使用音源は、ハルモニア・ムンディのこの音盤( しっかし NML ってすごいな、こんな新録音までライブラリーに入ってるとは … )。カウンターテナーのダミアン・ギヨンさんて、たしか 2009 年の LFJ で教会カンタータを歌っていた歌手じゃなかったかな。あのときの指揮者はお名前は失念したが、本業がヴァイオリニストの方だと思った。この「ケーテン侯のための葬送音楽」はうまいぐあいに四つの部分に分かれているから、一日ひとつずつ聴いていく、ついでにオルガン作品もね、みたいな構成だった[ → 参考までに磯山先生のブログ記事 ]。
で、今回、カギとなるのがどうもフォルケルによる『バッハ伝』の記述だったので、幸い、いつも行ってる図書館に岩波文庫版[『バッハの生涯と芸術』]があったので借りてきてまじめに通読してみる気になった( 苦笑 )。* フォルケルのこの評伝はその筋では超有名ながら、恥ずかしながらきちんと読んだことさえなかったから ―― 「 96 」の From Sundown to Sunup のときのように ―― せっかくのよい機会だからこのさい目を通しておこう、と殊勝な思いを抱いたしだい。磯山先生に感謝しなくては。
そのフォルケルによれば[ 下線強調は引用者 ]、
1723 年、クーナウの死後、バッハはライプツィヒのトーマス学校のカントル兼音楽監督に任命された。… アンハルト・ケーテンのレーオポルト侯は彼を非常に愛していた。それゆえバッハとしては侯に仕えるのをやめるのは、気が進まなかった。しかし、それから間もなく侯が歿したので、天命が彼を正しく導いたことを知った。彼にとって非常に悲しい侯の死に寄せて、とりわけ美しい数々の二重合唱をふくむ葬送の音楽を作って、それをケーテンでみずから上演した。で、そのすぐあとの「訳注」を見ますと、
その葬送カンタータは『嘆け、子供たちよ … 』BWV 244a であり、それのバッハ自筆の楽譜をフォルケルが所有していたが、のちに散佚した。むむむ … そうだったのか、遅かりし由良之助、寡聞にしてこの「葬送音楽」はまるで知らなかった。でもそうですねぇ、磯山先生のおっしゃるように、自筆譜ないし筆写譜が残ってさえいれば、レチタティーヴォはまちがいなくバッハの新作だったはずなので、だいぶ印象は変わってくるだろうな。第一印象としては、言い方はなんだかなあとは思うが、まんま「マタイ」のパクり( 失礼 )という印象が拭えない。でも、こういう「再現」の試みじたいは高く評価したいと思う。個人的には、これはこれでけっこう気に入ったので。そしてもちろん、作曲者バッハ本人にしても、いまは亡き愛する主君への文字どおり万感の思いをこめて上演したことは想像に難くない。ワタシは磯山先生がこの『故人略伝』の記述を引いて説明してくれたとき、なんかこう目頭がカーっと熱くなるのであった[ バッハがケーテンの宮廷に仕えていたのは、わずか6年間にすぎない ]。
11 曲から成るこの曲にバッハは、そのころ作曲していた『マタイ受難曲』BWV 244 から9曲を取り入れ、歌詞を書き換えて用いた。冒頭の合唱の音楽は、前に作った別の葬送カンタータ BWV 198 の中のものを用いた。またこの冒頭の曲はのちに『ロ短調ミサ』BWV 232 の冒頭の「キューリエ」に用いられた。
バッハの教会用の声楽曲は非常に数は多いが、右に見られるように、すでに作ってある曲を、組合わせを変えたり、歌詞を入れ換えたりして作り上げる例が少なくなかった。[ 以上、pp. 44 − 5 ]
ただ、磯山先生によると、この「再現演奏」をドイツのどっかで開いたら、聴衆のうち8名ほどが「気分が悪くなって」会場を出て行った、なんていうこぼれ話までついてました。うーん、たしかにドイツ人聴衆は当然のことながら母国語で聴いているし、なんてったってこれ「マタイ」の「転用[ パロディ ]」作品ですから、無理からぬ話かもしれない。
そそっかしいワタシは、てっきりいっしょにかかるオルガン作品も、なんらかの関係があるのかなんて期待していたけれど、これは先生の趣味で選曲されたものらしい。でも「パッサカリア BWV. 582 」が「バッハがまだ若いころの初期作品の傑作」というのは、いまだに信じられない人( ケラーはたしかケーテン時代の作品に分類していた )。最新のバッハ研究ではそうなんだろうけれども、あの老成した堂々たる8小節にもおよぶ低音主題といい、つづくフーガの展開といい、そして圧倒的なナポリの6の終結といい、どう考えてもこれがまだはたちになるか、ならないかの時代に作曲されたなんて思えない。いくら「天才」だったとはいえ( → BWV. 582 についてはこちらの拙記事も参照 )。ちなみにかかっていた音源のオルガンの響きもすばらしくて、気に入りました。どっかに売ってないかな?
* ... 訂正:当初、ワタシはバッハの次男坊 C. P. E. バッハらが書いたと言われる『故人略伝( 1754 )』と、フォルケルが彼らの証言にもとづいて 1802 年に出版した『バッハ伝』とをゴッチャにしてました。誤記をお詫びしたうえで、当該箇所を訂正しました m( _ _)m ちなみに岩波文庫版訳者先生によれば、バッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマンとカール・フィリップ・エマヌエルとのあいだには生後すぐ死亡した「双子の姉弟」がいた、とのことで、彼は正確には次男坊ではなく「三男坊」にあたる、ということもはじめて知った … 18 世紀当時のことなので、新生児の死亡率がひじょうに高かったわけですね。
BWV244aですが、近年、にわかに演奏・録音されるようになった作品です。
多分に商業的な意味もあるのでしょうが、バッハの消失作品で、なんとか音にできるのは、完全な歌詞が伝承されているこのBWV244aぐらい。
左手に指揮棒のピションのBWV244aは、Youtubeでも視聴できます(全曲ではありません)。弊ブログの下記の記事をご参照ください。
アンサンブル・ピグマリオンによるBWV244a
http://blog.goo.ne.jp/aeternitas/e/aa16b5a3c9ae9f26b0862e54b2b5b249
ピションのCDについては、下記の記事もあります。
「子らよ嘆け」 BWV244a
http://blog.goo.ne.jp/aeternitas/e/8913cbee5a2666461aebeff407b73f32
ラファエル・ピションのBWV244a復元演奏の原曲
http://blog.goo.ne.jp/aeternitas/e/2aee76e8f33ceb2c669b572150573f0c
さすがです、こんなにすばらしくおまとめになられていて … 情報提供、ありがとうございます m( _ _ )m
というわけで、『故人略伝』に関する史実誤認をしているようでは、ダメですねぇ、とこれは自分自身への戒めです。
そうでした、磯山先生も歌詞の作者はあのピカンダーだったことは、はっきりとおっしゃっておりました。ますます「マタイ」との結びつきが強く(?)感じられてきます。
ところで 2010 年あたりからにわかにこの BWV. 244 a の録音が増えてきた、とのことですが、… うーん、いったいなんででしょうねぇ … なにか理由でもあるんでしょうか。
ちなみに、BWV244とBWV244aとの転用関係は、旧全集BWV244の校訂者ヴィルヘルム・ルストが指摘したのが最初だと思います。かつては、BWV244は1729年初演と考えられていたので、レオンハルトがバッハを演じた映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記」では、登場順がBWV244aが先、BWV244が後になっていました。
レオンハルトのバッハ(!)、なるほど、転用関係が逆だったのですね。史実とちがってしまったわけですが、こういうのは仕方ないですね。
ところで、そのフォルケルの「バッハ評伝」、というより「バッハ讃」のもうすこし先を読むと、BWV. 198 という葬送カンタータについての訳注が書かれています( pp. 114−5)。で、これもまた寡聞にして、いや、勉強不足ではじめて知ったのですが、この作品のうち、「1、3、5、8、10 の5曲の音楽をバッハは 1731 年に成立する『マルコ受難曲』BWV 247( 散佚した )に用い、冒頭の合唱を、1728 年作のレーオポルト侯のための葬送カンタータ BWV 244a に利用した。更にまた、この合唱の最初の部分を 1733 年に書かれた『ロ短調ミサ』BWV 232 の冒頭のキューリエ[ キリエ ]に応用した」とのことでした。
にわかに興味を掻き立てられたので、さっそく NML で「マルコ」の復元盤を探して聴いてみようかなと思ってます。