2016年07月24日

「ならぬことは … 」⇒ 「レリオ、または生への回帰」

1). 以前、ここでも取り上げたスペインの思想家オルテガの『大衆の反逆』。蒸し返しになるけどその本にこういう一節が出てきます。
「世襲貴族」はどういう生を生きることになるのか、彼自身の生か、それとも傑物であった初代の生を生きるのか? そのどちらでもないのだ。彼は他人の生を演ずるように、つまり、他人でも自分自身でもないように宣告されているのである。当然ながら、彼の生は真正さを失い、他人の生の単なる代理か見せかけに変質せざるをえない。… 生とはすべて、自己実現のための戦いであり、努力である。私が自分の生を実現させるに当たって直面する困難こそ、まさしく私の能力を目覚めさせ、行動をひき起こすものなのだ。( p. 146 )
 また、いま読んでる Kindle 本( ほんとは「紙の本」で読みたかったのだが、これしかフォーマットがないというのでしかたなく )に、「 … われわれの欲望はほとんどの場合、なにが欲しいかではなく、ご近所さんが持ってないものを手に入れたいという欲求から発している[ ゆえにけっして満たされることはなく、つねに「欠乏感」に苛まれる ]」という一文にもお目にかかったりした。*

 なにが言いたいのかというと、例のバカげた騒動でして … こういう言い方するとなに言ってんだと怒られそうだが、このさいハッキリ言わせていただくと、VR だか AR だかなんだか知りまへんが、しょせんはゲームの世界の住人( いや、文字どおり「怪物」か )をわざわざ「現実世界」にスーパーインポーズしてまでピコピコゲームさせることはないでしょう !!! … おかげでなにも知らないワタシは( 日本上陸は 20日、との某 IT 系 Web ニュース記事に引っかかっていた人 )その「当日」の金曜日、三島駅前の交差点で信号待ちをしていたら ――「オイディプスの最新の化身が、いまもつづく美女と野獣のロマンスが、今日の午後、42 丁目と 5 番街の交差点に立ち、信号待ちをしている( J. キャンベル『千の顔をもつ英雄』)」―― かわいらしいセーラー服姿の怪物の集団がわさわさやってきた。向こうはまるでワタシが見えてないらしく、こちとらは車道に押し出されかけて、危うくオイディプスならぬピカチュウに間接的に殺されそうになった( 瞬間湯沸し器状態 )。

 開発元は Niantic( 発音はナイアンティック、Νίκη をニケと呼ばずナイキと発音するのとおなじ流儀 )とかいう Google からスピンオフしたスタートアップで、つい先日、お台場に世界中からスマホ持った人が集まったとか言う Ingress というイベント( という言い方でいいのかどうか、当方は関知せず )とおなじ会社。もちろんポケモンなので本家本元も共同で開発しているわけなんですが … この手の携帯端末向けゲームというのは以前よりあったとは思う。ただし、本末転倒もここまでくるともう … と、深き淵よりの嘆息のみ。「無理が通れば道理が引っこむ」ってやつですかね。後先考えてないとはこのこと。これがどれだけ潜在的な危険性をはらんでいるのか、開発元は認識しているのだろうか? あるいは喜々として「ミジュマル、ゲットぉ!」とか興じている方々は? 英語で言えば、preposterous ってやつ( 原義は「おしりが前に」、ようするに後先逆ということ )。「危ない」ということは、たとえば配信開始しておきながら、あらためて周知徹底を図る、あるいは関係機関にも働きかけている、という動きから見ると、開発元も認識しているからで … 先行配信された米国やドイツなどの海外ではさっそくやらかしている御仁が出てくるしまつ( そのうち訴訟沙汰にまでなるんじゃないかと危惧している人 )。

 自家用車を運転している人、とくに「ゴールドな」人にとって、これはハタ迷惑きわまりないと思う。もっとも、車高の高いバスなんかに乗っていて信号待ちで停車している隣のレーンのクルマを見ると、あろうことか運転しながらスマホいじってる人もときおり見かけたりする。どっちにしても危険行為にはちがいなくて、その当人だけの問題ではすまされない。ワタシだってピカチュウに殺されたくない、冗談じゃないですよ( こんなことになろうとは … )。

 逆に、いまどきの若い世代ってある意味不幸だ、とも感じる。どういうことかって言うと、
 便利さという名のもとに科学によって人間はどんどん怠け者になってゆく。さらにエレクトロニクスによる映像文化の革命的な進歩は、人間の心を表面的な愉悦で虜にし、安易な受身人間に育てていく。しかも最悪なのは人間から肝腎要の想像力と思考力を奪い取ってしまうことだ。画像は決定的ともいえるもので、その先に想像力の広がる余地はまことに少ない。
 一方、読書による活字から広がる想像力にはリミットがなく、バラエティにとんだ発想が派生的に自然に生まれてくるのだ。
 映像過多の世界に育った子供たちの精神は枯渇し、誰もが画一化され、最新テクノロジーの機器のもたらす血の通わぬ非情さに人間味を失う。ピストルの引き金を絞れば弾が飛び出しどういう結末を招くのか、刃物を突き出せばどういうことになるのか、想像力の欠如した人間には考えも及ばない。ゲームと現実との境も消える。―― 児玉清『すべては今日から』pp. 267 −8
 引用したオルテガや、児玉さんのことばをしかと噛みしめていただきたい、と思う。ちなみに引用した児玉さんの文章(「認めてしまっていいのか」)は、2000 年に書かれたもの。世界各地の狂乱(?)ぶりを見ると、十年一日(「じゅうねんいちじつ」と読む )どころか、15 年一日ですな。なんていうか、Google にせよ Amazon にせよ Niantic にせよ、しょせんはこういうコンテンツプロバイダーという巨人の手の上で踊らされてるだけじゃないかって気がするんですね。

 VR / AR について言えば、もちろん技術なのでそれ自体に倫理もクソもなくて、とどのつまりエンドユーザー側にすべてはかかってくる、とは言える。利用方法しだいではたしかにこれすばらしいでしょう。たとえば黄金崎[ こがねざき ]なんか、1989 年 4 月の大崩落以来、幸田文さんの随筆じゃないがずっと「崩れ」つづけて、あれから 27 年が経過したいまじゃすっかり様変わりしてしまった。地質的に脆弱で( 変朽安山岩 )、しかも台風や冬の西風による暴浪をまともに喰らう岬という地形ゆえしかたないと言えばしかたないのだが、たとえばタブレット端末をかざして岬を見たら、在りし日の黄金崎の姿が出現する、あるいは山側を振り返ればかつての旧国道 136 号線が現れる、なんていうアプリはありかな、と思ったりする( 観光協会の方、ご一考を )。†

 以上、ゲームするのはかまわないが、とにかくいま自分がしていることに対する責任と、これをしたらそのあとどうなるか、という想像力まで捨てるな、と言いたい。
… わたしたちが生きていることは奇跡だ。いろいろな出会いがあり、チャンスがある。人間は自分の人生を方向づけることができる。…… スーパーでものを買うことはできるが、人生の何年間かをそこで買うことはできない。何かを買うときは、人生の一部の時間を使って得たお金で払っているのだ。人生の時間を尊重しなければならない。人生を享受するための自由な時間が必要だから。―― ウルグアイ元大統領ホセ・ムヒカ氏

2). 話変わっていまさっき見たこちらの番組。いやー、もうビックリ。知ってる人にとってはそんなことも知らんのか、という話ではあるが、しがないワタシはいまのいままで、ベルリオーズの代表作「幻想交響曲 Op. 14 」に、「続編」の Op. 14b なる作品があるとは知らなかった。

 この作品、「レリオ、または生への回帰」は、端的に感想を言えば、「意識の流れ」の音楽、それもヴァージニア・ウルフ、キャサリン・マンスフィールド、ジョイス、フォークナーといったいわば「本家」より先んじているという点でまず驚かされる( もっとも、『トリストラム・シャンディ』という先行例はあるが、心理学など、近現代的な手法として見た場合 )。そうか、ベルリオーズは「幻想交響曲」とセットで演奏するようにと言っていたのか。でもそうするとお客はえんえん2時間も座席に縛られることになる( 2時間と言ったって、映画とはちと話がちがいますし )。そのためかどうかは知らないが、この作品はめったに演奏されないらしい。なんてもったいない。ワタシなんか、「幻想 〜 」のほうはなかば食傷気味だったから、もう新鮮この上ない音楽体験だった。モノローグあり、テノールやバリトンの独唱あり、合唱あり、幻想曲ありで、ごっちゃごちゃのごった煮もいいところなんですが、そこがまたいい! 形式なんかクソくらえ、オレはこう書きたいんだ、こう響かせたいんだ、諸君、だまって聴きたまえ !! みたいな自意識過剰丸出しのロマンティシズムがすばらしい。このとりとめのなさはどこか『フィネガンズ・ウェイク』にも通じるような気も … しないわけでもない。ま、作曲コンクールに出したら「選外」にされちゃいそうな、文字どおり型破りな、とほうもない作品ではある。でも、たまにはこういうはっちゃけた作品というのもいいではないか。ワタシなんかは終楽章での「空気の精たちの合唱」を聴いているうち、どういうわけかブラッドベリの名作短編『みずうみ』を思い浮かべてしまった。というか、そういう感じのショートショート1篇が、自分でも書けそうな気がしてきた( なんの根拠もなく )。こういう「とりとめのない」音楽というのは、あらたな作品を生み出す力と勇気をも聴き手に与えてくれるものなのかもしれない。

* ... [ 原文 ]:Much of our desire finds its source not in what we want, but from our desire to keep up with the Jones's[ sic ].

† ... テクノロジーがいかに文明社会を形成したか、あるいは影響を与えたかについて考察した本として、こちらのサイトで紹介されている「紙の歴史」ものの新刊洋書は、ちょっと興味あります。ま、プラトンはツイートしたりなんかせんでしょうな( 苦笑 )。とはいえ、
' ... It’s not technology that’s to blame for this current state. As Kurlansky writes, it’s merely a response to our demands: faster, cheaper, and “an innate desire for connection.” These demands have delivered us to today, a rare place where the challenge now isn’t a lack of information, but perhaps too much of it. '
というのは、どうなんでしょ。情報過多に見えて、そのじつこれほど必要な情報を読み解く能力( リテラシー )のない時代って過去になかったと思いますよ。たとえば観天望気とか、「ブラタモリ」じゃないけど「ここは断層谷だ」とか、あるいは自然を読んで身を守るといったたぐいの能力ですね。「ポケモン探しで、みんなが外に出るようになって、いつもの風景が新鮮に見えた」からいいじゃないかっていう向きもいるが、そういう人ほど、ふだんからなにも観察していない。端末画面上の怪物探しに夢中になってるあいだに、ツマグロヒョウモンチョウが道端に咲くオオイヌノフグリに舞い降りても気づくわけがない。新しい発見は端末機械の表示する仮想現実という名の幻影にすぎず、「現実のいまここ」ではない。とにかくそういう生活の知恵ないし情報能力って、今の人より昔の人のほうがはるかにあったと思います( 身近な例で行くと、国指定天然記念物の「丹那断層」は箱根峠あたりから見るとはっきりとその爪痕が見え、これが芦ノ湖からはるか伊豆市までつづいていることがわかる )。景勝地に来て、ただきれいな景色、とだけ感じているうちは、そこから発せられる「情報」をなにひとつ受け取ってはいないんです[ 芦ノ湖ついでに、富士山頂から芦ノ湖と黄金崎が同時に見えた日の翌日は荒天になりやすい … という観天望気もあります ]。

posted by Curragh at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから