アーノルド・ベネット(1867−1931)については高校生当時に受講していた通信教育の演習ワークブックに、再婚した「年下妻」である女優さんの回想記の一部が掲載されていたのを見てはじめてその名前を知った。吃音癖があること、規則正しい生活を送っていたことなど、なんせ高校生なので英文読解力は拙かったが、それでもこの年下の奥さんのベネットに対する尊敬の念は文のはしばしからにじみでていて、いまなお印象に残っている(ワークブックは探したけど出てこなかった)。だからベネットの名前はそのときからずっとアタマの片隅にはあった。
ベネットと言えばなんといっても『自分の時間』(原題は How to Live on 24 Hours a Day)ですが、すでに小説家として一流の仲間入りを果たしていたのに俗に言う「自己啓発本」を立て続けに書き、どれもよく売れたというのだから、SNS で発信したりメディアにちょくちょく顔を出しては注目を浴びるような物書きのはしりみたいな人だったのかもしれない。げんに生前から、ベネットには俗物≠ニいう世評がついて回っていた(高級ホテルに連泊して作品を執筆し、豪華なヨットも所有して乗り回していた)。
しかし、2番目の奥さんの回想記にもあったように、じつはとんでもなく克己心の高い人で、その手書き原稿は非の打ちどころのないほど美しい清書だったという。ただでさえ執筆に多忙だったのに、自分の両親にもせっせと手紙を書き送り続けた。そんな筆まめさと誠実な人柄は、親しい友人には周知の事実だったのだろう。第一次世界大戦中には、当時の戦時連立内閣とパイプがあった新聞王のビーヴァブルック卿マックス・エイトキンに推挙され、情報省宣伝局フランス課長を務めたり、自宅を開放して回復期負傷者の病棟として提供もした。ようするにベネットという作家は、言われているほどスノッブ野郎でもなんでもなく、むしろその対極に位置するような人物だった。ついでにこれもよく言われることながら、日本の文豪、幸田露伴や夏目漱石とおない年でもある。漱石はいわゆるロンドン留学中に、書店でベネットの本を目撃していたことはじゅうぶんありえる(ロンドンに向けて横浜港を出航したのは、ワタシの亡くなった母方の祖母が生まれた 1900 年なので、まさしくベネットが自己啓発ものを書いていた時代と一致する)。
ベネット本はすでに名だたる訳者諸兄による既訳が多く出ていて、ワタシみたいなのがという気もないわけではなかったけれども、けっきょくいつのもように好奇心のほうが勝(まさ)ってしまった仕儀と相成り、今回なんとかぶじに刊行にこぎつけてほっとしている、というのが正直な気持ちです。
個人的には、100 年以上も前に出たベネットの「文学のすゝめ」的なこの本に書かれてあることが、ほぼそのまま芸術作品と向き合うときの心得として通用する点にいちばん心を惹かれた。というか、そういうふうにベネットが書いてくれたからこそ、浅学非才も顧みず、個人新訳版を出してみようと思い立ったしだい。本は、ひとたびページを開くだけで書き手が生きていた時代に一瞬にしてタイムワープできるというふうになぞらえられることが多いが、ベネットに言わせればそれだけではまだ足りない。まずもって「手にとったその本は、書き手の心情の表出にほかならない。それをいまを生きるあなたの生活に移し替えなければせっかく本を読んでもなんの意味もなく、むしろ時間のムダ」だとばっさり切り捨てている。さらにこうも書いている。
芸術の最大の目的のひとつは、精神を掻き乱すことにある。そしてこの「精神の掻き乱し」は、すべてが整っている人にとっては最高の愉楽となりうる。ただしこの真実を会得できるようになるには、それこそ何度となくこの手の経験を繰り返すしか方法はない(Chp.9 「詩の世界」より)
拙訳者当人が言うのもなんですが、まったくそのとおりですわ。「芸術は、バクハツだ!!」じゃないですけれども、ソレがないアートというのは、いくらモットモラシイ熱弁を振るったとしても、しょせんまがいものにすぎない。ベネットはこの本で「ではどんな本(作品)を読めばいいのか」について、3つの時代区分に沿ってリストアップしている(拙訳書にも注記したけれども、原書には当時いくらで売られていたか、その売価まで懇切丁寧に列挙されているが、それは割愛した。代わりに合計でいまの日本円でだいたいいくらになるのかは注記した)。また、「当時の英国ではどんな本が一般に読まれていたか」を知りたい、という向きにとっても本書は有益な資料になると思う。
…… 個人的には、2023 年も悲喜こもごもてんこもりもりで、ほんとアっという間だった。世界情勢もそうだけれども、「地球沸騰化」というワードも印象に残った卯年の 2023 年でしたね。恒例の〆の1曲ですけれども、大好きなニジガクの楽曲(今夏公開の劇場版 OVA エンディング主題歌。「好きのチカラは強いんだよ 最強さ」はマジで spine-tingling もの)から選んでみました。それでは良いお年を。