2020年02月20日

『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 先週末、前にも書いたとおり『スター・ウォーズ エピソード9』と『ラブライブ! サンシャイン!! Over the Rainbow』の 11 回目鑑賞をしてきたばかりというのに、こんなニュースがそれこそ「藪から棒」に飛びこんできた。

 まず結論から申し上げると、個人的には猛烈に怒っている。というか、いまから 85 年前にスペインの思想家オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)が代表作『大衆の反逆』で書いたような、そのまんまの展開に戦慄さえ覚えた。こんなことを野放しにしていたら、芸術文化活動全体に波及しかねない。というわけで、この悲しいニュースを知ってからはずっと悶々として過ごすこととあいなってしまった。

 こんな「フェイクニュース」の発信源はだれか、はこのさいどうだっていい。知っている範囲で書くと、「多様性」と HN に謳う一個人が、悪名高き SNS の Twitter(ほら出た …)上で、「なんでこのポスターに描かれている女の子のスカートは透けているの…?」とじつにかる〜〜い、のほほんと発信した一文がことの発端。するとこの「声」に呼応するシス・エターナルよろしく、非難の声が澎湃(どうせ読めないだろうからルビィちゃんふっとくわ、「ほうはい」ね)と同 SNS 上で沸き起こり、とうとう当事者の JAなんすん(ご苦労さまです)がすべて撤去した、というもの。フェミニストだかなんだか知らんが、この人たちの炯眼ぶりには『トムとジェリー』じゃないが、アゴが地べたにくっつくほどに、まっこと驚くほかなし。JA さんにはせめて、「安心してください、穿いてますよ!」のユーモアひとつくらい、あってもよかっただろう。

 彼らの主張ないしその結果について、問題点がいくつかある。まず、1). 非難の矛先を向ける先をまちがえている。「描き方が不穏当」と言いたければ、どうぞ制作会社にその旨お伝えください。不特定多数の第三者に向かってこういう不用意な発言をして知らんぷり、というのは、まさにオルテガの言う無責任な「大衆」そのもの。いや、これは「一億総トランプ化」なのか(ワタシが小学生だった当時、下田市にやってきたジミー・カーター元米国大統領は現職大統領に対し、「Twitter をやめろ!」と言ったそうな。むべなるかなではある)? 
…… 社交においては「礼儀作法」が姿を消し、文学は「直接行動」として罵詈讒謗に堕している。……
 手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理! これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。…… 文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。野蛮とは分離への傾向である。だからこそあらゆる野蛮な時代は、人間が分散していた時代、分離し敵対し合う小集団がはびこっていた時代であったのである。
──── オルテガ・イ・ガセット / 神吉敬三 訳『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫刊、いつものように下線強調は引用者)から

 2). 「表現の自由」=何を言ってもかまわない、匿名なら何を言ってもおとがめなしと思いこんでいる。かつてアイルランドのケルト人氏族は、人間のことばの持つ力をたいへん恐れていた。相手を呪えばその呪いが矢となって相手を射抜くとさえ考えていた。ひるがえって SNS 全盛のいまはどうか。情報が情報が、と言いながら、そのじつ情報の最小単位たる「ことば」がこれほど軽んじられ、悪用されている時代などかつてなかったのではないか。Twitter に関してはホントは言いたいことがいろいろあって、それはまた別の機会に書くつもりだが、よく耳にする「災害時に威力を発揮する」なんていうのも幻想に近い。最近の身近な例を引くと、台風 19号が伊豆半島に上陸したとき、「狩野川の氾濫が始まったようだ」というデマを見かけたことがある。北伊豆地区を中心にたしかに甚大な浸水被害は出たけれども、じっさいには「内水氾濫」のたぐい。狩野川の堤防はしっかり持ちこたえていた、なんてことがありました。こっちも垂直避難を考えていた矢先だったので、さすがにこのツイートには凍り付いたが、こういうときにもっとも役に立つのは TV の「データ放送」だ、ということを再認識させられた。もっとも Twitter だってツールですので、「助けてくれ!」と発信すれば、だれかの目に留まる可能性はある。でも、個人的にはこういうじつにクダラナイことでただ無益に時間を浪費するだけの壮大な資源と労力の無駄遣い、という印象しかない。人生はあっという間に終わるよ。

 以前、おなじ SNS 投稿の内容でも Twitter と Instagram でその反応が正反対になった、という海外のおもしろい報道を読んだことがあります。前にも書いたかもしれないが、写真好きなワタシは Instagram はけっこう好きでして、ヒマなときはよくみなさんの作品とか見ていたりする。おなじ SNS でなんでこうも反応が分かれるのかっていつも感じるんですけど、ひとつは「文字ならだれでも表現可能で、すぐ反応があるから」というのがその根底にあるように思う。写真ってだれでも撮れるようでいて、そうでもない(もっとも、日本人だから日本語の文章を書くのはかんたんだ、と思ったらそれはちがう。いまじゃ漢字も知らず、「心のおけない」も誤解する読み手が大多数で、国籍不明語ばかりが跋扈する)。

 3). 一連の示威行為は威力業務妨害。一部の悪質なクレーマーのせいで、ほんらい、果たすべきタスクが正常に終わらない、もしくは遅延を被った場合、これは威力業務妨害ではないのか。あろうことか、弁護士を名乗る人間まで、「スカートが透けている」に乗っかって攻撃している。そこで先生方にお尋ねしますが、あなたがた、高海千歌のスカートが「透けて」いるのはだれが見てもまぎれもない「事実」でしょうか? あるいは、この PR ポスターのせいで、だれかが明らかに損害や苦痛を被りましたか? 法廷ではこういった事実の「証明」が必須かと愚考しておりますがいかが? もしあなたがたが証明できない場合、あきらかな「誹謗中傷」に当たりませんか? 弁護士って人権とか差別とか、まずもって弱者を擁護する側であって、「多数という驕り(「100分 de 名著」NHK テキスト『大衆の反逆』の表紙から)」に味方することではないと思いますがいかがですか。

 最後に、この『ラブライブ!』シリーズを誤解している向きがホント多くてそっちにも驚いている。聖地民のひとりとしてこの作品を通じて個人的に感じたこと、それは劇場版『Over the Rainbow』で Aqours のメンバーのひとり、渡辺曜のいとこの渡辺月の科白とまったくおんなじことだ。
気づいたんだ。ぼくたちはなんのために部活をやってるのか。父兄の人たちも。…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことを Aqours が、Saint Snow が気づかせてくれたんだよ。ありがとう ……

 2018 年の暮れ、Aqours の声優さんたちが紅白のアニメ枠で出場したとき、さる女性芸能評論家が作品を観たこともないのに、「メイドカフェみたいな格好で出場するとはどういうことだ」とコキおろしていたことがあった。こういうのを偏見差別と言うんじゃないですか。オタクがどうのこうのとのたまうのも侮蔑表現やね。あなたたち一度、ここ沼津に来て視察でもなんでもすればよろしい。地元の人間からクレームが出ていないのに、あることないことないまぜにしてフェイクニュースをばら撒き、せっかく築き上げてきた「宝物」をこれ以上、ぶち壊しにする権利などだれにもないはず。この作品をきっかけに結婚された方、移住された方、写真をたくさん撮って地元民でさえまるで気づいていなかったすばらしさを表現してくれた方、ドイツやポーランド、香港からはるばる「なにもないところ」だと思いこんでいたこの街に「まちあるきスタンプ」や缶バッジをたくさん付けて観光に来てくれる海外のファンに対し、失礼だと思わないのか。また彼らは、長井崎のすぐ下の入り江に停泊していた「スカンジナビア」号の思い出さえ、蘇らせてくれた(「浦の星」の「星」は、おそらくスカンジナビアのもとの船名「ステラ・ポラリス[北極星]」からではないかと言われている。また TV アニメ第2期オープニングに登場する「桟橋」状の背景も、かつてスカンジナビアにつながっていた桟橋がモデルらしい)。それが、自称「おもてなし」精神の民族の態度なのか。片腹痛い、片腹痛いですわ! 『ラブライブ!』は、遊びじゃない!! 

 不肖ワタシだってこの作品に出会い、芹沢光治良から内浦の地理・歴史にいたるまで、制作スタッフのリサーチの本気度の高さに心打たれて、こちらの記事でも書いたように、『《輝き》への航海 ── メタファーとしての「ラブライブ! サンシャイン!!」』という小冊子まで書いてしまった。それもこれもみな、「楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ」ということを教えてもらったからだ。
「生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から
 ひとつ補足事項。Aqours の前の物語の主人公 μ's を描いた『ラブライブ!』でも、やはりネットのデマで炎上した案件があったらしい。また、「卑猥だ」と言っている人は、こちらのキャラについてはどう思ってんのだろうか。

posted by Curragh at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから

2020年02月17日

'Some things are stronger than blood.'

 先月と今月、劇場の「サービスデイ」にて『スター・ウォーズ』サーガの最終エピソード、「スカイウォーカーの夜明け(もちろん「字幕版」で)」を観てきました。きみまろさんじゃないがこれでもかれこれ 42 年、日本初公開作だった「エピソード4 新しい希望」以来、『スター・ウォーズ』シリーズはずっと映画館で観てきた口なので、「ああ、これでやっと終わったか」という安堵のほうが大きかったりする。壮大な物語の結末を生きて見届けることができて、まずは感謝、といった気持ちが正直なところ。

 で、のっけからなんですけど、なんですかコレは、え? みたいな話の展開。銀河帝国元皇帝パルパティーンが生きていたですと ?¿! おなじみのタイトルロールからして 'The dead speak!' なんて思わせぶりな一文で、すべてちゃぶ台返し(古いか)で始まった感じ。でもよくよく見ると当のパルパティーンはなにやら生命維持装置みたいな機械にスパゲティ状態でつながっているわ、白目むいているわで、いわゆる living dead、生ける屍状態なのかしらとも思った。どうもシスのアジトのエクセゴルという惑星は、シスのカルトたちがパルパティーンのクローンかなにかを用意していて、マスター・ルークの父親アナキン・スカイウォーカーにもどったダース・ヴェイダーによって第2デススターの底なしリアクターシャフトに投げ落とされ、「自爆」したはずのパルパティーンの「霊魂」をこっちの不完全なクローンに転送した … のかもしれない(あまりに唐突な展開だったので、作中のレジスタンスの科白などから推測するにどうもそういうことらしい)。で、このゾンビなパルパティーンはその証拠にラスト近くで「ほんらいの自分」を取りもどしたベン・ソロとレイの若いふたりからエネルギーを「吸い取って」パワーアップ。しかもいつの間にか生命維持装置を離れて自分の足でしっかり立って、はるか上空に展開するレジスタンスの船団に向かって強烈な電撃攻撃を仕掛けたりする。

 今作はワタシのようなオールドファンから見ると、懐かしい科白があっちこっちで顔を出していたり(「イヤな予感がする['I have a bad feeling about this.']」、「フォースのダークサイドは超常的にも思える多くの能力に通じておる['The dark side of the Force is a pathway to many abilities some consider to be unnatural.']」とか)、これまでの要素ぜんぶ出しの大盤振る舞い、みたいなファンサービス? も観ていて感じましたね。

 このシリーズでは超有名な「フォースとともにあらんことを['May the Force be with you.']」のような印象深い科白、心に刺さる名科白がたくさん生まれてもいますが、最終章ということだけあって、今作もまたけっこう印象的な言い回しが多かった気がする。たとえばルークがレイに語りかけていた場面で出てくる「血のつながりよりも強いものがある('Some things are stronger than blood.')」、かつての同盟軍将軍ランド・カルリジアンの「われわれには仲間がいた。だから勝てた['We had each other. That's how we won.']」、C-3PO が全記憶を消去される直前に繰り返した「この作戦が失敗すれば、いままでやってきたことすべてが無になってしまう['If this mission fails, it was all for nothing. All we’ve done. All this time.']」とか。

 あとやはり「自分はシスのすべて」だと言い放つパルパティーンに対し、「わたしはジェダイのすべて」だと言い返したレイとの直接対決が印象に残ったかな。フォース+「それまでの戦いで斃れた全ジェダイ騎士の霊」とに支えられて「立ち上がった」レイが、ベンから受け取ったレイアのライトセイバーとルークのセイバーとを「十文字」にして立ち向かう。またしても自分の放った強烈な電撃をハネかえされ、逆にそれをモロに喰らって、なんか最後はシェイクスピアに出てくる 'hoist by one's own petard' という表現そのまんまか、あるいは断末魔を上げつつ吹っ飛んでしまうパルパティーンの正真正銘の最期の描写が、まるで古代ギリシャ悲劇もどきにも思えたり。ついでにエクセゴルのパルパティーンのいた場所ってずいぶん地下深く、というか地底王国の最深部みたいなところでしたね。あれなんかもたとえばダンテの『神曲 地獄篇』っぽい感じがしないわけでもない。中世ヨーロッパでは「ルシファー[Lucifer、もとは「光をもたらす者」の意]」がいた場所が地上楽園の対蹠地にして当時考えられていた地球の最深部に位置するインフェルノ、火炎地獄だったけれども、エクセゴルのシス拠点は「光をもたらす」とは真逆の闇の深淵。このへんも、どこかメタファー的な描写手法、のような解釈も可能かと思う。

 で、今作のストーリーとまったく関係ない余談ながら、レイがシスの権化たる自分のじいさん(!!!)をやっつけてしまうシーンは、これまたどっかで観たことがあるような … そういえば昔、ドラキュラ伯爵とその宿敵、ヘルシング教授との対決が、まさしくこんな感じだった。なんでかってあの「十文字」に結んだライトセイバーがね …… で、かつてドラキュラ役で出演した故クリストファー・リーと、ヘルシング役の故ピーター・カッシング、お二方ともなんと、『スター・ウォーズ』シリーズにしっかりと出ているんですよね。カッシングについては、旧帝国軍のターキン提督役を覚えている向きも多いと思う。

 いろいろ映画の感想とか拝見しますと、「けっきょくパルパティーン家 x スカイウォーカー家」の対決の系譜に全銀河が巻き込まれただけじゃん、みたいな見方もあって、たしかにそういうふうにも見えるかもしれないけれども、むしろこの「エピソード9」でもっともつよく訴えたかったのは、やはり 'Some things are stronger than blood.' だったのではないかと。そして『サンシャイン!!』じゃないけど、最後の最後まであきらめないってことですかね。個人的には「ダース・プレイガス」とかも登場してほしかったところ。お話としてはこれにて完、でこれはこれでいいとは思うが、なんかこう消化不良感が否めない。パルパティーンの復活からしてそうですし。それとミディクロリアン云々 …… なのかはわからないが、死んだはずの人間がよみがえったりとスペースオペラのはずがどことなくオカルトっぽい脚色も感じられて、「はて、『スター・ウォーズ』シリーズってそういうのだったっけ?」というのも率直な感想としてはありました。どうせここまで踏み込むのならプレイガスあたりにもなにかひと言、しゃべらせてもよかったのでは、とつい思ったり。もっともストーリーじたいはとてもすばらしいと思っているので、「再・続編制作決定!!」っていうのはナシでお願いしますぜ旦那(とても体がもたないので、これ以上はカンベンして)。それとジャナという若い女性戦士、ひょっとしたらランドの娘? かもしれませんねぇ。

 最後に、邦題の訳について。原題の The Rise of Skywalker は ↑ でもそれとなく書いたように、レイがいまは亡きジェダイの騎士たちの声に支えられ、力を得て「立ち上がる」ことを表現したものですが、ではなぜ「夜明け」とまるでイメージの異なる訳語を与えたのか? 最終シーンはルークの育った砂の惑星タトゥイーンに沈む双子の夕陽ですし、なぜ、とも思うんですが、「《夜明け》で行こう」となるまでにはそうとうな紆余曲折があったはずで、当事者はタイヘンだったと察します。「スカイウォーカー、立ち上がる」ではとんとイメージが湧きませんし、じゃどうするか。ジェダイの再興 ⇒「黎明」⇒「夜明け」⇒「新時代の到来」、古い世界が滅んで新しい「夜明け」がレイ・スカイウォーカーとともにやってきた、みたいなイメージ戦略だったのかなと思ったんですけど …… ちょっと気になったもので。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 04:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画関連