もうすぐ11日、20世紀最大のバッハ鍵盤音楽演奏の大家、ヘルムート・ヴァルヒャの命日(1991年没)がやってきます。
そこで、この機会にヴァルヒャおよびアルヒーフレーベルのスタッフが二度にわたるバッハ・オルガン作品全集録音で使用した4つの歴史的楽器のうち、カペルのアルプ・シュニットガー製作の楽器についてWebをあちこち放浪してみたところ、いくつか見つかったので、この楽器の歩んだ道のりついて、ちょこっとここに書いてみたいと思います(次回はストラスブールのジルバーマン・オルガンについて書きます)。
ヴァルヒャが最初のモノラル盤全集のときに使用したオルガンは、はじめリューベックの聖ヤコビ教会の歴史的銘器でしたが、市街地のただなかにあるという立地条件の悪さから年々交通騒音がひどくなって録音に適さなくなりました。
しかたなくつぎの候補を探すべく、アルヒーフスタッフがドイツ全土を調査して見い出したのが、カペルというひなびた村に佇むちいさな聖ペトリ・ウント・パウリ教会にある、名工アルプ・シュニットガー製作の銘器でした。
演奏者ヴァルヒャもこの楽器がおおいに気に入ったのでしょうか、70歳のときの引退記念盤「バッハ以前のオルガンの巨匠たち」でもふたたびこの楽器を演奏しています。
さてこのオルガン、最初は海辺の片田舎のこの教会にはありませんでした。もともとこれは1680年、32歳のアルプ・シュニットガーがハンブルク・聖ヨハネ修道院付属教会ではじめて受注した仕事で製作した楽器だったのです。マッテゾンによれば、シュニットガーがこのとき製作した楽器は30ストップ、2段手鍵盤に足鍵盤という仕様でした(その5年後大バッハ誕生)。
ところが1806年から14年間、ハンブルクはフランス軍に占領され、聖ヨハネ教会はなんと倉庫(おんなじことを「最後の晩餐」のあるミラノの修道院食堂でもやってますね > フランス軍。ミラノのほうはたしか厩舎がわりだったかな…)として使用されてしまいます。オルガンも1813年に解体され、やがて売りに出されます。
ちょうどおなじころ、カペルの聖ペトリ・ウント・パウリ教会がオルガニストの不注意から起きた火事で焼け、村人は新しい教会を寄付によって再建したものの、オルガンを新造するだけの資金はありませんでした。そのときこのオルガンの話を聞きつけた教会幹部が交渉した末、わりあい安価にてこの楽器を購入することができ、1816年6月29日、楽器はオルガンビルダーのJ.G.ヴィルヘルムによってカペルに運びこまれて組み立てられました。買い取り交渉のとき、いずれの当事者もこの楽器が名工シュニットガー作のものであることには気づいていませんでした。
この楽器の歴史的価値が再認識されたのは1928年になってからのことです。1933年には送風装置がふいごから電動送風機に切り換えられ、その後パウル・オット社によって、大半のリード管以外のパイプはほぼ建造当時の仕様に修復されました。ヴァルヒャがモノラル録音で使ったのはこの状態のときのものです。
その後風箱に亀裂が見つかるなどしたため、1976年から77年にかけて、オリジナル状態になるべく忠実に復元するようにふたたび修復の手が加えられました。二度目、ステレオ録音によるヴァルヒャ最後のアルバムは、この状態のときのものです。
カペルの楽器は北ドイツ一帯に散在するシュニットガー・オルガンのなかでもほぼオリジナルに近い状態が奇跡的に保たれたままいまに残った楽器であり、またまったく偶然のなりゆきで大都市ハンブルクからカペルという小村に移されたことで――多くのハンブルクの歴史的楽器がそうだったように――戦災で焼失することもなかったのです(いわゆる「歴史的オルガン」はのちの時代に「改悪」されたものがほとんど)。おかげでわたしたちもこのシュニットガー・オルガンの、甘美でありながら透徹した響きを聴くことができるというわけです。まさに「オルガンに歴史あり」ですね。
個人的な感想としては、モノラル録音によるバッハ全集とステレオ録音によるヴァルヒャ引退盤とを聴きくらべてみると――後者を聴くのはほんとひさしぶり――なんか響きが微妙にちがう。技術的なことはわからないけれど、モノラル録音のほうは高音の「鋭さ」が耳につくけれども、ステレオ録音のほうは全体的に響きがまろやかなのです…そして残響があんまりないのもここの楽器の特徴かな。…なにしろちっぽけな教会堂に不釣合いなほどに立派な楽器ですし。オルガンという楽器は設置される建築空間と密接な関係があるから、おそらく本来の設置場所である聖ヨハネ教会のほうがはるかに天井も高くて、大きな建造物だったのではないかな。
でもこの「そっけなさ」が、ヴァルヒャのやや速めのテンポによる演奏にはあっていたのかも。二度目のステレオ録音盤のほうは、バッハ全集とくらべるといくぶんゆったりとしたテンポで演奏されてはいますが、ワンワンワン…と残響がだらだらといつまでも残るよりはましかもしれない。残響の少なさでは、天井が木でできていることの多いオランダの教会にも共通して言えることですね。
オルガンケース表面を飾るパイプ列を「プロスペクト」と言いますが、ここの楽器は北ドイツ流派によく見られる「ちいさな星」がケース中央タワーのパイプに取りつけられています。これもじつは実動ストップでして、Zimbelstern、「シンバル・スター」と呼ばれるりっぱな楽器なのです。ただしこちらは管楽器ではなくて、打楽器。星のうしろに音高の異なるベルがありまして、ストップを引き出すと星がくるくると回転しはじめて、ハンマーが星のうしろに取りつけられたベルをたたいて音を出します…その名のとおり、じつにかわいらしい音を鳴り響かせます(→立教女学院の楽器のツィンベルシュテルンの画像)。なんとも遊び心にあふれたこの仕掛け、クリスマスコラール演奏のときの演出として使われることが多いです。バッハの時代にはすでにこの仕掛けは考案されていたので、おそらくこれもシュニットガーのオリジナルでしょう。
そして、こちらの写真を見て目のいい人は気づかれたかと思いますが、この楽器、手鍵盤の低音部が…きちんと1オクターヴないのです…broken octave(reduced octave)と呼ばれるもので、ようするに予算の都合上、省略できそうな音鍵は省いてしまおう、という当時独特の仕様なのです。…はげしく演奏しにくそう。↓に、秋元道雄著『パイプ・オルガンの本』(東京音楽社、1989, p.57)からスキャンした画像を貼っておきます。
…黒鍵の上にまた黒鍵…ヴァルヒャはこんなクセのある楽器でよくバッハを弾きましたね…すごすぎ。
とくにステレオ録音のほうはこの楽器の透き通った響きがえも言えず美しい。なんていい音なんだと思う。これは当時のアルヒーフ技術陣の残してくれた、アナログ音源じたいがすぐれているのでしょう…デジタル全盛時代の録音盤より、響きが柔らかくて暖かいように聴こえるのは気のせいだろうか…。
…いつの日かこの楽器の音を生で聴いてみたい。
2006年08月08日
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gaです。
コメントありがとうございます。
ブログのリンク集に入れさせていただきました。
勝手に入れたらアカン!ということであれば、
外しますのでお知らせください〜。
取り急ぎ、ご報告です。
コメントありがとうございます。m(_ _)m
いえいえとんでもありません、大歓迎ですよ〜!
自分の読んでいない方面の本を読まれている方の読後感などのレヴューはとても参考になります。これからもちょくちょくご訪問させていだきますね。
早速、おすすめの「グノーシス 古代キリスト教の<異端思想>」を図書館に予約したら、先客が5人ほどいました。
手にするのは1月後位になりそうです・・・。