2016年12月30日

Post-Truth だろうとなんだろうと、「すべては今日から」! 

 まずは関係のないマクラから。けさ聴取した「古楽の楽しみ / リクエスト・アラカルト」、いちばん印象に残ったのはルクレールの「ソナタ 第 11 番 ロ短調」とバッハの「フルート、オーボエとバイオリンのための協奏曲 ニ長調 BWV. 1064 a 」でした。ルクレールのほうはフルートソナタなんですけど、はっきり言ってこれ構成がパルティータ、組曲なんです。で、聴いているうちに、あ、これをそのまま鍵盤に移植したらバッハの鍵盤作品だと称してもじゅうぶん通用するな、と。いかにもフランス古典でござい、と思わせといて、じつはイタリア趣味満載だったりするところがおもしろかった。2番目のはバッハの「3台チェンバロのための協奏曲 ハ長調」の原曲復元、というか、編曲の編曲。で、岐阜県にお住まいのラジオネーム「やまあるきにすと」さんがリクエストしたのは、なんとなんと往年のマエストロ、ヘルムート・ヴィンシャーマン( まだまだご存命 ) !!! いや〜、なんという懐かしい響き !! 案内役の大塚直哉先生も言っていたけど、最近の古楽ではこの名前、ほんと聞かなくなった( リヒターもヴァルヒャも例外ではない )。2016 年最後にかかったリクエスト曲がこのようなすばらしい音源だったとは、これまたうれしいサプライズでありましたね。 本題。今年ほど、いろいろな分野の音楽家が物故した一年、というのはあんまり記憶にない。ちょっと思い出してみるだけでも中村紘子さん( 7.26 )、プリンス氏( 4.21 )、ピエール・ブーレーズ氏( 1.5 )、デヴィッド・ボウイ氏( 1.10 )、以前ここでもちょこっと書いたマーラー研究家で実業家のギルバート・キャプラン氏( 1.1 )、キース・エマーソン氏( 3.10 )に、おなじ ELP のギタリストだったグレッグ・レイク氏( 12. 7 )、サー・ネヴィル・マリナー氏( 10.2 )、そしてニコラウス・アーノンクール氏( 3.5 )… 直近でいちばんびっくりしたのは、キャリー・フィッシャーさんと、「雨に唄えば( 1952 )」の名演で知られる母親のデビー・レイノルズさんがあいついで亡くなられたことですね … 心よりご冥福をお祈りします。往年の SW ファンとしては次回作が気になるところだが、すでに「エピソード8」は収録済みなんだそうです。最終作は … いったいどういう展開になるのだろうか? 翻訳関連では『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』などのジョン・ル・カレのエスピオナージュものの邦訳で知られる村上博基先生も不帰の人になっている( 4.30、享年 80 )し、ここでも取り上げた柳瀬尚紀先生も逝去された( 7.30 )。 不肖ワタシは以前、のら(?)の子猫ちゃんを動物病院に連れてゆく展開になりまして、しかたないから移動中の車中では自分の膝の上に乗っけてたんですけど、病院到着前、なんか心なしか「ふっ」と子猫の体重が軽くなったような感覚が。そのときはあまり意識してなかったんですけど、まさにそのとき、子猫は天に召されたのであった。なので、魂とか霊魂とかいうのは確実に存在すると確信するようになった。だってげんに「軽く」なったんですもの。生命あるものにはそのエネルギーを吹きこむ「なにか」が、確実に存在する( inspire という動詞のほんらいの意味は、「息を吹きこむ」)。そういえばこういう番組も先だって見ました。 なんでまた音楽関係の著名人の訃報やら、子猫の話を持ってきたかというと、ここ数年ずっとそうだろうけれども、子どもたちの自殺がほんと後を絶たないからでして … いちばん個人的に心痛めたのは青森の女子中学生の件ですかね …… なんでこうも自分の命を粗末に扱うのかってほんとうに口惜しい。「線が細い」とかって言い方があるけど、たかが十何年生きただけでかんたんに死ぬなよ、と声を大にして言いたい。この件についてはいろいろ言いたいことがあるが、あんまりここで喋々してもしかたないだろうから、ひとつだけ。やっぱり親御さんの責任は大きいと思う。べつに責めるつもりは毛頭ないが、わが子の自尊心というか自分を大切にする心というのが、けっきょくはそれだけのものだったのではないか、とつよく感じられるからです。自分の子どもに遠慮なんかしてどうするのですか。「サザエさん」じゃないけど、もっとおおっぴらにやりあうくらい膝突きあわせて徹底的に話しあうとか、そういうことさえなかったのでは、と思ってしまう。学校の先生を責める前にもっとやるべきことはあったんじゃないのかな( もっともハレンチな論外教師は今年も相変わらずけっこういましたが … )。
もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。
昨年の夏休み期間だったか、こんなツイートが話題を集めたことがありました。なるほど図書館ねぇ、と思ったもんですが、逃げ道を作る、という知恵はこういうときにこそ発揮すべきで、たとえば図書館とか物理的な場所ではなく、「他者に邪魔立てされない、自分だけの神聖な時間を作る」ということだっていいわけです。あっさり電車に飛びこんでしまう勇気があったら、なにかひとつ夢中になれるものを見つければいい。きっとそれがその子の命を救うことになるし、結果的に「全世界も救われる」ことになる … かもしれないのですよ。「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ( 「マタイ 10:16」 )」というイエスの名言もありますし。とにかく生きること、これに尽きる。生きているだけでいいんです、あとはなんとかなる( ついでにキャンベルふうの物言いを又借りしてくれば、大金持ちだろうと貧乏人だろうと中間層だろうと、自分の思い描いたとおりに生きている人なんてひとりもいやしないんです )。 それにしてもこの一年ほど、人間のことばの持つ力のブライトサイドとダークサイドを見せつけられた年があったかな、とあらためて感じる。たとえばこういうのはどうですか。あるいはまたこちらの記事とか( こっちは今月 23 日付地元紙コラムにも取り上げられていた )。もうこうなるとこちとらは空いた口が塞がらない、いや、背筋がぞっと寒くなる。これじゃいつぞやここで書いたオルテガの『大衆の反逆』じゃないですか、いやこれこそ「帝国の逆襲」なのかな。
… すべての人々が、新しい生の原理を樹立することの急務を感じている。しかし ―― このような危機の時代にはつねに見られることだが ―― ある人々は、すでに失効してしまった原理を、過度にしかも人為的に強化することによって現状を救おうと試みている。今日われわれが目撃している「ナショナリズム」的爆発の意味するところはこれである。…… 最後の炎は最も長く、最後の溜息は、最も深いものだ。消滅寸前にあって国境 ―― 軍事的国境と経済的国境 ―― は、極端に敏感になっている。―― オルテガ・イ・ガセット / 神吉敬三訳『大衆の反逆』ちくま学芸文庫版、pp. 261 − 2
 地元紙コラムはかつて先輩記者に口酸っぱく言われたこととして、「事実と憶測を混同するな」を挙げています。いまは一見すると、かつては考えられなかったくらい多種多様な情報がそれこそ全世界から入ってきて、あるいはいま自分のいる場所から全世界に向けて発信できたりして、30 年ほど前に喧伝されていたような「高度情報化社会」になったかのようにも見える。でもそのじつ、以前ここでも書いたマッキベンの言う「情報喪失の時代」に生きているのではないかという思いがますます募るいっぽう。その最たるものが、ついったーでしょうかね。言い方は悪いが、次期米国大統領閣下は従来メディアへの対抗手段として、「特定のニーズを満たし、特定のニーズにのみ届く」という SNS の長所でもあり短所でもあるこの点を巧みに突いて利用( 悪用 ?? )しているだけなんじゃないかって気もしますね。ついでに個人的に Twitterというシステムが気に入らない。あれはどう見ても「中央集権的」構造で、「 PPAP 」みたいな例はまあよしとして、けっきょくのところジャスティン・ビーバーかトランプか、発言力のつよい人に大多数を追随させるようにできている。ひところネットで「フラット化」が進む、なんてもてはやされたりもしたが、フタを開けてみたらちっともフラットじゃなかった、ってことですかね。 人間のことばの持つ魔力にいちはやく気づいていたのは、われわれじゃなくて太古の人間だったと最近、ほんとに痛感します。いまの人は「即時性」を求めるあまり、平気で他人を傷つける暴言をツイートし(「 … 落ちた日本死ね」)、また波平さんみたいなうるさ型オヤジが激減( ?! )したせいかどうかは知らぬが、どうでもいいことをわざわざ物議を醸すような物言いで垂れ流す御仁も老若男女問わずゴマンといるのも事実。トイレの落書きにもならないような繰り言を全世界に放って、あとは知らない、では話が通らない。そう言えば先月だったか、英オックスフォード大学出版局の選んだ「今年の漢字」ならぬ「今年の単語 Word of the Year 」に PPAP じゃなくて「脱構築」でもなく「脱真実 Post-Truth 」を選んだんだそうです。post-truth とは言い得て妙、かな? 英語の世界にまたひとつ新顔の仲間入りということか( ちなみに昨年は Face with Tears of Joy、嬉し泣き顔の絵文字[ ?! ]だったようでして )。 その点、たとえば古代ケルト人とか昔の日本人( ことだま )はちがっていた。とりわけ言語感覚が鋭かったのはケルト人だったような気がします。フィリ filidh と呼ばれていた知識階級( 古アイルランド社会においては、「紀元 7 世紀ごろにはすでにフィリたちがドルイド階級の職務と彼らの特権を引き継ぐ事実上唯一の後継者[ P. マッカーナ ]」となっていたらしい )。当時のアイルランドでは、フィリの放つ「ゲッシュ」、もしくは呪いにはほんとうに人を殺す力があると信じられていた( 呪いで相手をやっつけた、という話が多く存在する )。われわれはどうなんだろう? 人間のことばの持つ恐ろしさを肌で感じているだろうか。人間のことばにはたしかに鎌倉の図書館員さんのツイートのような温かい励ましもあれば、その真逆の人を絶望の淵に追いやり、その人の生命を奪うか、あるいは逆上して他者の生命財産へと矛先が向かうことだってある。またプロパガンダというたぐいのことばもある。この点で次期米国大統領閣下におかれましては、やってることは ISIS とたいして変わらない、ということになる( もっともむずかしいこと、それは「汝自身を知れ」)。この手のカルトについて、沼津市出身の小説家、芹沢光治良氏はこんなことを書き残してもいます。
いろいろ新しい宗教や信仰が、現在、さかんのようだが、それは、人間がつくった神で、祈ったからとて、何の力もない。他に神があるように説いて、信仰をすすめる者が多いが、それは、そう説く者の、私利、私欲によるもので、神とは全く関係ないので、愚かにも惑わされては、恥である ―― くどいようだが、重大なことであるから、重ねて言うが、神は、ただ、大自然の親神しか、存在しない。他に、神名を挙げる者があっても、それは、人間が勝手につくった偶像で、神でないばかりか、ただのお話にすぎないのだ ――『大自然の夢』1992、p. 191
 そんな世相を察知したのか(?)、はたまた現代のフィリということなのか、今年のノーベル文学賞があの「風に吹かれて」のボブ・ディランさんに決まったのは、なんか当然の成り行きだったような感じがした。
How many roads must a man walk downBefore you call him a man?...... Yes, ’n’ how many times must the cannonballs flyBefore they’re forever banned?The answer, my friend, is blowin’ in the windThe answer is blowin’ in the wind
 こういう時代だからこそ、やはり批判的に物事を考える習慣というのは大事なんじゃないかって思われます。「こたえは風に吹かれている」。ちょっと目を凝らせば、おのずと取るべき道が、こたえが見えてくるんじゃないかって気がしますね。 … とここまでつらつら勝手なことを書いてきたけれども、本年最後もやはり、珠玉のことばの花束で締めたいと思います。
… 日本人は道義心がつよいし、責任感もつよい。だがそのつよさゆえに、自分自身の人生に振り向けるべきエネルギーを奪われてしまっている。日本人は、課せられた仕事に対するのとおなじくらい、自分の人生を愛してほしい。自分と家族、あるいは友人たちと好きなことをして過ごす時間を大切にしてもらいたい。…… 人は、発展するために生まれてきたのではない。幸せになるために生まれてきたのだ。―― ホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領( TV 番組のインタヴューからの抜粋なんですが、これホントにすばらしい、感動的名言だと思う )

…… われわれは独力で冒険を挑む必要さえない。あらゆる時代の英雄たちが先に進んでくれたからだ。もはや迷路の出口はすべて明らかにされている。われわれはただ英雄が開いた小道をたどりさえすればいい。そうすれば、かつては恐るべき怪物に会うと思っていたところで神に出会うだろう。そしてかつては他人を殺すべきだと思っていたところで自我を殺すことだろう。まだ遠くまで旅を続けなければと思っていたところで、われわれ自身の存在の中心に到達するだろう。そして、孤独だと思い込んでいたのに、実は全世界が自分と共にあることを知るだろう。―― ジョーゼフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』( 飛田茂雄訳『神話の力』、早川書房刊 )

…… 首尾よくドイツ文学科の学生となった僕は、当然のことながら日々ドイツ語との苦闘を強いられることとなった。そんなある日、僕の心を鮮烈に捉えたドイツ語が、… 「アプ・ホイテ」であった。初めて目にして声に出した瞬間、なんともユーモラスな感じがしたのと、何度も口ずさんでいるうちに妙に楽しく愉快な気分になってきた。"今日から" "アプ・ホイテ"、そうだ、すべては今日からだ !! ―― 児玉清『すべては今日から』p. 239
Alles beginnt ab heute !! すべては今日からはじまる !! 来たる年はこれで行きましょう! [ 上記ドイツ語表現についてはベルリン在住の方に校閲してもらいました ]

posted by Curragh at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など

2016年12月25日

「ラスコー展」⇒ パリ木 ⇒ 「鏡の中の鏡」

1). 本日はなんともう( 早 !! )クリスマスじゃないですか。ここんとこいろいろヤボ用が立てこみ、また部屋の整理ついでに National Geographic 日本版など古雑誌や古本やらを整理し( 以前、神田の古本屋さんでティム・セヴェリンの「ブレンダン号の航海」特集号を買ったりしたけど、いまじゃ買い取りしてくれる古書店にお伺いを立ててもこの手の雑誌系は相手にもされない。写真とか付録地図とか、けっこう価値ありだと思うんですがね、雑誌の売れない時代のせいなんですかね )、息つく間もなかったような、今日このごろ。

 でもまあ風邪も引かずにここまでなんとかやってこられまして、そのことに深く感謝しつつ、ひさしぶりにお上りさんで先日、かねてより興味のあった「ラスコー展」を見に行ってきた。なんとかいう TV ドラマのせいで(?)、平日でもけっこう混んでるかも、なんていうビッグデータ解析サイト(!)の予測なんかも参考にはして出かけたんですけど、それはみごとにはずれまして会場にすんなり入れました。なるほど、こりゃすごいです。なんせ3万年も前のクロマニョン人の描いた洞窟壁画を精密な3Dレーザースキャンによる測量( 最近はハンドヘルド型で持ち歩きながら自在にその3次元空間のレーザー測距ができる座標測定マシン[ CMM ]というすごい機械もあるから、さらにびっくり )して忠実に再現したラスコー壁画のレプリカ展示は、圧巻( そういえばさっき見た「日曜美術館 / アートシーン」でも紹介されてましたね )。

 レプリカ展示もよかったけど、貴重な出土品の数々 ―― ランプ台、矢じり、フリント石器、本邦初公開というトナカイの角に彫りつけた「体を舐めるバイソン」や「馬の彫像」… もすごかったが、もっかキャンベル本( Goddesses )を読んでる身としては、なんといってもイタリアの遺跡から出土したという「ヴィーナス像( 34,000−25,000 年前 )」には文字どおり刮目させられた。いわゆる日本の「土偶」体型。典型的な大地母神のイメージが、はやくもこの時代にみごとに表現されていることに驚かされました。

 驚いた、ということでは最後の「後期旧石器時代の日本」に関する展示でもちょっとしたサプライズが。「初音ヶ原遺跡の世界最古の落とし穴」と紹介されていた地層剥ぎ取り断面図の写真パネル。ええっと思いましたよ、わりと近所の遺跡だったので( 苦笑 )。こんなとこでお目にかかるとは、ずいぶん遠回りしたような気分でもある。

 でも隣り合わせに展示されていた「東野遺跡の発掘ピット」の写真パネルは、ちょっとよくわからない。長泉町の東野地区にある遺跡のことなのかな? あそこはベルナール・ビュフェ美術館とかヴァンジ彫刻庭園美術館とかが建つ「クレマチスの丘」という複合文化施設のあるところでもあるけど … それはともかく、初音ヶ原遺跡の落とし穴って世界最古級なんだ、それはまったくの初耳。ラスコー洞窟壁画に話をもどすと、生き生きと描かれた牛や馬、バイソンや鹿、ライオンなどの動物群の壁画もすばらしかったけれども、なんといっても印象的だったのはやはり「トリ人間」ですかね。

2). 上野でラスコー壁画の世界を堪能したあと、こんどは「パリ木」を聴くため東京芸術劇場( 芸劇 )へ。ここに来るのもまたひさしぶり。NHK(?)か知らないが TV カメラが入っていて、開場時間になってもぐずぐずしていて入れなかった( 中継が入るとたいていこうなる、1999 年の王子ホール公演のときもそうだった )。今回はア・カペラ歌唱で知られるパリ木にしてはこれまた珍しく、オルガン伴奏つき! なのです( だから行くことにした )。芸劇コンサートホールの「回転オルガン( !! )」は、今回は白いタケノコをスパっとたてに切ったようなデザインのロマンティックオルガン面でした。

 パリ木( PCCB )の来日公演を聴くのもひさしぶりだったんですが( 前回は東京カテドラル聖マリア大聖堂[関口教会]での公演で、そのときはヴェロニク・トマサン女史という方が指揮者だった、現在はヴァンサン・カロンという若い方 )、'90 年代の公演スタイルとはかなり様変わりしていてある意味とても新鮮でした。「古参」ファンのなかには「グレゴリオ聖歌ばっかじゃかなわない、アンケートで抗議しようか」なんてことをつぶやく人もいたようだが、 べつに来日公演だからってムリしてまで日本語で日本歌曲を歌うこともないんじゃないでしょうかね。前にも書いたことながら、日本語の歌詞をもっとも美しく歌い上げられるのは、日本の子どもたちですし。ただ、団員の子たちによる曲目紹介くらいはあってもよかったかも。前半の締めがバッハの「ヨハネ受難曲」終結コラールというのもパリ木としてはひじょうにめずらしいプログラムだったけれども、なんといっても印象的だったのは当日オルガンを弾いていた現芸術監督のユーゴ・ギュティエレス( Hugo Gutierrrez )氏みずから作曲した「アニュス・デイ( 神の子羊 )」。この合唱のハーモニーはほんとうに感動的だった。とくに終結の 'Dona nobis pacem, PACEM, PACEM!' の連呼が ―― 昨年から今年にかけて、凶悪なテロ事件に揺れた欧州の人々を慰めるかのような清冽なフォルテで何度も繰り返されるこの「われらに平和を!」は、ほんとうにすばらしかった。でもあいにくプログラムノート( 書き手はなんと「古楽の楽しみ」の関根敏子先生だ !! )は「 … 中世のミサ曲からパリ木の芸術監督ギュティエレスが編曲しています」とずいぶんあっさり終わっているため(?)か、パリ木団員たち渾身の「思い」がいまいち聴衆に伝わっていなかった気がするのはすこぶる残念( 平和ボケ、とは言いませんが、こういう作品こそ反応してほしいところではある。歌っている団員たちの顔にも切実な思いが現れていた )。そういえばこの時期の定番でもあるような「カッチーニのアヴェ・マリア」も歌ってくれました。この作品については、先日放映のこちらの番組で加羽沢美濃さんが作曲家としての鋭い指摘( マイナーコード → メジャーコード … というコード進行は、初期バロックではありえないこと )も交えて解説してましたね。そもそもカッチーニは教会音楽家じゃないから、たしかにありえない話ではある( 'Ave Maria ...' のみの歌詞ってのもことさらにありえない )。最近はしっかり「ヴァヴィロフ作曲 / 編曲」と但し書きされて紹介されることがふつうになってきたから、これはけっこうなことだと思う。レーベル会社や招聘元も誤解を招く言い方ないし表記はそろそろ改めるべきでしょう。

3). パリ木の少年たちの清純な歌声とフランスのオルガン音楽( 当日はギルマンとデュプレのオルガン曲も演奏されて、こちらも大満足 )をたっぷり精神と肉体に取りこんで( 笑 )、最後は音楽そのものについてちょっと書きたいと思います。

 先日、地元紙に「世界を翔るタクト」連載中の世界的な指揮者・山田和樹氏が、「音楽のすばらしさは、技術的なうまい・へたを超えたところにある」という趣旨のことを書いていらして、わが意を得たり、と思いました。そんな折も折、愛聴している「きらクラ!」のあのふかわりょうさんがピアノ、遠藤真理さんがチェロでアルヴォ・ペルトのあの「鏡の中の鏡」を演奏してくれたことは( ワタシだけじゃなく、全リスナーがそう感じていたであろうと思うが )ほんとうにうれしいサプライズでした。フーマンさん、Danke schön !! 

 ヴァヴィロフの話じゃないけど、音楽作品にかぎらず芸術作品というのは作者の手を離れて、リスナーや読み手のものになった瞬間、もう作者のものではなくなる( と思う )。だれが作ったのかという真贋論争というのもたしかにそれはそれで大事なことですけど、芸術が人の心に呼び起こす感動というのはプロとか素人とか、それでカネ稼いでいるとかいないとか、そんなこととはまったく関係のない次元の話であって、ワタシはとくに音楽作品そのもののもつ「価値」を最重要視するほう。だからきょくたんな話、プロの名演であろうがちょっと足取りの危なっかしい子どもの演奏だろうが、しぜんと感動を呼び起こすのがホンモノの音楽作品、芸術のもつ底力なんじゃないかって気がします。みなさまもよき( そしてなによりも平和を !! )クリスマスと新年を。

posted by Curragh at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連