先日放送の「クラシックの迷宮」。言わずと知れた、故吉田秀和氏の「名曲の楽しみ」の後を引き継ぐかたちで始まったこの番組、案内役の片山杜秀さんの軽妙洒脱かつ幅広い知識・薀蓄いっぱいの楽しい解説( と、ときおり聞こえる鍵盤ハーモニカ )がいつもおもしろいんですが、今回のテーマ( フーガふうに言えば、主題 )は、ずばり「 B-A-C-H 音型」。
のっけのショスタコーヴィチ「交響曲 第10番 ホ短調 作品 93 」3楽章以降には、「 D-S[ Es ]-C-H 音型」なんてのが出てくるんですね! おなじくきのう E テレにて放映の「クラシック音楽館 / 第 1803 回N響定演」では有名な「5番」をやってましたが、ショスタコーヴィチも自身の「サイン」を作品に書きこんでいたとは。この作品は何回か聴いたことはあるけど、そういう事情があるとはつゆ知らず( > <;) 。
でも、つづいてかかったスヴェーリンクのオルガン作品(「幻想曲 SwWV. 273 」)にまで、なんと「B-A-C-H 音型」が出てくるとは !! こちらも寡聞にして知らず。で、片山さんは、先祖代々の音楽一家だったバッハ家のだれかさんと知り合いだったか、あるいはまったく偶然に、この「ふわふわとつかみどころのない」半音進行の妙というか、この半音音型のもつ可能性をおもしろく感じて曲に盛りこんだんじゃないかとか、そんな推測を披露してました。「サイン」つまり署名ということでは、シューマンのピアノ作品「アベッグ変奏曲」もそういう作品みたいです( シューマンの「 BACH による6つのフーガ」の「ヴィヴァーチェ」では、「いかにもシューマンらしい、ああでもないここでもない、オイオイどっちに行くんだ、いい意味でグダグダな音楽」という言い方には笑った)。
シューマンのつぎにかかったリストのオルガン作品のほうは、けっこう有名だからとくにどうということはなかったけれども( もちろんリストなんで、超絶技巧の塊みたいなとんでもない曲、ちなみにバッハつながりではこんな作品もあります )、驚いたのはプーランクの「バッハの名による即興的ワルツ」というピアノ小品。さすがプーランク! あの強面のカントル、バッハもかわいいアンナ奥さんと踊ってるような、そんな妄想が湧いてくるような洒落た作品です。プーランクつながりでは、おなじく日曜夜放送の「ブラボー! オーケストラ」のエンディングにかかるあの曲もじつはプーランクでして、「フランス組曲」の「シシリエンヌ」。音源は、たぶんこれだと思う。クラヴサンがチャンチャンと聴こえてくるあたりなんかとくに好き。でもリンク先記事によると、プーランクのオリジナルではなくて、一種の「編曲」ものなんですね。このあと「 B-A-C-H 音型」を使ってオルガン曲とか書いたのはレーガーとかブゾーニとかがつづくのは、片山さんの解説どおり。
プーランクの「 B-A-C-H 音型」は、片山さんに言わせれば、「ふたつの世界大戦にはさまれた時期、それまでの鷹揚で厚ぼったいロマン派から、ストラヴィンスキーの『バッハへ帰れ』のかけ声のもと、よりこざっぱりした、モダンで洒落た音楽」として書かれた一連の作品のひとつ[ またちょうどこの時代、いわゆる「新即物主義」がもてはやされたのも偶然ではないだろう]。つづくカゼッラの「バッハの名による2つのリチェルカーレ」も、「そんな野蛮なもの」。
ところが第二次大戦の影が迫ってきた 1930 年代になると、たとえばヴォーン・ウィリアムズの「交響曲 第4番 ヘ短調」のように、この ―― ワルツふうにも使われたりしたおなじ「 B-A-C-H 音型」が ―― こんどは「どこへ向かうのか定まらない不安、ないし強迫観念的に」、深刻度を増して使用される例が出てくる。この作品の4楽章後半、たたみかけるように出てくる「 B-A-C-H 音型」を聴いていると、たしかにあの当時に生きた欧州の人の言い知れぬ不安感、というか恐怖さえ感じられる。
シャルル・ケックランというフランスの作曲家の「バッハの名による音楽のささげもの」、これもはじめて耳にする「 B-A-C-H 音型」作品でした。片山さんによると、ナチスドイツ占領下、パッサカリアやコラールやフーガといったバッハ愛用の形式を使ってこつこつと作曲した作品。「20 世紀音楽の傑作であると思う」というコメント、まったくうなずくほかなし。ワタシはこの作品の抜粋を聴きまして、「 B-A-C-H 音型」それじたいよりも、バッハ音楽の持つ懐のとてつもない深さを感ぜずにいられない。フランス人ケックランが、当の敵国ドイツの大作曲家の名前を使ってこの作品を書いたというその事実だけでも、そのことを如実に物語っているではないか( ジョイスじゃないけど、真の芸術作品というのはそういうもの。あらゆる対立物のペアを超越する。くどいけれど、バッハ最晩年の大作「ロ短調ミサ BWV. 232 」が、その好例。だから、ルター派信仰のない日本人がバッハ作品に感動したってべつだん不思議なことでもなんでもないし、米国人青年が尺八に魅せられて来日して、尺八の師匠に弟子入りしたってちっともおかしくない。おかしいのは、「これは日本人でないと理解できない」、「外国人にはコラールが理解できない」という表面上の皮相なちがいだけで物事を判断するという愚のほう )。ケックランその人も、「 B-A-C-H 音型」に託して、切実に祈りつつ作曲の筆を進めていたにちがいない。おなじころ、吉田秀和氏は押入れに篭って、近所に音が漏れないよう蓄音機ごと座布団で覆って SP 盤を聴き、空襲のときは(「花子とアン」で、花子がでかい英英辞典と『赤毛のアン』原書を抱えて防空壕に避難したように )その SP 盤を抱えて防空壕に逃げこんでいた。
ケックランのこのバッハへのオマージュは、むしろいまを生きる人間こそ、居住まい正し、心して聴く必要のある作品なんじゃないかって思います( もっともこの音型じたいが内包する力というのも大きいとは思う。つまり、「不安と希望」のような相反する対立項を表現しやすい、という点において )。テロや戦争に対する言い知れない不安、強迫観念、不寛容、地に足つかず、ふわふわ漂って寄る辺ない感覚、温暖化など人間を取り巻く地球環境の変質 … そういう現代をこの「 B-A-C-H 」の4音はみごとに表出しているように感じる[ 注記:先日、再放送をあらためて聴取したので、元記事に若干の訂正を加えてあります ]。
2015年05月11日
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