また、柴田先生訳の少し前に出た高山宏先生による新訳版とご自身の訳書とを比較して、「ぼくの訳はお茶の間に届くガリヴァーです」とおっしゃっていたのはさすがだなァと感銘を受けた。「古典は酒。わたしの本は水。みんなが飲むのは水だ」と言ったとか言わないとか、マーク・トウェインのよく知られたアフォリズムが思い出されますね〜。
ところでこれけっこうな大作でして、こびとのリリパット国の話はつとに有名ながら、巨人の国や馬の国、そしてなんと日本まで出てくる(!)。ほぼ同時期にデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)も出てます。当時は旅行記の体裁を借りた諷刺文学(パスティーシュもの)がもてはやされていたようです。『ガリヴァー』が書かれたのは、柴田先生も言っていたが、バッハの「マタイ(BWV 244)」が初演された前年の 1726 年。大バッハと同時代人でもある、アイルランドの司祭さんというわけ(正確には、アングロアイリッシュ系の人)。「馬の国」に出てくるヤフー(人間もどき)は、たしかポータルサイトの YAHOO! の語源だって聞いたことがある(間違っていたらごめんなさい)。
原文とまともに向き合ったことがないからこれもはじめて知ったけれども、柴田先生によれば、きわめて現代的な British 英語で書かれているという。スウィフトは召使いに書き上げた分の原稿を見せて、意見を求めたとか。リーダブル重視だったんですねぇ、これもはじめて知った。アイルランドとくれば、20世紀の大小説家ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』があるけれども、そうそう、やはりちょうどこの時代にはローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』というトンデモない散文作品もありますね。日本にはじめて紹介したのがかの夏目漱石という話もしていました。邦訳に際して、柴田先生はパラグラフを自由に切ったとおっしゃっていたのが印象的だった。たいてい海外の純文学ものの翻訳はエンタテインメント系と違って、パラグラフはそのまま尊重して訳すのがふつうなので(海外ミステリもの翻訳も、たいていは原文のパラグラフを尊重しますが)。
スウィフトが『ガリヴァー』を書いた当時、まさかこれが「古典」の仲間入りして、300 年近く経過した地球でも読みつがれる物語になるとは思ってなかったんじゃないかって思う。いまちょうど Kindle 本としてアーノルド・ベネットのエッセイの邦訳の準備を進めているところなんですが、教養=読書量、つまりなんでもかんでもとにかく活字を読みなさい的な発想はいまだ根強いとも思う。でも ── たいした読書家でもない門外漢が喋々(ちょうちょう)すべきじゃないが ── それってホントなんだろうか? 最近、どうにも挨拶に困る本が増えてるなぁと感じているもので。そんなワタシの困惑は、最近の書評もどきにも表れていると思う。つい最近も、そんな「科学もの」の邦訳文庫本を(仕事で入り用になり、どうしても)買うハメになったし(著者は理論物理学者にして「ネットワーク科学」なるものの提唱者。たとえばラン・ランの演奏にケチつけて音楽コンクールは意味がないと切って捨てたり、絵画のコレクターのくせして美術そのものに価値はなく、美術界における名声しだいで値がつくとかなりの偏向ぶりで、はっきり言って途中で読む気が失せた。そもそも「成功する人・しない人」なんか腑分けしてなんか意味があるんですかね。世渡りがうまいとかヘタとかそんな次元の話じゃないの? だれもが億万長者になれるわけでも、それで確実に幸福でハッピーな人生が送れるわけでもなかろうて[カネ持ちになればなったで強殺される危険も高まる]。これならまだ『サピエンス全史』を読んだほうがマシというもの)。
最後に、柴田先生が朗読した『ガリヴァー』の記述が心に刺さらない人は世界のどこにもいないだろう。だから『ガリヴァー』は時代を超越して、古典としての永遠の生を獲得したのだと思う。
……(戦争の)原因も動機も無数にありますが、主たるものをいくつかご紹介します。君主が野心家で、統治する土地や人民が、いくらあっても足りないと考える場合。腐敗した大臣たちが悪政に対する臣民の抗議を押さえつけるか、矛先をそらすかしようと、君主をそそのかして戦争に走らせる場合。また、意見の相違がもとで、これまでに数百万の命が失われてきました。たとえば、肉体がパンなのか、パンが肉体なのか。ある種の果汁が血なのか、葡萄酒なのか。口笛は悪か徳か。…… 意見の相違がもとで起きる戦争ほど、しかもそれが些末な事柄に関する相違であればあるほど、戦争は激しく、血生臭くなり、かつ長引くのです。…… 敵が強すぎるという理由で戦争を始める場合もあれば、弱すぎるという理由で始まる場合もあります。ときにはわが国が持っているものを隣国が欲し、あるいは、わが国が欲するものを隣国が持っていて、いずれにせよ、戦え。彼らがわれわれのものを奪うか、われわれに、自分のものを明け渡すかするまで続けるのです。…… ある君主が敵の侵入に対抗しようとべつの君主に支援を請い、支援し敵を駆逐した君主がその領土をみずから奪い取り、支援を要請してきた君主を殺害、投獄、追放することも、王にふさわしい名誉あるふるまいとして頻繁に行われます。
それでも、「どのように読んでもかまわない。視点を決めないように!」と訳者の柴田先生はしっかりお断りしている。たしかにそれこそが原著者が望んだ「読み方」だったとワタシも思う。I couldn't agree more!
ちなみに柴田先生がつぎにとりかかりたい翻訳の仕事は、メルヴィルの『白鯨』とか。ぜひ実現されることを祈念しております。