報道によると、磯山先生は1月 27 日夜、「埼玉ヴォーカルアンサンブルコンテスト」の審査をつとめたあとの帰宅途上、折からの大雪で凍結した路上で転倒して頭部を打ち、病院に担ぎこまれたという。先生は昏睡状態のまま、先月 22 日、冬季五輪での日本選手の活躍が日々報じられるさなかにみまかった、とのことらしい。
不肖ワタシが磯山先生の名前を知るきっかけとなったのが、( 磯山先生を偲んで『マタイ受難曲』の終曲合唱をリクエストした OTTAVA リスナー氏もおなじく )、「NHK 市民大学 バロック音楽[ 1988年4−6月期 ]」の TV 講座。このとき講師だったのが、磯山先生だった。先生の書き下ろされた市民大学テキストはいまだにワタシの重要な資料のひとつとなっている、と言うとかっこよく聞こえるが、ようするにここでの拙記事など書くときのアンチョコとして役に立っている。あれからまる 30 年、テキストはいまやすっかり黄ばみ、薄汚れているけれども、本文 140 ページくらいの薄っぺらな小冊子ながら、その中身の充実ぶりにはいまだに目を見張る。「古楽の楽しみ」での起きぬけの耳にも心地よいバリトンヴォイスの解説もじつに親しみやすくて、失礼ながらほかの大先生もすばらしいとは思いつつも、語り口の親しみやすさという尺度だったら磯山先生の右に出る方はおそらくいまい( と、思う )。日本におけるバッハ研究では、往年の角倉一郎先生もおられるけれども、角倉先生もさぞショックだったろう、と思う。まだ 71 歳です。聞くところによると、『ヨハネ受難曲』にかんする博士論文の出版準備中だったとか … 。
磯山先生の著作でもっとも有名な本はおそらく『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』だろうと思うが、個人的には講談社学術文庫に収録された『J.S. バッハ』の、つぎの一文がたいへん印象に残っている( いつものように下線強調は引用者 )。
… バッハを知れば知るほど、私には、バッハは深く宗教的な人間であると同時に、狭い意味での宗教を超えた人だ、という印象が強くなってきている。大切なのは、バッハがなにを信じたかという信仰の内容ではなく、信仰に貫かれたバッハの生き方、精神の方向性なのである。これは、「バッハあるある」的なお悩み質問、つまり「バッハを聴くのにキリスト教の信仰は必要か?」。先生自身もこの問題におおいに悩まれたすえ、到達した結論として書かれた文章です。「かんじんなのはキリストという人が実践した精神のほう」というのは、たとえばニーチェなんかも似たようなことを言っている。そんなニーチェも、じつは『マタイ受難曲』が大好きだった、という逸話が残されている( 友人宛て書簡で「今週、わたしは『マタイ』の演奏を 3回、聽きました」と当の本人が告白している )。また当然のことながら磯山先生はバッハ研究書の訳業も数多くて、近年ではクリストフ・ヴォルフの『バッハ ロ短調ミサ曲』というすごい本も上梓されている。
ほんとはワタシのようなディレッタントが磯山先生について知ったような顔してつらつら書くもんじゃないとは思ったが、やはり個人的に影響を受けたバッハ研究者のおひとりでもあるし、「古楽の楽しみ」でもずっとおなじみだったし、まさかこんな不慮の事故でいきなり不帰の人になろうとはまったく予期していないなかったので( 当たり前ですが )、すこし思うところを書かせていただきました。バッハ研究で言えば古くは杉山好先生、そしてライプツィッヒの「バッハ・アルヒーフ」研究員も務めていた筆跡鑑定の権威・小林義武先生もすでに泉下の人だし、いまはただただ、合掌。