2022年02月27日

禅僧ティク・ナット・ハンの教え

 冬季五輪が終わるのを待ち構えていたかのように、ロシア軍が隣接する小国(人口は北海道とほぼ同じ)ウクライナに電撃的に軍事侵攻を仕掛けて、いまも交戦中です。ウクライナとくると、音楽好きがまっさきに思い出すのはやはり「キエフの大きな門」だろうし、スパイものが好きな人にとってはフォーサイスの『オデッサ・ファイル』でしょうか。その港湾都市オデッサも攻撃されたと聞く。

 こういうときこそ冷静沈着に、そして霊性の助けが必要だろう …… とそんなことをぼんやり考えていた折も折、先月 22 日に 96 でみまかった禅僧のティク・ナット・ハン氏を特集した「こころの時代」再放映が深夜に流れてまして、思わず見入ってしまった。

 寡聞にして知らなかったが、いま流行りの「マインドフルネス」の普及促進に尽力したお坊さんでもあるらしい。マインドフルネスなんてどうせ企業が自分たちの利益にかなうからと社員になかばカマかけて喧伝しているにすぎない代物、座禅や、カトリックの修道士が行っているような「観想」とは似ても似つかぬものだろう …… という prejudice があって、とくに深く知ろうなどという気もなかったんですが、それはどうもこちらの早トチリのようだった。

 ティク・ナット・ハン師の講話とかを記録した映像がいろいろ流れて、そこでのお話とか聞いていると、21 世紀前半が過ぎ去ろうとしているいま、なぜマインドフルネスの実践が世界的に流行っているのかがわかったような気がした。なにごとにおいても人口に膾炙するのには理由がある、ということなのでしょう。

 講話でいちばんすばらしいと感じたのは、「ブッダは神ではなく、人間の体をもって生きた人でした」、「(蓮の葉の茎をナイフで切って見せて)あなたがたから見れば左で、切っているわたしから見れば右になる」というお話だった。前者は福音派アメリカン牧師にありがちな「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」的なじつにバカバカしい皮相的かつ詐欺師的な手合いとは正反対の、まさしくものごとの究極の真理を突いたお話でして、おおいに共感したしだい(原始教会時代の、「イエスは神の子か否か?」をめぐる論争の不毛さも想起させられる)。後者は、いままさに全世界の政治指導者たちこそ全身を耳にして謹聴してほしい真実をありていに述べたことばでして、何度もここで書いてきたから「耳タコ」で申し訳ないんですけれども、比較神話学者のジョー・キャンベルとやっぱりおんなじこと言っているなぁ、と思ったしだい。

 ハン師はこうもおっしゃってました。「(イデオロギー的に)左の人は、右の人が消えれば世の中はよくなると思っているが、いくら(ナイフで茎を切って見せながら)こうして切ってもいつまでたっても右側は出てきます …… インタービーイング(interbeing)、互いがいるから存在するということに気づくべきです」(講話では何度か「サンガの共同体」という用語も出てきた)

 わたしたちはとかく自分が正義だと思いがち。イエスかノーか。善か悪か(「砂漠の一神教」の影響を受けた地域に根強い発想)。そして世の中には正論さえ唱えていれば正しい方向に向かう、という強い信仰もある(クリティカル・シンキングにしてもそう)。もっともこれは「だったらワクチンなんて打たなくていい」ということじゃありません。ハン師はこう話してました。「互いに不可分の存在だと認めあえれば、互いのために行動を起こす」。互いに自分を大切にすることで、結果的に互いの生を助けることになるとハッキリ言ってたんです。なんとすばらしい。オラひさしぶりに感動しましたよ。ハン師がおっしゃった「この世の理」を、「考えるのではなく、感じる」ことができたのなら、いますぐにでも人の行動は、誰かからあれやこれや言われるまでもなく、おのずと変わっていくでしょう。そういう穏やかな心は、ただ自分たちが安楽に暮らせなくなるからというだけで二酸化炭素ガス排出の責任を年長世代に押し付けるだけの自称抗議活動がいかにむなしいものかもわかろうというもの(意見には個人差がありますずら)。

 そこで思い出されるのが、──ロシアと同じ専制主義権威主義独裁体制な大国で開催されたとはいえ── フィギュアの羽生結弦選手をはじめとするアスリートたちの活躍です。同じフィギュアの坂本花織選手、スノーボードの平野歩夢選手と岩渕麗楽選手、スピードスケートの高木美帆選手 …… カーリングが好きなので、「ロコ・ソラーレ」の銀メダル獲得もおおいに感動しましたね。

 ほかにもこのような選手はたくさんおられますが、いまここでお名前をあげた選手はいずれも「絶対必勝」というより、「自分が目指してきたものをこの大舞台でなにがなんでもやってみせる」という、並々ならぬ、それこそ決死の覚悟をもって臨んだ真の意味での勇者だと思う。半世紀前の日本人だったら、世界に追いつき追い越せしか眼中になくて、「ワタシはこの技をキメたいからやらせてくれ」なんて言ったらそれこそ体罰もどきを食らってそれで終わり、世間的にもおよそ許してもらえなかったんじゃないかって思います。だからたとえ戦車が街を潰しにかかってきても、ほんとうにわたしたち人間にパワーを与えてくれるのはこうした個人の意思の力にあると、ワタシは考えている。ようするに、自分自身が輝けない社会なんて、いくら飽食と宝飾品であふれ、いくらテクノロジーが発展して便利になっても、けっして満足することなどない。ティク・ナット・ハン師に教えを受けたという人びとが異口同音に語っていたのもまさにこれでした。
生き生きとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地はありません。生気のない世界は荒れ野です。…… 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです」────ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ / 飛田茂雄 訳『神話の力』から

posted by Curragh at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に

2022年02月06日

不自然な「自然」もある話

 昨年後半から某全国経済紙(電子版)をとり始めたんですが(こういうのっていまは横文字そのまんまの subscription って言いますよね)、つい先日、↓ のようなインタビューの訳し起こしを見かけました。
 心配なのが、子供たちの思考の過程がアルゴリズム(計算手順)によって支配されつつあることだ。私が子供のころは「自然」対「育成」、つまり遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか、親が(育成の一環で)しつけるのかという問題だった。それがいまや「自然」対「育成」対「技術」の構図になった。
 これから10年たてば、アルゴリズムで思考過程が形作られたヤングアダルトの時代が来る。これは世界をもっと深刻な分断に導く。アルゴリズムは模範的な市民を作ろうとしないからだ。

 発言者は、政治リスク専門コンサルティング会社ユーラシアグループ代表で、政治学者のイアン・ブレマー氏。ユーラシアグループは、年明けに発表する「世界 10大リスク予測」がよく知られています。聞き手で、このインタビューを訳し起こして寄稿しているのはこの経済紙のワシントン支局長の方。というわけで下線部です。うっかり読み過ごしてしまいそうながら、ちょっとおかしい(いや、だいぶ?)。

 子どもの将来の話なのに「自然」だなんて、いくらなんでも唐突で、それこそ不自然。英語がすこしできる人ならブレマー氏の口から出た単語はすぐに察しがつくでしょう。「自然」はもちろん nature で、つぎの「育成」は nurture ではなかろうか、と。だいいち、「遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか」なんて常識的思考ではかなりブッ飛んでます。アリもそうですけれども、ヒトもまた社会的動物で、人間社会からまったく隔絶された環境(=自然)に放り出されたら、昔いたっていう、イヌかネコみたいに顔を皿にくっつけて水をすするような子どもになってしまいませんかね。

 いくら nature と発言したからって律儀に「直訳」せんでもええのにって思ったしだい。nature と nurture の組み合わせというのは、一種のことば遊び的要素もあるので。ならどうするか。ワタシなら、「氏より育ち」って諺の変形で処理すると思う。言いたいことはもちろん、「自分が子どものころには〈生まれ(いまふうに言えば、「親ガチャ」に当たったとかハズレたとかっていうやつ)〉と〈どう育てられたか〉の問題しかなかったけれども、いまはそれに加えて AI やアルゴリズムに代表される〈テクノロジー〉の問題がある」です。
私が子供のころは「出自」対「育ち」の問題があった。それがいまや「出自」対「育ち」対「テクノロジー」の構図になった。
字数の関係で最後のは「技術」のママでよしとして、これならどんなにそそっかしい読み手でも誤解の余地はないでしょう。「つまり ……」以下の補足部は、おそらく聞き手(訳者)がつじつま合わせで追加したもののように思える(意見には個人差があります)。といっても、補足じたいはべつに問題ない。翻訳における常套手段のひとつなので。

 もっともこの経済紙の名誉のために言っておくと、子会社の Financial Times とか、提携? しているのかどうか知りませんが、有名な英国の経済誌 The Economist の長文記事が日本語で読めたりするから、いちおうこれでもそっち方面の仕事している身としてはたいへんありがたく拝読させてもらってます。「Apple の時価総額3兆ドル(約 340 兆円)超え」の理由を説明する記事を訳出しているとき、「理由のひとつに自社株買いがある」とかっていきなり出てきても慌てずにすむ。知ってるのと知らないとでは月ちゃんとスッポンです。ふだんからの、不断の仕込みは大切ずら。

 最後にもうひとつ、↓ の記事も、正鵠を射ていると思う。こういうのはさすが新聞だと思う。あきらかな「脱真実 Post-Truth 」は困りものだが、「新聞の持つ情報の一覧性」は、まだまだ捨てたもんじゃありません。

異形の五輪 教訓残せるか


posted by Curragh at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから