2015年04月11日

The Masks of God:Creative Mythology

1. ここでもヨタ話ついでに何度か突っついてはちょこちょこっと触れてきた感ありの、ジョーゼフ・キャンベルの『神の仮面』4部作の総まとめ的な最終巻、『創造的神話』。本文だけで数字がきれいに並んで 678 ページ( 偶然?)、ページを繰れば繰ったで、infra, pp. 〜、supra, pp. 〜 ってやたら出てくるし、当然のことながら前の巻の参照まであったり、本文注もわんさとあり、またエロイーズ、ゲーテ、カント、ショーペンハウアー、ニーチェ、ダンテ、アクィナス、スピノザ、オルテガ、ジョイス、マン、デューイ、エマソン、ヘンリー・アダムズなどなど世界文化史に登場する錚々たる面々の引用が、ときには数ページにもわたって転載されていたりと、いったいどこをどうやってまとめればよいのか、この本を半分ほど読み終えたときはほんとからっぽのアタマを抱えて右往左往していた( 苦笑 )。ちなみにプロフェッサー・キャンベル氏がこの壮大なシリーズを書き終えたのは、最初に出た『原始神話』からなんと 12 年後のことだった( 巻頭の「『神の仮面』完結に寄せて」より。ついでながらこの巻頭の辞は全巻の冒頭にあり。でも著者曰く、「喜びに満ち、豊かな実りをもたらしてくれた」12 年だったそうです )。初版刊行は 1968年、アポロ計画まっただ中のころです。

 巷で話題のトマ・ピケティ教授の、負けずに分厚く重たい労作に倣って(「 r > g 」)、あえてこの本のもっとも言いたいことを数式化すれば、
c≠=x
ということになる[ 以下、数式はいずれもこの本に出てくるものをそのまま引用 ]。っていったいなんのこと? でしょうけれども … 無理やりひとことで要約すれば、西欧諸国の正統的な( 組織宗教としての )キリスト教聖職者の教える「神」というのは、数式化すれば「cRx」、どこだかわかんないけど、ここではない「外」におわす神と地上の人間との「関係の神話( マッキベン本にあった、「社会性の神話」というのは、たぶんこれのこと )」だが、ほんらい人間と「神」という名前の「全存在の根底をなす究極の存在」との関係は、古代インドの『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』に出てくるような「梵我一如[ 不二一元 ]」、つまり「汝はそれなり」、c=x なのだ、だが現実的にはこの世界というのはありとあらゆる二項対立からできており、そうとも言えないc≠x ではあるものの、あえてこの「不従順な」世界に「喜んで」留まり( ボーディサットヴァ )、c≠x だけれども、もともとはc=xなのだ、と自覚すること、いまひとつは、よそから伝播しただれかさんが肩入れしている「地域的な神」ではなく、古ノルド語の Norn、 古英語の Wyrd、自分自身の「運命」と向きあい、だれがなんと言おうがその道 ―― だれも通ったことのない道、「森のもっとも暗いところを通る道」―― を歩むこと、そしてその道しるべ、道案内になってくれるのが、かつて神話を語り聞かせていたシャーマンの代わりを果たす真の芸術家であり、それはジョイスの言う「精神はひきとどめられ、高められて、欲望や嫌悪を超越する」* 「静的な」芸術でなければならない … 。

 と、こんなふうに書くと、さも、「なんだ、よくあるたぐいの西洋人による東洋神秘思想礼賛か」と早合点しそうだが、じつはそうでもないのが、この本の著者のいちばんユニークなところ。そのために取るべきアプローチは、インドや中国といった伝統的な東洋思想にはなくて、じつは中世の西ヨーロッパにおいて開花した、「確固たる個人」という発想にあると説く。で、その最高の例としてなかば称賛して微に入り細を穿って取り上げているのが、12 世紀ドイツの騎士にしてミンネゼンガーのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ作と言われる長大な叙事詩『パルツィヴァール』。ついで、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク作と言われる『トリスタン』も物語を再現するかたちで収録してあります。それに先立って「アベラールとエロイーズ」のやりとりなんかが引用されていて( たとえば「修道誓願したのは、[ 自分の意志ではなく ]あなたさまがそうなさいとお命じになったからです」 )、そのついでに(?)静岡県東部地方ゆかりの白隠禅師による「和讃」の一節なんかも引用されていたり( p. 64 )で、自由闊達にあっちへ飛びこっちへ飛びする特有の書き方についていけない向きには( 既訳書も含めて )なんだこれ、となるでしょう。はっきり好き嫌いが分かれる本ではある。それとラテン語版『聖ブレンダンの航海』つながりでは、以前書いたこちらの拙記事も。ちなみに老婆心ながら、キャンベルは「神」という名前[ 仮面 ]イコール「全存在の根底であり、かつ前存在を超越したなにものか」というふうには考えていない。このへんは、やはり恩師ハインリッヒ・ツィマーや、若いころ知り合ったインド哲学者の影響なんだろうと思うが、第3部に当たる『西洋神話』の巻に、「神は、存在するとも、存在しないとも言えない」というふうに書いている。ようするに、人間の不自由な「言語」の範疇を飛び越えちゃってるんですな。とりあえず「神」と言ったり、「トリックスター」と言ったりしているだけなんです。このシリーズのタイトル『神の仮面』というのは、そういう意味。人智を超えた「超越者」には、民族・地域・歴史といったフィルターのかかった「仮面」がかけられている、そういう表面上の「仮面」だけで判断するな、そういう警告でもある。

2. かいつまんで全体の構成( 手許のメモがこれまたけっこうな分量なので、以下はあらましのみの略記。そして本文を抜き出した箇所は、あくまで暫定的な拙試訳 ):

I.「古代の葡萄樹」
Ch. 1 経験と権威:
創造的神話は … 神学のように上から押しつけられたものではなくて、成熟した個人から発する洞察、思考、そこに映じた幻像から生じるものであり、それは個人の価値ある経験に則したものである。
ルーマニア・ピエトロアセレから出土した「オルフェウス教儀式用の碗( 器 )」について:
1). 3−4世紀の作、当時のローマ帝国辺境地帯だった中欧一帯に住むゲルマン民族にもオルフェウス教は知られており、グノーシス−マニ教の異教の強い影響が西進して現在の南仏あたりまでおよんでいた。「ちょうどこのおなじ時期、『愛の儀式』を奉じるトルバドゥールたちと、『聖杯』伝説群が発生した」。
2). オルフェウス=漁師というイメージは、古くは紀元前2千年ごろ、古代バビロニアの「魚守」の封印にも登場する。漁師 → イエス → 「[ 聖杯伝説の ]漁夫王」。
1−16の「道行き」場面はそれぞれ現世の生・死・天・黄泉の国を象徴し、陰と陽、太陽と月、昼と夜などの「対立物のペア」を表す。
3). pp. 24−6, 紀元後 300年ごろの円筒印章の封印「オルフェウス−バッコス」像について:すべての目に見える対立物のペアのそもそもの存在の源では、それらはみなひとつ → 「大地母神」のイメージ → 世界創造の原動力としての「女神」→ そこから派生する「イエス=オルフェウス−バッコス磔刑」の図像。
4). 前出の「ピエトロアセレの碗」中心円の図像群は、紀元前 3500年ごろの古代シュメール王国の封印に刻まれた「自らを食らう力」のイメージとおなじである。「生滅を延々と繰り返すこの神は、ありとあらゆる生き物の真理を表している ―― 食べ、そして食べられる」。オルフェウス教の入門者は、イニシエーション過程において、自然のヴェールを突き抜け、永遠の命( 存在 )がすべての生き物に宿ることを悟る。「ピエトロアセレの碗」中央に座す「世界創世の女神」の足許には、彼女のシンボルたる葡萄の蔓が巻きつく。イエスもまた、この葡萄のたとえを最後の晩餐のとき、 12弟子に語る。「これはこれからわたしが流す血だ …」。
「ひとことで言えば、おなじシンボル、おなじことば、おなじ秘儀が、古代異教の葡萄にも、そしてキリスト教の新しい福音の葡萄にも息づいている」…
1600 年2月に火刑に処せられたジョルダーノ・ブルーノ →『旧約』に語られているは科学、歴史、数学ではなくて、「一種の倫理のみ」。ブルーノ誕生の5年前、コペルニクスが「地動説」を発表する。…
10−12 世紀にかけて、教皇を頂点とする西方教会絶頂期、各都市が大聖堂建設を競い合っていたころ、すでにその体制の崩壊が始まっていた → 『トリスタン』、『パルツィヴァール』;これらの作品は、真に優れた肖像画同様、「押しつけられたもの」ではなくて、「個人の内面の発露」だった → 「ヴァーグナーはゴットフリートに従い、ヴォルフラムに従い、ショーペンハウアーに従い、そして最終的には自分自身にのみ付き従った」…
イメージ、シンボル、神話的動機、英雄の業績といった世界に無尽蔵にある精神的遺産という宝庫、または辞書を意識的に活用したのが[ たとえば ]ジョイスとマンで、同時に彼らはそこに地域的で、斬新な主題をも持ちこんでいる。
「生ける神話」とは、「予測のつかない、前例のない正覚から生まれるものだ」。
「過去において存在した文明はそれぞれに固有の神話を伝達する手段であり、その神話はおのおのの文明を代表する賢人たちによって解釈や分析がなされ、その意味が明かされるにつれて各文明の性格も形成されていった。それと同じことがこの現代世界においても進行している。自然科学の成果が人間生活に応用された結果、それまで存在していたあらゆる文化的境界線は消滅し、その影響をまったく受けない固有の文明というものはひとつたりとも発展しえないとさえ言えるだろう。この世界ではひとりびとりがそれぞれの神話の中心、そして各人の知覚可能な性格はいわば化体した神であり、そこで見出すべきものは、" 経験として" 探求される意識なのだ。そのためのモットーは、デルフォイのアポロン神殿入口に刻まれたあの格言、すなわち『汝自身を知れ』である。各人それぞれの『汝』こそがこの地上の中心であり、それはローマでもメッカでもエルサレムでも、シナイやベナレスでもない。その『汝』とは、先に引用した12世紀の『24 賢人の書』に書かれたあの常套句で言えば、「神は知覚可能な球体であり、その中心は至るところにある( 下線強調は引用者、p. 36 )」。

Ch. 2 転換した世界:
:「伝統的な神話とは、原始神話であれ高度な文化圏における神話であれ、個人の経験に先立って存在し、個人の経験を統制するものだ。これに対し、本書で言う『創造的神話』とは、個人の経験から生まれたものであり、その表出である」。以下、アベラールとエロイーズ、ブリターニュのトマ → ゴットフリート → ヴァーグナーの「楽劇」へと論が進み、セネカによるアリストテレスの引用(「偉大な精神にして狂気の混じっていなかった者はひとりもいない」)、ショーペンハウアーによるドライデンの引用、おなじくショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』から、音楽について書かれたくだりの引用( 絵画はイデアの反映にすぎないが、音楽は、「[ 世界 ]意志」それじたいである )。「[ 世界 ]意志」は、古代インドの 'Tat tvam asi'、「梵我一如」とほぼおなじもの。

Ch. 3 ことばの背後に潜むことば:
「本書で扱っている神話は、個人の経験から生れたものであり、教義、学問、政治的利害、種々の社会改革プログラムから派生したものではない。エロイーズ、ダンテ、ラビア・アリ・バスリ、ゴットフリート、ヴァーグナー、そしてジョイスらのことばから読み取れる類の経験とは、愛の持つ純粋さ、荘厳さそのものである … 本書で扱う数々の神話は、自らの精神が欲していることと自らの実践、知識、発言とを一致させ、なんとか折り合いつけようと試みる勇気を持った男と女の創造物、あるいは啓示とも言える。言わば手紙を瓶に入れて大海原に漂わせるような試みであり、神やダンテ、地元の司祭かはたまた新聞が、天国行きであれ地獄堕ちであれ、だれからなんと宣告されようがいっこうにかまわない。それでも他者の天国より、自分自身の個性から発した地獄のほうがまだましというものだ。… ( p. 85 )」;
「科学者と歴史家は時間と空間とに区切られたこの歴史に仕える … これに対して創造的芸術家は人間に瞑想への覚醒を促す。外に向いた精神に、再びわれわれ自身の意識との接触を呼びかける ―― 歴史のあの断片、この断片への参加者ではなく、存在という意識そのものの一部として、その精神として。それゆえ、ひとりの人間の内面世界から、自らが経験した衝撃を表現することによって、直接に他者の内面世界へそれを伝えることが、彼ら芸術家の仕事になる。それは単に、ひとりの脳内から、情報や説得といった事柄を表明することではない。空間と時間という『無』を超えて、ひとつの意識の中心から、もうひとつの意識の中心へと効果的に伝達する手段なのだ。… かつてはそれが、神話の果たしていた役割だった … だが、こんにちの世界では、共有経験が一種の飛び領地として成立するような、閉じられた境界線などどこにも存在しない、という事実もある。神話を発生させるような共同体など、どこを探してももはやないのだ」;
ドイツの劇作家・詩人ゲアハルト・ハウプトマンの引用:「詩を書くことには、ことばの背後に潜むことばを響かせることが含まれている」。
以下、「A.D. 2−3世紀ごろのオフィス派[ 拝蛇教 ]の翼の生えた蛇の聖杯」とか、「ガッフーリオの『音楽実践法』に掲載された『天球の音楽』図( 1496, pp. 99−103)」とか、「ケルト神話における牡猪と[ 太陽を象徴する ]馬」と「トリスタン伝説」についての興味深い関連、「ベーオウルフ」の語源、そしてなんと(!)、日本の「スサノオ」伝説まで出てきて、とにかくてんこ盛りながら、悪しからず省略。最後がイスラム世界との関連といわゆる「グノーシス( 出た! )」との関連について、論を展開しています … とりあえずここでは以下のごとく要約:「当時、古代ギリシャの科学と哲学の唯一の宝庫はササン朝ペルシャ、グプタ朝インド、そして西方世界において唯一残った灯火であるアイルランドだった( p. 133 )」。ついでに「ヘビ」信仰は、世界各地で見られるもの、つまり神聖な自然のシンボルとしてごくありふれていたというわけなんですね。それを誘惑とサタンの象徴みたいに貶めたのは … 。

II. 「荒れ地」
Ch. 4 愛の死:
「アヴァロンは、古ウェールズ語の 'Afallen' [ アヴァレン ]、すなわち「リンゴの樹( afal=リンゴ )」と同語源である。かくしてこのケルト的な『波の下の島』と、ギリシャ・ローマ神話の『黄金のリンゴのなる幸福諸島( ヘスペリデス )』との類似性は明らかだ。さらには生と死の、ふたつの世界における偉大な女神の『常世の園』なる概念そのものとの類似性もまた浮かび上がる ―― そして、人類のさまざまな神話を検討してきた本シリーズがひじょうに数多くのページを割いて論じてきたのも、この偉大なる女神の『不死の園』についてなのだ。この『偉大な女神の支配する楽園』と同一の主題が、『永遠の生命の樹』とともに、先に挙げた、トルバドゥールの歌った『夜明けの歌( アルバ )』冒頭の詩節にさえ響く ―― その一節で、乙女はサンザシの樹の下、恋人をしっかと抱き寄せる。キリスト教の『ピエタ』は、死んだ救い主が聖母マリアの膝の上に抱かれ、後に蘇ることを表象する像だが、これもまたその意図された概念は同じである。アーサー王が 15 の深傷を負ったというのは、たんなる偶然と片づけてよいものだろうか。月もまた、15 日目に満月となり、再び欠けはじめ、死へと向かい、暗黒の3日間[ 新月 ]を経て復活する。さらには、瀕死の重傷を負ったトリスタンがオールもなく、虚しく漂流するにまかせた小舟で最初の航海を行ったとき、辿り着いた先はダブリン湾で、この舟は彼を確実にイゾルドのいる城へと送り届けたことになる。これもまた『波の下の国』の同一モティーフの紛れもなくひとつの変奏であり、イゾルド、湖の貴婦人、そして『ピエタ』における母なる女神が究極的に意味するところはみな同じ、つまり『光の息子』の支配する昼の世界とはあらゆる面でまるで異なる世界なのである( pp. 185−6 )」。以下、英チャーツィー修道院遺跡から出土したタイル画のイラストとともに、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク作『トリスタン』と、対応するヴァーグナーの楽劇との比較検討、そしてピカソの「ゲルニカ」と古代シュメールが発祥らしい、「太陽を象徴する[ 軍 ]馬」と作品に出てくるぺったんこな「張りぼて」の馬( と対峙する牡牛 )との関連について。オルテガの『ドン・キホーテをめぐる省察』の引用。p. 225 で、'... to place him in a coracle, equipped only with his harp, ... 'とあるのは、やっぱ革舟カラハでしょう( 辞書の挿絵なんかによくある、あの一寸法師の乗ったお椀みたいなやつじゃなくて )。

Ch. 5 フェニックスの炎:
トリスタン伝説を下敷きにした Finnegans Wake の対応箇所 → HCE と ALP、トリスタンとイゾルト etc., この世界におけるあらゆる対立物 → 「おお、幸いなる罪人!」と、Finnegans Wake の対応箇所 → 最初のアダムの堕落とそれにつづく第二のアダムの「覚醒」… は、ともにおなじアダム、われわれ人間ひとりびとりに他ならない → だが、キリスト教象徴に対するカトリックの聖職者たちの解釈と、ジョイスのそれとは天地ほども開いている。cf. Ulysses の対応箇所( 「フロリー・キリストよ、スティーブン・キリストよ、ゾーイー・キリストよ、ブルーム・キリストよ …」 ) → 異界の支配者マナナーン・マク・リルのくだり → HCE と ALP の「試練の床」、ユングの言う「夜の海の航海」、「左手の道」。
ユングの著書『転移の心理学』( 16 世紀の錬金術の書『哲学者の薔薇園』の挿し絵を材料にして転移現象を論じている )から、メルクリウスの泉などの一連の挿絵を引き、Finnegans Wake の「ジュート塚」=「肥え場」=「肥え山」と「ドーラン家のベリンダ」および作品の書き方との類似性の指摘( 当時の錬金術師もまた、自分たちの術を秘術として封印している ) → Finnegans Wake にさまざまに姿を変えて登場するジョルダーノ・ブルーノ → 「左手の道」は感覚、心といったものが直接、通う道で、理性や知性の通う「右手の道」と対置されている → エリオットの『バーント・ノートン』に出てくる「回転する世界の静止する一点」。
ユングによれば、これら一連の「レトルト容器内の化学的変容過程」は、じつは当事者の深層心理と深い関わりがある → 彼らは錬金術を通じて、彼らなりに、この世界を理解しようとした →「深層心理的であり、かつ表層心理的原初科学ないし疑似科学」。
8世紀にオマーン王子によってアラビア語で書かれ、12 世紀になってラテン語訳された錬金術本には 'Corascene Dog' という犬が出てくる → ゴットフリート本『トリスタン』に出てくる犬と、Ulysses で浜辺でスティーブンが見た飼い犬との相違点( イゾルトへの思慕と苦悶を癒やす犬、対して恐れを抱かせる浜辺の犬 ) → 『音楽の実践』挿画が暗示しているように、どちらもおなじ犬、かたやイゾルトを見て天上へと飛翔する精神状態、かたや奥底に沈潜する自身のエゴを見せられ恐れにかられる精神状態 → 作品のちょうど中心部分で「激しい雷鳴」が轟き、変化の始まりを告げる → エリオット『荒地』にも、雷鳴を表す擬音が出てくる → イエスの「ひと粒の麦」の譬え → ジョイスはこのがちがちに硬直化し、人間を互いに引き裂いている乾ききった不毛の「荒地」に轟く雷鳴 → cf. Ulysses 「第 15 挿話 キルケ」…
15 世紀の神秘家ニコラウス・クザーヌスの引用:「… 神にあっては、いかなる違いも存在しない」。

Ch. 6 バランス:
「トリスタン」伝説と、フィン・マク・クウィル( フィン・マクール )の若き妻グラーネとディアルミド・ウア・ドゥヴネの悲話とのつながり[ 太古欧州大陸の生贄として屠られる猪の神、猪がトリスタンの脛に負わせた深傷との類似性、「ドゥムジー−タンムーズ−オシリス」 ];ダブリンの丘に横たわる「巨人」としてのフィン・マクールの伝説 → 『フィネガンズ・ウェイク』;ディアルミドとグラーネの悲話と「トリスタン( イゾルト / マルク王 )」伝承が結びついたのは、ウェールズで、 11 世紀前にはそれがさらに拡張されたヴァージョンがブルターニュ半島へと伝わったらしい。
「トリスタン」つながりでは、日本のスサノオ伝説との偶然の一致についても言及( p. 303 脚注、トリスタンが恋人への目印として流した「小枝」と「箸」 )
「対立物の共存に至る扉」への道を知ること → 『フィネガン』全巻を通じてジョイスが「歌っている」こと(「歓喜と悲しみ、暴力と愛、男と女、剣とペン、損得、昼と夜[ ibid., p. 180 ]」) → トーマス・マン『魔の山』;個人を社会的束縛と奉仕、勲功によって評価するギリシャ神話とマルク王における昼の世界がもたらす悲劇、それに対するケルト神話や北方詩人たちの作品に見られる夜の世界やゴシックの森と海霧の世界では、ひとり、ないしはふたりの未踏の道をおそれず進む「気高い心」のみが静寂の中で聴くことができる歌が流れている。
『魔の山』→ ジョイス作品とは一見、正反対の主題を扱っているように見えるが … そのじつ技法的にはおなじだったりする( 示導動機[ ライトモティーフ ]、ニーチェとヴァーグナーの影響 )。
「神話の真の理解者は、学者ではなく、これら語り手の後継者とも言うべき詩人、芸術家たちだ( p. 309 )」;1902年、マンの短編『トリスタン』刊行、1903年、『トーニオ・クレーガー』刊行。1922年にジョイスの『ユリシーズ』が、ついで 1924年にマン『魔の山』が刊行;両者を比較すると、作品の「力点」は異なるが、ともにライトモティーフを効果的に使用していること、神話的主題が繰り返し現れること、ショーペンハウアーの言う「歪像鏡」に映じるようなバラバラになった像の手法を用いている。→ 霊的なものと地上的なもの、形而上的なものと倫理的なものとが交差する面とをすべて解消した者などいない →「イロニーは、異なる方向にとってともにイロニーであり、真ん中のものである。どちらにも属さず、どちらにも属するものである」→ ゴータマ・ブッダの言う「[ 苦楽 ]中道」… 。
カントの『学として現れるであろうあらゆる将来の形而上学のためのプロレゴメナ( 1783 )』;数式風に表せば、a:b=c:x → 「超越的存在に対する人間の位置づけ」を、西洋の正統的キリスト教世界の解釈に従って数式化すると、
                cRx
B.C. 6−8世紀、古代インドの哲人ウッダーラカ・アールニが息子に語ったことばされる「梵我一如[ 不二一元 ]」、つまり「汝はそれなり」で、数式化すれば、
                c=x
ただし、『マンドゥーキャ・ウパニシャッド』によれば、この状態に到達するには四つの段階があるという。→ なので現実的に見れば個々の人間と超越者との関係は、
                c≠=x
ショーペンハウアー式の解釈では、「c≠=x」は「意志としての世界」であるのに対し、「cRx」という「関係性の神話」は「イデアとしての世界」。ニーチェの語彙では、デュオニュソスとアポロンに対比され、古代インドにおいてはシヴァとヴィシュヌーの世界になる。
ゲーテ( ニーチェとともに、マンとシュペングラーに影響を及ぼした )による「4つの時代精神区分」→ 『魔の山』ではセテムブリーニがゲーテの言う第三の「哲学の時代」に、論敵レオ・ナフタが第四の「散文の時代」にそれぞれ対応 → デモクラシーとテロル → シュペングラーが指摘しているように、ある時代の頂点は、それを覆す動きが胎動を始めるときでもある → 啓蒙主義全盛時代のルソー(「自然に帰れ!」)、その中世( 13 世紀 )版のジャン・ド・マンの『薔薇物語続編』に出てくる「母なる自然」、および両者の主張の奇妙な一致とか → B.C. 4世紀の「犬儒派」ディオゲネス、古代インドのゴータマ・ブッダなども含めて、すべて時代の絶頂に出現している点が共通している。「外側から、そして歴史家の視点からは黄金時代に見える文明の一時代も、ひとたび内面からの視点に転じれば、それは荒れ地になりかねない( p. 389 )」。

III. 「道」と「生」
Ch. 7 磔刑:
アーサー王伝説の起源はケルト神話にあるが、ケルトの伝承の下層には、B.C. 7500−2500 ごろに欧州大陸各地に流布した新石器時代−青銅器時代の神話遺産群が横たわっている。cf. 「妖精の丘」、「波の下の国」、「常若の国」、「女人の島( アーサー王伝説の「アヴァロン島」)」に住む「偉大な女神」とその配偶神など。→ これらはみな、究極的には近東中核部における最古の農耕都市国家群から、著者言うところの「神話発生地域」から派生している。
鉄器時代の有名なケルト伝承、たとえばコンホヴァル王の二輪戦車を駆る戦士たち、フィン・マク・クウィル[ フィン・マクール ]率いる巨人なども、このもっとも流布した系統から派生したもの → 第二の「神話発生地域」は、現在の東欧から西南アジア地域にかけて → ベーダ( 吠陀 )、ホメロス、アイルランド神話に登場するこれら好戦的な神々、二輪戦車、戦いの賛歌も、もとをたどれば単一の、現在印欧語族と呼ばれる母体から生れたもの → ただし、インドとアイルランドでは青銅器時代初期の概念および神話体制が後年の戦いの神々にまつわる信仰を吸収していったのに対し、欧州大陸では逆に、好戦的な男性神と地域に根ざした豊穣を生む女神信仰との衝突・結合の結果、アーリア系の戦闘の神々によって代表される道徳および霊的体制が優勢となった( アルタミラ、ラスコーなど、狩猟中心の太古の時代の洞窟壁画 )。
「不具の漁夫王」について:聖杯伝説と漁夫王の背後にあるケルト神話群では、回転する車輪や城といった概念は必須の付き物である( p. 416 ) → 図版 48 の「ローマ属領ガリア時代の車輪を持つ神の像」の車輪の車軸数も6本 → これら車輪のイメージは、B.C. 700 年ころのインド『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』などに現れている → ギリシャ神話の「永久に回転する燃える車輪に縛りつけられたイクシオン」;ピュタゴラス( B.C. 582−500?)、ゴータマ・ブッダ( B.C. 563−483 )のころになって、それまでの「肯定的な」イメージが一変して、「妄想・欲望・暴力・死の燃えさかる車輪」という否定的イメージに取って代わられる → カミュの「シーシュポスの神話」に見る「不条理」→ 不具王の負った傷と回転する車輪のおよぼす苦痛は、存在それじたいの機能としての苦悩を認識する等しい象徴であり、たんにあれやこれやの条件下で偶発的に生じる類いのものではない( p. 424 ) → 十字架につけられたキリスト、苦しみ、かつそうではない「菩薩」と、炎の車輪に括りつけられ罪を償うイクシオンと「荒れ地」の不具の聖杯王 → 四者いずれも「その根源は関連性がある、いや、ある意味ではおなじとも言えるが、その意味するところはそれぞれに異なる。同一の実在に対する経験と判断の仕方、ないし表出の仕方が四者四様なのだ( p. 427 )」
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ作『パルツィヴァール』について;「聖杯」は「その石はラプジト・エクシルリースという」。つまり錬金術師たちの言う「哲学者[ 賢者 ]の石」とおなじもの。

Ch. 8 「聖霊」:
ヴァーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」は、エッシェンバッハの原典が大きなテーマとして掲げているもの / 重要な登場人物( コンドヴィラムルス )が出てこない。ヴァーグナーにとって「聖杯」とは、キリスト教会で伝統的な「十字架上のイエスの血を受けた杯」にすぎない( テニスンの『国王牧歌』も同様 ) → だが、これはエッシェンバッハの「原典」にはまったく存在しない。
「原典」中のパルツィヴァールは、「中世のスティーブン・ディーダラスと言ってもよいかもしれない」。対して、16 歳ほど年長のガウェインは、「ある意味、[ レオポルド・] ブルームになぞらえられるだろう」。以下、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ『パルツィヴァール』物語の要約と、合間に「間奏曲」として、「象徴の復権」、「神話の世俗化」、「神話発生地域」が挟みこまれた、ちょっと毛色の変わった書き方になってます。いずれも「アーサー王伝説」成立過程を中心に詳述。

IV. 「新しいワイン」
Ch. 9 「神」の死:
1630年;ガリレオへの異端審問、「ダンテとジョイスの時代のちょうど中間点」→ フローベニウス「記念碑の時代( 過去5千年 )」→ トリスタンと「聖杯」の詩人たち、クザーヌス、エックハルト、ダンテ、ヨハヒムらの「中世ゴシックの欧州」で花開いた新時代(「世界文化の時代」)。1339 年、「名前と形式という分野」に振り下ろされた「オッカムの剃刀」は、「形而上学を心理学へと変えた」。→ その反動としてたとえば『キリストに倣いて( c. 1400 )』など。神秘主義者クザーヌスの説教( 見方によってころころ変わる絵を引き合いに出しての神の認識に対する解釈 )
「新しい宇宙( 観 )」:「正統信仰」vs.「理性」、中世以来のキリスト教的世界観の崩壊;1115 年、アクィナスとほぼ同時代にすでにこの「崩壊」の兆候が始まっていた → 科学的手法による研究と、自然エネルギーを得て動く機械とが、さらに拍車をかける;ロジャー・ベーコン、ビュリダンの「インペトゥス論」、ニコル・オレーム … 対して、ルター、カルヴァンらの「宗教改革」者と、「対抗宗教改革」者は、立場はちがえど、ともに「迷信にまみれていた」点ではおんなじ。
1431 年 ジャンヌ・ダルクの魔女裁判と火刑 → その間、「大航海時代」;1492 年 コロンブス「新世界」発見、1519 年 マゼランの「世界周航」など;エラスムス『痴愚神礼讃』1511 年 初版刊行;
異端審問の嵐の時代、その時代の産物が、たとえば一連の「ファウスト」ものの「揺籃期本」群( 最初の本;1587 )、マーロウの戯曲『フォースタス博士』1604 年刊行
1600 年( ジョルダーノ・ブルーノ火刑 );ヘンリー・アダムズ、「人類史上における、宗教支配の時代から、機械支配の時代へ移行する分水嶺」
c. 1440 年、グーテンベルクの活版印刷術発明 …
「新しい神話へ向けて」;
1. 「生ける神話」の第一の機能は、「正しい宗教的機能」、ルドルフ・オットー「名前と形式を超越した、究極の神秘を認識したときに個人の内面に目覚める畏敬、謙遜、尊崇といった体験と、それを維持する」機能。
2. 科学的知見にもとづく宇宙観。
ジェイムズ・ハットン『地球の理論』→ 従来のキリスト教的な「若い」地球を化家具的に論駁;「現在露出している岩石層は、それよりも古い時代の岩石層の残骸の上に形成されているのがほとんどである」→ cf. ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』冒頭部、[ ヴィーコの ]「循環説」
3. かつての神話のような、「ある確定された秩序体系の正当化とその維持」なる機能はもうない → [ デューイのことばを引いて ]「個人は、それぞれ各々の存在である。」、「すべては移ろい変わる![ ニーチェ ]」、「汝 … すべし」という名のドラゴンはいない … が、そこにこそ危険が潜む。虚無主義、ニヒリズムのふたつの側面[ ニーチェ ];
積極的ニヒリズム:精神の高められた力が顕現したもの
受動的ニヒリズム:精神の力の凋落、ないし退歩

4. 以上のことから必然的に導かれるのは、「主体としての個人、そしてそれぞれの調和」を図る最適な神話像。ローレン・エイズリー:「集団倫理が個人倫理と異なるのは、名前も顔も持たないことだ … 時間世界では、みなただひとつの、かけがえのない生を営んでいる。それゆえ、『楽園』の神秘は自らの内面にこそ、求められるべきである( The firmament of Time, 1962 )」。

Ch. 10 地上の楽園:
B.C. 1500−1250、アーリア系諸部族がギリシャ、小アジア、ペルシャ、インドへと侵入したとき、彼らの原始的な「家父長神神話」が、もともとその土地に根付いていた「普遍的な女神」信仰と創造的に結びついた。インドにおけるプラーナ、ベーダーンタ哲学、タントリズム、後の仏教の教義などに影響を与える。ギリシャではホメロスやヘシオドス、悲劇、哲学、秘儀、科学として現れた。
おなじころ、中国大陸でも商( 殷 )が成立。近東では、フェニキア、カナン、アラビア人などセム系諸部族が大勢を占めていた → アスタルテ [ 古代セム族の豊饒と生殖の女神;フェニキア人、カナン人の神 ] について;ラングドン「西セム系部族では、母なる女神が、彼らにとってもっとも重要な地方神よりも、宗教上では高位の地位を与えられていた」→ が、祭司エズラの時代になると、こうした女神信仰は完全に廃され、「時代遅れな」古代シュメールの世界観とともに、「砂漠の一部族民のみに通用する神話」が書き記された( 他の女神信仰と混交した地域では、このようなことはなかった ) → 原始キリスト教団は、いわば「借り物の象徴と借り物の神を事実として提示していた … あらゆる地方神はみな悪魔であり、自然は罪だった」→ その後の「十字軍」などの反異端運動の失敗;聖アウグスティヌスの時代にも「ペラギウス派」が広まっていた。借り物の神は、過ち;『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』と『創世記』の「楽園追放」のくだりとの比較。
ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』は、「あるレベルで見れば、古代エジプトの『死者の書』のパロディでもある」。
→ 古代インド哲学における「人生の4つの段階」と、ダンテの『饗宴』 巻 IV に出てくる「人生の4段階」との比較。
トーマス・マン『魔の山』について;「マンは、ベルクホーフのサナトリウムを錬金術師の『ヘルメス容器』に明示的になぞらえている」→「ヴァルプルギスの夜」の描写とその後の雪山での遭難時に見たギリシャの風景と、ジョイス『ユリシーズ』15 挿話「キルケ」との比較。また、降霊会でハンス・カストルプが「明かりを点けた」のに対して、『ユリシーズ』のスティーブン・ディーダラスは逆にトネリコのステッキで「シャンデリアを壊した」。
ユングの言う「アーキタイプ[ 元型 ]」について;集団的深層心理の見る「夢」である → インドのシヴァ神には、陰と陽とが一体化した太古のイメージ。→ 図9の「イエス=オルフェウス−バッコス磔刑」は、そのヨーロッパ版で、十字架にかけられた贖い主に焦点が移っている → 関係性の神話、つまりcRx。これに対して菩薩、ボーディサットヴァは、「それぞれが、自身の知覚できる仏性という鏡写しとして認識する」、つまりc≠=x。
cf. 『ユリシーズ』の「フロリー・キリストよ、スティーブン・キリストよ、ゾーイー・キリストよ、ブルーム・キリストよ、キティ・キリストよ、リンチ・キリストよ…」

 … で、最後は以下のように結んでいます。
覚醒した意識の領域、つまり[ ゲーテの言うような ]固結した世界においてさえ、いまや永続するものなどなにひとつ存在しない。旧来の神話も持ちこたえられない。旧来の神もまた例外ではない。かつて人びとは何世代にも渡って基準となるひとつの固定的制度に過度に縛られた生を送り、神の寿命は何千年という単位で考えられてきた。だが現代はそうではない。基準という基準が押しなべて流動的になり、そのため個人もまた否応なしに自身の内へと突き返され、「成りて成る」みずからの内面へと、冒険の森へと入り道なき道を歩み、自身の誠実さをもって、知覚可能な自身の「聖杯城」へ至る体験に踏みこまざるをえない ―― そこでは自身の体験と愛、忠誠と行為における誠実さと勇気が試される。この内面の冒険の道案内を務めるのは、いかなる形態であれ、もはや[ バスティアンの言うような ]民族的基準にもとづく神話ではありえない。そうと悟ったとき、それらはたちまち過去の廃れた神話、場違いな神話と化し、洗い流されてしまう。現代にはいかなる境界線もなければ、いかなる神話発生地域もない。いや、神話発生地域は各人の心の中にこそ存在する。個人と、そこから自然に湧き起こる多元的共存の感情 ―― 神の衣をかぶらない理性的な世俗国家の庇護のもと、おなじ精神を有する男と女とが自由につながりあうといったこと ―― これこそ、現代世界においてもっともまっとうに開けた可能性なのである。めいめいがそれぞれに対する権威の創造的中心をなし、「周縁は存在せず、その中心はどこにでもある」クザーヌスの円の内にあり、各人が「神のまなざし」の焦点となる。
 だから、規範となるべき神話像は、[ バスティアンの言う ]「民族思念」( サンスクリットの deśi、「地域」 )ではなく「原質思念」( サンスクリットの marga、「道」 )を介して理解される。そのためには「聖ドミティラのカタコンベ天井画 ( 図1)」のように、ひとつの神話だけでなく、死んで固まった過去のシンボル体系を複数、「知的に使用する」ことである。そうすることで、はじめて個人は創造的イマジネーションの中心が自己の内面にやってくるのを予感し、それに息吹きを与えることができるようになる。そこからその人自身の神話が生まれ、「[ モリー・ブルームのように ]ええそうよ Yes 、だって … 」という人生の可能性が開けてくるかもしれない。しかしながらパルツィヴァールの場合と同様、最終的にはその内面の導き手となるのは自己の気高い心、ただこれのみであり、対して外界からやってくる導き手になるのは美のイメージ、神性の輝きであり、これがその人の心に「アモール」を呼び覚ます。これこそその人の本質のもっとも奥まったところにある種子、「かく成りて成った」道程を歩む「全存在」と同質の種子である。このような生を創造する冒険における成就の基準は、本書で取り上げ、検討してきたありとあらゆる物語に見い出される。それはかつての真理、かつての到達点、かつての教義が示した「意味」、そしてかつて約束された贈り物といった、過去のもろもろを捨てる勇気、つまり外なる世界に対しては死に、そして内面からの誕生へと向かうことである。( pp. 677−8)

 まあなんというか … やはり前にも書いたことながら、「あいつはユング派だ[ から、気をつけろ ]」みたいなことを言われる余地は、たしかにいっぱい(?)あるかもしれない。これも以前書いたことの蒸し返しになるけど、キャンベルは若いころ、シュペングラーの『西洋の没落』を読んで、「私は友人たちと座り込んでは、不気味な姿を現し始めたこの未来観について議論を交わし合い、どうしたらこれを論破できるのかを必死に考え、この危機に瀕した移行期にも『明るい』側面はないものだろうかと思いをめぐらせ」ていたそうです。** この点はワタシと正反対で、筋金入りの「ポジティヴな」人生観の持ち主だったんだろう、と思う。シュペングラーとともに首ったけになっていたのがレオ・フロベニウスで、この人はいまだに「正統な」学問分野からは事実上、無視されているような民俗学者さんだったみたい。キャンベル先生もまた、古プロヴァンス語の語形変化がどうのこうの … といった「たこ壺」的かつ指導教官にがんじがらめにされる、狭い意味でのアカデミズムがよほど性に合わなかったとみえて、「博士号を取るための研究」をあっさり放棄したそうな。

 キャンベルの「比較神話学」というのは … 昔見たビル・モイヤーズとの、あの歴史的対談番組「神話の力」以来、上述したようにとにかく博覧強記ぶりばかりが目についていたけれど、大震災以降、あらためて著作をつぶさに読んでいくと、いわゆる「頭でっかちな」学者先生、あるいは「専門バカ」とは、まるで対極にいた人だったことがわかってきた。つまり、すべてがご自身の人生体験から得られた教訓と分かちがたく結びついている、ということ。机上で、アタマだけで「思念をいじくりまわす」ことにはまるで関心がなかった人だった、ということです。げんにこの本にも、そういう「アカデミズム」の殻に閉じこもっている学者先生を批判する箇所が散見されますし。

 「おのれの至福についてゆけ」とか、ローマカトリックのような排他的かつ「外のどこかにおわす神」という発想ではなく、古代インドの奥義書などに見られるような、「汝がそれだ」、アートマンとブラフマンはもっとも深いところにおいておんなじだ、という神秘思想への傾斜も、自身の身体体験を通じて、自然とそうなっただけなんだろうな、という気がしてくる。人間、自然がいちばん、ついで物事の道理が通っていることがいちばん。キャンベルはただの根の明るい、いかにもアメリカ〜ンな性格の学者だったわけでなく、徹底的な合理精神と批判精神の持ち主でもあった、ようするに、人としての「バランス」が取れていたように思う( 反対に、徹底的にインバランスな人 )。「文は人なり」、書いたものを読めば ―― 外国語で、しかも内容が内容なので、誤読は避けられそうにないが ―― おおよそどんな考えの持ち主で、どんな性格の人なのかくらいは想像がつく。一見すると、「なんだ、ユング派か」だろうけれども、読んだあと、よくよく考えてみると、言っていることはやっぱりまちがってないよなあ … と。プロフェッサー・キャンベルが、生涯かけて読み解いてきた世界各地の「神話・伝承」、そして現代の担い手である芸術家( でも、なんでヴァーグナーだけなの? ベートーヴェンは? もっともシラーの「歓喜の歌」は引用されてはいたが[ 苦笑、正確にはニーチェ『悲劇の誕生』の孫引用 ])の手になる作品の「解読」にも、じつはひじょうに深い、深い「真理の一歩手前」の思想がある。キャンベルは太古のシャーマン、ケルトのバード( bard、バルド )、あるいはフィリ( fili )が現代に憑依したかのような、ストーリーテリングの名手として名高いけれども、すぐれた思想家としての業績もまた、もっと再評価されてしかるべきだと思います … ってあまりにも長くなってしまったので、本日はこのへんで( 書いてる途中、奇しくも「N響定演」ライヴにて、そのヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からいくつか曲が演奏されてましたね )。

* ... ジョイス『若い芸術家の肖像』、大澤正佳訳、p. 382.
** ... キャンベル『生きるよすがとしての神話』、飛田茂雄訳、p. 93.

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

付記:最近、またあらたにキャンベル本を買いました。これは、未発表の原稿および講演などから、世界各地の神話の「地下水脈」をなす、すべての母たる「女神」の神秘にまつわるお話を一冊にまとめたもの。そして、ふとした拍子に見つけたこちらの本も、気になっている … 立ち読みした感じでは、ユングとエリアーデも含めた「評伝」ものみたいですね。

posted by Curragh at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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