2017年10月16日

『浮世の画家』

 「名訳に学ぶ」、今回は祝ノーベル文学賞受賞カズオ・イシグロ氏、というわけで、『浮世の画家』を取り上げたいと思います。

 原作の An Artist of the Floating World ( 1986 )の邦訳を手がけたのが、キャンベル本の翻訳者としても知られる故飛田茂雄先生で、1988 年のこと。もうずいぶん前のことになるんですねぇ。当時、まだ若かった( !! )ワタシも神保町のタトル商会で初版本見かけたりしたもんですが、今回のノーベル文学賞をイシグロ氏が受けた、との報道に接したとき、まず頭に浮かんだのは当時、ちょっとしたもめごとになったことのほうでした。

 さる女性文芸評論家の先生が、原書と逐一対照したわけでもないのに「 … それなのに翻訳では原文とほど遠い日本語になっているのは残念」という趣旨の書評を書いたもんだからさあ大変。飛田先生はかなりアタマにきたらしく( いや、まっとうな仕事している文芸翻訳者だったらだれだって腹立つよ )、その根拠薄弱な書評書いた評論家に対して反論するという事態になった。

 … なんてこと思い出していたもんですから、つい若きイシグロ氏の書いた『浮世の画家』について書こうかと思い立ちました( 苦笑、参考文献等は最後に列挙しておきます )。

 まず冒頭部、原文と飛田訳をとくと見比べてみましょう( 以下、下線強調は引用者。「銀杏」と「梢」にそれぞれルビあり )。
 If on a sunny day you climb the steep path leading up from the little wooden bridge still referred to around here as "the Bridge of Hesitation", you will not have to walk far before the roof of my house becomes visible between the tops of two gingko trees. Even if it did not occupy such a commanding position on the hill, the house would still stand out from all others nearby, so that as you come up the path, you may find yourself wondering what sort of wealthy man owns it.

 But then I am not, nor have I ever been, a wealthy man. The imposing air of the house will be accounted for, perhaps, if I inform you that it was built by my predecessor, and that he was none other than Akira Sugimura. Of course, you may be new to this city, in which case the name of Akira Sugimura may not be familiar to you. ...

 このあたりには今でも< ためらい橋 >と呼ばれている小さな木橋がある。そのたもとから、丘の上までかなり急な坂道が通じている。天気のいい日にその小道を登りはじめると、それほど歩かぬうちに、二本並んでそびえ立つ銀杏の梢のあいだからわたしの家が見えてくる。丘の上でも特に見晴らしのよい場所を占めているこの家は、もし平地にあったとしても周囲を圧倒するほど大きいので、たぶん坂を登る人々は、いったいどういう大金持ちがこんな屋敷に住んでいるのかと首をかしげることだろう。

 いや、そんな家に住んでいるからといって、わたしは決して金持ちではないし、かつて金持ちだったというわけでもない。この家はわたしではなく、前の住人が ―― ほかでもない、あの杉村明が ―― 建てたものだと言えば、みんななるほどとうなずくのではあるまいか。もちろん最近この市に転居してきた人なら杉村明と言われてもピンとこないだろうが …… 。

 いかがですか。細かく見ると飛田先生の苦心のほどというか、技巧の冴えが見て取れるんじゃないでしょうか。不肖ワタシが最初これ見たときの衝撃は、けっこうなもんでしたね。

 まず気づくのは 'the steep path leading up from the little wooden bridge still referred to around here as "the Bridge of Hesitation' が独立した一文として書き出され、'on a sunny day' 以下がそのまま第二文を導き「 … わたしの家が見えてくる」と締めているところ。そして「銀杏」の前に「二本並んでそびえ立つ」が補足されてます。

 つぎの段落では、'the imposing air of ...' が地の文章に完全に溶けこんでいる箇所がとくに目を引きます。「銀杏の木」の補足訳とここの箇所はいずれも中村保男氏が指摘しているところでもあるけれども、このように訳出した飛田先生本人がこの冒頭部について書いているのですこし引用しておきます。
ここで語り手は、たぶん 60 代半ばの老人という設定になっている。いかにも老人らしい淡々とした語り口を再現しようと、私は次のように訳してみた。

 この界隈では今日でも< ためらい橋 >と呼ばれている小さな木橋を渡って急坂を上ると、そう遠く行かぬうちに、天候さえよければ、並び立つ銀杏の木の間から我が家の屋根が見えてくる。周囲を睥睨する丘の頂上に立っているこの家は、もし平地にあったとしても一際目立つほど大きいので、人々は坂を登りながら、いったいどんな金持ちがこんな屋敷に住んでいるのかと不審に思うだろう。

原文と同じく 2つの文から成る。ひとつの文が長いのは、わざと戦前の小説の調子をまねたからである。…

これを読んだ I 氏というベテラン編集者は、「これじゃいくらなんでも年よりくさ過ぎます。いつものトビタ調で訳してください。イシグロはまだ 20 代の作家ですよ。読者も若々しくてイキのいい訳文を期待しているはずです」ときびしい批判を下された。いや、若い作家がみごとに老人口調を操っているところに面白味がある、と反論したかったが、よく考えてみると、 I 氏のおっしゃるとおりで、こういうもったりとした文章は現代の若者好みではない。…… 翻訳調を少し表に出してみようと、こう改めた。

 もしあなたが天気のいい日に、この近所ではいまだに「ためらい橋」とあだなされている小さな木の橋のたもとから、急な坂道を登り始めると、そう大して歩かないうちに、二本のいちょうの木のあいだからわたしの家が見えてくるはずだ。見晴らしのいい丘の上に立っているこの家は、もし平地にあったとしてもひどく目立つほど大きいので、坂を登るあなたはきっと、いったいどんなお金持ちがこんなお屋敷に住んでいるかと疑問に思うだろう。

文章は相変わらず 2つだが、かなり翻訳文らしくなった。しかし、「あなた」という語りかけの口調はどうも日本人の耳にはなじみにくい。というわけで、また「あなた」を削り、小さな修正を加えた。

 天気のいい日に、この近所ではいまだに「ためらい橋」とあだなされている小さな木の橋のたもとから、急な坂道を登り始めると、そう大して歩かないうちに、二本のいちょうの木のあいだからわたしの家が見えてくる。見晴らしのいい丘の上に建っているこの家は、もし平地にあったとしてもひどく目立つほど大きいので、坂を登る人はきっと、いったいどんな大金持ちがこんなお屋敷に住んでいるかと疑問を抱くだろう。

まだなにかがおかしい。読んですぐ情景が思い浮かばないのだその理由は「天気のいい日に」を最初に置いたことにもありそうだ。そう思って、また何度も訳しなおした結果、ようやくいま中公文庫に載っている訳ができた。

 ちょうど折よく、NHKラジオ第1の「深夜便」で書評家の方が出てこんなことしゃべってました。「カズオ・イシグロという作家は各国語への翻訳も考えて、翻訳しやすいようにわかりやすい文章で書いている、という話もあります」。ほかならぬ翻訳者自身のこうした「告白」を見たあとでは、まさか、って思いますよ。飛田先生がこの小説作品の出だしをいかに苦労して訳出したか。さらに引用をつづけると、
… 文章は 3つになった。まあこれなら若い読者でもなじめるし、老人の口調も出ている、と思ったものの、まだ訳者のひとりよがりが残っているのではないかと恐れた。出版後しばらくして、カズオ・イシグロご本人から、ご両親と叔父に当たられる方が私の訳を読んでたいへん褒めておられたということをうかがい、ほっと胸をなで下ろした。

 それにしても、たいていの読み手は ―― 当然のことながら ―― 翻訳というかたちでイシグロ作品に触れる場合がほとんどだろうから、翻訳者の責任はきわめて重大、ということになる( ついでに飛田先生が最初の訳文について「わざと戦前の小説の調子をまねた」という部分、個人的にはどこかしら佐藤春夫ふうかなとも思った )。もちろん医療関係論文の翻訳だって人命がかかっていたりするわけだから、これはどんな分野 / ジャンルの翻訳作業に対しても当てはまるわけだが、こと文学作品に関して言えば、読み手がその本を手に取ってまず最初に受けるイメージを決定づけてしまうわけなので、きょくたんな話、ヘンテコなやっつけ訳みたいなのに不運にも出会ってしまうともう二度と、その作家の作品は手に取って、あるいは買ってもらえそうにない。逆に読者について言えば、あまりにも翻訳という言語転換作業について無頓着すぎる。とくに書評を書くようなプロの読み手を自他ともに認めるような人たちがそう。翻訳家で書評家でもある鴻巣友季子氏によると、現在の書評業界( ってなんかヘンな言い方ですけど )で翻訳本を取り上げる場合、キチンと原本と対照して書評を書く人ってほとんどいないそうだ。だから約 30 年前のような騒動になったりするんだな。べつに原本じたいが入手できなくても、いまじゃ Google Books だってあるわけだし、部分的にも対照できるはずなのにそういう裏をとるプロセスさえおろそかにして平然としている書評子が大半だ、というのはどう考えても問題だと思うぞ。

 最後に日本文学の英訳例をちょこっとだけ挙げておきましょうか。
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
 あまりに有名すぎるので川端康成の原文は省略。つまり英語圏の読み手にとって、川端文学の基本的イメージはこの出だしの一文だったりするわけです。でもよーく見るといろいろと食いちがっている。このへんの事情を詳しく知りたい向きは中村保男著『創造する翻訳 ― ことばの限界に挑む( 研究社出版、2001 )』の巻頭で検討しているので、ぜひ読んでみてください。いずれにせよ英文と日本文とではあまりにも言語構造がちがうので( 深層意識レベルでは意外にも[?]似通ったりする場合もあるにはあるが )、ヨコのものがすんなりタテになってくれないのです。それなのに「労多くして得るところの少ない仕事( 村上春樹氏 )」なのが翻訳という営為。2, 30 年前に比べればいまのほうが翻訳、ないし翻訳者に対する世間の態度はマシになってはいるかとは思うが、たとえば「印税率をもっと下げます」なんて言われて悔しい思いをしている先生方も事実、おります。あ、そういえば中村保男氏の本で 'Time flies like an arrow.' というのをコンピュータ翻訳機にかけたらどんなのが出てきたかについて書かれた一節があるんですけど(「時間蠅は矢を好む」とか )、いまの Google 翻訳にかけたら「時間は矢のように飛ぶ」とちゃんと訳してくれまして、このへんは AI だかビッグデータだかアルゴリズム体操だかなんだか知りませんが、ラテン語翻訳まで( いちおう )できちゃう機械翻訳ですからさすが、と言うべきか。でもいまだに英日 / 日英間の機械翻訳ないし自動翻訳はハードルが高いことは相変わらず。たとえば上の諺をちょこっと「変奏」して、'Fruit flies like a banana.' に変えて Google 翻訳に突っこんだらたちまちにして「果物はバナナのように飛ぶ」とハエの脚ならぬ、馬脚を露す(「片腹痛いですわッ」by 黒澤ダイヤ )。

 というわけで、当分のあいだは人間の翻訳者は必要、ということですな( ご同慶の至り )。というかこれをネタにして清水義範さんばりのショートショートでも書けそうな … 気はする( ちなみに英訳冒頭の the ですけど、主人公が乗ってる列車ですのでここはぜったいに定冠詞になる。イシグロ作品の飛田訳とおなじく、あるていど「単純化」された文章に成形している点にも注目。そういえば先日、地元紙連載コラムで「グーグル翻訳が変える生活」という寄稿記事を見かけた。「論より証拠。皆さんも一度ぜひグーグル翻訳を使って英作文や英文翻訳をしてみてほしい。最先端の技術が私たちの生活をいかに変えうるものかを実感できるはずだ」とそのデキをずいぶん高く買っておられるようでしたが、日英 / 英日にかぎって言えば例に挙げたとおりでそんなに楽観的ではない )。

 ついでに図書館ばかりか、本屋も「祝ノーベル文学賞」とかってあるのにカズオ・イシグロコーナーは空っぽ( !!! )。版元はほんとうに予想してなかったみたいで、増刷かけても間に合ってないらしい。しかたないからいつも行ってる図書館に寂しく(?)書架に収まっていたイシグロ氏 20 代のころの鎌倉を舞台にした『夕餉( A Family Supper, 1982 )』という短編の収録された『ペンギンブックス現代英国傑作短編集[ The Penguin Book of Modern British Short Stories edited by Malcolm Bradbury, 1988 ]』を借りてその作品を読んでみた。カポーティの Miriam を思わせるちょっとこわい終わり方だったのが印象的な掌編でした。そういえば文学賞受賞のおかげで再放映されたこちらの番組。あらためて見て、すばらしいな、と感じ入ったしだいです。次回作はどんな作品になるのかな? 



[ 参照した文献 ]
飛田茂雄『翻訳の技法』研究社出版、1997, 2009.
中村保男『名訳と誤訳』講談社現代新書、1989. / 『創造する翻訳 ― ことばの限界に挑む』研究社出版、2001.
村上春樹『村上春樹 翻訳( ほとんど )全仕事』中央公論新社、2017.

posted by Curragh at 01:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 名訳に学ぶ
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