2020年10月31日

「輝き」から「トキメキ」へ

 沼津市内浦地区を舞台にしたTVアニメ作品『ラブライブ! サンシャイン!!』も、今年ではや5周年。で、声優さんたちのユニットもまだまだ活動中で、つい最近もベストアルバム盤が出たりと、コロナ禍でさんざんな一年という印象はあるけれども、こちらのパワーはあいかわらず健在です。

 そしてちょうど昨年のいまごろ、ここで告知した初の著作の拙小冊子も、なんとかぶじに発売1周年を迎えることになりました。あいにく3箇所ほどポカミス(タイポ、誤植)が残ってはいるんですが、読んで気にならないていどであることと、原稿を贈呈用の紙の本として組み直してそのままなので、Kindle 本の体裁にもどす時間がとれないということもあり、改訂版を出す予定はいまのところありません。ただその後、劇場版ムックを買いまして、その本にこのシリーズ監督の酒井和男氏がロケハンのエピソードをコメントしたくだりに「物語の舞台は当初、伊豆大島(!)を考えていた」ということを明かされていて、こういう追加情報はおいおい、入れておきたいとも考えてはいます。

 Aqours の活躍した『サンシャイン!!』とその集大成たる劇場版の強烈な印象はまだ残ってはいるものの、『ラブライブ!』シリーズ最新作の TV アニメ版も気になってはいたから、しっかり第1話から観ています …… まず思ったのは、アニメーションの絵柄というか色彩そのものがすごく透明感があり、「『サンシャイン!!』よりさらに進化」しているように思えたこと(これは TV 受像機を昨年、新調したせいもあるかもしれないが)。パステル画っぽい感じなんですが、出だしの優木せつ菜のド派手なライヴを演出する「火炎」とか、透明感がありながらあたかもホンモノの火炎が噴出しているかのような迫真の描写にまず引き込まれた。 CG もいまや3D 主体ですからね〜、技術的には前作から5年も経っていれば、そりゃ変わりますよね。

 放映開始から5話まで観た感想をひとことで言えば、「ああ、『ラブライブ!』そして『サンシャイン!!』で作品の土台となっているメタテーマの DNA は今回もしっかり受け継がれている」に尽きるかな。こちらはもともとリズムゲーム系から始まったユニットなので、TV アニメ放映が始まるまでイマイチ実感が湧かなかったんですけど、いざ始まってみればこの『ラブライブ!』シリーズが終始一貫、訴えてきたことがアレンジされつつも立ち現れていてまずはなにより。それは拙小冊子でも書いたように「教養小説」的であり、究極的には「アートとはなにか、人はどう生きればよいか」に通じるエートスだ。

 とくにそれをつよく印象付けられたのが、第3話。生徒会長なんだけどこっそり(?)スクールアイドル活動をつづけていた優木せつ菜が、自分の大好きを通そうとしたあげく仲間と衝突し、自分がいなくなれば残った仲間はスクールアイドルの最高のステージ、すなわち「ラブライブ!」の大会に出場できる、と思っていた。ところがまったく思いがけないことばを、自分のパフォーマンスを見て「完全にトキメいた」高咲侑からかけられる:「だったら、『ラブライブ!』なんて出なくていい!」

 このシーンを観たとき、思わず快哉を叫んでいる自分がいた。ここがこのシリーズのいいところだと思う。μ's のころはまだ「ラブライブ!」という大会じたいが始まったばかりだったし、Aqours の高海千歌がそこに自分たちの目指す「輝き」があると信じて疑わなかったのも理解できる。でも、前作の劇場版までしっかり観た人ははっきり悟ったはずだ──とくにライバルの姉妹ユニット Saint Snow と Aqours の「『ラブライブ!』決勝延長戦」のシーンと、それを目の当たりにしたことで「ほんとうに大切なこととはなにか」に深い気づきを得た渡辺月の科白に。思うに、人の心を動かす、あるいは感動させるということは、なにかの大会に出るとか優勝するとか、そういうものとは本質的にいっさい関係ない。そういう外面的なものすべてを超越するものなのだ。アリストテレスばりの三段論法でもこれは証明できる。前にも引用したけれども重複も顧みずいま一度、月ちゃんの名科白を引くと、
…… 楽しむこと。みんなは、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。ぼくたちも、本気にならなくちゃダメなんだ。そのことをAqoursが、Saint Snowが気づかせてくれたんだよ

 ほんとうに好きなことを貫き通すってなかなかできないことです。でももし、それをあなたが持っているんなら、きのうが命日だったジョーゼフ・キャンベルが述べたように、それがもたらす「至福を追い求めよ」。それはアーサー王伝承群のひとつ『聖杯の探索』にもあるように、「森の中へ、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、森がいっそう深そうな方へ、道も小径もないところへと出発(天沢退二郎訳)」することだ。ワタシがこのアニメシリーズを好きになったのも、こういう点がしっかり描かれているからだ。さらに言えば、このシリーズは「音楽」が主役でもある。これはやはり作詞家の腕の冴えに拠るところがきわめて大きいと思うが、Aqours にしても「ニジガク」のスクールアイドル同好会にしても、その歌われる内容の深さといいスケールの大きさといい、はっきり言ってコレはもう「アニソン」なんかじゃない。皮相なジャンルわけというものを完全に破壊し、超越していると思う。そしてジェイムズ・ジョイスをはじめおしなべて「真のアート」と呼べる芸術分野は例外なく、こういう勝手な腑分けや分類の枠組みをこっぱみじんに粉砕する。そういうアートのみが、ほんとうの意味で生きるということ、ほんとうの「輝き」や「ときめき」を生む永遠の生命の泉なのだ。

 もっともこれはアニメ作品なので、そんなに肩肘張らんでも、という声もあるだろうし、それはそれでいいんです。本だってどう読もうが個人の自由だし。ただこのシリーズに関して言いたいのは、けっして「スポ根もの」なんかじゃないってこと。それは誤解もいいところで、もっとも大切なメッセージを理解していない。高海千歌が気づいた「輝き」のありかは自分たちの走ってきたキセキ+自分たちの心のもちようであって、この点ははっきり酒井監督も言及している。高咲侑が優木せつ菜に自分の思いをぶつけて言った科白もまたこの延長線上にある──いちばん大切なことは「ラブライブ!」に出られるかどうかじゃない。あなたがいちばんトキメいて、輝いて、そしていちばん幸福を感じることができるかなのだ。彼女はそのことに直観的に気づいている。

 そして、この思いがけないひとことを受けたせつ菜は、こう返す。「わたしのほんとうのワガママを、大好きを貫いてもいいんですか? …… あなたはいま、自分が思っている以上にすごいことを言ったんですからね! どうなっても知りませんよ!」

 昨今、アートと称して一方的な政治的主張を押しつけてくるもの、ジョイスの用語で言えば「教訓的芸術」がかまびすしいなか、こういう描き方をするアート作品がひとつくらいはあっていいと思う。

2020年10月20日

ベートーヴェンの『田園』推し

 先週末のこの番組、なかなか見応えがありました。今年はまことに運悪く、こういう深刻な事態になってしまったがために、ほんらいならば──広上淳一氏ふうに言えば──「ベートーヴェン先生」の生誕 250 年を盛大にお祝いしていたはずでした。今年はほかにもコープランド(生誕 120 年、没後 30 年)、そして武満徹氏の生誕 90 年でもあります。

 で、これから言うことは番組内でもすでにゲストの高関健氏が述べていることの二番煎じなので、新鮮味はあまりないのだけれども、ワタシも以前から、ハリウッドの映画音楽ももとをたどれば究極的にはベートーヴェンの『交響曲 第6番』、つまり『田園』に行き着くと思っていたので、そうそう、そうなんだよね〜、と安酒のスパークリングワインを呑みながらひとりごちていた。

 バッハ大好き人間ではあるけれど、たまにベートーヴェンの『田園』、『ピアノ協奏曲 第5番《皇帝》』、そして『第9』なんか聴くと、やはり「ベートーヴェンという作曲家は西洋音楽史上最大の革命家」という印象がとても強い。晩年のモーツァルトやハイドンなんかも「フリーランス音楽家」のはしりみたいな言われ方がされるけど、正真正銘、フリーランス作曲家/演奏家のいちばん最初の人はやはりベートーヴェン。それが音楽にいちばんわかりやすいかたちで表現されているのがたとえば超有名な『5番《運命》』だと思うけれども、いやいや、ホンワカしているように見えて『田園』のほうがはるかに斬新だと思うな。この約 20 年後ですよ、あのベルリオーズが『幻想交響曲』を書いたのは。

 ベートーヴェンつながりでは今年の正月、おなじ NHK のベートーヴェンイヤー特番で、名ピアニストのアンドラーシュ・シフさんがベートーヴェンという作曲家のすばらしい点について、こんなことを言ってました:「内面においてつねに前進し、戦い、けっしてあきらめないことです。わたしにとって、ベートーヴェンのもっとも大切な部分はそんなところにあります。英雄性ではなく、内面の温かさ、人間愛です」。そう、この人はただの引っ越し魔ではない !! 

 そういえばだいぶ前、NYT 紙の音楽記事にベートーヴェンの傑作『大フーガ op. 133』のことが取り上げられていて、ベートーヴェン本人の弁として、「なぜ聴衆はほかの楽章ばかり聴きたがるんだ、この xx野郎が!」とかなんとか、怒り心頭だったとか、そんなことが紹介されていて、ホンマかいな、と思ったんですが、興味ある方はこのペダンティックな大作もぜひ聴かれることをワタシからも強くオススメする(この曲は単独で発表されたものではなく、当初は『弦楽四重奏曲 第 13 番 変ロ長調 op. 130』の最終楽章として作曲されている)。ちなみにこの「フーガ」ですが、ふつうならば出だしに主題がデーンと提示されるところですが、主要主題から導かれた前口上的な楽句がひとしきりつづいたあと、30 小節目からようやく開始されます。たいへん複雑、かつ前衛的な対位法作品だったので、人気がなかったのはむりもないこと。

 なにかと不穏で不安な情勢ではあるが、せっかくの秋の夜長だしこういうときこそ記念イヤーのベートーヴェンの気に入った作品を聴き流しつつ、お気に入りの本とか読んで過ごすのって …… それはそれでステキなことじゃない(桜内梨子ふうに)? 

 … アンドラーシュ・シフさんついでに、前出のインタビューでこんなことも言ってましたよ。独り言で済ませておけばいいことまで全世界に拡散させられちゃう昨今の人にとっては耳の痛い「苦言」かもね。
人びとはつまらないことですぐに不満を言います。でも、ベートーヴェンをご覧なさい! 


↓ は、『田園』でいちばん好きな最終楽章の 230 小節過ぎに出てくる、弦楽パートから。



posted by Curragh at 02:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連