補足1. こちらの拙記事の補足事項です。松村剛氏の論考「冥界往来 ――『聖ブランダンの航海』( 1991 )」の注釈によると、13 世紀古仏語散文物語『ペルレスヴォー Perlesvaus 』にも、似たような挿話が出てくるという( p. 70 )。それによると、「従者カユ Cahus が夢の中で小聖堂から金製燭台を盗んだため、黒い醜い男に刺されて、現実に死んでしまう。目覚めた瀕死の若者の体に凶器は刺さっていたし、夢に見た燭台もあった。夢と現実の混交する例」とあります。下線部、なんとなくラテン語版『航海』6−7章に出てくる「黒い[ 男の ]子ども」を想起させます。
『ペルレスヴォー』については、あいにくキャンベルの Creative Mythology その他著書では言及を発見できなかったけれども、クレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァル、または聖杯の物語』の「続編」として書かれた物語のひとつらしい。いつも行ってる図書館に、こういう本があったのをいまさっき発見したので( 遅 )、この項についてはまた後日に書き足すかも。
それはそうとして、問題は「馬勒( 「馬具の一部で面繋, 轡, 手綱から成る」とか英和辞書には書いてある、たとえばこういう馬具のこと )」。近代の洋式帆船ならともかく、ブレンダン院長一行が乗船しているのは、セヴェリンが 1970 年代後半に行った「再現航海」で使用したレプリカを見ればわかるように、せいぜいが全長 36フィート( 約 11 m )、全幅 8フィート( 約 2.4 m )の小舟。そこに、「遅れてきた3人」+ 14 人+ブレンダン院長と、これだけむさ苦しい( 失礼 )すし詰めな小型帆船で、「馬勒」を隠し持って乗りこもう、というのはちとムリがある。じっさいには「だれもいない島」の船揚げ場から乗船直前にブレンダン院長に看破されてしまい、その「遅れてきた3人」のひとりのこの修道士の「胸から黒い子どもが飛び出し」て、哀れなこの修道士はここで落命する。ここでわからないのは「馬勒」。太古先生の邦訳版では「銀打ちした手綱」となっている箇所です。
... frenis quoque et cornibus circumdatis argento.
... diaboli, infantem scilicet ethiopem, habentem frenum in manu ...
'Ecce, frater noster, quem predixi uobis heri, habet frenum argenteum in sinu suo, ...
... Cum hec audisset predictus frater, iactauit illum frenum de sinu suo et cecidit ante pedes uiri Dei, dicens : ...
ちなみにオメイラ現代英訳版( pp. 11−14 )では、
The house where they were staying had hanging vessels of different kinds of metal fixed around its walls along with bridles and horns encased in silver.
Saint Brendan saw the devil at work, namely an Ethiopian child holding a bridle in his hand ...
'Look, our brother whom I referred to a few days ago has a silver bridle in his bosom [ given to him last night by the devil ]'. When the brother in question heard this, he threw the bridle out of his bosom and fell before the feet of the man of God, saying : ...
馬勒ないし手綱を、「胸もと in sinu suo 」に隠せるものなのだろうか … たしかに『航海』にかぎらず、この手の物語にはいろいろ矛盾があったりするものなんですが( 17 章に出てくる謎の果実 scaltas / scaltis を絞った果汁を修道士たちに分け与えるとき、「12 等分した」とあるが、もちろんこれは辻褄があわない[ この時点でのブレンダンの弟子たちの数は 15 人 ] )。じつは校訂者セルマーは、もうひとつの解釈の可能性について言及している( p. 85, n. 27 )。それによると、「動物の首まわりにつける鎖状のもの」という意味の「ある古アイルランドゲール語」には、「人間の首まわりにつける鎖状のもの」なる意味もあり、文字どおり受け取れば「首飾り」、ネックレスということになる。銀の首飾りなら、たとえばトルクと呼ばれるねじれた形の装身具なんかも出土しているし、この場面で出てきても違和感はないから、ひょっとしたらこちらの意味で使われているかもしれない( セルマーによれば、悪魔を「黒い子ども」と表現するのは中世ではよくあったことだったらしい )。ついでながら「3人の余所者」については、「正規の」随行員がそろったあとで、「オレたちも乗せて〜!」と来た者のことだから、案外これって出処が「福音書」だったりするかも、とふと思った。12使徒で、しんがりに加わったのは、あの「ユダ」でしたよね。
補足2. こちらの拙記事にも書いたけれども、キャンベルのこの文章を読むまで、「神の側にもつかず、ルシファーの側にも与しなかった、どっちつかずの天使たち」のことをさして重要なモティーフだとは思っていなかった。でもよくよく考えてみると、これってけっこう、当時の人、とりわけアイルランド人にとっては重大な関心事のひとつだったように思えてきた。それというのも、キャンベル本によく出てくる「聖杯伝説群」を知るようになってからで、「聖杯」のアイディアも、もとをたどれば「グンデストルップの大釜」のような、「ごちそうが無限に出てくる『豊穣の角』」的なものだったし( 手許の『ケルト事典』の「聖杯」の項では、「今日知られている形の聖杯伝説はキリスト教中世の産物であり、ケルト語の伝承から借用されたものではない」とにべもないが )。で、この「どっちつかずの天使」ですが、拙記事で引いたキャンベルの講演にも出てくるように、なんとヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』に登場するからびっくりです。
[ 隠者トレフリツェントがパルツィヴァールに向かって言う ]… ところでルツィファーと三位一体の神が、互いに相戦ったとき、あの気高く立派な天使たちのなかで、いずれの側にも加担しなかったものが、この地上の聖石[ グラールのこと ]のもとに遣わされた。聖石は変わることなく清らかさを保っているが、神はふたたびこの天使たちをお許しになられたのか、それともさらに罰を下されたのかは私は知らない。けれど神は正しいことだとお思いになられて、天使たちをふたたび召されたもうた。そのとき以来神に召され、神のみ旨を伝える天使に迎えられた人々が、聖石に奉仕している。騎士殿[ =パルツィヴァール ]、グラールはこのようなものなのだ。お分かりかな」*
ついでに脱線すると、キャンベルがなぜこのエッシェンバッハの『パルツィヴァール』を高く評価しているのか、その理由は物語の大団円を迎える場面で、やはり「聖石」つながりで明らかになる。「叔父上、どこがお痛みですか」。この重大な質問が騎士パルツィヴァールの口から発せられた瞬間、「不具の漁夫王」、アンフォルタスを長年苦しめてきた激痛は癒やされ、「荒れ地」だった封土も回復し、パルツィヴァールは晴れてあたらしき聖杯王として即位する。「聖杯城」の大広間に乙女の行列が入ってきて、グラールがそのうちのひとりの手で運び入れられる。で、異母兄のフェイレフィースはかんじんのグラールが見えない( 代わりにグラールを捧げ持っている乙女のほうに心を奪われる )。なら改宗を、というわけで彼は洗礼を受ける。すると、グラールに文字が浮かび上がった[ 太字強調は引用者 ]。
そのとき聖杯に文字が読まれた。神により他の国々のあるじと定められた聖杯の騎士は、他人に自分の名前や素性を尋ねさせないことを条件に、その国の人々の権利の実現に力を貸してやるようにと、記されてあった。**キャンベルは、「 これが書かれたのは 1210 年で、英国貴族が『大憲章』を勝ち取る5年前のことです。『大憲章』は、諸侯がノルマン人の国王ジョンに対し、自分たちの権利を認めるよう要求した文書になるわけですけれども、ヴォルフラムの『聖杯城』では、他者の権利の宣言なんです。奉仕の契約を伴う文言、深い憐れみの文言であり、聖杯の祭儀に際してパルツィヴァールに求められたあの質問とおなじ精神的土壌から、つまり、『叔父上、どこがお痛みですか?』という質問とおなじところから湧き出しているのです」というふうにつづけてます。† この「中立な天使」、「鳥」の姿をとって出現しているのはどうもアイルランド特有の描写らしくて、ほかでは見られない、ということも前にここで書いたか、書かなかったのか、当人が失念しているが、いずれにせよこういう「中立な天使」が、『航海』にもひょいと姿を垣間見せていて、しかも聖ブレンダンとそのお供一行に対し、この航海が7年つづくこと、そののち「聖人たちの約束の地」へたどり着き、ふたたび故国に帰還すること( chap. 15 ) ―― この時点ではまだブレンダン院長の「唐突な死」については言及されない ―― を「預言」するという、きわめて重要な役回りでもあるので、当面の課題としたい。
* ... ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ著、加倉井粛之、伊藤泰治ほか共訳『パルチヴァール』郁文堂出版 1974, p. 251
** ... ibid., p. 427
† ... Robert O'Driscoll, edit., The Celtic Consciousness, George Braziller, 1982, pp. 28−29