2026年05月16日

“That's Journey”on St Brendan's Day! 

 静岡県内の地上波では放映されてなかったので、今年になって某ネット配信チャンネルにて初めて観た『ざつ旅』。とくに初回冒頭、福島県会津若松市の山あいにある東山温泉を見下ろす山に鎮座する羽黒山湯上神社へと至る、1225 段(!)の石段を登っていく描写を何度か観ているうちに、ふと次の一節を思い出していた↓
…… 彼[聖ブランダン]が火の傍らに立っていると、一人の天使が天から降ってこう告げました。「ブランダンよ、そなたはなぜ真実を火中に投じたのか。書物で読んだよりさらに偉大な不可思議を、神がおできになるとは知らないのか。生ける神にかけて、私はそなたが旅立ちの準備をするよう命じる。書物で読みながら火中に投じてしまった不可思議を、そなたはすべて見なければならないからだ。それにまたそなたが真実を燃やしてしまったことを悟るように、まるまる九年間海上を航海しなければならない」……
 これはラテン語版『聖ブレンダンの航海』をベースに、アイルランドゲール語で書かれた『聖ブレンダン伝』などから採録した挿話を混交させて成立した、中世高地ドイツ語散文版の Sankt Brandans Seefahrt を故 藤代幸一氏が本邦初訳して解説した編訳本(『聖ブランダン航海譚/中世のベストセラーを読む』法政大学出版局 1999)からの引用。いっぽう『ざつ旅』のほうは、初回(第1旅)でヒロインの鈴ヶ森ちかの、千段を超えるいにしえの石段を登るという難行苦行に挑む姿が、仏教的な言い方をすれば生老病死の四苦から逃れられない人の生という名の階梯を一歩一歩踏みしめて登っていくメタファーにも見え、深い共感をおぼえた。

 かたや、中世初期アイルランドのケルトキリスト教会の修道生活を背景として、北大西洋のさまざまな驚異(ミラビリア)をめぐる航海譚、かたや漫画家志望者の女子大生がふとした気まぐれからふらりと国内旅行に出る漫画が原作のアニメ作品を同じ俎上に載せるというのは、それこそザツ過ぎないかとのそしりを受けそうだけれども、双方の物語の始まり方からして(時空を超えて)ちょっと似ている。「神が天と地でなされた大いなる不可思議が書かれている」書物を手に入れたブランダン(ブレンダンの異綴り)修道院長、「なんだコレは!」とばかりにその書を火にくべちゃったがために、天からやってきた天使のお咎めを喰らい、その書を燃やした(焚書のメタファー)罰として9年ものあいだ大いなる大洋をさまよえと命じられてしまう。いっぽう『ざつ旅』の鈴ヶ森ちかの場合、雨が降りしきるある日、角◯書店の漫画雑誌編集部に力作ネームを3編たずさえて乗り込んだものの、担当編集さんから全ボツにされ、帰路には無謀運転(?)のクルマに盛大に水を浴びせかけられる。

 共通項は、どっちの protagonists も、自ら望んで/進んで航海、つまり「船旅」や、陸路の「旅」(英語の journey も、水陸問わずに長い行程の旅≠指すことば。ついでに journeyman というのもあり、こっちは長い修業を経て一人前になった職人のこと)に出たわけではない、ということ。ブランダン修道院長は、自分が火にくべちった「神が天と地でなされた数々の不可思議を書いた本」を復元≠キるために 12 人のお弟子さんとともに船出する。鈴ヶ森ちかのほうは、せっかく描き上げた漫画のネームをみんなボツにされたことに対してなかばヤケクソで実施したダベッター(笑)アンケートで示された、「東京の上のほうへ向かえ」という結果に従って出発する。両人とも、出発直前になるまで旅に出る気なんてさらさらなし。「…… 船上の人となりましたが、大きな不安は隠せませんでした」(聖ブランダン)、「どうしよう …… これもう …… 逃げられない!」(ちか)

 それでも両者は「喜んで神の命に従って」/「だけど、旅に出たい …… その気持ちは、ウソじゃない! 行こう! アンケート1位の上のほう!!」と覚悟を決め、大いなる海原へ出帆する/初めてのひとり旅に出る(「磐梯熱海」の由来は寡聞にして初耳。さまざまな雑学が学べるのもこの手のアニメ作品の魅力でもある)。

 『ざつ旅』第1旅のハイライトの羽黒山湯上神社へつづく 1225 段の石段登りは、時代と宗教的背景(仏教・修験道・神道が混ざった神仏習合型神社と、ケルトキリスト教修道院文化)とスケールこそ違えど、人はなぜ旅に出るのか≠ニいう根幹についてはさほど違いがないのではないか、と思う。鈴ヶ森ちかの場合、大海原に出たブランダン一行と違い、悪竜にも、恐ろしい人頭魚尾の海の怪物にも、悪魔の群れにもサイレン(セイレーン)に襲われることはないし、そもそも日本の東北地方に向かっただけの短い国内旅行に過ぎない。昨今、「都会グマ」に遭遇するリスクが高まっているとはいえ、ブランダン一行のような文字どおり命がけの船旅を強いられているわけでもない。あちらはキリスト教修道生活のメタファーがそこかしこに散りばめられた一種の教訓話であるのに対し、こちらは国内旅行を通じて、若い漫画家志望のヒロインの精神的成長を描いた教養小説的物語。それでもなぜか両者に通ずる何かを感じたのは、この 1225 段の石段登りに人生という旅路のメタファーを感じとったせいだからかもしれない。それが芸術家のタマゴ氏のお話とくればなおさら。そしてどちらの物語も、主人公(たち)は行き当たりばったり、あっちこっちさまよってばかりいる。人生は迷いの連続、でもそれでいいのだ、的なメタテーマも感じられる。

 もうひとつ『ざつ旅』で印象的だったのは、ちかの中学時代からの親友・蓮沼暦のエピソード。彼女は大好きな親友が晴れて漫画雑誌にアンソロジー作品の掲載が決まったとき、胸のうちに秘めた迷い≠打ち明ける。
「なんか、モヤモヤしてたんだ。鈴ちんは漫画家っていう目標に向かってガンバってて、すげえと思うんだ」
「んなことないよォ。いろいろ道は険しくてだなァ、まだまだ先は長いよォ …… 」
[cf.「ひとりひとり別々になって、森の中へ、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、森がいっそう深そうな方へ、道も小径もないところへと出発した」──作者不詳・中世フランス語散文物語/天沢退二郎 訳『聖杯の探索』人文書院、1994、p.48]
「ん〜でもぉ、目標があることじたいすごいよォ。アタシは大学入ってバイトしたり、…… この先どうなりたいとかなかったからさぁ。でも[宮沢]賢治さんの詩とか見て、褒められなくても誰かのために笑顔でいたいって、カッコいいなとか思ったわけ。それでアタシも、アタシに関わる人くらいは、ちょっとでも楽しく、幸せにできたら …… アタシはそんな、賢治さんみたいな学校の先生を目指すことにした」──『ざつ旅』「第 10 旅:ココロのふるさと」より
 最後にこの「ドイツ民衆本」のベストセラーたる主人公の聖ブランダンと、『ざつ旅』ヒロインの鈴ヶ森ちかは、ともに当初の目標を達成して終わる。ブランダン修道院長のほうは自分が火にくべた書物≠フ復元を、さまざまな海洋の驚異を自分の目で見た顛末を「もれなく一冊の本に書き記し」て神から命じられた旅の目的をまっとうした。ちかのほうは念願かなって、「特別読み切り」として美しい百合(?)ものの自作の雑誌初掲載をものにして、新人漫画家としての一歩を踏み出した。

 生一切皆苦とは仏教の教えながら、それにもめげず、人はなぜ生きるのか。あるいは、それを再確認するための旅に出るのか。そのヒントは、ちか自身の口から語られる。
わたしは、なんだろう。…… ただ、あのときああすればよかったって思うのがイヤなだけなんだよ。それはいまも同じで。前に旅でさ、すごい長い階段見つけて。1225 段だよ! ああ、これ登らなかったらあとで後悔するってピーンときて。うまく言えないけど、そう思ったことだけは、逃さないようにしたらいいんじゃないかな? ──『ざつ旅』「第3旅:そのままのコシで」より[太字強調は引用者]


 印刷革命期のいわゆる揺籃期本(インキュナブラ)が出回っていた頃にこの中世アイルランド西海岸の修道院長ブランダン/ブレンダンの航海物語を読んで、先述したような「いかに生きるか」の道しるべなり、励ましなりを当時のヨーロッパ大陸にいた読者は受けとっていたのだろう。翻っていまそれを示してくれるのが、こうした一見、なんの変哲もなさそうなお仕事系/プチ非日常系アニメ作品なのかもしれない(そして本日5月 16 日はわれらが聖ブレンダンの祝日であると同時に、なんとなんと、日本では「旅の日」でもあるという事実をいまさらながら知った)。

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2026年05月03日

『わが母の記/花の下・月の光・雪の面』

 入院中の母の容態が思わしくなかったとき、ほんとうにたまたま地元の映画館のひとつが閉館となるのに合わせて、(そしてこれもまったく予期せず早すぎる死が惜しまれてならないのだが)故原田眞人監督作品『わが母の記』(2012)を閉館記念に再上映するということを知り、ここでの映画見納めとして鑑賞してきた。

 グループホーム(GH)暮らしで居宅介護というわけではないが、今年に入って感染症治療のため市立病院に入院したりといろいろありまして、それなりに老親の介護の当事者の視点を得たいま、あらためてこの作品を観ると、なんというかもう鬼気迫るものがありすぎる。沼津市民だから当然、封切られた当時に一度観ているけれども、久しぶりに映画館の大スクリーンで、バッハのヴァイオリン協奏曲(BWV 1041 第2楽章アンダンテ)が流れる冒頭シーンを観ることができのたはやはりうれしかったですね。

 で、比べるのが大好きなてんびん座生まれとしては、映画化作品がこれだけすばらしい出来なのだから、下敷きとなった原作も読まねば片手落ちだ! というわけでさっそく読んでみた。そしてたちまち目からウロコがボロボロ状態になった。

 原作は3つの掌編の連作というかたちで書かれている。いちばん古いのは最初の東京五輪が開催された 1964 年の作品で、最後の「雪の面」が書かれたのはいまから半世紀以上も前の 1973 年(NHK ホールのこけら落としの年)。医療やそれに関連する知識が飛躍的に向上したいまでは誰も(というか、差別用語という認識が先に立つだろうが)、「耄碌」(モウロク)だの「老耄」だのとは呼ばず、いわゆる老人性痴呆は認知症という正式な疾患名が与えられている。つまり「うちのおばあさんは年とってモウロクした」などと口にするようなことは消え、代わりに医者に診てもらうようになっている。還暦前の井上靖が生きていた '60 年代はまったくそんなことはなかった。その頃の日本社会では、老人の痴呆は老年性疾患のひとつではなく、「トシのせいで頭がおかしくなった」程度の認識でしかなかった。

 …… そんな時代背景を考えてこの3編を読むと、突然、母の老いが突きつけた冷酷無情な現実を受け入れざるを得なくなった書き手とその親族の気持ちはいかばかりかと思うと同時に、あまりにも抑制の効いた筆致にもひじょうに驚かされた。ありていに言うと、老親の介護の当事者というより、そばに付き添っている看護師的な、一点の曇りもない冷徹な描写が淡々と続いていく印象の強い作品だった(映画版はぜんぜん違うから、このへんのサジ加減は原田監督のオリジナルなのだろう)。

 老年性どころか、若年性の認知症まで取り沙汰されることも当たり前になりつつある昨今ながら、井上靖の綴る文章にはハっとさせられることばかり。淡々とした筆致だからつい見過ごしてしまいがちになるが、認知症の理解がまるでなかった半世紀以上も前に書かれたとはとうてい信じられない記述がほんとうに目白押しだった。
…… 母は何回でも同じ言葉を口から出す。それは丁度毀れたレコードの盤が何回でも同じ言葉を繰り返しながら回転しているのに似ていた。その頃、私たちは母が何回も同じことを繰り返すことを、母のそのことへの執心によるものと解釈していたが、その後私たちは考え方を改めていた。何か特殊な形で母の心を刺戟したものだけがレコードの盤面に記録され、記録されたとなると、あとは機械的にそれはある期間執拗に何回でも回転し続けているのである。(講談社文芸文庫版 p. 58)

…… このように母は七十代から四十代ぐらいにかけての過去を失っていたが、その失われた部分は一面に真暗い闇に塗り込められているといったようなものではなく、霧が立ちこめているようなものであろうと思われた …… 私たち兄妹は、母のこうした自分の歩んだ人生の抹殺の仕方を、母が次第に子供の方へ向かって歩んで行くという風に解釈していた。人間年齢をとると次第に子供に返って行くと言われるが、私たちの眼には母はまさにそのようなものに見えた。母は七十八、九歳の頃から自分が歩いて来た人生を、少しずつ消しながら逆に歩み始めたのである。母は年々少しずつ若くなりつつあるのではないかと私たちには思われた。(ibid., pp. 70−71)

郷里へ帰りたいと言っている時の母の顔は、自分の家に帰りたがって、それ以外一切受けつけない幼児となんら異るところはなかった。母は小さい体全部で己が願望を表現していた。帰りたいと言っているのは口だけではなく、眼も、横顔も、背も、みんな帰りたいと言っていた。(ibid., p. 90)

私は嬰児の私を二十三歳の若い母親が探し求めて、深夜の月光の降る道を歩いている一枚の絵を瞼に描いていた。私の瞼にはもう一枚の絵があった。それは還暦を過ぎた私が八十五歳の老いた母親を探し求めて同じ道を歩いている絵であった。一枚の絵は冷めたいもので濡れ光っており、もう一枚の絵には何か凄まじいものが捺されてあった。この二枚の絵は、しかし、すぐ私の瞼の上では重なり合って一つの絵になった。そこには嬰児の私も居れば、二十三歳の母も居た。六十三歳の私も居れば、八十五歳の老姥の面を持った母も居た。明治四十年と昭和四十四年が一緒になり、その間の六十年という歳月が月光の中で収斂し、拡散していた。冷めたさも凄まじさも一つになり、鋭い月光に刺し貫かれている。(ibid., pp. 113−114)
 昭和後期を代表する文豪のひとりだから、読者の心に深く訴えかけてくるものがあるのは当然と言えば当然でしょうけれども、やっぱりいちばん心を打つのは、それを綴ったのが息子だからでしょうね。よく、「家族でしか撮れない写真」というものがあるけれども、こういう作品は息子でしか書けない/息子だから書けるものだ、と思う。

 最後に、映画版にもこの箇所の部分引用が出てきて、身内の人間が同じような状態になっている当事者のひとりとしては、やはり次の一節を引かないわけにはいかない。
私はまた、生きていた父が死から私をかばう一つの役割をしていてくれたことに、父の死後気付いた。父が生きている時は、私は父でさえまだ生きているのだからといった気持で、勿論この気持は意識されたものではないが、恐らくそうした気持が心のどこかにあったことに依って、私は自分の死というものを考えたことはなかった。ところが、父に死なれてみると、死と自分との間がふいに風通しがよくなり、すっかり見通しがきいてきて、否応なしに死の海面の一部を望まないわけには行かなくなった。次は自分の番だという気持になって来た。これは父に死なれて初めて知ったことであった。父が生きているということだけで、子供の私は父から大きくかばわれていたのである。しかし、こうしたことは父自身の与り知らぬことであり、ここには人間的なはからいも、親子の愛情の問題もなかった。これは、父と子であるという、ただそれだけの関係から生み出されて来るもので、これこそ一組の親子というものの持つ最も純粋な意味であるに違いなかった。
 父親に死なれてから私は自分の死を、そう遠くない一つの事件として考えるようになった。しかし、私の場合、母親がまだ健在なので、死の海面の半分は母に依って遮られているわけで、私と死の間に置かれている屏風がすっかり取り払われるのは母が亡くなってからのことである。その時は、死は現在とはまた違った風通しのよさで私の前に立ちはだかって来る筈である。(ibid., pp. 18−19)

 翻って、症状もタイプも個人によってまるで違う(症状の出方にも個性がある)認知症という疾患を、われわれはいったいどこまで理解≠オているというのだろう、という点もこの本を読んでおおいに考えさせられた。認知症という医学用語だけが独り歩きしていて、認知症ということばで括ってそれでわかった気になっているだけではないのか …… という思いを一読後に強く抱いたのも事実。介護当事者であってもなくても、ぜひ一読を勧めたい一冊。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

【付記】:かなり以前にも書いたことの蒸し返しになるけれども、沼津駅南口に、1960 年代に建立された井上靖の詩碑がある。かつてないほど世界がキナ臭くなっている昨今、いま一度噛みしめるべき価値のある碑文だと思っている。
若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない
[If there is something more powerful than atmic power, it is love ; nothing other than the power of love.]


posted by Curragh at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本

2026年03月07日

『壊れゆくアメリカ』

 邦題こそ「アメリカ」とついているけれども、この本の原題を直訳すると『暗黒時代はもう目前』で、米国特有の問題を狭く扱った本ではありません。原著者の J. ジェイコブズ女史は『アメリカ大都市の死と生』(1961)で、ニューヨークなどの大都市の貧民街の再開発計画をやり玉に挙げて、地域コミュニティの破壊が大都市の活力を削ぐと批判して、その後の都市計画に多大な影響を与えた活動家で思想家、著述家だった方。ちょうど同年代に『沈黙の春』を刊行して世界的に衝撃を与えたレイチェル・カーソンの都市計画版みたいな女性だった、と言えばよいだろうか。コミュニティ云々、ということでは、以前ここでも触れたマイケル・サンデルにも立ち位置的に近いと思う(後述)。

 ジェイコブズはこの本で、「文明は、揺り戻し機能が崩壊すると回復不能になる」としたうえで、「文明崩壊後に訪れる、集団的な記憶喪失の時代」が暗黒時代であり、いままさにそれが ahead にある、というわけで、なぜいままた n 回めの「暗黒時代」が差し迫っていると言えるのか、について5つの観点から論じてます。

 その5点とは順に❶ コミュニティと家族、❷ 高等教育(とくに大学)❸ 自然科学とその効果的な実践であるテクノロジーの方向性、❹ 課税とその仕方、❺ 知的プロフェッショナルの自己規制 の5本柱。これらが「倒壊の危機にさらされている」と警鐘を鳴らすためにこの本(彼女の絶筆)を書いたと巻頭で述べてます(「人種差別やはなはだしい環境破壊」「犯罪」「政治家不信と低投票率」「中産階級の激減と貧富の拡大」といったことのほうが重要視されがちだが、じつはそれこそこの本で指摘する5本柱が倒壊したゆえの結果にすぎないと主張する。また暗黒時代についてはギボンの『ローマ帝国衰亡史』や、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』の分析を取り上げている)。

 そしてこれら5つの観点は一事は万事と言うごとく、すべてがつながっていて、個別に論じることはできないという強い信念のもとに書かれていて、名のある専門家≠ゥらそのへんを叩かれたりもします(自身の経験をあまりに一般化しすぎている、とか)。たしかに暗黒時代という定義も絶対的なものではなくて、かつては「暗黒の中世」なんて言われていた、とくに西欧における中世も言われているほど真っ暗じゃないんじゃね? みたいな主張もたしかにある(フェルナン・ブローデルやジャック・ル=ゴフの著作など)。それにこのテーマじたいが壮大すぎて、とても邦訳書の 30 数ページでは論じ切れんでしょう、とも思う(シュペングラーの『西洋の没落』的な大部の著作がいくつも必要かと)。あと、後半で日本とアイルランドには暗黒時代はなかった点が共通していると論じていて思わず「ほぇっ?」となった。ようするにどちらの島国も、「忘却」という5番めの「悪魔の騎士」が加わることなく、「自分たちがだれであり、なにに値するかを決して忘れ」なかったから、ということらしい(とはいえアイルランドの歴史のほうがはるかに苛烈だったのは言わずもがな)。

 しかし、さすがジェイコブズ女史、とアタマを掻いたり膝を叩いたり、あるいはこの拙い駄文の最後で引用するような、背筋にツーっと寒気が走るようにいまこの時代の世界を見抜いたかのような一文があったりと、間違いなくこの本は a must read な一冊だと思う。

 たとえば出だしの「家族は衰退する」の章では、米国ではクルマ社会化が進んだために家族とコミュニティという社会の基本単位が破壊されたと、GM の名前まで挙げて具体例を引いて手厳しく糾弾していたりする(日本でも、かつて作詞家の阿久悠氏が、「人びとが傲慢になったのは、自家用車を所有するようになったからだ」と述べたことがある。たしかにソレは一理ある)。
住居費のために働きにでる妻や母親が増えていく。少ない所得で住居費をまかないホームレスにならないために、まず核家族がすることは、支出を減らし娯楽に金をかけず、同じような問題を抱える友人と同居し ……、節約できる物は売り払い、裁判所命令による子どもの養育費を払わずに行方をくらました元夫を政府に頼んで探し出すことである。
 こうして節約に努めてもあまり役に立たず、世帯の必要経費は増える傾向にある。インフレだけでなく、必要経費の内容に変化が起きているからである。多くの家庭が悩む一番深刻な出費増は、自家用車である。なかでも郊外では公共交通機関が削減されたり、すっかり撤去されてしまった。
…… アメリカの郊外を数キロほどドライブしても、乗用車やトラックから降りた人や歩いている人影は見かけない。こうした人影のない風景はバージニアやカリフォルニアやマサチューセッツの郊外で経験したしトロント郊外でも目にした。(「家族は衰退する」から)
 大学教育の問題点を論じた章と、それにつづく「放棄されたサイエンス」では、無責任な専門バカの量産機関と成り果てた大学と悪しき学歴社会をコテンパンに批判して、以前、ここで書いたオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を思わせる。
また科学はとくに生物学や医療について、システムの全体を扱うことではほとんど進歩していなかった。そして科学は個々に孤立した一部分を扱うことで、統合されたほかの部分とどのように相互に影響し合うかをほとんど把握できなくなる。このように科学が総体ではなく部分しか把握できない場合もあるのに、わたしたちは科学を過大に信頼することによって、ほかの分野ではありえないような誤りを受けいれてしまうことになる。(「放棄されたサイエンス」から)
 「いい加減な課税システム」と題された章では、移住先として人気が高い(いまでもそうかはわからないが …… )カナダのトロント市域を引き合いに出して、いやいやちっともそんなことはないのよとばかり具体的な事例を書きつらねていく。
2003 年にはピアノ、美術、コンピュータ、グラフィックデザインなどの課外授業は 350 課程が削減され、年金生活者や移民などのための「生涯学習」も廃止された。また学校のバスケットボールのコート、野球場からも使用量が徴収されることになった。かつて納税者や親は建設された学校に誇りを持っていたが、今では生徒ひとりあたりの教室のスペースよりも、洒落た廊下やロビーのスペースの方が広くなってしまった。このように文明の社会的資本は系統的に浪費されているのである。(「いい加減な課税システム」から)
このような状況を作ったのが、当時のカナダにも出現した「ネオコン[新保守主義]と呼ばれる政策」だという(ネオコン …… 久しぶりに目にしたなこの用語)。

 この本のおもしろいところは、巻末の原著者による注釈が、よくあるたぐいの無味乾燥な参考文献の羅列ではなくて、実質上、著者による本文の補足として書かれている点。たとえば 1972 年の日本の事例として、当時は個人の住宅どころか、商店も留守中に施錠せず、客が勝手に入ってきては品定めしていた、という自身の目撃談を紹介している。「こうした習慣も、泥棒を警戒して、いまではさすがに廃れたことと思う」。…… 田舎町ではどうなのかな …… 数こそ少なくなったけれども、ゼロではないでしょうね。げんに無施錠の窓や戸口から賊が闖入した、という話もときおりニュースで見聞きしますし。個人的には、半世紀以上前の日本はどこにいてもご近所さんがしっかり見て(監視して)いたから、というのが最大の抑止力になっていたのではないかと思う。また、オンタリオ州政府の吝嗇主義のせいで医療従事者が不足していたところに SARS(重症急性呼吸器症候群)のパンデミックが起こり、結果的に多くの医療従事者を感染させた失敗事例もやり玉に挙げている。

 しかしなんといってもこの本を読んでいちばん驚いたのは、次の一節。エンロン事件などの、巨大な会計事務所と彼らと癒着した巨大企業の腐敗につづいて米国の政治そのものの「不誠実さ」を指摘したくだりで、ジェイコブズ氏はこう書いている(ちなみに原書が刊行されたのは第二次湾岸戦争さなかの 2004 年)。
もっともらしい否認が成功する背景には長年にわたる北アメリカの現実からの断絶があった。つまり事実に対するイメージの代用である。見た目のイメージが良ければ中身はあまり問わないという考え方である。きらめくものはすべてが黄金である。それでいい。優先するのはイメージである。これはたぶん 19 世紀後半の文学的・社会的名士たちの賛美とともに始まったのだろうが、それはさらにそれ以前からアメリカの傾向だった。誤ったイメージを作ることは北アメリカ全体でビッグビジネスとなり、アメリカ政府の主要な特徴でもある。大勢の嘘つきが雇われて、現実をあらゆる類のイメージから断ち切ろうとする。それは人間個人のイメージ化であり、法律、企業、場所、活動のイメージ化である。偏向したスポークスマンは欺瞞に満ちたイメージを作りダメージコントロールをする達人で、政治キャクペーンや問題を抱えた組織の権威あるスポークスマンになることができる。そして彼らは現実を切り捨てるだけでなく、新しい現実を作ることもできる。現実の現実とは聞く者を混乱させるかもしれないが、それこそ偏向するスポークスマンの意図である。(「自己管理できない“エリート”たち」から)
 ひるがえって、いまの米政権の中枢はどうでしょうか。執務室は金ピカのカーテンや調度だらけ、側近はイエスマンぞろい、fake news や untruth を垂れ流しておきながら、それを指摘する相手を fake 野郎とばかりに攻撃する大統領がげんに出現しているではありませんか。

 …… ついでにその前の章に、「アメリカ人に絶えずつきまとう罪は、アメリカ以外の場所は現実には存在しないと考えている節があること」と書かれてあり、これも失笑を禁じ得なかった。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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2026年01月18日

【番外編】「訳者あとがき」が読みたい【ジジイ放談】

 今回は正攻法の「読んだ本の感想」ではなく、番外編。最近、邦訳書、とくにノンフィクションやビジネス本を含む「一般教養書」の訳書の巻末を見ても、「訳者あとがき」のない本が主流になりつつあります。「訳者あとがき」のない訳書にも二通りあって、ひとつはな〜んにもない本。いまひとつが、その本が扱っている分野の専門家とおぼしき大学の先生が書評もどきにしたり顔で書いたあとがきならぬ「解説」付きの訳書。

 訳者あとがきを入れる/入れないの判断は、翻訳書の邦題をどうするかも含めて担当編集者さんの裁量に一任されているのが一般的だと思う(文芸もので、しかも訳者が出版社に話を持ちかけた「持ち込み企画」の場合は、訳者の熱量にほだされてそのままあとがきもお願いしますねってこともあるかもしれないが)。

 問題は、そうやって翻訳者以外の第三者が書いた解説がてんで明々後日の方向を向いていたり、牽強付会我田引水的だったり、はっきり言ってつまらなかったりピンポケだったりしている場合。そういうわけで今回は、日本でもよく知られたハーバード大学の政治哲学者マイケル・サンデル氏の能力主義を批判した邦訳書の文庫版を例に引いて、ちょこっとジジイ放談してみたくなりました(※老婆心ながら、ワタシが小学生時代の日曜の朝に放映していた、政治評論家のおっさん2名が言いたい放題意見をぶつけ合う「時事放談」という番組タイトルをもじったもの)。

 のっけから「本書は、〜 の邦訳である」とバーンと(それこそ優木せつ菜のえいがさき楽曲「BURN!!」じゃないけど)いきなり書き出されていて、なんかこうムズムズしちゃいます。そんなこと読了したばっかの読者は百も承知ずら。それに訳者でもないのに「でR」(ネタが古すぎるか)と断言されても …… そして巻末なのにまるでこの本を読んでない人向けに書いたような各章の「要約」がつづき(長ッ!)、「以上が本書の概略である」と要約だけにようやく(?)ここから本題でございって感じになる。しかしサンデルの言わんとするところを深堀りするというより、ご自身の用語系なんかを引っ張り出して、「…… 何を善とみなすかについての議論の必要性を説くことに留まっており、曖昧さを含むことは否めない印象である」とまたしても「でR」調なのはいいとして、そもそもキチンとこの本読んだのかいなって、本文/原注に誤植を見つけた読者は率直に思う(p. 419 の Open Crass は著者名 Oren Cass の間違い)。言い方はたいへん失礼ながら、ハズレの解説に当たっちゃった感じは否めない印象である(おまけに merit の原義は「功績」という話までくっつけてる …… この本が問題視しているのは功績は功績でも、成果主義のほうでは? ご丁寧に文庫版にもあらたな解説を書き下ろし、それがさらに脱線気味なのも挨拶に困ってしまう)。
 …… 市場化によって締め出される道徳的規範について熟慮し、人々のあいだで議論することの意義は、市場の力が増す現代社会においてこそいっそう高まっていると言える。社会の市場化を擁護する人々は、市場は道徳的価値から中立だと主張するが、それは間違いなのだ。そもそも、市場化は社会における幸福の量を増すのだから望ましいとする時点で、功利主義的な価値観を前提としているのは明らかだろう。道徳的価値からの中立は幻想だとするこの主張は、サンデルの著作に多く現れる重要なテーマでもある。──M. サンデル/鬼澤忍 訳『それをお金で買いますか:市場主義の限界』(p. 300)
 ↑ は、同一の訳者による 2014 年に刊行された文庫版の「訳者あとがき」から。同じ読むのなら、一読者としてはこちらの「訳者あとがき」のほうがはるかに好ましく思われますけどね(個人的印象としては、日本語版としては最新刊のお題のご著書より、10 年以上前に出たこちらの本のほうが内容的におもしろいから、こちらは書店に行ってしっかり買っておきました)。

 …… 文庫化されたキャンベル本にも、そんな迷解説≠ェかつてあったっけ──「つまりこういうことなのだ。私は、小説家で、数ヵ月前に五十歳になった。それは一つの『区切り』なのだと思った。で、私は何をしたのか? これは現在も続行中なのだが、モノの片付けに入った …… なにしろ膨大な量がある。
(中略)さて、私はここまで何を書いているのか? ジョーゼフ・キャンベルの『生きるよすがとしての神話』の文庫解説用の文章で、何を書き連ねているのか?」ってきて、「至高のもの=究極点に人類が近接したいと望む時、やはりそこにもニ種のアプローチがあり、そのことをキャンベルは本書できっちりと書いている ── 講演録なのだから『語っている』がまず最初に来る ── ということだ」(pp. 440−442)

 ハァ???(『ちいかわ』のうさぎで)

 幸い、こちらの文庫版には初版の「訳者あとがき」が全文再録されている。なのでよけいに蛇足感が否めないのである。

 というわけで、ようするにワタシは訳者御本人が書き下ろした「訳者あとがき」が読みたい人なんです。せっかく多大な労力と時間をかけて(それこそサンデル教授が「貢献の真の価値は、受け取る賃金では測れない。賃金は、経済哲学者フランク・ナイトが指摘したように …… 需要と供給の偶発性に左右されるからだ。貢献の価値を決めるのはそのような需要と供給ではなく、力を注ぐ対象の道徳的・市民的重要性だ」と書いているように[p. 369]、金銭的にまったく割に合わない仕事、という事実もものともせず!)ヨコのものをタテにして(場合によっては横書きの訳書もあるけど)いる翻訳者自身による分析や解釈や批評が読みたいんです。そういえば『訳者解説』なんてタイトルの本もありました …… すこぶる fun to read な本でした。

【補足】:❶ 「能力主義の専制」(本書の原題)の残酷な副作用として、苛烈な競争を経た高学歴者もまた精神がボロボロに傷ついている、という話に関しては、ビル・マッキベンの本にもこんな一節が出てくる(下線強調は引用者)。
…… 中国青年報の最近の調査によれば、若者の 66 %が成功しなければならないという「厳しいプレッシャーにさらされていると考えている」…… 中国の一流大学を卒業して年俸1万1000ドルの職に就いているという典型的な 三〇代男性の言葉を引用している。「人生はストレスだらけです。いつも肩にものすごいプレッシャーがかかっているのがわかります。どうにかしてもっとうまくやりさえすれば、金持ちで幸せになれるのかもしれません」(『ディープ・エコノミー』, 2008, p. 268)
 米国の場合も、まったく同じ病理が学歴競争の勝者のあいだにはびこり、一方、ありもしない「白人の特権」をタテに社会から忘れられたそうでない人々(おもに白人男性)はそんな彼らを憎悪し、こうして社会の2極化と分断は容赦なく進行して、その結果がいまわたしたちが目の当たりにしている現米政権のやりたい放題の横暴、ということになる。また、「アメリカン・ドリーム」の考察も個人的にはおおいに興味を惹かれた(昔、アメリカン・ドリームは論文のテーマに値すると書いていた英米文学翻訳家の先生がいたので。ついでに第7章後半に出てくるラナ・フォルーハーは、日経を読んでいる人にはおなじみな感ありの、 英 FT 紙のグローバルビジネスコラムニスト。引用されていた原著はおもしろそうなのに、あいにく邦訳はないみたい)。

❷ 第4章原注(p. 448)の 74. の著作は邦訳が出ている(のに、なぜか引用がないから)⇒ スティーブン・レヴィ/仲達志・池村千秋 訳『グーグル:追われる立場から追う立場へ』(2011)の第7章(pp. 499−519)。たまたまコレ持っていたので気がついたしだい。「監視資本主義」的な本ももちろん良いけど、巨大 IT 企業の内幕暴露的なノンフィクションが好きな方には合わせておススメしたい1冊。

❸ 同じ章の原注 11.(p. 455)について。原記事を見たら "Turning to his central theme, education , he said: 'Ask me for my three main priorities for government and I tell you: education , education and education .'" とあり、おそらくコレは往年の洋画に出てくる、「新聞記者にとって重要なものが3つある。第一に accuracy、第二に accuracy、第三に accuracy だ!」という科白が元ネタだろうと思う*

❹ 本文中、トマ・ピケティの論文と著作の引用もいくつか出てくるけれども、そのピケティ先生、じつはこのサンデル本の「大ファン」だって御本人の前で明かしちゃってもいる(『平等について、いま話したいこと』, p. 64)。ハーバードを含むアイビーリーグなどの米名門大学のブラックボックス化している寄付金とその問題について、ピケティは『21 世紀の資本』(2014)でも触れている(pp. 464−469, pp. 504−506)

*:うろ覚えだったため、最初にそれを知ったタネ本が地元の公共図書館に納本されていることも知っていたから(ホントは持ってるんですけれども、行方不明中 …)確認しに行って、タリーズでエスプレッソ飲み飲みスマホでウラとりしていたけれどもいっこうに出てこず。??? のまま帰宅してあらためて PC で検索したら、こちらのラブコメものが引っかかった(本にはグレゴリー・ペックなんて書いてあったけれども、正体を隠してジャーナリズム講座に潜り込んだ腕っこき新聞記者を演じたのはクラーク・ゲーブルだった orz)。どうもピュリッツァーの逸話の孫引用らしい(ピュリッツァーは「新聞作りで忘れてならない重要な3点とは何か?」と訊かれたとき、「それは正確性、正確性、そして正確性です」と返した)。

評価:るんるんるんるんるんるん

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2025年12月25日

Finem lauda! と快哉を叫びたい「えいがさき」第2章

 昨秋公開された『ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編 第1章』(えいがさき第1章、以下えいがさき)』を観てからずっと楽しみにしていた続編が封切となり、公開初日にさっそく地元劇場にて鑑賞へ。以来、ことあるごとにいろいろな場面やシークエンス、科白回しなど気になる箇所がぽんぽん出てきてはまた観に行く、を繰り返した(じつは今日も観に行った…お台場くんだりまで[木曜を待たずに上映終了したため。だからお台場行きは直前までアタマになかった])。

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※ ユナイテッド・シネマ アクアシティお台場

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※シネマサンシャイン沼津

 『ラブライブ!』シリーズは(自分の持論っぽくなってしまってなんか申し訳ない気もするが)、音楽要素てんこ盛り盛りな、ひとかどの教養小説(Bildungsroman、ビルドゥングスロマン)だと思っている。それは無印=wラブライブ!』から始まり、『ラブライブ! サンシャイン!!』、『虹ヶ咲』(通称アニガサキ)、『ラブライブ! スーパースター!!』へと受け継がれ、アプリゲーム上の「活動日誌」を主体に展開する『ラブライブ! 蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』、そして現在進行中の新しいプロジェクト『イキヅライブ! LOVELIVE! BLUEBIRD』に至るまで、このシリーズの物語の核≠ヘ、高校生のあいだだけという期間限定で活動するスクールアイドルたちの精神的成長を描くことで、いま若い人、かつて若かった人とに関係なく、幅広い世代のココロに深く突き刺さる普遍的真理をさりげなく示していることにあると思っている。そんな描き方の手法にすっかりハマって、気がつくと数年が経っていた(微苦笑)。

 とくに「アニガサキ」からの OVA(NEXT SKY)、そして完結編と銘打たれた本作までの流れは、もうまんま教養小説(成長小説)と言って遜色ない仕上がりだし、実際そうだと思う。前作では沖縄組6人(と、途中で合流した高咲侑)と、彼らを支える高咲侑との関係性、とくに本作を貫く中心思想的な“friendly rivalry”、「仲間でライバル」「ライバルで仲間」の、前者の「仲間でライバル」とはどういうことなのかが、鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)と上原歩夢の関係を通じて深堀りした脚本の妙に感動した。

 だいたい三部作というのは中央のエピソードで人間ドラマが急転したり、思わぬ事実が判明したりと登場人物(キャラクター)の内面をぐいぐい掘り下げる展開が少なくない(序・破・急の破)。かの 『スター・ウォーズ』シリーズなんかもそう(とくに、初期三部作のエピソード5など)。

 というわけで、ここではえいがさき第2章に登場する「関西組」メインの6人について、各キャラクターの視点に立って思うことを書き出してみたい。

すれ違いと互いのほんとうのキモチ/家族≠ニいう永遠のテーマ: 劇場版『ラブライブ! サンシャイン!!』(2019)でも、小原鞠莉とその母とのギクシャクした親子関係が描かれていたように、本作でも家族≠ニいう、絶つことのできない血のつながりと、血のつながりに依存しないもうひとつのつながり≠観る者に深く考えさせるような展開が、名門音楽一家出身のミア・テイラーのエピソードに出てくる。

 ミアは日本に来て、ニジガクのスクールアイドル同好会に入ったあと、なんの制約も受けずに思いのままに歌うことができていた …… ように見える。しかし、少し歳の離れた姉クロエがスクールアイドルグランプリ(SIGPX)のアンバサダー(ようは広報大使ね)として来日し、ミアと再会したことで、ミアは幼少時のトラウマを再び突きつけられることになる。

 今回、自分の出番も顧みず(?)、「ライバルで仲間」のために狂言回し的裏方に徹するのが、離島出身者の朝香果林。方向音痴をものともせず、果敢にもクロエの居場所を突き止め(綾小路姫乃さんナイスアシスト!)、相手とサシで向き合い、「家族は一生続くものでしょ」と突っぱねられたあとでこう切り返す──「わたしは、一生続くのは家族だけだとは思いません」

 これは、離島から単身上京して、学業のかたわら芸能関係の仕事をこなしてきた彼女にしか言えない科白だと思うし、家族というのはあまりに近すぎてじつはまるで見えてないこともよくあったりするもの。げんに、なんですかあのフリフリなロリータファッションは(苦笑)。baseball 大好きでボーイッシュなぼさぼさショートヘアなミアちがあんな衣装をあてがわれて内心、いい気分でいられるはずがない。
──なんでこんな服着なきゃいけないのさ? 
──よく似合うと思ったからよ
["What's supposed to all this ? / Just supposed it did suit you ! のように聞こえた]
 このやりとりだけでも、この姉さんが、自分の妹の趣味嗜好がまるでわかってないことが露呈している(着せ替え人形的な扱い)。さらに言えば、「スクールアイドルはしょせん期間限定の寄り道的な活動。そこに時間を割いているヒマなんてない」みたいな発言もして、そこに残りの高校生活を全投入してきた優木せつ菜(中川菜々)の心を再起不能なまでに打ちのめしてしまう…けっきょくクロエの認識も、鞠莉ママとたいして変わらなかった、ということです(この時点では)。

 ミアはクロエに急かされるようにして、いったん帰国を決意する。その後の璃奈とミアの顔の向きや顔に差す影の細かい描写がまた絶妙で、心理描写といい風景描写といいほんとうにムダなコマというのがまったくない。しかし観ているほうもぼんやりしていると見過ごしてしまうくらいさりげない(subtlety の極致といふべきか)ので、それで何回も観て確認に追われたりする(GPX アプリの異変は、璃奈がミアのためにアプリ専用の配信カメラを操作したときのタイムラグに現れていて、天才肌のメカニックでもある璃奈はその瞬間、アプリの不調を見抜いていた。直後のカメラの挙動もなにやらおかしいし)。

 以前、アニメムジカの若葉睦/モーティスの DID 問題に関する拙記事で、海外の DID 当事者が実際の症状と比較して、アニメムジカで描かれていた睦の解離性障害や解離性健忘などを仔細に論じた長文を読んだって書いたけれども、「線画だけになった睦とモーティスが互いに1本のギターを抱き合ったまま無意識の奈落へ沈んでいく」カットをなんとその人は「ユリ」(百合)と表現していた。最初は読み間違いかとも思ったけれども、よくよく考えてみると、「精神的合一」というのも百合と言って良くない理由はとくに見当たらず …… だからあえて言いましょう。高咲侑役の声優さんもある配信でフリップに書いたとおり、あれは「けっこん」です。もちろん大真面目に書いている。アプリはぶっ壊れているから、当然 NO SIGNAL。ミアの歌と、その「返歌」であるボードをはずした素顔の璃奈の歌は、互いのほんとうのキモチを通わせた「連詩」のような歌となっている(たとえばミアちの歌に出てくる intertwine が、璃奈の歌では weave together で返されている)。
そうか …… これがボクのほんとうの気持ちか。璃奈も、ボクと同じように感じてくれてたんだね。だったら、ボクもこの気持ちに従う
 小原鞠莉のときと同じく、ミアも「他人の敷いたレール」(Cf. アニメムジカ 12 話で豊川祥子が放った「もうお祖父様の言いなりにはなりません!」)の呪縛から解き放たれて、純粋に「自分の心の声」に従う道をみずから選択する。
… 璃奈のボードは気持ちを隠すためじゃなくて …… 伝えるためのものだろ?
 不肖ワタシはこのカットを見たとき、ルーク・スカイウォーカーが、いまやライトサイドに戻った父アナキン・スカイウォーカーの顔から黒い鉄仮面マスクをはずした場面を思い出していた。そして、
── Chloe, meeting school idols reminded me how much fun singing could be. They saved me ! I can't choose between family and friends. So ... I do need your support. Please, let me stay here a little longer !
 ミアはこのときはじめて、クロエ姉さんに本心を打ち明けることができた。

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※ atré 秋葉原のラブライブ! シリーズ オフィシャルストア/
スクールアイドルシアター

「突破力のある人」を復活させた栞子のコトバと、心からの respect の告白: この作品が好きな人はみんなそうだろうと思うけれども、前半のミアちと璃奈のキズナもじゅうぶん感動的なんですが、それ以上のトンでもない感情の起伏を物語後半、宮下愛と優木せつ菜から食らわされることになろうとは、誰が予測できただろうか? しかもアニガサキの最初のほうのエピソードにまでそれはさかのぼる。解像度が高いとかもうそんな次元ではないですよ。強いて言えば、キャラクターへの愛の深さが生み出したキセキのような展開、としか言いようがない。そして、いままで追ってきたどの『ラブライブ!』シリーズよりも深い、普遍的真理をさらりと示す至高のシークエンスが続く(たまんねぇ〜 by 嵐千砂都 ○️)

 その前に、「スクールアイドルは一生続けられるものではない」ことに悶々とする優木せつ菜に関しては、個人的にはこの小説版を下敷きにしていると強く感じさせられる。小説版のヒロインは文字どおり優木せつ菜/中川菜々で、小説版でもやはり「スクールアイドルとしての有限性」について物思いにふける描写が出てくる。
「紅姫(アカヒメ)は忘れられてしまうことは怖くなかったのでしょうか ……」
「忘れられてしまうことを受け入れる気持ちとは、どんなものなのでしょうか ……」
…… 自分が生徒会長ではなくなって、やがて──そんな日は考えたくないけれど──学生という与えられた期間が終わってスクールアイドルでもなくなる──そうなった時に、はたして、優木せつ菜≠ヘ覚えていてもらえるのかと。(ibid., pp. 252−253)
 果林がミアちのほんとうのキモチを見抜き、彼女のために動いていたように、そういう適性≠ノすぐれたもうひとりの助っ人である三船栞子が、ここでついに行動を起こす(ちなみにアプリカメラがちゃんと稼働していた初日に先陣を切った彼女の MV もまたシンボリックで良き。卵から突き出す鳳凰の尾≒本に挟まった栞、そしてすぐあとでミアちが Wow! と感嘆の声をあげた、宇治の平等院鳳凰堂ともつながっていく。ついでに GPX 開始時刻は正午きっかりで、GPX 運営のファイナル決定の発表があったのも正午と、きっちりシンメトリックにまとめている)。

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※ 特典デュープフィルムより、三船栞子の歌唱シークエンスの一部カット

──愛さんとわたしは、少し似ているところがあると思っていましたから、意外とは思いません
──んん? 似てるかなぁ、アタシたち ……
──人のためには動けるけど、自分のためには動けない。一見、感覚的に行動しているように見えますけど、ほんとうはとても周りに気を配っていますよね? 
──言われてみればたしかに …… そうかも! なんで?! 
 こうして動ける≠謔、になった宮下愛は、雨が降りしきる大阪の街並みを眺めていたせつ菜を見つけると、彼女が「人生のバイブル」だと言い、優木せつ菜というステージネームを与えてくれた SF ものアニメをいっしょに鑑賞する。
──カッコよかったね …… でも、せっつーとは少し違うよね? やっぱり愛さんにとっては、せっつーがヒーローだなあ …… ほんとうだよ ……
──アタシ、せっつーが学校の屋上でライヴしたときのこと、いまでもはっきり覚えてるよ。愛さん、あのときのせっつーにめっちゃ憧れちゃって、スクールアイドルをやってみたくなったって言ったよね? それからずっと、同好会のみんなを、キミのことを見ていたよ。自分の弱いところを認めて、どんどん成長していくキミを、すごいなって思って見てた。キミは強くなった。それってぜんぶ、優木せつ菜がいたからじゃない? だから、いなくなるなんて言わないでよ。キミが思い描いたアイドルは、きっといまのキミになっていて、これから先もずっと、たくさんの人たちに力を与えていける …… みんなにも。アタシにも
 この場面を最初に目にしたときにアタマに浮かんだのは、「宝玉の網」(インドラの網)という古代インドの神話のイメージだった。互いが互いをキラキラと反射し合う。愛とせつ菜/菜々の関係には、心から互いをリスペクトし合う揺るぎない感情がある。それはきっと血縁関係を超越している。愛とせつ菜だけでない。ひとり斜に構えたところがあった朝香果林が、本作でまさかの役回りを演じるまでに「成長」を遂げている。ニジガク同好会の 13 人すべてにおいてそうした「成長」が描かれている。friendly rivalry、「仲間でライバル」「ライバルで仲間」をここまで描ききった教養小説というのを、寡聞にして自分は知らない。

 スクールアイドルフェスティバルのときのようなやり方で、自分たちの力で「お祭り」を続行したニジガク関西組。そのトリをつとめた宮下愛は、神戸港のシンボル・ポートタワーを背景に、最初はせつ菜のアイコンと自分のアイコンが組み合わさった同心円状の円形ステージ(円≠ヘ永遠性の象徴でもあるし、愛の歌う楽曲タイトルもまた Circle of Love と円環のイメージがある)で、その後さらに上の頂点のステージから、かわいらしい王冠≠斜に被ってパフォーマンスする。愛のせつ菜に対するリスペクト、せつ菜の愛に対するリスペクトが文字どおり愛をいちばん高い地点にまで引き上げ、彼女はせつ菜をオマージュした力強い右脚の蹴り上げを繰り出す。それを見た他校のスクールアイドルたちも奮起し、彼女たちと同じく不完全燃焼だったオーディエンスの目に輝きがもどり(ココで、三宮センター街のカラオケ会場で愛に励まされたモブの子が、ポートタワーのてっぺんから愛がオーディエンスに向かって「みんなはどう?」と問いかけたとき、まっさきに声を上げる …… こういう作り込みの細やかさもニジガクならではの見どころ)、愛の理想とする「みんなが楽しくなれるステージ」の盛り上がりは最高潮に達する。それが圧倒的な映像技術を駆使して縦横無尽に表現されていく ── 古代ケルトの豊穣のシンボル「ダクザの大釜」の饗宴にも思える、Circle of Love の楽しさ全開のステージ …… だから、彼女たちの活動は限られた時間でしか咲かないように見えて、じつは永遠性(eternity)を宿した存在でもある。せつ菜はきっと、宮下愛からまったく思いがけない告白≠受けて、その真理に気づけたのではないかと個人的には感じている。(※ お題のラテン語は、「結末を賛美せよ」という意味。くわしくは『ラテン語名句小辞典』を見てね)。

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※ 特典デュープフィルムより、宮下愛の圧巻のステージ

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

2025年11月30日

30 数年越しの「真作」認定 > BWV 1178 & 1179

 今月中旬になって、『ラブライブ!』や『バンドリ!』シリーズものの動画のおススメ一覧の中に、ふと気になるクリップがいきなり出現した。??? と思ってクリックしたら、トン・コープマンがバッハゆかりのライプツィヒ・聖トーマス教会の通称「バッハオルガン」で未知の楽曲を2曲、つづけて演奏する動画だった。

 その後、海外配信記事の邦訳などで、この2作品がじつはアルンシュタット時代のハイティーンの若き教会オルガン奏者だったバッハその人の「真作」だとつい最近、認定されたばかりだと知って、文字どおり驚愕した。

 とりあえず BWV 1178 のほうのスコアを眺めると、古楽ではよくあるダ・カーポを多用した繰り返しの多いシャコンヌなのだけれども、なぜか? 真ん中にフーガが挟み込まれた A−B−A❜ 形式になっているのが変わっているところ。校訂楽譜はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から入手可能。

 ともに3拍子の変奏曲(その起源は中南米だと言われる)シャコンヌ/パッサカリアは、バッハの場合、超有名な2曲しか例がない(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004/オルガンのためのパッサカリアとフーガ ハ短調 BWV 582)。今回、バッハアルヒーフ所長ペーター・ヴォルニー氏が学生時代から追い続けてじつに 35 年(!)越しにバッハの真作と特定したこの2曲を聴くと、どことなくゲオルク・ベーム(リューネブルク)やラインケン(ハンブルク)といった当時の北ドイツオルガン楽派の老巨匠の作品にも似ているように思わなくなくないのではあるが、正直よくわからない。バッハの真作の決め手≠ニなったのは、使用されている用紙の「透かし」と、筆写譜作者がバッハの弟子筋ザロモン・ギュンター・ヨハンだと特定されたため、ということみたいです(⇒こちらの記事によると、出所はパッヘルベルの「シャコンヌ ヘ短調」と同じ、ベルギー王立図書館所蔵の写本に収められた筆写譜らしい)。

 だいぶ前にもここで書いたけれども、この手の研究には二通りあり、ひとつは「透かし」模様や用紙の判定といった科学的検証、いまひとつは作品の様式面からバッハの真作かどうかを検討する様式研究がある。透かしや用紙に関してはクリアしているように見えるけれども、様式研究的にバッハ作品だと断言できるかどうかは、これだけではちょっと弱いのではないか、というのが、はるか極東の島国にいる一バッハ好きとしての偽らざる感想。もっとも当のヴォルニー先生自身、「つい2、3年前までバッハの作品の可能性があると真剣に考えたこともなかった」と言っているくらいだから、その後は予想もしない展開だったのだろう…。バッハ直筆を連想させる根拠としては、たとえば「バッハに特徴的なハ音記号」がスコア冒頭で確認できる、とのこと。私たちバッハ好き、音楽好きにとっては、たまさかこうしてバッハ関連で盛り上がってくれればとくに言うこともないので、2025 年も待降節を迎えようとしている時期になってこの手のサプライズが飛び込んでくるのはむしろありがたい、と言うべきか。

参照先:バッハアルヒーフの当該ページ
英ガーディアン報道記事その❶
同 その❷

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2025年11月15日

生演奏で初の「オルガン付き」

 先日、オーケストラ・ゾルキーという団体の演奏を聴きにミューザ川崎シンフォニーホールへ行きました。コロナ禍以降、野外の演奏会(渋谷ストリーム稲荷橋広場で開催された NHK Classic Festival)を1回だけ聴いたのを例外として、コンサートホールに赴いての演奏会はほんとうに久びさのこと。ここのホールも初めてで、音響はホールに入ってすぐわかるほどバッチリながら、選んだ席がハズれ(?)だったせいか首が痛くてしかたなかった(苦笑)。ゾルキー(Зоркий)という名称は聞き慣れないけれども、カメラ好きの人は、旧ソ連製のライカ型 35 mm カメラから来ているのではと「鋭く」気づくかもしれない。

 プログラムはレスピーギの交響詩「ローマの祭」、G.V. スヴィリードフの組曲「吹雪〜プーシキンによる音楽的イラストレーション」、そしてサン=サーンスの「交響曲第3番 ハ短調 “オルガン付き”」。オルガン好きなので、もちろんお目当てはサン=サーンス。ここのコンサートオルガンは大阪のザ・シンフォニーホールと同じスイスのクーン社製で、実動ストップ 71 /4段手鍵盤と足鍵盤の大型楽器。演奏者は野田美香氏、指揮は長田雅人氏。

 レスピーギ作品はいわゆる「ローマ三部作」のひとつとして有名で、古代ローマ・中世・ルネサンス・20 世紀と時代を超えたローマの祭典の変遷を描いている。出だしの暴力的な(描写されているのが血なまぐさい殺戮の祭りだから当然と言えば当然ながら)ファンファーレを奏でる3人のトランペット奏者による「バンダ」は、ヴィンヤード形式のステージ後方、オルガン手前のひな壇席中央に陣取っていた。手回しオルガンや素っ頓狂なメロディーを奏でるクラリネットや金管が入り乱れ、混沌とした大音響で幕となる終曲は、オルガンも加わって文字どおりどんちゃん騒ぎ。腹の底に響く重低音、ホール空間を揺さぶるオケサウンドに圧倒されっぱなしだった。

 組曲「吹雪」の作曲者ゲオルギー・ヴァシリエヴィチ・スヴィリードフ(表記はプログラムのママ)という人は寡聞にして知らなかったけれども、ショスタコーヴィチ最初の弟子のひとりだった人らしい。そして驚くことに早世した息子さんが日本文学の研究者で、晩年は日本に滞在していたという(なんと『宇治拾遺物語』のロシア語訳まで手掛けている! アーサー・ウェイリーの旧ソ連版といったところか。松本清張作品も訳しているらしい)。

 作品を聴いての第一印象は、トロイカだったりワルツだったり、どことなく「懐かしさ」みたいなものを強く感じた。とくにワルツは師匠のショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」を真っ先に思い出した。「ロマンス」と題された楽章では、コンサートミストレスによるソロがまるで演歌かエレジーのようにも感じられた。

 休憩後は待ってましたサン=サーンスで、楽曲構成はこちらに丸投げするとして、オルガンの音に関して言うと、サントリーホールのリーガーオルガンに似てるかな、という印象。木をふんだんに使用したホールの空間をすっぽり包み込むような、温かみのある(やたらキンキンしない、わざとらしい音の分離のない)サウンドで、個人的にたいへん好ましかった。レジストレーションのバランスも良く、オケと渾然一体となった堂々たるハ長調の終結部はここ数年、疎遠になっていたオケの生演奏≠フ高揚感を十二分に堪能させてくれた。

 … そしてコレは自分が知らないだけなのかもしれないが、ここのオケは全体的に女性奏者の割合が高くて、どちらかと言うと男性奏者が多いイメージのコントラバスセクションも女性奏者のほうが多かった。

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2025年10月13日

『雨と君と』

 先日もすこし触れたけれども、この手の「何気ない日常に潜む非日常」を感じさせてくれる作品が個人的に好きでして、なんの予備知識もなく見始めたこの作品はまさにジャストフィット(微苦笑)。

 お話は、梅雨入りしたとおぼしき季節、ヒロインの小説家が、見ず知らずの目の不自由な老婦人に高校時代に使っていた傘を差し上げるシーンから始まる。ずぶ濡れになって、ひとり暮らししているマンションに帰る途中、どう見てもタ✕キにしか見えない(しかも頭頂部に葉っぱまで乗せている)自称犬≠拾い、自宅へ連れ帰り、次の年の梅雨を迎えるまでの「ひとりと1匹」のほのぼのとした日常が活写されている。

 … 全 12 話を見終わって感じたのは、ひとことで言えばジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)に出てくる次の一節とほぼ同じではないのか、という感慨だった。
スティーヴンは窓のほうへ親指をぐいっと突き出して言った。
──あれが神です
(柳瀬尚紀訳『ユリシーズ 1−12』 河出書房新社刊, 2016, p.66)

 これは、ダブリン市内の学校で歴史を教えているスティーヴン・デッダラス(※ 柳瀬尚紀訳版。ほかの邦訳書ではディーダラス表記が一般的)が、校長のディージーに向かって言った科白。「創造主の道は人間の歩んできた道とは違う」と説教じみたことを言い出した校長に、窓の外でサッカーに興じている子どもたちを指差して、「そうじゃない、神は、ああいう『街の声』の中にこそいるのだ」とそれとなく反論したくだり。一見なんの変哲もない、とりたててどうということのない日常がじつは奇跡の連続なのだ、ということをふんわりと包むこむようなやわらかい科白まわしと人物描写で表現しているようにワタシはこのアニメ作品から感じとれたので(唯一、シリアスっぽかったのは、第4話の神社の夏祭りで「君」がいっとき行方不明になった場面くらい)。

 それがいちばんよく表れているのが第7話「なんでもない」のラストで出てくる。フリップ(スケッチブック?)にペンで文字を書くという特技を持つ自称犬の「君」の飼い主になったヒロインの小説家・藤が、「今日はいい日?」と「君」に問われる。「べつに。なんでもない日だけど…」と答えると、こんどは「ぜひあしたも同じ日で」と書いた紙を見せられた。すると藤はやさしく微笑みながら、「同じ日はないのよ」と返す。「なんでもない日なんてあるんだろうか …… やっぱり書けないや」

 小説家としての日常(つまり執筆)と小説家ならではの創作の苦しみを描いているところもすごくリアルで、いちおうこれでも文筆業やってる端くれとしては「わかるわ〜その気持ち」という共感しかない場面が多かったのもおおいに◯なんだ YO(Zoom かな? ああいう形式で編集者と打ち合わせしたことなんかも思い出された)! 

 藤の高校時代からの2人の親友とのやりとり、動物病院の獣医、隣家のドイツ系ハーフの饒舌な少女、毛色の変わった女子生徒2人組とのややすっとぼけたユーモアを交えたやりとり、季節が移り変わる空気感や、いかにもおいしそうな食事やデザート etc. が丁寧に、いとおしく描かれている点もいい。すこしお高めの紅茶を淹れて、さらに手許にお気に入りの一冊もお供にして、それこそアーノルド・ベネットじゃないけど文学本を熟読玩味するように、秋の夜長に慈しむように味わいたいアニメ作品。

 そしてこれは余談ながら、第8話「鳴き声」で藤が偶然出会った老婦人の声は、バンドリ! シリーズでおなじみのライヴハウスの元オーナーでマイゴ(MyGO !!!!!)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)の祖母の中の人と同じで、「君」の声は、『ラブライブ!』シリーズで有名な動物の声が専門の声優さんがアテている。
……(雨が降らなかったら、出会わなかったかもしれない)。わたしと、わたしの書いた本はべつだから、いまは内緒でいいの。たくさん本を読んでいたら、いつか出会うよ(出会った、……)。わたしと希依ちゃんだってこうして出会ってるんだから
(…… 出会わなかった、出会いたかった。そうかもしれないけど、出会えた。似たような顔をしているから、間違えてしまうけど。出会いは偶然なんだろうか?)
ほんとうに必要なら、ちゃんと出会えるよ。すこし不思議だけどね ……
(偶然じゃないとしたら、あなたはなぜわたしを選んだんだろう?)── 第9話「秘密」より

 ──これが神です(by スティーヴン・デッダラス)

* episode0で、藤が髪をばっさり短くしてショートにする場面がある。その偶然≠ェ、「君」との出会いの伏線になっているように思う。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

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2025年10月03日

軌跡・奇跡・キセキ

 先日、『Aqours Documentary』を鑑賞してきました。地元民としては、東池袋のサンシャインシティ文化会館で開かれた9周年記念展示会についで、ぜったいに観に行かなければならないと思ったもので。なお前置きというか disclaimer なんですけれども、ワタシは芸術至上主義的な人なので、いわゆる「中の人」については、ほんらいは翻訳者と同じで黒子に徹すべし、評価はあくまで作品本位、というのが基本スタンス(東京ディズニーランドでゲストを迎えるチップとデールの中の人を考える人はまずいない)。しかしご存知のように Aqours が主人公の『ラブライブ! サンシャイン!!』を含めた『ラブライブ!』シリーズは 2.5 次元のはしりと言っていいのかどうかわからないが、2次元世界線上のキャラクターたちと現実の演者さんとがシンクロしてライヴを披露する、というシリーズの元祖的存在 μ's 以来の定着した様式がある。つまり演じる声優さんたちも作品のキャラ同様にスポットライトを浴びる宿命を背負うことになる。そしてこのシリーズ初の、そしてきわめて特異な記録映画の主人公≠ニして描かれているから、やはり一筆書き留めておきたいと思ったしだい。

構成:おおまかな流れは、❶ 6月にベルーナドームで開催された、9人全員がそろう最後の<宴Cヴ3か月前に行われたインタビュー ❷ 2015 年2月の Aqours メンバーとして初めての顔合わせなど、10 年におよぶ活動と、その間に生じたメンバー間の葛藤についての掘り下げ ❸ 作品の舞台となった沼津との関係 そして ❹ フィナーレライヴふたたび、という構成。ほかの媒体とかを見ると、各メンバーは数時間にもわたるインタビューの受け答えをしていたようですが、尺の関係か構成上の都合か? 3年生組の発言とかはほとんどなくて、伊波さん、逢田さん、斉藤さんの2年生トリオが中心、ついで1年生トリオの小林さん、高槻さん、降幡さんがそのときどきの「想い」を口にしていた。

❶ μ's の後継というプレッシャーとの戦い:以前もここで書いたように、ワタシは『サンシャイン!!』でこのシリーズの存在を知り、その後『ラブライブ!』『同 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』『同スーパースター!!』と観てきた人なので、初期のバッシングの話とかは直接知らないが、はっきり言って常軌を逸したものだったらしいことがキャストさんたちの心情の吐露(諏訪さんなど)からうかがえた。μ's の名が神聖四文字のごとく口にするのも憚られるほど、船出≠オたばかりだというのにキャストさんたちを襲った時化≠ヘひどくて、運営側から箝口令が出ていたという話が事実だったことが語られている。

 『同スーパースター!!』のファン層は、Eテレで放映していたり「リエラのうた」という新機軸(?)があったりしたせいか、園児から小中学生という子どものファンが多い、という若年傾向を個人的には感じてるんですが、そういうイマドキの若手ファンからは想像しがたいほどの重圧を Aqours は最初から受けていた。じつは薄々、こっち(沼津)でもソレは感じていて、たとえば 2018 年の紅白出場が決まったとき、なんと某オンライン署名プラットフォーム上で「出場阻止」を掲げた署名運動まであって、地元民のひとりとして呆れ返っていたことを鑑賞中に思い出していた。

❷「ラブライブ! フェス」からコロナ禍を経たグループの変容:重圧は内側からもかかる。逢田さんが Aqours のファーストライヴで、作品挿入歌のひとつで桜内梨子が奏でるピアノ伴奏を再現する場面で失敗したときのことを語っていたが、そのとき演奏を中断させ、リトライさせた判断を瞬時に下した舞台監督さんのインタビューがすこぶる印象的だった──「このまま続けていたら、きっと彼女の心に消えない傷を残してしまうと思ったから」

 結果としてこの判断は大成功で、「あがこう! 全身全霊で!」と走り続けた高海千歌たちの姿とみごとに重なり、チームとしての Aqours の結束もいっきに高まったように見える。それでも μ's の呪縛は残り続け、それがほんとうに解けたと思えたのは、2020 年初頭に開催された初のシリーズ合同ライヴイベントの「ラブライブ! フェス」で憧れの先輩たちと共演を実現したときだったという(伊波さんの話)。

 しかしその直後に襲いかかったのは、とんでもない伝染病の世界的大流行(パンデミック)だった。ライヴは軒並み中止、白紙にされる。クラシック界隈でもどこでもそうだったけれども、音楽家も一般人もなるべく密にならないよう要請され、沼津市も地元紙に全面広告を出して「いまは来ないで」と呼びかけていた。内浦小海漁港前の有名な海鮮料理店も大量のマアジのひらきが余って、クラファンを活用して冷凍品として一般販売するなど手探り状態だった。

 それでも芸能活動という仕事の性質上、さすがに心が折れただろうことは想像に難くない。当時の振り返りに耳を傾けていると、このへんからメンバー間の距離≠站C持ちのズレが顕在化していったのかもしれないと感じた。

❸ Aqours と沼津のキズナ:先日、地元紙にこの映画の監督さんのインタビュー記事が掲載されてまして、(寡聞にして存じ上げなかったが、ゾンビものの作品があるみたい)「『サンシャイン!!』の物語にあるまっすぐさを現実の世界でも背負い、貫き通すのは並大抵じゃない。取材しながら、彼女たちの『きつさ』に思い至った」のが制作のきっかけだったようです。

 舞台となった沼津とのつながりでは、Finale LIVE テーマシングル「永久 hours」のメイキングを中心に構成されてました。観ながら、ああそういえばこんなこともあったっけなと頷くことしきり …… 2018 年のエイプリルフールの朝、たまたま内浦地区に出向いたときに、三津海水浴場に巨大な千歌寝そべり(まんま普通怪獣)がデンと横たわっているのを見て、さらには詰めかけた人の多さとにぎやかさに仰天したこと、紅白出場が決まったときの商店街の盛り上がりよう、そしてついこの前も、フィナーレライヴ後の余韻を楽しむかのように作品のファンがどっとやってきて、内浦方面行き路線バスが臨時便を出していたこと、などなど(駅前のバスターミナルがそれこそ原宿の竹下通り並みに、コスプレ組も含めたファンでごった返していた)。印象的だったのは、逢田さんが(沼津との交流が)「10 年も続いているというのは、決して当たり前のことではない」という主旨の発言をしていたことだった。アニメの「聖地巡礼」ブームのきっかけを作ったのは『らき☆すた』らしいが、10 年間もキャストさんたちとともに歩んできたというのはおそらく尋常ではない息の長さなのではないだろうか。諸説あるでしょうが、「ここには何もない」と思い込んでいた市民が大多数だったことが、結果的にまっさらなカンヴァスに虹を描いたみたいな展開になったのでは、と個人的には考えている(拙小冊子参照)。

 げんに沼津でも長らく人口の転出超過が続いていたが、それが数年前から微増に転じた。『サンシャイン!!』関連の転入組は 100 を超えているらしい。市役所に就職してあらたな転入組向けにいろいろプランを打ち出しているとも伝え聞く。そもそもこのシリーズの舞台に決まったことじたいが偶然の成り行きで、ロケハンしていた酒井和男監督が「海辺の町で、高校が多くて、首都圏からあまり離れていないところ」を探しに来て伊豆半島に入り、「海越しに富士山を真正面に望む絶景の地」に佇む中学校を発見したことからすべてが始まった。思うに、リーダーを交代するとか制度を変えるとかもけっこうながら、けっきょく人々の意識≠ェ変わらなければ何も起こらないよね、ということをあらためて痛感させられる。「この出会いが みんなを変えるかな/今日も太陽は照らしてる 僕らの夢」(「君のこころは輝いてるかい?」)。Aqours という「普通怪獣」が上陸してからの沼津は確実に変わったと思う。

❹ Aqours の成熟度を示すメンバー間の距離:『ラブライブ!』シリーズに関して、無名の新人さんの起用に関する批判をときおり耳にする。そもそも若くて元気な人でなければとてもじゃないが務まらんでしょ、というのが個人の意見だけど(ニジガクの場合は子役などの芸能経験者が多いようですが)、まだ二十代になるかならないかの女の子たちが 10 年も同じ釜の飯を食った company ともなれば、そりゃどんなグループやバンドだって方向性の違いは出てくるでしょう。『バンドリ!』シリーズの最新作でラテン語多めメタルバンド設定の Ave Mujica でも、こうした現実のバンドでありがちな解散の危機が描写されていたし、「個性豊かな子たちなんですよ〜」とメンバーのひとりが発言していたとおり、個性のカタマリが9人も集合すれば時間の経過とともに目指すものも違ってくるよね、と。

 そのメンバー間の温度差を象徴していたのが、公演前にやっていたという円陣を組まなくなった、というエピソード。高海千歌役の伊波さんの話では、コロナ禍以降の公演では円陣を組まなくなっていたとのことで、互いを想う気持ちが強いゆえに言いたいことも言えなくなってしまった的な葛藤も明かされていた。これも個性豊かな集団ではよく聞かれる話です。でもこういう葛藤やモヤモヤを抱えながらも笑顔で聴きに来てくれているファンたちを楽しませなければならない。真に強靭な精神力の持ち主でないと務まらないたいへんなお仕事です。無名の新人ガ〜とかいう批判は当たらない。ベテランだってキツいことに変わりないでしょう。もっとも経験値の差は出ると思いますが。

 いまや「愛♡スクリ〜ム!」で世界的にバズっている黒澤ルビィ役の降幡さんが、ひとり黙々とランニングしているシークエンスが出てきたのも印象的だった。その降幡さんが最後の公演のときにメンバー全員に手紙を書いて手渡していた。伊波さんはストイックなあまり、自分の本心を伝えるのが苦手なタイプなのかもと観ながら感じてもいたが、それを降幡さんがみごとに補っていたかのようで、ここでワタシはうるっときましたね。個人的には最後は内浦の海をバックにエンドロールしてもよかったのかなとも思ったが、あえて黒一色背景にしたのがやはり正解なのだろう。

 …… じつはこの日は商店街の休日で、それでかどうかは知らないけれども、商店街の人たちと内浦の人たちも団体さんみたいにやってきて後方席に陣取っていた。上映が終了すると自然と拍手が起こり、「よくがんばったね、ありがとう」と声も飛んでいた。かつて千歌のスカートが透けてるとかイチャモンつけてきた外野連中もいたけど、これが 10 年間を Aqours とともにあがきながら歩んできた地元民の偽らざるキモチなんだよ、とタンカを切ってやりたくもなったずらね。

…… 気づいたんだ。ぼくたちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。……楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことを Aqours が、Saint Snow が気づかせてくれたんだよ。ありがとう──劇場版『同サンシャイン!! Over the Rainbow』の渡辺月の科白から


地元ラジオ局制作の番組のコーナーで記者さんが語っていることで、「成り上がり」(の軌跡)という表現はまったく同感ですわ。コチラもぜひ聴いてほしい(ちなみにラッピングタクシーを埼玉の会場まで乗り付けたって話は、ライヴ定番の話デス。紹介されていた本はこちら)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

2025年09月30日

シュテフェンス、カルゲス、バール

 最近は深夜アニメを地上波で観るクセがすっかりついてしまって、今夏のアニメでは『Summer Pockets』や『雨と君と』、春アニメだと『前橋ウィッチーズ』、『ロックは淑女の嗜みでして』、『紫雲寺家の子供たち』なんかをよく観てました(『ウィッチウォッチ』は「トゥンク、トゥンク、…… トゥングースカ…大爆発」とか、昭和世代なら誰もがツッコミを入れたくなる抱腹絶倒ものの小ネタがテンポ良く仕込まれていた怪作だった。ちなみに最初、この「トゥンク」なる科白を聞いたとき、てっきりラテン語の tunc かとカン違いしていた人)。

 というわけで、いつものことながらなんの前触れもなく久しぶりに、「さてこのへんで一発、NHK-FM ネタでもいってみようか」(方倉陽二『ドラえもん百科』第❶巻から)

 今週月曜(29 日)朝放送の「古楽の楽しみ」を仕事の〆切に追われつつ耳だけはそばだてて聴いていたら、まだまだ知らない北ドイツオルガン楽派の作曲家が出てくる出てくる! スウェーリンクは言わずと知れた「ドイツのオルガニスト作り」の異名をとるこの流派の元祖だからいいとして、つぎのヨハン・シュテフェンスとはそは何者? 状態になった。

 シュテフェンス(1559/60−1616)については詳細は不明みたいですが、北ドイツで活躍した人で、バッハゆかりの地のひとつリューネブルクで没している。番組でかかったのは、どこか牧歌的なやわらかい音色の印象的な「ファンタジア イ短調」で、オルガン曲のほか、6声のドイツ語によるマドリガーレも残しているらしい。使用楽器はリューベックの聖ヤコブ教会の「小さいほうの」オルガンを改作したことでも知られるシュテルヴァゲンが、シュトラールズントというバルト海に面した港町の聖マリア教会に建造した歴史的楽器(1659 年;3段手鍵盤と足鍵盤、実動 51 ストップ)。

 ヴィルヘルム・カルゲス(1613/14−1699)はベルリン生まれ、同地で没した人で、生涯、ベルリン近辺で活動していたらしい。スウェーリンクの弟子アンドレアス・デューベンに教わったようなので、ようは孫弟子ですな。6曲のオルガン作品が現存しているようで、そのひとつ「前奏曲 ホ短調」がかかった。コーダ近くで足鍵盤に野太いリード管の低音が響いていた。使用楽器はゴスラーという街にある旧修道院付属教会に 1737 年にクリストフ・トラウトマンというビルダーによって建造された歴史的楽器(3段手鍵盤と足鍵盤、実動 42 ストップ)。ということは、大バッハのライプツィヒ時代に建造された楽器になる(もちろんその頃には修道院教会はプロテスタントに改組済み)。げんにバッハ時代の音響を求めて、多くのオルガニストがここを詣でているみたい(↓ の埋め込みクリップはバッハではなく、ブクステフーデの「パッサカリア ニ短調」 BuxHV 161 ですけど。ちなみにこの曲は、アニメムジカの豊川祥子が読んでいたヘッセの教養小説『デミアン』(1919)に出てくる、「悪魔信仰」な若いオルガニストが主人公シンクレールに弾いて聴かせていた曲でもある)。



 最後にヨハン・バールなる作曲家(1655−1700)。出身はオーストリアで、宮廷人にして著述家でもあった多芸多才な人だったらしいけど、佳人薄命と言われるがごとく、狩猟中の事故で 45 歳 で亡くなっている。インキュナブラ特有の太いゴシック体の判読しずらい古いドイツ語で書かれてあるからよくわかんないけれども、ユーモラスな挿絵本を Jan Rebhu なる偽名で(!)何冊かものしているらしい(リンク先の書物は €5,000 〜 でオークションにかけられてますね ……)。こちらの使用楽器も同じ、トラウトマンの建造した大型の楽器になる(同一音盤)。

 スウェーリンクについで2番めにかかっていたのは、ドイツ3Sのひとりザムエル・シャイトの有名な「タブラトゥーラ・ノヴァ」からの1曲。録音に使用された楽器は番組で紹介されていた音源ではもっとも古く、1612/13 年に建造されたルネサンス様式の歴史的オルガンだった(いわゆる「燕の巣型オルガン」)。

 しんがりにかかったブクステフーデの「前奏曲 ト短調」BuxWV 148 を奏でていたオルガン(リューディングヴォルトの聖ヤコビ教会のヴィルデ/アルプ・シュニットガー改作の歴史的楽器)のピッチは、解説でも触れられていたけれども現代ピッチより高い、いわゆるコーアトーン(合唱ピッチ)で調律されている。北ドイツの、とくにシュニットガーのオルガンではわりとよくある話で、絶対音感の持ち主だったらとても気持ち悪くて聴いていられない……かもしれない(この国では絶対音感が神聖視(?)されているようですが。たしかにかんたんに「耳コピ」できるから一見、良さげではあるが、こういう場面では思わぬ苦痛を味わわされたりする)。



 …… というわけで、9月も終わろうというのに残暑が続くなか、朝からなんとも言えず清々しい風≠ェ吹き抜けたのであった。マルっ ◯ (Liella! の嵐千砂都ふうに)るんるん

posted by Curragh at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM