2015年09月28日

『マンスフィールド短編集 幸福・園遊会』

 村岡花子訳『王子と乞食』を取り上げてから、ずいぶん時間が経ってしまいました。気がつけばもう秋、スーパームーンの「十六夜」の満月を迎えてしまった( なんか欧州では皆既月蝕らしいけれど )。

 で、たまにはこちらのトピックもなにか取り上げようかと考えてたんですが … たまたま読んだ英米ノンフィクションものの名翻訳家、故鈴木主税先生の著書にも引用されていた、ニュージーランド出身でフランスで没したキャサリン・マンスフィールドの作品集からいくつか引くことにしました( なんか強引? )。

 邦訳は、『マンスフィールド全集』を除けば、新潮文庫に入っている短編集と岩波文庫に収録されている短編集、そしてちくま文庫に入っている短編集とがあるようですが、とりあえず今回はいつも行ってる図書館の書庫にこれまたたまたまあった岩波版を取り上げてみます[ 以下、参照した原書は The Collected Stories of Katherine Mansfield, Penguin Twentieth-Century Classics, 1981 ]。

 どなただったか、「翻訳なんて 30 年もてばよいほう」とか発言された大御所がおりましたが、手許の岩波版の邦訳[ 崎山正毅、伊沢龍雄 共訳 ]は初版刊行がなんと 1969 年 !! アポロ 11 号の月着陸の年じゃね。でもほんとうの「初版」はもっともっと古くて、1934 年 !!! 訳者曰く、「このたび、新しい版を出すおすすめを受け、伊沢龍雄君と分担して仕事にかかることとした」。

 で、さっそくもっと新しい『全集( 1999 )』本と併せて読んでみると、これが意外にも(?)こちらの思っていたほどには訳文の古色蒼然さは感じられず、むしろ『全集』よりもよいのでは、と思える箇所も散見された。これは比べ読みしたこっちもちょっとびっくりだった。
... And this was her corner. She stumbled a little on her way out and lurched against the girl next her. “I beg your pardon,” said Rosabel, but the girl did not even look up. Rosabel saw that she was smiling as she read.
 Westbourne Grove looked as she had always imagined Venice to look at night, mysterious, dark, even the hansoms were like gondolas dodging up and down, and the lights trailing luridly − tongues of flame licking the wet street − magic fish swimming in the Grand Canal. She was more than glad to reach Richmond Road, but from the corner of the street until she came to No. 26 she thought of those four flights of stairs. Oh, why four flights! It was really criminal to expect people to live so high up.

[ 中略 ]バスがロザベルの下りる街かどに着いた。彼女は、下りようとしてちょっとつまずき、隣りにいる娘の方によろめいた。「失礼しました。」と彼女はいったが、娘は顔もあげなかった。ロザベルは、彼女が本を読みながら笑っているのを見た。
 ウェストボーン・グローヴは、彼女がいつも想像しているヴェニスの夜のように、暗く神秘的に見えた。二輪馬車までが河をゆききするゴンドラのようであった ―― そのぶきみに尾を引く馬車の燈火は、まるで焔の舌が濡れた街路をなめているようで ―― 大運河に泳いでいる美しい魚にも似ていた。彼女は、リッチモンド・ロードに着いてなんともいえぬくらいうれしかった。しかし、街かどから二六番地に行く間、あの五階まで上る階段のことを考えさせられた。ああ、あ! 四つの階段! あんな高いところに人間が住むなんて言語道断だわ! 

―― 「ロザベルの疲れ[ 作品冒頭部、引用した原文はこちら。引用文中「大運河」に「グランド・キャナル」のルビ、pp. 12 − 13 ]」
 'I beg your pardon' というのがやはり時代を感じさせます( いまだったら ' I'm sorry ! ' がふつうだろう )。これは岩波版の冒頭に収録された短編で、しかもマンスフィールド 19 歳のときの処女短編でもある … 書かれたのはなんと 1908 年 !!  ジェイコブ・A・リースがニューヨークの「ばた屋横丁」のスラム街をマグネシウム粉を爆発させてストロボ焚いて撮影していた、そんな時代の作品なんであります。当時の「乗り合いバス」は、当然のことながらいま街なかを走ってるやつとはまるでちがう代物。馬車も現役だったころのお話です。
The Picton boat was due to leave at half-past eleven. It was a beautiful night, mild, starry, only when they got out of the cab and started to walk down the Old Wharf that jutted out into the harbour, a faint wind blowing off the water ruffled under Fenella's hat, and she put up her hand to keep it on. It was dark on the Old Wharf, very dark ; the wool sheds, the cattle trucks, the cranes standing up so high, the little squat railway engine, all seemed carved out of solid darkness. Here and there on a rounded wood-pile, that was like the stalk of a huge black mushroom, there hung a lantern, but it seemed afraid to unfurl its timid, quivering light in all that blackness; it burned softly, as if for itself.

ピクトン行きの船は十一時半出航の予定だった。暖かで、星のかがやく美しい夜であった。しかし、みんなが、馬車から下りて、港につき出ている「旧波止場」を歩き出すと、海面から吹いて来るかすかな風が、フィネラの帽子の下でパタパタして、片手を上げて、それをおさえなければならなかった。「旧波止場」の上は暗かった ―― まっくらだった。羊毛刈場、家畜貨車、そびえ立つ起重機、小さなずんぐりした鉄道機関車 ―― みんな深いやみのなかに、彫りもののように見えた。あちこちに、大きな黒い茸の柄のようなまるい棒杭の上に、ランプが釣ってあった。しかし、それは、あたり一面のやみのなかに、そのおずおずとふるえる光を広げるのをおそれているかのように見えた ―― それは、まるで自分だけのために静かに燃えているのであった。―― 「船旅 [ ibid., p. 177, 1921 ]」 → 原文
 ちなみにこのおなじ冒頭部、『全集』では、
 ピクトン行きの船は十一時半に出ることになっていた。穏やかな、星のきらめく、美しい夜だったが、しかし彼らが馬車から降りて、港の方へ突き出た旧桟橋に沿って歩き出した時には、水の上を渡ってくるそよ風が、フェネラの帽子の下の髪をそよがせ、彼女は手をあげて帽子を押さえた。旧桟橋の上は暗かった、まっ暗だった。羊毛置場、牛をのせた無蓋貨車、非常に高くそびえているクレーン車、小さなずんぐりした機関車、すべてが暗黒の塊で彫って作ってあるように思われた。ここそこの丸い材木を積み重ねた山の上に、それは巨大なキノコの茎のようだったが、ちょうちんがぶら下がっていた。しかしそれは全くの暗黒の中で、おどおどしたふるえる光を広げるのを恐れているように思われた。まるで自分だけのためのように、静かに燃えていた(『全集』p. 241 )。
 … いくらなんでも「ちょうちん」はないでしょう !! それと下線部は明らかにまちがい。前の拙記事でちょこっと触れたディ−キャンプの昔のファンタジーもの短編に 'The Hardwood Pile' なんていう作品もあったけれども、ここの [a] rounded wood-pile は「平たいものを積み重ねたもの」ではなくて、ただたんに水面に突き出す「棒杭( 安藤一郎訳の新潮文庫版では「木杭」 )」でしょう、船着場の風景でときたまお目にかかるような[ あとそれと「クレーン 」ってのもなあ … なんか船着場というより、工事現場みたいな印象 ]。てっぺんにランタンの灯りが乗っかっていて、それでキノコみたいに見えたのでせう。ああ松茸食べたい( 笑 )
... All the same, without being morbid, and giving way to−to memories and so on, I must confess that there does seem to me something sad in life. It is hard to say what it is. I don't mean the sorrow that we all know, like illness and poverty and death. No, it is something different. It is there, deep down, deep down, part of one, like one's breathing. However hard I work and tire myself I have only to stop to know it is there, waiting. I often wonder if everybody feels the same. One can never know. But isn't it extraordinary that under his sweet, joyful little singing it was just this ―― sadness ? ―― Ah, what is it ? ―― that I heard.

 ……とはいうものの、病的になったり、思い出して悲しみにくれたりしないでいても、人生には悲しいものがあるということを告白しなければなりません。それがなんであるかは申しあげることはむずかしいのです。私は、病気とか、貧乏とか、死とかいう誰でもが知っている悲しみをいっているのではありません。いや、それとはぜんぜんちがうものなのです。それは、人の呼吸のように、人についたもの、深い深いところにあるものなのです。私が一所懸命に働き、疲れ切って、仕事をやめると、それがすぐ待ちかまえているのがわかります。みなさんはそれと同じようにお感じになることがおありでしょうか。それはどうだかわかりません。それにしても、おかしなことに、あの子のかわいい、楽しい歌ごえのなかに、この …… 悲しさ …… が聞こえたのです …… もし悲しさでないとしたらそれはいったい何なのでしょう ……
――「カナリヤ[ ibid., p. 393, 1922 → 原文 ]」
 この掌編は、マンスフィールドの絶筆らしいです。今回、ひょんなことからまたしてもジョイスと同世代、しかも「意識の流れ」系に入る( と思う )マンスフィールド作品を原本と邦訳本とのあいだを行ったり来たり、自分なりに味わいながら読んでみたんですが、とくにこの最後の作品なんか、もうすばらしいですね。とても味わい深いというか … 崎山先生にご指名されたもうひとりの訳者、伊沢先生による「解説」に、「彼女の作品は物語性が稀薄である。プロットらしいプロットもない( p. 401 )」なんて書かれてあるけど、ワタシはこういうのがけっこう好きときている。

 原文は同時代の、たとえばジョイスの『ダブリナーズ』なんかに比べればはるかに難易度は低い。とはいえ、「解説」にもあるように、「デリケートな彼女の文体は、一見易しいようでいて、その陰影を日本語に移すことは難しい」。ま、とくに文芸ものの翻訳は大なり小なり「日本語に移すことはむずかしい」んでしょうけれども。『全集』よりは全体的に出来が上、と判断した岩波文庫版ではあるけれど、最新のちくま文庫版とかも見てみないとそのへんなんとも言えない。とはいえ、マンスフィールドのように邦訳本が複数刊行されている原作の場合は、「手に取って選ぶ楽しみ」というのがあるわけだから、それプラス原文も味わうというのが、けっこうぜいたくな読み方なのかもしれない。いみじくも岩波文庫版「解説」が、次のように書いてあるように。
翻訳はどのようにしようと所詮完璧なものになり得ない。彼女の文章には難しい単語が比較的少ないので、特に若い方々が、原文で一篇でも味読していただければ、この翻訳が原作への架け橋となれば、訳者として何より幸いである。

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2015年09月27日

「曾宮一念と山本丘人」⇒ aptX ってなに? 

1). 「ゲイジュツの秋」というわけではないけれども、週末、こちらの展覧会を見てきました。

 佐野美術館 … は、平成元年(!)に洋画家の梅原龍三郎の描いた富士山の絵ばかり集めた展覧会以来 … のような気がする。ほんと久しぶりに訪問したわけなんですが、数年前に静岡市で見た曾宮一念さんの油絵と、同時代人の山本丘人さんの日本画という組み合わせの妙がいとをかし、と思えたので、見に行こう! と思っていたらあっという間に会期末になってしまったので、あわてて馳せ参じたしだい。

 山本画伯 … のほうは寡聞にして知らなかったが、チラシにも使用されている「青い海」という作品にたいへん心惹かれたのでぜひ見たい、加えて「画家は廃業」、そして「へなぶり」をひねっていた曾宮さんのダイナミックに躍動する油絵作品も同時展示される、とあっては、行かないわけにはいかない。

 「青い海」という作品は 1932 [ 昭和7年 ]年に描かれたものらしいですが、現物を見てそのデカさにまず圧倒された。そしてこの絵が現在の熱海市網代港で描かれたものであることもわかった。いまでもこんなふうに見えるのかな? 絵の大きさ、ということでは展示室に入ってまず目に入る 1928 年作「公園の初夏」という作品。上野公園の西郷さんの銅像近くの崖下とイチョウの大木を描いたものらしいですが、画面中央上部に聳え立つその大イチョウの先端が画面からハミ出しているあたりが、なんというか生命力というかエネルギーを感じまして、すばらしいと思ったのでした。

 山本画伯関連では作品のほかに杖や眼鏡、画材( 岩絵の具や絵筆、鉛筆にクレヨン、膠など )などの遺品も展示されてまして、こちらも興味津々。展示の最後のほうの四幅対からなる「季節風」の、なんとも言えない独特の色彩感覚にも目が引きつけられました … が、南伊豆の現在の妻良[「めら」と読む ]漁港の夜景を描いたとおぼしき「満月夜( 1963 )」もすこぶる印象的でした。下絵もいくつか展示されていて、「青い海」の「下図」もあり、スケッチと作品とどこがどうちがうのかなと見較べてみたり。ちなみに「小下図」なんていう呼び名があるんですね、知らなかった。「出品目録」の英語表記では大きいのも小さいのも preparatory drawing でしたけれども。

 対して、久しぶりに見ます洋画家、曾宮一念画伯の作品。で、これは予期してなかったんですが、静岡市でお目にかかったあの「冬の海 仁科( 1936 )」にもめでたく再会 !! これはうれしかったな。「再会」ということでは、「スペインの野」、「裾野と愛鷹」、「洋上夕日」にも再びお目にかかることができて、こちらもじっくり鑑賞。この手の展覧会ではたいてい、画家自身の著書その他から引用されたことばも添えられたりするんですが、そうそう思いだした、たしか曾宮先生は「雲も、山も、岩も、水も、その本質はすべておなじである」という気づきないし開眼があったんですよね。曾宮画伯の遺品展示品では晩年、失明したあとに使用していた定規と力強い殴り書きのような直筆文、そして交流のあった藤枝静男さんとの絵葉書がありました。

 画家のことばつながりでは、日本画の山本丘人画伯もすばらしいことばを残されていて、見終わったあと、図録に転載されていたそのことばを思わずメモってしまった( 苦笑 )。曰く、
個性を强く生かしぬく人。それを深く掘り下げて行く人は、何よりも立派である。… たとひ草であれ、「その人ならでは」の深さと美が表現されれば、蔑視することはできない ―― といふことを、私は言ひたいのだ。

… 人は諸行無常と悟って生きるべきか。
移り変わる明日に向かって祈るべきか。
… そういえば、ラファエロの「聖母子像」ものに出てくる愛くるしい天使みたいに、くるくる巻き毛のかわいい赤ちゃんを抱っこした若いお母さんも鑑賞してました。つぎの展覧会は、そんなお子さまにはぴったりな趣向かも、と思ったり。

2). ところでいまさっき聴いていた「N響定演」の生中継、マエストロ・ブロムシュテットのベートーヴェン「2番」&「皇帝」もすばらしかった … けれども、そのあと聴いた OTTAVA Phonica Special 。オーディオ評論家の山之内正さんという方がゲスト出演されていて、デジタルオーディオのこと、音楽 CD のこと、アナログ音源復活のこと、「ハイレゾ」のことなどなどこちらのアタマが覚えきれないほど、中身の詰まったおもしろく、かつ役に立つお話をされていて、こちらも少々びっくりした[ 願わくばこの番組も Salone みたいに再放送してくれるとうれしいんですけど ]。たとえば CD って、前にも書いたと思うがやはり 30 年くらい経つと、ダメになっちゃうものなんですねー … 再生機器では再生できなかったものが、PC のプレーヤーに入れたらフツーに再生できたので、リッピングしてデータを吸い出した、とか … ワタシの手許の CD 音源でもっとも古いのはたしかヴァルヒャの「バッハ以前のオルガン音楽の巨匠たち」なので、こりゃ確認せにゃあかんな、と内心、アセったり。そういえば最近、どうも手持ちの音源だけでなく、図書館から借りてくる CD もうまく再生されないことがあって、この放送聴くまでずっと機械側に原因があるとばかり思っていた。そうじゃないとしたら … 考えただけでゾッとしてくる。参ったなあ … 最近の HDD はけっこう耐久性があります、RAID を組んでリッピングして、云々。なるほどなあとは思うが、そんなことしているヒマもなければ、カネもなし。たいしたコレクションではないとはいえ、150 枚くらいはたぶんあるであろう、わが CD 音源をぜんぶリッピングするなりして万が一のために「複製」、つまりバックアップをとるなんてどだい不可能。

 ではいまはやりのオンデマンド音源はどうか。たとえば TuneIn なんていうひじょうに便利なアプリがあり、これでいまや( 出先では回線速度がネックになってブツブツ切れたりするものの )スマホで Organlive とか BBC Radio3 とかふつーに聴取できちゃう時代。NAXOS だったかな、ハイレゾ音源を切り売りしているくらいだし、これからは CD を所有する、のではなく、「聴く権利」を買ってストリーミングで聴くのがよいのか? でも好事魔多し! 山之内氏の説明によれば、たとえば「売れなくなったんで配信やめます」って一方的に( !! )打ち切られる場合もあるという[ カネ払って買ってんのに、どういうこと? ]。世の中、なかなかうまくいかないもんですねェ( 嘆息 )。

 そういえば以前、OTTAVA プレゼンターのオススメだかに、audio-technica 製スピーカーが紹介されていて、思わず食指が動いたけれども( けっきょくまだ買ってない人 )、ここの会社のイヤホンは愛用していて、ダメになるたびにおなじシリーズを買い換えている( し、スペアも常備している )。林田さんによると、PC 音源を聴く場合、USB 接続タイプよりイヤホン端子接続タイプのほうがよいみたいですね。ワタシはいまだに 10 年以上選手の FM トランスミッターでラジカセ( !! )に飛ばしてそっちのスピーカーで聴いたりするけれども。

 山之内氏のお話ではもうひとつ、'aptX' なる略語も耳にして、なんぞやそれ? と思ってさっそくぐぐったら、こういうものらしい。Bluetooth で飛ばす場合によく使用されている高音質なコーデックのことらしいです … こうなるともうほとんど浦島状態ですわ。

posted by Curragh at 01:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術・写真関連

2015年09月22日

「繰り返し」の復権 ⇒ 「赤い扇風機」 ⇒ 「舞踏譜」

 ただいま、「今日は一日 “世界のオーケストラ” 三昧」聴取中。堀米ゆず子さんや、宮本文昭さんとかが出演されてしゃべってます( お昼すぎくらいには、指揮者の高関健さんもゲスト出演されてました )。

1). きのうの「クラシックの迷宮」。「妙技 エスファハニのチェンバロ」と題していたので、興味津々、聴いてました。このマハン・エスファハニというチェンバリスト、寡聞にしてまったく知らなかった。「ミニマル音楽」のスティーヴ・ライヒの「ピアノ・フェイズ」だったかな、多重録音した音源らしいですが、ピアノ以上に機械的(!)、無機質なチェンバロのキンキン音を聴いていると、発狂しそうになってきた( 苦笑 )。チェンバロは前にも書いたように、ピアノみたいな音量増減による表情をつけられない( 上と下の鍵盤の交替とか連結とかバフストップとかによるしかない )ので、この手の作品の演奏ではよけいその無機質な感じが強調されるのだと思う。またグレツキの「チェンバロ協奏曲 作品 40 」という作品も初耳だったが … なんという圧倒的な「繰り返し」!!! 畳みかけるような、とかそんなもんじゃない、これはもう暴力的とさえ感じられるいかんともしがたい音の絨毯爆撃、みたいなものすごい作品だった、少なくともワタシの耳では。なんというか、いかにも現代音楽だなあ、という感じ。バッハやクープランがこれ聴いたらどう思うかな。なんつー弾き方してんだコラ! って一喝するかも。ガルッピの「チェンバロの慰め」の正反対、これほどまでに聴く者に不安を掻き立てるチェンバロ音楽は聴いたことがない。ところでこの音源で使われていた楽器ってまさかバロックチェンバロのレプリカ楽器ではあるまい。オケだって大音量で攻撃してくるし、負けじとダンダンダンダンって叩きつけていたことから察すると、使用していたのはモダンチェンバロじゃないかな? いずれにしてもこのエスファハニという演奏家、チェンバロの鬼才って感じですね! 要チェックかな。

 それともうひとつ、案内役の片山さんの解説で印象的だったのが、「繰り返し」の復権、ということば。バロック時代までの変奏曲形式、たとえばシャコンヌ / パッサカリア、グラウンド( パーセルなど )には「固執低音主題」というのが付き物だったけれども、古典派以降は「ソナタ形式」が主流になって見向きもされなくなった( そして通奏低音も消滅した )… が、1980 年代くらいから、その「固執する主題」あるいは動機が復活してきた、とそんなふうにおっしゃっていた。そういえば basso ostinato を「執拗低音」なんて訳語で呼んだりするけれども、おんなじ動機 / 主題がえんえんと「しつこく」、コーダまで繰り返される。これのもっとも極端な例が「ミニマル音楽」なんだろうけれども、なるほど、そう言われてみればそうかも、と思ったのでした。音楽における「繰り返し」って、言わばもっとも原初的なものだから、かつて廃れた形式がこういうかたちでそれこそしつこく回帰してくるものなのかもしれない。

2). で、本日の「世界のオーケストラ」三昧なんですが … ボストン交響楽団は例外として、フィラデルフィア管弦楽団、NYフィル、シカゴ交響楽団など、米国の一流と言われているオケの「本拠地」ホールって、どういうわけか(?)音響が悪い場合が多かったりする。ようするに NHK ホールみたいに残響が短すぎる。そのせいなのか、やたら音を張り上げるようなスタイルの奏法が特徴になったりする。ホールの良し悪しがオケの音質、いや音楽性まで左右するという、なんともソラ恐ろしい話ではある。

 それはそうと、高関さんだったかな、ぽろっとついでみたいに話された内容がすごすぎて、思わず聞き耳を立ててしまった ―― ロシアの名指揮者、スヴェトラーノフ氏はなんとなんと、指揮台の譜面台の上に小さな「赤い扇風機」を演奏中ずっと回しっぱなしにしていた、という !!! 

 ホントかね、と思って聴きながらスマホで検索したら、たとえばこちらの検証ページとかが引っかかった。いやもう驚いた。そんなことしてたんだなあ[ と、口あんぐり ]。なくて七癖、ってとこかしら。

3). そういえば先週の「古楽の楽しみ」は太陽王ルイ 14 世時代のリュリとかカンベールとかのバレエ、オペラ作品を中心にかかっていたけれども、関根先生が、「 … これはステップの指示が記された舞踏譜で … 」と、そんなことを話していた。と、ここで天啓のごとくナゾが解けた。なんのナゾかって、いつぞや書いたこの拙記事で疑問に思った、あの「譜面のあるダンス」。ほんとのところを知るには原文に当たってみるほかないが、おそらくこれは関根先生の言う「舞踏譜」の意味にちがいないでしょうな、時代的にもどんぴしゃですし。「舞踏譜」って現物がどんなのか見たことないけど、「数字付き低音[ 通奏低音 ]」みたいな楽譜なんですかねぇ。

posted by Curragh at 22:25| Comment(2) | TrackBack(0) | NHK-FM

2015年09月08日

「だけしか」⇒ 'your wife' ⇒ 健全な批評

1). もうだいぶ時間が経過しているけれども、『文藝春秋』を買いまして、今年の芥川賞受賞作品二編、楽しませていただきました。個人的には「流行りものは読まない( 苦笑 )」というモットーがあるんですが、率直な読後感としては、どっちもそれぞれ味があっておもしろいなあ、と。ラストの神谷さんのぶっとび(?)ぶりとか、「早う迎えにきてほしか」が口癖ながら、さらさらその気のない祖父さんと孫の( ちぐはぐな )やりとりとか、どちらもさすが、と思ったのでありました。

 でもってこれは内容ではなく、表記のことで気になった点がひとつだけ … 偶然にも、両作品には「 … だけしか … 」という言い回しが使われていて、引っかかるものがあったのも事実でした。
… 最初は神谷さんにまつわることだけしか綴っていなかったノートに、最近では漫才のネタや雑感までもが書き込まれ、もはや自分の日記のようにさえなっていた。――『火花』

… サロン代わりに通院している老人たちは一割から三割だけしか医療費を負担せず、…
――『スクラップ・アンド・ビルド』
だけしか、ねぇ。昔、文章教室みたいなとこで注意されたことに、まさにこの「だけしか」があったもので。もっとも「言語」というものは生き物、ナマモノなので、時代を経てだんだんに移り変わるもの。おそらくいまの若い読み手がここの箇所見ても、とくになにも感じずにすすっと先に進むと思う。ある意味、世代がわかる箇所、と言えるのかも。

 ついでに『火花』は、作中のコンビ名「スパークス」と引っかけているのかな、と思っていたら、こちらのブログ記事によると、又吉さん自身の以前のコンビ名も引っかけてあるらしい。小説の仕掛け、ってことかな。

2). この手の「文芸もの」、とくに散文で書かれた「小説」というジャンルは、翻訳という観点からもひじょうにむずかしいものであることはまちがいない( もっともこと外国語で書かれたものならどんな文書ドキュメントの類いでも、それぞれ骨を折る部分はたくさんあるけど )。たまたま時おなじくして、図書館からこういう本を借りて読んでいたら、キャサリン・マンスフィールドの短編 The Stranger( 1920 ) の一節が孫引用されていた。著者の故鈴木主税氏は、マッキベンの処女作『自然の終焉』をはじめ、ベストセラーになった『大国の興亡』など、ノンフィクション本やだれも手を付けないような(!)大部の著作をたくさん邦訳された大先生。引用されているのは、慶応大学教授だった鈴木孝夫氏のエッセイ『ことばの人間学』でして、こちらの鈴木先生は、
"We can't go quite so fast," said she. "I've got people to say good-bye to ―― and then there's the Captain." As his face fell she gave his arm a small understanding squeeze. "If the Captain comes off the bridge I want you to thank him for having looked after your wife so beautifully." Well, he'd got her. If she wanted another ten minutes ―― As he gave way she was surrounded. The whole first-class seemed to want to say good-bye to Janey.
の太字箇所がどうしても解せなかったんだそうです( ここは、前年に結婚した欧州大陸に住む長女を訪問する10 か月[!]の船旅を終えて帰ってきた妻 Janey を、やっとの思いで出迎えた旦那の Hammond 氏とのやりとり )。

 著者の鈴木先生は、「鈴木孝夫の英語力は、… とびきり優秀な日本人の水準をもはるかに抜いているそうだから、われわれ平凡な日本人が英語の文章の細かいニュアンスをどの程度まで理解できるのか、まったく心もとない話だ」と書いています( pp. 132 − 36 )。

 英語力に自信をお持ちの方、太字箇所をどう思われます? オチを言うと、「コロンブスの卵」的な話になってしまうんですけども … 不肖ワタシがここんところを読んだとき即座に思ったのは、いつぞやここで取り上げた The Da Vinci Code がらみの的外れな指摘だった。はっきり言って、この手の英文を正しく解釈する、読解するというのは、もう語学的にどうのこうのという話じゃない。感覚、いや直感としか言いようがない。でもってワタシはマンスフィールドの上記作品が収められている原本( Collected Stories of Katherine Mansfield, Penguin Books, 1981 )を図書館で借りて、ついでに現在入手可能な邦訳としては唯一ではないかと思われるこちらの本も借りて、じっくり読んでみた。するとたとえば、
Would she really not be long ? What was the time now ? Out came the watch ; he stared at nothing. That was rather queer of Janey, wasn't it ? Why couldn't she have told the stewardess to say good-bye for her ? Why did she have to go chasing after the ship's doctor ? She could have sent a note from the hotel even if the affair had been urgent. Urgent ? Did it ―― could it mean that she had been ill on the voyage ―― she was keeping something from him ? That was it ! He seized his hat. He was going off to find that fellow and to wring the truth out of him at all costs. He thought he'd noticed just something. She was just a touch too calm ―― too steady. From the very first moment ――
なんてことが書かれてあったり、このハモンドさんという人がどういう人で、どういう気持ちをわが愛妻 ―― だれの手にも渡してなるものか ―― に抱いていたのかがこの物語中、暗示されている箇所がそこここに見受けられます。とくれば、ここは奥さんがそんなダンナさんの心情をなかば見透かしたように your wife とことさら強調したのも、なるほどと思われるはずです。

 当方、この手の本が大好きなこともあって、前にも書いたけれども、手許にはキャンベル本の翻訳者、故飛田茂雄先生の『翻訳の技法』なんかもあったりします … でも最終章の「長文演習課題文」をよくよく見ると、ちょっと不適切というか、ナゾナゾのオチがわかるかわからないかで訳が決まってしまうような問題もあったりします( わが子にメスを入れられない外科医の「母親」の話とか )。こういう問題ないし限界は、どうしてもこの手の「翻訳指南本」にはつきものかもしれない。もっとも、「読めば読んだぶん、誤訳は減る」とは思うが、これさえアタマに入れさえすれば、いま目の前にひろげてある英語原文なり原本なりが正しく読めますヨ、なんてことはむろんありえない話で … 浜の真砂は尽きるとも、で[ ちょっと喩えがヘンか ]。Ninety Six を '96' と書いちゃったりする軍人さんだっていたくらいですし…。

3). こういう話を持ちだしたのも、どうも巷では「他人様の揚げ足取り」にすぎないことがあまりにも横行しているような気がするからでして … そういうあんたはどうなんだ、とくるかもしれないが、だれが見てもこれおかしいでしょ、ひどいよね、というものしか取り上げていない( はず )。少なくとも書いている本人はツマラン揚げ足取りはしていないつもりでいる。ここのところ「パクリ狩り」が流行っているようですが、しかるべき教養と知識を持った人がしかるべき批判ないし批評をするぶんならなんら問題はないし、どんどんすべきだと思う。翻訳がらみでは誤訳の指摘、ということがすぐ思い浮かぶが、上記の例にもあるとおり、どんな達人だってまちがえることはある。『愛するということ』改訳(!)者の鈴木晶先生はかつて、アフリカで kite が飛んでいる、という箇所を「凧」としたり、「麦畑で踊っても、麦の穂は折れない」という空気の精みたいな伝説的バレリーナの記述に出てきた corn を「トウモロコシ」とやって、舞踏史の専門家から「こんなことも知らない人がバレエの本を訳しているとは」とコキおろされたんだそうな(『翻訳は楽しい』pp. 130 − 31 ) [ 前にも書いたかもしれないが、飛田先生も似たようなこぼれ話を告白している。ロンドン地下鉄の意味の tube を「試験官」と誤記したゲラ刷りを見た校正者から誤訳の指摘を受けた、と ]。

 … さんざ揚げ足取りしておいて、「ほんとうの」問題の本質には目もくれず、「祭りだワッショイ」でハイおしまい、では、この国の言論空間はますます風化浸蝕に晒されるだけだろう、自戒の意味もこめて。

 というわけで、最後はひさしぶりに ―― いや、性懲りもなく? ―― 小クイズ。出典はこちらの本。米国の詩人 Galway Kinnell という人の書いた詩集から 'Farewell' の一節。これは本文で書いたような前後関係とか感覚とかはまったく関係なしに、文芸ものの翻訳者を志す学習者だったら一発で「正しく」読み取ってほしいところ。ちなみにこの本によると、邦訳では下線箇所がそれぞれ「手や顔を洗う」、「二、三人ずつ」になってたんだそうです。ちなみにオケが演奏していたのは、ハイドンの有名な「告別[交響曲第 45 番]」。
The orchestra disappears ――
by ones, the way we wash up on this unmusical shore,
and by twos, the way we enter the ark where the world goes on beginning.

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