2021年08月31日

ART の果たすべき役割とはなにか

 未曾有の COVID-19 のパンデミック禍に全世界が巻き込まれてはや1年半。医療現場はいよいよ苛烈さを増しているなか、根拠のないデマをまき散らす人とそうでない人との分裂が進み(「分断」というよりも修復不能な「分裂」になりつつあると感じている)、われら哀しき人類のバラバラっぷりではとうてい「この 100 年で最凶のウイルス」に勝ち目はなさそうとさえ思う。以前、ここで某財団によるマラリア撲滅計画のことを批判したけれども、自然とは大したものでして、「疫病の媒介者さえ絶滅させればそれで結果オーライ」とはぜったいに終わらない仕組みになっている。絶滅させればさせたで、その結果はバタフライ効果となって思わぬかたちで出現し、確実にしっぺ返しを喰らう。おなじことが「イルカはかわいいしアタマがよいから食べるなんてトンでもない」とばかりに追い込み漁のロープを切断する傍若無人を働く手合いにも言える。これもようするに「自分以外は正しくない」というバイアスと独断のなせる業。

 世の中には筋トレでもして気を紛らわせろとか、いろいろな知恵やご高説を「オンラインサロン」みたいなビジネス(というか、ひと昔前なら「そんなもん自分で考えろ」のひと言で済んでいたことまでいちいち解説して、またそれをなんの考えもなく真に受ける人が一定数いて、さらにその人たちをお客に取りこんで商売にまでなってしまうという世の中もどうなのよ?)で垂れる人もいるようですが、時節柄、いちばんよいのは、空き時間を利用して「ご自身がいちばん好きなこと」に打ち込むことでしょうかね。

 あるいは、いままで興味も関心もまるでなかった分野に急に目を見開かれてのめりこんだりでもいいと思う。個人的なところではパラリンピックがそう。やはり自国開催というのはすごいなァと。いままでこんなにパラ大会のことを TV 中継していたのか定かではないけれども、時間があるときはほとんど TV 観戦してまして、たとえばボッチャという競技のルールとかも知らなかったので、今回、あらためていろいろ知ってみるとこれがけっこうおもしろい。

 思うに、アートもそうだろうと。この前、僭越ながらここで紹介した拙訳書みたいな「つまらない詐欺もどきなんかにかんたんにひっかからないために身につけるべき思考法」を教える本なども多読してももちろんいいのですが、それだけじゃ片手落ちだろうと。いますぐには収入に結びつくわけでもなく、役に立つわけでもないであろうアートこそ、じつは必要だったりすると思う。

 ただし、何度かここでも触れてきたように、アイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスが定義したように、世の中にアート、芸術と呼ばれているものには2種類ある。ひとつは「教訓的芸術」、もうひとつは「エピファニーをもたらす芸術」。前者のことをジョイスは「ポルノグラフィー」とも言っている。こんなこと書くと、アーティストには「おまえはなにもわかっちゃいねぇ」と反発してくる人もいるでしょうが、いいえ、そうなんです。これはハッキリ言える。「教訓的芸術」というのは、ひとことで言えば「イデオロギーや正義を一方的に押しつけてくるもの」。この手の作品は、一見、とてもわかりやすい。だからウケはいい。この「わかりやすさ」がじつはクセ者でして、なぜパウロが伝道したイエスの教えが地中海世界を席巻したのかというと、ひとえに「わかりやすかった」から。「信じる者は救われる、そうでない者は……」と、このわかりやすさと断言があらたな信者獲得に貢献し、ついには地中海地域の多くの神々を追放するまでに力をつけた。この点はイスラム教もほぼおんなじで、「砂漠の一神教」の特徴でもあるし、また姿かたちは違えど、旧ソ連型共産主義なんかも似たようなもの。いずれのシステムも共通項は「自分たちが正義で、それ以外は悪魔」的な「単純でわかりやすい線引き」です。米国に多い福音派なんかもっとヒドくて、そういう人たちがトランプという「怪物」を生み出したと言っていい(イエス自身がいまの組織宗教としてのキリスト教を見たら、「ワタシはこんな教えを広めろなんて言ってない!」と嘆いたかもしれないが)。

 話もどりまして、ジョイスによれば、ほんとうのアートは「エピファニー」をもたらしてくれるもののほう。でもそれはなにも高尚なゲイジュツに触れろとかそんな意味じゃない。名優の高倉健さんが生前語っていた、「人生には“アッ”と思う瞬間がある」ということを感じさせてくれるもの、目の前に突き付けてくれるものならなんだっていいんです。それがなにかのアニメ作品でも漫画作品でもいっこうにかまわない。「職業に貴賎なし」と言うけれども、アートにも貴賎はない。

 いま、仕事がヒマなときには 20 世紀初頭の英国を代表する小説家アーノルド・ベネット(1867ー1931)のエッセイの個人訳を進めているんですが(ナマけないよう、ここでも宣言)、その本にもつぎのようなおあつらえ向きな一文が出てきます。
……芸術の最大の目的のひとつは、精神を搔き乱すことにある。そしてこの「精神の搔き乱し」は、何事も理路整然と考えるタイプの人間が手に入れられる最高の愉楽のひとつである。しかし、この真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか道はない。

 「精神に揺さぶり」をかけることこそアートの役割だと、ベネットもおんなじこと言っているなぁと、このくだりに来たとき思わずひとりごちたしだい。日本で言えば、岡本太郎さんですね。「ナンダコレハ?」というものしかアートと認めなかった真のアーティスト。『フィネガンズ・ウェイク』なんかはきょくたんな例でしょうが、自分が消化できる=理解できるものしか読まず・見ず・聞かずの「三猿」では、それこそ「反ワクチン陰謀論」のごとく、明らかに fake なのに自分にとって都合のよい truth だけをアタマから信じ込むという笑えない悲劇を生む。かつてのナチズムはそういう「大衆の心理」につけこんだ。

 もう一度繰り返すけれども、上に書いたように「ナントカ思考法の本」をたくさん読むのは悪いことじゃありません。なんも読まず、のほほんとゲームばっかやってるよりはマシかと(いつ死ぬかわからないのになんともったいない時間の使い方、とお節介ながら思ってしまう。そういう方にはおなじくベネットの超がつくほど有名なエッセイ『自分の時間』をおススメする)。ただし、それはあくまでも「理性(reason)」レベルでの話。あいにく人間はアタマではわかっていても、思考回路そのものに潜む各種のバイアス(ダニエル・カーネマンらの用語で言う「ヒューリスティックス」)が何重にもかかっていて、必ずしも正しい判断を下せるわけではないし(たとえば非常事態のとき。いまだってそうでしょ? ご自身の周囲を見れば、ワケのわからないことしている輩は必ずいる)。それとはべつのレベル、もっと深い深層心理レベルでは、これはもうリクツ云々の次元ではとても「精神の平衡」は保てない。その日の糧さえ得られればそれでよしというレベルでは解決しえない。もし精神的にどん底にまで突き落とされたとき、「教訓的芸術」なんぞで果たして心が軽くなったり、なにかを悟ってふたたび生きよう、などと思えるものでしょうか? イマドキのアーティストにも、このへんわかってない人がけっこういる。『チップス先生さようなら』でも読みなさい。

 「自分にとっての“聖地”を持つこと。それは他人が見向きもしないような陳腐な音楽のレコードでもいいし、本を読むことでもいい」と、かつて比較神話学者のジョー・キャンベルは言った。そのキッカケになるようなアートなら、それはアートの本分を果たしていると言えると思う。

posted by Curragh at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2021年08月01日

Land of Unreason

 昔、買ったハヤカワファンタジー文庫で『妖精の王国』という作品がありました。作者はリヨン・スプレイグ・ディ・キャンプとフレッチャー・プラットという2人の SF 作家からなるコンビ。このふたりは連名で『ハロルド・シェイ』ものと呼ばれる SF 冒険シリーズを長年、書きつづけてきたんですが、相方プラットが肺癌で亡くなると、このコンビも自然消滅してしまった。

 ディ・キャンプの名前を知ってる人っていまの日本でどれくらいいるのかちょっとワカランのですが、その昔『スター・ウォーズ』ものノベライゼーションの翻訳を手がけておられた野田昌宏氏もじつはディ・キャンプ作品を訳されていて、それがあの !! 『コナン・ザ・グレート』なんです。そう、若き日の筋肉隆々シュワちゃん主演のあの映画の原作。

 で、今回のお題はそのディ・キャンプ=プラットのコンビが 1942 年に書いた『妖精の王国』の原題をそのまま借用したもの。ちなみに日本語版は 1980 年刊行、訳者は浅羽莢子氏、カバー絵はなんと! 漫画家の萩尾望都先生という、なんとも豪華な組み合わせ。

 筋立ては、シェイクスピアで有名な『真夏の夜の夢(正確には「夏至の夜」だが)』と中世ドイツ(神聖ローマ帝国)の英雄バルバロッサ(赤髭王)の伝説とがミックスされたもの。どうしても牛乳が飲みたくなった主人公の外交官バーバーは、妖精のために戸外に出してあった牛乳を飲んでしまい、代わりにスコッチウイスキーを置いて家に帰り、朝、目が覚めるとそこはオベロンとタイタニア夫妻が支配する妖精の王国だった。スコッチを呑んで酔っ払った妖精に「取り替え子(チェンジリング)」とカン違いされたのが、一連の騒動の始まり …… なんで自分が妖精の王国なんぞに引っ張りこまれたのか、さっぱりわけがわからぬまま(だから「わけがわからない、常軌を逸した」王国というわけ)、否応なく冒険する仕儀とあいなり、たとえば「ジャズろうぜ! ブンチャ、ブンチャ」とずっと音楽(ジャズ?)で踊り明かしている種族に出喰わしたかと思えば、「ココはすばらしいところです! あなたもきっと気にいるはず!」と『ホテル・カリフォルニア』の歌詞よろしく強引に引き留められそうになり、そんな手合を振り切って逃げるように脱出を図ると「ただじゃすまないぞ!」とまるで当時のソ連を中心とする共産圏を彷彿とさせたりで、とにかくおもしろい。訳者あとがきにもあるように「ファンタジーの世界を科学を使って説明してみせた」点が、当時の読者にウケた作品です。

 なんでまたこんな古い(!)ファンタジーなんか思い出したかと言えば …… いまの世界を見渡すと、まさしく Land of Unreason じゃないかって嘆息をついたから。といっても五輪のことじゃない。たしかにあのバッハ氏たち「オリンピックの汚れた貴族(昔、こういう書名の本があったのだ!)」がゴリ押しして開催したかっこうとなったのは、そりゃどうかと思う。「無理が通れば ……」ってやつですね。あるいは「五輪憲章」と照らし合わせてどうなんだって。でもぶっちゃけ、「地獄の沙汰もカネ次第」、なんですよね。オリンピック資本主義。だからアスリートたちはよけいに気の毒だと思う。スジ違いの批判まで浴びせられるし。まったくもって unreason である。おそらくパリ五輪でもひと悶着ありそうな悪い悪寒を感じる。

 ちなみに「デルタ株が急拡大しているのは五輪のせい」という主張にも無理がある。直接的にはあまり因果関係はないと個人的には思っている。たとえば、五輪ではなくて下部組織のひとつの自転車競技関係の話ではあるが、こちらの記事とか。五輪大会関係者の陽性率は、国内の新規患者の陽性率よりはるかに低いということも Bloomberg に出ている。むしろ問題はきのう、ネットで話題になってた「空き病床数 30 万床のコロナ用転用がちっとも進んでいない」って話。つい気になって(この蒸し暑いなか …)コンビニまで行ってくだんの経済紙を1部買い求めたりして、アツいわハラ立つやらでこっちまで unreason な気分(7ー11、悪い気分)。

 最後にもうひとつだけ、地元紙に掲載された「五輪に理屈はいらない」という署名評論記事について。1964 年の最初の東京五輪の記録映画を撮っていた市川崑監督を引き合いに出して、こんなふうに書いてあったんでオラびっくらこいたという話。↓
五輪とは何かと考え続けた市川監督は、64 年の記録映画の最後をこう結んだ。《この創られた平和を夢で終わらせていゝのであろうか》
 …… このエンディングの言葉は曖昧で現実味がなく、少々無責任。それは多分「世界平和」というできもしない目標をオリンピックが掲げているからだろう。

 こう書いたあと、なんと「スポーツという素晴らしい人類の文化を4年に1度行いましょう! 五輪は、それだけで、ずっと素晴らしいものになるはずだ …… そもそもスポーツは本質的に素晴らしいものなのだから」

 もうこれは巨大なハテナマークが必要。というか、バーバーを危険な目に遭わせた『妖精の王国』の共産主義的種族の一員なのか? なにが「東京五輪を読む」だ! そもそも市川監督の発言が「少々無責任」というのはどういうことか。これは、「戦争の惨禍を知っている者だからこそ思い至った揺るがぬ決意そのものではないか」ってふつう思いません? それともちろん「五輪期間中の休戦協定」は知ってますよね? たしかに五輪は国家と国家のパワーゲームというか、代理戦みたいなところがあって、モスクワ五輪やロス五輪を互いの陣営がボイコットし合ってかんじんの選手たちが泣きを見た(そのひとりが柔道の山下氏。つまりいまの JOC の会長さん)ことも繰り返されてきたし、ミュンヘン大会ではテロ事件まで起きて世界が震撼したこともあった。

 それでも、もしオリンピックがただの「スポーツの祭典」になりさがったら、そもそもクーベルタンの理想なんてのも一種のイデオロギーなのだから意味なくなるし、そんなオリンピズムもクソもない五輪大会に、自身の人生をすべて賭けてまで出場しようなんていうお気楽なアスリートなんてただのひとりもいないと思うんですがね …… もうなに言ってんのかここにいる門外漢はサッパリで、というかアタマがウニになったみたいで、いよいよ unreason さは増してくる。いやここまでくると chaos か。ほんとにスポーツの評論家なんでしょうか?? それこそただの運動会、命がけでやるものじゃないでしょうに。

 ということで、 unreason な世界からいっときでも正気な世界にもどるには、トシだけくった人間としてはまこと情けないかぎりではあるが、こんな若い人の投稿をここでも紹介させていただこうと思う。というか、申し訳ないけどもうこの地元紙購読するのやめようかな、ヘイトスピーチもどきな老政治評論家もあいも変わらず健筆を振るってるしで。ついでに言うけど、おなじ新聞社の社員がウチの近所で危険運転の罪でお縄になり、挙句の果てに社長は文字どおりセクハラ(!!)を働くわで …… 紙の新聞は処分に困るし(窓拭きにはもってこいだが)、ここはひとつ「いまだ FAX が現役の島国人」から脱却しないといかんな …… とも思いましたので。でも是々非々、ということで、今回はすばらしい読者からの投稿を引用して結びたい。このまま終わったらなんともシマらないので悪しからず。
コロナウイルスではなくても、世界には貧困や紛争で苦しみながら生き抜いている人たちがいる。それに比べて私たちは少しの自粛だけでも耐えることができないと考えたら自分がちっぽけに思えた。今まで当たり前の世界に頼りすぎていた自分が情けなかった。

 これ書いたのは 17 歳の女子高校生の方。新しいものの見方というか、今回の世界的な災厄によってそれまで考えもしなかった事柄に目を見開かれ、古い世界が終わって新しい世界が現れた。若いうちにこういうことに気がつくと気がつかないとでは、おそらくその後の人生にひじょうに大きな影響をもたらすと思う。あんまりこういうこと言いたくはないが、どっかの国の「環境少女」みたいに、さんざ年上の人間たちの行状を非難しておきながら、「今日から大人の仲間入りをしたからみんなとパブに繰り出すぜ〜」みたいな発言を全世界に向けて臆面もなく発信している方とはそれこそ「月ちゃん」とスッポンの差があると思いますね。ちょっとガス抜きが過ぎたか(⇒ 渡辺月についてはこの拙記事で)。

追記:unreason の定義でメリアム=ウェブスターを見たらこんな例文がありました。

With its double binds and reversals, life in a pandemic feels beholden to dream logic, to the unreason of lying awake in the dark.

前後関係がわからないけれども、おそらく「パンデミック下の生活にはどうしてもダブルバインドや、すべてがひっくり返ったような当惑がつきまとう。だから、論理の飛躍した夢や、ただわけもわからず暗闇に目を開けて横たわっていることのほうがはるかにありがたいと感じる」くらいの意味かと思う(引き合いに出されている後者は、たとえば「金縛り」のような状態だろう)。とにかくパンデミックがいちおうの終息を見て(未来予測はアテにならないという本を読んだばっかでなんなんですが、今後の世界は「コロナ以前」にはぜったいに戻らないと思っている)、マスクで息が詰まるような生活がすこしでも改善されれば、と願ってはいる。

posted by Curragh at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから