2016年02月29日

アランソン写本 ⇒「重訳」について

 本日は4年に一度しか巡ってこない貴重な一日ですので、有効活用しようかと思い立ちました( 苦笑 )。まずは本家サイト連動として「アランソン写本」のことについて、ディレッタントなりにすこしまとめてみました。

 本家サイト英語版には、こちらのユトレヒト大学サイト様に全文が掲載されているこの写本の現代仏語訳から ―― Google 翻訳などの便利なツールの助けも借りて ―― 拙訳による現代英語版にて紹介してあります。前にも書いたかもしれないですが、ワタシは仏語はいまだ初心者レベルのままなので、ほんらいはこういうことに手を出しちゃいけない … と思ってるんですが、経験上、Web 翻訳ツールによる仏英翻訳はそんなにハズれがないし、意味もそれなりにきちんと通ったりする。さすがはおんなじ印欧語族だなあという感ありですが、それに加えて手持ちの仏和辞書も引いたり、それでもハテナなときは原典のヒベルノ・ラテン語にもどって、羅和辞典なり信頼できる Web 上の羅英辞典なりで調べて訳語をひねり出したりしてました。見ていただければわかるように、われながらこれよくもやったものだな、と … このセクションを( いちおう、ではあるが )脱稿するまで数年がかりだったような … 訳出にどれくらいかかったかなんていまや記憶も定かではないし。

 本題にもどって … まずはこの「アランソン写本」というものがどういうものなのか、おもに上記サイトから抜粋して書き出してみたいと思います( 適宜、セルマー校訂本その他の資料も使用 )。
1. 写本の所蔵場所、出処、成立年代について:バス・ノルマンディー地域圏オルヌ県アランソン市立図書館蔵 Bibliothèque Municipale d'Alençon, Codex 14, f° 1 r − 11 v. 、出処はサン−テブルー大修道院[ 現在は廃墟 ]。成立年代は 10 − 11 世紀。

2. 『聖ブレンダンの航海』記述箇所について:写本 1 r − 11 v、写本寸法 180 x 140 mm[ 最初の 10 ページ分のみ、その他のページは 290 x 200 mm、全 156 葉 ]、各葉平均 40 行で、ふたり、もしくは3人の写字生によって書かれた可能性がある[ セルマー ]。またセルマーの分類では「長い」終結部、つまり「聖ブレンダンの帰還と死」を描写する章を持つ( セルマーによると、調査した 120 のラテン語写本群の半数強がこの最終章を持つ「長い」ヴァージョンだという[ Selmer, op. cit., pp. 97 − 99 ] )。前にも書いたと思いますが、この航海譚の「元型」にはこの最終章がなかったとする説があります。「短い」ヴァージョンと「長い」ヴァージョンの分化はアランソン、ヘントなど最古の写本群にも見られることから、わりと早い時期に生じたと考えられます。

3. 『聖ブレンダンの航海』本文の特徴:全体は 39 の章に分かれる( セルマー校訂版の底本ヘント写本[ Ghent, Universiteitbibliotheek, 401, ff. 1r − 21v. ]は全 29 章 )。各章の「見出し」はなし、拙英訳版の見出しはあくまで便宜上のもの。全体的に詰めて書かれているため、ヘント写本よりページ数は少ない。最初の4葉のみ 13 章分が、4葉以降は冒頭の大文字を書くためにスペースが空けられているが、一箇所を除いて空白のまま残されている。書体はいわゆるカロリング小文字体主体[ 一部アンシャル体、セミアンシャル体あり ]で、イタリアの研究者オルランディはメロヴィング朝時代の他の写本と共通点がいくつかあることを指摘、カロリング・ルネサンス以前のフランク王国内で書かれた可能性を示唆する[ → 参考までに中世アイルランドのカリグラフィーについてのページ ]。また本文には省略形が多用されている[ キリストを表す i と x の組み合わせ、「つまり id est 」を示す・|・など ]。

4. 異同箇所について:アランソン写本とヘント写本はその大部分がほぼおなじと言ってもよいくらいだが、若干の相違点がある。
アランソン写本にはあって、ヘント写本にはない単語 / 一節:セルマーによると3か所、うちひとつは一文まるまる追加。太古先生による邦訳版訳注 54 を参照。ちなみにその箇所はセルマー校訂版の 16 章「海の怪物」で、怪獣に襲われそうになったブレンダン院長一行が神に対して祈りを捧げる場面で、アランソン写本では預言者ダニエルへの嘆願が記されている。ヘント写本ではこの嘆願がふたつしかなく、次段落出だしの「3つの嘆願」と矛盾する。
ヘント写本にはあって、アランソン写本にはない単語 / 一節:1章の二文(「 … そこですぐに引き返しました。青年も舟のある汀まで来てくれましたが、舟に乗りこむと、たちまち青年の姿は掻き消されてしまいました。そして来たときとおなじ暗がりを抜けて、『歓喜の島』にもどってきました[ 打ち消し線部分がない ]」)、5章の最後( … おまえたちは悲惨な最期を遂げるだろう )、6章( … そのとき聖ブレンダンは弟子たちに言われた、「神はなんとよき使いを寄こしたことか? 彼[ 無人の島にいた犬のこと ]についてゆくのだ」)、 16 章(「今夜、ある魚の一部が打ち上げられ、おまえたちはそれを食べることになる」というブレンダン院長の予言 )、26 章「隠者の島」の描写箇所( ... 泉は湧き出すはじからその岩に吸いこまれ … )。

4. 冒頭部分( インキピット )の比較:ラテン語原文と拙試訳を載っけておきます( [ ]はアランソン写本中の表記 / 写本にある箇所、( )はない箇所、下線はヘント写本の表記、朱文字はヘント写本にない箇所)。

VITA SANCTISSIMI CONFESSORIS CHRISTI BRENDANI
[ INCIPIT VITA SANCTI BRENDANI ABBATIS ]

Sanctus Brendanus, filius Finloc(h)a, nepotis Alt(h)i de genere Eogeni, stagnili regione Mumenensium ortus fuit. Erat v[u]ir magn(a)e abstinentiae[ cie ] et in v[u]irtutibus clarus trium milium fere monachorum pater. / Cum esset in suo certamine in loco qui dicitur saltus v[u]irtutis Brendani contigit ut quidam patrum ad illum[ eum ] quadam v[u]espera v[u]enisset nomine Barinthus nepos illius. / Cumque interrogatus esset multis sermonibus a pr(a)edicto sancto patre, cepit lacrimari et prostrare se in terram et diut[c]ius permanere in orat[c]ione. At Sanctus Brendanus erexit illum de terra et osculatus est eum, dicens : "Pater, cur tristiciam habemus in adv[u]entu tuo ? Nonne ad consolationem nostram venisti ? Magis l(a)eticiam tu debes fratribus preparare. Indica nobis v[u]erbum Dei et refice animas nostras de div[u]ersis miraculis, qu(a)e v[u]idisti in O[o]ceano".

聖なる告解者にしてキリスト[ の使徒 ]ブレンダンの生涯

 聖ブレンダンは、エオガン[ オーガナハト ]王家に連なるアルテの孫フィンルグの息子として、ムウの男たちの治める湿原地帯でお生まれになった。偉大な禁欲の人で、数々の奇蹟と、三千人近い修道士の父としてその名はあまねく知れ渡っていた。その聖ブレンダンが、「ブレンダンの奇蹟の野」と呼ばれる地にて[ 霊的 ]戦いをつづけていたある日の晩、彼の甥* のバーリンドなる霊父がやってきた。聖ブレンダンが矢継ぎ早に質問を浴びせると、バーリンド師は涙を流し、床にひれ伏して長いこと祈りつづけた。聖ブレンダンは彼を床から起こすと、抱擁して呼びかけた。「あなたが来てくれたというのに、なぜ悲しまなくてはならないのか? [ あなたはわれらの心に慰めを与えるために訪ねられたはず。] どうか兄弟たちに喜びを授け、神の御言葉をお示しくだされ。あなたが見たという大洋のさまざまな驚異をどうかわれらにもお伝えくださり、われらの心を満たしてくだされ」。…
… 疲れた( 苦笑 )。ほんとはいまひとつ検討したい箇所があるんですけど、またの機会にでも。しかしそれにしても、いまの Web 翻訳ってすごい、と思う。Google 翻訳も、ついにラテン語からの直接翻訳が可能 ?! になっていてひじょうにおどろいた。そういえばしゃべると自動的に翻訳してくれる拡声器とかあるみたいで … 恐るべきはテクノロジーの進歩哉。

*… ここではあえてそのまま訳出した 'Barinthus nepos illius' という箇所は、カーニーによる書評( 1963 )で批判されており、正確にはバーリンドは「9人の人質」ニアルの4代あとの子孫になる。

付記:以上、書いてきたように、ワタシはアランソン写本のヒベルノ・ラテン語原文から現代英訳文を起こすのに、現代仏語訳 → そのまた英語訳という手順を踏んでました。ほんらい翻訳というのはそもそもの土台の原典なり原文から起こすのが原則だと思うが、いろいろな人の手になる英訳とか見てみると、なんというか翻訳という営為そのものを考えなおすいい機会になるというか … 前にも書いたことですけどおなじ現代英語訳と言ったって、オメイラ教授版とそれ以前に出回っていたウェッブ版とはずいぶんちがっていたし、定評あるオメイラ版にさえ「訳抜け」があったり不明な訳語 / 訳文なりがあったりと、いろんな意味で翻訳学校みたいなところがあったのも事実。

 というわけで、いま読んでるところの『 21 世紀の資本』。聞くところによればなんでも版元は邦訳本を刊行するに当たり、訳者先生方に、こんな分厚い大著の翻訳になんと2、3 か月しか猶予を与えなかったというトンでもないムチャ振り( !! )だったようで、訳者先生におかれましては ―― いくらこの手のお硬い本としては異例の売れ行きだったとはいえ ―― たいへん気の毒だったように思う。それでこれだけの品質を維持しているのだから、さすが、と言うべきでしょう。

 とはいえやはり「拙速」だったのかなあ、みたいな箇所もちらほら … 目につくのもまた事実でして、訳者先生自身による「正誤表」でほとんどが訂正され、また増刷分から訂正が反映されてもいるようですが、たとえばこういうのはいかがでしょうか。
… でもそこで問題になっている財産はたいして多くないことに注目。道徳的人物の所有財産は, 物理的な人間が自分のために保有する財産に比べて, 一般にはかなり少ないからだ( p. 190 )
 ちなみにそのおなじ箇所の原文と英訳を並べると、
[ 仏語原文 ]:Il faut toutefois souligner que l'enjeu est relativement limité, dans la mesure où ce que possèdent ces personnes morales est généralement assez faible par comparaison à ce que les personnes physiques conservent pour elles-mêmes.

[ 英訳 ]:Note, however, that the stakes are relatively limited, since the amount of wealth owned by moral persons is generally rather small compared with what physical persons retain for themselves.
 万年仏語初心者なので知らなかったが、こちらの先生の指摘どおり、手許の仏和辞書にも personne morale / personne physique という言い方は載ってました。ということは、ごく普通の言い回しと考えていいわけで、英訳もなんでこういう? 訳語になるのかなあ、と思ってしまう。邦訳書のトビラには「凡例」として、「翻訳には主に、英語版である Capital in the Twenty-First Century ... を用いたが、適宜、フランス語原版も参照した」とあります。

 前記事の引用に使ったケラーの『バッハのオルガン作品』という本の場合、訳者先生たちによると翻訳はあくまで独語原書から起こし、必要に応じて英訳版も参照したそうです( この本の場合は英訳版が事実上の改訂版のような性格だったため )。やむを得ず「重訳」するときは、ほんらいこの手順ですべきものなんだろうな、と思ったしだい。それともうひとつ「 … に注目」みたいな訳がずいぶんと多い。その箇所もざっと見てみたら、なるほど英訳本でも 'Note that ... 'みたいな文が多かったけれども、ピケティ教授の原文は、たとえば ' il est également important ... '、'Il faut toutefois souligner ...' みたいになっていて、こういうのもどうなの、と思った。なんかイマイチ読みにくいなあ … というひとつの原因にもなってます、ハイ。書かれてる内容はいいのにねぇ … 。

 というわけで、本日がお誕生日の方、おめでとうございます !! きっと楽しく過ごされたことでしょう。そういえば閏年って、オリンピックイヤーでもありますね … 。

2016年02月28日

ヴェックマンとフローベルガー

 先週の「古楽の楽しみ」は「音楽家を巡る人間模様」というテーマでしたが、ワタシがとくに惹きつけられたのはフローベルガーとヴェックマンの回。南ドイツ( とオーストリア )のオルガン楽派の代表みたいに思っているフローベルガーと、北ドイツのハンブルクで活躍していたヴェックマン。寡聞にしてはじめて知ったのが、ふたりはよきライヴァルにしてよき親友 ?! だったという事実。

 案内役の大塚先生によると、フローベルガーヴェックマンは 1645 − 53年のあいだ、ドレスデンにて夢の鍵盤楽器対決 !! をしたらしい。ってこれってどっかで聞いたような … そう、ドレスデンで音楽対決、というと、すぐバッハ vs. マルシャンを思い出す。こちらは 1717 年 9月、ヴァイオリン奏者にしてドレスデン宮廷楽師長ヴォリュミエに招待されたバッハがいそいそと行ってみたものの、当地に着いたら当の対戦相手マルシャンは不戦敗? を決めこんでさっさと帰国したあとだった。けっきょくバッハ氏のワンマンショーと化した … らしい。へぇ、ほぼ 70 年前にもやはりおなじドレスデンにてそのような「夢の対決」があっただなんて。

 でもこれってあとあとのオルガン音楽発展を考えるとすごく重要な史実だ、と思い、さっそく図書館へ。あいにく音友社『新訂 標準音楽辞典』には記載がなかったが、平凡社の『音楽大事典』のヴェックマンの項目には「 … ドレスデンに戻り、ここでフローベルガーとの競演が行われた」とはっきり書いてあった( フローベルガーの項目にも「 … ドレスデンでヴェックマンと競演し、親交を結んだ … 」との記述あり )。

 これがどうして大事かって言うと、北ドイツ・オルガン楽派を汲むヴェックマンと、南ドイツ流派のフローベルガーが互いの作品や情報を交換したことで、ふたつの大きな流派の作風が融合したってことです。やがてこれが大バッハのオルガン音楽へと流れこむ。オールドルフで教会オルガニストをしていた長兄ヨハン・クリストフの許に引き取られたバッハ少年、この長兄からはじめてクラヴィーアの手ほどきを受け、あッという間に課題曲を弾きこなしたものだから練習する作品がなくなった。そこでバッハ少年は、兄ちゃん秘蔵の楽譜が見たくてしようがない。ところがケチ[ 失礼 ]なクリストフ兄ちゃんは「まだアンタにゃ早すぎる !! 」とどうしても許可してくれない。しかたないから夜、みんなが寝静まってから、鍵のかかった格子戸の隙間に手を突っこんで楽譜を丸めて取り出し、月明かりのもとで(!)写しとった。後日、これがバレてしまい、せっかくの苦労の結晶も兄ちゃんに没収されてしまった。このとき写譜したであろう楽譜こそ、パッヘルベル、ケルル、そしてフローベルガーらの鍵盤作品だったと言われてます。

 やがて長兄の家を去り、リューネブルクの聖ミカエル教会の聖歌隊学校に入ったバッハ少年は、学校から歩いて数分のマルクト広場に面した聖ヨハネ教会オルガニストだったゲオルク・ベームの教えも受けたことが確実視されてもいる。* この人はスヴェーリンク、シャイト、シャイデマン、ラインケン、トゥンダー、そしてヴェックマンといった北ドイツ楽派の流れを汲む巨匠のひとりだったので、この時点で早くも若きバッハは南と北のオルガン音楽流派を体得したことになる。1703 年、弱冠 18 歳の若きオルガニスト・バッハは破格の待遇でアルンシュタットにできたばかりの聖ボニファティウス教会( 新教会 )の、しかもできたてホヤホヤのオルガンの奏者として赴任。このアルンシュタット時代にかの有名な「夕べの音楽」を聴きにはるばる 300 km 以上もの道程を歩いて( !! )ハンザ同盟都市リューベックのブクステフーデ師匠を訪問することになります。こうしてバッハはフローベルガーらの流派からはフレスコバルディなどを源流とするイタリアの鍵盤音楽、ブクステフーデやベーム、ラインケンなどからはヴェックマンを含む北ドイツ・オルガン楽派の作品を学習したことになります。これにいわゆる「ヴィヴァルディ体験」と呼ばれる一連のオルガン / クラヴィーア協奏曲といった編曲もの( マルチェッロの有名なオーボエ協奏曲のクラヴィーア編曲 BWV. 974 もあり )と、マルシャンなどのフランス音楽趣味も自家薬籠中の物としたバッハは、結果的に当時の全欧州の音楽の流儀を統合する方向へと進むことになり、「バッハ様式」とでも呼んでもいい高みへと登りつめることになります、って砂川しげひささんの『のぼりつめたら大バッハ』じゃないけど。

 ↓ は、ケラーの『バッハのオルガン作品[ 音楽之友社、1986 ]』邦訳書から転載( フローベルガーとヴェックマンを結ぶ実線、およびプレトリウスとヨハン・クリストフ・バッハ[ 父の従兄のほうですが … ]を結ぶ点線は、引用者が追加したもの )。

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 ついでに金曜の夜に見たこの番組、いやー、おもしろいですね !! というかなんとまたタイムリーな。ちょうどフローベルガーとヴェックマンのこと書こうかな、なんて思っていた矢先だったので。「教会カンタータ BWV. 82 [ シメオンの頌、いわゆる Nunc Dimittis が主題 ]」の有名なアリアの「ラメントバス」音型とか、「ジーグ」の話とか( 富井ちえりさんという英国王立音楽院大学院に留学されている方の BWV. 1004 の演奏はすばらしかった、そして使用楽器は 1699 年製ストラド !! )、話しているのが王立音楽院副学長なんだから当たり前だが正確かつ当を得た、そして比喩を交えたとてもわかりやすい講義でとてもよかった … だったんですけど、視聴していておや? と感じたのが、いまさっき書いたばかりのバッハのアルンシュタット時代の不名誉な逸話についてのお話のところ。夏のある日、広場のベンチにバッハが座っていたら、「禿頭のバッハ[ ガイエルスバッハ ]」という渾名の教会聖歌隊ファゴット吹きの学生に呼び止められてケンカになったという有名なあの話。バッハは「ナイフ」を抜いて応戦した … ってアラそうだったっけ、砂川さんの本のイラストにもあったように、たしか腰に下げていた礼装用のサーベルを抜いてチャンチャンバラバラじゃなかったっけ、なーんて思ったので、さっそく本棚からシュヴァイツァーの『バッハ』上巻を繰ってみた。そしたら、「 … 彼[ バッハ ]は合唱隊員たちや、その指揮をしていた生徒と非常に仲が悪かった。リューベック旅行の前には、彼とガイエルスバッハという生徒とのあいだにとんでもない一場があった。ガイエルスバッハは、バッハに罵倒されたというので、街上で杖を振上げてバッハに殴りかかった。バッハは短刀を抜いた」。† もうひとつ『「音楽の捧げもの」が生まれた晩』を開くと、
教会の記録によると、ファゴット奏者の学生ヨハン・ハインリヒ・ガイアースバッハがマルクト広場で帰宅途中のバッハの行く手をふさぎ、自分の演奏をやぎの鳴き声と比べたことについて糾弾するとともに、教師であるバッハを臆病な犬と呼んだあげく、棒で殴りかかったという。バッハはのちに、ガイアースバッハが先に殴りかかったのでなければ、間違っても短剣( 血気盛んな人間の多かった当時は、みな普通に持ち歩いていた )を抜くようなまねはしなかったと述べている。教会の説明によると、「両者とも[ ガイアースバッハと ]一緒にいた学生がふたりを引き離すまでもみ合っていた」という[ p. 109 ]。

 …「短剣」が、一部の人の頭のなかでは ―― ワタシも含めて ―― いつのまにか「腰に下げたサーベル」というイメージにすり替わっていたようです[ とはいえ「血気盛んな人間の多かった当時は、みな普通に持ち歩いていた」っていう但し書きだかなんだか知りませんけど、これってどうなのって思うが ]。いずれにせよ王立音楽院副学長ジョーンズ博士の言う 'he drew a knife ...' というのは、やっぱり dagger とかって言い換えたほうがよいような気がするが … それはともかく、事実関係はこまめに裏を取りましょう、という教訓でした。ちなみにバッハという人はたいへん控え目な人だったらしくて、自分の腕前をハナにかける、なんてことは生前なかったようです。敵前逃亡したマルシャンの鍵盤作品の楽譜も持ってて、弟子の前でよく弾いて聴かせていたらしい。なんと謙虚な、だがすこぶる貪欲な音楽家なのだらう !!

 話をもとにもどして … フローベルガーと仲よくなったヴェックマン、互いの作品を交換するだけでなく、親友から学んだ南ドイツ流派の技法をさっそく取り入れた作品も書いており、そのサンプルとしてかかったのが「カンツォーナ ニ短調」でした。ここでは便宜上南ドイツ楽派として書いているフローベルガーですが、この人はいわゆるコスモポリタンでして、ローマで大家フレスコバルディの許で研鑽を積んだのち、パリ、ロンドン、ブリュッセルと巡ったあと、晩年を指揮者コンクールで有名なブザンソンにも近いエリクールで過ごしたらしい。この人の曲集に出てくるトッカータは即興的なフーガ部分を含み、これがやがては「トッカータとフーガ」形式へと発展することになります。そして若かりし日の先生のひとりに、以前ここでもちょこっと書いたオルガニストのシュタイクレーダーもいたというから、やはりつながってますねー。

 ついでにヴェックマンのほうはなんと、ドレスデン宮廷にてハインリヒ・シュッツ門下の少年聖歌隊員だったという! シュッツの弟子だったんだ、この人。ちょうど 30 年戦争のころ、たいへんな時代を生き抜いた音楽家だったのでした。

* ... 椎名雄一郎さんのアルバム The Road to Bach の角倉一郎先生の書かれたライナーによると、「 … 2006 年にヴァイマルの図書館で驚くべき楽譜が発見された。それはバッハ自身がタブラチュアという記譜法で書き写したラインケン( ハンブルクのカテリーナ教会オルガニスト )のコラール幻想曲『バビロンの流れのほとりで』という有名な曲で、この手稿譜の最後には『ゲオルク・ベームの家で、1700 年にリューネブルクで記入』( Ā Dom. Georg Böhme descriptum a. 1700 Lunaburugi )とバッハ自身の手で記されている。しかもこの楽譜が書かれている紙の種類が、ベーム自身が日頃使っていた紙と同質であることも確認されたのである。この事実は何を語るのだろうか? もっとも自然な想像は、この楽譜を筆写したとき、バッハはベームの家の内弟子として同居していただろうということである[ p.2]」とのこと。

† ... アルベルト・シュヴァイツァー / 浅井真男他訳『バッハ 上』白水社、p. 149 、典拠はアンドレ・ピロによる。

追記:というわけで、先日いつも行ってる図書館にていくつかバッハ関連本漁ってみたら、「 … バッハは腰に差していた剣を抜いて … 」とか、『バッハ資料集』の引用として「 … バッハは剣を抜いて … 」とか書いてあった。日本語で「剣を抜いて」とくると、たいていの人は「短剣」ではなく、やはりサーベルのほうを連想するんじゃないかな。というか、短剣かはたまたサーベルか、バッハはいったいどっちの「武器」を手にしてガイエルスバッハと対峙したのであるか ??? そしてよくよく考えると ―― いや、よく考えなくても ―― 今年ってフローベルガーの記念イヤー( 5月 19 日で生誕 400 年、その前の 16 日はわれらが聖ブレンダンの祝日 )、そして生年不詳ながらもいちおうヴェックマンも、一部資料によればおない年生まれということになってます。ということで個人的には、今年はヴェックマン&フローベルガー全作品を制覇しよう !! と決めたのであった。

posted by Curragh at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2016年02月14日

ジャヌカン、「重力波の音楽」、etc.

 この前「スター・ウォーズ」サーガ最新作を見に行ってきたばかりで ―― しかもラストがスケリグ・マイケルという ―― 興奮冷めやらぬなか、こんどはほんとの宇宙、それも遠い遠いはるか彼方の、なんと 13 億光年( !! )もの彼方からとんでもない「波」がこの地球までやってきて、それを国際科学者チームが捉えたというこれまた衝撃的なニュースが飛びこんできまして、この方面にまるで疎い人間も( これでも昔は天文少年みたいなところはあった )久しぶりにわくわく感を味わっているところであります。


 'We have detected gravitational waves. We did it!'

 米国レーザー干渉計重力波検出器[ LIGO ]研究所のデイヴィッド・ライツェ所長が「重力波観測一番乗り」を果たした歓喜からか、上気した面持ちで発表した会見の模様が何度も TV ニュースに登場しましたね。たしかにこれすごいことです … とほうもない質量を持つブラックホールが、しかも2個も !! まさに「合体」するそのときのこれまたとほうもない重力波、というか重力「嵐」みたいなものが 13 億年もの時空を文字どおり飛び越えて昨年9月ごろに、しかも 観測装置 LIGO の試験中に(!)たまたま捉えた、というのだから。まさにびっくりポンや。

 だいぶ前、故南部陽一郎博士ら日本人研究者3名がノーベル物理学賞を受賞したとき、「クォーク」とか「反粒子」とか、そんなことを古代のグノーシス神話とからめてここでもちょこっと触れたことがあったけれども、「フォースの覚醒」と「シネマの天使」を見に行ったついでに立ち寄った静岡駅前の本屋さんでたまたま「みすず書房フェア」というのをやってまして( もちろん例のピケティ本もデンと陳列されていたけど、そっちではなくて[ スミマセン … ] )こういうささやかな著作を買った。当方、キャンベル本にも言及の出てくるミルチャ・エリアーデとかの著作は図書館にて眺めたことはあったけれども、こちらの「構造主義」についてはまるでさっぱりではあるが、著者レヴィ−ストロースが英語で( !! )行ったという講演録であり、ぴろっと拾い読みするとたとえば「バッハの時代に形をととのえたフーガ形式は、ある種の神話、つまり … 」なーんてあるもんで、つい買ってしまった( 苦笑 )。帰宅してワイン呑み呑み読みはじめたらけっこうおもしろかったので、読了したらここでもなにか書くかもしれません、といつもこればっかでごめんなさい。ようするに、昔の人の思想ないし神話体系には、なにかしら現代の、しかも最先端科学と思われている分野と不思議なことにつながりがあったりする、ということが言いたいのでして( たとえば古代世界のヒエラルキーは宇宙秩序を模したものとしての神話体系と密接な関係があり、その最古の例がシュメールで発達した神聖都市国家文明 ) … そしてそうそう、今回はじめて「検知」されたという重力波を、なんとなんと「音楽」化してしまう試みまでされていたのでありました。こっちにもまたビックリ ↓

 

 音楽ついでにこの前の「古楽の楽しみ」では、クレマン・ジャヌカンの楽しい声楽作品もいくつかかかってました …「パリの物売りの声」、「女のおしゃべり」といった世俗歌曲作品を聴きますと、なんというか当時の市井の人々の活気と言いますか、息遣いみたいなものまで感じられてすごく生々しく、というかはっきり言って前衛的、ポップでさえある! 以前にもこの番組でジャヌカンのこういった世俗歌曲を耳にしたことがあったが、オノマトペや効果音を多用したりと、ダ・ヴィンチが生きていたころの音楽とはとても思えない。もっとももっと真面目な、厳格な模倣対位法によるラドフォードなどの宗教声楽作品もかかってましたけれども。この時代の音楽ってなんか温度差(?)がはっきりしていておもしろいですね。いずれにせよこういう壮大な「宇宙の調べ」に耳を傾けていると、日々報道されるたぐいのイヤなニュースだの醜聞だのからつかのま解放される気分になる。

付記:突然ですがこちらの最初の設問、どう思われますか? 

 見てのとおり今年度のセンター試験の「世界史B」の第1問です。で、これはワタシにかぎったことじゃないと思うんですけど、たとえば「下線部 (1) に関連して … 」なんて書かれると、いわゆるカロリング・ルネサンスに関することかなってまず思いますよね ところが選択肢を見てみると、ナポレオン3世は … とか、イヴァン3世は … とか、てんでカンケイない事項ばかり羅列してある。もっとも公正を期して断っておけば、ほかの設問でもこういうわけのわからん選択肢が並んでいるわけじゃないです。が、こういう意味のない選択肢から解答させるってのはもうやめるべきではないかと思うのです(「正解」以外の選択肢はみな誤ってるのは当然だろ、という突っこみはなしでお願いします。そういうこと言ってるんじゃないので )。「下線部に関連して … 」ったって、「カール大帝」とはなーんも関係ない人[ と時代 ]ばっかですし。なんというか、辞書に載ってる単語をなんの脈略もなく、ただ順番にやみくもに記憶しようとしているようなもので、そんなんじゃ「世界史」という科目に親しみを感じるわけがない。記憶というのは芋づる式につながってゆくのが理想で、こういう設問を繰り返されれば受験生でなくてもだれだって辟易するし、嫌気も差すってもんですよ。

 ついでに今年の英語の試験問題[ PDF の 27 ページ以降 ]を見て印象に残ったのは、やはり音楽がらみでオペラの窮状(!)を綴った読解問題。設問じたいは、高校時代にまじめに勉強していれば大丈夫でしょう(?)。「この一節に最適なタイトルは?」と問われてまさか 'How to Make Money in Opera' なんて回答する生徒さんはいまい … それはともかく、
... Society seems accept the large salaries paid to business managers and the multi-million-dollar contracts given to sports athletes.
というのは、なんだか『 21 世紀の資本』の一節かと思うような一文でした( athletes ついでにさらに脱線すれば、athlete's foot はいわゆる水虫のこと )。

 花粉症にはつらい季節到来 !! 巷はやれヴァレンタインだのなんだのとかまびすしいけど、2次試験の時期ですね … 受験するみなさんは体調を整えて、がんばっていただきたいと思います。

posted by Curragh at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから