2008年02月25日

The Thirteenth Apostle

 前に、著者の米国ライス大学教授エイプリル・デコーニック女史(カバーの写真を見たら女性の研究者でした)がNYTimesに寄稿したコラムについてすこしばかりコメントしました。で、そのとき読んだ先生の説にひじょうに興味を惹かれまして、今月はじめにようやく先生の新刊本を入手。あいにく風邪で寝込み、ゴホゴホ言いながらも内容が期待にたがわずおもしろくて、臥せっているあいだもずっと読んでました(お名前のDeConickの読み方がいまいち判然としないけれども、とりあえずこのように表記しておきます。→先生のサイト)。

 で、この本を読んだ感想としては、われわれは全米地理学協会(以下NG)に一杯喰わされていたようだ、ということがはっきりしてきたということ。この本は――ロビンソン博士のちがう意味で扇情的なご本よりもはるかに――「再発見」された「ユダの福音書」について、もっとも精確で信頼できる文献だ、と言えます。巻末の註部分を入れても200ページない本ですが、自分が読んだかぎりではいわゆるトンデモ本のたぐいではありません。学者の良心が書かせたしごくまじめな本です。

 デコーニック女史は2006年春、折りしも復活祭のときに、世界中のマスコミででかでかと取り上げられた「ユダの福音書」を知り、それがNGサイトに公開されるとさっそくダウンロードして読んでみた。空き時間を利用して、NG「公式チーム」が再構成したコプト語原文をみずから訳してもみた。ところが訳を進めれば進めるほど、ますます困惑するばかり。NG「公式チーム」発表の試訳とはまるでちがう方向の訳になってしまう。NGチームには親しい研究者も加わっているというのに、これはいったいどういうこと?? 

 Times寄稿文にもあるとおり、ようするに文字どおり穴だらけの古文書を解読するときは、一部の学者に独占させるやり方では肝心なところで足許を掬われる、ということをあらためて強調しています。悪気はなかったのだろうが、チームリーダーのロドルフ・カッセル老教授の頭には、ユダがどうしても「英雄」でなければならなかったらしい。その証拠に、著者はNGチームの訳は大筋でよしとしても、「重大な細部」において決定的にまずい箇所がいくつかある、と指摘。おかげでこのパピルス文書が伝えんとしている「真実」が歪められる結果になってしまった、という。

 デコーニック先生によれば、前にも書いた'daimon(δαιμωυ)'は、邦訳本『原典 ユダの福音書(以下、邦訳本と略記)』の註にあるような「神霊(いい霊)」の意味ではぜんぜんない。「ユダ福音書」ではこの手の「霊」を表すことばは一貫して'pneuma'になっているのに、イエスがユダに呼びかけるこの場面だけ、なぜかspirit(pneuma)ではなくて「13番目の'daimon'」となっている。これはあきらかに「悪霊」の意で使われている。たとえば「ナグ・ハマディ文書」の多くに出てくる'daimon'は、ヤルダバオート(=デミウルゴス、旧約聖書での創造主ヤハウェ。「ナグ・ハマディ」に代表されるグノーシス諸派は一貫してこの世の創造神をその上に君臨する「真の至高神」と戦う悪の権化とみなす)の手勢であるアルコーンたちと同一視している。たとえば「エジプト人の福音書」では、ヤルダバオート=ネブルエール(ネブロ)を「大いなるダイモーン」と呼んでいる(岩波版 p.154。ここで頻出する「天使」も人間を助けてくれるいい役回りではなくて、星の運行と関連づけて人間の運命を操作する悪い役回り)。ようするに地上の人間を惑わす悪霊と解するのが自然な解釈(pp.48-51)。たしかに邦訳本p.47の註にプラトンの『饗宴』が引き合いに出されているのも不自然ですね。「ユダ福音書」が書かれた時代から500年も前に書かれた書物に出てくる'daimon'は、当然のことながらこの時代にはすっかり意味が様変わりしているのだから。

 つぎに邦訳本で「私がそれを知ると、どんなよいことがあるのでしょうか。あなたはあの世代のために私を特別な存在にしたのですから」となっている一文(p.49)。なんだかかえって文意がわかりにくい気がするので英訳文を引用すると、'What is the advantage that I have received? For you have set me apart for that generation.'となっている部分。下線部、著者による試訳では、'What is the advantage I received, since you have separated me from that generation?'。なんと文意は完全に逆。orz

 つづいて邦訳本で「お前は13番目となり…彼らの上に君臨するだろう。…聖なる[世代]のもとに引き上げられるお前を彼らは罵ることだろう」となっている部分(p.49、英訳文 'They curse your ascent to the holy [generation].')。ここの箇所、著者によればいったいどうしてこんな解釈になるのかさっぱり解せなかったという(pp.51-2)。正解は「お前はあの世代へは引き上げられない」。またしても逆(苦笑)。なんでこういうことになったかと言うと、NGチームが当初、直前の主格人称代名詞(they)とこの一文とのあいだになんらかの欠落があるのを見落とし、さらに場違いなあるギリシャ借用語の縮約形として強引に(?)解釈したせい。著者が、公式チームのひとりで来日して講演会も開いたマーヴィン・マイヤー教授にこの件について聞きたいと連絡を取ったら、「外部にいっさいの情報を漏らさないというNGとの取り決めがあるからムリ」というつれない返事をもらった。数週間後、この福音書がらみで開催された会議出席のためパリ大学に出向いたら、当のマイヤー教授にグレゴール・ウルスト教授も同席していた。で、おふたりにさっそく疑問をぶつけてみたら、なんと向こうも「とりあえずの」現代英訳本を刊行したあとで再検討した結果、独自におんなじ結論に達していたという! なので、昨年刊行された「チャコス写本」の『批判校訂版(以下『校訂版』)』ではそのように訂正した、ですと。ちなみに↑で引用した箇所、『校訂版』ではどうなっているかと思って見たらあいかわらず訳じたいに変更はなかったものの、脚注には'Or, "from that generation."'なんてさもさりげなく訂正候補を挙げてある(太字強調は引用者)! 

 ところがデコーニック先生をもっとも驚かせたのが、「だがお前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」となっている箇所(p.69, 'But you will exceed all of them. For you will sacrifice the man who bears me.')。コプト語原文を逐語訳すると、'You will do more than all of them.'だという。このexceedというのはひじょうに肯定的な単語で、暗に「きみはどの弟子よりもすぐれている」ことを言っている(日本語で言えば「…より勝る」とか「…を凌ぐ」の意)。では「どの弟子よりも、それ以上のことをなす」とはどういうことか。この場合、文意はつねに前後関係に支配される。直前の箇所は欠落が多すぎるけれども、自分を遣わせた「真の神」ではないこの世の支配者サクラス(=ヤルダバオート、「ユダ福音書」ではサクラスと対で書かれ、これは「エジプト人の福音書」でもおなじ)に忌むべき捧げものをする12人の弟子と供物はすべて悪だ、というようなことを言っている。つまり否定的。問題の一文は改行なしでつづくのですが、NG本ではどういうわけか――邦訳本もそう――ここでいったん切れて改行されている(『校訂版』ではもちろんそんなことはない)。12人の弟子のやっていることはそのまま当時の「大教会」のことを痛烈に批判している箇所でもあるけれども、ユダは「それ以上のこと」をする、つまり自分(イエス)を祭司長たちに引き渡すだろうと予告している(NGの宣伝文ではさもイエスがユダに頼んだかのようなことが書いてありますが、『校訂版』現代英訳を見てもそんなふうには書いてない)。NG本ではユダがここで12人の弟子よりすぐれているととっているが、著者によればそんなことはありえない。なぜならユダは'daimon'だから。ここのキーワードは「13番目」。「ナグ・ハマディ」文書を残したのはセツ派と呼ばれる人々で、彼らの宇宙観は、かんたんに言うとまずこの世――混沌と黄泉――があって、そのすぐ上にヤルダバオートの支配する天界がある。ここにはお供のサクラスなど12の支配者、アルコーンがいて、12人の天使がいる。ヤルダバオートは自分より次元の高い天界である「アイオーン」の最下位にいるソフィアの産み落とした子で、ソフィアのいるアイオーンの上に幾重にもアイオーンが重なったかなたに君臨する至上神とつねに敵対している(アイオーンの充満する階層は、「充溢」を意味するギリシャ語プレーローマ pleromaと呼ばれる)。これは言ってみれば地中海周辺地域にいた一部のユダヤ教徒とキリスト教徒が、当時理解されていた天文学・プラトン哲学と、自分たちに伝わる「神」の概念とをどうにかこうにかして融合させようと苦心して編み出した二元論的宇宙観と言っていいかもしれない。「ユダ福音書」に登場するのはそのうちいちばん下の「黄泉」つまり下界を支配する5人のアルコーン(cf. 邦訳本p.62最後の註)。バルベーローというのは、アイオーンにいる神々のもう一方の姿の呼び名で、女性として描かれる(陰陽思想みたいだ)。グノーシス神話につきもののアイオーンはつねに男女同体。ヤルダバオートはソフィアがもうひとりの「片割れ」と相談せずに流出した子なので醜く生まれ、そのためにソフィアが次元の低い天界へと落としたという(なんて親!)。

 ではユダの役回りとは? 13番目になる、というのはつまるところ12人のアルコーンを支配する者、ヤルダバオートと同一になるとしか解釈できない。だからこそ、宇宙創生の秘密を明かすと言われたユダが師匠に「ではそれでなにかいいことがあるのか?」と訊き、それにたいしてイエスが「いや、おまえは(高次元のアイオーンからなる)その世代に仲間入りすることはかなわない」と言い、さらに「おまえは(高次元のアイオーンへは)引き上げられない」とつづけ、ダメ押しとして「おまえはどの弟子より…」とくる。デコーニック先生の解釈では、ユダはけっして「変容」して輝かしいアイオーンの世代に仲間入りする「グノーシスの模範」でもなんでもなくて、せいぜいが12人を支配するヤルダバオートの高みまでしか「引き上げられない」。これはこう言い終えたあとの記述とも一致する。「すでにお前の角は立ち上がり お前の憤りは燃え上がり…(邦訳本 p.69)」。たしかに。イエスを裏切る行為をたたえているわけでもなんでもない。イエスはここでただたんにユダを絶望の淵に突き落としているだけ。というわけで著者の結論としては、ヤルダバオートの遣い=ユダなので、当然問題の箇所は「おまえのなす行為は12人のだれよりも悪い」となる。またしても逆!! orz

 それともうひとつ個人的に引っかかっていた箇所として、邦訳本p.61に出てくる5人のアルコーンとして名前の出てくる「第一が[セ]ツ、キリストと呼ばれる者」というところ。キツネにつままれたような気がする。だってグノーシスではキリストって至高神から遣わされてアイオーンを下り、さらに危険な連中――ヤルダバオートならびに配下のアルコーンども――をぐねぐねと回避して下界にたどりつき、説教してグノーシス者を「真の故郷」であるアイオーンへと引っぱり上げるんじゃないの? なのにここでいきなり下界を支配するアルコーン側にまわっちゃっている。これどう考えてもおかしいんじゃないかと思っていたんですが、『校訂版』でも変更なし。??? と思ってはいたがそのうち忘れていた(笑)。いまごろになってようやく「正解」らしきものにお目にかかりました。どうもこれ復元じたいがまちがっているみたい。著者によると、正しい読みはおそらく'Atheth'ではないかと(p.38, 185。岩波版『ナグ・ハマディ』では「アトート」)。ここの箇所、著者試訳では'The first [is Ath]eth, the one who is called the "Good One"'(p.85)となってました。

 著者自身による「修正訳」のあとの章は、著者の解釈とその根拠について展開されていますが、いずれも説得力に富み、なるほどと納得いくものばかり。この本は「ユダ福音書」の内容をわかりやすく伝えてくれるよき手引き書としても秀逸です。おかげで最初は雲つかむようでなにがなんだかさっぱりだった「ユダ福音書」の言わんとするところがようやく見えてきたような気がしてきた。これはユダを模範的グノーシスとして英雄視しているのでもなんでもない。グノーシス派の人は、12人の弟子にたとえた使徒伝承を盾にする原始教会側の、とくに「聖餐式」を批判していた。「その上に13番目として君臨する」ユダを12人のアルコーンを率いる13番目であるヤルダバオートと同一視することで、彼らはいずれ滅ぼされるものとしていわば二重にあげつらっている。「ユダの福音書」は毒のそうとう効いた痛烈なパロディ文書ではなかろうか。ではなぜこれが「福音」なのか。ユダの裏切りはヤルダバオートの思惑どおりで、傲慢で愚かなこの神は自分よりはるかかなたの次元にいる「至高神」のほんとうの計画を見抜けなかった。十字架にかけてイエスの「肉体の死」は手に入れた。けれどもその内にあるイエスの霊ははるかに超越した存在なので、「真に覚醒した人=グノーシスに目覚めた人」を彼ら本来の故郷である至高神の住まうはるかかなたのアイオーンへと連れ帰ることがこれで可能になった。けっきょくいいように使われたユダはヤルダバオートとそのお供、彼に祈りとパンを捧げる12人の弟子ともどもみんな消滅する。そういう意味で「いい知らせ」だったと結論づけています。一読者としては、ここまで諷刺がきついと、なんか「福音書」というタイトルじたいもパロディかいな、なんて思ってしまうけれども。

 巻末にはご丁寧にも言及した「ナグ・ハマディ」の各文書についての一覧に、エイレナイオスやエピファニオスなど「ユダ福音書」について記録した教父文書の引用と、参考文献を親切にもコメントつきで列挙してあります。さらにご丁寧なことに、「質疑応答コーナー」まで設けている(笑)。「著者とのQ & A」ではかねてから気になっていた、このパピルス写本をもっていたのはいったいどんな人だったのかについてもほんのすこしだけ触れています(p.178)。欲を言えば、当時存在していたパコミオスの修道院共同体との関連についても一筆ほしかったな。

 NGチームの上梓した現代語訳には小さい部分とはいえ、そこここに誤りがあるらしいことがこれでわかってきた。『校訂版』に収録されたほかの「チャコス写本」のパピルス文書についてはどうなんだろ、という気もしないわけではないけれど、デコーニック先生はカッセル教授たちの仕事を快挙として高く評価してもいる。それゆえ恣意的ともとれるNGチームによる「ユダ像」がどうしても解せなかったのだろう。

 参考文献欄で挙げられていたほかの関連本では著者に近い立場をとる先生の編んだ本というのが近刊予定でそっちのほうは興味が惹かれるけれども、あとの本はおしなべてNGチームの解釈に沿ったものらしい。今回このようなかたちで『校訂版』を批判的に読む本も出てきたことだし、「反論の反論」も期待したいところではある。
5段階評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

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