先日、地元紙に小さな扱いながらこんな記事が。「英大調査 / ソーシャルメディア曲がり角? ニュース利用減少」というもの。
『自分の時間』という邦訳書名で知られる古典を書いたことでも有名な英国人小説家アーノルド・ベネットは、どこで読んだかかんじんなことは失念してしまったが、たしか自分自身の意見や考えというものを持たない人を「毎朝、新聞を読んでからでないと仕事に行けないような人間」というふうに評していた。そんなベネットが、この記事見たらどう反応するのかな? ほえ、21世紀人はソーシャルメディアなるもので、紙の上ではなく光る平滑な画面上に映し出される文字を読んでいるのか、しかもこの写真は動くし音も出る、まるで持ち運べる映画じゃ、なんて思うかも。
ニュースを知るためのツールとくると、マスメディアの代表格のひとつでもある紙の新聞、あるいは NYT に代表されるようなインターネット上の「電子版」と称される媒体が思い浮かぶ。でもここ数年は事情が変わってきて、いまなにが起きているのかを知るのに Facebook や Twitter なんかで配信されるモノを頼りにするんだそうな。とくに FB は前回の大統領選以来、fake news の温床だとして叩かれてきたから、逆に言うと、ここ数年は旧来の新聞ではなくて、ソーシャルメディア経由でニュースに接する人が存外多いということを示している。これ、もっぱら地元の地方紙と、たまさか図書館なんかで「東京新聞」とか読んでいるにすぎない古いタイプの人間にはいささか信じられない。
なんというか、やはり「モチは餅屋」、だと思うんですよね。記者が足で稼いで取材してきた記事や写真原稿を編集者がいったんまとめて、それにデスクがダメ出しする。最終的によしということになった記事原版が校閲・校正を経て印刷に回る。販売店に輸送されてきた新聞が配達員によって各家庭に配達される。これだけの労力と手間とカネがかかっているわけです。オンライン版とか電子版はどうか。まず印刷しなくて済むから木材資源の節約にはなる。省資源、省エネルギー。で、配達する必要もないから、とくに速報系、 breaking news 系にはとくに威力を発揮するでしょう。これはたいへんなメリットだと思う。でもなににも増してネット新聞の最大の利点は、ウチにいながらにして、いや iPhone などのモバイル端末さえあれば、いつでも、どこでも世界中のニュースをリアルタイムで知ることができちゃうことだろう。伊豆半島にいたってアイルランドの英字紙 The Irish Times が読める時代。
問題なのは、そもそも報道機関でもなんでもないプラットフォーム企業の手のひらの上でめいめいが好き勝手に「配信」しちゃってるニュース「もどき」、報道「もどき」だろうと思う。fake news のたぐいはたしかに昔から存在しているし、写真の世界ではたとえば「心霊写真」なんか、150 年以上も前の写真術草創期にもう世間を騒がせていたりで、言ってみれば古く、かつ新しい話なんではあるけれども、いまは Instagram などの出現でだれもがかんたんに写真の加工や編集ができちゃったりする。ようするに小学生でも腕っこきの記者よろしく情報発信できてしまう世の中なので、文責というか、よほどハラをくくっていかないとマズい、とワタシなんかは感じるんですけれども … Twitter で遊んでばかりいる大統領閣下はじめ、甚大な災害が発生してただでさえ「正確な」情報がほしいときにじつにくだらないデマやホラを垂れ流す輩もいたり(この人の発言はしょせんプロパガンダにすぎない)。とくに Twitter は企業の PR、もしくは災害の現場がいまこうなっているからなんとかして、みたいな情報に使うぶんにはなんら問題ないし、このプラットフォームの持つ強みが十全に発揮されるように思う。でも現実はね …… これ以上は推して知るべし。
キューバ危機の時代、米国ではいまだ LIFE とかの写真ジャーナリズム系雑誌がいまとはくらべもののないほどのパワーを持っていた。ユージーン・スミスとか、報道写真家と言われる人々も矜持を持って仕事に打ちこんでいたように思う。ジャーナリズムとジャーナリストの地位がこれほどまでに凋落したのは、ひとつにはネットでだれもが発信できるようになったということも大きいのではないか(ジャーナリズムの本場と思っていた米国でさえ、昨今は大学のジャーナリズム学科に入ろうものなら親が猛反対するんだそうな)。なにかとバッシングを受けたりする新聞ですが、英国 The Times の社説が書いているように、最後のよりどころとしての新聞はまだまだ捨てたもんじゃないと思いますね。とくに紙の新聞の持つ、パッと広げただけでだいたいが把握できる「情報の一覧性」は、すぐれた特性だと思う。
ベネットですけど、こちらの方のブログ記事にたいへん興味深いことが書かれてあった。限られた可処分時間を有効活用するには関心領域の本を読むべし、でもそもそも「読解の基礎ができてない人が多い」。これ、ホントそう思う。「たおやめ」だの「ゆめゆめ」だのといった古風な言い回しはしかたないとしても、「気の置けない友だち」という表現が通じない。最近、日本大好きな YOU さんたちが多いみたいだけど、彼ら彼女らのほうがよっぽど日本語を知っている(「こうもり[傘]」がわからない若い日本人がけっこういる)。Twitter だろうとブログだろうとなんだろうと、カネをとる、とらないに関係なく、人さまに自分の主義主張を伝える前にまずもって「先人の書いた著作なり文章なり」をそこそこの量仕込んで自家薬籠中のものにするくらいでないとイカンでしょう。あと、タブレット世代のいまの小学生は習うかどうか知らんけど、「原稿用紙の使い方」とか、句読点の打ち方や禁則といった書きことばとしての日本語のルールも大事ですね。
でもそれ以上に個人的にもっとも大切にしている原則は ―― 読んだ人が不快になるようなことはきょくりょく書かない、または自分が読んだとき、「これつまんねー」的な文は書かない。いわゆる『文章読本』ものじゃないけど、文章を書くという行為はそうとう疲れるもんです。かなり注意しているつもりでも誤字脱字が出てきたり、翻訳だったら誤訳していたり …… Twitter なんか見てますと、どうも日本語で文を綴ることのむつかしさ、こわさを知らないで御託を並べてるたぐいが多すぎて閉校、じゃなかった、閉口する。
それと、ここで紹介したベネットの『自分の時間』、この夏の読書感想文どうしようかな、なんて考えあぐねている高校生の方は、ぜひ読んでみれば。この本の原題には How to live ... なんてあるものだからハウツーものかい、と思われるかもしれないが、はっきり言って百年以上も前に書かれたこの本はイマドキのなんとかハックものだの薄っぺらな self-help ものとはまるで似て非なる名著。マーク・トウェインは「古典は酒、でも自分の本はだれもが飲む水」であり、「古典はみなが褒めるだけで読みはしないご本」なんて言ってるけれども、おなじ一日 24 時間使うんならこういう本を読むくらいの時間は持ったほうがよいですよ。
2018年07月08日
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