2019年10月12日

深層意識のあらわれとしての「しかたがない」

 台風接近中のきのう手にした地元紙夕刊。かつて旭化成富士支社で研究されていたという、同社名誉フェローの吉野彰氏のノーベル化学賞受賞の吉報を読む。たしかに「リチウムイオン電池」の発明って、われわれの生活を一変させ、ひいては世の中を変えましたね。手許にあるスマホや iPad mini、外出時の携帯用に使っている B5ノートブックPC だって、コレなしではここまで薄く、そして軽い構造は実現できなかったと思う。

 先日、千葉県地方に甚大な被害をもたらした台風による長期間の停電災害に見舞われた地区で、日産の EV 車から電気を引いていた映像を見た。吉野先生は、こうした EV 車がもっと普及すれば「巨大な蓄電システムが自動的にできあが」り、さらに技術革新著しい AI と組み合わせることで、温暖化対策にも有効だと指摘する。

 さてそのおなじ夕刊に識者が交代で寄稿するコラムがありまして、今月から書き手になった米国人のラジオパーソナリティの方が、「わたしの嫌いな日本語」の筆頭に「しかた(が)ない」を槍玉(?)に挙げていた。

 前の拙記事にも書いたが、こと西洋人というのはマラリア蚊撲滅、みたいな発想をわりと平然と実行に移したりする。これについて、「人間は世界を変えられる」という根拠のまったくないとほうもない自信ないし傲岸さのなせるわざ、という見方もできるかと思う。もっとも西洋型文明、西洋型文化、西洋型合理主義がなかったら、リチウムイオン電池の発明もなかっただろう。その点は疑いの余地はない。けれどもいま一度、日本人の深層意識を垣間見せる代表格のようなこの「しかたがない」ということばの真の意味を、アタマごなしに批判する前に考えてみる必要があるように思う。

 「しかたがない / しかたない」は、諦観とか諦念といったマイナスイメージのつきまとう言い方ではある。でも人間のことばなので、英語圏に似た表現がないかと言えばそんなこともなくて、'It should be that'.、'It's the way it is.'、'That's the way it goes.'、'There is no choice.' のようなフレーズがそれに相当するように思う。コラム寄稿者はこうつづける。「私はできるだけ使わないようにしています。言い訳に聞こえるから。私からすれば『仕方ない』をよく言う人は現状維持にしか興味がないように見えます。『知らぬが仏』ということですね」。

 「知らぬが仏」と「しかたがない」はまるで意味が異なる表現だと思うが(「知っているからこそ腹も立つが、知らなければ、仏様のようにすました顔でいられる。見ぬが仏。転じて、当人だけが知らないですましているさまをあざけっていう語」と、『大辞林 第三版』にはある。ここはむしろ「見て見ぬふり」のほうだろう)、「しかたがない」というのは、ムチャしてでも強引に自然を、現状を変えてしまおうとする西欧型発想をよしとする人間には得体の知れない発想に映るのかもしれない。西欧型の発想法には端的に言えば、差し出された現状をそのまま唯々諾々と受け入れようとせず、とにかく変えなくてはならない、変えることこそ人間の使命、というプロテスタント的勤勉主義が根底にあるせいかもしれない。プロテスタント的勤勉主義とは、そうしないと死んだとき、「最後の審判」をくぐりぬけてハレて「父なる神のおわします天の王国」に入れないから[「母なる神 … ではないことに注意」]。「しかたがない」を日本人の精神に染みついた観念だと捉えるのならば、この「プロテスタント的勤勉主義」もまた、一般的西欧人にとっての一種の強迫観念と言えるのではないか。

 かつてラドヤード・キプリングは「東は東、西は西、 両者あいまみえることなし。 神の偉大な審判の席に天地が並んで立つまでは」とかって書いたけれども、いっくら英語ができて英語に堪能な人でも、こういう西洋人「特有の」深層意識的なものってなかなか理解しがたいはず。たとえば先日、ジョーゼフ・キャンベル財団のインスタ投稿のキャプションで、
'Image : Kintsugi, Japanese art of repairing broken pottery, can be seen to have similarities to the Japanese philosophy of wabi-sabi, often defined as an embracing of the flawed or imperfect.'
という説明を見ました。「傷もの、あるいは不完全なものを尊重する意と定義されることの多い」日本の価値観として「侘び・さび」が引き合いに出されてたりする。たしかに「金継ぎ」はそういうアートフォームですけれども、われわれ日本語ネイティヴが「侘び・さび」ということばを耳にしたときに感じるのは「傷もの、不完全なもの」というより、ヘタに手を入れずに「現状のママ」に受け入れることの大切さというか、そこに美的表出、ジョイスの言う「エピファニー」を見いだすというか、慰めを見いだすというか、そっちじゃないかって個人的には感じている。英語で flawed, imperfect と言われるとなんかこう、お尻のあたりがむずむずしてくる(不潔にしているからではありません)。これが人間のことばの限界なのかなとも思う。そもそもこの世界というのはビッグバン以来、「完全だったこと」なんてただの一度もなく、138 億年このかた、ひたすらエントロピー過程まっしぐらに進んできている(はず)。perfect かどうかという西欧型発想法の基準こそ、いかにも皮相的に見える。

 くだんのコラムの結びには、「今度、問題に直面したら『しょうがない』に逃げる前に、もうちょっとその問題について知ろうとする努力をしてみてはいかが? 世界が平和になるかもしれません」とある。個人的な印象では、西欧プロテスタント的勤勉主義による「現状をなにがなんでも変えてやる」という発想法は、リチウムイオン電池のような画期的製品の発明や、あるいはインターネットのように真にわれわれの暮らしを一変させるような技術革新をもたらしてきたのは事実。だがいっぽうで核兵器や生物兵器、ドローン兵器のような無人攻撃型兵器、「ラウンドアップ」のような猛毒な除草剤に遺伝子改変トウモロコシなどもパンドラの箱よろしく世界中にバラまかれたのもまた事実。テクノロジー信奉者によくあるのが、たとえば「不老不死」の実現。げんに死後、凍結保存されて「蘇生」を心待ちにしている人までいる。はっきり言って理解不能な発想だ。いつまでも生きていることこそ不自然だしゾンビみたいで気持ち悪いし、こういうときこそ「しかたがない」と一線を引く勇気が大切なんじゃないかって、マラリア蚊撲滅の話もそうだが、この手の「欧米発」のニュースに接するたびにいつもそう思う。テクノロジー礼賛一辺倒では、いずれ『2001年宇宙の旅』の HAL 9000 みたいに本末転倒なことになりますよ。いや、すでにもうそうなりつつあるか。

posted by Curragh at 12:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 日々の雑感など

2019年10月06日

何度も繰り返すけれども …

 … 人間の生きる地球を含むこの現実の世界には、「唯一絶対の基準」というものは存在しない。これはここにいる門外漢がエラソーに喋々すべきことではないし、とくにお若い方を否定するようなことは言いたくないんですけど、あの気候行動サミットでのスピーチ、と言えるかどうかも心もとないが、とにかくあの嫌悪感丸出しの物言いにはさすがに引いた。

 人前で演説する、プレゼンするというのはいろいろな手法があってしかるべきだと思うが、'... Yet you all come to us young people for hope. How dare you ! You have stolen my dreams and my childhood with your empty words.' といった口を極めた非難頻出、「こうなったのはすべて大人たちであるあんたたちのせい」と言わんばかりの内容で、あまり共感はできなかった。というか、quite disappointed であった。

 「よくもぬけぬけと!」という捨て科白を、たとえば海面上昇で沈みつつある島国の子どもから聞いたら、もっともだ、と思っただろう。環境意識の高さでは負けていないドイツ在住の邦人の話によると、この「環境少女」の影響を受けた子どもたちが学校に行かずに抗議活動に精を出しているのだそうで、はっきり言って本末転倒じゃないかと思った。個人的には、「いまの生活様式を改めよ」ということでは、マイクロプラスチックの海洋汚染問題も負けずに喫緊の課題じゃないかって思うんですけどね。

 たしかに産業革命以来、大気中の炭酸ガス濃度は右肩上がりだし、環境もののすぐれたノンフィクションを世に問うてきたビル・マッキベンの著作にも親しんできたひとりとしては、主張は理解できる。ただし気候変動というのは大規模な火山噴火とか、予測不能の現象にもかなり左右されるので、ある条件で算出した数字を下回ればそれでよし、というほど単純でもない。絶対的尺度ではなく相対的尺度として扱うべきで、「シロか、クロか」で決めつけるべきではない。「自分たちの世代の存亡にかかわる重大な問題」だとほんとうに思うのなら、世代間闘争のような話の持って行き方ではなく、それを自分たちの問題として受け止めるべきだと思う(あんたら世代がみんな悪い、どうしてくれるんだ、ではけっきょく堂々めぐりになるだけ)。前の世代の人間のせいにするのならば、まず責めるべきはこんなクソみたいな世界に産み落としたご両親からでしょうな。

 温暖化もむろん深刻ではあるが、個人的にさらにこわいのが、マイクロソフトの創業者のひとりが作った財団が世界規模で取り組んでいる「マラリアを媒介する蚊を絶滅させる方法」の開発。「欧米か!」と突っこまれそうなくらいの西洋びいきの自分から見ても西洋人の典型的な悪い見本的な好例でして、環境がらみで言えばかつてのラヴロックの「ガイア理論」と同様、西洋人の傲慢かつあまりに能天気かつきわめて楽観視した発想としか言いようがない。もっともこの計画には反対する研究者も多くて(当たり前だ)、ほんとうにこの計画が実行に移されるかどうかはよくわからない。この手の人たちはいまいちど、オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』や、アルベルト・シュヴァイツァーの『文化の退廃と再建』といった古典を再読されてはいかがでしょう。

 唯一絶対の基準などない、ということでは、最近買ったこの本。自分が気に入った本というのはたいていだれからも見向きもされないような本が多いんですけれども、こちらは世界的に売れてるんだそうでご同慶の至り。まだ読み始めたばっかですけど、たとえば「英ポンドの貨幣価値を米ドルで表した値と、米ドルの貨幣価値を英ポンドで表した値のどちらかがリアルかと尋ねるようなもので、『ほんとうの価値』は存在しない … 同様に、『本物の時間』も存在しない。異なる時計が実際に指している二つの時間、互いに対して変化する二つの時間があるだけで、どちらが本物に近いわけでもない」というのは、べつにアインシュタインの「一般相対性理論」にかぎらず、なんだって当てはまる普遍的な事柄なんじゃないですかねぇ(あたかも世の中、なにが fake でどれが truth かでもちきりだが。ちなみに冒頭の「時間の流れは、山では速く、低地では遅い」は、たしかなんかの TV 番組でも取り上げていたのを見たおぼえがある)。

 比較神話学者キャンベルの著作でもおなじみの中世錬金術関連本『24賢者の書』に出てくる、「神は知覚可能な球体で、その中心は至るところにあり、外周はどこにもない」というくだりなんか見ると、昔の人ってテクノロジー全盛の21世紀、ビッグデータに翻弄されつづけているわれわれなんかより、物事の本質をはるかに理解していたんじゃないかってほんと思う。イルカとクジラを神聖視するのは勝手ながら、だからといってその価値観を押しつけるのは、やはり発想の貧困さが露呈しているように思う。「あなたの神を、わたしに押しつけないでください」。ウシの肉は食べたくないから3Dプリントでこさえた人工肉(!!)を食べるのはいい。だが「おまえも vegan になれ」というのは、お門違いもいいとこだ。

 何度も言ってきたことですけど、ほんとうに温暖化とそれに伴う気象災害の激甚化をなんとかしようと思うんなら、たとえばクルマを捨てることでしょうか。ぜんぶ捨てろとか乗るな、と言ってるんじゃありません。「ひとり一台をおやめなさい」と言ってるんです。卑近な例を申せば、定期バス路線が身近にあるにもかかわらず、複数台持っているような人がけっこういます。すこしだけ、不便な生活スタイルへと変えてゆくこと。まずはここからなんじゃないかって気がします。

posted by Curragh at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから