2015年01月24日

『大衆の反逆』

 つい先日もすこし触れたんですが、この本は半世紀以上も前に初の邦訳が刊行されて以来、異なる版元と訳者の手で邦訳本が刊行され、またかつて大学でもこの本( 原書? )をテキストに使用していたくらいだから、いまごろ読んでいるワタシなんかが読後感をちょろっと書いても、二番煎じどころの話じゃないことは承知してますし、検索すればわかるとおりすでに有名無名問わずじつに多くの書評がネットの海に浮かんでますので、とりあえず「あくまで」個人的に思ったこととかを少し書き足してみようかと思います。以下、こちらの訳書を取り上げてみます( 下線強調箇所は、邦訳文にある「傍点」強調箇所に対応 )。

 この本で言う「大衆」とは、一般的な意味の大衆 … ではなくて、「精神的に烏合の衆と化した」人間( の群れ )のこと。本文にもあるけれど、ようするに「スノッブ」な人のこと。と、こんなこと書くと、なんだポピュリズム批判本か、と思われるかもしれない。たしかにそういうたぐいの批判本の嚆矢( 「こうし」と読む )みたいな本ではあります。事実、当時の欧州でもっとも話題になり、かつ反論もたくさん書かれたのは、キャンベル本にも再三、引用されているシュペングラーの『西洋の没落』などを筆頭とする、「欧州が支配する時代はもう終わった」みたいな「欧州没落論」本でしたし、たとえばそこには若きシュヴァイツァーがたまたま耳にしたという「けっきょく、われらはみなエピゴーネンに過ぎないのではないのか?」という嘆きもまたその時代思潮と共鳴している。シュヴァイツァー博士がのちに現代文明批判と文明の再建を考察した著作(『文明の頽廃と再建』)を世に問うたのは 1923 年。奇しくもキャンベル本にこれまた引用がよく出てくるトーマス・マン『魔の山』とジョイス『ユリシーズ( 青本 )』刊行もちょうどこのころ( 1924 年と 22 年 )だし、エリオットの『荒地』もまたしかり( 1922 年 )。このホセ・オルテガ・イ・ガセットのベストセラーもまた、ふたつの世界大戦に挟まれた 1930 年に初版本( La rebelión de las masas )が出版されている( 以下、著者名はオルテガと表記 )。

 なので、この手の本を読むときはこういう時代背景抜きには考えられないし、当時のスペイン国内の事情というのもアタマに入れつつ注意深く読む必要があります。でもたとえば巻末近くで、「今や『ヨーロッパ人』にとって、ヨーロッパが国民国家的概念になりうる時期が到来している。しかも今日それを確信することは、11 世紀にスペインやフランスの統一を予言するよりもはるかに現実的なのである。西欧の国民国家は、自己の真の本質に忠実であればあるほど、ますますまっしぐらに巨大な大陸国家へと発展して行くだろう」という一節は、まるで現在の欧州連合( EU )を予感させるような書き方ではないですか。もっとも、前記事でも書いたように、いままたあらたな嵐というか、不穏な空気が日増しに強くなってきていることも事実ではあるけれど、全体としての流れというか、根本的な方針じたいはけっしてまちがった方向には進んでいないと思う。後ずさりしつつあるのは … いったいどこの国でしょうか? 

 オルテガによれば、「当時の」欧州大陸に最大の危機をもたらした「大衆の反逆」は、古代世界、たとえば帝政ローマにもあったのだという … しかもそれはローマ帝国の版図( 「はんと」と読む )最大、まさに怖いものなし向かうところ敵なしのはずだった絶頂期、紀元 150 年以降に顕著になったとし、ホラティウスが時世を嘆いた歌も引いている( p. 71 )。そして、それ以前の地中海文明が絶頂に達したときも、同様に「犬儒派」が出現したことを指摘し、「ヘレニズムのニヒリスト」と呼んでいる( pp. 154−5 )。オルテガの論によると、中世、ルネサンスと経て 17 世紀、18 世紀までは「いまだ達せず」の「準備時代」と信じられてきた。それが市民階級の台頭と権利の獲得、そして産業革命以後の技術的進歩とともに「生活水準の上昇」がかつてない規模で進行した結果、「ついに達せり」、19 世紀という頂点を迎えた。ところが … 頂点に達した、ということは、あとはひたすら下り坂なわけで、「あまりにも満足しきっている時代、あまりにも達成されている時代は、実は内面的に死んでいるのに気づく( p. 73 )」。というわけで、シュペングラーの登場、となるわけですが、オルテガはそういう「欧州優位の時代」が過ぎ去り、当時まだ若い国、たとえば米国とか共産主義革命直後のロシアとかが支配するというふうには考えなかった。「人間の生が潜在能力の次元においていかに増大したか」と指摘して、一面的かつ恣意的な当時の「没落論」を「[ 没落なる表現は ]不明確で粗雑( p. 67 )」と釘断じ、その代表格であるシュペングラーもまた、「彼の著作が公にされる以前から、多くの人は西欧の没落について論じていたのであり、彼の著作が成功を収めたのは、… 万人の頭になかにそうした危惧や心配が前もって存在していたからである」( p. 183 )とも書いている。

 オルテガの思想 … は、この本しか読んでないから口幅ったいことはうっかり書けないが、ひとつ言えるのは、いわゆる一般的な意味での保守の論客でもなければ貴族趣味な思想家でもない、ということ。「今日の保守派も急進派も、ともに大衆である点では変わりがない( p. 143 )」。では、オルテガの言う人としての理想像とはなにか? 「私にとって、貴族とは活力に満ちた生と同義語である( p. 110 )」。あら、なんかこれどっかで見たような … 「世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです( キャンベル / モイヤーズ著『神話の力』p. 264 )」。オルテガはさらにつづけて、「つまり自分自身を越え、… 自らに対する義務や要求として課したもののほうへ進もうと、つねに身構えている生のことである」。で、このような生の態度と真反対なのが「無気力な生」であり、そうしいう生き方を送る人々を「大衆」と呼んでいる。労働者階級とか資本家階級とか、そういう括りじゃないです。その証拠に、「大衆という言葉を … 特に労働者を意味するものと解さないでいただきたい。私の言う大衆とは一つの社会階級をさすのではなく、今日あらゆる社会階級のなかにあらわれており、したがって、われわれの時代を代表していて、われわれの時代を支配しているような人間の種類もしくは人間のあり方をさしている」とはっきり断っている( p. 157 )。

 また「大衆」とともに当時、台頭してきたまったく新しいタイプの科学者、つまり「前代未聞の科学者のタイプ … ただ一つの特定科学を知っているだけで、しかもその科学についても、自分が実際に研究しているごく小さな部分にしか通じていない人間」、つまり「専門家」と呼ばれる人々も「いかにばかげた考え方や判断や行動をしているかは、その気さえあれば誰にでも観察できること」と書き、「彼らの野蛮性こそがヨーロッパの堕落の最も直接的な原因になっている」と手厳しく指弾している( pp. 161−2 )。

 でもそれは同時に「現在の人間は自分たちの生は過去のあらゆる生よりも豊か」になり、「過去のあらゆる生よりもスケールが大きいと感じ」させた原動力とも言える。ここで当時の欧州大陸でもてはやされた感のある「没落論」を一蹴してもいるのだけれども( キャンベルによれば、オルテガとは大西洋を挟んで向こう側、米国の小説家スタインベックもまたシュペングラーのこの本におおいに衝撃を受けていたという )。科学技術の進歩によって、「今日の生は、今までのあらゆる生に比べて信じがたいほど大きな可能性の領域」をもたらしたのはたしかにそのとおりとしても、それはたとえば欧州列強の苛烈な植民地支配の上に成立していた、という事実に関してはまったくと言っていいほど触れられていない。こういう姿勢は、たとえばシュヴァイツァー博士が黒人との関係について言ったとされる、「黒人は子どもである。子どもに対しては権威なしではなにもできない。… だから、黒人に対してはつぎのことばがふさわしい。『わたしはおまえの兄弟だ。だが、兄だ』」ともある意味通底する認識に立っているのは否めないと思うし、げんに欧州が世界の支配者であることをやめてしまったら、「幼い諸民族が見せているうわついた光景は嘆かわしい。ヨーロッパが没落し、したがって支配をやめたと聞くや、諸国民や、まだ国民になりきっていない民族は、とび跳ね身ぶりをしてみせ、逆立ちをしたり、胸を張って背伸びをしたり、自分自身の運命を支配している大人の風を装ったりしている。そのため、世界のいたるところで『民族主義』が松茸のように頭をもたげている」とも書いている( p. 185 )。なのでやはり批判的に読む必要はある。

 ただ、ここで言う「民族主義」が、宗教を笠に着た自称「国家」を名乗り、それこそ無法のかぎりを尽くす、どう考えても人道や倫理にもとる行為を平然と行っている連中が存在する、という昨今の現状を鑑みると、オルテガが 80 年以上も前に指摘したことはそんなに的外れではない気もする。むしろ、何十年も先を見抜いていたかのごときその炯眼ぶりにあらためて驚かされることのほうが多い。たとえばこういうのはどうですか。「われわれは現在、平均化の時代に生きている。財産は平均化され、異なった社会階級間の文化も均等化され、男女両性も平等になりつつある。それどころか、諸大陸も均等化されつつある( p. 67 )」、「われわれの時代になって、国家は驚異的な働きをする恐るべき機械となるに至り、多数の正確な手段を用いて驚くべき効果を発揮している。それは社会のまっただなかに据えつけられており、その巨大なレバーを作動させ、社会のいかなる部分にも電撃的な作用を及ぼすにはボタンを一つ押しさえすればよい( p. 169 )」。

 話をもどして、「19 世紀が産みだした人間は、社会生活の実効面では、他のすべての時代の人間とは別なのだ … 以前は金持や権力者にとっても、世界は貧困と困難と危険の領域だった( pp. 100−1 )」。こういう19世紀的なあらたな大衆の出現を世襲貴族( 相続人 )になぞらえ、文明の恩恵を被っておきながら、「それらが生まれながらの権利ででもあるかのように、自分たちの役割は、文明の恩恵だけを断固として要求」し、ひとたび飢饉に見舞われれば「こともあろうにパン屋を破壊する」。こういう「甘やかされた」大衆が台頭した結果、サンディカリスム、ファシズムという名の「相手に道理を説くことも自分が道理を持つことも望まず、ただ自分の意見を押しつけようと身構えている人間のタイプがあらわれた( p. 118 )」。ゆえに彼ら( と、ボルシェヴィズム )は「いずれも野蛮への後退なのである( p. 140 )」。皮肉なことに、祖国スペインはその後、オルテガが危惧していたことが現実になり、独裁体制が長きにわたってつづくことになるのだけれども … 。

 この本に出てくる「国民国家」というのはいわばキーワードで、ニーチェの言う「怪物」じみた、暴走する存在の「国家」とはまるで異なる、という点にも注意を払う必要があるように思う。オルテガの言わんとしている「国民国家」とは、「古代のポリス、あるいは血によって限定されているアラビア人の『部族』よりも、国家という純粋な観念により近いものを表していると言えよう。… 国民国家は、共通の過去を持つ前にその共通性を創造しなければならないのであり、しかもそれを創造する前に、共通性を夢み、欲し、計画しなければならない( p. 230−1 )」。どういうことかって、たとえばいまの EU みたいなもの、としかボンクラには言いようがない。もう少しあとに、こんなことも書いてあります。「今日もしわれわれが、われわれの精神内容 ―― 意見、規範、願望、想像 ―― の決算書を作ったとすれば、それらの大部分がフランス人の場合はフランスから、スペイン人の場合はスペインからもたらされたのではなく、ヨーロッパという共通の背景から来ていることに気づくだろう。… 仮に平均的フランス人から、彼が他のヨーロッパ諸国民から受けいれて使用しているものや考え方、感じ方を取り去ったとすれば、思わず恐怖をおぼえるだろう。そのとき彼は、そうした状態では生きることができないことを、そして彼の内的所有物の五分の四が、実はヨーロッパの共通財産であることに気づくだろう( p. 237 )」。これに反し、「ある人びとはすでに老衰した原理を極端に、しかも人為的に強化することで現状を救おうとしている( p. 241 )」。これがオルテガの見る「国家主義」の正体。「しかし、こうした国家主義はすべて袋小路である。国家主義を未来に向けて投影してみていただきたい。そうすればたちどころにその限界が感じられるだろう。そこからは、どこへも出られないのだ。国家主義は、つねに国民国家形成の原理と反対の方向を目ざす衝動である。… ただわずかに、ヨーロッパ大陸の諸民族集団によって一大国民国家を建設する決断のみが、ヨーロッパの脈動を再びうながすことになるだろう。そのとき、ヨーロッパは再び自信を取り戻し、必然的に、自分自身に多くの要求を課すにいたるだろう(ibid.)」。

 そう、これがまさにヨーロッパたらしめている点ではないか。こういう発想こそ、じつは欧州の優位というか、環境問題・南北問題・資本原理主義の弊害 … と、けっきょくなんだかんだ言っても 21 世紀のいまもなお、「自由民主主義」体制が世界の趨勢になっている最大の理由なんだろう、と思う。もっと言えば、確固たる個人というものの考え方。個人というものがはっきり確立している。日本も含めて東洋では、どっちかと言うといまだに世間の同調圧力のほうが個人に優っている傾向は強い。もっともこの本によると、スペインでも世間の風当たりというのは、そうとう強いものらしいが … 。で、この個人という点において、じつはオルテガもキャンベルも案外、共通しているんじゃないかって思うのです。たとえば「『世襲貴族』はどういう生を生きることになるのか、彼自身の生か、それとも傑物であった初代の生を生きるのか? そのどちらでもないのだ。彼は他人の生を演ずるように、つまり、他人でも自分自身でもないように宣告されているのである。当然ながら、彼の生は真正さを失い、他人の生の単なる代理か見せかけに変質せざるをえない。… 生とはすべて、自己実現のための戦いであり、努力である。私が自分の生を実現させるに当たって直面する困難こそ、まさしく私の能力を目覚めさせ、行動をひき起こすものなのだ( p. 146 )」という書き方なんか、字面がちがうだけでようはキャンベルもその優位性を認める、欧州人による「( 真の自我、という意味の )個人の発見」という点において、まったくおんなじことを主張しているとしか思えない( 否、勝手気ままなだけの「甘やかされた」個人主義は、オルテガの言う「大衆」にほかならない )。

 というわけで、あいかわらず悟りの遅い門外漢にとって、オルテガ本との出逢いはキャンベル本にも負けず劣らず強烈な印象を残したのでした … 。たしかに地球温暖化が深刻になりつつあるいまからすると、西欧近代の物質文明に対する批判とかももう少しほしいかなとか、近代西欧が生み出した資本主義と世界にはびこる拝金主義的傾向とその思いもよらぬ反動などを考えると、当時はまだまだ素朴だったのかな、とも感じたりはする。するけど、初版本刊行後これだけの歳月が経過しながら、なお色褪せない卓抜な警句と比喩の散りばめられたこの近代大衆論、もうすごい、としか言いようがない。凡百のポピュリズム批判本と一線を画しているのは、やはりオルテガという思想家の投げかける、鋭く、そしてひじょうに深い人間洞察にあるのではないかと思う。人間精神の内面に対するその洞察力の深さには、ただ目を見張るほかなし。とにかく深い。キャンベル本にもときおり出てくるオルテガの若いころの著作『ドン・キホーテをめぐる省察』は、あいにく絶版の全集本にしかないようなので、また日をあらためて大きな図書館とかに行って探してみたい、と思ったしだい。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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