2015年12月31日

「中心は、至るところにある」

 今年もついに大晦日を迎えることができて、まずは感謝、でもいろいろとくたびれることがつづきまして、少々精神的に疲れてもいる。こういうときは … 音楽だ !! というわけで OTTAVA Salone、ゲレンさんの回をただいま聴取中[ 右下コラム、長らく貼っていたチャロのゴガクルバナーに代わりまして、OTTAVA バナーに切り替えました ]。お! そうでした、今年はシベリウスイヤーでもあったが、バッハ生誕 330 年でもあったわけでした( タネーエフという人も今年が没後 100 年だった )。ってワタシはそれこそ年がら年中バッハを聴き、またへたっぴながらちょこっと弾いてみたり、楽譜を繰ってみたり、という生活を送っているので、あんまり実感がない( 苦笑 )。

 今年は気象観測史上、もっとも暑い年だったそうです … 台風の強大化、「半世紀に一度あるかないか」の異常降雨の増加、デング熱など熱帯感染症を運ぶ害虫の北上、そして最大規模と言われるエルニーニョ現象の発生 … ここ何年か、「いつまでも暑い、と思っていたら秋を通り越していつのまにか冬になっていた」、みたいなきょくたんな気候変化が当たり前になりつつある。日本の四季はいったいいずこへいったのか、みたいなことが日常になりつつある。クリスマスどきの異常な暖かさ、寒がりなんでこれはこれでありがたいけれども、気温変動があまりにも激しくて、ほんとうにこれが冬なのか? とむしろ寒気をおぼえる。

 エピキュリアンなワタシがこんなこと書くのは不適格かつ僭越きわまりないとは思うが、年が明けたと思ったらいきなり邦人2名が IS に拉致された、というとんでもない報道が飛びこんできた。IS については以前こちらで書いたとおりですけど、ああいう手合を見ていると、どうしても比較神話学者キャンベルのことばが思い出されてしまう。
… 「神は人間の知性で認識できる領域であり、その領域の中心はあらゆるところにあり、円周[ 境界 ]はどこにもない」… 私たちひとりひとりが ―― それがだれであろうと、どこにいようとかまわないのですが ―― 中心なのであり、その人の内部に、その人が知ろうが知るまいが、「自在な心」が存在しているのです。―― ジョーゼフ・キャンベル著、飛田茂雄ほか訳『生きるよすがとしての神話』、p. 280
 キャンベルという人は少年期、ローマカトリックの教えを受けていたが、欧州留学を経て大恐慌まっただなかの本国に帰国したとき、親類縁者に対して「わたしはカトリックの信仰を捨てます」と「棄教」を宣言したという。これが当時の米国北東岸の社会においてどれだけ衝撃的な事件だったかは、ちょっと想像するのがむつかしいかもしれない。とにかくキャンベル青年は恐れることなく棄教すると言ってのけたわけです。

 最近、あいにくこちらも絶版なんで図書館で借りて読了したキャンベル本『野に雁の飛ぶとき』という 1969 年に刊行された論文集をはじめ、今年もまた( ここには紹介してないが )いろいろ読みましたよ。もちろん気に入った CD や書籍は原則的にぜんぶ買う人なので( あまりにお高いものはさすがにちょっと考えるけれども )たとえば昨年の話だけど村岡花子の復刊されたエッセイ集も買い揃えたし、前にちょこっと言及した『岩城音楽教室』も児玉清さんの遺稿集『すべては今日から』も買ったり、そうかと思えば『ハムレット( いまごろ ?! )』、漱石の『草枕』、鈴木大拙師の『禅』なんかも買った。それとこちらも前に紹介したけれど、鴻巣友季子先生訳『風と共に去りぬ』新訳本も読み、それがきっかけでこっちの本へと脱線し … とはいえだいぶ前に買っておいて「積んどいた」本、ショーペンハウアーの『知性について』とかもいまだまともに読んでないし、キャンベル本にも出てきたハクスリーの『知覚の扉』も読了していない、というわけで年末年始、この時期恒例みたいな感じでまたしても悩ましいことになってしまった。以上、キャンベル本しか読んでないのか、というギモンに先回りして[ in advance ]釈明したしだい。

 話もどりまして、IS やかつてのオウムなどに引き寄せられる人についてはこちら側にいるわれわれも頭ごなしに否定していては、いつまでたっても解決にはつながらないし、今後もこういう過激思想に染まる若い人がつづいてしまうだろうと思う。彼らを操っている不届き者は徹底的に叩くべきとは思うが、では「砂漠の一神教」のどこが問題なのか。その問いに対するひとつのこたえが、↑ で挙げた『 24 賢人の書 Liber XXIV philosophorum 』に出てくるあのことばかと思う。なんでもそうだが、原理主義に凝り固まった人というのは、自分の信条( 信仰 )が絶対的正義、みたいなことを露ほどにも疑わない。疑わないから、他人様にそれを押し売りする。正月どきにやってくるなんとかの証人みたいに( あの人たちはなんでまた『聖書』を売りつけに来るんだろ … 当方だって「新共同訳」くらいは持ってますぞ )。
あなたとあなたの神とは、あなたとあなたの夢がひとつであるのと全く同じく、ひとつです。とはいえ、あなたの神は私の神ではありません。だから私にそれを押しつけないでください。各人がそれぞれ独自の存在と意識とを持っているのですから。( Campbell, op.cit., p. 169 )
 その点、中世初頭のアイルランドでの「改宗」事情は欧州大陸とは大きく異なっていた。アイルランドでは一滴の血を流すことなくわりとすんなりキリスト教化されたのは有名な話、聖パトリックが実在の人物だったかどうかはさておいて。ひさしぶりにケイヒルの『聖者と学僧の島』を読み返してみると、ヒントになりそうな一節がありました。「自分には確固としたアイデンティティなどなく、自分は、現実の残余として流れゆく液体にすぎない存在、もともと本質の欠落した存在なのだという思い[ p. 183 ]」。これだけではわかりにくいのでかいつまんで書くと、キリスト教到来前の古代アイルランド人は氏族間の抗争に明け暮れ、気まぐれで「移ろいやすい」特有の自然の持つ暗さ、恐ろしさを肌で感じながら日々を送るしかなかった。その証拠にアイルランドの古代神話に出てくる英雄も牡牛になったり鷹になったりあるいは海を渡る風になったりと変身しつづける、なんていうモティーフがよく出てくる。でも! もう恐れることはない、「いかにひどく、がまんのできないことであっても、かならずや終わりがくること … 神は謙虚な祈りにこたえて、道に迷いさまよう人たちに神の食物をあたえる」。それまでの「神」は、人間の首を要求した( かつてのケルト人氏族には首狩りの習慣があり、その名残りともいうべき意匠がたとえばシャルトル大聖堂とかにもレリーフとして刻まれている )。ようするに人身御供とひきかえに豊饒など、切なる願いを聞き入れた。それが(「旧約」のアブラハムとイサクの話のように )屠られる対象が人間から子羊へと変わり、そしてついには「神のひとり子」をアダムの子孫たるわれわれの「原罪」を贖うために十字架につけ、救済してくれた … というわけで、キリスト教って日本人にとっては「三位一体ってなんぞや」みたいな難解なイメージがつきまとい、悲しいことにそうした無知につけこむ連中もいるわけなんですが、当時のアイルランドに生きる人々にとっては文字どおり漆黒の雲間からさっと差しこむ強烈な「光明」のごとく見えたのは想像に難くない。ようするに「砂漠の一神教」の教えは自然の移ろいやすさから切り離されている安心感、そしてこういう論理の明快さ、わかりやすさが決め手になったんじゃないかって思わざるをえない。この「わかりやすさ」があったからこそ使徒パウロの伝道が功を奏し、結果的にそれまでの「地中海世界の多神教」は廃れてしまったんじゃないかって思うのです。当時の人々にとってはまさしくそれまでの価値観と時代、世界観の崩壊、「この世の終わり」を象徴する出来事だったんではないかと … もっともその変化はいっきに来たわけではなく、「気がついたらそうなっていた」のかもしれませんが。

 と、ここまでつらつら愚考していると、またしてもキャンベル本に出てくる引用箇所が思い出される。それは以前ここでも紹介したヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ作『パルツィヴァール』[ 加倉井粛之、伊藤泰治ほか共訳『パルチヴァール』郁文堂出版、1974 ]。この聖杯探求をめぐる壮大な冒険物語の結尾に、にわかに信じられないことが書いてあります。前にも引用した箇所だが、もう一度繰り返しておきます[ 下線強調は引用者 ]。
 そのとき聖杯に文字が読まれた。神により他の国々のあるじと定められた聖杯の騎士は、他人に自分の名前や素性を尋ねさせないことを条件に、その国の人々の権利の実現に力を貸してやるようにと、記されてあった( p. 427 )。
これスゴイことですよ、だって『大憲章 Magna Carta Libertatum 』発効の 5 年前にすでにドイツ人詩人にして騎士の著者がはっきり書き残しているんだもの。こういうこともみんなキャンベル先生に教えてもらった( → 関連拙記事 )。
… 新しい神話は、ある特定の「民族」のちょうちん持ちをするために書かれたものではなく、人々を目覚めさせる神話です。人間はただ( この美しい地球上で )領地を争っているエゴどもではなく、みんなが等しく「自在な心」の中心なのだと気づかせる神話です。そのような自覚に目覚めるとき、各人はそれぞれ独自のやり方で万人や万物と一体となり、すべての境界は消失するでしょう( ibid., p. 281 )。
 … と、『フィネガンズ・ウェイク』よろしくここまで「忍耐強く[ cf.「さあて、忍耐だ。忘れてはならん、忍耐こそは偉大なるもの ( 柳瀬尚紀訳、I 巻 p. 209 )」 ]」読んでくださって妄評多謝であります。m( _ _ )m 今年最後は … やはり大バッハに登場してもらいましょうか。今年、何度となく、胸中に響いていた旋律と歌詞です。
Dona nobis pacem.
われらに平安を与えたまえ



posted by Curragh at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など
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