「自分のことをふつうだって思っている人が、あきらめずに挑みつづける。それができるってすごいことよ。すごい勇気が必要だと思う」

 不肖ワタシはここで涙腺崩壊( 苦笑 )。脚本もよくできているし、そしてもちろん陰の主役とも言うべき挿入歌もけっこういい曲がありますねぇ。話が音楽モノだから当然だろうけれども、いままでこの手の曲にはいっこう見向きもしなかった門外漢を振り向かせたんですから、本気度はそうとうなものだと思いますよ[ 1期で梨子ちゃんが作曲した「想いよひとつになれ」は、いわゆる「カノン進行」が使われている ]。

 2期最初の回でオープニングを見たとき、メンバーの衣装が青系統、つまり冷色系になっていることに、ひょっとしたらこれは試練の始まりなのかって思ったが、それで思い出すのはジョージ・ルーカスの壮大な叙事詩 Star Wars シリーズの、エピソード4, 5, 6の最初の三部作。とくに 1978 年に日本公開されたあとにつづくエピソードの「帝国の逆襲」は、まだ無邪気さや血気盛んさ、怖いもの知らずだったルークたち主人公に本格的な試練が襲いかかる設定の物語でした。『サンシャイン !! 』主人公の高海千歌たち Aqours 9人もこれからこういう状況に投げこまれるのかな、と漠然と思ったことがいままさに現れている感じ[ そういえば桜満開の女学院を千歌が見上げていたシーンで、なぜか校門が閉まっていたことの理由もここにきてわかった ]。

 転校してきたばかりのとき、梨子ちゃんはいきなり春先のクソ冷たい内浦の海に飛びこもうとする。その後、ウェットスーツ姿で海に潜って、「海の音」を聴く。内浦湾に面した地域が舞台だけに、月明かりに照らされる海とか、夜の海の描写もとても多い。よくユング心理学関連本では、「夜の海の航海」という言い方が出てくる。村上春樹氏もおんなじようなことを言っているけど、ようは「無意識」の海へといったん下降し、オルフェウスのごとくふたたびこの世界に還ってくる、ということ。ほんらいこの用語は精神的危機を迎えた中高年(「人生の道半ば、わたしは正しい道を踏み外し、危険な暗い森の中にいた」のような )が無意識と対話することで危機を乗り切ることを指して使われる言い方ですけど、特技のピアノで挫折をおぼえた梨子ちゃんはまさにここの冷たい海に潜って「海の音」を聴いて、なにかをつかんだ。暗い海の中で、自分のほんとうの気持ちと向き合ったから、彼女はその後精神的に「変容」したんだと思う。

 またこの物語はメタファーというか、白い羽が淡い水色の羽へと変化するシーンとか紙飛行機とか、あるいは発端丈山[ ほったんじょうやま ]あたりから昇る朝日のシーンとか、小道具の使い方なんかもとても巧み。大画面のシアターでの鑑賞にも耐えられる作品だと思いますね。1期最終話で図書室の黒板に「目指せ! LoveLive」と大書きされていたけど、いまや普通怪獣たちの目標は「ぶっちぎりで優勝する、優勝して、一生消えない思い出を作ろう!」へと昇華した。このとき象徴的な白い羽が空の色と同化して舞い上がっていったのは、千歌たちが見つけたなにか、ほんとうの「輝き」を暗示しているのかもしれない[ ついでに国木田花丸が津島善子に向かって「だからマルたちが面倒みるずら」とこたえたのは、この前ここで書いた「黄昏の理解者ずら」の応答のようにも思えた。さらについでに:3話の「お嬢ちゃんたち、乗ってくかーい!」とか「冗談はよしこさんずら」は「ちびまる子ちゃん」世代ならわかる昭和コント、4話の「ダイヤさんちゃん」回で、黒澤ダイヤをからかっていた(?)イルカは頭が丸かったからたぶんゴンドウクジラ ]。

 ところでこの内浦地区がどうしてこのようなアニメ作品の舞台に選ばれたんだろうか … 個人的にもっともナゾだったんですけれども、どうもいろいろ話を聞くと、ほんとうはまるでべつの場所( どこだかは不明、おそらく伊豆半島のどこか )でほぼ決定していて、その最終確認のロケハンに来た制作スタッフがほんとうにたまたま内浦地区に立ち寄って、それで「やっぱここにしよう !! 」といきなり変更になったんだそうです。… これって、キセキじゃん。2011 年の大地震と大津波のあと、とくに内浦重須[ おもす ]地区は高台への集団移転ですったもんだして全国ニュースにも取り上げられたり、高齢化率も高いし、海に近い内浦地区も含めて市内全体、得も言われぬどんよりした沈滞ムードにすっかり覆われ、戸田[ へだ ]地区までの定期船航路もとっくに廃止( 今夏のみ期間限定で復活はした )、駅の高架化もまるで先が見えず … とそこへもってきてまさかまさかの展開になろうとは、これをキセキと言わずしてなんと言う( しかしほんとうによく調べている。予備予選会場になった伊豆市の「狩野ドーム」なんて、地元の人間以外だれも知らない、と思う。いったいいつこのあたりにやってきて、これだけ現地調査したのか、そういう車両なり人を見かけたことがないからほんとナゾ)。

 さらに個人的にすこし驚いたのは、先月、なんと主人公の家でもある旅館のモデル安田屋さんで冒頭部が書かれた太宰治の『斜陽』未発見原稿が出てきた、なんてことまであった。出てきたのは角川文庫版で 91 ページ以降の第4章の出だしを含む直筆原稿4枚。行方不明の原稿はまだあと2枚あるという。

 最後に先日、静岡市の女子中学生が書いた「人の個性輝く世界 実現願う」というすばらしい文章が地元紙朝刊の読者投稿欄に掲載され、とても感動したので紹介しておきます[ 以下、いつものように下線強調は引用者 ]。
… 以前より理解が深まったとはいえ、個性的なファッションやアイドル好きなどは一般的には否定されやすいし、アニメ好きといったらオタクだと冷たい目で見られることもあると思います。
… 「世界は一つ」という言葉は、とても良い言葉で、そうなるべきだと思います。でも、世界は一つでも個性はバラバラでいいと思うのです。いろいろな個性があるからこそ、いろいろな考えが生まれ、発見があり発明があり、進歩につながるのだと思います。
 個性にあふれた世の中の一人一人が、色とりどりの個性をもっともっと輝かせて生きてほしい。私はそんな世界の実現を願っています。

 … もう、simply wonderful, couldn't agree more with you ! としか言えないですね。シュヴァイツァー博士が「もし人が 14 歳のままだったら、この世界はもっとよくなっているだろう」という発言をしていたと記憶しているけれど、こういう若い人の声こそ、もっともっと届いてほしいと切実に思う、今日このごろ。

[ おまけ ] 動画サイトで「難読地名」だらけの内浦・西浦地区のバス停を『サンシャイン !!』オープニング曲にのせてぜんぶ紹介している、ある意味ぶっ飛んでいるクリップを見つけたので暇なときにでも。とくに「久連」なんて、読めるずらか ?? 



2017年10月16日

『浮世の画家』

 「名訳に学ぶ」、今回は祝ノーベル文学賞受賞カズオ・イシグロ氏、というわけで、『浮世の画家』を取り上げたいと思います。

 原作の An Artist of the Floating World ( 1986 )の邦訳を手がけたのが、キャンベル本の翻訳者としても知られる故飛田茂雄先生で、1988 年のこと。もうずいぶん前のことになるんですねぇ。当時、まだ若かった( !! )ワタシも神保町のタトル商会で初版本見かけたりしたもんですが、今回のノーベル文学賞をイシグロ氏が受けた、との報道に接したとき、まず頭に浮かんだのは当時、ちょっとしたもめごとになったことのほうでした。

 さる女性文芸評論家の先生が、原書と逐一対照したわけでもないのに「 … それなのに翻訳では原文とほど遠い日本語になっているのは残念」という趣旨の書評を書いたもんだからさあ大変。飛田先生はかなりアタマにきたらしく( いや、まっとうな仕事している文芸翻訳者だったらだれだって腹立つよ )、その根拠薄弱な書評書いた評論家に対して反論するという事態になった。

 … なんてこと思い出していたもんですから、つい若きイシグロ氏の書いた『浮世の画家』について書こうかと思い立ちました( 苦笑、参考文献等は最後に列挙しておきます )。

 まず冒頭部、原文と飛田訳をとくと見比べてみましょう( 以下、下線強調は引用者。「銀杏」と「梢」にそれぞれルビあり )。
 If on a sunny day you climb the steep path leading up from the little wooden bridge still referred to around here as "the Bridge of Hesitation", you will not have to walk far before the roof of my house becomes visible between the tops of two gingko trees. Even if it did not occupy such a commanding position on the hill, the house would still stand out from all others nearby, so that as you come up the path, you may find yourself wondering what sort of wealthy man owns it.

 But then I am not, nor have I ever been, a wealthy man. The imposing air of the house will be accounted for, perhaps, if I inform you that it was built by my predecessor, and that he was none other than Akira Sugimura. Of course, you may be new to this city, in which case the name of Akira Sugimura may not be familiar to you. ...

 このあたりには今でも< ためらい橋 >と呼ばれている小さな木橋がある。そのたもとから、丘の上までかなり急な坂道が通じている。天気のいい日にその小道を登りはじめると、それほど歩かぬうちに、二本並んでそびえ立つ銀杏の梢のあいだからわたしの家が見えてくる。丘の上でも特に見晴らしのよい場所を占めているこの家は、もし平地にあったとしても周囲を圧倒するほど大きいので、たぶん坂を登る人々は、いったいどういう大金持ちがこんな屋敷に住んでいるのかと首をかしげることだろう。

 いや、そんな家に住んでいるからといって、わたしは決して金持ちではないし、かつて金持ちだったというわけでもない。この家はわたしではなく、前の住人が ―― ほかでもない、あの杉村明が ―― 建てたものだと言えば、みんななるほどとうなずくのではあるまいか。もちろん最近この市に転居してきた人なら杉村明と言われてもピンとこないだろうが …… 。

 いかがですか。細かく見ると飛田先生の苦心のほどというか、技巧の冴えが見て取れるんじゃないでしょうか。不肖ワタシが最初これ見たときの衝撃は、けっこうなもんでしたね。

 まず気づくのは 'the steep path leading up from the little wooden bridge still referred to around here as "the Bridge of Hesitation' が独立した一文として書き出され、'on a sunny day' 以下がそのまま第二文を導き「 … わたしの家が見えてくる」と締めているところ。そして「銀杏」の前に「二本並んでそびえ立つ」が補足されてます。

 つぎの段落では、'the imposing air of ...' が地の文章に完全に溶けこんでいる箇所がとくに目を引きます。「銀杏の木」の補足訳とここの箇所はいずれも中村保男氏が指摘しているところでもあるけれども、このように訳出した飛田先生本人がこの冒頭部について書いているのですこし引用しておきます。
ここで語り手は、たぶん 60 代半ばの老人という設定になっている。いかにも老人らしい淡々とした語り口を再現しようと、私は次のように訳してみた。

 この界隈では今日でも< ためらい橋 >と呼ばれている小さな木橋を渡って急坂を上ると、そう遠く行かぬうちに、天候さえよければ、並び立つ銀杏の木の間から我が家の屋根が見えてくる。周囲を睥睨する丘の頂上に立っているこの家は、もし平地にあったとしても一際目立つほど大きいので、人々は坂を登りながら、いったいどんな金持ちがこんな屋敷に住んでいるのかと不審に思うだろう。

原文と同じく 2つの文から成る。ひとつの文が長いのは、わざと戦前の小説の調子をまねたからである。…

これを読んだ I 氏というベテラン編集者は、「これじゃいくらなんでも年よりくさ過ぎます。いつものトビタ調で訳してください。イシグロはまだ 20 代の作家ですよ。読者も若々しくてイキのいい訳文を期待しているはずです」ときびしい批判を下された。いや、若い作家がみごとに老人口調を操っているところに面白味がある、と反論したかったが、よく考えてみると、 I 氏のおっしゃるとおりで、こういうもったりとした文章は現代の若者好みではない。…… 翻訳調を少し表に出してみようと、こう改めた。

 もしあなたが天気のいい日に、この近所ではいまだに「ためらい橋」とあだなされている小さな木の橋のたもとから、急な坂道を登り始めると、そう大して歩かないうちに、二本のいちょうの木のあいだからわたしの家が見えてくるはずだ。見晴らしのいい丘の上に立っているこの家は、もし平地にあったとしてもひどく目立つほど大きいので、坂を登るあなたはきっと、いったいどんなお金持ちがこんなお屋敷に住んでいるかと疑問に思うだろう。

文章は相変わらず 2つだが、かなり翻訳文らしくなった。しかし、「あなた」という語りかけの口調はどうも日本人の耳にはなじみにくい。というわけで、また「あなた」を削り、小さな修正を加えた。

 天気のいい日に、この近所ではいまだに「ためらい橋」とあだなされている小さな木の橋のたもとから、急な坂道を登り始めると、そう大して歩かないうちに、二本のいちょうの木のあいだからわたしの家が見えてくる。見晴らしのいい丘の上に建っているこの家は、もし平地にあったとしてもひどく目立つほど大きいので、坂を登る人はきっと、いったいどんな大金持ちがこんなお屋敷に住んでいるかと疑問を抱くだろう。

まだなにかがおかしい。読んですぐ情景が思い浮かばないのだその理由は「天気のいい日に」を最初に置いたことにもありそうだ。そう思って、また何度も訳しなおした結果、ようやくいま中公文庫に載っている訳ができた。

 ちょうど折よく、NHKラジオ第1の「深夜便」で書評家の方が出てこんなことしゃべってました。「カズオ・イシグロという作家は各国語への翻訳も考えて、翻訳しやすいようにわかりやすい文章で書いている、という話もあります」。ほかならぬ翻訳者自身のこうした「告白」を見たあとでは、まさか、って思いますよ。飛田先生がこの小説作品の出だしをいかに苦労して訳出したか。さらに引用をつづけると、
… 文章は 3つになった。まあこれなら若い読者でもなじめるし、老人の口調も出ている、と思ったものの、まだ訳者のひとりよがりが残っているのではないかと恐れた。出版後しばらくして、カズオ・イシグロご本人から、ご両親と叔父に当たられる方が私の訳を読んでたいへん褒めておられたということをうかがい、ほっと胸をなで下ろした。

 それにしても、たいていの読み手は ―― 当然のことながら ―― 翻訳というかたちでイシグロ作品に触れる場合がほとんどだろうから、翻訳者の責任はきわめて重大、ということになる( ついでに飛田先生が最初の訳文について「わざと戦前の小説の調子をまねた」という部分、個人的にはどこかしら佐藤春夫ふうかなとも思った )。もちろん医療関係論文の翻訳だって人命がかかっていたりするわけだから、これはどんな分野 / ジャンルの翻訳作業に対しても当てはまるわけだが、こと文学作品に関して言えば、読み手がその本を手に取ってまず最初に受けるイメージを決定づけてしまうわけなので、きょくたんな話、ヘンテコなやっつけ訳みたいなのに不運にも出会ってしまうともう二度と、その作家の作品は手に取って、あるいは買ってもらえそうにない。逆に読者について言えば、あまりにも翻訳という言語転換作業について無頓着すぎる。とくに書評を書くようなプロの読み手を自他ともに認めるような人たちがそう。翻訳家で書評家でもある鴻巣友季子氏によると、現在の書評業界( ってなんかヘンな言い方ですけど )で翻訳本を取り上げる場合、キチンと原本と対照して書評を書く人ってほとんどいないそうだ。だから約 30 年前のような騒動になったりするんだな。べつに原本じたいが入手できなくても、いまじゃ Google Books だってあるわけだし、部分的にも対照できるはずなのにそういう裏をとるプロセスさえおろそかにして平然としている書評子が大半だ、というのはどう考えても問題だと思うぞ。

 最後に日本文学の英訳例をちょこっとだけ挙げておきましょうか。
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
 あまりに有名すぎるので川端康成の原文は省略。つまり英語圏の読み手にとって、川端文学の基本的イメージはこの出だしの一文だったりするわけです。でもよーく見るといろいろと食いちがっている。このへんの事情を詳しく知りたい向きは中村保男著『創造する翻訳 ― ことばの限界に挑む( 研究社出版、2001 )』の巻頭で検討しているので、ぜひ読んでみてください。いずれにせよ英文と日本文とではあまりにも言語構造がちがうので( 深層意識レベルでは意外にも[?]似通ったりする場合もあるにはあるが )、ヨコのものがすんなりタテになってくれないのです。それなのに「労多くして得るところの少ない仕事( 村上春樹氏 )」なのが翻訳という営為。2, 30 年前に比べればいまのほうが翻訳、ないし翻訳者に対する世間の態度はマシになってはいるかとは思うが、たとえば「印税率をもっと下げます」なんて言われて悔しい思いをしている先生方も事実、おります。あ、そういえば中村保男氏の本で 'Time flies like an arrow.' というのをコンピュータ翻訳機にかけたらどんなのが出てきたかについて書かれた一節があるんですけど(「時間蠅は矢を好む」とか )、いまの Google 翻訳にかけたら「時間は矢のように飛ぶ」とちゃんと訳してくれまして、このへんは AI だかビッグデータだかアルゴリズム体操だかなんだか知りませんが、ラテン語翻訳まで( いちおう )できちゃう機械翻訳ですからさすが、と言うべきか。でもいまだに英日 / 日英間の機械翻訳ないし自動翻訳はハードルが高いことは相変わらず。たとえば上の諺をちょこっと「変奏」して、'Fruit flies like a banana.' に変えて Google 翻訳に突っこんだらたちまちにして「果物はバナナのように飛ぶ」とハエの脚ならぬ、馬脚を露す(「片腹痛いですわッ」by 黒澤ダイヤ )。

 というわけで、当分のあいだは人間の翻訳者は必要、ということですな( ご同慶の至り )。というかこれをネタにして清水義範さんばりのショートショートでも書けそうな … 気はする( ちなみに英訳冒頭の the ですけど、主人公が乗ってる列車ですのでここはぜったいに定冠詞になる。イシグロ作品の飛田訳とおなじく、あるていど「単純化」された文章に成形している点にも注目。そういえば先日、地元紙連載コラムで「グーグル翻訳が変える生活」という寄稿記事を見かけた。「論より証拠。皆さんも一度ぜひグーグル翻訳を使って英作文や英文翻訳をしてみてほしい。最先端の技術が私たちの生活をいかに変えうるものかを実感できるはずだ」とそのデキをずいぶん高く買っておられるようでしたが、日英 / 英日にかぎって言えば例に挙げたとおりでそんなに楽観的ではない )。

 ついでに図書館ばかりか、本屋も「祝ノーベル文学賞」とかってあるのにカズオ・イシグロコーナーは空っぽ( !!! )。版元はほんとうに予想してなかったみたいで、増刷かけても間に合ってないらしい。しかたないからいつも行ってる図書館に寂しく(?)書架に収まっていたイシグロ氏 20 代のころの鎌倉を舞台にした『夕餉( A Family Supper, 1982 )』という短編の収録された『ペンギンブックス現代英国傑作短編集[ The Penguin Book of Modern British Short Stories edited by Malcolm Bradbury, 1988 ]』を借りてその作品を読んでみた。カポーティの Miriam を思わせるちょっとこわい終わり方だったのが印象的な掌編でした。そういえば文学賞受賞のおかげで再放映されたこちらの番組。あらためて見て、すばらしいな、と感じ入ったしだいです。次回作はどんな作品になるのかな? 



[ 参照した文献 ]
飛田茂雄『翻訳の技法』研究社出版、1997, 2009.
中村保男『名訳と誤訳』講談社現代新書、1989. / 『創造する翻訳 ― ことばの限界に挑む』研究社出版、2001.
村上春樹『村上春樹 翻訳( ほとんど )全仕事』中央公論新社、2017.

posted by Curragh at 01:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 名訳に学ぶ

2017年10月02日

'0 ⇒ 1' 、「0を1に」変える物語

 今年になって、急に駅前がにぎやかになりだしたような気がした。かわいらしい女の子が描かれたラッピングバスにタクシーが走る。そんなバスやタクシーを狙って高級デジタル一眼を構える人たち。たまたまそんなラッピングバスに何度か乗ったりもしたが、悟りの遅いワタシはと言えば当初は「いったいなんなのこれ ?? 」としか思えなかった。

 そんな折も折、NHK Eテレでそのアニメ作品が全編放映、とあいなって、それならばと見てみることにした。するとこの作品にはいわゆる「教養小説( Bildungsroman )」の伝統があらたな衣装をまとって「駿河湾の片隅の町」に「降臨」した完成度の高い物語だということがわかった。

 アニメ作品、とくると、なにか小説や戯曲、実写映画などとくらべて格下のもの、という偏見を持ちがちにはなるけれど、「よいものはよいもの」が信条の人間としてはいやいやどうして! この『ラブライブ! サンシャイン !! 』という物語は細部まで計算された、感動的でさえある「少女たちの成長物語」として認めざるを得なくなった。スクールアイドルユニット Aqours の9人にはそれぞれカラーとシンボルがあるようで、このへんはなんかヴァーグナー作品とかの「示導動機( Leitmotiv )」も想起させる( Aqours というのはなんともけったいなスペリングですが、どうも aqua + our[ s ]ということらしい。ジョイスばりの「カバン語」ですな )。

 とはいえ「ラブライブなのか街おこしなのか、よくワカラン」という混沌状態なのが偽らざる現状でして、もちろんファンの方の「聖地巡礼」は大歓迎。けれども問題は、アニメ作品ならば放映期間が終わったあともこれが一過性のブームではなく定着してくれるかどうかにかかっている。以前、市役所が「高尾山古墳」保存と都市計画道路との両立について意見を募っていたから、僭越ながら一市民として意見を書き送った。書いたことはこっちの話でも通じることで、ようするに「回遊性をよくして」ということだ。このあたりはけっこう古墳が多くて、たとえば戸田[ へだ ]地区( 旧戸田村 )の井田というところに7世紀ごろの豪族の墓と言われる「松江山[ すんごうやま ]古墳群」という遺跡がある。高尾山古墳と松江山古墳群の中間地点には深海水族館と食堂街があり、いまは廃止されてしまった( これは前市長が悪い )戸田までの定期船航路を復活させて連絡し、回遊性をもたせたらどうか、ということ。駅の高架化計画が長年の懸案になっているが、もし高架化が実現したら北口にはコンヴェンションセンターがあるので、南口側には高尾山古墳のビジターセンターもくっつけた複合文化施設 ―― 図書館機能の一部をここに持ってくればなおよい ―― にしてほしい、と思っている。

 物語の主人公の高海千歌( ちかっち )がこんなことを言う場面があります。「しかもこんななにもない場所の、地味アンド地味、アンド地味! ってスクールアイドルだし」。「そして町には … えっと町には …… とくになにもないです![「それ言っちゃダメ … 」と同級生に切り返される ]」。この科白、なんかいきなり深層意識を突かれた感じがしたのはワタシだけじゃないはず。たんにアニメ作品の「聖地」としてではなく、高尾山古墳や伊豆半島ジオパークつながりでも連携して点と点を結びつけ、定期船航路も復活させてうまいぐあいに回遊性を持たせることが急務じゃないかって門外漢なりに考えております、ハイ。

 「物語の効用」、ということでは、つい先日も地元紙にこんなすばらしい話が掲載されてました。記事読んで本質を鋭く突いていると感じたのは、実家の廃工場を劇場へとみごとに再生させた東京学芸大の学生さんの指摘です。「産業の発展は重要だが、それだけでは息苦しい」。しかり !! Couldn't agree more !! 正鵠を射る、とはまさにこのこと。たかだかペイントしただけのふつーのバスやタクシーに乗車してまで「巡礼」するのはどうしてなのか。これこそほんとうに人を惹きつける「物語」の持つすばらしい効用ではないか、と思う。ふた昔前だったら「付加価値云々」なんて言われていたかもしれないが、物語はモノじゃない。人間の精神に直接訴える力を持っているから、しぜんと人がやってくるのだと思う( とはいえアニメ作品ではほぼ完全に女子 / 女性しか登場しないから、あれは一種のパラレルワールドの話なのかって気もしないでもない )。

 『サンシャイン !! 』については、すでに熱心な方がたいへんまじめに考察しているサイトとかが複数存在しているから、ワタシなんかが口をはさむ余地なぞなにもないんですけれども、比較神話学者キャンベルの著作や映画 Star Wars シリーズとかとも相通じる思想が透けて見えるのはおもしろいところ。たとえばちかっちが「いちばん大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ!」言う場面では即座に「エピソード5」の 'Try not. Do. Or do not. there is no try. ' と修行中のルークを諭したヨーダ師匠の科白が脳内反射していた( ちかっちのほうが個人の自由意志を尊重しているのに対し、こちらはどちらかと言えば運命論的ではあるが )。あ、そういえば寺の娘の国木田花丸という子は、いちおう設定では「浦の星女学院」の聖歌隊員( !!! )だそうだ。どんな歌声なのかしらって Aqours のみんなといっしょに歌ってるずら( 文学少女で図書委員、という設定も個人的にはたいへん気に入っている。脱線失礼。ついでに花丸ちゃんが学校の図書室で手にしていたのは太宰治の短編集『お伽草紙』だったが、ちかっちの実家モデルになったのはもちろんその太宰が滞在していた老舗旅館で、『斜陽』の1、2章はここで書かれた )。

 最終話にも思いがけず、 13 世紀はじめごろにフランスのシトー会修道院で書かれたと考えられている『聖杯の探求』に出てくる「森のもっとも深いところ、道も小径もないところへとめいめいは出発した[ つまり、「めいめい、すでにだれかが通った道ではない、おのれの道を進んだ」]」と通底するような印象的な科白がまたまたちかっちの口から出てくる ―― 「 μ's のすごいところって、きっとなにもないところを、なにもない場所を、思いっきり走ったことだと思う。…… 自由に走るってことなんじゃないかな … 全身全霊! なんにもとらわれずに! 自分たちの気持ちに従って!」。このへんなんかキャンベルのモットー、「自分の至福に従え( Follow your bliss. )」そのまんまって感じさえする。

 アニメ作品も今月から第2シーズンが始まるので、こちらもますますにぎやかになりそう。いずれにせよ若い人たちがたくさんやってくるのはいいことだ、とくに作品の主要舞台である内浦や西浦木負(「にしうらきしょう」と読む )地区あたりとか。でもオトナの事情( ?! )なのか、せっかくほぼ忠実に現実の街並みとか描かれているのに、第6話で駅南口の「井上靖 詩碑」がそっくり別物に変えられていたのにはいささかがっかり。あのへんもサンシャインファンの方が「のっぽパン」とか食べながらくつろいでいたりするけど、碑に刻まれた「いまこそリアル」な文字もよーく見てちょうだいね。いちおう転記すると、
若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない[ If there is something more powerful than atmic power, it is love ; nothing other than the power of love. ]。


 先に挙げた太宰はじめ、井上靖に芹沢光治良、そして若山牧水と文人墨客に縁の深い土地でもあり、井上靖つながりでは映画化された『わが母の記』の撮影地でもある( 牛臥山公園とか )。Aqours と書かれた文字をたまたま見つけてそれをユニット名にしたという設定の島郷海岸はすぐその先に広がってます、ということでこのへんもご参考までに。

追記:最終話で花丸ちゃんが「黄昏の理解者ずら」とつぶやく科白。これは英語の of とおんなじで、「理解者」は発言者本人ともとれるし、相手、この場合は津島善子( 否、堕天使ヨハネか? )ともとれるけど、ワタシは前者ととりたい。「ありがとね」と予期していなかったことを言われ、ふだんは「ラグナロク( 苦笑 )」だの「リトルデーモン( 苦笑x2 )」だの、「あるナハト( nacht, なぜドイツ語 ?? )」だのとワケわからん「堕天使ワード」連発のある意味問題児の同級生は、じつはわかってくれていたんだ、と感謝してつぶやいたと考えるほうが文学大好きで創造力豊かな彼女らしい、と思うので。ついでに『サンシャイン !! 』第1シーズンはなんとも不吉な「 13 話」で終わっているけれども、キャンベルによれば 13 という数字は「変身と再生の数字」なんだそうですよ。どうりで第2シーズンが始まるわけだ。もっともこの物語は最初の『ラブライブ!』の主役の μ's の存在が大前提になっているので、いわばふたつの作品は「前奏曲とフーガ」みたいに切り離せない … ということだけれども、最初の作品を見ていなくてもじゅうぶん楽しめる内容にはなっていると個人的には思う。「地上に落とされた堕天使」つながりでは、じつはラテン語版『聖ブレンダンの航海』にも出てきますねぇ( → 拙ブログ記事参照 )。さらに脱線すると善子ヨハネが「堕天してしまった … 」とか動詞で使っているけれども、ほんらいは「だ・てんし」、「落とされた天使( fallen angel )」であるはず。

 いまひとつ、11年前の8月末に残念ながら沈没した「スカンジナヴィア」、旧船名 Stella Polaris 号の展示とかもしている「海のステージ」さんというカフェがあるんですけど、あるサンシャインファンの方の声かけで
2月、なんとファン数十名が集まって「スカンジナヴィア」の話とかを店主さんから聞いたりして一泊した、なんていう話まで地元紙に載ってました。これも「物語」の力かな。よもやこういうかたちで「スカンジナヴィア」号の記憶が、こうしてこの客船を知らない若い人たちに語り継がれてゆくとは! そういえば最終話だったか、Aqours のメンバーがトレーニングしている学校の屋上からキラキラ光る奥駿河湾の、「スカンジナヴィア」号がかつて係留されていたまさにその入江の水面が描写されていたのを見たとき、なんか感慨深いものがありましたね。