2016年10月23日

'AKSEL!' ⇒ PPAP( 苦笑 )

1). 以前、ここでもちょこっと触れたノルウェイの大型新人少年歌手( ボーイソプラノ / トレブル )のアクセル・リクヴィン( Aksel Rykkvin )くん。今年 13 歳のアクセル少年の豊かな声量、たくまざるテクニックとそのノビのよい歌声をはじめて聴いたとき、「この子はアレッドの再来か ?! 」って思ったもんです( リンク貼ったのは、いまどきこの伝説的ボーイソプラノを知らない人がほとんどではないかと思ったまでのこと )。

 で、いまそのアクセルくんのデビューアルバム( AKSEL! Arias by Bach, Handel and Mozart )聴きながら書いてるんですけど、個人的な好みではもうすこし「少年らしさ」があってもいいんじゃないかとも感じます。とくにヘンデルのアリアで顕著なんですが、コロラトゥーラ唱法にこだわり過ぎてるところがなきにしもあらず、と思えるので … でもヘンデルはじめバッハやモーツァルトなど、バロック−前期古典派といった古い時代の作品をもっとも得意としているらしくて、これはすなおにとてもうれしいことではある。バッハ( 真の作者はシュテルツェル )「御身がそばにいるならば BWV. 508 」なんかもう最高。アクセルくんと言えば、この前 BBC Radio3 のある番組に呼ばれて生の歌声も披露してくれたけど、このアルバムの録音に参加しているオケがこれまたすごくて、なんとナイジェル・ショート指揮のエイジ・オヴ・エンライトゥンメント管弦楽団ですぞ !! 

 収録はロンドンの教会で行われたようで、「 fantastic な経験だった」とすまし顔でインタヴューにこたえてたアクセル少年、じつはこのアルバムリリースはいまはやりの「クラウドファンディング」で資金調達( !! )したんだとか。で、ライナーの最後のページにその資金提供者のご芳名がずらり並んでいる( あいにく邦人の名前はなかったけど。レーベルはテュークスベリーのアルバムなど、聖歌隊ものをけっこう出している英 Signum Records )。

 いまからちょうど 10 年前だったかな、米 Time 誌の恒例「今年の人」に選ばれたのが、なんと YOU !!! 当時、日本でも認知されはじめた大手動画投稿サイトのプレーヤー画面を模したその表紙は鏡面光沢になっていて、手に取った読者はそのプレーヤー画面に自分の顔が映る、というおもしろいデザインだったのを思い出す。いまや動画投稿は当たり前、これで稼ぐ人まで現れるし、SNS 経由であっという間に全世界に「拡散」し、一躍ときの人、なんてことも日常茶飯事になりつつある( そういや My Space っていまはいずこ … ?)。なのでこういう話を聞くと、やはり時代だなあ、と感じてしまうのも事実。インターネットも SNS も動画投稿サイトもなーんもなかったころ、アンディ・ウォーホルだったか、「だれでも 15 分間は有名になれる」とか、そんなこと言っていた人がいたけど、いやはやたいへんな時代になったもんである。

 そのアクセル少年は、もちろんそんな「一発屋( one-hit wonder )」なんかじゃありませんで、5歳にして歌手になると決心、オスロ大聖堂聖歌隊のオーディションに行ったそうです。翌年、入隊が認められて、いまもそこの少年聖歌隊員で、3年前からはノルウェイのナショナルオペラ & バレエの児童合唱団にも参加しているそうです。どうりでオペラアリアの歌いっぷりが堂に入っているわけだ。

2). 「歌声がアレッド(・ジョーンズ)に似ている」ってさっき書いたけど、じつは彼の目標がそのアレッドのようで … 歌手を志していたとき、家でボーイソプラノの CD とかよく聴いていたんだそうです。もっとも音楽的才能と稀有な歌声に恵まれているとはいえ、男の子の場合はどうしても「声変わり」という関門を避けられないので、そのへんをうまく切り抜けてくれればよいがなと、お節介ながら思ってしまう。

 彼の目標のアレッドは、かつて日本でも大ブレイクしたことがあったけど、この声変わりをうまく切り抜けることができなかった( 一時期、なんとあの D. フィッシャー−ディースカウに師事していたこともある )。その後 BBC の仕事とかミュージカルに出たりして、結婚してからようやく声が安定したのか、変声後はじめてのアルバムを出したのが 2002 年のこと( 国内盤が翌年出ていたとはいままで知らなかった )。オトナになると、かつての志がいつのまにかどっかに行って、比較神話学者キャンベルふうに言えば、「お金がどこから来て、どこへ向かうのか」にどうしても意識と関心が集中してしまいがちになる。

 もちろんおカネは大事です !! いっつも財布の中身がピーピーな不肖ワタシは、ほんとにそう思う。でも願わくばそんな芸事の本筋とは関係ないことにはあまり煩わされずに大好きな道をどんどん突き進んでいって折角精進してほしい、と思う。だって芸術、アートってのはほんらい、「お金がどこから来て、どこへ向かうのか」とは次元の異なるものなのだから。

 以前、キャンベル先生が受講者だかなんだかわからんが、聴衆を前にジョイスに関する講義を行っている動画を見たことがあります … で、『若い芸術家の肖像( A Portrait of the Artist as a Young Man )』を手にとって、「ジョイスは、芸術には static なものと、kinetic なものがあると言っている」とか、そんなことを語っていた。どういうことかと言うと、「こうすればもっと受ける」とか、「観客動員数を上げよう」とか、そういうことを最優先にしてこさえるのが「動的」な芸術。そうでなくて、純粋に内なる声に耳を傾け、対話し、内面のもっとも深いところまで降りていって「そのものの完全性( Integritas )」を認識させるような作品を苦心してこさえるのが「静的な」芸術だ、ということ。だいぶ前だが、いわゆる「ケータイ小説」なるものを書いている人の執筆現場というのを TV で見たことがあるけど、なんと読者となかば対話しつつ、彼らの要望も取り入れながら書いていたのには仰天した。ワタシの常識ではほとんど理解不能な「創作姿勢」です。

 これ書くためにほんとひさしぶりにアレッドの自伝本( Aled : The Autobiography, 2005 )を引っぱり出してみると、所帯持ちになったアレッドが「デビューアルバムがチャートの何番目に入っているか」をしきりに気にしている箇所が出てくる。デビュー盤の発売初日、アレッドは「どれくらい売れるのか見当がつかず、こわかった」と正直に告白している( p. 203 )。アーティスト本人が事前に知らされているのは、先行予約がどれくらい入っているかという情報だけ。文字通りフタを開けてみないとわからない世界というわけです。

3). フタを開けてみなけりゃわからなかった、という一例として、こちらも挙げていいのかもしれない。ジャスティン・ビーバーのたったひと言で一躍世界的な「有名人」になった、あのピコ太郎氏。なるほど、ある意味ひじょうに計算し尽くされていて、あれはあれでよくできているとは思いますよ。とはいえこれだけメガヒット( かな? )を飛ばすとは、そしてデスメタル調(?)あり、バラッド調ありと全世界からマネされようとは、当のご本人もまるで予期していなかったにちがいない。

 でもほんとうに試金石になるのが、やはり「2作目」とそれ以降でしょう。映画なんかそうですね。アレッドもセカンドアルバム Higher を出す際、強烈なプレッシャーを感じていたと述懐しています( このアルバムに収録されている 'You Raise Me Up' はけっこう好きです )。そしてじつはキャンベル先生もまた、『神の仮面』シリーズの 2番目の著作『東洋神話』の巻の執筆にたいへん難渋したとか。それもこれも当時、国際的な宗教会議に出席するため日本( !!! )に行かなければならず、あまり執筆の時間がなかったため一気呵成に書き上げた( はずの )第 1 巻『原始神話』が著者の予想に反して(?)けっこう売れた、ということがあり、それが重荷になっていた … らしいです( カリフォルニアの景勝地ビッグ・サーで長年、開いていたレクチャーのある回でキャンベル自身がそう語っている )。アクセル少年は … おそらくそんなことはなかろう。まだまだ若いし、人生これから。そういう芸術とはあまり関係ない事項に汲々としなければならなくなるのは、「もうとうに、まだまだ」だろうから。

 繰り返すが、芸術家にとっておカネは、はっきり言って副次的なもの。いちばん大事なのは、他者がどう見ているか、どう反応するか、その結果、儲かるか、とかそんなことじゃないはずです。なにが大事かって? 不肖ワタシがえらそうな御託を並べるより、真の偉人に語ってもらったほうがよいでしょう[ 文中の下線強調は引用者 ]。↓
… しかし現実に満足しまいと決意した人たちが存在することも、また事実である。このような人たちは、事物が別のコースをとることを熱望している。つまり、習慣や伝統、簡単に言うなら生物的な本能がおしつけてくるいろいろな所作を繰り返すことを拒否するのである。われわれはこの者たちを英雄と呼ぶ。なぜなら、英雄であるとは唯一のものであること、自分自身であることだからである。もしわれわれが伝統や周囲のものがある決まりきった行為を強制することに反抗するとしたら、それは、われわれが自分たちの行為の起源を、われわれ自身に、われわれのみに求めようとするからなのだ。英雄がなにかを欲するとき、そうするのは彼の中にある先祖たちでもなく、現在の慣行でもない。彼自身が欲するのである。そして、このように自分自身であろうとすることこそ英雄なのだ。*

[ 付記 ]:今月 2日、世界的指揮者のサー・ネヴィル・マリナー氏が逝去された( 享年 92 )。自分もマリナー氏の指揮によるディーリアスやヴォーン・ウィリアムズなどの英国作曲家のアルバムとかときおり聴くのでとても残念でならない。アクセル少年はじめ、最近のアーティストはたいてい SNS アカウントを持っていて、「いついつにこれこれをやるから聴きに / 見に来てね!」とか、「いいね!」してもらうのが当たり前みたいになっているこのご時世になかば流されるように生きていると、そういう人たちが手の届かないところにいた過去を懐かしくも感じたりする。「巨匠の時代」は遠くなりにけり、か( 先週の「クラシック音楽館」で 2014 年2月に N響サントリー定期を振ったときの録画を流してくれたのはうれしかった。合掌 )。

* ... ホセ・オルテガ・イ・ガセット、佐々木孝訳『ドン・キホーテをめぐる思索』未來社、1987、p. 177。このすぐあとに、「私は、この英雄の『実践的』かつ行動的独創性以上に深い独創性が存在するとは思わない。彼の一生は、習慣的できまりきったことに対するたえまのない反抗である。… このような生涯は、永遠の苦悩であり、習慣のままに物質の奴隷となっている自己の部分から絶えず身をひきはなすことなのだ」とつづく。

posted by Curragh at 19:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連