2022年07月31日

最近目を引いた記事2題

❶ まずは日経新聞夕刊の連載コラムから、歴史学者の藤原辰史氏による「就活廃止論」という刺激的なお題の記事。少し長くなるけれどもまずは引用から(下線強調は引用者)↓
前任校では3年ほど卒業論文の指導にあたった。他大学の非常勤講師で 20人近くの3、4回生のゼミや卒業論文の指導を受け持つこともある。実は今年も頼まれて、講師を引き受けている。やはり、雑談の話題は就職に関することが多い。数か月教えたことのあるハイデルベルク大学では、日本のように就職で頭がいっぱいの学生に会ったことがない。就職活動を在学期間中にしないからである。

このような経験から、日本政治経済の担い手に提案したい。日本の閉塞状態を打破する劇薬として日本型の就職活動を廃止しませんか。勉強への関心が高まる3回生の夏、多くの学生が就職活動で頭がいっぱいになる。突然、染めていた髪を黒くして、白黒スーツに身を固める。精神が細やかで感度が高い学生ほど過剰な圧迫面接で精神を病み(これまで何度、心を病んだ学生の相談に乗ったことか!)、それをなんとか乗り越えた学生でも労働商品としての自己を見直す過程で、自由な精神の動きを弱めていく。理想に燃えた若者が、こうやって毎年元気がなくなっていくことをもっと自覚してほしい
 このあとに、「大学は専門学校ではない。…… カネで測定される社会の価値判断から身を剥がし、自然と人間の驚異と美に慄(おのの)き、言葉の森に分入る。…… あなたはあなた以外の人に代替できない存在であることの尊厳(人文科学の基本)に触れ、世界の美しさの根源を探る(判断力の基本)。考える時間の多い大学では、人間の精神を事前にふかふかに耕すことができる」とつづく[ちなみに「3回生」という呼び名はなぜか関西の大学で多いようですね]。

 かつてこの島国では、新卒一斉採用のみが有無を言わせずまかり通っていて、それ以外の道を歩んだ若い人はアーティストのタマゴか、画一的な日本社会が敷いたレールから脱落した落伍者として片付けられて一顧だにされなかった時期が昭和〜平成と長らく続いた。海外の学生はどうかと言えば、希望する職種のある会社(ココ重要、日本みたいに「どこどこのカイシャ」で就職するのではない!)インターン、つまり下働き、いまふうに言えば「試用期間」社員として職につくのが一般的。もちろん卒業と同時にヨーイドンみたいな一括採用ではないから、しばらく世界中をほっつき歩いて無銭旅行に出かける者も珍しくない。就職するか、無銭旅行に出るか。すべては当人が自分で決めるんです。

 いまでこそ差別的なニュアンスはなくなったと思うが、1990年代まで、フリーターという呼称にはつねに侮蔑的な響きがあった。当時を顧みると、社会が敷いたレールから外れた人はみな落伍者でありそれは自己責任なのだと、十把一絡げにしてハイそれで解決、みたいな風潮が強かったように感じている(その恐るべき画一性の証拠に、かつて中学生相手に「正社員にならないと年収にこれだけの生涯格差がつきます YO!」みたいな脅迫まがいの出張授業まで行われていた。猫も杓子も、はヘンかな、diversity 全盛時代のいまはさすがにこんなバカげたことやってないと思うが)。

 この手の話を目にするといつも思うんですけれども、ある意味理不尽かつ摩訶不思議かつ非合理的なこの「新卒一括採用」システムにずっと拘泥し、そこにアグラをかいてきた政財界をはじめとする日本社会の硬直性、というか、「ほんとうにこのままでよいのか?」とお偉いさんも含め、だれもモノを考えなくなったことが日本の最大の不幸かと感じます。大学の先生からこういう内容のコラムが発信されたのを見ると、「へ? いまごろ?……」という慨嘆もなくなくはないが、それ以上に、当事者からようやく、それこそが危機なのだという見解を目にすることができたうれしさのほうが勝っているのが正直なところ。

 令和ないまはどうでしょう。ワタシはむしろいまの若い人のほうがチャンスがたくさんあって、うらやましいと思う。終身雇用前提の雇用関係で宮仕えする必要なんてどこにもない。スタートアップの起業家をシリコンヴァレーに派遣云々……という話も聞くけれども、そうじゃなくて、早く大量生産大量消費時代の遺物たる「新卒一括採用」の慣行こそ廃止すべきでしょう(ついでに入試制度もね。卒業が難しい制度こそ大学教育のほんらいの姿だと思っているので。バ✗でもチ✗ンでも全入全卒 OK、なんてそれこそトンでもない話。これとはべつに、大学で教えている内容の問題、それを教えている人の質の問題はあるけれども ⇒ たとえばこちらの本参照)。それから9月入学制にも早く移行すべき。国際化国際化と、掛け声モットーばかりがやたらかまびすしく、そのじつ問題だらけの外国人労働者の雇用環境(と、必然的に移民労働者をどうすべきかという議論)は放置プレイで、気がつけば「失われた〜十年」とか呆けたことを口にする平和ボケな二流三流島国に成り下がってしまった。

 いろいろ注文つけたいこともないわけではないが、いまの若い人は少子化とはいえ、ワタシたちが 20 代だったころに比べてはるかにしっかりした考え方を身につけた人が大多数なので、「こんな国にしやがって」とかクサらず、どうか反面教師として奮起してほしい、と思う今日このごろ。あと、いまの若い人って Twitter はどうなのかわからないが、そのときの気分で発信された発言や意見に振り回されてはイカンと思いますね。コロナワクチンが好例だが、明らかな misinformation もわんさとあるし。あんなもんばっか追っていたら眼精疲労起こすわドライアイになるわ、ストレスたまるわで。週に一度くらいはスマホの画面も目も心も休める休日(海外ではこういうのを screen-free day と言うみたいだが)を作って、山や海に行ったり、「積んどいた」本を読んで一日まったり過ごしてみてはいかが(積ん読に関しては、あまり人のことは言えないが…)。

❷ そんな折も折、こんどはこういう驚愕の話を知った。乳幼児が包丁をにぎって、魚を三枚におろす! 園長さん曰く、「料理を通して、さまざまなものの解像度を上げたり、ものごとの全体を想像する力を身につけてほしい」。

 料理だけでなく、商店街の人たちとの交流など、こうやって育てられた子どもって心身ともにものすごくたくましくて、なにかネガティヴな問題にぶつかっても自分の命を粗末に扱うこともなく、なによりも大所高所からの視点で森羅万象をみはるかす力を持った、すばらしい大人になるだろうと、読んでて涙が出てきた(トシずら)。超がつくほどの少子高齢化進行中のこの島国で、もしほんとうにこの島国と、そこに生きる民族を救いたいと思ったら、参考にすべきはこういう取り組みなのではないかと。「園児の声がやかましい!」とか文句垂れてる手合は、子ども時代にこの保育園の子どもたちのような「想像力」を持つ機会がないまま成人したたぐいのアダルトチルドレンなのだろうと、つくづく思われたしだい。前にも書いたかどうか忘れたが、人としての成熟に年齢なんて関係ないです。

本文とまったく関係ない追記:先日、たまたまコンビニで買った地元紙朝刊(昨年暮れまでに日経電子版に切り替えたから、こちらは購読解約済み)の論壇コラム見たら、またしてもアラが目に付いたのでひと言だけ。温室効果ガス削減の話で、テクニカルには難しい問題がある、ときて、
…… 野球場の例でいえば、LED 照明に替えることで野球場は温室効果ガスの排出を抑制したと主張するし、電機メーカーも削減に貢献したと主張する。同じ行為が二重にカウントされ、排出削減が過大評価されることになる。これをグリーンウォッシュと呼ぶ。[「論壇」2022年7月16日付]

えっと、たとえば「グリーンウォッシュ(見せかけだけの気候変動対策)」、「環境への配慮を誇大にアピールして顧客や投資家を欺く『グリーンウォッシュ』を告発する声も上がっている」との記述が、英 Economist 誌に出てきます。というかこっちのほうが正真正銘のグリーンウォッシュの定義なんですけれども? どこで仕入れたのか知りませんが、なんとまたヤヤコシイ解説をなさるもんです(ほかの執筆陣も相変わらずで、いいかげん世代交代させてやりなさい YO!)。

posted by Curragh at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから