2015年01月13日

'The pen is mightier than the sword' って言うけれど …

 まずはじめにお断り。「意見には個人差があります」。先日、フランスで起こった一連の悲しい事件について、すでにこちらの言いたいことを代弁している記事がいくつかございます。でも、「こういうふうに思うのは、西洋かぶれを自他ともに認めるワタシもしょせん、日本人、東洋の人間なんだなあ」と痛切に感じたしだいですので、手短に書き留めておきたい( → 関連参考記事1関連参考記事2 )。

 今回の痛ましい事件でまず違和感を持ったのは、「言論の自由への攻撃を断固許すな !! 」という轟々たる声、声でした( そしてちょうどいま、たまたま手にしているのがそんな「大衆」をテーマにした、スペインの思想家でジャーナリストだったホセ・オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』という本だったりする )。

 ワタシはテロリスト集団のくせして「国家」を気取ってるトンデモ連中を擁護するつもりはないですし、またこういう組織のトップがけっきょく、「宗教( もっと言えば、「砂漠の一神教」 )」をタテに若い人たちをそそのかして自爆テロなどに駆り立てている、というのはもちろん論外だと思ってますし、根絶すべきと考えてます。

 ただし、今回の一連の流れを見て思ったのは、やっぱり西洋の人も日本人同様、根っこはちっとも変わってない、ということでした。ジョルダーノ・ブルーノのころと変わってないじゃないか、と。

 自分たちと異なる思想信条の持ち主に対する想像力というのが、やはり決定的に足りないのではないかと思います。襲撃された新聞社も、当局からさんざん自粛するように言われていたようですし。「ペンは剣よりも強し」というのは、おなじコインの表と裏で、暴論だってありますし、剣以上に他者を傷つけたりもします( アイルランドと日本の神話にも、こういう人間のことばの二重性にはやくも気づいていたとおぼしき教訓とかが出てきます。「禁忌」を意味するゲッシュ geis とか、相手を倒す「ことばの矢」とか。このようなことばの持つ「力」については、以前ここでも書いた『西方風の語り』の主題にもなっている )。

 「諷刺」というのは、まるで異なる価値観、常識、通念、そして ―― これがもっともやっかいなのだが ―― 異なる宗教を奉じている者どうしでは、笑ってすまされる問題じゃないはずです。リンク先記事にもあるとおり、諷刺には「暗黙の了解事項」というものが厳然と存在する。ユダヤ人に対する差別的発言とか、黒人に対する侮蔑表現とかは当然、欧州でもだれに訊いたってタブーだって返事が返ってくるでしょう。イスラム教の創始者と言われている預言者を皮肉る、というそのだんびら、sword によって、あくせく働き、まっとうに暮らし、メッカへのお祈りやラマダーンを欠かさない市井の信徒たちをどれだけ深く傷つけているか … そういうふうに思わないのかな? ちょっとスジちがいかもしれないが、こういう西洋人の傲慢さは、たとえば太地町のクジラ漁を「告発した」と主張する手合いの行動( というより、妨害活動 )なんかと通底しているところがあるように思う。その昔、ちょうどメルヴィルが『白鯨』を書いていたころ、さんざクジラを獲って油をこさえていたのは、どこのだれなんだろうか( ここで言っているのは伝統漁法のことであり、商業捕鯨一般についてではない )。ここで言っている信徒というのは、もちろん過激派とか原理主義者ではない、ごくごくふつうの庶民のことです。

 でも、こういう問題の根っこはほんとうに深い。イスラエルとパレスティナの問題とかがそうですよね。自分たちの無知無理解をタナにあげて、「一方では正しい」言論の自由、あるいは「表現の自由」を声高に叫ぶだけじゃ、ことの解決にはなんら役に立たないと思う。もっと言えば、どっちの陣営にせよ、とどのつまりたんなる「原理主義者」じゃないかっていう気がしてならないのです。原理主義に凝り固まった者どうしが互いを認め、わかりあえる、なんてことはあろうはずがありません。昨年亡くなった吉本隆明さんだったら、なんて言うのかな ?? 埴谷雄高さんだったらどう思うのかな ??? 伺ってみたい気がする。

 それと、真の意味での「言論の自由」って、たとえばこの前、ノーベル平和賞授賞式のスピーチで、マララ・ユスフザイさんが語っていたことのほうが、よっぽど正鵠を射ている気がする。「ペンは … 」というのは、つまりはとくに若い人、子どもたちにペンと本を与え、しかるべき教育を施すことにこそあるのではないか。やたらと人さまの信仰を茶化すことじゃないと思いますよ。

 以前もおんなじことを書いたので蒸し返しになるけれど、仏人のメル友がイラク戦争のとき、「正義のための戦争なんてない !! 」っていみじくも書いてました。で、聞くところによると、そのときの戦争が、どうやらイスラム国をこの世に出現させてしまったようなのです。なんたる皮肉だろうか。大量破壊兵器なんてけっきょく出てこず、当時の最高司令官はいまだお元気のようで、バケツに入った氷水をアタマからかぶってましたかね( いまのフランスの「空気」が、なんだか「 9.11 」直後の米国とカブってしまうのは気のせいか? )。キャンベル本に繰り返し出てくる主要テーマのひとつが Authority とどういう関係をとるかでして、ようするに他者から一方的に押しつけられた権威のもと、みずからの心の声に従わない、心の意に沿わない生き方をせざるを得ない、そんな世の中を、たとえばエリオットは「荒地 Waste Land 」と呼んだ、と。で、そういう上からの圧力に屈したのはたとえばアベラールやダース・ヴェイダーであり、それとは対照的に、なんとかみずからの心の声に従って抗ったのが、たとえばエロイーズだったり、ルーク・スカイウォーカーだったり、トリスタンとイゾルデだったりする。「あなたの神を、わたしに押しつけないでください」。そして自分も他者も、それぞれの生命の犠牲を不当に要求する / されるようなことも断じてあってはならない、と思う。最後に与謝野晶子のこの有名な作品の一節を引いておきます。『フィネガンズ・ウェイク』でジョイスが絶叫しているように、とにかく「地には平和」を! 
あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

posted by Curragh at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから
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