朝ドラ制作側では「これはフィクションです」と断っているから、下敷きになった『アンのゆりかご』からいくら乖離していたって構わないんだろうけれども、たとえばあのでかい英英大辞典( 明らかにモデルは『ウェブスター』ですな )を教会の「本の部屋」から土砂降りの雨の中へ放り投げようとした場面とか、マーク・トウェインの『王子と乞食』の冒頭部分の訳出作業が訂正もない、きれいな訳稿となってたった一晩でできちゃったりとか、うううん、どうなのよ、と門外漢はやっぱり思ってしまうんですわ。ま、いいか。今後の展開に期待しましょう( 予告によると来週からさらに急展開?らしい。ちなみにあの原稿用紙、400字詰め用紙だったけれどもあの当時ってもう 400字詰め用紙ってあったのかな? 夏目漱石とかの原稿用紙の画像とか見ると 200字詰めか、それ以下だったような気がするけれども。400字詰め用紙は、たとえば昭和初期の川端とかの直筆原稿だったらこの目で見たことがある )。
で、その『王子と乞食』。先日、図書館に行ったついでにパフィンブックス版( 簡略版 )の原書を借り、そのあとたまたま立ち寄った本屋でこれまた運よく村岡訳岩波文庫版『王子と乞食』を見つけたのでこれを買って、ドラマでちょこっと写ったあの原稿の箇所はどこかな ♪ と調べたりして遊んでました。*
じつは、『王子と乞食』つながりではこんなたいへん興味深い考察を披露した本がすでに存在していたこともつい最近知った。明治大正にかけての、ことに児童文学分野の邦訳ってわれわれが考えている以上に盛んでして、それには「10年留保」という、いまから考えるとちょっと信じがたい出版事情もあって、たとえばあの『ユリシーズ』なんか、原本が刊行されてほんの数年でもう邦訳( 完全でないにせよ )本が出版されている ―― それも第一書房と岩波書店と、たてつづけにふたつの版元から !! **
そして岩波版『ユリシーズ』って、じつは村岡訳『赤毛のアン』初版を出した三笠書房から戦後の 1952年( 昭和27年 )に刊行されてるんですねぇ( 村岡訳『赤毛のアン』もおなじ年に刊行 )! 『王子と乞食』のほうも、上に挙げた本を読むと、目からうろこというか、とにかく新鮮な発見が多くて、あらためて「翻訳」という行為の奥深さを考えさせられる。この本では村岡訳『王子と乞食』に言及しているのはたった一箇所だけだが、たとえば戦後になると『王子と乞食』に代わって『トム・ソーヤー』と『ハックルベリー・フィン』のほうの人気が高くなったとか、その翻訳者として名前を挙げられているなかに、静岡県東部にゆかりの深い児童文学者の小出省吾氏までいたとは寡聞にして知らなかった( いつも行ってる図書館の移動図書館車は小出作品にちなんで「ジンタ号」と呼ばれてます )。†
翻訳の時代性 … については、たとえばその小出訳『トム・ソウヤー』におけるハックは「決して煙草を吸うこともなく、ハックがトムとベン・ロジャースに煙草の吸い方を教えるよく知られた場面も同訳書からは全て削除」されているという( ibid., p.207 )。
2). そんなこんなでいま、いろいろな「アン関連本」をキャンベル本の合間にちょくちょく読んでいると、ひとつのことに気づく。『赤毛のアン』、『少女レベッカ』、『リンバロストの乙女』、『少女パレアナ』、『あしながおじさん』、『孤児の少女アニー』、『小公女』、そして『トム・ソーヤー』… これらの作品に通底するのは「孤児物語」だ、という点。時代的には 19−20世紀にかけてに集中している( 『レ・ミゼラブル』のコゼットもそうかな )。ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』を見てもわかるように、文学作品の主題というのはやはりその時代を写す鏡みたいな役目をも果たすもの。写真家ルイス・ハインのことを取り上げたときも似たようなこと書いたと思うけれども、当時は児童労働が当たり前、児童福祉とかなんとか、そんな発想じたいがまるでなかったか、あったとしてもきわめて希薄だった。ハインが写真を通して告発した紡績工場の児童労働 … だって、日本も当時は似たようなものだったし(『女工哀史』など )。
モンゴメリのように、書き手自身が「孤児」的境遇を体験していることもあったろうけれども、アイルランドも含めた欧州各地に古来より伝承される「取り替え子( Changeling )」を思わせるような出だし、マシューとマリラ兄妹に引き取られ、「居候」の肩身の狭い身分でありながら結果的に周囲の人にとって救いとなるような存在になってゆくなど、「王子と乞食」ばりの主客転倒があったりといろいろに読める作品だとは思うけれども、その後のモンゴメリ作品とか概説したものなどを読むと、この孤児をめぐる問題に終生、モンゴメリ自身こだわりつづけたということも浮かび上がってくるように思う。
そのへんの事情は『完全版 赤毛のアン( 原題 The Annotated Anne of Green Gables, 1997. )』にひじょうに詳しいので、『赤毛のアン』を深く味わいたい向きには一読の価値ありだと思う。本編につづく「解説」、「注釈」、「付録」の内容の深さと幅広さにはあらためておどろかされる。個人的妄想として、「赤毛」のイメージがなぜだかホーソーンの『緋文字』のヒロイン、ヘスター・プリンの胸元の赤いA( Adultery )と重なっていたのだけれども、まったくおんなじことを指摘した箇所を目にしたときには文字どおり仰天した( ちなみに「解説」のその箇所[ p. 481 ]によると、モンゴメリ自身も『緋文字』を高く評価していたそうです )。
で、その本の「テキストの異同」というセクション。朝ドラがきっかけとはいえ、いまごろ『アン』原書を手に取った新参者としては( 苦笑 )、原文に版による相違があるということもまるで知らなかった。おかげでのっけから誤読しそうになった (>_<;)↓
... At first Matthew suggested getting a "Home" boy. But I said "no" flat to that. ( p.11 )静岡の駅前の本屋で村岡訳『赤毛のアン』と『アンの青春』といっしょに買ったのはパフィンブックス版で、1925年に刊行された Harrap 版が底本らしい。で、上掲書同セクションによれば、「エディションの間で違っている箇所について、1925年版と原稿での形が一致しているものが多い。したがってモンゴメリにはこのイギリス版にかける意気込みがあり、その結果として 1925年版の形の方が 1908年版よりも時にすぐれていると信じてもよかろう( p. 490 )」と書いてある。
ファンなら先刻ご承知のように、村岡訳『アン』は、カナダ人宣教師婦人から記念として贈られた原本というのが初版、1908年版なので、↑ の箇所が異なっている。1908年版では 'a Barnado boy' と印刷され、さらにタイプ原稿( 手書き草稿の清書稿としてタイプした )では' a Barnardo boy' と書かれていたんだそうな。
トマス・ジョン・バーナードー博士は 1870年ごろ、いまふうに言えばストリートチルドレンのための孤児院および更生施設をロンドンを皮切りに英国各地につぎつぎと設立した人として知られてます。もっともその当時なので、博士のなかば強引なやり方には当時から批判する向きもいまして、たとえばいま流行りの(?)、いわゆる「ビフォア・アフター」写真を世界に先駆けて、かどうかは定かではないが、とにかくそういう写真を販売して「どうです、ワタシの作った孤児院に入れて、子どもたちを一人前の働き手にしましょう!」みたいな資金集めまで展開していた( → 参考サイト、'Carte-de-visite' というのは当時、名刺代わりに携帯した手札判と呼ばれるサイズ[ 約 5.7X9.5 cm ]の写真のこと )。そこまではいいが、なんと演出、つまり「やらせ( !! )」があったり、裁判沙汰になったり、いろいろ物議を醸したあげく、けっきょく7年後にはそういう孤児「変身」写真の撮影じたいをやめてしまった( もっとも収容する子どもの身元確認用として写真は利用しつづけた )。で、こういった一連の「変身」写真の撮影は博士みずから撮っていたのではなく、第三者のプロに任せていたそうです。アウトソーシングというわけですね。
当時、「バーナードーの子ども」という言い方は露骨すぎて、差別表現でさえあったようで、おそらくモンゴメリは当初は「バーナードー博士のとこの少年」という表現を使ったけれども考えなおしてパフィン版のような「ホームの少年」にしたのだろうと思われます。というわけで、問題の箇所はただたんに「施設( ホーム )の少年」だった。綴りを見ればわかるように、Barnado ではなくて、rが間に入るのが正しい表記。このへん、モンゴメリの原稿および初版本では若干の混乱がある。
バーナードー博士という人はなんとアイルランドのダブリン出身らしいが、先祖はイタリア系とも、ユダヤ系ドイツ人とも言われている。父親はダブリンで毛皮商だったらしい。当初、バーナードーは中国に医療伝道に行くつもりだったようですが、ロンドンで医学を学んでいたとき、当地の路上にあふれるホームレス、とくに子どもたちの窮状を目の当たりにして中国行きをあきらめ、英国にとどまって孤児院設立へと奔走するようになったようです。「やらせ」問題云々は、博士が熱血漢ゆえだったのかも。
というわけで、ひとりの孤児の物語から、バーナードー博士の「変身」写真のお話でした。m( _ _ )m
↑ は、BBC の学校教育向けらしいオーディオドラマ。ちなみにこの人がバーナードー博士。
* ...
"Beatings ! − and thou so frail and little. Hark ye: before the night come, she shall hie her to the Tower. The King my father"−―― The Prince and The Pauper
"In sooth, you forget, sir, her low degree. The Tower is for the great alone."
"True, indeed. I had not thought of that. I will consider of her punishment. Is thy father kind to thee?"
「ほんとうに打つというのか? そのように弱々しい、小さいからだをか。よし、日の暮れない中に、そのようなふとどき者は、塔の中におしこめてやる。お父様が ―― 」―― 村岡花子訳『王子と乞食』岩波文庫版 pp. 20−1
「王子様は、わたくしの祖母が身分のひくい者であることを、忘れていらっしゃいます。ロンドン塔は、りっぱな方がたのためにできているのではありませんか?」
「そうであった、つい忘れていた。それでは罰はあとで考えることにしよう。おまえの父親はどうだ? 親切にしてくれるか?」。
** ... 川口 喬一著『昭和初年の「ユリシーズ」』から。当時の日本には翻訳出版権という概念じたいがなく、原著刊行後 10年経過すれば事実上どこの版元も邦訳を出版できた … ようです( → 参考ページ )。なので『ユリシーズ』がぞくぞくと刊行されていたころ、「印税払え !! 」とジョイスが代理人立てて猛烈に抗議したとか、すごい話が書かれてます( 汗 )。当時のエージェントとのやりとりの書簡から、ジョイスは伊藤整などが訳した『ユリシーズ』邦訳本はおしなべて「海賊版」だとみなしていたようです。なんだかこれどこぞやのコピー大国のこと言えない話ではある、自戒の意味もこめて。
† ... The Prince and The Pauper の最初の邦訳は巌谷小波他訳によるものらしいが、じつはそれ以前にも幻に終わった邦訳企画があったという( ibid., pp. 32−9 )。山縣五十雄の『乞食王子』( 1893年 )がそれで、「山縣の翻訳が、トウェインの原作の発表後、わずか二ヶ月足らずで発表されていることからも分かるように … 同時代の英米雑誌を丁寧に読み解く勉強家で、… 優れた英文家として活躍することになる」。これなんか見ますと、やはりちがった意味でビックリですねぇ( 2か月ですよ、2か月 !! )。