案内役の大塚先生によると、フローベルガーとヴェックマンは 1645 − 53年のあいだ、ドレスデンにて夢の鍵盤楽器対決 !! をしたらしい。ってこれってどっかで聞いたような … そう、ドレスデンで音楽対決、というと、すぐバッハ vs. マルシャンを思い出す。こちらは 1717 年 9月、ヴァイオリン奏者にしてドレスデン宮廷楽師長ヴォリュミエに招待されたバッハがいそいそと行ってみたものの、当地に着いたら当の対戦相手マルシャンは不戦敗? を決めこんでさっさと帰国したあとだった。けっきょくバッハ氏のワンマンショーと化した … らしい。へぇ、ほぼ 70 年前にもやはりおなじドレスデンにてそのような「夢の対決」があっただなんて。
でもこれってあとあとのオルガン音楽発展を考えるとすごく重要な史実だ、と思い、さっそく図書館へ。あいにく音友社『新訂 標準音楽辞典』には記載がなかったが、平凡社の『音楽大事典』のヴェックマンの項目には「 … ドレスデンに戻り、ここでフローベルガーとの競演が行われた」とはっきり書いてあった( フローベルガーの項目にも「 … ドレスデンでヴェックマンと競演し、親交を結んだ … 」との記述あり )。
これがどうして大事かって言うと、北ドイツ・オルガン楽派を汲むヴェックマンと、南ドイツ流派のフローベルガーが互いの作品や情報を交換したことで、ふたつの大きな流派の作風が融合したってことです。やがてこれが大バッハのオルガン音楽へと流れこむ。オールドルフで教会オルガニストをしていた長兄ヨハン・クリストフの許に引き取られたバッハ少年、この長兄からはじめてクラヴィーアの手ほどきを受け、あッという間に課題曲を弾きこなしたものだから練習する作品がなくなった。そこでバッハ少年は、兄ちゃん秘蔵の楽譜が見たくてしようがない。ところがケチ[ 失礼 ]なクリストフ兄ちゃんは「まだアンタにゃ早すぎる !! 」とどうしても許可してくれない。しかたないから夜、みんなが寝静まってから、鍵のかかった格子戸の隙間に手を突っこんで楽譜を丸めて取り出し、月明かりのもとで(!)写しとった。後日、これがバレてしまい、せっかくの苦労の結晶も兄ちゃんに没収されてしまった。このとき写譜したであろう楽譜こそ、パッヘルベル、ケルル、そしてフローベルガーらの鍵盤作品だったと言われてます。
やがて長兄の家を去り、リューネブルクの聖ミカエル教会の聖歌隊学校に入ったバッハ少年は、学校から歩いて数分のマルクト広場に面した聖ヨハネ教会オルガニストだったゲオルク・ベームの教えも受けたことが確実視されてもいる。* この人はスヴェーリンク、シャイト、シャイデマン、ラインケン、トゥンダー、そしてヴェックマンといった北ドイツ楽派の流れを汲む巨匠のひとりだったので、この時点で早くも若きバッハは南と北のオルガン音楽流派を体得したことになる。1703 年、弱冠 18 歳の若きオルガニスト・バッハは破格の待遇でアルンシュタットにできたばかりの聖ボニファティウス教会( 新教会 )の、しかもできたてホヤホヤのオルガンの奏者として赴任。このアルンシュタット時代にかの有名な「夕べの音楽」を聴きにはるばる 300 km 以上もの道程を歩いて( !! )ハンザ同盟都市リューベックのブクステフーデ師匠を訪問することになります。こうしてバッハはフローベルガーらの流派からはフレスコバルディなどを源流とするイタリアの鍵盤音楽、ブクステフーデやベーム、ラインケンなどからはヴェックマンを含む北ドイツ・オルガン楽派の作品を学習したことになります。これにいわゆる「ヴィヴァルディ体験」と呼ばれる一連のオルガン / クラヴィーア協奏曲といった編曲もの( マルチェッロの有名なオーボエ協奏曲のクラヴィーア編曲 BWV. 974 もあり )と、マルシャンなどのフランス音楽趣味も自家薬籠中の物としたバッハは、結果的に当時の全欧州の音楽の流儀を統合する方向へと進むことになり、「バッハ様式」とでも呼んでもいい高みへと登りつめることになります、って砂川しげひささんの『のぼりつめたら大バッハ』じゃないけど。
↓ は、ケラーの『バッハのオルガン作品[ 音楽之友社、1986 ]』邦訳書から転載( フローベルガーとヴェックマンを結ぶ実線、およびプレトリウスとヨハン・クリストフ・バッハ[ 父の従兄のほうですが … ]を結ぶ点線は、引用者が追加したもの )。
ついでに金曜の夜に見たこの番組、いやー、おもしろいですね !! というかなんとまたタイムリーな。ちょうどフローベルガーとヴェックマンのこと書こうかな、なんて思っていた矢先だったので。「教会カンタータ BWV. 82 [ シメオンの頌、いわゆる Nunc Dimittis が主題 ]」の有名なアリアの「ラメントバス」音型とか、「ジーグ」の話とか( 富井ちえりさんという英国王立音楽院大学院に留学されている方の BWV. 1004 の演奏はすばらしかった、そして使用楽器は 1699 年製ストラド !! )、話しているのが王立音楽院副学長なんだから当たり前だが正確かつ当を得た、そして比喩を交えたとてもわかりやすい講義でとてもよかった … だったんですけど、視聴していておや? と感じたのが、いまさっき書いたばかりのバッハのアルンシュタット時代の不名誉な逸話についてのお話のところ。夏のある日、広場のベンチにバッハが座っていたら、「禿頭のバッハ[ ガイエルスバッハ ]」という渾名の教会聖歌隊ファゴット吹きの学生に呼び止められてケンカになったという有名なあの話。バッハは「ナイフ」を抜いて応戦した … ってアラそうだったっけ、砂川さんの本のイラストにもあったように、たしか腰に下げていた礼装用のサーベルを抜いてチャンチャンバラバラじゃなかったっけ、なーんて思ったので、さっそく本棚からシュヴァイツァーの『バッハ』上巻を繰ってみた。そしたら、「 … 彼[ バッハ ]は合唱隊員たちや、その指揮をしていた生徒と非常に仲が悪かった。リューベック旅行の前には、彼とガイエルスバッハという生徒とのあいだにとんでもない一場があった。ガイエルスバッハは、バッハに罵倒されたというので、街上で杖を振上げてバッハに殴りかかった。バッハは短刀を抜いた」。† もうひとつ『「音楽の捧げもの」が生まれた晩』を開くと、
教会の記録によると、ファゴット奏者の学生ヨハン・ハインリヒ・ガイアースバッハがマルクト広場で帰宅途中のバッハの行く手をふさぎ、自分の演奏をやぎの鳴き声と比べたことについて糾弾するとともに、教師であるバッハを臆病な犬と呼んだあげく、棒で殴りかかったという。バッハはのちに、ガイアースバッハが先に殴りかかったのでなければ、間違っても短剣( 血気盛んな人間の多かった当時は、みな普通に持ち歩いていた )を抜くようなまねはしなかったと述べている。教会の説明によると、「両者とも[ ガイアースバッハと ]一緒にいた学生がふたりを引き離すまでもみ合っていた」という[ p. 109 ]。
…「短剣」が、一部の人の頭のなかでは ―― ワタシも含めて ―― いつのまにか「腰に下げたサーベル」というイメージにすり替わっていたようです[ とはいえ「血気盛んな人間の多かった当時は、みな普通に持ち歩いていた」っていう但し書きだかなんだか知りませんけど、これってどうなのって思うが ]。いずれにせよ王立音楽院副学長ジョーンズ博士の言う 'he drew a knife ...' というのは、やっぱり dagger とかって言い換えたほうがよいような気がするが … それはともかく、事実関係はこまめに裏を取りましょう、という教訓でした。ちなみにバッハという人はたいへん控え目な人だったらしくて、自分の腕前をハナにかける、なんてことは生前なかったようです。敵前逃亡したマルシャンの鍵盤作品の楽譜も持ってて、弟子の前でよく弾いて聴かせていたらしい。なんと謙虚な、だがすこぶる貪欲な音楽家なのだらう !!
話をもとにもどして … フローベルガーと仲よくなったヴェックマン、互いの作品を交換するだけでなく、親友から学んだ南ドイツ流派の技法をさっそく取り入れた作品も書いており、そのサンプルとしてかかったのが「カンツォーナ ニ短調」でした。ここでは便宜上南ドイツ楽派として書いているフローベルガーですが、この人はいわゆるコスモポリタンでして、ローマで大家フレスコバルディの許で研鑽を積んだのち、パリ、ロンドン、ブリュッセルと巡ったあと、晩年を指揮者コンクールで有名なブザンソンにも近いエリクールで過ごしたらしい。この人の曲集に出てくるトッカータは即興的なフーガ部分を含み、これがやがては「トッカータとフーガ」形式へと発展することになります。そして若かりし日の先生のひとりに、以前ここでもちょこっと書いたオルガニストのシュタイクレーダーもいたというから、やはりつながってますねー。
ついでにヴェックマンのほうはなんと、ドレスデン宮廷にてハインリヒ・シュッツ門下の少年聖歌隊員だったという! シュッツの弟子だったんだ、この人。ちょうど 30 年戦争のころ、たいへんな時代を生き抜いた音楽家だったのでした。
* ... 椎名雄一郎さんのアルバム The Road to Bach の角倉一郎先生の書かれたライナーによると、「 … 2006 年にヴァイマルの図書館で驚くべき楽譜が発見された。それはバッハ自身がタブラチュアという記譜法で書き写したラインケン( ハンブルクのカテリーナ教会オルガニスト )のコラール幻想曲『バビロンの流れのほとりで』という有名な曲で、この手稿譜の最後には『ゲオルク・ベームの家で、1700 年にリューネブルクで記入』( Ā Dom. Georg Böhme descriptum a. 1700 Lunaburugi )とバッハ自身の手で記されている。しかもこの楽譜が書かれている紙の種類が、ベーム自身が日頃使っていた紙と同質であることも確認されたのである。この事実は何を語るのだろうか? もっとも自然な想像は、この楽譜を筆写したとき、バッハはベームの家の内弟子として同居していただろうということである[ p.2]」とのこと。
† ... アルベルト・シュヴァイツァー / 浅井真男他訳『バッハ 上』白水社、p. 149 、典拠はアンドレ・ピロによる。
追記:というわけで、先日いつも行ってる図書館にていくつかバッハ関連本漁ってみたら、「 … バッハは腰に差していた剣を抜いて … 」とか、『バッハ資料集』の引用として「 … バッハは剣を抜いて … 」とか書いてあった。日本語で「剣を抜いて」とくると、たいていの人は「短剣」ではなく、やはりサーベルのほうを連想するんじゃないかな。というか、短剣かはたまたサーベルか、バッハはいったいどっちの「武器」を手にしてガイエルスバッハと対峙したのであるか ??? そしてよくよく考えると ―― いや、よく考えなくても ―― 今年ってフローベルガーの記念イヤー( 5月 19 日で生誕 400 年、その前の 16 日はわれらが聖ブレンダンの祝日 )、そして生年不詳ながらもいちおうヴェックマンも、一部資料によればおない年生まれということになってます。ということで個人的には、今年はヴェックマン&フローベルガー全作品を制覇しよう !! と決めたのであった。