2016年06月11日

「ブランダン跳び」、「トリスタン跳び」、「聖マロ跳び」

 この前も書いたことなんですけど、「三保の松原」近くにある東海大学海洋学部の図書館地階に眠っていた「第 1 回 聖ブレンダン協会国際会議」紀要本( Atlantic Visions, 1989 )。拙記事ではマッカーナ先生による『聖ブレンダンの航海』成立に至るさまざまな要因ないし起源についての考察のことをご紹介したんですが、本を閲覧したときにいまひとつ食指をそそられるものがありまして、それがアングロ・ノルマン語版『航海』になんの前触れもなく登場する「ブランダン跳び」に関する論考。というわけで行きがかり上、またまたこの「ブランダン跳び」を取り上げることにします( 苦笑、以前書いた関連記事はこちら )。

 そもそもこれっていったいなんなの? という向きのために若干の説明を。8世紀後半ころに成立したとされるヒベルノ・ラテン語で書かれた『聖ブレンダンの航海』は、俗に「中世のベストセラー」と称されるほど欧州大陸で人気があったアイルランド聖人による航海譚だったんですけど( ラテン語散文版だけでも 125 もの写本群が現存 )、vernacular、つまり各国語に翻訳[ 否、「翻案」と言ったほうがいい ]された写本というのもこれまたけっこうな数が残ってまして、なかでもその代表格みたいなのがアングロ・ノルマン語で書かれた『聖ブランダンの航海 Le Voyage de Saint Brendan / Brandan 』。くわしいことは本家サイトのこちらにて書いてありますが、成立年代は一般的に 1120 年ころ * と言われてます。現存する写本は6つあり、ふたつは断片のみ。うちもっとも引用されているのが大英図書館蔵の「写本 A[ MS A, London, British Library, Cotton Vespasian B X (I), 14 世紀 ]」と言われるもので、総数 1,834 行のアングロ・ノルマン語韻文作品。「ブランダン跳び」の考察をしたビルバオのスペイン人言語学者と思われる先生( Dr M. I. Lemarchand )も言及しているように、おそらく朗唱、もっと言えば「歌って」聞かせるために書かれた作品だと思われます。作者は一般的にブノワと表記される、ノルマン宮廷に仕えていた(?)ベネディクト会修道士。

 でもって問題の箇所なんですが、ちょくちょくここでも引用させてもらってる、松村先生のこちらの論考の「訳注」によりますと、「ラテン語版の Saltus( 草原の意味 )を、ブノワは『跳躍』を意味するフランス語 salt に移しかえている」とあります。ちなみにこの salt は現代仏語では saut になります[ ソなんだ、というくだらないダジャレを言いたくなった人 ]。

 松村訳ではそこの箇所はどうなってんのか、というと[ 下線は引用者。ラテン語版『航海』では chs. 3−4 に当たる ]、
… ブランダンは大海原に向けて出発した、
そこにゆけという神の命令を聞いた者として
決して縁者のほうを振り返りはしない
より大事な場所にゆく決心を固めていた
陸地が続く限り進んでいった
足を止めるつもりはまったくなかった
とある岩までやってきた いま、平民が
「ブランダン跳び」と呼ぶ岩である
[ 原文は 'Or le apelent le salt Brandan' ]
この岩は海に向かってながくのび、岬のようであった
この岬の下に船着き場があり、
そこで海に川の急流が流れこんでいた
急流は小さく、たいそう細く、絶壁からまっすぐに流れ落ちていた
ブランダンより前にこの高台を
降りた者はいなかった、と思う

そこで彼は木材を持ってこさせ、
舟を作らせた( ll. 157 − 174 )

 Lemarchand 先生は、ここのところを「地の果て」の断崖絶壁から、文字どおり海に向かって「跳ん」でふわりと降り立ち(!)、革舟の建造にかかった、というふうに「解釈」してます。

 不肖ワタシはてっきりこの箇所を、実在のディングル半島ブランドン山の北西岸側とその直下の岬( ブランドンヘッド、あるいはブランドン入江と呼ばれている小港 )を指しているにすぎないとかんたんに考えておりました。でもまあたしかに「異界( 黄泉の世界、死者の国 )」への「跳躍」という、古今東西の神話や伝説に見られる普遍的パターンのケルト的反映、というふうにも捉えることはできそうです。でもたとえばいまのところの最新校訂本であるこちらの本の編者による注釈なんか見ますと、ラテン語版校訂本編者セルマーの注も引きつつ、「ブノワは、ラテン語版で少し前に出てくる<( ブレンダンの奇蹟の )野 saltus >」をこの場面に移したうえで、古仏語で『跳躍』を意味する salt に結びつけたように見受けられる」みたいなことしか書いてません。

 ビルバオの先生による考察はベルール作『トリスタン物語』に出てくる「トリスタン跳び」を引き合いに出すに留まらず、La Bataille Loquifer なるまるで知らない武勲詩に登場するという「聖マロ跳び( !! )」、果ては中世スペインの伝承に出てくるイングランド王リチャードの話( ムーア人から自軍を救うために騎乗したまま海に向かって跳躍した )、ヘスペリデス( ヘラクレスと金のりんご )、果てはダンテの『神曲』まで引っ張りだして、「地の果て」−「跳躍」−「神慮」−「不死」−「西の果て」という説を展開してます。ようするにブランダン修道院長は、ほかの中世の聖人たちの例に漏れず、彼岸と此岸、あの世とこの世を往還できる力がある人として描かれる必要があったために「地の果て」の絶壁から「目に入るのは海と雲だけ( ll. 213−4)」の世界へと跳んだのだ、と。当時はこうした「異界」の存在がいまほど不思議がられてもいなかったと思われること、また聖人伝やそれに類する書物の言及による真実の証明みたいな発想がわりとふつうだったこと、そして「この世の生はしょせん流刑のようなもの」と認識されていたことなどを引いて、「『地の果て』から跳躍すること、すなわち< ブランダン跳び >は最適かつ完璧な隠喩ではなかろうか」と結んでます( 蛇足ながらスペイン北部海岸沿いにあるビスカヤ県の県都ビルバオ市はバスク語圏なので、ケルトつながりでもある。『アイルランド来寇の書』に出てくるケルト人の祖先「ミールの息子たち」は、イベリア半島から渡来した可能性が高い )。

 もっとも、引き合いに出されている「トリスタン跳び」のほうは「あしたへ … 」、じゃなくて異界へジャンプ! といった含意はまるでなく、文字どおり敵陣から逃れるためにやむなく「飛び降りた」わけでして、その点はこの先生も断ってます。というわけで蒸し返しになるが、参考までにその「トリスタン跳び」のくだりも引用しておきます。

 一同がたどり行く道の途中、
とある岩山の上に礼拝堂があった。
それは岩山の突端に建てられていて、
海を見下ろし、北風に吹き曝されている。
内陣と呼ばれる部分は
一段と小高いところに位置し、
その先はただ絶壁あるのみ。

皆様がた、この岩山の中途に
大きな広い岩が突き出ていた。
トリスタンはいとも軽やかにそこへ降り立つ。
吹き上げる風が服を膨らませ、
まっしぐらに落下するのを防いだからだ。
コーンウォールの人々は今なおこの岩石を
「トリスタン跳び」と呼んでいる。
礼拝堂は人で一杯になっていた。
トリスタンは飛び降りる。
砂は軟らかだ。
膝まで砂にめり込んだ。
礼拝堂の前で待ち受けていた連中は
見事待ちぼうけ。トリスタンは逃げた。
神は大いなる情けをかけ給うた! 
大股で飛ぶように、彼は渚伝いに逃げ出す。
… ( ll. 915 − 961 ) **

 すばらしい考察だとは思うけれども、「フーガの技法」の詩編対応説よろしく、やや深読みのすぎる嫌いもなくはない。いや、テーマが「跳躍」なのだから、これくらいは許容範囲なのかな。

* … 原野昇 編『フランス中世文学を学ぶ人のために』p. xxvii による。本家サイトにも書いたように、成立年代は 1106 − 1121 年と推定される。

** 『フランス中世文学集 1 信仰と愛と』白水社、1990, pp. 174 −5. ベルール本『トリスタン』は、いわゆる「流布本系」と言われる系譜に属するもので、制作年代は 1170 − 90 年と推定されるが、物語の後半はべつの作者の手によるものとする説もある。

 なお Le Voyage de Saint Brendan については、電子テキスト本( !? )があることをついさっき発見( しかも現代仏語訳つき )! あいにくワタシは古仏語とかはわからないので、専門に学ばれている方は参照してみてください[ しかしそれにしてもすごいなここ、『ロランの歌( c. 1100 )』に『オーカッサンとニコレット( c. 1290 )』、中世に流行った『動物寓意集』まであるとは … ]。

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