1). 先日、地元紙夕刊で連載中のピアニスト、小山実稚恵さんの「あふれる音の贈り物」。いつも楽しみにしているこのエッセイもはや第 23 回ですか。けっこう息の長い連載です。
で、その 23 回目の本文にはこんなことが書いてありました。
真っ赤な色が目に飛び込んでくる ―― 。チャイコフスキーのピアノコンチェルトを演奏すると、いつもそんな印象を受けます。
「音が感じさせる色」というものがあるような気がするのです。ゴッホが描く黄色や青色のような鮮烈な色から、モネの睡蓮のように柔らかでコクのある不思議な色調、水彩画のような透明な色彩、水墨画のようなモノトーンの世界 … 。ピアノを演奏していると、本当にいろいろな色を感じます。実際には色を見ているわけではないのに、音から色の世界が広がってゆく。音楽にはそういう魅力もあるのです。
ここを読んだとき、その直前にたまたま耳にした、'OTTAVA Salone' の放送回を思い出していた。「色聴」に言及したさるリスナーのコメントを読んでいたその日の担当プレゼンターさんが、へぇ〜、そんなのあるんだ! と感心されてたんです。こういうのを共時性って言うんでしょうか、まったく関係ない場面で、まったくつながりのない個人からおんなじ話題、トピックが口をついて出る、ということが時折あります( だから世の中おもしろい )。
当方、「シキチョウ」なる語を聞くと、なんとかの犬状態で、即スクリャービンを思い出す。このロシアの作曲家自身もまた色聴があったそうで、驚くことに最後の交響曲「交響曲第5番 作品 60( プロメテ ― 火の詩 )」では、演奏する音に反応してカラー照明の演出を行う「色光ピアノ(!)」なる楽器を初演に担ぎ出そうとしていたくらい( けっきょく作曲者の意図に反して、その「演出」は実現しなかった )。ちなみに個人的に発見だったのは、スクリャービン、ではなくて、同時代人のリャードフが最晩年に作曲した2声小フーガ( ラ−ド−ファの主題によるフーガ )。まるでバッハ時代に逆もどりしたかのような、擬古典的とでも言うのでしょうか、なんて愛らしい小フーガなんだろう、と思う。フーガついでに、グールドはバッハの「フーガの技法」出だしの4声単純フーガについて、「色彩のない、モノトーンの世界がひたすら広がる」と、そんなふうに評していたのを読んだことがある。
2). いま、巷で話題なものとくると、「妖怪ウォッチ」ではなくて … トマ・ピケティ教授の『 21世紀の資本』ですね !! ついこの前も、本屋でこの『ハリー・ポッター』本並みに分厚い学術書( 版元はなんと、あのみすず書房ですぞ !!! )の山を見かけたので、片手で持ってちょいと立ち読みするにはひじょーにツラい … んですが、ちょっと読んでみた。でもってびっくりしたことに、ワタシが目を走らせている端から、平積みの本がつぎつぎと文字どおりレジ方向に飛んで行くではないですか。
めぼしい箇所を牛が草食むごとく browse しただけで云々するのは、もちろんアンフェア。でも印象を述べさせていただくと、結論的にはわれわれ一般庶民、市井の人間がそうとう以前から直感的に思っていたことが、「やっぱりそうなのか」と上書きされただけだった。「クローズアップ現代」とか「白熱教室」とか、いろいろ取り上げられていたからもう二番煎じでしょうけれども、ようするに「 r > g 」、「資本市場が完全になればなるほど、資本収益率rが経済成長率gを上回る可能性も高まる」ということ。ほらヘミングウェイ作品名にもあるじゃない、あれですね、「持つと持たぬと( To Have and Have Not )」、とくに「お金」を持っている人と、そうでない人との「格差」は、このままほうっておくとえらいことになるよ、ということ。
ではどうするか。「クローズアップ現代」でのインタヴューでは、著者先生は、「グローバル資本税」みたいなことをすべきだ、としている。こういう発想について、いわゆる識者なる class の方々がいろいろに「自説」を展開されているので門外漢はこれ以上は関知しないが、労働者階級( 英国は階級社会として有名だけど、現代フランスではどうなのだろう … やはり移民差別問題のほうがはるかに大きいかもしれないが )出身のピケティ教授の生い立ちが、ユング心理学ではないですけど、やはり深く深く根を下ろしているのでは、と思われます。でもたとえば政府が抱える膨大な借金について( 以下、下線強調は引用者 )、
… 金持ちからお金をふんだくって財政再建すればよいというのは、フランスの左派思想家であるピケティらしい主張とも言えるが、日本の常識で言えばとても現実的とも賢明とも思えない。と、「ピケティにかこつけて」持論を展開しているさる経済学先生のコラムも先日、やはり地元紙に載っていた。ええと、「日本の常識」から見ても、この先生の言われる「死亡消費税」なる発想は、そうとう尋常じゃあないでしょうよ。ちなみに、「あれだけ厚くて中身の濃い本を、どれだけの人が理解できるのかは疑問を持っている。私の大学の学生と英語版を何回かに分けて 200 ページほど読んでみたが、一般の人がそう簡単に読めるような内容ではない」とも( 先生ご自身は読破されたのでしょうか? )。
かつてバロウズ本の邦訳紹介でその名が知られるようになったこのとてつもない文字どおりの労作、tome の翻訳者のおひとりの山形浩生氏は、ご自身のブログ上でもこの本の持つ「むつかしさ」についてわれわれ一般読者に対して念押しされているから、まあたしかにそうなんでしょうけれども、それではアダム・スミスやケインズとかはどうなの? 分野がちがうけれどゲーテは、ヴィトゲンシュタインは ?? トーマス・マンはジョイスは ??? いまさっきふかわさんが、「いまの世の中、人々が『水に流さなく』なったねぇ …」って嘆息混じりにこぼしていたけれども、心の狭い、文字どおり小市民なワタシなんかはつい、「よけいなお世話じゃ」と思ってしまう( スミマセン、ひねくれているもので )。ちなみにピケティ教授ご本人曰く、「ほとんどの人が非常に読みやすいと感じている」( ふかわさんはつづけて、「心に溜まったあれやこれやを流してくれるのが、音楽だ」 )。
もうひとつ疑問。ピケティ教授って、そんなに「左派思想家」なの ?? なんかこちらの記事とか見ますと、ピケティ本の主張を生理的に嫌う向きがどうしても多数派になるお国柄の米国民の拒否反応のごとく、相対的主観にすぎないんじゃないだろうか。とすれば、この先生の視点もまた、「米国追随」型発想から抜けられないというふうにもとれる。というか、そろそろこのコラム、執筆陣を一新したらどうかっていつも思うんですけど … だめかしら。こういうのも根拠のないたんなる思いこみにもとづく「偏向」記事なんじゃない? 「『ジョー・キャンベルなんかと関わり合うなよ。あいつはユング派だ』。私はユング派なんかじゃありませんよ」(『ジョーゼフ・キャンベルが言うには、愛ある結婚とは冒険である』馬場悠子訳、p. 171 )。学生相手におだやかな調子で講義するピケティ教授の姿を見ているかぎりでは、おそらくご本人ですら「左派思想家」なんて自覚はないだろうと思いますよ。いずれにせよ、この手の硬派な、データや資料中心の( 一部使用されているデータや統計がヘンだ、という批判もあるけど )労作がそれこそなんとか警部ものみたいに売れてゆく、というのはとてもいいことだ。おなじ売れるんならこういう本のほうがまだマシですし、またべつの見方をすれば、ベストセラーリスト入りする本ってたいていの場合、なんらかの分野の翻訳ものが含まれるケースがほとんどで、しかも今回は異例とも言える分野の専門書の邦訳本( 英語版からの重訳みたいです。仏語が得意な向きは原本も買って読み比べればさらに楽しめる[?]でしょう )が売れている。たまにはこういうこともあっていい( と言いつつ、立ち読みした本をもとの山に返して平然とその場を立ち去るワタシ )。
3). 最後もまたまた地元紙連載から。「国語は生きている / 白川静『字訓』を読む」からでして、これすごく勉強になります( ヨイショではない )。で、この前目にした記事では、いまもっとも問題になっていること、「いのち」という日本語についてでした。
… 白川静さんは呼吸の「息」に「気」の漢字も挙げていますが、その「気」は「い」とも読んで、「生き」や「息」のもとになる言葉です。… 「いぶかし」も「気」をもとにする言葉です。…「いきどおる( いきどほる )」は息が通ることではなくて、激しい怒りで生きが胸につかえることです。…「厳し」「厳めし」の「いか」も「いき」の系統です。内部のさかんな力が、外に激しくあらわれることが「厳し」。「厳めし」は威勢があっておごそかであることです。
なんだか英語の spirit にも通じる話ではないですか。こっちの語源は『聖ブレンダンの航海』( この航海譚の性質上 )でもときどき見かけるラテン語 spiritus で、そのまんま「息」、「息吹き」ですね。
でも、なんといってもワタシが瞠目したは、その結語でした。
最後に紹介したいのは、正直、カミナリに打たれたような気持ちになってしまいましたよ。そしてもちろん、アタマの中ではあのヤナセ語訳『フィネガン』の「雷鳴」が鳴り響いていたのでした。そういえば『ユリシーズ』でもちょうど本の真ん中あたり、第 14 挿話(「太陽神の牛」)で雷鳴が轟き、またエリオットの『荒地』の「雷が言ったこと」に登場する DA、Datta も連想していた。ちなみに「かみなり」とは関係ないが、バッハのあの長大な「シャコンヌ( BWV. 1004 )」も、全6曲のセット( バッハにはこういう「6つでワンセット」な作品がままある、「オルガンのための6つのトリオソナタ」とか )のちょうどど真ん中に当たる部分に位置している。雷 です。「いか」は「厳」のこと。「つ」は「の」の意味の古代語。「ち」は「霊」です。恐るべき神だった雷鳴のことです。
… とはいえ、あの中東の狂信的カルト過激派自称国家、なんとかならないものか。こんどはデンマークで襲撃事件が起きたようですが … この前も書いたこと、「ペンは剣よりも強し」について、なんとあの村上春樹氏もまた当方とおなじような見解を表明していて勇気づけられた口なんですが、ISIS / ISIL なる「組織」は、じつに巧妙かつ狡猾に社会からはじき出された若い人を引きずりこんで、自分たちは手を汚さずひたすら財産と資源の略奪と、自分たちの意に沿わないものは片っ端から処刑するという、たしかにいままで例のなかったタイプの過激派だとは思うが、日本はすでにこのひな形みたいな忌まわしい事件を 20 年前に経験済み、ということを忘れてる人が多いような気がします。なので、例のイスラム法学者氏の会見とか見ていると、なんかこう歯がゆいんですね。たしかあのときも、「宗教学者としての死」などと宣言していた宗教学の先生がいましたから。この前やはり地元紙にイラクだか、まっとうなイスラム教の権威みたいな先生が取材に回答している記事を目にしたんですが、「あれはカルト集団」だとはっきり断じていたのは、まことに正論だと思った。でもいっぽうで、すこし時間はかかるが資金源を断ち、「兵量攻め」にして追い詰めれば、汚い仕事は傭兵任せ、みたいな組織のこと、内部崩壊するはずだとも思うが … 。はっきり言って、連中のやってることはこの前読んだばかりの『大衆の反逆』に書いてあることの「何度目かの」二番煎じにすぎない。「大衆がみずから行動するときは、ほかに方法がないから、次のようなただ一つのやり方でするのである。つまり、リンチである」、「じっさい、われわれは普遍的なゆすりの時代に生きているのである。これは二つの補足的な面をもっている。暴力のゆすりと、冗談半分のゆすりである。そのどちらも同じことを望んでいるのだ。つまり、劣等な者、凡庸な人間が、いっさいの服従からの解放感を味わおうというのだ( 中公クラシックス版、寺田和夫訳、p. 144、252 )」。
時計がこわれたら 二つのうちどちらかをすることになる
火にくべるか 修理にだすかだ
前者のほうが てっとり早い
―― マーク・トウェイン著 大久保博 訳『ちょっと面白い話』p. 238
付記:「ロバの音楽座」上野先生の今年の「動く年賀状」、すばらしいのでここでもご紹介しておきます。↓