2016年08月22日

『ダブリナーズ』

 予告通り、先月逝去された柳瀬尚紀先生の名訳から、いくつか引いてみたいと思います。まずはジョイス初期の傑作短篇集 Dubliners ( 1914;新潮文庫版 2009 )から、出だしの「姉妹 The Sisters 」冒頭部を[ 以下、下線は引用者、ルビと太字強調は訳文のまま ]。*
 あの人は今度こそ助からない。三度目の卒中だった。毎晩毎晩、僕はあの家の前へ行っては( 学校は休みに入っていた )、明かりの(とも)っている四角い窓を見つめた。来る晩も来る晩も、ほんのりと一様に、変らず明りが点っていた。もし()くなったのなら、暗く(かげ)ったブラインドに(ろう)(そく)影が映るはずだ。死んだ人の(まくら)(もと)には二本の蠟燭を立てることになっているのだから。しょっちゅう聞かされていた。わたしはもう長くない。そんなのは(あだ)(ごと)だと思っていた。今になってみれば、本当だったのだ。毎晩、あの窓を見上げながら、(ちゅう)(ふう)という言葉を小さくひとりごちた。それまではずっと、別世界の言葉みたいに耳になじまないひびきだった。(ユー)()(リッド)(けい)(せつ)(けい)(カテ)()()()の聖職売買という言葉と同じようなひびき。それが今や、極悪非道の生き物の名前みたいなひびきに聞える。怖くて(すく)みあがった。そりくせ少しは近づいて行って、そいつの荒仕事を見届けたい気がした。( p. 11 )
 おんなじ箇所を、新潮文庫にかつて入っていた旧訳版と比較してみます。
 今度はもうだめだろう、これで三度目の卒中だったから。毎晩のように、私はあの家の前を通って( ちょうど休暇だったので )、あかりのついた四角い窓を注意ぶかくながめた。くる晩もくる晩もそこは相変わらず、淡く一様に明るんでいるのを見た。もし()くなったのなら、暗くかげった(まど)(おお)いに(ろう)(そく)の灯がうつるだろう、と私は思っていた。なぜというに、死人の頭のところには必ず二本の蠟燭を立てるということを知っていたから。彼はよく私に言ったものだ ―― 「わしはもう長くはあるまい」と、だが、私はそれをいいかげんな言いぐさとしか考えていなかった。いまそのことばが嘘でないことがわかった。毎晩窓を仰ぎながら、私はひとり小さな声で、「(パラ)(リシス)」と言ってみるのだった。これは私の耳に、ユークリッド幾何学の()()(モン)( 訳注 平行四辺形の一角を含んでその相似形を切り取った残りの形 )ということばや、『カトリック要理』の中の()()()()( 訳注 僧職における昇進、禄、利得を売買する行為 )ということばとおなじように、いつも奇妙にひびくのであった。けれども、いまは何か(ざい)(ごう)の深い者の名前のようにひびいてきた。で、私はこわくてたまらないのだが、しかもなお、それに近よってその恐ろしい働きを見とどけたいと思うのだった。

[ 原文 ]:THERE was no hope for him this time: it was the third stroke. Night after night I had passed the house ( it was vacation time ) and studied the lighted square of window: and night after night I had found it lighted in the same way, faintly and evenly. If he was dead, I thought, I would see the reflection of candles on the darkened blind for I knew that two candles must be set at the head of a corpse. He had often said to me : I am not long for this world, and I had thought his words idle. Now I knew they were true. Every night as I gazed up at the window I said softly to myself the word paralysis. It had always sounded strangely in my ears, like the word gnomon in the Euclid and the word simony in the Catechism. But now it sounded to me like the name of some maleficent and sinful being. It filled me with fear, and yet I longed to be nearer to it and to look upon its deadly work.

 この冒頭部の下線箇所、集英社版『ダブリンの市民( 1999 )』ではそれぞれ「休暇中だった」、「 … 暗いブラインドに蠟燭の()(かげ)が映るはずだ」、「いつもはこの言葉がよそよそしく響いたものだ」になってます。「よそよそしい」、むむむ。当たらずとも遠からず? 

 前にも書いたように、翻訳というのは音楽作品の演奏( 解釈 )とおんなじで、翻訳者が 10 人いれば 10 通りの訳文ができあがるもので、ワタシはこの人のこの訳が好き、という嗜好の問題もあるので一概にいいとか悪いとか言えないかもしれない。偉大な先達による翻訳という営為にケチつける、という意図はまったくないながら( そんな資格も三角もないことは重々承知 )、ではこのジョイスの手になる短編冒頭をはじめて読む読み手にとって、どれがもっともイメージを掻き立てられる翻訳なのか、あるいはどの訳がこの物語をすんなりイメージできるのか。そういう視点に立ったとき、今回、3 人の訳者先生による「姉妹」冒頭部の訳文をはじめて突き合わせて一読した者としては、やはり柳瀬先生の翻訳がもっとも鮮やかで、自然で、神経の行き届いた訳文に仕上がっている、というのが率直な感想でした。たとえば新潮文庫の旧版の書き出しは、とてもじゃないが少年の視点で語られている文章とは思えず、壮年期にさしかかってからの回想文体のようで、ジョイスの意図にはそぐわないんじゃないの、と一読者としてはそんなふうにも感じる。「文体」って文学作品の命みたいなもんですから、翻訳するときはこういう点にも神経を配らないといけない … と自分に言い聞かせつつ。

 柳瀬先生の他の著作もこの際だからといくつか読んでみると、集英社の3巻本『ユリシーズ』邦訳に対してはずいぶんと辛辣です。たしかに不要な「脚注」というのもところどころ目についたりする。「姉妹」にしても、のっけに出てくる gnomon について、「平行四辺形の一角からその相似形を取り去った残りの部分」まではいいにしても、なんでまたすぐそのあとに「日時計の指針という意味もある」なんてつづくのか。こんなとこでいきなり「日時計の針」なんてあり得ないのにもかかわらず、にです[ もっとも、「出会い」にさりげなく出てくる「日もいまだ明けやらぬうちに … 」というのが『ガリア戦記』の英訳引用とか、「土くれ」に出てくるマイケル・ウィリアム・バルフという人のオペラのアリア「夢に見しわれは」、あるいは「委員会室の蔦の日」のチャールズ・スチュアート・パーネルについての説明とかは邦訳読者の理解の助けになるとは思うけど ]。

 著作を読んだかぎりでは、柳瀬先生にとって翻訳とはまずなによりも「文体を翻訳すること」の一点に尽きる。深町眞理子氏も、著作でやはり「いかに」をどう訳出するか、を強調していて、けっきょくおんなじことをおっしゃっている。そういう「柳瀬の姿勢」は、随所に見られる。たとえば「二人の伊達男 Two Gallants 」に出てくる 'His voice seemed winnowed of vigour ; and to enforce his words he added with humour : ... ' を「この声は活力を簸( ひ )られたふうだった。そこで言葉を補強すべく、茶目っ気をこめて言いそえた」とあえて古風な「簸る」を当ててます。おなじ箇所を新潮文庫旧訳版は「彼の声は、精力からふるい出されるようだった。そして、自分の言葉を強調するために、諧謔( かいぎゃく )を加えて言い添えた ―― 」、集英社版では「その声には活力を吹き捨てたような感じがある。彼は自分の言葉を強調するために、ユーモアをまじえてつけ加えた」。… むむむ、「ふるい出される」だの、「吹き捨てた」だの … なんかこういまいちピンとこないなあ( 苦笑 )。外ヅラの威勢だけはやたらいい、カラ元気張ってるだけってとこなんだろうけれども。

 短編集なので、あっちこっち拾いたいのはやまやまながら、一気に飛んでもっとも有名な巻末の「死せるものたち The Dead 」の、もっとも印象的な終結部を一部ですが引いてみます。
 カサカサッと窓ガラスを打つ音がして、窓を見やった。また雪が降りだしている。眠りに落ちつつ見つめると、ひらひら舞う銀色と黒の雪が、灯火の中を斜めに滑り落ちる。自分も西へ向う旅に出る時が来たのだ。そう、新聞の伝えるとおりだ。雪はアイルランド全土に降っている。…… 雪がかすかに音立てて宇宙の彼方から()(なた)から舞い降り、生けるものと死せるものの上にあまねく、そのすべての(さい)()の降下のごとく、かすかに音立てて降り落ちるのを聞きながら、彼の魂はゆっくりと感覚を失っていった。

[ 原文 ]:A few light taps upon the pane made him turn to the window. It had begun to snow again. He watched sleepily the flakes, silver and dark, falling obliquely against the lamplight. The time had come for him to set out on his journey westward. Yes, the newspapers were right : ...... His soul swooned slowly as he heard the snow falling faintly through the universe and faintly falling, like the descent of their last end, upon all the living and the dead.

 旧訳版では、
 サラサラと窓ガラスにあたる軽い音が、彼を窓の方にふりむかせた。また雪が降りはじめたのだ。彼は(がい)(とう)の光へ斜めに落ちかかる、銀と薄墨の雪片を眠たげにながめた。西部への旅に出発する時間がきたのだ。そう、新聞の言うとおりだ、アイルランドじゅうがすっかり雪なのだ。…… 天地万物をこめてひそやかに降りかかり、なべての生けるものと死せるものの上に、それらの最期が到来したように、ひそやかに振りかかる雪の音を耳にしながら、彼の心はおもむろに意識を失っていった。

 両訳文を比べてみてどうでしょうか。ひとつ気づくのは人称代名詞の頻度。柳瀬訳では「自分」以外の「彼」だの「それら」だのがひとつも使われていないことに気づきます。これも先生の「翻訳の姿勢」かと思ったしだいです。ワタシもなるべく人称代名詞は使いたくない人で、理想はコミさん[ 故田中小実昌氏 ]みたいな文章が書けるといいな、なんて不遜にも考えていたりするんですけど、柳瀬先生も人称代名詞なしでこの終結部をみごとに訳出されてます。いまひとつ気づくのが、降り落ちる雪の擬音の処理。北海道根室市出身、ということもあるのだろうか、「カサカサッ」という窓に当たる音がとても vivid に聞こえる。ここの箇所を集英社版では「二、三度、窓ガラスを軽く打つ音が聞こえたので、彼は窓の方を向いた」。またしても「彼」 !! あと細かいことだが「〜の方へ」という言い方も、スピード感が殺がれてよくないと思う。

 「姉妹」も「死せるものたち」も、話者こそ生けるものたちではあるけれど、そのじつ死者がテーマになっている作品、というわけでつぎは「死者たちの声」に溢れかえっているような、というかアビイ叫喚みたいな作品へとつづく……

* ... 手許にある原本は James Joyce, Dubliners , Modern Library Edition, repr., corrected text by Robert Sholes in consultation with Richard Ellmann, New York, 1993。柳瀬先生の著作の引用はすべて『翻訳は実践である』、河出文庫、1997。

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2016年08月07日

「あいつのものモノリスしい単神話めき ! …」、名翻訳家逝く

 先月から今月にかけて、偉大な功績を残された方の訃報があいついだ。先月 26 日には日本を代表するピアニストのひとり中村紘子さんが( 享年 72、文筆家としても名を馳せた先生なので、リンク先はあえて著作ページにしてあります )、そして 31 日には昭和の大横綱、「ウルフ」の異名をとったもと横綱「千代の富士」の九重親方が( 享年 61 )、そして個人的にとてもショックだったのが、英文学者でジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』個人全訳を成し遂げたあの名翻訳家、柳瀬尚紀先生の訃報だった[ 地元紙での扱いがあまりにもささやかだったため、はじめは気づかなかった。ちなみに「東京新聞」は顔写真付きだった。さすが ]。肺炎だったらしい。享年 73。こんなこと言うと不謹慎だが、7月 30 日で 73、と、数字まであわせなくてもよかったのに。もっともっと翻訳してほしかったのに。もっともあいかわらず悟りの遅い不肖ワタシは、柳瀬先生が現在、文芸誌に『ユリシーズ』全訳を目指して連載中だった、なんてことさえ知らなかった( mmm ... mṃm ... ṃmṃ )。

 手許にある『辞書はジョイスフル』という楽しいエッセイ( 1994 )。この本に、20 年前の 1996 年に新聞社の取材に答えていた記事の切り抜きを挟んであって、ひさしぶりに眺めてみる[ ちなみに ↑ の「mmm ... 」は、先生のこのエッセイ本文から借用した ]。「現代に問う『ユリシーズ』下」というタイトルの記事で( ということは「上」もあったわけで、そっちのほうは図書館に保存してある過去記事でも見ないとわからないけど )、先生のお写真のキャプションにこう書いてあって、いかにも先生らしいな、と微笑んだことなど思い出していた ―― 「ぼくは 1 年前より 365 日分英語ができるようになってると思う」。ということは、先生は『ユリシーズ』全訳になんと 20 年もかかり、ついぞ未完に終わってしまった、ということになる( もっともベストセラーにもなリ、映画化もされた『窓から逃げた 100 歳老人』などの邦訳に従事していたなど、一時期『ユリシーズ』完訳作業から離れていたようですが )。心より、柳瀬先生のご冥福をお祈りします(『フィネガン』邦訳についてはこちらの拙記事参照 )。

 『辞書はジョイスフル』、あらためて読んでみると、『フィネガン』翻訳の手の内もあちこちで航海、ではなく公開されてまして、そうか、「卑猥に類スるキャロル歌いめ !! ( 原文:Lewd's carol ! [ Finnegans Wake, p. 501 ])」なんてのもあったんだ、とか、その他いろいろ発見が。でも先生は、「『フィネガンズ・ウェイク』全訳で最も頭を悩ましたひとつ」と告白してもいる( ibid., p. 25 )。あいにく『フィネガン辛航紀』のほうは、いまだ未読。静岡県内の公立図書館の串刺し検索かけてなんとしてでも読んでみようと思う(『辞書は 〜 』のオビの惹句で、清水ミチコさんの評がすこぶる的を射ていておもしろい。曰く、「世界初の活字芸人である」)。

 そして先生は名翻訳者の例に漏れず、無類の辞書 / 事典好きだった。とにかく辞書大好き人間で、そのこともたっぷり紙幅を割いて書いてある。『フィネガン』にはあまたの見たこともない難読漢字が詰めこまれている感ありだが、たとえばそういう漢字ないし熟語をどうやって拾って、見つけてきたかもくわしく書いてあって門外漢にはひじょうに参考になる。『諸橋大漢和』とか、『角川新国語辞典』の「付録」とか … たとえば、
… もはや十二憑きはない、血そめつき、気さわぎ、夜迷い、単于憑き、殺め好き、 … ( III 巻、p. 310 )
なんてのは、すべてこの辞書の付録の「月の異名」を参照してこさえたヤナセ語「変奏」だそうです。で、先生によると引用箇所の「原形」はつぎのとおり。
かすみそめつき( 霞初月 )、きさらぎ( 如月 )、やよひ( 弥生 )、うづき( 卯月 )、あやめづき( 菖蒲月 ) …
 というわけで、寡聞にして知らないが、もし生前、柳瀬先生が「小学校からの英語必修化」の話を聞いたら、「とんでもない、まずは日本語でしょ、日本語は天才である !!! 」と応じたかもしれない。「1月」の異名というのがこれまたすごくて、かすみそめつきだけでなく、いわひづき( 祝月 )、履端( りたん )、質多羅( せいたら )etc., … 前にも書いたけど色の名前だって、ほんとたくさんあるのが日本語という言語。そしてそれをさらに豊かにしているのが、各地方に伝わる方言ですかね。あ、そういえば記事のお題にもした『フィネガン』の一節、そのすぐあとに「ああ、ほうかい! もうそのことはいわんでくれ[ ' ... And his monomyth! Ah ho! Say no more about it!' Ibid., p. 581 ]」とつづくけど、「ああ、ほうかい!」を見た瞬間、ワタシの頭には懐かしい祖母の声が聞こえてきた( 西伊豆の方言でもあるのです。意味はもちろん、「ああ、そうかい」)。そういえば祖母は「ウルフ」が大好きで、取り組みのときは決まって「千代、ほら行けッ、千代 !! 」とテレビ観戦していた。
凡人が『フィネガンズ・ウェイク』を読もうとすると、いかに外国語を知らないかを知る。いかに外国語に通じていないかを知る。
 そこで辞書だ。凡人には辞書がある。
 たとえばアルメニア語であれ、アルバニア語であれ、動詞のように活用のあるものはむずかしいとしても、少なくとも名詞なら凡人にも辞書は引ける。――『辞書はジョイスフル』p. 21

 こんなこと言うと怒られそうだが、SNS 全盛時代、あまりにもことばというものを大切にしていない使い手が多過ぎる。昔は原稿用紙とか便箋に( この季節だったら )手汗かきかき辞書片手に升目を埋め、読み直してまた書きなおす、みたいなことを繰り返して、ようやく第三者である読み手に読んでもらえるようにしたもんだけれども、いまじゃチョチョいと入力して( それも変換予測機能もついて )、ろくすっぽ推敲もせずすぐ送信、あっという間に全世界に公開されちゃうという、ある意味ソラ恐ろしい時代。昔も今もデマというものはあるけれども、虚報 / 誤報をツイートされれば最悪の場合、世界中を巻きこむ危険性も孕んでいるのがいまのご時世。あまりに「速報性」ばかりが偏重されている気がするのはタワシ、じゃなくてワタシだけかしら[ 以上、現場報告員、前大佐でした。名はセバスション、出はリオデジャナイヨと、だんだん日本語が怪しくなってきております ]。こういうお気軽さはなにもことばに限ったことじゃなくて、前記事で取り上げた怪物捕まえ手系ゲームにも言えることだし、世の中全般に対しても言えることではないのか、となんだか偏屈オヤジみたいになってしまった( ついでに牛3つで「犇めく」ですが、柳瀬先生によるとなんと「雷4つ」合わさった漢字まであるそうです )。

 手許にある柳瀬先生の訳書としては、いまひとつ『ダブリナーズ』もある。いつか「名訳に学ぶ」として取り上げたいと考えてます。合掌[ ヤナセ先生、あばあばあばよわん、達っぱでね !! ]。
… 冠涙にむせびて己の挽歌を、天使の機関車の泣きむせぶごとく。理非ィなる人生は遺棄るに値するや ? 唯いな !  
 この一節をキャンベルはこんなふうに紐解いている ――「人生は、それを捨てるに値するものだろうか ? 」。『フィネガン』には全編に現れる「 1132 ( とその変形 )」や 29 人の女生徒の口から各国語による「平和」が繰り出されるなど、それなりにメッセージ性もあるしプロットもある。けっして「精神を病んだ物書きの狂文」ではない。

[ 付記 ]:参考までに、本家サイト別館「ヤナセ語訳『フィネガンズ・ウェイク』を読むためのかんたんな道しるべ[ β版 ]

 … いまさっき調べたら、なんとなんといつも行ってる図書館に、Finnegans Wake 原本が置いてあったことを発見 !¿! Ulysses は借りたことあったけど、まさか『フィネガン』原本まであるとは … おそらくだれからも顧みられなくて書庫でショコんぼりしてるだろうから( 苦しい )、こんど借りてみようかな。だれがなんと言おうと、'harpsidiscord' を「破ープシコード ( I 巻、p. 37 )」としたのは、快哉ものです[ ただし、「フィネガン徹夜祭 / 本文は英語 」という但し書きは、どうなのかな、あれは英語のように見えて、じつは「字酔イス語」なので。柳瀬先生によると、『フィネガン』関連辞典 / 事典 / 注釈本のたぐいでもっとも役に立ったのが 2 冊あり、そのひとつが比較神話学者キャンベルがヘンリー・モートン・ロビンソンという人と書いた『「フィネガンズ・ウェイク」を開く親鍵 A Skeleton Key to Finnegans Wake 』だったそうです ]。

posted by Curragh at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | おくやみ