2016年04月29日

音楽の解釈と、「ことば」の解釈と

 いま、Ottava にてジョン・ラッター珠玉の名曲「地上の美のために For the Beauty of the Earth 」を聴きながら書き出してます。

1). 先だってこういう拙記事を書いたりしましたが、もうすこし書き足しておきます。昨年暮れの恒例「N響の第9」。常任指揮者就任記念としてエストニア出身のマエストロ、パーヴォ・ヤルヴィ氏を迎えての公演だったんですが … フタを開けたら超特急な演奏で口あんぐり。マエストロ曰く、「スコアのメトロノーム指示に従った」とのことで、ようするにいままでの名だたる指揮者たちの「解釈」は作曲者の意図を無視していた、と。ベートーヴェンがわざわざこういう指示書きをしているのだから、多少なりとも演奏に反映させよ、というのが言いたいことだったようです。

 で、念のためいつも行ってる図書館で『ベートーヴェン事典』とか見てみると、このベートーヴェン交響曲作品における「メトロノーム表記問題」、ことはそう単純じゃあないようで。まず「8番」までの「速度指定」は 1817 年 12 月 17 日付ライプツィッヒの新聞に「一覧表」というかたちで発表したものだという。で、たとえば「3番」、俗に「英雄」とか「エロイカ」とか呼ばれている作品の最初の主題提示部での歴代指揮者によるテンポ一覧が掲載されてまして、本文に「 … ここでも、古楽器オケ世代の中核を担ってきたノリントン、アーノンクール、ガーディナーが快速を競ってタイムを短縮してきたことが判明する」とあったのにはちょっと笑ってしまった。やっぱり「快速」かぁ〜、みたいな( 一覧を見ると、「最速」はジョルディ・サバール指揮ル・コンセール・デ・ナシオンによる演奏で、付点2分音符[=1小節 ]= 60!)。もっともだからと言ってずっとインテンポ 60 でゴリ押ししているわけではなくて、どの指揮者も演奏に「緩・急」はしっかり入れてます。ここが大事なところ、こういうのがその音楽作品をいかに演奏するか、という「解釈」になります。

 「第9[ ほんとは「第九」と漢字で書きたいけれど表記を統一しておきます ]」はどうかと言えば、1824 年作曲者自身による指揮の初演時、すでにメトロノームじたいはあったけれども、「メトロノームの数字が登場するのは、やはり初演よりも大分後になる[ 引用者注:ワタシだったらここはひらいて書く。ワタシみたいに「おおいたあと」なんて誤読する向きも、いないとは限らないから。ついでに小学校にあがったばかりのころ、TV の天気予報で「ハロウ警報 … 」ということばを聞いて、てっきりハロウ=hello, 外国人警報だとアホなカンちがいをしていた ]」。

 ちなみにこのベートーヴェンの「メトロノーム表記」を遵守すべし、というのはいわゆるいまはやりの「受容」のしかた、ないし「解釈」の主流らしいです。もしいまの時代に Compact Disc Digital Audio が開発されていたら、「約 74 分」という規格は通らなかったかもしれない。

2). この前、ようやく『 21 世紀の資本』を読了 … 図書館の順番待ちのお鉢がようやくまわってきて( というか、みんなが飽きはじめた頃合いと言ったほうが正確か )、いざ読みはじめたらたしかにバルザックとかオースティンとかの引用もおもしろく、むつかしい数式もないにもかかわらず、全体としては意外と(?)難物で、けっきょく買っちゃいました( 苦笑、もう自分の本だから自由自在にポストイット貼ったりアンダーライン引きまくり )。ちょうどそんな折も折、って毎度こればっかのような気もするが … そのピケティ教授、世界中で大騒ぎされている例の「パナマ文書」、いったいどう思ってんだろうなー、なんて漠然と思っていたら、Le Monde 電子版上の自身のコラムにしっかり寄稿していた。もちろん印刷して目を通して、せっかくあのぶあちい本( 苦笑 )読んだことだし、我流で訳してみようかな … と思っていた矢先、もう日本語版「抄訳」が公開されてました。

 全文対照して読んでみたら、「抄訳」と言いながら手練れというかけっこううまく訳されてまして[ 当たり前か ]、これはこれで勉強になった( かな?)。たとえばうまい「省略」例をいくつか挙げれば ――
... In 2016, the Panama Papers have shown the extent to which financial and political elites in the North and the South conceal their assets.
… 16 年の「パナマ文書」が明らかにしたことが何かというと、先進国と発展途上国の政治・金融エリートたちが行う資産隠しの規模がどれほどのものかということだ。

... Let’s take each topic in turn.
… 順を追って見ていこう。

... In other words, we continue to live under the illusion that the problem will be resolved on a voluntary basis, by politely requesting tax havens to stop behaving badly.
… つまり、私たちは「お行儀よくしてください」と頼めば、各国が自発的に問題を解決してくれる、そんな幻想の中にいまだに生きているのだ。
などなど。fiscal という語を「税の / 税制 / 金融」と適切に訳し分けているのもよいですね。ついでに「ペーパーカンパニー」というのは shell company と言ったりする。つまり「殻」だけで、中身[ 実態 ]はカラッポということ。「パナマ文書」関連で個人的な感想を言えば、アイスランドの国家元首( !! )が出てきたり、北朝鮮や IS 関連まで出てきたりと、呉越同舟ならぬ、「おなじ穴の … 」、英語で言えば 'It takes one to know one' というやつですかね、これは … さるスーパーの休息コーナーにて一息入れていたとき、ふと「東京新聞」がほっぽり出されているのに目が留まってつい広げて読んだりしたんですけど( 苦笑 )、「公正な税制を !! 」と訴える人のなかに、奨学金の返済に追われる女性会社員の切実な声も掲載されていた。一部のカネ持ちが優遇され、自分たちは割りを食っている、と。そのことば、現都知事さんこそ聞いてほしい、と感じたしだい。

 … と、ここでまた脱線すると … 先日、本屋さんでとある版元のフェア(?)をやってまして、「神話」もののハードカバーシリーズ本がいくつも平積みになってました … 立ち寄ってみたら、なんと 20 年以上も前(!)に、その筋では有名な「欠陥翻訳時評」の俎上に載せられてしまった訳書まであった ―― あった、というか、この本そもそも初版が 1991 年、湾岸戦争の年ですよ( 覚えている人がどれくらいいるだろうか。ちなみに不肖ワタシは都内でなんとか新聞の人につかまって戦争協力反対の署名をしてしまった、なんてことも思い出した )。奥付を見るとすでに何刷か重版していて、いくらナンでもこりゃないだろ、と気が遠くなる思いがした。

 そもそもこの訳者先生ってそは何者、と思ってあとでちょこっと検索かけたら、なんか商社マンかつ詩人だったようだ。ま、それはそれでべつにいいんです。二足だろうが四足だろうがワラジ履いたって( 喩えが古すぎるか )。さる高名な先生が言っていたように、出来さえよければ、一定レヴェルの及第点さえ取れればそれでいいんです。シェイクスピア戯曲翻訳者としても知られた福田恆存氏が常盤新平氏に語った話だったか、忘れたけど、「うまく訳してあるところとそうでないところとの差をなるべくつめろ」と言ったんだそうです。片岡義男氏だったかな、「全編、平均 80 点くらいで訳すこと」とか書いていたのは。でもこのご本 … だいぶ前に静大図書館でコピーしたキャンベルの寄稿文のこと書いた拙記事で、ついでに言及したアイルランド人ケルト学の碩学でロイヤル・アイリッシュ・アカデミー会長を務めたこともあるプロインシャス・マッカーナが 40 数年も前( !! )に書いたこの本の邦訳の「でき」は … 門外漢のワタシから見てもそうとうなもんですよ、これ( 苦笑 )。*

 たまたま単行本化されたこのときの「時評」本は持っているし、とりあえずひとつだけ例をここでも孫引用させていただくと[ 下線強調は引用者 ]、
... Irish literature leaves us in little doubt that the druids were unremitting antagonists of the Church in a long-drawn-out ideological struggle which ended in the virtual annihilation of the druidic organisation( P. Mac Cana, Celtic Mythology, p.137 ).

アイルランドの文学を読むと、ドルイドは、その組織が実質的に壊滅する日までの長期的な思想的闘争の期間、ずっと教会にたいして休むことなき敵対者だったのではないかとの、かすかな疑いが残る。…( p. 278 )

 … ここの箇所、古代アイルランドのドルイド / フィリ支配社会と、新参者の初期キリスト教会側との抗争についてちょこっとでもかじったことある向きは、まさかって思うはず。原文は下線部分を見ればわかるようにただの否定( ベン・ジョンソンがシェイクスピアをくさした 'Small Latin and less Greek' とおんなじ用法の little )だから、文意はほぼ真反対、ということになり、当然、そのあとの文章ともつながらなくなる。こういうのは「解釈」云々以前の問題。なのでこういう「ひび割れた骨董[ 吉田秀和氏ふうに ]」、あるいはもっとかわいく「シドいほんやくだ[ 寺田心ちゃんふうに ]」がよくもまあ麗々しく生き残っているものかと、なんかよくわかんないけどハラが立ってきた( 苦笑 )。そしてなんと当の「時評本」にも、「ちなみに、本書は 1996 年 7 月現在、第五刷まで出ているが、ここに指摘した箇所を修正したにとどまる。もちろん、実際はほかに修正すべきところが数知れず … 出版社、翻訳者の良心を疑う」とまで書かれてます。おやや、本屋で見た「最新版」、いま例に挙げたとことか、直ってたっけ ?¿? 訳者先生は故人のようですし[ ついでながら「時評」にも瑕疵があって、「マッカーナ女史」ってあるけど、この先生はれっきとした男性です。後日談:あらためて本屋で確認したら、今年3月時点でなんと九刷 !! でした。しかもほんとだ、例に引いた箇所はしかるべく訂正されており、初版本の「はじめに」第一文冒頭の「古代ケルト族の結合は、… 」なるヘンテコな言い回しも「古代ケルト族のまとまりは、… 」と訂正されてました。とはいえ開巻 1 ページ目からして ??? できわめて文意がたどりにくいのはあいかわらずだったので、この際だからどっかオンラインの洋書古書店にて原本買ってみようかと思います ]。

3). … 昔、「 Creap を入れないコーヒーなんて … 」という TVCM があり、またなんとかスウェットという飲料水がいまだに売られていて、おそらく英語圏の人は見るたびに失笑していたんじゃないかって思う( 誤記訂正、ここで言いたいのは英語圏の人間が「クリープ」という音の響きを聞いて連想するものについて )。そういえばだいぶ前にここでも書いた、近所のスーパーの誤記っぽい表示( DAIRY FOODS とすべきところを DAILY FOODS )としちゃってる件。この前そのスーパーがリニューアルオープンしたので、ついでに確認したら … なんも直ってなかったりして orz

 ところがつい最近、教えてもらったんですけど、欧州だか英国だか、とにかく向こうではこういうブランド名があって、しかもあの BBC のリポーターまでそのブランドの服着て TV に映ってるときたからまたしてもオドロキです … 最初、このブランド名を見たとき、「え、なにこれ? ビールのことかしら ?? 」なんて考えていた。こういうことばのプレイとミスプレイ、なにも日本だけじゃなかったんですねぇ、とここでお時間が来たようで。

… 一定レヴェル以上の「解釈」のちがいによる表現の相違 / 書き方の差異については、もうこれは究極的には読み手それぞれの好みの問題になってしまうと思う、音楽作品の演奏とおんなじで。もっともこういうところで訳者それぞれの解釈の深さがもろに現れるので、こわい、と言えばこわい。でもそんなこと言ってたらいつまでたっても翻訳なんてできない( 苦笑 )。たとえば、たまたま手許にある邦訳書のある箇所をべつの人が訳した事例にこの前、Web 上の写真関連の記事でお目にかかった[ 下線部、あえて個人的な好みを述べさせていただくなら、「無慈悲にも溶けゆく時の証拠」と動詞的に読み下した訳語表現のほうが好きです。欧文系はこのような「名詞表現」がひじょうに多く、これをそのまま日本語化するとどうしても言い方が堅くなる、つまり日本語としてこなれなくなる。もっともこのさじ加減も程度の問題ですが ]。↓
1). すべての写真はメメント・モリである。写真を撮ることは、他人の死、弱さ、移ろいやすさに参加すること。すべての写真は、瞬間を正確に切り取って凍結することで、無慈悲にも溶けゆく時の証拠となるのだ。

2). 写真はすべて死を連想させるもの[ メメント・モリ ]である。写真を撮ることは他人の( あるいは物の )死の運命、はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言しているのである。
── スーザン・ソンタグ『写真論』 近藤耕人 訳、1979, p. 23.

付記:こちらの電話募金、ウチの「黒電話」でも障害なく(?)できたので、こちらの番号もひとつ前の投稿記事分とあわせて紹介しておきます[ 29 日付で受付終了ってちょっと店じまいが早すぎ ]。ちなみにお若い人は知らないかもしれないが、「黒電話」はいざというときは最強 … かもしれませんぞ。電源は電話線からとっているので、電話線さえ生きていれば物理的には使用できるため。とはいえいまの子どものなかには、ホントに黒電話の使い方を知らない子がいるようだし、これも時代の流れなのかと思ったしだい。

posted by Curragh at 20:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 語学関連

2016年04月18日

いとちはやぶる …

 今年の春はいったいどうしてしまったのだろうか … まず天候がおかしい。この季節に雹が叩きつけるように降ってきておどろいた。とにかく天気が悪くて、平成に変わったばかりの3月4月ごろを思い出した( あのときも菜種梅雨で、気温も高かった )。そして、まだ東日本大震災の復興もままならないうちに、こんどは九州・熊本での一連の活断層活動による震度階5, 6, 7の大きな地震動がほぼ連日のように発生するという、地震学者でさえ今後どのように推移するかが「評価できない」、ようするに「わからない」と認めざるを得なくなるという経緯をたどっています[ 折悪しく南米エクアドル太平洋岸でも大地震が起きてしまって、あっちこっちたいへんなことになってしまっています ]。

 かつてさる風景写真家の先生が、諸外国の自然と日本の自然とを比べて、「日本の自然はやさしい」と評した人がいたけれど、そのやさしい顔した日本の自然もいざこのような事態になると、『古事記』や『古今和歌集』じゃないけど、まさに「ちはやぶる」、「荒ぶる神」という恐ろしい一面を見せつけ、われわれを翻弄する。

 被災された方にはかけることばも見つからないのだけれども、とにかく一刻も早い収束を願っています … とはいえここにきて腹立たしいのは、某週刊誌の新聞広告でして、たしか '90 年代後半にも、この週刊誌はわけのわからん記事を書いてました。そのとき静岡県民は市町役場から小冊子を渡されまして、そこには「一般論」として、「関東地震」と直下型の「小田原地震」の周期について書いてあり、記憶が正しければたしか「76 年プラスマイナス 〜 年と言われています」という書き方をしていたように思う。それをさも「切迫性を自治体みずから認めた」みたいに報じたデマ記事をでっちあげていた。

 阪神大震災以降、いわゆる「宏観現象」ものからいかにも素性の怪しいブラジルの予言者(?)だか占い師だかを登場させたりと、やたらと不安を煽る記事を掲載するのが好きのようです。いっとき福島第1原発から放出されたセシウム関連で放射能ものの記事も量産していたのもたしかこの週刊誌だったような。デマといえば富士山関連も多くて、たとえば真冬に地肌が露わになっていると、どこかの TV ワイドショーだかが「噴気」とくっつけて危ないんじゃないかって報じたりする。こういうのもなんとかならんかっていつも思う。ワタシはたまたま地学も好きで、その気もないのに伊豆半島ジオガイド検定なんてのも受けたりした一介のディレッタントながら、真冬の富士山の雪化粧のあるなしは噴火とか地熱とかぜんぜん関係ありません。前にも書いたことをもう一度書くと、富士山の積雪がもっとも多くなるのはちょうどいまごろです。春山の高山地帯ってどこも積雪がすごいでしょ。噴気は、そりゃ活火山だものすこしくらいは上がるでしょう。箱根山の大涌谷なんかいつもそうだし( でも昨年の騒動はすこしおどろいたが )。登山者の証言として、戦後間もないころの富士山は、登ると足の裏が熱くなったっていうのもあるくらいで、いまはその当時に比べれば冷えているらしい。冷えていると言っても油断は禁物で、5年前の 3 月 15 日夜、富士山南西山腹直下を震源とする最大震度6強のあの地震は、噴火するかもしれないぞとすごくピリピリしていたのを思い出す。そしてその富士山ですが、最近、こういうのができまして、ワタシも参考までにクリッピングしてあります( ちなみに富士山山頂火口が最後に噴火したのは約 2,200 年前と言われており、その後の貞観噴火や宝永噴火などを含めた一連の記録に残る噴火は、すべて「山体の割れ目火口」型による。割れ目の走向はほぼ南東−北西ラインで宝永の3つの火口もこのライン上に口を開けている )。

 また静岡県東部地域に住む者として気がかりなのは、ここもいつ動いてもおかしくない活断層帯に囲まれていることです … 有名なところでは 1930 年、工事中の丹那トンネルをずらした(!)「北伊豆地震[M 7.3 ]」を起こした「丹那断層[ 国指定天然記念物、いまは「北伊豆断層帯」って言うそうです ]」があるけど、個人的にもっとも警戒するのは富士川河口断層帯といわゆる「東海地震( 駿河湾トラフ )」の同時発生。あと活断層ではほかに「中央構造線」の突っ切る県西部の「青崩峠」というところもあります。山梨リニアのくそ長いトンネルってたしか … 構造線だったか「糸魚川−静岡構造線」だったか、たしか丹那トンネルよろしく突っ切るルートだったような気がしたけど … 。

 最後にすこしはお役に立てそうなリンクをここにも貼っておきます[ たまたま Ottava 聴いてたら、なんでも本日がレスピーギの誕生日だそうで、この人の管弦楽編曲した BWV. 659 のクリップも貼っておきます。バッハの美しい音楽で、すこしでも気持ちが和らぎますように ]。

1). 日本赤十字社「平成 28 年熊本地震災害義援金
注記:日赤宛て義援金は、「窓口」で振替の場合、手数料はかかりません。不肖ワタシが郵便局窓口でささやかながら払い込もうとしたところ、窓口のお姉さんに「手数料 103 円がかかります」なんてやられた。ムっとしたが、細かいのがなかったから千円札1枚よけいに渡したら、「手数料かからなかったので、これはお返しします」… こういう周知、きちんとしてくれませんかねぇ。航空便だって、こっちが「小形包装物で」と断らないと平然と高くつく通常航空郵便扱いにされちゃったりすることもあるし( ただし「小形包装物」は信書以外のもの限定、宛先国の税関に申告するための緑の紙に内容物と重量、価格、署名を記入する必要がある )。

2). 熊本地震速報】災害・募金寄付・ボランティア情報まとめ



posted by Curragh at 02:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など

2016年04月10日

「復活祭蜂起 100 周年」

 本家サイト顧問 Breandán Ó Cíobháin 博士からひさしぶりに届いた便りを中心に書いてみたいと思います。

 博士はいま、「ヴェントリー歴史協会」という団体の常任幹事をしておりまして、こんどの週末開催予定の「復活祭蜂起 100 周年記念式典」の準備におおわらわなんだそうです。近年、博士はご高齢のためか[ 不肖ワタシもここ最近、あちこちにガタがきていることを自覚してます … ]、いろいろと医者通いが多くなり、難読固有名詞を含む現地語発音に関するワタシの質問になかなか答えられずに申し訳ない … といわゆる「季節のご挨拶」のころにそんなふうに返してきてくれます( なのでこちらのページがいまだ未完成で、訪問される方にはまことに申し訳ないんですが、事情をご勘案ください )。

 で、そんな博士から先日、今年のイースターメッセージをいただきまして、添付ファイルがいろいろくっついてます。? と思って見てみると、今年はアイルランド国民にとって歴史の転換点となった一大事件である「復活祭蜂起」からちょうど 100 年。「復活祭蜂起」はイースター明けの 1916 年 4 月 26 日月曜日、首都ダブリン市中心部にある中央郵便局( GPO )をパトリック・ピアス[ 現地語ではポードリー・ピアス Pádraig Pearse ]ら 15 名を含むアイルランド人男女約千人が占拠し、「アイルランド暫定共和国樹立宣言」を読み上げた。折しも第1次大戦のさなかだったが大英帝国はすぐに重装備の正規軍を派遣、この英国軍相手に反乱は1週間つづき、ピアスら首謀者 15 名が処刑されたという一連の反乱のことです。当初、アイルランド国民の多くは彼らの性急な行動を非難する声さえあげたものの、さっさと幕引きしたい英国側が首謀者たちをろくに裁判にもかけずに次々と処刑したため世論は一変、その後の英愛戦争開戦へとつながった。ある本の言い方を借用すれば、「反乱指導者たちは、望みどおり自分の生命を犠牲にすることによって、過去 700 年におよぶ英国のアイルランド支配を終わらせることを確実にした」。

 添付文書の内容は、その「復活祭蜂起」の中心的役回りだった3人と、アイルランドの西の果てディングル半島のちっぽけな漁村ヴェントリー[ 現地語表記 Ceann Trá、もとは Fionntrá で英語化された際に転訛したもの、意味は fair strand、「美浜」ってとこかな ]と「意外な」関係があった、というもの。こんどの週末に開かれる記念式典では Ó Cíobháin 博士も ' FIONNTRÁ 1840 − 1920' という演題で講演するようです。

 以下、Ó Cíobháin 博士の了承も得て記念式典文書を拙訳にて全訳したものを紹介しておきます。なおアイルランドゲール語[ 綴りはすべてケリー方言 ]と英語のふたつの言語で書かれてますが( こういうのを「自己翻訳」と言うのかどうか )、必要に応じて「 Google 翻訳」なんかの力も借りて[ 前にも書いたが、印欧語族どうしの翻訳精度はけっこう高い ]、いちおう博士にとっての「ほんらいの母国語」であるアイリッシュゲールで書かれた文書も参照しています。おなじ書き手であっても、やはり若干の異同があり、拙訳にもそのへんをすこし反映させていただきました( アイルランドのことわざなど )。また「フィアナ( フィン )物語群」のひとつ「ヴェントリーの戦い[ フィントラーグの戦い ]」については、しんがりに付記してあります。




CUMANN STAIRE FIONNTRÁ / Ventry Historical Society
COMÓRADH 1916 Commemoration
‘Lia os a leacht’

ヴェントリー歴史協会
1916 年「復活祭蜂起」100 周年記念式典に寄せて


「彼らの墓に石碑を建て」

 ヴェントリーの名を世紀を越えて世に知らしめている唯一の称号が、『フィントラーグの戦い Cath Fionntrá 』の舞台がここだった、ということだ。フィアナ騎士団と英雄カイルテ・マク・ローナーンが「世界王」からアイルランドを守ったことを語る『フィントラーグの戦い』は 19 世紀以降、英語に訳されてひろく一般に知られるようになった数少ない「フィアナ物語群」のひとつであり、おなじ19世紀にアイルランド独立を目指して組織された急進派「フィニアン団」の名前もこの有名な伝説から採られたと言われている。

 19 世紀中葉、ヴェントリー村がいわゆる「スープキャンペーン」と呼ばれる英国教会[ アングリカン ]への改宗運動の本拠地に選ばれると、アイルランドとイングランド国民の関心はこの寒村に集まった。教員養成大学や教会、小学校、そして移住者用「コロニー」まで新設された。ただし、このころ当地のイリアンパイプス奏者トマース・オ・キネージェからアイルランド語歌謡を採譜したのは、じつは地元のアイルランド教会[ 英国教会派 ]聖職者シェイマス・グッドマン師である。この有名なグッドマン歌謡集に収められている 1,100 余りのアイルランド語歌謡のうち、4分の3 ほどがキネージェから採譜されたものだ。このアイルランド語歌謡集は現在、ダブリン大学トリニティカレッジ[ TCD ]にある。グッドマン師は 1879 − 96 年の 17 年間、TCD 教授でもあった。

 20 世紀初頭にヴェントリー村の将来を決定づけたのは観光と、文芸およびアイルランド語復興運動の興隆だった。村には2棟のゲストハウスが新築され、国内のみならず欧州大陸や英国からの観光客をもてなした。そのうちの1棟「眺海荘 Sea View 」の逗留客には、1904 年に( TCD およびダブリン高等研究所アイルランド語学教授だった )トマス・F・オライリー、TCDでグッドマンに師事した劇作家のJ・M・シング( 婚約者だったモリー・オルグッド嬢宛て書簡をここで書いている )、1907 年にはおなじくアイルランド語学者ショーセフ・ロイド[ ジョーゼフ・H・ロイド、アイルランド全土の郵便本局所在地およびダブリン市内の街路名のアイルランド語表記名をはじめて発表した ]、そして 1909 年にはアイルランド語学者でゲール語連盟にも参加していたイヴリーン・ニコルズ( 当時 24 歳、滞在最終日にブラスケット諸島沖で溺死 )がこのゲストハウスに滞在した。ニコルズ嬢の事故死後、「アイルランド婦人参政権連盟」代表を公然と名乗ったメソジスト教会員グレタ[ マーガレット・エリザベス ]・カズンズもここに宿泊している( カズンズ女史はハンナ・シーヒー−スケフィントン女史とともに同連盟の共同設立者 )。

 上述した滞在客のひとり T・F・オライリーは従兄弟のマイケル・J・オライリーの関心を惹いたようで、1912 年、マイケル・オライリーはヴェントリーに別荘を建てている。もっとも彼の場合は、ダブリンでアイルランド語を手ほどきしたヴェントリー出身のショーン・アン・ホータ氏の影響かもしれない。マイケル・オライリーが別荘を建てたのは、自分の家族にもアイルランド語の会話に浸れる環境を与えるためだった。1913 年、同様の目的で近所に居を移してきたのが、デズモンド・フィッツジェラルドアーネスト・ブライズのふたりだ。フィッツジェラルドはヴェントリーの沿岸警備隊詰所を間借りし、ブライズのほうは近くの農場で働こうとしたが、けっきょくリスポール村の海沿いの教区キナードへの転居を余儀なくされた。

 伝説の戦いの場と宗教上の鋭い対立という接点があるとはいえ、よもやこの長閑なヴェントリーに、一帝国の解体を画策する国民運動において傑出した個人を複数名見出すことになるとは思わないだろう。オライリーは「アイルランド義勇軍」創設者のひとりであり、彼とフィッツジェラルド、ブライズら3名はヴェントリーで義勇軍の組織と訓練に当たった。ダブリンから仕入れた情報を持ってオライリーが定期的に訪れると、決まって夜を徹しての長い討議に入った。彼らは 1915 年、「英国土防衛法」により摘発されてケリー州から追放された。その後オライリーは 1916 年の「復活祭蜂起」のさなかにダブリン中央郵便局内で戦死、フィッツジェラルドは逃亡した。残るブライズはアイルランド全土の義勇兵募集のかどで国外退去処分を言い渡されて、当時刑務所として使用されていた英オックスフォード城に収監され、彼らの蜂起をそこで知ることになる。このふたりは 1921 年樹立のアイルランド自由国政府閣僚となったが、フィッツジェラルドはその後米国へ渡り、インディアナ州ノートルダム大学哲学科客員講師となった。

 復活祭蜂起の舞台となったダブリン市以外でこれほどの革命の大物が見い出されるのは、1912 − 14 年のゲールタハト地区ヴェントリーくらいのものだろうが、「蜂起」100 周年の今年、心に留めていただきたいのは、記念式典の主目的として「和解」を掲げているということである。オライリーはケリー州北部、バリロングフォードの裕福な「英国教会派」の家庭で育てられた。彼は米国人実業家を父に持つナンシー・ブラウン嬢と結婚し、新婚旅行の際は「グランドツアー」として欧州各地で数か月を過ごした。驚くことに彼もまた父と同じく「治安判事」として1903−07年の「官報」にその名が挙げられているが、それとは裏腹に、彼の愛国主義は明白になっていた。妻ナンシーもアイルランド語を学び、その後「アイルランド婦人義勇軍 Cumann na mBan 」副総裁となる。ダブリン市のマウントジョイ刑務所の収監者への面会を断られると、刑務所前でハンガーストライキを行ったこともある。

  フィッツジェラルドはロンドン生まれだが、父はコーク州、母はケリー州の出身。ロンドン市内の詩人グループと交流したのち渡仏し、当時の習わしだったミューズ探しに旅立つ。彼の妻メイブル・マコーネルは、ベルファスト市で商売に従事する長老派家庭の出身である。マコーネルはクィーンズ大学ベルファスト卒業後、ロンドン大学大学院に進み、ゲール語連盟に参加した。彼女は一時期、G・バーナード・ショーやジョージ・ムーアの秘書を務めており、米国人詩人エズラ・パウンドとも知り合った。のちにアイルランド婦人義勇軍書記となった彼女はアイルランド内戦時、夫とは異なり共和国側についた。

 南アントリム州のアイルランド教会派農家出身のブライズは 1909 年、ダブリンから帰郷してバンゴール市の新聞社「北部ユニオニスト」紙記者となる。ダブリン時代に彼は劇作家ショーン・オケイシーの影響で IRB とゲール語連盟に加わった。自由国政府の財務大臣時代、彼は政府からアベイ座[ アイルランド国立劇場 ]への補助金を獲得した。のちに彼はアベイ座運営責任者、その後館長に就任し、長くその座にあった。

 19 世紀アイルランドにおいて、かくも多様なバックグラウンドを擁する綺羅星のごとき個人が政治的、文化的革命家として一堂に会した場所がこのような寒村だったことは、1916 年復活祭蜂起記念式典をあらゆる角度から祝うことを望む者にとって、これは注目に値する。彼らの動機とその後の運命には、真に文化的価値あるものの保全と、アイルランド国民間の真の宥和促進を願う人すべてにとってひとつの行動規範が示されている。「人々は出会うが、山々は出会うことがない」。彼らの功績は永く記憶されるべきものなのだ! 

 『ヴェントリーの戦い』はフィアナ騎士団のひとりキールと、彼とともに滅ぶ運命にある動物たちの死で終わっている。彼の亡骸は妻クリーと騎士団によって南の海岸、こんにちもキールにちなむ地名で呼ばれる浜から運び出された。クリーは「吼える入江 Géiseann Cuan 」という美しい詩を朗唱すると、キールに寄り添い、悲嘆のうちに事切れた。すぐにふたりはおなじ墓所に葬られた。「そして、彼らの墓に石碑を建てたのがこのわたしだった」とカイルテは言った。「『キールとクリーの墓』として知られるように」。

© Dr Breandán Ó Cíobháin & Curragh( webmaster of The Voyage of Saint Brendan the Abbot )

「ヴェントリー歴史協会」: 2009 年 4 月 8 日設立。協会設立趣旨:ヴェントリー地区の歴史と文化を調査研究し、その結果を複数メディアを通じて普及すること、考古学的遺構と出土品の保全、ならびにヴェントリーの現住民と遠隔地で暮らす出身者が共有する歴史および独自性を再認識する記念イベントを開催すること。




付記『ヴェントリーの戦い』について:『ヴェントリーの戦い Cath Fionntrá 』は、参照先記事にもあるように、フィアナ騎士団長フィン・マク・クウィル( フィン・マク・ヴォルとも )、一般的にはフィン・マクール[ ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』にも象徴的に出てきますね ]として知られている古代アイルランドの英雄のひとりが活躍する一連の物語サイクル「フィアナ物語群」に含まれる最古の挿話のひとつ。12、3 世紀ごろ編纂されたと言われる『古老たちの語らい Acallam na Senórach 』にすでに収録されている[「フィアナ物語群」の舞台はおもに東部レンスターと南部マンスター地方で、女王メイヴやクー・フリンなどが登場する「アルスター物語群」とは対照的。これにはもちろん当時のアイルランドの政治状況が反映されている ]。あらすじは、「世界王 Dáire / Dáiri Donn 」を名乗る侵入者が、自分の妻と娘と出奔した( !! )首領フィンに報復するという口実で大船団を率いてディングル半島ヴェントリーの美しい浜に押し寄せた。フィンと息子オシーン、フィンの甥カイルテ・マク・ローナーンとフィアナ騎士団はトゥアタ・デ・ダナーン[ ダーナ神族 ]の支援も取りつけからくも侵入者を撃破、だがその代償として夥しい戦死者を出した。そのなかのひとりキールの亡骸を探す彼の妻クリーは、ヴェントリー湾南の浜でようやく亡き夫を発見した。夫は敵の上陸阻止には成功したものの、溺死してしまった。クリーは悲嘆に暮れて「吼える入江 Géiseann Cuan 」を切々と歌いあげると、その場に事切れた。ふたりの亡骸はカイルテによっておなじ墓所に手厚く葬られた。

 なおこの挿話についてはこちらの書籍がたいへん参考になりました。なんと聖ブレンダンのことまで書いてある !! というわけで、こちらの本ものちほど本家サイト「参考文献」リストに追加します。

本文とまったく関係ない追記:この前、いつものように「古楽の楽しみ / リクエスト・ア・ラ・カルト」を聴いていたら、な、なんと、あの松川梨香さんがこの日かぎりで番組降板 !!! 週末の朝のひととき、あの春の薫風のごときさわやかなリスナーからのお便り紹介と楽曲紹介にひそかに癒やされていた身としては( て、はさすがにもう古いか )文字どおり寝耳に水だったので、ちょっとがっかり。いえいえ、後任の大塚直哉先生がイヤだ、なんて言う気はさらさらないですよ !! 大塚先生は、一度だけ、 静岡音楽館 AOI にてオルガンの実演に接したことがあるし、先生の「CLAVIS 〜 鍵」はお気に入りの 1 枚でもある。