2022年08月25日

ヴィヴァルディとバッハ

 まったく久しぶりに NHK-FM がらみで。今週の「古楽の楽しみ」、今年聴取したなかでは個人的にいちばん気に入った特集だったかも(ここんところ『ラブライブ!』シリーズの話題多めで、以前からこの拙い脱線だらけのブログを見てくださっている少数の方がたにとっては、ワタシがすっかり別人になってしまったかのように心配[?]している向きもおられるかもしれませんが、バッハ大好きオルガン大好き路線にはいささかも揺るぎなし、ということだけはハッキリさせておきます。しかしワタシは音楽をジャンルべつに腑分けするというのがそもそもキライで、バッハだろうと Aqours やニジガクだろうと、良いものは良い、という芸術至上主義者でありますのでそのへんはお間違いなく)。

 案内役の先生のおっしゃるとおり、若き日のバッハの「イタリア体験」がなかったら、おそらくいまのわたしたちが知っているようなあの16分音符ペコペコ進行多しみたいな独特なバッハ様式はなかっただろうし、その後の西洋音楽(クラシック)もいまとは異なる方向に発展していたかもしれない。ただ、お話を聞いていて、「え、なんだアレもか?!」とヴィヴァルディ体験の影響を受けたバッハ作品の多さにちょっとびっくりしたり。たとえばけさの放送で聴いた、「教会カンタータ第 146 番」のシンフォニアおよび8声の合唱曲とか。シンフォニアはなるほど、たしかに現存するチェンバロ協奏曲(ニ短調、BWV 1052)の出だしの楽章のパロディ(転用)ですが、8声の合唱のほうは注意して聴いてないと BWV 1052 の緩徐楽章だと気づきにくい。「大規模に発展させた見返りに、ここではヴィヴァルディにあったわかりやすさは犠牲にされている」と先生は指摘されていたが、いやいやこの大規模ヴァージョンの精神的な深さはどうですか。バッハは、シンプルさが多少消えても、「マタイ」や「ヨハネ」を思わせる劇的効果はこれくらい声部を分厚くした対位法書法じゃなきゃダメだ、ということがわかったうえで書いたんだと思う。というわけで、今週はヴィヴァルディの『調和の霊感(L'estro Armonico)』とバッハ作品との相関関係について取り上げてます。



 ヴィヴァルディ体験がもたらした果実は、たとえば以前ここにも書いた、BWV 544 の「前奏曲とフーガ ロ短調」にも現れているという。言われてみればたしかに。前半の前奏曲は、リトルネッロ形式のイタリアバロックな協奏曲を思わせます。そしてバッハは南の代表のイタリア様式と、師匠とも言うべきブクステフーデから学んだ北ドイツの幻想様式(北ドイツ・オルガン楽派)とが渾然一体と化した、「前奏曲とフーガ ホ短調 BWV 548」の巨大なフーガへと発展させる。…… 先生のお話を聴きながら、すこし spine-tingling な気持ちを味わってました。

 ただしヴィヴァルディは、バッハをはじめとする当時の名だたる大音楽家に多大な影響を与えた功績の持ち主らしからぬ最期を遂げてしまったのがいかにも悲しい。彼は 1740 年の春ごろ、ウィーン(ほんとはヴィーン)へと旅立った。最晩年のバッハとおなじく、自分の音楽(彼の場合はオペラ・セリア)が時代に合わなくなったこともひとつの要因となって、新天地を求めた、というわけ。かの地には、あらたにパトロンになってくれそうな神聖ローマ皇帝カール6世がいて、その援助を当てにしたのだけれども、なんとなんとヴィヴァルディのウィーン到着後、ほどなくして皇帝その人が急死してしまった。当然、国内は喪に服すことになったから、現代の新型コロナではないが、音楽どころでなくなった。翌 1741 年、彼もまた病気になり、貧窮と失意のうちに亡くなる。身寄りのない expat だった彼は貧民墓地に埋葬されて、現在、遺骨は行方不明のままです。

 それでも彼の明朗快活な調べはまさしく不朽。バッハやヘンデル、テレマン、ラモー、クープラン、スカルラッティ父子、コレッリなどとともに、バロック時代を代表するヴァイオリンの大家にして大作曲家として、時代を超えていつまでも愛聴されつづけるでしょうね。前にも書いたけれども、歩行器の赤ちゃんがヴィヴァルディの合奏協奏曲を聴かせると、ヒョコヒョコお尻振って喜ぶってのは、どう考えてもスゴいことずら。



posted by Curragh at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM

2022年08月18日

けっきょく二元論なのでは…? 

 ジェフ・ホーキンスというすごい方がいる。iPhone もなにもなかった 30 年くらい前、伝説のパームというモバイルコンピュータの先駆とも言うべき携帯型情報端末(PDA)を世に送り出して、「モバイルコンピュータの父」の異名をとり、しかもその後、ほんとうにやりたかった脳の構造を解明する理論構築のため、自前の脳科学研究所を設置したりと型破りどころか、かなりぶっとんだ経歴をお持ちの先生でもあります。

 とはいえ、さてなんでこの本を読もうかと思ったのかさえすでに記憶の彼方に行っちゃっているボンクラな脳しか持ち合わせていない当方なぞ、それこそ月とスッポンなのでどうしようもないわけですが、せっかく読んだのでまた好き勝手に読後感などを書き散らすしだい。たぶん、なにかの記事を訳していたときにこの本の引用が出てきたものと思っていたが、直近の仕事で提出した当方の元訳稿を探してもそれらしいのが見当たらず……? ま、これはどうでもいいマクラですね、失礼しました。

 本の内容は3つに分かれておりまして、まずわたしたちの大脳新皮質の仕組みに関する「1000の脳理論」の解説、つぎにそれを応用した「真の意味での汎用 AI のあり方」について、最後が「わたしたちの脳が持っている知識をいかにして保存するか」、それも人類絶滅後にやってくるであろう知的な地球外生命体に対してどのようにボトルメッセージとして残せばよいか、その方法をかなり具体的に(!)考察してます(以下、引用文の下線強調は引用者)。

 神経科学者が本業の著者先生によると、どうも私たちの「知能」というのは、「大脳新皮質の皮質コラムそれぞれに座標軸があり、各座標軸によってモデルが立てられ、それにもとづいて世界像が作られていくプロセス」なんだそうです。よくあるだまし絵のたぐいも、なぜその絵がそう見えてしまうのかの説明もきわめて説得力に富んで、前半はとても刺激的でおもしろく感じた。ただ一点、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造が気になってはいた。完全に使い物になる汎用AI(AGI)の話は良しとしても、最後の「人間の知能」と括られたセクションの数章は、にわかに首肯できない書き方で、個人的には完全な蛇足とさえ思えた。ま、いくら天才肌の先生でも、いわゆるテクノユートピアン的な発想がよほどお好きな読み手でないと、先生の繰り出す「論理的な推論」、というか完全なる妄想の世界に取り残されて目をパチクリって感じ。そして巻頭から漠然と感じていた、「大脳新皮質 vs. 遺伝子の命令に忠実な古い脳」という対立構造がここにきてむくむくとアタマをもたげてくるからさらにタチがよくないときている。

 どこが問題か。たとえば、無思慮な判断や行動(「…専制君主を支えるポピュリスト運動も、人種差別や外国人嫌いのような古い脳の特性にもとづいている」[p. 283]!)の原因が、だいたい「遺伝子の命令に忠実な古い脳」にされちゃっている点。もっとも古い脳も大脳も複雑に結びついていますと書いてはあるんですが、なんかこう、大脳新皮質のつくり出す「幻影(マーヤ)」にすぎないであろう、何万通りもの座標系モデルが映し出すわたしたちの知能の成果とも言うべき知識だけを人類が絶滅したあともなんとしても遺したい、地球外生命体にもぜひ見てほしい。そうお考えのようです。
…… 知的機械をつくる目的のひとつは、人間がすでに行っていることを複製することだろう。コピーをつくってばらまくことによって、知識を保存するのだ。この目的で知的機械を使いたい理由は、私たちがいなくなったずっとあとまで知識を保存し続けることができ、ほかの星のような私たちには行けない場所まで知識を広められることにある。[p. 296]

そりゃたしかにわたしたちは、言ってみれば「138億年前のビッグバンの遠い遠い残響、わたしたちの肉体じたい、究極的には星屑にまでさかのぼれる」んですが、マーク・トウェインが言ったとか言わなかったとかいう、「地球からすれば、人間なんて微生物みたいなもの」的な発言のほうが信憑性を感じてしまうタチなので、つい「かつて存在したホモサピエンスの知識なんて、知りたいと思う地球外高等生物が果たしているのかなぁ」なんて思ってしまうんです。

 この本は読み進めるにつれて、けっきょくお決まりの二元論的な話にはまり込んでいるという印象がどうしても拭えなかった。『利己的な遺伝子』のドーキンスが序文を寄せているくらいだし、似たような傾向になるのはしかたないが、個人的にはこういうところにいかにも西洋人的な傲慢さを感じる。※ なぜコロンブスやマゼランみたいな人があちらの世界から出てきたり、かつての大英帝国みたいに、自分たち以外の非白人・非キリスト教徒の民族からなる国家や地域を支配するまっとうな権利がそなわっていると思ってたりしていたのか。たしかに当時の西欧諸国は政治や経済のみならず、啓蒙思想や人権など、他の民族より優れた思想と、なんと言っても合理主義とルネサンス期以降の自然科学の発展と、それらが後押しした産業革命もすでに経験済みだったから、音楽の世界における楽譜と同様に、いまに至るまで近代文明をリードし、「自分たちこそ世界標準である」との自負がおそらくあるのでしょう。しかし東洋の人間からすると、鈴木大拙師じゃないけど、大脳も古い脳もともに分かちがたく結びついているのであって(ふたつを分離する発想ないし意図がわからない)、一方の上位版の機能のみ持ち上げるってのはどうなんでしょうか。

 人の「意識」は、たしかにその人が肉体的な死を迎えればこの世界から立ち消えてしまうでしょうけれども、ドイツ語で言うところの「時代精神(Zeitgeist)」みたいな集合的な意識というのは確実に残って、後世に伝えられていくと思うんですね。比較神話学者のキャンベルがさかんに強調していた「脳は意識の容れ物」説も、おそらくそんな意味だったのではと思う。テスラ CEO よろしく著者ホーキンス先生もえらく火星移住に熱心なようですが、庶民的発想では、核戦争や気候変動で人間が地球を住めなくしたら、その道義的責任はどうなってんのかってまず思いますね。地球はもう住めない! なら新天地の火星へ移住しよう! そのための火星環境の大改造は汎用 AI たちにやらせてね、みたいな話はどう考えても不遜だし、あまりに人間中心のそしりは免れないでしょう。だいいちそんな地球にしてしまったら、いくら火星コロニーの建設に成功しても子孫に対していったいどんな顔を向ければよいのやら。また、その過程でどれだけの動植物などの生命体が絶滅することか。──こういう感傷まで、まさか「遺伝子の命令に忠実な古い脳」のせいにはしませんよね? 

 著者は「あとがき」で第1部について、「…途中、そこで終わりにすべきかどうか熟慮した。一冊の本に書く内容として、新皮質を理解するための枠組みだけで十分に野心的であることはたしかだ」と書いています。……個人的にはそのほうが何倍もありがたかったかも。「1000の脳理論」を応用した汎用 AI の話なんかはすこぶるおもしろかったですし。

※……ドーキンスが序文で引用している、同業の進化生物学者で認知科学者のダニエル・デネットの近著『心の進化を解明する/バクテリアからバッハへ』の原書(From Bacteria to Bach and Back、2017)は読んだことがある。原書は手許にあるし、日本語版は図書館にあるしで、こちらもいずれは取り上げたい、と思ってもう2年以上が経過した(苦笑)。内容的にははっきり言ってこっちのほうがムズかったずら。「カルテジアン劇場」ってのももちろん出てきます。

評価:るんるんるんるん

posted by Curragh at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本