2019年08月31日

Translation is NOT an easy job! 

 … 今年はアポロ 11号が月面着陸してから半世紀、そしてほぼ同時期に起こったおぞましい事件(後述)もまた半世紀、京都アニメーションの襲撃事件(たんなる放火犯、というより、無差別殺戮のテロと言うべきもの)が発生したり、あるいは今年の夏もまた自然の猛威に見舞われたりと(三島市で竜巻があったのには驚いた)、いろいろありすぎた 2019 年の夏も、暦上の区切りでは今日で終わり。当方はあいかわらずあくせくしどうしで、ここのところブログの更新もままならず、放置状態。というわけで、来月、はいちおうこれでも〆切を何件も抱えこんでクソ忙しくて新しい記事を書くのは物理的に不可能なため、10月以降、心機一転、週に一度くらいの頻度でなんでもよいから「とにかく書く」ことを目指していきたいと思ってます(記事じたいももっと「簡潔」に、シンプルに仕上げるつもりではある)。

 というわけで、今回もまた仕事がらみのネタになってしまうが … クエンティン・タランティーノ監督の新作映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の重要なエピソードらしい(見る気もその時間もないため、たんなる憶測失礼)シャロン・テート殺害を含む、一連のいわゆるマンソンファミリーによる事件。すこし前にそれがらみの依頼がありまして、ワタシ自身もシャロン・テート事件は聞きかじりでしか知らないため、図書館でなにか参考になりそうな本はないかと探してきた。それが、なんと名翻訳家の故小鷹信光氏の訳された『ファミリー』だった。

 これで仕事ができる !! とこちらは喜々として図書館をあとにして、この本をかたわらに広げつつ訳出にかかったわけですが、そのときふと、そうだ、以前、図書館で借りた本で小鷹先生の翻訳エッセイがあったっけな、と思い出し、訳稿を納品したあとでそっちもふたたび借りてみた。

 で、そのエッセイにも果せるかな『ファミリー』のことがちょこっと紹介されていて(p. 71)、「… この本によって 60 年代末のヒッピー文化の裏面を理解することができ」た。たしかにこの訳書、いま読むとあらためてすごいなあ、と … 先人の仕事ってすごいです。なんせインターネットだの Google だの Skype だのな〜んにもなかった時代、バカ高い「国際電話」くらいしか連絡手段がなかった時代なんですぞ。小鷹訳が世に出たのが 1974 年、石油ショックにロッキード事件のころ。原書はそれこそ麻薬関係、フラワーチルドレン関係の隠語俗語のオンパレードで、担当編集者から、「この本は難物だから」と警告されていたにもかかわらず、引き受けたんだそうです。それだけこの事件の与えた衝撃が大きかった、ということなのかと、半世紀たったいまに生きる門外漢は思うわけ。

 「訳者あとがき」を見ると、
日本語にして原稿用紙千枚におよぶ、長く、おぞましい陰惨な記録の結びの一行を、[著者の]サンダースは It was over. という簡潔な三語でしめくくっている。

とあります。で、その箇所を見ますと ──
… さらに、ショーティ・シアー殺害のかどで、スティーヴ・グローガン、ブルース・デイヴィス、マンソンの三名に、ゲイリー・ヒンマン殺害のかどでデイヴィスとマンソンの両名に、第一級殺人による死刑の求刑がくだされた。

とあって、そのつぎが結びの "It was over." が来るわけなんですけれども、さて先生はここをどう処理したのか? 

 「これで、一件落着」

正直申しまして、ひじょうに強い違和感がありました。小鷹先生の「あとがき」には引用箇所につづけてこうあります。「… それに『一件落着』という訳文をあてたとき、私はサンダースの心情を、"認識[グロックというルビあり]"し得た、と感じた」。

 そうか、先生にとってはそうだったんだな、と思うんですが、ほかの読み手の方はどうでしょうか … 大部の犯罪ものノンフィクションで、先生がヒッピー用語っぽいものだの、頻出する麻薬関連ワードなどにそうとう手こずった痕跡とかが垣間見られまして、それだけでも偉業、と言ってよい訳業なんですけれども。たしかに「チェーンのついた電動鋸」なんてのはいまはふつーに「チェーンソー」だし、「ロシアン・ルーレット(弾倉に一発だけ実弾をこめ、まわしながら引き金をひく死のゲーム)」なんてのも訳注はいらんでしょう。前にも書いたが中田耕治先生の言う「翻訳30年論」でいけばこういう「古さ」はしかたなし。それでもすばらしい訳であることには疑いの余地はない。

 でもってやはり気になる「一件落着」、なんですね … なんでこうしたのかなって思ってしまう。シメの文句って、出だしの一行とおんなじで翻訳者にかぎらず物書きならだれだってもっともアタマを絞って書くところ、力が入ってしまうところ。淡々とヘミングウェイばりに事実のみを列挙していったあげくの"It was over." 、なのでワタシとしてはここはもうすなおに「これで、終わり」くらいでとどめておいたほうがカッコよかったんじゃないかと … 思うんですけどどうですかね。

 小鷹先生の著書『翻訳という仕事』には、いまなお有益なヒント満載で、この本についてはまたあらためて取り上げてみたいと考えてます。ようするに翻訳のネタ本としても最適(笑)。こちらの本も出版されたのは 1991 年でけっこう年数が経っていて、時代を感じさせる箇所もあるけれども、翻訳者を本気で目指している方にはぜひとも図書館で借りてでもして読むべき本だと思う。この本のいいところはたんに翻訳技術を教えているのではなく(後半は翻訳技術について書かれているが)、仕事としての出版翻訳とはどんなものか、が当時の小鷹先生の「実例」を交えて書かれているので、それだけでもおもしろい読み物だし、「印税」とかお金の話も具体的に出てくるので実践的でもあります。

付記:さてここからは、いつものように脱線、あるいはしがないおっさんの愚痴。今年の春先だったかしら、原題のまんまで『FACTFULNESS』という邦訳本が、国木田花丸ちゃん御用達の書店に平積みになっているのを見かけた。そのときはなんも関心がなくて素通りしたんですが、その二名の訳者のおひとりがなんと、まだ二十代(訳出作業当時)! の若者でして、もちろんこの本は本が売れね〜って言われつづけてはやウン十年、な日本でけっこう売れてるんだとか。

 で、その若いほうの翻訳者、いや共訳者の方が自身のサイトで「訳ができるまで自分はどうやったか」みたいな動画までご丁寧にこさえて公開されてたりする(www.youtube.com/watch?v=Hc2moxePHCU
)。で、観た感想なんですが … なんでこう原文をやたらこねくり回すのかなって。もっとシンプルにというか、すなおに「訳し下ろす」ほうがいいと思うんですけどね。ワタシだったら、
ギャップマインダーでこの質問に対する3つの選択肢を選ぶさい、あらかじめ平均寿命の数字を自由に回答してもらった。すると「50歳」もしくは「70歳」と書いた人がほとんどだった。

とでもするかな。たしかに英文には as ではじまる従属節や関係詞など、どうしてもひっくり返して訳さなければならない場面は出てくるし、広告表現のようなパンチの効いた英文もまた大胆に文章配列を入れ替える、といった荒業も必要になったりします。が、英文のワードオーダーというのは一般的には著者の思考の順番にもっとも近い流れで推敲を重ねて生まれた「表現」、深町眞理子先生の言う「いかに」で現出したもの。なのであんまり変更するのはよろしくない(し、原文にない語句を補充するのは、あくまで最低限にとどめるべし)。

 共訳者はまだお若くて、才能があり、しかも米国在住ということでワタシなんかよりはるかに英語が理解でき、洋書も的確に速読できる方であるのはわかる。わからないのは、「翻訳の作法」もどきみたいなことを開陳していること。いやいやそんなもんじゃないですよ〜本の翻訳はとくにね。前に紹介した中田先生のことば、あれは「なら、できるもんならやってみろよ」とタンカを切っている、ということくらいは賢明な読者ならわかってくれたはず。というわけで、最後にこちらのページをご紹介しておくとします。この若手翻訳者の方も含め、翻訳者志望の方全員に読んでもらいたいですね〜。
… 翻訳臭がまったくない翻訳などというものは存在しない。外国の言葉で、外国の出来事について書かれたものを、仮の姿として日本語に置き換えただけのことなのだから当然の話だ。読者も、それが翻訳であるということを頭のすみに置いて読み進んでいる。
 しかし、その大前提に甘えすぎた翻訳はよくない。読者に英語や外国事情の勉強や知識を強制する翻訳もよくない。
 翻訳家がその点で手抜きをしているだけでなく、最近の読者は翻訳もののずさんな日本語に寛大すぎる。馴れっこになっている。だが、そこに甘えっぱなしになっている翻訳家がもっと問題なのだ。舌ったらずの訳文を介して互いにおぼつかなげに意思を通じ合っている不気味なパラレル・ワールドが生じている。こんな世界からは何もひらけてこない、と私は思う。

── 小鷹信光『翻訳という仕事』から[最後の一文は、本文で取り上げられている一連のいわゆる「超訳」ものを念頭に置いた批判。当時はシドニー・シェルダン小説の「翻訳もどき」がバカみたいに売れていた時代で、小鷹先生はそうしたインチキ訳本をこのエッセイでもバッサリ切っている。下線強調はいつものように引用者]


posted by Curragh at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に