2015年09月08日

「だけしか」⇒ 'your wife' ⇒ 健全な批評

1). もうだいぶ時間が経過しているけれども、『文藝春秋』を買いまして、今年の芥川賞受賞作品二編、楽しませていただきました。個人的には「流行りものは読まない( 苦笑 )」というモットーがあるんですが、率直な読後感としては、どっちもそれぞれ味があっておもしろいなあ、と。ラストの神谷さんのぶっとび(?)ぶりとか、「早う迎えにきてほしか」が口癖ながら、さらさらその気のない祖父さんと孫の( ちぐはぐな )やりとりとか、どちらもさすが、と思ったのでありました。

 でもってこれは内容ではなく、表記のことで気になった点がひとつだけ … 偶然にも、両作品には「 … だけしか … 」という言い回しが使われていて、引っかかるものがあったのも事実でした。
… 最初は神谷さんにまつわることだけしか綴っていなかったノートに、最近では漫才のネタや雑感までもが書き込まれ、もはや自分の日記のようにさえなっていた。――『火花』

… サロン代わりに通院している老人たちは一割から三割だけしか医療費を負担せず、…
――『スクラップ・アンド・ビルド』
だけしか、ねぇ。昔、文章教室みたいなとこで注意されたことに、まさにこの「だけしか」があったもので。もっとも「言語」というものは生き物、ナマモノなので、時代を経てだんだんに移り変わるもの。おそらくいまの若い読み手がここの箇所見ても、とくになにも感じずにすすっと先に進むと思う。ある意味、世代がわかる箇所、と言えるのかも。

 ついでに『火花』は、作中のコンビ名「スパークス」と引っかけているのかな、と思っていたら、こちらのブログ記事によると、又吉さん自身の以前のコンビ名も引っかけてあるらしい。小説の仕掛け、ってことかな。

2). この手の「文芸もの」、とくに散文で書かれた「小説」というジャンルは、翻訳という観点からもひじょうにむずかしいものであることはまちがいない( もっともこと外国語で書かれたものならどんな文書ドキュメントの類いでも、それぞれ骨を折る部分はたくさんあるけど )。たまたま時おなじくして、図書館からこういう本を借りて読んでいたら、キャサリン・マンスフィールドの短編 The Stranger( 1920 ) の一節が孫引用されていた。著者の故鈴木主税氏は、マッキベンの処女作『自然の終焉』をはじめ、ベストセラーになった『大国の興亡』など、ノンフィクション本やだれも手を付けないような(!)大部の著作をたくさん邦訳された大先生。引用されているのは、慶応大学教授だった鈴木孝夫氏のエッセイ『ことばの人間学』でして、こちらの鈴木先生は、
"We can't go quite so fast," said she. "I've got people to say good-bye to ―― and then there's the Captain." As his face fell she gave his arm a small understanding squeeze. "If the Captain comes off the bridge I want you to thank him for having looked after your wife so beautifully." Well, he'd got her. If she wanted another ten minutes ―― As he gave way she was surrounded. The whole first-class seemed to want to say good-bye to Janey.
の太字箇所がどうしても解せなかったんだそうです( ここは、前年に結婚した欧州大陸に住む長女を訪問する10 か月[!]の船旅を終えて帰ってきた妻 Janey を、やっとの思いで出迎えた旦那の Hammond 氏とのやりとり )。

 著者の鈴木先生は、「鈴木孝夫の英語力は、… とびきり優秀な日本人の水準をもはるかに抜いているそうだから、われわれ平凡な日本人が英語の文章の細かいニュアンスをどの程度まで理解できるのか、まったく心もとない話だ」と書いています( pp. 132 − 36 )。

 英語力に自信をお持ちの方、太字箇所をどう思われます? オチを言うと、「コロンブスの卵」的な話になってしまうんですけども … 不肖ワタシがここんところを読んだとき即座に思ったのは、いつぞやここで取り上げた The Da Vinci Code がらみの的外れな指摘だった。はっきり言って、この手の英文を正しく解釈する、読解するというのは、もう語学的にどうのこうのという話じゃない。感覚、いや直感としか言いようがない。でもってワタシはマンスフィールドの上記作品が収められている原本( Collected Stories of Katherine Mansfield, Penguin Books, 1981 )を図書館で借りて、ついでに現在入手可能な邦訳としては唯一ではないかと思われるこちらの本も借りて、じっくり読んでみた。するとたとえば、
Would she really not be long ? What was the time now ? Out came the watch ; he stared at nothing. That was rather queer of Janey, wasn't it ? Why couldn't she have told the stewardess to say good-bye for her ? Why did she have to go chasing after the ship's doctor ? She could have sent a note from the hotel even if the affair had been urgent. Urgent ? Did it ―― could it mean that she had been ill on the voyage ―― she was keeping something from him ? That was it ! He seized his hat. He was going off to find that fellow and to wring the truth out of him at all costs. He thought he'd noticed just something. She was just a touch too calm ―― too steady. From the very first moment ――
なんてことが書かれてあったり、このハモンドさんという人がどういう人で、どういう気持ちをわが愛妻 ―― だれの手にも渡してなるものか ―― に抱いていたのかがこの物語中、暗示されている箇所がそこここに見受けられます。とくれば、ここは奥さんがそんなダンナさんの心情をなかば見透かしたように your wife とことさら強調したのも、なるほどと思われるはずです。

 当方、この手の本が大好きなこともあって、前にも書いたけれども、手許にはキャンベル本の翻訳者、故飛田茂雄先生の『翻訳の技法』なんかもあったりします … でも最終章の「長文演習課題文」をよくよく見ると、ちょっと不適切というか、ナゾナゾのオチがわかるかわからないかで訳が決まってしまうような問題もあったりします( わが子にメスを入れられない外科医の「母親」の話とか )。こういう問題ないし限界は、どうしてもこの手の「翻訳指南本」にはつきものかもしれない。もっとも、「読めば読んだぶん、誤訳は減る」とは思うが、これさえアタマに入れさえすれば、いま目の前にひろげてある英語原文なり原本なりが正しく読めますヨ、なんてことはむろんありえない話で … 浜の真砂は尽きるとも、で[ ちょっと喩えがヘンか ]。Ninety Six を '96' と書いちゃったりする軍人さんだっていたくらいですし…。

3). こういう話を持ちだしたのも、どうも巷では「他人様の揚げ足取り」にすぎないことがあまりにも横行しているような気がするからでして … そういうあんたはどうなんだ、とくるかもしれないが、だれが見てもこれおかしいでしょ、ひどいよね、というものしか取り上げていない( はず )。少なくとも書いている本人はツマラン揚げ足取りはしていないつもりでいる。ここのところ「パクリ狩り」が流行っているようですが、しかるべき教養と知識を持った人がしかるべき批判ないし批評をするぶんならなんら問題はないし、どんどんすべきだと思う。翻訳がらみでは誤訳の指摘、ということがすぐ思い浮かぶが、上記の例にもあるとおり、どんな達人だってまちがえることはある。『愛するということ』改訳(!)者の鈴木晶先生はかつて、アフリカで kite が飛んでいる、という箇所を「凧」としたり、「麦畑で踊っても、麦の穂は折れない」という空気の精みたいな伝説的バレリーナの記述に出てきた corn を「トウモロコシ」とやって、舞踏史の専門家から「こんなことも知らない人がバレエの本を訳しているとは」とコキおろされたんだそうな(『翻訳は楽しい』pp. 130 − 31 ) [ 前にも書いたかもしれないが、飛田先生も似たようなこぼれ話を告白している。ロンドン地下鉄の意味の tube を「試験官」と誤記したゲラ刷りを見た校正者から誤訳の指摘を受けた、と ]。

 … さんざ揚げ足取りしておいて、「ほんとうの」問題の本質には目もくれず、「祭りだワッショイ」でハイおしまい、では、この国の言論空間はますます風化浸蝕に晒されるだけだろう、自戒の意味もこめて。

 というわけで、最後はひさしぶりに ―― いや、性懲りもなく? ―― 小クイズ。出典はこちらの本。米国の詩人 Galway Kinnell という人の書いた詩集から 'Farewell' の一節。これは本文で書いたような前後関係とか感覚とかはまったく関係なしに、文芸ものの翻訳者を志す学習者だったら一発で「正しく」読み取ってほしいところ。ちなみにこの本によると、邦訳では下線箇所がそれぞれ「手や顔を洗う」、「二、三人ずつ」になってたんだそうです。ちなみにオケが演奏していたのは、ハイドンの有名な「告別[交響曲第 45 番]」。
The orchestra disappears ――
by ones, the way we wash up on this unmusical shore,
and by twos, the way we enter the ark where the world goes on beginning.

posted by Curragh at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学関連
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