2017年07月24日

ツタンカーメン王二題

 もう先月の話になるけど、こちらの番組について。「アルバレス・ブラボ写真展」で静岡市に行った折、いつもの癖で美術館とおなじ複合ビル内にある本屋にも立ち寄って、こんなおもしろそうな本も見つけた。というわけで、番組を見た個人的な感想とあわせて思ったことを書き出してみる。

 このドキュメンタリーの主人公はクリス・ノーントンという若い考古学者。さしずめ 21 世紀版ハワード・カーターといったところでしょうか。で、『ツタンカーメン発掘記( 筑摩書房刊、1966 )』は有名ながら、カーターが残した膨大なメモ書きやノート類はその後一度も科学的に検証されたことがない! おまけに王墓が発見されてから 90 年以上も経つというのに、ツタンカーメン王の死因も異常だらけのミイラの状態についてもなにひとつわかってないじゃないか !! というわけで、独自調査した結果報告みたいな構成で、2013 年の制作、というからもうずいぶん前の話です。

 じつはほぼおんなじ内容の記事がこちらにも掲載されてまして、番組でも取り上げられた「埋葬後のミイラの自然発火」について書かれています。もっともこの件に関してはカーターのメモ書きを見ないまでも、『発掘記』にも「 … ミイラも、ミイラをつつんでいる包み布も、危険な状態にあることが、ますますはっきりしてきた。ふんだんに注がれた香油の脂肪酸によるはたらきが作用して、二つながら完全に炭化していたのである[ 前掲書 p. 219 ]」とあるので、埋葬直後かどうかはべつとして、ゆっくり自然燃焼した結果であることは発掘当時も認識されていたことがこの記述からも窺い知ることはできるわけでして、個人的には「完全に予想外の新事実」とは思わなかった[ → こちらの新聞サイトにハリー・バートンの発掘記録写真をカラー化した画像が掲載されてます。最後の純金の人型棺が開けられたとき、ミイラの金製の両手に握られていた「王笏」と「殻竿」はすでに文字どおりの炭となって崩壊していた。ついでにバートンが使用したのはフィルムじゃなくてガラス乾板。おかげでいまなお鮮明な映像として残されている ]。

 もっとも「黄金のマスク」の耳たぶにファラオなのになぜか(?)ピアスの穴が空けられていたことや、ネメス頭巾と顔の部分が入念に接合されていた( つまりべつべつに作られていたものがあとでくっつけられたことを示す )ことなどの指摘は、たしかにそのとおりだし、とくに後者に関しては、マスクは「金無垢の一枚板の打ち出し」だと思いこんでいたものだから、なるほどそれはあるかな、と。

 また 1968 年にはじめてツタンカーメン王のミイラの X 線撮影が行われたときのメンバーで、唯一の生存者でもあるリヴァプール大学のロバート・コノリー教授の取材とかも興味深く見たけど、かつてはやった「暗殺説」の証拠として取り上げられた頭蓋骨内部の骨のかけらについて、「 … カーターが発掘中にミイラを分解した際に、ミイラの首の脊椎の骨が割れたものだと判明した」みたいなナレーションがついてましたが、正確にはミイラの検死解剖を執刀した解剖学者ダクラス・デリー博士のせいだろう[ これは日本語版ではなく、オリジナルが悪い ]。ただし傷つけた犯人はデリーではなく、古代のミイラ職人だったかもしれない。ジョー・マーチャント本にはそのへんの可能性もきちんと書かれてあって、やはりこの手の話は科学ジャーナリストが長期にわたって調べつくして書いた本を読んだほうがいいように思う。以前、古代エジプトものとくれば例のメディア大好き博士の指揮した CT スキャン調査なんかが思い浮かぶんですけど、だいたいにして TV ものは編集段階で恣意的にカットされたり、事実として確定していない事柄までさも既定事実のごとき表現で片付けられがちなので、参考ていどにするのはいいが、鵜呑みにしてはならないように思う。

 ツタンカーメン王は、そのもっともよい例、いや最悪の見本なのかもしれない。たとえば王の死因についても、以前は「暗殺説」が圧倒的に人気があって、その人気にワル乗りした米国人考古学者がほとんど妄想にもとづいて書いた本がベストセラーになったり、あるいはいまだに「ファラオの呪い」なんてのがまことしやかに語られたりする。ちなみに真っ先に呪われてしかるべきデリー博士なんか、その後 40 年は生きながらえて 1960 年代に亡くなっているにもかかわらず、「ミイラを調査した直後に死亡」なんていまだにホラ吹いてる本ないし記事があったりするから困ったもんだ。

 ツタンカーメン王の死因ですが、暗殺 → チャリオットからの転落死 → マラリア → 遺伝病による病死とまあ諸説紛々。数十年前の時代遅れな機械を使っての X 線検査から 2005 年の当時最先端のトレーラー移動式 CT スキャン装置による検査まで、ここまでやってもけっきょく決め手というか、ほんとうの死因がいまだつかめずというのが事実。ちなみに上記マーチャント本には、説得力ある仮説としてなんとカバ( !? )を挙げている。なんでもファラオってカバ狩りをたしなんでいたんだそうな。むむ、たしかにツタンカーメン王墓から出土した遺物にはそんな狩りを描写した櫃だったか、そんなようなものがあったにはあったけれども。*

 ジョー・マーチャント −− ちなみにこの方は女性 −− の本は、そのへんの事情も絡めて書いてあるので、「ファラオの呪い」の系譜や、ツタンカーメン王のミイラがたどった数奇な運命について知りたい向きにはもってこいだと言えます。もっともどっかのモルモン教徒の唱えたという「ツタンカーメン=モーセ説」だの、「ツタンカーメン=キリスト説」だのははっきり言って不要じゃないかと、読んでいて思ったんですけど …… なんでツタンカーメンのミイラの組織の一部がリヴァプール大学にあるのかについてもロバート・コノリー博士に取材しているから、そのへんの裏事情も知ることができて、こういうところはさすが、という感じです。

 ノーントン氏の番組では、チャリオットに轢かれたために死んだ、と主張している … なんかもうここまでくると個人的にはどうでもよくなってきた。ツタンカーメン王はもうそっとしておいてやったらどうなのか、とそんな気分にもなってくる。マーチャント本を読むまで知らなかったが、1968 年に X 線撮影のために第1の人型棺を開けて王のミイラを引っ張り出したとき、「 … 愕然とした。ミイラの体が、ばらばら状態になっていたのだ。…… ミイラの傷みぐあいは、カーターが加えた傷の規模をはるかに越えていた」。なんと第二次大戦の混乱に乗じて、最後までミイラに残っていた頭のバンドや「胸飾り」が消えうせ、さらには「両目はつぶれ、まぶたも睫毛もなくなっ」た[ → 現在の王のミイラの顔 ]。「胸飾り」と肋骨のほとんどがなくなっていたことは CT スキャン調査で明らかにされていたけれども、まさか賊が侵入したとは思ってなかったもので、これはいささか衝撃的だった。たしかにハリー・バートンが 1926 年に調査の終わったミイラを( ふたたび四肢を組み立てて )砂を敷き詰めた木のトレイに入れなおした記録写真と、いつだったかやめときゃいいのに王のミイラを保護するんだとか言って木のトレイごと墓の「控えの間[ 前室 ]」に移動させて「展示品」にしてしまったときに撮られた王のミイラの顔の画像と比べてみればそのちがいは一目瞭然。香油の注がれなかったミイラの頭は保存状態がよかったってカーター本人は書いていたんですけど、このぶんじゃほんと、マーチャント女史が心配しているように「現在の保存方法では、ミイラがさほど遠くない将来に、土にもどるのは避けがたいことのようだ」。ついでにマラリア説が出てきたときに言われていた「左足先の異常」についても、デリー博士の所見ではいたって正常だったってはっきり書いてある。

 以上、ノーントン番組とマーチャント本をかいつまんで書くとこんなふうになる。

1). ツタンカーメン王の健康状態はいたって正常で、目立った病変はない
2). 肋骨が人為的に切り取られた痕跡があり、心臓もない
3). なんらかの事故死( カバに襲われた? )、つまりまったく予期しない急死だった可能性が高い
4). 左足先の変形は死後に生じた可能性が高い
5). 左脚膝の骨折は生前のものか死後のものかは不明( 古代 DNA 調査は信頼性に欠ける )

 こうなると、小学生のころに読んだ『ツタンカーメン王のひみつ』に出てきた、「3週間の病の苦しみから逃れてわたしはしずかな眠りにつく」なんて王自身のことばというのは、真っ赤なウソだった、ということになる。いま目を皿のようにして『発掘記』を読んでいるところだけど、いまのところそんな記述は出てこない。創作 ?! 

 「事態にほとんど進展が見られないため、誰もが独自の仮説と好みにしたがって、さまざまな意見を披露するのも、避けがたいこと」とマーチャント女史が書いているように、この薄幸の若いファラオは死んで約 3,300 年後、カーターというひとりの考古学者によって墓を開かれて以来 90 何年、ある意味身勝手な後世の人間たちによって振り回されてきたようなもの( だいぶ前に書いたかもしれないが、ツタンカーメン王の石棺を保護していた四重の厨子の扉は指示書きがあったにもかかわらず、墓職人たちがあせっていたためなのか、ほんらい「西」向きに取り付けるはずが反対の「東」を向いてしまった。おかげで王は来世に行くはずだったのが、ふたたびこの世界に舞いもどってしまった )。墓だってそう。いつのまにか玄室の壁面にはいくつか四角い穴が穿たれているし、壁画の一部は発掘調査時に破壊されているし、今後も王家の谷を襲う洪水で水没する危険性もある。子どものときからツタンカーメン王にまつわる話はずっと好きだったけれども、もうこのへんで「ツタンカーメン産業」にファラオを巻きこむのはやめにしてほしいと最近、思うようになりました。それだけトシをとったということか。ついでにノーントン番組とマーチャント本、制作と出版がともに 2013 年でして、これはいわゆる「共時性」ってやつかもしれないが、なにかしら因縁めいていますな。

* ... ツタンカーメン王墓発見者カーターは『発掘記』で、野鳥やライオンなどの砂漠の動物を仕留める若いファラオの姿を生き生きと活写した調度品の数が多いことに触れ、「王のスポーツ好き、若い王者らしい狩猟熱の証拠もみとめられ」ると記している。では 墓内に 130 本も納められていた「杖」はどう考えればよいのだろうか? たしかにツタンカーメンの狩猟好きはじゅうぶん考えられる[ → カーターが例に挙げていた証拠のひとつ ]。でもひょっとしたらすこし歩行に難ありだったかもしれない[ 個人の感想です ]。カーターが例を挙げている小型厨子の「狩猟場面」は、若いファラオが「腰かけた姿勢で」野鴨を弓で射る瞬間を描写している。ほかにも杖をつく姿が浮き彫りされた櫃とかあるけれど、同時にチャリオットを駆って勇猛果敢に戦っている描写もあったりする。いずれが真の姿だったのかは「永久にわからないかもしれない[ ibid., p. 165 ]」。

posted by Curragh at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・考古学
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/180432582
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック