2015年05月26日

「過ぎし春」⇒ 『ミリアム』⇒ 『殺し屋』

1). 先日の「きらクラ!」。最初のほうでグリーグの「過ぎし春」がかかったんですが、リスナーさんからの指摘によると、なんとこれほとんど「誤訳」に近い邦訳なんだそうです。原歌詞は、「これで春も見納め」みたいな内容なので、「最後の春」、「惜春」くらいではないか、とのことでした。うーむ。これに関連してふかわさんが、「日本人ってあんまり '往く春' を嘆いたりしませんよね」みたいな発言をしていた。「夏は、過ぎちゃったねとか、惜しむのに。春の場合、夏に対する期待度のほうが高いのかな?」。「過ぎし春」と訳した人は、なんか「夏の名残りのバラ[「庭の千草」の原題 ]」みたいな感覚で訳したのかな ?? 

 それはそうと、この手の誤り、ないし誤解を招く邦題表記ってほかにもあって … メンデルスゾーンの「無言歌」とか、ヴェーバーの「舞踏への勧誘」なんかもそのたぐいかな。前者は「歌詞のない歌」くらいの意味だし、後者は … 前にも書いたけれども、なんか保険の勧誘みたい。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」、これもなあ … 「ドイツ語によるレクイエム」なら許容範囲内なんだけれども。ご承知のように「レクイエム」というのはローマカトリックの「死者のためのミサ」で歌われるものなので、あまたある「ミサ曲」同様、ふつうはラテン語の典礼文。作曲者当人は、これはそうじゃないヨという意味もこめて、「あるドイツ語によるレクイエム Ein deutsches Requiem 」と名づけた … はずなので。

2). この前、だいぶ昔に買った翻訳指南書巻末に収録されている「翻訳演習問題」なるものをアタマの体操だと思ってやってみました。演習課題はふたつあって、そのひとつが『ティファニーで朝食を』のトルーマン・カポーティの鮮烈なデビュー作にしていきなりのO・ヘンリー賞受賞作となった傑作短編『ミリアム』冒頭部なのであった。翻訳にも得手不得手というのがあると思うけれども、小説、とりわけよく書けている短編作品ほど、意外とむつかしかったりする。ワタシにとって『ミリアム』が、まさにそんな短編で、どうせやるなら課題部分だけなんてケチなこと言ってないで全訳しよう、なんて意気込んだはいいが後半、物語がいよいよ暗ーい展開になってくると、小説作品特有の訳出のむつかしさとあいまって、精神的にかなりバテてしまったという、なんとも情けないことになってしまった。orz

 で、指南書の「訳例」のみならず、プロの手になる既訳書はどうなってんだろ、と思い、とりあえず2冊を図書館から借りて原文と突き合せて読んでみた。以下、三者の冒頭部分の訳を並べてみます。
A訳:
H・T・ミラー夫人がイーストリバーにほど近い改築した赤砂岩造りの快適なマンション( 二部屋キチネット付 )で一人暮らしを始めて数年が経っていた。夫人は未亡人で、主人のH・T・ミラー氏がそこそこの額の保険金をあとに残してくれていた。夫人の趣味の範囲はせまく、とりたてて言うほどの友だちもなく、角の食料品店より遠くへ足を延ばすことは滅多になかった。マンションのほかの住人は夫人の存在に全く気づいていない風であった。それというのも、彼女の着ているものはごくありふれていたし、髪の毛はグレーがかった白色で、短くカットし、無造作にパーマをかけているだけという具合だったから。それに化粧せず、顔だちは平凡で人目を惹かず、この前の誕生日で六十一歳を迎えていた。夫人は積極的に何かをするということは稀れで、二つの部屋を常に塵一つ無いよう几帳面に片づけ、時たまタバコを一本吸い、自分の食事をこしらえ、カナリヤの世話をするぐらいのものであった。

B訳:
ミセス・H・T・ミラーは、イースト・リヴァー[ ニューヨーク州のマンハッタン島とロング・アイランド島の間の海峡 ]に近い、リフォームされた褐色砂岩造りの気持ちのいいアパート( 二部屋にキチネット )に、もう数年ひとりで暮らしている。彼女は寡婦だった。だが夫がかなりの保険金を遺してくれた。彼女の興味は狭く、とりたてて友だちもなく、角の食料品店より遠くまで出かけることはめったになかった。アパートのほかの住人たちは彼女の存在に気づいていないようだった。着ているものはごくありきたりで、髪は灰色がかった鋼色で、短く切って、わずかにウェーヴがかかっている。化粧品は使わなかった。顔立ちは平凡で、目立たず、先の誕生日で六十一歳になっていた。自分からしたいことを何かしたりことはなかった。ふたつの部屋を清潔に保ち、ときどきタバコを吸い、自分の食事を作り、カナリアを一羽世話していた。

C訳:
ミセス・H・T・ミラーは、もう何年も、イーストリヴァーにほど近い、改築されたブラウンストーンの快適なマンション( キチネット付きの二部屋 )にひとりで暮らしていた。彼女は夫を亡くしていたが、夫のH・T・ミラーは彼女がひとりで生活していくのに困らない程度の保険金を残していた。彼女の生活はつましい。友だちというような人間はいないし、角の食料品店より先に行くこともめったにない。マンションの住人たちは彼女がいることに気づいてもいないようだ。服は地味。髪は鉄のような艶のある灰色で、短く切って、軽くウェーブをかけている。化粧品は使わない。容貌は十人並みで目立たない。この前の誕生日で六十一歳になった。彼女の一日は決まりきっている。二つの部屋をきれいにする。ときどき煙草を吸う。食事の支度をする。カナリアの世話をする。
 こうして並べてみると、音楽作品の演奏とまったくおんなじことが翻訳にも言える ―― おなじ原文でも、訳者が3人いれば3通りの、100 人いたら 100 の翻訳ができあがる、ということ。訳者によって、こうも奏でられる和音、テンポ、アーティキュレイションがちがってくるものか。こういう差は、やはりいわゆるノンフィクションものより、小説作品のほうが顕著に現れてくるように思う。ちなみに出だしの一文は、'For several years, Mrs. H. T. Miller had lived alone in a pleasant apartment ... ' と、ふつうは文末にくる副詞句がいきなり出てきて、それから主語・述語の順番になってます。これはもちろん作者の力点が for several years にかかっている、いわゆる倒置法になっているので、こういう原文の力点の位置はしっかり訳出しなくてはならない。音楽作品の演奏で言えば、作曲者の強弱の指示を的確に捉えてその通りに演奏する、ということとおんなじです。なので上記三つのうち、この箇所でもっとも原文に忠実なのは、A訳ということになります。

 もうすこし先、数年来のひとり暮らしをつづけているH・T・ミラー夫人が、たまたま手にとった新聞[ うちふたつの訳では「夕刊」となっているけれども、'afternoon paper' は厳密に言えば「夕刊」とはちがうものらしい ]の映画欄で見つけた近所の劇場でかかっていた映画のタイトルが気に入って、ふだんは着ないビーバー毛皮のコートを苦労して着て、居室の玄関口の明かりをひとつだけ点けっぱなしにしておいて、細かな雪が降る中、アパートメントをあとにする。映画館に着くと、すでに長い行列ができていて、最後尾に並んだ。で、原文はこうつづいています。
A long line stretched in front of the box office; she took her place at the end. There would be (a tired voice groaned) a short wait for all seats. Mrs. Miller rummaged in her leather handbag till she collected exactly the correct change for admission. The line seemed to be taking its own time and, looking around for some distraction, she suddenly became conscious of a little girl standing under the edge of the marquee.
下線部、A訳では「『どのお席も今しばらくの待ち合わせでございます』と疲れた沈んだ声がした」、B訳では「どなたもただいまの回の終了まで少しお待ちいただきます( と疲れた声がうめくように言った )」、そしてC訳では「行列のなかから、これはかなり時間がかかりそうだな、とうんざりしたような声が聞えた」となってます。

 自分も最初、この描出話法をA、B訳のようにとっていた … けれども、よくよく考えてみるとなんかヘンです。カポーティがこの短編を発表した当時、1940 年代のニューヨークの映画館って、たとえばこんな感じなんだろうけれど、切符売り場の売り子さんの声が、'a tired voice groaned' なんて聞こえるんだろうか? ミラー夫人が並んでいた最後尾って、劇場からどれだけ伸びていたのかな? すぐあとに、謎の少女ミリアムが、劇場入り口の marquee の端の下に佇んでいた、とある。だいたい観客のほうだって、いまの上映がハネる時間くらいおおよその見当はついているはずだし( このあとほどなくしてミリアムとミラー夫人は待合室に案内され、「今の回の上映終了まであと 20 分です」と告げられる。ということは、その前に待合室にいた客が今の上映を見ているあいだにミラー夫人たちの行列が入ってきて、待合室で今の回がハネるのを待つということだろうと思う )、売り子がわざわざもうすこし待ってくれ、なんて声をかけるのか ??? と思ったので、ワタシもC訳のように解釈しました … とはいえC訳も、なんでまた「改変」したのかなって思うんですけれども。「あともうすこしで入れ替えさ( と疲れたような唸り声が聞こえた )」くらいでいいんではないかな、と考えます。ちなみにこの箇所、念のため英国人のメル友にお伺いを立てたら、「並んでただれかさんの発言だと思う」とのお答えでした。

 さらにこの『ミリアム』、かつて出ていた大学のリーダーだかなんだかの註釈書の注にヘンテコなのがあったらしくて、ミラー夫人の亡夫の形見であるカメオのブローチを奪ったミリアムが、そのブローチを身につけたまま夫人が出したサンドウィッチをがつがつ平らげる場面で、
Miriam ate ravenously, and when the sandwiches and milk were gone, her fingers made cobweb movements over the plate, gathering crumbs. The cameo gleamed on her blouse, the blond profile like a trick reflection of its wearer.
とつづきます。で、下線部の注が、ある註釈書では「早撮り写真」となっていたとか(?)。文意は、カメオのブロンドの横顔は、少女の顔をトリックで映し出しているように見えた、ということ。


3). 飛田茂雄先生の著書『翻訳の技法』に、ヘミングウェイの短編『殺し屋』の一節が俎上に載せられてます。『ミリアム』同様、こちらも負けじと(?)いろんな訳者の方による邦訳が出てるんですが、ここで飛田先生が問題視したのが、つぎの箇所[ → 原文 ]。
"You talk too damn much," Al said. "The nigger and my bright boy are amused by themselves. I got them tied up like a couple of girl friends in the convent."
"I suppose you were in a convent."
"You never know."
"You were in a kosher convent. That's where you were."
さて下線部、「ほんものの尼寺[ いくらなんでも尼寺はないでしょう !! ]」、「ユダヤ教の修道院」、「ユダヤ人も OK の修道院」、そしてなんと「ゆすりの入る刑務所(!)」なんてのもあるんだそうです … 。で、引用者の飛田先生が示した訳は、「お清らかな修道院」。『ランダムハウス』を見ますと、「(1)適正の,ちゃんとした,正統な,公正な,合法[適法]の」とあります。

 さびれた田舎町のダイナーにやってきた殺し屋ふたりが、店番の十代の白人少年と厨房にいた黒人の調理人をぐるぐる巻きに縛り上げてしまう。それを見た殺し屋の相方が、「尼僧院のシスターカップルよろしく、こっちのおふたりさんはお楽しみだ」と品のない軽口をたたく。それを受けての 'You were in a kosher convent.' なんだから、たとえば「おめえはマトモな尼僧院にいたんだな。そうにちげえねぇ[ おっとこれは「きらクラ!」の真理平師匠の十八番でしたっけ ]」くらいじゃないのかなあ、と妄想する。なんでこういう解釈になったのか … は、ご想像にお任せします( 苦笑 )。convent は、やはり「女子修道院 / 尼僧院」にしないとまずいんじゃないかな。男の修道士が入るのは、『聖ブレンダンの航海』つながりでもさんざ見てきた用語の monastery なんだし [ もっともここは頭韻を踏んでいる感じなので、あんまり convent じたいにはこだわらないほうがいいかもしれない、軽口なんだし。「お清らかな」を使うとしたら、もうそのまま「お清らかなシスターを相手にしてたんだ。そうにちげえねぇ」のほうがパンチが効いているかもです ]。

 関係ないけど、このセクション直前のページには、「ポケットいっぱいの変化」なる珍妙な日本語表現が。??? と思ってみたら、なんのことはない、'like a pocket full of change' だった。もちろん「小銭じゃらじゃら」のほうですね。そういえば「小銭」と「転地療養」を引っかけた、マーク・トウェインの駄洒落だか地口だかを見たことがありましたねー。

付記:『翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり』、この対談本は、すごいです !! 文芸ものの書籍翻訳者を目指している方は、まずもって必読の「翻訳指南書」と言えませう。ワタシもページ繰りながら、『ミリアム』で雪の降るなか映画がハネるのを待っていただれかさんみたいに、うなってばかりいました。あ、そういえば「花子とアン」の村岡花子さんオリジナル訳版『赤毛のアン』では、シュークリームがなんと「軽焼きまんじゅう( !!! )」になっているとか。時代ですね。だれだったか「翻訳なんて、30 年ももてばいいほう」っていう名言を吐いた人がかつていた。またカポーティはあるインタヴューに、「ジョイスは『ダブリナーズ』が書けたから、『ユリシーズ』が書けた」と答えたんだそうです。

posted by Curragh at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学関連
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