2020年06月30日

読んでみたら意外と…?

 国家安全保障担当補佐官になる魅力はどこにあるのか。たとえば、とほうもない分量の多種多様な無理難題が目の前に立ち現れること。混乱と不確実性とリスクにさらされ、情報の多さと迫られる決断、膨大な仕事に終始圧倒され、書ききれないほどの個性とエゴどうしの国際的・国内的なぶつかりあいのおもしろさ──こういったことが苦手な向きは、ほかの仕事を探すしかない。そして、まるでチグハグなやり方なのに各ピースがぴたりはまったときの爽快さもある。しかしこの爽快さを第三者に説明するのはほとんど不可能に近い。
 トランプ政権の変質について、包括的な説を提示することはできない。どれもあり得る説ではないからだ。とはいえ、トランプ政権の軌跡に関するワシントンの従来の知見は誤りだ。つねに突飛なのがトランプ、というのがひろく受容された事実であり、知的に怠惰な層にとっての彼の魅力でもあるが、大統領に就任して15か月間の彼はと言えば、真新しい場所における所在のなさと「大人たちの枢軸」に抑えつけられ、行動に対するためらいがあった。しかし時間が経つにつれてトランプは自信を深め、「大人の枢軸」も職を辞して物事はバラバラになり、トランプの周囲は 「イエスマン」しかいなくなった。
 いきなり失礼。これはいま全世界で話題(?)の、こちらの本の Kindle 版の第1章出だしから試訳をつけてみたものになります。

 いつものワタシらしくない? そう、つねづね「流行りものは見向きもしない」ことをウリにしてきた人間としては、なんだか不戦敗みたいな、「長いものに巻かれた」ような気もなくなくはない、のではあるけれど、とりあえず第2章途中まで読んでみて、読み物として意外とおもしろいなコレ、というのが偽らざる感想でありました。

 米国の現政権については、たとえば要職のひとつであるこの「国家安全保障担当補佐官」にしても、最初に就任したマイケル・フリン氏から現職のロバート・オブライエン氏まで、代行者もいれてなんと6人も入れ代わり立ち代わり交代しているという混乱ぶり。で、その入れ替わり立ち替わりぶりについて、もと「中の人」だったボルトン氏が詳細に記述しているのが、冒頭の章ということになります。全体のプロローグ的な書き方にもなっており、ここだけ読んでもけっこう楽しめるんじゃないかと思われます。

 とはいえこの本、当然のことながら、現代の米国政治ものが好きな人向けではある。この前、地元ラジオ局の朝の情報番組でアンカーを務めているキャスターがなんと! 「英語学習の近道として最近、多読がいい、ということが言われていますので、ワタシ、この本予約しちゃいました! で、さっそく読み始めたんですが…」、1行目の 'National Security Advisor' で1分ほど考えていたとか。この手の本を原語で読みたいというその意欲の高さはまことにあっぱれながら、たとえば「ラダーシリーズ」あたりから始めてみるのはどうでしょうか。いきなりコレは敷居が高かったかも …… もっとも話題の本ですし、番組前フリのネタということで紹介したエピソードなんでしょうけれどもね。

 ついでにわが国の防衛相殿もこの本を読むのを楽しみにしていたそうなんですが、「売り切れて手に入らなかった」とか。ハテ? Kindle 版ならすぐにでも読めるのに知らないのかな、とかよけいなお世話ながら思ったりもした。

 Kindle 本なんで気になったとことかどんどんマーカー入れつつ読み進めたんですが、たとえばまだ副大統領候補だったときに会ったマイク・ペンスは「筋金入りの強力な国家安全保障政策支持者。彼とはすぐ、外交と防衛政策上の幅広い問題について意見を交わした」とあり、ウマが合っていたらしいことが垣間見えたり、最初の国防長官だったマティス氏がオバマ政権時代の元国防次官ミシェル・フロノイ氏を副長官に推していたのは「理解しがたかった」と酷評していたり。また現政権の最初の国務長官だったティラーソン氏が自分を副長官に据えることにとんと無関心だったことについて、「私が彼の立場だったなら、当然、同じように感じていたことだろう[Of course, had I been in his shoes, I would have felt the same way.]」なんて典型的な仮定法の例文みたいな言い回しが出てきたり。

 個人的に笑えたのが、「トランプは大統領としてのブッシュ親子と両政権を忌み嫌っていた。そこで思ったのは、こちらが10年近くもブッシュ両政権に仕えてきたことを失念しているのではないか、ということだった。そしてトランプはころころ気が変わる。ケリーの説明にずっと耳を傾けていると、彼はよく逃げ出さずにいられるものだと思った」というくだり。いかにもって感じですな。

 こういう確実に売れる本というのは納期がキツくて、いまごろ訳者先生はネジリ鉢巻で訳出作業に当たっていることでしょうが、翻訳書と言えばなんと! ジョーゼフ・キャンベルのこちらの新訳もいつのまにか出ていたんですねぇ、これにはビックリした。まさか新訳が出るなんて予想もしてなかったもので … おそらく原書はこの拙記事で一部を紹介した本だと思う。こちらは近いうちに花丸氏御用達の本屋さんに行って探してみるつもり。

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2020年05月31日

ネット時代のパンデミック

 TV や新聞などで新型コロナ感染症(COVID-19)関連の報道があると、決まって「米ジョンズ・ホプキンズ大学によると」が、枕詞のように出てくる。そのソースとなっているのがこちらの特設サイトで、じつは 3月9日時点の拙記事で張った参照リンクも、じつはココでありました。個人ブログとしては、国内でもわりと早くここのサイトをリンクというかたちではあるが引用したんじゃないかなって思ってます。

 最近、COVID-19 関連で検索すると、「COVID-19 に関する注意」という但し書きがやたらと出現する。それだけデマないし「裏をとってない」信憑性の疑わしい情報源の引用が多い、ということなんでしょうが、統計数字にかぎって言えば、もし上記の同大学特設サイトを引いていないような Web サイトやブログ、ツイートだったら、話半分に聞いておくていどでよい、ということです。

 ところでここのサイト、地元紙とほぼおなじ内容のこちらの記事によると、同大学システム科学工学センターの女性准教授と、中国出身の大学院生のおふたりがたったの半日(!)で完成させ、公開にこぎつけたものだったらしくて、そっちにもビックリした。いまさっき確認したところ、3月投稿時とレイアウトがまったく変わってないことから、特設サイトの完成度もけっこう高かったんじゃないかって気がします。とにかくこれすごいですよ。数字関連で確認したいとき、ここの特設サイトは must です。

 COVID-19 がらみでは、なにかと評価の芳しくない日本の対応。厳格なロックダウン下に置かれたロサンゼルス市内に家がある超有名邦人アーティストには、「[日本は]狂ってる」とかなんとか言われたり。たしかに向こうの基準ではなにやったってそう見えるだろうし、「三密は避けましょう」などと、あいも変わらず曖昧な言い回しで茶を濁すのが大好きな国民性ですので、内心、忸怩たる思いはあるものの、かろうじていまのところは最悪のカタストロフィは回避できてるのかな、と。ただ、「第2波のただなかにいる」と発言している首長さんがおられますが、実態はただの「再流行」的なものであり、未知の感染症エピデミック / パンデミックの「第2波」と同一ではない、ということだけは言いたい。ほんとうの「第2波」は、残念ながらこれから襲来すると思う。高温多湿の真夏の日本でこのウイルスの活動がどうなるのかは神のみぞ知る、としか言えないものの、とにかく「第2波」が来る前にワクチンが開発されるようにと、それだけを祈っている。

 祈ってはいるけれども、ワタシは例の江戸末期の「疫病退散」妖怪ブームについては、なんだかなあ、と思ってしまう。英国発祥という医療従事者への拍手、もいいけれども、もっと大切なところはそこじゃないだろ、と感じてもいる。医療や介護、あるいは物流の過酷な現場で働かざるを得ないいわゆる「エッセンシャルワーカー」に対する世間の人びとの態度もまた、失望させられることのほうが多い。いまさっきも英 Financial Times 見てたらこんな記事があって(下線強調は引用者)、
Other ordinary jobs are suddenly perilous too. Chefs, security guards, taxi drivers and shop assistants are dying at higher than average rates from Covid-19 in the UK. The British government, desperate to revive the economy, has told millions to return to work. Little wonder many are scared to do so.
失職して困ってる人にとってはつべこべ言っていられない、というのが偽らざる気持ちとしてあると思うが、そう、そこなんですよね、この新型感染症のほんとうにコワいところは。この前、いつも行く理髪店で散髪してきたとき、ご主人はマスクだけでしたが、そのうちあのアクリルシールドもかぶらないといけなくなるかもしれないし、こっちもマスクがはずせなくなるかもしれない。あるていどは「新型コロナ禍以前の日常」にもどれるかもしれないが、パンデミック以前の世界は二度ともとどおりにはならんでしょう。こちらの意識を徹底的に変えるほかない。

 最後に、こちらの番組の感想をすこしだけ。気がついたら、未知の感染症パンデミックに世界が覆われていて、いままで当たり前だと思っていたことがつぎつぎと変更を余儀なくされる、あるいはまったく不可能になる。そんな「不安な時代」であっても、やはり人は「パンのみに生きるにあらず」な生き物ですので、どうしても精神を支えてくれるものが必要になる。クラシック音楽家も容赦なくこの感染症禍に見舞われて世界的に仕事が蒸発して、にっちもさっちもいかなくて困ってる人もいれば、自宅隔離状態になっている人もいる。

 でもたとえば、いまはやりの「Web 会議システム」とかを駆使して、活動休止中のオーケストラ団員が指揮者もいないまま在宅で、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』の「序曲」を奏でる、というのはなんとすばらしいことだろうか! そしてこれを動画配信サイトで全世界に向けて発信し、いままでクラシック音楽に縁のなかったリスナー層を取り込むことに成功してもいる。

 総じて、社会インフラとしてのインターネットの普及と、それを支える技術の急速な進歩によって、30 年くらい前までは実現不可能だったことがいともあっさりとできちゃったりするから、そういう点ではひじょうに恵まれていると言える。翻訳の仕事だってぜんぶネット経由で訳稿の納品ができますし(というか、紙媒体の納品はありえなくなっている)。その気になればなんだってできると思うんですよね。文字どおり empowerment だと思う。もっともオケなんかはやっぱりコンサートホールのライヴを聴くにかぎるんですが、たとえネット経由であっても、ひとりひとりの「想い」が真摯でパワフルであれば、それは聴き手にもズキューンと伝わると思うのです(個人的には、演奏家の自宅が映し出されるのも新鮮な感覚あり。とくにジャン・ギアン・ケラス氏のフライブルクのお宅の部屋、インスタのストーリーズに公開してもおかしくないほど「映え」てましたね)。

 その音楽はもちろんなに聴いたっていいんですけれども、かつて自分が病気で臥せっていたころは、ヘルムート・ヴァルヒャの弾くバッハのオルガン作品集の LP レコードが心のよりどころで、ヴァルヒャによってバッハ音楽の深淵な世界に誘われた気がする。上記番組では、世界に名だたる演奏家のめんめんがそれぞれの「想い」を胸にベートーヴェンやドビュッシー、フォーレの楽曲を演奏していたんですが、演奏してくれた全 10 曲中なんと 4曲がバッハだった。そう、こういうときこそバッハなんだよ !! 庄司紗矢香氏は「毎朝、瞑想と自分に向き合うために」バッハの一連の『無伴奏』ものを弾く、とおっしゃっていた。ピアノのラン・ラン氏はバッハ弾き、というイメージがあまりなかったんですけど、こんなご時世ではやはり「宇宙を思わせるバッハの音楽」一択、という趣旨のことをおっしゃっていて、バッハ好きとしてはたまりませんでしたね。

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2020年04月30日

感覚のズレの話

 先日、ここでもすこし触れたことですけれども、なんかここんところのハラリ氏、eagerly sought after ですね。ついに(?)Eテレでも対談がノーカットで放映されたり(じつはその前にもジャック・アタリなどほかのインテレクチュアルズとの「テレビ会議」方式のインタヴューとして放映されてはいたが)、いちやく「時の人」という感じです(こちとらはあいも変わらずだがそれは置いといて)。

 翻訳、ということではそうそう、全著作の日本語版の版権を持ってる版元さんから本家本元の全訳が出たので、お読みになった方もかなりおられると思う。あいにく拙訳版は、後半が有料記事扱い(契約先がそういう方針だから、これはしかたのないこと)だったから、あまり人目に触れずに( ?? )「なんだこの訳は ?! 」とお叱りを受けることもなかったんですけど、もちろん自分の勉強のため、こういう機会もめったにないから、時間があるときにじっくり突き合わせて検討はします。もっともっと、うまくなりたいからね。翻訳は 100 人いれば 100 通りの翻訳ができるものとはいえ、中田耕治先生の警句にもあるように、「世の中には、よい翻訳と悪い翻訳のふたつしかない」というのもまた真、なわけでして、つねに肝に銘じてはいる。

 前置きはこれくらいにして、放映された対談の率直な感想としては、おっしゃっていることはほぼ正しい、とは思う。ご丁寧に自分が訳した原文まで大写しにされ、「NHK 訳」も添えられていた。この対談はどうも Financial Timesの「緊急寄稿」コラム(そういえば日経からも抄訳版が出たとき、版権の扱いはどうなってんだろ、って書いたが、FT は日経の子会社だったことをすっかり失念していた)をベースに話が進んでいるようだったので、ようするにその文章を読んだ人間にとってはとくに目新しくもなんともなかった、というのが偽らざるところ。また、原文を読んだときにも感じていたのだが、「新型コロナ禍に乗じて独裁が正当化される恐れがある」とか、「個人情報を警察などの治安維持組織に渡すな」とか、「このパンデミックを乗り越えるには世界的な連携と連帯が必要不可欠、そうならなければ悲惨な結末が待っている」とか、はっきり言って常識的に考えればしごく当たり前なことしか書かれてないんである。当たり前だけども、いまの米政権なんか見れば、これがなかなかね! 言うは易く …… ってやつでして。だからアフター・コロナの世界のあり方の考察、という点では、たしかに説得力はある。

 それから'empowerment' も、重要キーワードなのでテレビ番組にももちろん出てきたけれども、市民 / 個人に「力を与える」というのは、狭義の「権利拡張 / 権限拡大」ってことじゃないずら! だからない知恵さんざ絞ったけれども訳しあぐねて、しぶしぶカタカナ語のままで通した。カタカナ語だけれども、コンテクストからわかるかなん、と思ったもので。対談でも、「ひとりひとりの負うべき責任」について明言してましたし。

 でもなんかこう、個人的にはモヤモヤがとれない …… いっときはやった「いつやるの? いまでしょ!」じゃないけれども、「ええっ! アフター・コロナの世界はどうあるべきか、ですって(『くまのパディントン』主人公のクマくんふうに) ?! それっていま言うこと ?? 」みたいな自分がいる。主張はごもっとも。「プディング令」の話なんか聞かされればね。でもたとえば、
戦争と考えるべきではありません。まちがったメタファーです。重要なのは人のケアをすることで殺し合いではありません。いかなる人も敵とみなすべきではない。戦争や戦い、勝利といったたとえは使うべきではない。
COVID-19 震源地になったとなりの大国ははやくも「勝利宣言」みたいなことをさかんに喧伝しているから、そこはまったく同感なんですが、「致死率はインフルエンザ以上」、「無症状感染者が知らずにうつしている」、「基礎疾患のない人でも一部は短期間で重篤化」、そしてなんといってもその最前線に立たされている医療従事者にとっては戦争以外のなにものでもなく、この新型ウイルス株の持つ恐ろしさを考えれば、あながち「誤ったメタファー」とは言えないんじゃないでしょうか。それにこの危機、まだ始まったばっかだよ。それよりも先日の地元紙に元静岡県危機管理監が寄稿した、
誰かの指示で避難するのではなく、自ら命を守るためには自らの意思で行動できる国民であることが求められている。自然災害と同様に今回の感染拡大に対しても、誰かの指示を待ち日常の延長からずるずる対応するのではなく、自らの意思で日常から非日常にスイッチを切り替えることができるかにかかっている
のほうが、自分としてはよっぽどストンと腑に落ちるんですわ(下線強調はいつものように引用者、以下同)。ハラリ氏の「監視政治体制を構築する代わりに、科学と公的機関とマスメディアに対する人々の信頼を復活させる時間はまだ残っている」という一節も、いまの日本と日本人はどうなんでしょ …… ってつい思ってしまう。福島の原発事故のときもそうだったけれども、国内の専門家もアテにならないし、せっかくストックしてある備品もけっきょく使われることなくホコリかぶったままになっていたとか、そんな話ばっかじゃないですか。そして、やめろと言われてもあいかわらず玉を弾いて遊ぶギャンブルに通い詰める市民たち。地元放送局のラジオパーソナリティーが、「タバコがあれば吸いますよ。この問題はタバコとおなじで、すべてなくすしか方法はない」とか言ってましたが、これはあきらかに「依存症」なんで、その病んだ精神状態を治療すればいいだけの話。こういう身勝手かつのほほんと惰眠を貪っているような手合いの「権限強化」をされたら、マトモに生きてるこっちが冷水を浴びせられる(ヤなこった)。

 けっきょく、ハラリ氏がもっとも恐れていることと、呼吸器の感染症に罹患して「昔の日本だったらキミはとっくに死んでた」とかかりつけの医師に言われた経験を持つワタシとでは感じ方がそもそもちがう、感覚がズレているだけなんだ、ということに思い至ったしだい。ハラリさんは警察国家にして世界有数のハイテク軍事技術の突出した監視国家のイスラエルに生まれ、いまもテルアヴィヴ に住んでいるから、そっちのほうがむしろ「重大事」だと感じているにちがいないから、こう訴えたかったんだな、と。でもいまのワタシにとっては、正論しか書いてないけれどもどこか虚ろに聞こえる歴史学者の発言よりも、むしろこちらの文章 ↓ のほうがビンビン心に響いてくるのであります。
…… ボタン一つ押せば答えが出てくる、面倒なことは専門家が何とかしてくれるという期待はここでは成り立たない。一人一人が責任を持ち、手を洗いなさいというわけである。…… 最先端技術は、微小なウイルスがいつの間にか体内に入り込むことを防げないのだ。反対に、幼子にもできる手洗いによって自分の体は自分で守ることができ、しかもそれは周囲の人、さらに同世帯の人を守ることになるのである。自己責任などという薄っぺらな言葉で表せるものではない。私が生きていくこと、仲間たち皆が生きていくことが大事であり、そこに自分が参加しているのである。…… 私たちは、ウイルスが存在する自然と向き合って生きているのだ。自然とは、具体的には地球(グローブ)である。
 これまで「グローバル企業」などの用語で使われていた、権力と金の力で世界を支配するという意味のグローバルではない。一人一人が自分の役割を意識して行動することで地球とつながる。皆で同じ危機に向き合っているのだという認識から思いやりが生まれ、現在問題になっている弱者へのしわ寄せや深刻な格差を避ける社会が生まれる可能性がある

[中村桂子 / 2020年4月 22日付「静岡新聞」朝刊 20 面から抜粋。カンケイないけど、おなじ紙面に「社会的距離」について、「目安はパンダ1頭分」なんてあって、苦笑させられた。あいにくこちらが見たことあるのはジャイアントパンダじゃなくレッサーパンダのほうなんで、とんとイメージがつかめず。流行語大賞候補になりそうな social distancing、言い出しっぺはなんとウサイン・ボルト氏らしいが、これを「物理的距離」、physical distancing にすべしと言われはじめたから、近いうちにそうなるかも]

最後に、『21世紀の資本』のトマ・ピケティ氏の論考も参考までに引いときますね。アフター・コロナの世界がどう転ぶのか、についてはこちとら 12 ポイントくらいの特大ハテナマークしか持ち合わせていないけれども、はっきり言えるのは、「個人に力を与えること / エンパワメント」以前に、引用した生命誌研究者の方の寄稿文のように、「いますべきことは自分の生命を未知のウイルスから守り、自身を守ることで世界にいるみんなを救う」ことなんじゃないですかね。これなくしてアフター・コロナの世界は云々、なんて語れるわけもなく、それにハラリ氏だってけっきょくのところ、そういう市民にひとりひとりがなりなさいよ、と言っているわけで(「国民は、科学的な事実を伝えられているとき、そして、公的機関がそうした事実を伝えてくれていると信頼しているとき、ビッグ・ブラザーに見張られていなくてもなお、正しい行動を取ることができる。自発的で情報に通じている国民は、厳しい規制を受けている無知な国民よりも、たいてい格段に強力で効果的だ」など)、矛盾もない。

 Eテレの番組の最後、夜の橋を通過する映像が流れていたけれども、そこに "Save Lives #FLATTENTHECURVE" という電光掲示板の文字が映し出されていたのがなんか印象的でしたね。

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2020年04月27日

トム・ハンクスとタイプライター

 COVID-19 がこれほどまでに世界で猛威を振るう、いわゆるパンデミック禍になろうとは、そしてつぎつぎと著名な音楽家や芸能関係者が斃れるとは、ほんの数か月前までだれひとり予測した人なんていなかっただろう。

 そんななか、米国の名優、トム・ハンクス氏も奥さんとともにこの新型コロナに感染した、との一報を聞いたのは志村けんさんが急死するすこし前のこと。それから …… 日本国内でもこの 21 世紀型疫病のパニックとでも言える状態に陥り、あれほど「PCR の全員検査は必要ない!」と、国民のほうではなく医師会(?)のほうしか向いてないのではという不可解な発言をワイドショーで繰り返していた某医師(といっても、現場には立ってないのね)が、ここにきてヤバいとでも思ったか、「PCR 検査を増やすべき!」旨に宗旨替えしたりと「専門家の言」なるものがいかにアテにならないかの証左を 2011 年3月のときとおなじく見せつけられたりと、ホントしょーもなく暗い話ばかり、出るのはお足とため息ばかり、な今日このごろではあるが、ここにきてふたたびハンクス氏のお名前を見かけて? と思ったら、この窒息状態をつかのまスカっと吹き飛ばしてくれる、なんとも heartwarming なすばらしいお話をおみやげに持ってきてくれた。

 ハンクス氏が COVID-19 に罹患したのは映画の撮影で訪れていたオーストラリア。で、全快(?)したのかな、とにかくお元気になられたハンクス氏のもとに、地元の8歳の小学生から手紙が届いた。なんでもその子はコロナという名前を持つ少年で、ハンクス氏の体調を気遣ったあと、パンデミックを起こしている新型肺炎ウイルスとおなじ名前のために学校でいじめられて悲しい、とあった。そしたらハンクス氏直筆の返事が来まして、自身が吹き替えで出演した有名なアニメ映画の科白の「ぼくはきみの友だち('You got a friend in ME.'、ついでにここの in は「なかで」ではなく of とおなじ同格の in で、字義どおりには「わたしという友だち」になる)」まで引用して(ワタシは有名な歌のタイトルを引いたのかと思った、どっちでもよいが)、なんとなんと、マニアなら垂涎の的であろう、スミス・コロナ製の手動式タイプライターまでプレゼントしちゃったんである !!! 

 ご本人のインスタ投稿、見たんですけど、なにこれスゲー、グランドピアノよろしくピッカピカじゃん!、とガラにもなくコーフンしまして、「にわか」タイプライター好きになってしまったほど。たまたまいま手がけている仕事がまさにそんな話だったものだから、よけいにうれしくて、文字どおり快哉を叫んでましたね。

 知ってる人は知ってるが、じつはハンクス氏、超がつくほどのタイプライター好き。好きが高じて買い足し買い足ししたタイプライターのコレクションなんと 180 台、らしい(新潮クレスト・ブックス特別冊子『海外文学のない人生なんて』インタヴュー中の、ご本人の弁から。ちなみに作家デビューもしており、短編集『変わったタイプ[2018]』が同叢書から出てます。カッコイイ人ってのは、なにやってもサマになるんですなぁ)。

 ハンクス氏、ついでにコロナ少年もタイプライター沼に道連れ(?!)にしようというのか、「使い方をまわりの大人に教えてもらって、返事を送ってね ♪ 」と返信まで所望。このサプライズにもちろんコロナ少年は大喜び、公開されている動画クリップとか見ますとほんと瞳を輝かせ、嬉々として黒光りする名機で 'Dear Tom,' と打ってました。

 ちなみにスミス・コロナやレミントンランドはタイプライターの製造元として一世を風靡した事務機器メーカー。年代ものの手動式完動品は中古のノートPC なんかよりはるかに高くて、きっとこれもお高いんだろうなぁ、となんか下世話なことも思ってしまったしだい。ワタシだったら、仏語や独語などで使用される「アクセント記号」も打てる「デッドキー」を備えた欧文仕様タイプライターがほしいかも……インテリアどまりになりそうですがね。

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2020年03月30日

ハラリ氏の FT 寄稿コラムについて

 けさ、コメディアンの志村けんさんの訃報に接して──みなさんそうでしょうけど──病歴や年齢、ヘビースモーカーでもあったことを思って案じてはいたんですけど、やはりショックを受けています。「オレみたいになるなよ! みんなはだいじょうぶかぁ〜〜 !!」と、身をもって警告しているのかもしれません。合掌。

 … 警告、ということでは先週、大急ぎでと言われて渡されたのが、こちらの原文記事。寄稿した先生は、世界的ベストセラーにもなった労作を世に問うたイスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏。原文は見てのとおりきわめてやさしく書かれていて、とりわけ新聞とか目を通さないであろう若い人にも読んでほしくてこれ書いたのかな、と思うほど論旨明快、主張されていることもしごくまっとうで、不遜にもこれはぜひワタシがやらねば、という意気込みのままいっきに訳出した、という感じで作業を進めました(英語の先生らしい方の、高校生のみんなもぜひ読んでみて、という趣旨のツイートも見かけました。ワタシもまた、英語の得意な生徒さんは学校もお休みだろうから、ヒマ持て余してるくらいならハラリ氏の原文をじっくり読まれることをつ・よ・くオススメしたい。アドヴァイスとしては、いわゆる「一語対一語」ではなくて、あくまで前後関係、むずかしく言うと「コンテクスト」で文意は決まるので、パラグラフ・リーディングというのを意識して読んでみてください。何度か目を通しているうちに、「そうか、わかった!!」っていう瞬間が来るでしょう。で、「ハラリ先生の英文がオラにも読めた!!」ってなればしめたもの。あとは興味の赴くまま、ペーパーバックでもなんでもいいからとにかくいっぱい読んでみることを、そのつぎにオススメしておきます)。

 で、新年早々、まだ COVID-19 が話題にものぼらず、よもやこんなパニック・恐慌状態に全世界を陥れようとはつゆほども思ってなかったころに海外逃亡した例の方の原文6千ワード超の記事をせっつかれて訳していたときの記事でも書いたように、やはりこちらもヤフトピさんに取り上げていただいた。それはよかったんですけど、レバノンに逃れた人の記事以上のものすごいコメント量にこんどは圧倒されて、あらためて翻訳という仕事の責任の重さを痛感したしだいです(もっともっとがんばらないと …)。

 それで、こんなこと告白するとあんまりカッコよくないんですけど、原文には突拍子もない比喩もなければシェイクスピアや聖書の引用もなくて(なんたってイスラエルの人ですし)、たしかに平易に書かれてあるとはいえ、訳語選定でもっともアタマを悩ませたのが、'empower/ empowerment'。コラム後半部でもっとも重要な主張のひとつであり、キーワード的なこの用語、いろいろ考えたんですけどなかなかすんなり・しっくりくる日本語に思い当たらず …… 編集サイドに迷惑がかかるかもと後ろ髪引かれる思いで、そのままカタカナ語表記でいくことにした。

 コメント欄見たらやはりそのことを指摘されていた読み手の方がいて、こちらはアタマ掻きつつ読ませていただいた。断っておきますけど IT 系やすでにカタカナ語化している外来語ではない、こなれていない横文字語はきょくりょく、日本語表記化するというのがいちおう、自分のスタイルなので、これは忸怩たる思いが残った。いまはやりの「民度[を向上させる、など]」というのもよぎったんですけど、民族主義的なかほりがイヤだったんで、ボツ。個人の力・権利・能力・リテラシー……ようするに、全体主義中央集権的「総監視国家、総監視社会」を選ぶのではなく、個々人の持てる力を底上げすべきだ、ということなんですけど……。なおこの点に関して、やや理想主義的かもと感じたりもしたが、主題が現下のパニックな状況をどうサヴァイヴするのか、というのではなく「その後の世界はいったいどう変わってしまうのか」、コロナ後に人類が生きる世界はどうあるべきかを考察しているので、「どっちを選ぶかと言われたらみなさんどっちをとる?」という流れで書かれているのだと(訳した本人は)解釈した。

 そのときは気づいていなかったが、この手の話題の書き手によるコラムが掲載されると案の定、腕に覚えのある方が率先して訳を起こし、公開していたことも拙訳記事公開後に知った。あいにく、「オフィシャルな邦訳が出たから」という理由でご自身の訳は引っこめてしまわれたみたいですが、版権の関係はたしかにあるけど、個人訳であっても前半だけなら大丈夫ではないでしょうか。前から繰り返して言っていることだけれども、翻訳っていうのは「100 人いれば 100 とおりの翻訳ができあがる」もの。いろんな人の、いろんな訳が読めるほうが数倍、楽しいと思うんですけどどうでしょうか(なお全体主義関連では、こちらの邦訳本もおススメします)。

 と、そんな折も折、NK 新聞が独自訳? をぶつけてきたらしい。出版翻訳の場合、「日本語翻訳権は版権を獲得した一社のみ」で、ほんらい他社からは出せないはずなんですけど、この手の洋新聞や洋雑誌の電子版記事や寄稿コラムのたぐいは権利関係の扱いがどうなってるのか、よくわかりません。こちらはただ、「つぎ、これ訳してね ♪ 」と言われて引きこもって黙々と訳を起こして〆切日までに納品する、というのが仕事なんで。

 先方に怒られるかもしれないけど、ハラリ氏の寄稿コラムの冒頭部のみ、拙訳版と NK 版訳とを並べておきます。冒頭部のみなのは、サブスク契約会員限定記事のため(拙訳版は、ヤフトピさんの転載記事をそのまま引いてます)。
ハラリ氏の原文:Humankind is now facing a global crisis. Perhaps the biggest crisis of our generation. The decisions people and governments take in the next few weeks will probably shape the world for years to come. They will shape not just our healthcare systems but also our economy, politics and culture. We must act quickly and decisively. We should also take into account the long-term consequences of our actions. When choosing between alternatives, we should ask ourselves not only how to overcome the immediate threat, but also what kind of world we will inhabit once the storm passes. Yes, the storm will pass, humankind will survive, most of us will still be alive − but we will inhabit a different world.

拙訳:現在、人類は世界的な危機に直面している。我々の世代が経験する最大級の危機だろう。
この先の数週間、人々や政府の下した決断が、今後の世界のあり方を決定づけるかもしれない。その影響は医療制度にとどまらず、政治、経済、文化にも波及するだろう。決断は迅速かつ果敢に下されなければならないが、同時にその結果として生じる長期的影響も、考慮すべきである。
どんな道を選択するにせよ、まずもって自問すべきは、直近の危機の克服だけでなく、この嵐が過ぎ去った後に我々の住む世界はどうなるのかということだ。……

NK 訳:人類はいま、世界的な危機に直面している。おそらく私たちの世代で最大の危機だ。私たちや各国政府が今後数週間でどんな判断を下すかが、今後数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化をも変えていくことになるということだ。……

 …そしてハラリ氏の名コラムとはまるでカンケイないことながら、同氏の全著作を訳しおろした先生は個人的に存じ上げている。はじめてそのお姿を拝見したのは、たしか翻訳関係の授賞式だったような(記憶があやふやで申し訳なし)。……あれからウン十年、憧れの先達と、それもまったくおなじ原著者の手になる寄稿コラムをよもやこんなかたちで訳す巡りあわせになろうとは。翻訳、とくに文芸ものの翻訳ってたしかにおカネにはあまりならない、日陰仕事ではあるかもしれない(もしワタシが特許関係の翻訳の資格を持っていたら、まちがいなくおカネになるのはそっちなので、そっちをメインにやっていたかもしれない)。でも、ヘタのなんとかではないけど、なんでいままでつづけてこられたか。それは μ's の矢澤にこじゃないけど、「翻訳が大好きだから」。だから、いま将来に見通しが立たなくて絶望している若い方に対して、前にも書いたことながらおなじことをふたたび言いたい ── こんなこと言うとまたしても怒られそうだけど、ワタシだっていつ斃れるか知れた身ではないから、いまのうちに ── 生きていれば、きっといいこともありますよ。だから、とにかく生きてください。

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2020年03月09日

沈黙の春 2020

 世界保健機関(WHO)のお偉いさんが、「新型肺炎ウィルス[COVID-19]の世界各地における epidemic な流行のため、医療用マスク供給に数か月の遅延が発生している。だから "widespread inappropriate use" はやめるように」と、記者会見で発言していたらしい(誤解なきようここでも断っておきますが、今回の事態はまだ世界的大流行、つまり pandemic ではなく、リンク先記事にもあるように現時点はまだ "the coronavirus epidemic" にとどまっている。世界における COVID-19 のリアルタイムの状況についてはこちらを参照)。

 こんな物言いを聞くと、世界的なマスク不足がなんかワタシのような花粉症持ちの人間のせい、みたいな言い方のようでちょっとどうかと思ったり。メディアもメディアで、このエチオピア人の WHO トップのとなりに座ってたライアンという人が、「マスクをしたって予防にはならない」と発言しただけなのに、なぜかマスクは不要なのかという、「マスク不要論 / 役に立たない説」に加担しているしまつ(そうは言ってない)。

 基本的に欧米の人ってよっぽど具合が悪くならないかぎり、マスク着用の習慣がないし、もしマスクつけて外を歩けば、とたんに白い目で見られる国がほとんど(聖ブレンダン関係で大のアイルランドびいきだけれども、この件についてはおそらく似たかよったかでしょう)。

 前出の「ガーディアン」記事を見るかぎり、この発言は「医療従事者でさえマスクや防護服が足りなくてたいへん困っているから、ほんとうに必要ではない人は使用するな」という趣旨だったことがわかる。なのにメディアやワイドショーではさも「WHO トップが《マスクは不要》と言っているが … 」みたいな振り方をしている。fake news ってこうして始まるんですな。

 新型肺炎騒動は収束するどころか、世界経済全体にも暗い影、『スター・ウォーズ』シリーズじゃないけどまさしくPhantom Menace となって覆いはじめた感がある。専門家でさえ意見が1週間前と後で変わってたりして、とにかくシッポをつかむのがこれほどむずかしい、タチの悪いウィルスははじめてだ。そうは言っても、いくら SARS の経験が日本国内でなかったからとはいえ、SARS 禍を経験済みの台湾[中華民国]はそれなりに成果を上げているのだし、日本ももっと学ぶことはあると思う(ついでに、いまのお医者さんはかつての肺結核も含め、感染症の恐ろしさを肌身で知らない人がほとんどだということも、対策が後手後手に回った一因かと個人的には感じている)。

 今回、こうした事件が起きてもっともつよく感じたのは、人間という動物の本性。自他ともに認める西洋かぶれでさえ、たとえばローマのサンタチェチーリア音楽院の院長みずから、「東洋人学生のレッスンはすべて停止する」旨の通達を出した話にはポカンと口が開いてしまう。ふだんはオクビにも出さないくせに、いざこういうことになると手のひら返して「ウィルスだ、ばっちぃ !!」とわめきたてる大衆。もっとも人種偏見は日本人も人のこと言えないから、こういうときはあるていど起こることなのだろうが、言われたほうはたまったもんじゃない。

 また、こうした浮足立っているときは必ずと言ってよいほど、根拠のないデマが流れる。今回もまたしかりで、いつぞやの石油ショック(!)よろしく、トイレットペーパーがまたぞろ店頭から消えた。なんでこうなるのか、ホントこちらの理解を超えているのですけれども、歴史を顧みれば、とにかくこういうことが繰り返されてきた(メアリ・ヒギンズ・クラークのスリラー小説『子どもたちはどこにいる』に、ほぼ 100 年前にパンデミックを起こしたインフルエンザ「スペインかぜ」のことが出てくる。よもや 100 年後にこんなことになろうとは …)※。

 こういう「不安な時代(ハイドンの作品に、『不安な時代のミサ』というのもある)」に決まってぞろぞろ現れるのが、デマゴーグ、そして火事場泥棒を働く者たち。たしかに首相の判断はクソだった。なにいまごろ入国規制してんだよ。ごもっとも。でも、あなたはどうなんですか、という問題も忘れてはならない。個人を責めてるんじゃない。たとえば仕事ならしかたないところもあるが、この時節柄に遊びでとなりの国に行ってきて、いざ帰ろうとしたら日本政府側から足止めされて困った、とはどういうことか。門外漢にはまるで理解しがたし。自分ごととして考えてないからなんでしょうね。

 30 年くらい前だったか、パレスティナとイスラエルがドンパチやっているその「戦闘」のただなかに、これまたなぜか? 日本人の新婚さんらしいカップルがふらふらっとやってきた。それまで撃ちあっていた双方の兵士が呆気にとられ、なんとも間の抜けた空気が流れた「珍事件」があった、という話を読んだことがある。ホントかどうか、確かめようがないけれど、もしこれが事実ならばこの話ほど日本という島国に生まれ育った人間の本質があぶりだされている話もないではないか、って思う。はっきり言いますが、いまこのときに、人類にとって未知の新型感染症が地域的流行を起こしている国や地域に行くべきなんでしょうか? 他者を責める前にいま一度、よくよく考えてくださいね、というのがウソ偽りない気持ちではある。

 子どもたちも気の毒だし、なんたって受験シーズンを直撃した今回の新型ウィルス禍。春のセンバツをはじめ大相撲やマラソンが縮小開催されたり、人の集まるイベントは軒並み中止、まるで9年前のあの日のようだ(原発処理もまだまだなのに…)。その追悼式典まで中止になってしまった。

 はやく混乱が収まることを祈るしかないが、最後に、日本とおなじく一斉休校措置となったミラノの校長先生が、イタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニを引いたメッセージには胸を突かれる思いがした ──
外国人に対する恐怖やデマ、バカげた治療法。ペストがイタリアで大流行した 17 世紀の混乱の様子は、まるで今日の新聞から出てきたようだ」。

※ …… 引用書名をカン違いしていたため、悪しからず訂正しました。
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2020年02月20日

『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 先週末、前にも書いたとおり『スター・ウォーズ エピソード9』と『ラブライブ! サンシャイン!! Over the Rainbow』の 11 回目鑑賞をしてきたばかりというのに、こんなニュースがそれこそ「藪から棒」に飛びこんできた。

 まず結論から申し上げると、個人的には猛烈に怒っている。というか、いまから 85 年前にスペインの思想家オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)が代表作『大衆の反逆』で書いたような、そのまんまの展開に戦慄さえ覚えた。こんなことを野放しにしていたら、芸術文化活動全体に波及しかねない。というわけで、この悲しいニュースを知ってからはずっと悶々として過ごすこととあいなってしまった。

 こんな「フェイクニュース」の発信源はだれか、はこのさいどうだっていい。知っている範囲で書くと、「多様性」と HN に謳う一個人が、悪名高き SNS の Twitter(ほら出た …)上で、「なんでこのポスターに描かれている女の子のスカートは透けているの…?」とじつにかる〜〜い、のほほんと発信した一文がことの発端。するとこの「声」に呼応するシス・エターナルよろしく、非難の声が澎湃(どうせ読めないだろうからルビィちゃんふっとくわ、「ほうはい」ね)と同 SNS 上で沸き起こり、とうとう当事者の JAなんすん(ご苦労さまです)がすべて撤去した、というもの。フェミニストだかなんだか知らんが、この人たちの炯眼ぶりには『トムとジェリー』じゃないが、アゴが地べたにくっつくほどに、まっこと驚くほかなし。JA さんにはせめて、「安心してください、穿いてますよ!」のユーモアひとつくらい、あってもよかっただろう。

 彼らの主張ないしその結果について、問題点がいくつかある。まず、1). 非難の矛先を向ける先をまちがえている。「描き方が不穏当」と言いたければ、どうぞ制作会社にその旨お伝えください。不特定多数の第三者に向かってこういう不用意な発言をして知らんぷり、というのは、まさにオルテガの言う無責任な「大衆」そのもの。いや、これは「一億総トランプ化」なのか(ワタシが小学生だった当時、下田市にやってきたジミー・カーター元米国大統領は現職大統領に対し、「Twitter をやめろ!」と言ったそうな。むべなるかなではある)? 
…… 社交においては「礼儀作法」が姿を消し、文学は「直接行動」として罵詈讒謗に堕している。……
 手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理! これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。…… 文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこっていた時代であったのである。
──── オルテガ・イ・ガセット / 神吉敬三 訳『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫刊、いつものように下線強調は引用者)から

 2). 「表現の自由」=何を言ってもかまわない、匿名なら何を言ってもおとがめなしと思いこんでいる。かつてアイルランドのケルト人氏族は、人間のことばの持つ力をたいへん恐れていた。相手を呪えばその呪いが矢となって相手を射抜くとさえ考えていた。ひるがえって SNS 全盛のいまはどうか。情報が情報が、と言いながら、そのじつ情報の最小単位たる「ことば」がこれほど軽んじられ、悪用されている時代などかつてなかったのではないか。Twitter に関してはホントは言いたいことがいろいろあって、それはまた別の機会に書くつもりだが、よく耳にする「災害時に威力を発揮する」なんていうのも幻想に近い。最近の身近な例を引くと、台風 19号が伊豆半島に上陸したとき、「狩野川の氾濫が始まったようだ」というデマを見かけたことがある。北伊豆地区を中心にたしかに甚大な浸水被害は出たけれども、じっさいには「内水氾濫」のたぐい。狩野川の堤防はしっかり持ちこたえていた、なんてことがありました。こっちも垂直避難を考えていた矢先だったので、さすがにこのツイートには凍り付いたが、こういうときにもっとも役に立つのは TV の「データ放送」だ、ということを再認識させられた。もっとも Twitter だってツールですので、「助けてくれ!」と発信すれば、だれかの目に留まる可能性はある。でも、個人的にはこういうじつにクダラナイことでただ無益に時間を浪費するだけの壮大な資源と労力の無駄遣い、という印象しかない。人生はあっという間に終わるよ。

 以前、おなじ SNS 投稿の内容でも Twitter と Instagram でその反応が正反対になった、という海外のおもしろい報道を読んだことがあります。前にも書いたかもしれないが、写真好きなワタシは Instagram はけっこう好きでして、ヒマなときはよくみなさんの作品とか見ていたりする。おなじ SNS でなんでこうも反応が分かれるのかっていつも感じるんですけど、ひとつは「文字ならだれでも表現可能で、すぐ反応があるから」というのがその根底にあるように思う。写真ってだれでも撮れるようでいて、そうでもない(もっとも、日本人だから日本語の文章を書くのはかんたんだ、と思ったらそれはちがう。いまじゃ漢字も知らず、「心のおけない」も誤解する読み手が大多数で、国籍不明語ばかりが跋扈する)。

 3). 一連の示威行為は威力業務妨害。一部の悪質なクレーマーのせいで、ほんらい、果たすべきタスクが正常に終わらない、もしくは遅延を被った場合、これは威力業務妨害ではないのか。あろうことか、弁護士を名乗る人間まで、「スカートが透けている」に乗っかって攻撃している。そこで先生方にお尋ねしますが、あなたがた、高海千歌のスカートが「透けて」いるのはだれが見てもまぎれもない「事実」でしょうか? あるいは、この PR ポスターのせいで、だれかが明らかに損害や苦痛を被りましたか? 法廷ではこういった事実の「証明」が必須かと愚考しておりますがいかが? もしあなたがたが証明できない場合、あきらかな「誹謗中傷」に当たりませんか? 弁護士って人権とか差別とか、まずもって弱者を擁護する側であって、「多数という驕り(「100分 de 名著」NHK テキスト『大衆の反逆』の表紙から)」に味方することではないと思いますがいかがですか。

 最後に、この『ラブライブ!』シリーズを誤解している向きがホント多くてそっちにも驚いている。聖地民のひとりとしてこの作品を通じて個人的に感じたこと、それは劇場版『Over the Rainbow』で Aqours のメンバーのひとり、渡辺曜のいとこの渡辺月の科白とまったくおんなじことだ。
気づいたんだ。ぼくたちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことを Aqours が、Saint Snow が気づかせてくれたんだよ。ありがとう ……

 2018 年の暮れ、Aqours の声優さんたちが紅白のアニメ枠で出場したとき、さる女性芸能評論家が作品を観たこともないのに、「メイドカフェみたいな格好で出場するとはどういうことだ」とコキおろしていたことがあった。こういうのを偏見差別と言うんじゃないですか。オタクがどうのこうのとのたまうのも侮蔑表現やね。あなたたち一度、ここ沼津に来て視察でもなんでもすればよろしい。地元の人間からクレームが出ていないのに、あることないことないまぜにしてフェイクニュースをばら撒き、せっかく築き上げてきた「宝物」をこれ以上、ぶち壊しにする権利などだれにもないはず。この作品をきっかけに結婚された方、移住された方、写真をたくさん撮って地元民でさえまるで気づいていなかったすばらしさを表現してくれた方、ドイツやポーランド、香港からはるばる「なにもないところ」だと思いこんでいたこの街に「まちあるきスタンプ」や缶バッジをたくさん付けて観光に来てくれる海外のファンに対し、失礼だと思わないのか。また彼らは、長井崎のすぐ下の入り江に停泊していた「スカンジナビア」号の思い出さえ、蘇らせてくれた(「浦の星」の「星」は、おそらくスカンジナビアのもとの船名「ステラ・ポラリス[北極星]」からではないかと言われている。また TV アニメ第2期オープニングに登場する「桟橋」状の背景も、かつてスカンジナビアにつながっていた桟橋がモデルらしい)。それが、自称「おもてなし」精神の民族の態度なのか。片腹痛い、片腹痛いですわ! 『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 不肖ワタシだってこの作品に出会い、芹沢光治良から内浦の地理・歴史にいたるまで、制作スタッフのリサーチの本気度の高さに心打たれて、こちらの記事でも書いたように、『《輝き》への航海 ── メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』という小冊子まで書いてしまった。それもこれもみな、「楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ」ということを教えてもらったからだ。
「生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から
 ひとつ補足事項。Aqours の前の物語の主人公 μ's を描いた『ラブライブ!』でも、やはりネットのデマで炎上した案件があったらしい。また、「卑猥だ」と言っている人は、こちらのキャラについてはどう思ってんのだろうか。

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2020年02月17日

'Some things are stronger than blood.'

 先月と今月、劇場の「サービスデイ」にて『スター・ウォーズ』サーガの最終エピソード、「スカイウォーカーの夜明け(もちろん「字幕版」で)」を観てきました。きみまろさんじゃないがこれでもかれこれ 42 年、日本初公開作だった「エピソード4 新しい希望」以来、『スター・ウォーズ』シリーズはずっと映画館で観てきた口なので、「ああ、これでやっと終わったか」という安堵のほうが大きかったりする。壮大な物語の結末を生きて見届けることができて、まずは感謝、といった気持ちが正直なところ。

 で、のっけからなんですけど、なんですかコレは、え? みたいな話の展開。銀河帝国元皇帝パルパティーンが生きていたですと ?¿! おなじみのタイトルロールからして 'The dead speak!' なんて思わせぶりな一文で、すべてちゃぶ台返し(古いか)で始まった感じ。でもよくよく見ると当のパルパティーンはなにやら生命維持装置みたいな機械にスパゲティ状態でつながっているわ、白目むいているわで、いわゆる living dead、生ける屍状態なのかしらとも思った。どうもシスのアジトのエクセゴルという惑星は、シスのカルトたちがパルパティーンのクローンかなにかを用意していて、マスター・ルークの父親アナキン・スカイウォーカーにもどったダース・ヴェイダーによって第2デススターの底なしリアクターシャフトに投げ落とされ、「自爆」したはずのパルパティーンの「霊魂」をこっちの不完全なクローンに転送した … のかもしれない(あまりに唐突な展開だったので、作中のレジスタンスの科白などから推測するにどうもそういうことらしい)。で、このゾンビなパルパティーンはその証拠にラスト近くで「ほんらいの自分」を取りもどしたベン・ソロとレイの若いふたりからエネルギーを「吸い取って」パワーアップ。しかもいつの間にか生命維持装置を離れて自分の足でしっかり立って、はるか上空に展開するレジスタンスの船団に向かって強烈な電撃攻撃を仕掛けたりする。

 今作はワタシのようなオールドファンから見ると、懐かしい科白があっちこっちで顔を出していたり(「イヤな予感がする['I have a bad feeling about this.']」、「フォースのダークサイドは超常的にも思える多くの能力に通じておる['The dark side of the Force is a pathway to many abilities some consider to be unnatural.']」とか)、これまでの要素ぜんぶ出しの大盤振る舞い、みたいなファンサービス? も観ていて感じましたね。

 このシリーズでは超有名な「フォースとともにあらんことを['May the Force be with you.']」のような印象深い科白、心に刺さる名科白がたくさん生まれてもいますが、最終章ということだけあって、今作もまたけっこう印象的な言い回しが多かった気がする。たとえばルークがレイに語りかけていた場面で出てくる「血のつながりよりも強いものがある('Some things are stronger than blood.')」、かつての同盟軍将軍ランド・カルリジアンの「われわれには仲間がいた。だから勝てた['We had each other. That's how we won.']」、C-3PO が全記憶を消去される直前に繰り返した「この作戦が失敗すれば、いままでやってきたことすべてが無になってしまう['If this mission fails, it was all for nothing. All we’ve done. All this time.']」とか。

 あとやはり「自分はシスのすべて」だと言い放つパルパティーンに対し、「わたしはジェダイのすべて」だと言い返したレイとの直接対決が印象に残ったかな。フォース+「それまでの戦いで斃れた全ジェダイ騎士の霊」とに支えられて「立ち上がった」レイが、ベンから受け取ったレイアのライトセイバーとルークのセイバーとを「十文字」にして立ち向かう。またしても自分の放った強烈な電撃をハネかえされ、逆にそれをモロに喰らって、なんか最後はシェイクスピアに出てくる 'hoist by one's own petard' という表現そのまんまか、あるいは断末魔を上げつつ吹っ飛んでしまうパルパティーンの正真正銘の最期の描写が、まるで古代ギリシャ悲劇もどきにも思えたり。ついでにエクセゴルのパルパティーンのいた場所ってずいぶん地下深く、というか地底王国の最深部みたいなところでしたね。あれなんかもたとえばダンテの『神曲 地獄篇』っぽい感じがしないわけでもない。中世ヨーロッパでは「ルシファー[Lucifer、もとは「光をもたらす者」の意]」がいた場所が地上楽園の対蹠地にして当時考えられていた地球の最深部に位置するインフェルノ、火炎地獄だったけれども、エクセゴルのシス拠点は「光をもたらす」とは真逆の闇の深淵。このへんも、どこかメタファー的な描写手法、のような解釈も可能かと思う。

 で、今作のストーリーとまったく関係ない余談ながら、レイがシスの権化たる自分のじいさん(!!!)をやっつけてしまうシーンは、これまたどっかで観たことがあるような … そういえば昔、ドラキュラ伯爵とその宿敵、ヘルシング教授との対決が、まさしくこんな感じだった。なんでかってあの「十文字」に結んだライトセイバーがね …… で、かつてドラキュラ役で出演した故クリストファー・リーと、ヘルシング役の故ピーター・カッシング、お二方ともなんと、『スター・ウォーズ』シリーズにしっかりと出ているんですよね。カッシングについては、旧帝国軍のターキン提督役を覚えている向きも多いと思う。

 いろいろ映画の感想とか拝見しますと、「けっきょくパルパティーン家 x スカイウォーカー家」の対決の系譜に全銀河が巻き込まれただけじゃん、みたいな見方もあって、たしかにそういうふうにも見えるかもしれないけれども、むしろこの「エピソード9」でもっともつよく訴えたかったのは、やはり 'Some things are stronger than blood.' だったのではないかと。そして『サンシャイン!!』じゃないけど、最後の最後まであきらめないってことですかね。個人的には「ダース・プレイガス」とかも登場してほしかったところ。お話としてはこれにて完、でこれはこれでいいとは思うが、なんかこう消化不良感が否めない。パルパティーンの復活からしてそうですし。それとミディクロリアン云々 …… なのかはわからないが、死んだはずの人間がよみがえったりとスペースオペラのはずがどことなくオカルトっぽい脚色も感じられて、「はて、『スター・ウォーズ』シリーズってそういうのだったっけ?」というのも率直な感想としてはありました。どうせここまで踏み込むのならプレイガスあたりにもなにかひと言、しゃべらせてもよかったのでは、とつい思ったり。もっともストーリーじたいはとてもすばらしいと思っているので、「再・続編制作決定!!」っていうのはナシでお願いしますぜ旦那(とても体がもたないので、これ以上はカンベンして)。それとジャナという若い女性戦士、ひょっとしたらランドの娘? かもしれませんねぇ。

 最後に、邦題の訳について。原題の The Rise of Skywalker は ↑ でもそれとなく書いたように、レイがいまは亡きジェダイの騎士たちの声に支えられ、力を得て「立ち上がる」ことを表現したものですが、ではなぜ「夜明け」とまるでイメージの異なる訳語を与えたのか? 最終シーンはルークの育った砂の惑星タトゥイーンに沈む双子の夕陽ですし、なぜ、とも思うんですが、「《夜明け》で行こう」となるまでにはそうとうな紆余曲折があったはずで、当事者はタイヘンだったと察します。「スカイウォーカー、立ち上がる」ではとんとイメージが湧きませんし、じゃどうするか。ジェダイの再興 ⇒「黎明」⇒「夜明け」⇒「新時代の到来」、古い世界が滅んで新しい「夜明け」がレイ・スカイウォーカーとともにやってきた、みたいなイメージ戦略だったのかなと思ったんですけど …… ちょっと気になったもので。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2020年01月20日

Ghosn is GONE !! 

 年末年始、↑ の方のかなり長め(原文で約6千語)の取材記事を訳出していたちょうどそのとき、ま・さ・か・の海外逃亡劇発生! で、こちらの予想どおり(?)クライアントさんから「悪いけど最短で入稿してほしい」旨の督促が。というわけで、短時間勤務 + こっちの納品で正月どころか、ホントぶっ倒れそうになりました。orz

 で、ワチャワチャしながらも入稿した訳出記事が、やはり年末年始もっとも注目された国内ニュースのひとつなのはまちがいない、ということもあってか、いわゆる「ヤフトピ」にも転載されてました。自分が手がけたこの手の翻訳仕事で「ヤフトピ」さんに転載されるのはこれまでも数回、あるにはあったが、なんせ日本中の人を敵に回したかのようなこのトンデモおっさんのトンずら劇のこと、コメントがハンパない(ずらぁ〜!)。

 こちらがこさえた訳文にはもちろん編集の手が入って、チェックも受けて晴れて掲載、とあいなるのですが、以前にも書いたように「全訳一挙掲載!」のようにとくに断わりのない邦訳記事はすべて「抄訳」扱いになります。だからといって原文を書いた記者ないしコラムニストの言っていること、趣旨じたいには影響のないように微妙なサジ加減はしっかり利かせているので、とんでもなく論旨からかけ離れた、明らかに別物、というのはほとんどないはずです。

 ただ、今回のような急ぎの仕事、たとえば出版系なら映画の原作ものとか「著者来日、緊急出版!!」みたいなたぐいにはある意味しかたないかもしれないが、その限りではない。昔の実例だと『大国の興亡』なんかが代表例かもしれませんが … このへん、翻訳者の仕事を奪うのではと危惧されてもいる AI とか、MT と呼ばれる機械翻訳テクノロジーがさらなる進化を遂げれば、現在ではとうてい不可能な短期間の納期でそれこそ「早い、安い、うまいラーメン」よろしく、「へい、一丁あがり!!」な翻訳商品を仕上げられるようになるのかもしれません。もっとも、どうなるのかはわかりませんけれども。

 転載記事のコメント欄ですけれども、内心、ちょっとドキドキしつつも拝見させてもらいました。で、思ったんですが、記事の内容よりも、日本語版の記事タイトルがお気に召さなかった方がたくさんおられたようでして、「大企業のトップに友だち、ハァ ?! なに言ってんだこの記者、大企業トップが孤独なのは当然じゃんか !!」といったお叱り(?)にも近い指摘がほとんどだった。言っておきますが、タイトルは編集サイドが考案したもの。で、翻訳本のタイトルもほぼ九割は、編集サイドが「売れるように」と知恵を絞って考えだしたもの(Webメディアだと、いわゆる SEO 対策みたいなことになるのかと思う)。で、翻訳者はとにかく中身で勝負、記事本文を、理想を言えば「鏡写しにしたような」日本語訳文に落とし込むのが仕事になる(こちらがまだまだ未熟者なのか、それともよほどの手練れでないと到達不能の境地なのか、いまだに「鏡写し」的な出来栄えとはほど遠いのは日々、反省しきりではありますが)。

 で、みなさんのコメントに目を通しているうちに一点だけ引っかかったコメントがありまして、引用記事はとうに削除の憂き目にあっているものの、ここですこし言い訳をしておきます。

 問題の個所は(下線強調はいつものように引用者)、
この状態は 2020 年以降も続くはずだった。2つの公判のうちひとつが春から開始され、検察と日産の元同僚側は、会計上の広範な不正行為と、企業の資産を私的利益のために横領したと訴える予定だった。対してゴーンの弁護団は、不正行為はいっさいしていないと反論し、自分はルノーとの合併に反対する日産経営陣および日本政府の策略にはめられた被害者だと主張するつもりだった。いずれの公判でも有罪が決まれば、ゴーンは 2020 年代を日本の拘置所で過ごす可能性が大きかった。
ついでに自分が書いたのはこっち ↓
この状態は 2020 年以降も続く。ふたつの公判のうちひとつが春から開始され、検察と日産の元同僚側は、会計上の広範な不正行為と、企業の資産を私的利益のために横領したと訴える。対してゴーンは不正行為はいっさいしていないと反論、自分はルノーとの合併に反対する日産経営陣および日本政府の策略に絡めとられた被害者だと主張。いずれの公判でも有罪が決まれば、彼は 2020 年代を日本の拘置所で過ごすことになるかもしれない。

[原文記事]... These conditions will persist well into 2020, when Ghosn begins the first of two trials for what prosecutors and his former colleagues at Nissan call a pervasive pattern of financial misconduct and raiding of corporate resources for personal gain. He denies wrongdoing, saying he’s the victim of a plot by Nissan executives and Japanese government officials to prevent further integration with Renault. A guilty verdict in either case could put the 65-year-old in a Japanese prison through the 2020s.

「はず」、というのはもちろん、当の本人がズラかったから編集サイドで追加したんでしょう。コメント主の方がミソをつけたのは、「起訴事実に横領はないはず」という点。たしかにそう。でも原文を見るかぎり、かなり強い言い方を使ってます。なのでその「勢い」を伝えたくて、ここはズバリ「横領」、ようするに会社のカネをネコババしたという表現を使ったしだい。

 刑事事件関係に詳しい向きは目くじら立てるところかもしれない。たとえばこちらの記事に書いてあるように、厳密に言えば「横領」と「流用」の定義はちがうし、横領に当たる正式な用語の英語表現は embezzlement になる。でも raiding、つまり「盗み取る」という言い方を使っている以上、さすがに「盗み取った」はキツいので、「横領」という訳語を充てることにした、ということです(名詞の raid には警察のガサいれ、手入れという意味もある)。

 大半のコメントが批判していた「社内に友人がひとりもいない」云々、についても、この記者の書いた記事を読むかぎりでは、いわゆる「なあなあなおトモダチ」という意味ではなく、真の友人、村岡花子訳『赤毛のアン』で言うところの、腹を割って話せる「腹心の友」がだれひとりとしていなかった、危険なまでの孤立状態にあったことも今回の転落の要因ではないか、彼の転落劇は社内の権力闘争という側面だけではなく、カルロス・ゴーンという「個人」に起因する要素も多々あるのではないか、という結論で終わっていたので、「読者第一号」としてこの原文記事を読み取ったかぎりでは、「この記者、なに言ってんの?」みたいな気持ちは微塵も湧かず、共感しかなかった。どころか、サウジルートだのオマーンルートだの、ただでさえ時間ないのに事実確認に追われるうちに、マジでこのおっさん「金の亡者だわ」、「やることがあまりにセコいずら !!!」としか思わんかったのも事実(苦笑 × 九層倍)。

 書き手を擁護するわけではないが、この記事は典型的なアメリカジャーナリズムが感じられる良質な取材記事だと思う … それが「ヤフトピ」に掲載された「抄訳」でどれだけ伝わっているか … という点はなかなかむずかしいかもしれないけれど、少なくとも煽情的タイトルで耳目を引きつけるだけのヘッポコ記事ではない、ということだけは、この記事を書いた記者の名誉にかけて言えるかと思います。

 … しかしそれにしてもこのゴーンという人は、なんだろう、ホントにハリウッド映画化なんて実現できるとかって思ってんのかな? スペインの新聞の取材でなぜ大晦日を狙って脱出したのかと問われ、「人々がのんびりと休暇やスキーに行く時期でいいタイミングだった」と自画自賛するようなお人。こういう人に違法な出国を許したほうもほうですが、情けないのはテロリストとか水際で防がないといけないところを「音響機器ケース」ごと突破されたこと。常識的に考えれば、これは国際刑事事件のみならずゆゆしき外交問題事案でもあるわけでして、それなのに突破された国の政府を代表する人間が「… 神奈川県のゴルフ場着。… 名誉顧問らとゴルフ」、「六本木のホテル内 ×× フィットネスで運動」、「『決算! 忠臣蔵』を鑑賞」、「午前中は来客なく、東京で過ごす。午後も来客なく、私邸で過ごす」…… こんなのほほんとした正月気分でいて、ほんとに大丈夫なんでしょうかね。今年はいよいよ世界中から人間がわんさとやってくる年なのに。

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2020年01月13日

「ボージョレの帝王」、逝く

 仕事が立てこみなにかとワチャワチャし、また世界的にもトンでもない事件や国際情勢の緊張などがたてつづけに発生するという前例のない子年の正月。そんななか、ジョルジュ・デュブッフさんが亡くなられたとの報が入った。享年 86 歳。

 ボージョレ・ヌーヴォーは世界でいちばん、理屈抜きに呑んで楽しいお酒だと思う。そのヌーヴォーの楽しさ、すばらしさをデュブッフ・ブランドで証明した功績は、まちがいなく長く語り継がれていくと思います。

 じつはメル友だったフランスの方が一昨年に亡くなったのですが、その方にデュブッフのボージョレ・ヌーヴォーのことを書いたら、「彼は作り手じゃナイよ」とたしなめられた。たしかにデュブッフさんは葡萄栽培農家ではない。デュブッフさんが自身の名を冠した会社はいわゆるネゴシアンで、その会社で契約農家から集めた原酒をアッサンブラージュ、つまりウィスキーで言う「ブレンド」を行っていたのがデュブッフさんだった。ようはブレンダー、それも名伯楽と言えるような、他の追随を許さない嗅覚、味覚の持ち主だった。有名レストランのポール・ボキューズのお墨付きを得たのち、デュブッフ・ブランドのボージョレは世界的に知られるようになり、リヨン地方の地酒でしかなかったこのガメイの醸造酒のステータスも飛躍的に向上、いまや世界のワイン好きが毎年 11月になるとここの新酒を首を長くして待つというのが当たり前になった。

 フランスワインの消費量は右肩下がりみたいですが、ボージョレワインが大好き、という日本の呑助さんはきっと多いはず。ボージョレワインの生産業者はじめ、故郷ボージョレに果たした貢献は計り知れません。

 デュブッフさん、ありがとう! 某コンビニ向け商品として、最後に醸してくれたボージョレヴィラージュ・ヌーヴォーを呑みましたが、心躍るような芳しいアロマ、ブーケのすごいこと !! 翻訳やライティングの仕事の合間に口にした 2019 年ヴィンテージのデュブッフさんのボージョレ・プリムールは、ほんとうにうまかった。Merci beaucoup, M. Dubœuf !!! 

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