2015年09月28日

『マンスフィールド短編集 幸福・園遊会』

 村岡花子訳『王子と乞食』を取り上げてから、ずいぶん時間が経ってしまいました。気がつけばもう秋、スーパームーンの「十六夜」の満月を迎えてしまった( なんか欧州では皆既月蝕らしいけれど )。

 で、たまにはこちらのトピックもなにか取り上げようかと考えてたんですが … たまたま読んだ英米ノンフィクションものの名翻訳家、故鈴木主税先生の著書にも引用されていた、ニュージーランド出身でフランスで没したキャサリン・マンスフィールドの作品集からいくつか引くことにしました( なんか強引? )。

 邦訳は、『マンスフィールド全集』を除けば、新潮文庫に入っている短編集と岩波文庫に収録されている短編集、そしてちくま文庫に入っている短編集とがあるようですが、とりあえず今回はいつも行ってる図書館の書庫にこれまたたまたまあった岩波版を取り上げてみます[ 以下、参照した原書は The Collected Stories of Katherine Mansfield, Penguin Twentieth-Century Classics, 1981 ]。

 どなただったか、「翻訳なんて 30 年もてばよいほう」とか発言された大御所がおりましたが、手許の岩波版の邦訳[ 崎山正毅、伊沢龍雄 共訳 ]は初版刊行がなんと 1969 年 !! アポロ 11 号の月着陸の年じゃね。でもほんとうの「初版」はもっともっと古くて、1934 年 !!! 訳者曰く、「このたび、新しい版を出すおすすめを受け、伊沢龍雄君と分担して仕事にかかることとした」。

 で、さっそくもっと新しい『全集( 1999 )』本と併せて読んでみると、これが意外にも(?)こちらの思っていたほどには訳文の古色蒼然さは感じられず、むしろ『全集』よりもよいのでは、と思える箇所も散見された。これは比べ読みしたこっちもちょっとびっくりだった。
... And this was her corner. She stumbled a little on her way out and lurched against the girl next her. “I beg your pardon,” said Rosabel, but the girl did not even look up. Rosabel saw that she was smiling as she read.
 Westbourne Grove looked as she had always imagined Venice to look at night, mysterious, dark, even the hansoms were like gondolas dodging up and down, and the lights trailing luridly − tongues of flame licking the wet street − magic fish swimming in the Grand Canal. She was more than glad to reach Richmond Road, but from the corner of the street until she came to No. 26 she thought of those four flights of stairs. Oh, why four flights! It was really criminal to expect people to live so high up.

[ 中略 ]バスがロザベルの下りる街かどに着いた。彼女は、下りようとしてちょっとつまずき、隣りにいる娘の方によろめいた。「失礼しました。」と彼女はいったが、娘は顔もあげなかった。ロザベルは、彼女が本を読みながら笑っているのを見た。
 ウェストボーン・グローヴは、彼女がいつも想像しているヴェニスの夜のように、暗く神秘的に見えた。二輪馬車までが河をゆききするゴンドラのようであった ―― そのぶきみに尾を引く馬車の燈火は、まるで焔の舌が濡れた街路をなめているようで ―― 大運河に泳いでいる美しい魚にも似ていた。彼女は、リッチモンド・ロードに着いてなんともいえぬくらいうれしかった。しかし、街かどから二六番地に行く間、あの五階まで上る階段のことを考えさせられた。ああ、あ! 四つの階段! あんな高いところに人間が住むなんて言語道断だわ! 

―― 「ロザベルの疲れ[ 作品冒頭部、引用した原文はこちら。引用文中「大運河」に「グランド・キャナル」のルビ、pp. 12 − 13 ]」
 'I beg your pardon' というのがやはり時代を感じさせます( いまだったら ' I'm sorry ! ' がふつうだろう )。これは岩波版の冒頭に収録された短編で、しかもマンスフィールド 19 歳のときの処女短編でもある … 書かれたのはなんと 1908 年 !!  ジェイコブ・A・リースがニューヨークの「ばた屋横丁」のスラム街をマグネシウム粉を爆発させてストロボ焚いて撮影していた、そんな時代の作品なんであります。当時の「乗り合いバス」は、当然のことながらいま街なかを走ってるやつとはまるでちがう代物。馬車も現役だったころのお話です。
The Picton boat was due to leave at half-past eleven. It was a beautiful night, mild, starry, only when they got out of the cab and started to walk down the Old Wharf that jutted out into the harbour, a faint wind blowing off the water ruffled under Fenella's hat, and she put up her hand to keep it on. It was dark on the Old Wharf, very dark ; the wool sheds, the cattle trucks, the cranes standing up so high, the little squat railway engine, all seemed carved out of solid darkness. Here and there on a rounded wood-pile, that was like the stalk of a huge black mushroom, there hung a lantern, but it seemed afraid to unfurl its timid, quivering light in all that blackness; it burned softly, as if for itself.

ピクトン行きの船は十一時半出航の予定だった。暖かで、星のかがやく美しい夜であった。しかし、みんなが、馬車から下りて、港につき出ている「旧波止場」を歩き出すと、海面から吹いて来るかすかな風が、フィネラの帽子の下でパタパタして、片手を上げて、それをおさえなければならなかった。「旧波止場」の上は暗かった ―― まっくらだった。羊毛刈場、家畜貨車、そびえ立つ起重機、小さなずんぐりした鉄道機関車 ―― みんな深いやみのなかに、彫りもののように見えた。あちこちに、大きな黒い茸の柄のようなまるい棒杭の上に、ランプが釣ってあった。しかし、それは、あたり一面のやみのなかに、そのおずおずとふるえる光を広げるのをおそれているかのように見えた ―― それは、まるで自分だけのために静かに燃えているのであった。―― 「船旅 [ ibid., p. 177, 1921 ]」 → 原文
 ちなみにこのおなじ冒頭部、『全集』では、
 ピクトン行きの船は十一時半に出ることになっていた。穏やかな、星のきらめく、美しい夜だったが、しかし彼らが馬車から降りて、港の方へ突き出た旧桟橋に沿って歩き出した時には、水の上を渡ってくるそよ風が、フェネラの帽子の下の髪をそよがせ、彼女は手をあげて帽子を押さえた。旧桟橋の上は暗かった、まっ暗だった。羊毛置場、牛をのせた無蓋貨車、非常に高くそびえているクレーン車、小さなずんぐりした機関車、すべてが暗黒の塊で彫って作ってあるように思われた。ここそこの丸い材木を積み重ねた山の上に、それは巨大なキノコの茎のようだったが、ちょうちんがぶら下がっていた。しかしそれは全くの暗黒の中で、おどおどしたふるえる光を広げるのを恐れているように思われた。まるで自分だけのためのように、静かに燃えていた(『全集』p. 241 )。
 … いくらなんでも「ちょうちん」はないでしょう !! それと下線部は明らかにまちがい。前の拙記事でちょこっと触れたディ−キャンプの昔のファンタジーもの短編に 'The Hardwood Pile' なんていう作品もあったけれども、ここの [a] rounded wood-pile は「平たいものを積み重ねたもの」ではなくて、ただたんに水面に突き出す「棒杭( 安藤一郎訳の新潮文庫版では「木杭」 )」でしょう、船着場の風景でときたまお目にかかるような[ あとそれと「クレーン 」ってのもなあ … なんか船着場というより、工事現場みたいな印象 ]。てっぺんにランタンの灯りが乗っかっていて、それでキノコみたいに見えたのでせう。ああ松茸食べたい( 笑 )
... All the same, without being morbid, and giving way to−to memories and so on, I must confess that there does seem to me something sad in life. It is hard to say what it is. I don't mean the sorrow that we all know, like illness and poverty and death. No, it is something different. It is there, deep down, deep down, part of one, like one's breathing. However hard I work and tire myself I have only to stop to know it is there, waiting. I often wonder if everybody feels the same. One can never know. But isn't it extraordinary that under his sweet, joyful little singing it was just this ―― sadness ? ―― Ah, what is it ? ―― that I heard.

 ……とはいうものの、病的になったり、思い出して悲しみにくれたりしないでいても、人生には悲しいものがあるということを告白しなければなりません。それがなんであるかは申しあげることはむずかしいのです。私は、病気とか、貧乏とか、死とかいう誰でもが知っている悲しみをいっているのではありません。いや、それとはぜんぜんちがうものなのです。それは、人の呼吸のように、人についたもの、深い深いところにあるものなのです。私が一所懸命に働き、疲れ切って、仕事をやめると、それがすぐ待ちかまえているのがわかります。みなさんはそれと同じようにお感じになることがおありでしょうか。それはどうだかわかりません。それにしても、おかしなことに、あの子のかわいい、楽しい歌ごえのなかに、この …… 悲しさ …… が聞こえたのです …… もし悲しさでないとしたらそれはいったい何なのでしょう ……
――「カナリヤ[ ibid., p. 393, 1922 → 原文 ]」
 この掌編は、マンスフィールドの絶筆らしいです。今回、ひょんなことからまたしてもジョイスと同世代、しかも「意識の流れ」系に入る( と思う )マンスフィールド作品を原本と邦訳本とのあいだを行ったり来たり、自分なりに味わいながら読んでみたんですが、とくにこの最後の作品なんか、もうすばらしいですね。とても味わい深いというか … 崎山先生にご指名されたもうひとりの訳者、伊沢先生による「解説」に、「彼女の作品は物語性が稀薄である。プロットらしいプロットもない( p. 401 )」なんて書かれてあるけど、ワタシはこういうのがけっこう好きときている。

 原文は同時代の、たとえばジョイスの『ダブリナーズ』なんかに比べればはるかに難易度は低い。とはいえ、「解説」にもあるように、「デリケートな彼女の文体は、一見易しいようでいて、その陰影を日本語に移すことは難しい」。ま、とくに文芸ものの翻訳は大なり小なり「日本語に移すことはむずかしい」んでしょうけれども。『全集』よりは全体的に出来が上、と判断した岩波文庫版ではあるけれど、最新のちくま文庫版とかも見てみないとそのへんなんとも言えない。とはいえ、マンスフィールドのように邦訳本が複数刊行されている原作の場合は、「手に取って選ぶ楽しみ」というのがあるわけだから、それプラス原文も味わうというのが、けっこうぜいたくな読み方なのかもしれない。いみじくも岩波文庫版「解説」が、次のように書いてあるように。
翻訳はどのようにしようと所詮完璧なものになり得ない。彼女の文章には難しい単語が比較的少ないので、特に若い方々が、原文で一篇でも味読していただければ、この翻訳が原作への架け橋となれば、訳者として何より幸いである。

posted by Curragh at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 名訳に学ぶ
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