2018年10月30日

ルオーとキャンベルにとっての radiance とは

 今日、10 月 30 日は Halloween eve … じゃなくて、米国の比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルが異界へと旅立った日。自分が好きでコツコツ訳しためているとあるキャンベル本に収録された文章に、ゴーギャンやジョイスといった「破滅型の芸術家」についての考察がありまして、たとえばこんなふうに言っている。*
 もしあなたが壁で囲まれた集落に留まって生きてゆくのなら、身のまわりのことはその集落が面倒を見てくれるでしょう。でもひとり冒険の旅に出るのだったら、果たしていまが出発すべき時なのか、よくよく考えてみなくてはなりません。冒険の渇望に取り憑かれるのが人生後半、すでにあれやこれや責任を負っている年齢にそんな炎が灯ったとしたら、これはのっぴきならない問題になります。ゴーギャンがそうです。彼の後半生は破滅そのものでした。自身の人生はおろか、家族の人生までもが滅茶苦茶になったのですから。ですが、ゴーギャンの人生は破滅だったでしょうが、彼の芸術はそのためにかえって偉大なものとなりました。彼が絵を描くことに真剣に向き合いはじめたのは、45歳くらいから。以後、彼の人生は絵を描くこと以外になくなりました。ゴーギャンの生き方は、ある種の英雄の旅だったでしょうが、その代償はあまりにも高くつきました。なんとも皮肉なことです。ゴーギャンは人間としては大いなるしくじりを犯したと言えるでしょうが、しかし芸術家としては勝利者だったのです。[中略]

 最後の大作『フィネガンズ・ウェイク』を書き上げるのに、ジョイスはじつに16年を費やしています。さてこの作品が出版されたとき、いかなる書評が書かれたのか、ぜひ読んでみるべきでしょう。曰く、「この男はいったいなにをしようとしているのだろうか? 発狂でもしたのか? いかれた破壊行為を働いているだけなのか?」。『フィネガンズ・ウェイク』初版本は2か月と経たないうちに見切り本扱いとして安売りされました。わたしはこの作品を4部、それぞれたったの56セントで買いました。見切り売りがはじまったとき、版元はどうにかして出版費用を回収しようと立ち回ってました。よって著者のジョイスの手許にはなんの見返りもありませんでした。
 ジョイスは生涯最後の本として計画していた作品に手をつけることなく、59歳の誕生日を迎える3週間前に亡くなっています。ジョイスの生き方は、わたしにとっては手本たりえない。ですがわたしにとっての芸術の手本は、まちがいなくジョイスです。トーマス・マンはジョイスについて、おそらく20世紀最高の小説家だと評しました。でも、そのために彼が払った犠牲がどれほどのものだったか。
 またこの文章には『4分 33 秒』で有名な前衛作曲家ジョン・ケージのことば「名声などつまらんもの」という引用もあったりで興味は尽きないけれども、引用者がキャンベルのこの文章(もとはエサレン・インスティテュートというリトリート研修施設で行われた集中セミナーみたいな場での講義)でもっとも感動したのは(下線強調は引用者)、
 ジョイスは、これらもろもろの苦難を耐え忍んだ。ひとえに自身の希求する「完全さ」ゆえに。この完全さこそ、芸術の内包する成就であり、ジョイスはそれを成し遂げました。対して「生きる」というのは、不完全なものです。生きる上で立ち現れるあらゆるものはみな不完全なものにすぎませんが、芸術の働きというのはこの不完全な生を貫く「輝き(radiance)」を目に見えるようにすることにほかなりません
 先日、たまたま見たこちらの番組で、フランスの宗教画家ジョルジュ・ルオーの展覧会のことを取り上げてました。ルオー、とくると、パブロフのなんとかですぐ、あのぶっとい黒い線に囲繞されたキリストのご聖顔を思い出すんですけれども、イエスと聖家族を描いた最晩年の作品『秋、またはナザレット(1957)』を見た瞬間、ジョイスの言うエピファニーを感じてしまった。ルオーは十代のとき、ステンドグラス職人の徒弟修業に出ていたとのことでして、なるほどそれであんなぶっとい黒線か、とも思ったんですが、こちらの作品でつよく感じるのは背後から差しこむ後光のようなおごそかな「輝き」のほうでした。ステンドグラスから教会堂の石の床にまだらに投げかける、あの光、あの輝きが、その作品にはたしかにあった。もっとも絵画というのはホンモノを見るにかぎる、というわけで、まだ会期中だし、見てこようかなと思案中です(エドヴァルド・ムンクのほうも気にはなってる)。

 ところでキャンベル先生は最晩年になっても若々しくて、あんなふうに年を取りたいものだなんてのほほんと思っていたりするんですが(白髪は増えたが)、そんなキャンベル先生はわりと新しもの好きだったようで、
モイヤーズ われわれは自己のイメージに従って世界を改造したい、われわれがそうあるべきだと思ったとおりに作り直したい、という願望を持っており、機械はそれを実現するのに役立っている。
キャンベル そうです。ところが、そのうちに機械が人間に指図を与える時期がやってきます。たとえば、わたしは例のすばらしい機械、コンピュータを買いました。いまわたしは神々に関する一権威者といったところです。コンピュータをそんなふうに見てるんですよ。旧約聖書に出てくる、たくさんの掟を持つ情けを知らぬ神のようなものだと。…… わたしは自分のコンピュータから神話についての啓示を得ました。あるソフトウェアを買うと、そこに自分の目標を達成するために必要なすべての記号がセットされているのです。べつのシステムのソフトウェアに属する記号をいろいろ操ったところで、なんの役にも立たない。
…… ある人がほんとうにある宗教にのめり込み、それを基盤にして自分の人生を築こうとするのなら、その人は自分が得たソフトウェアだけを用いつづけたほうがいい。でも、このわたしみたいに、あれこれのソフトウェアをもてあそびたい人間は、たぶん聖者に近い経験を持つことは永久にないでしょうな。―― 『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房 1992[なお表記は自分のスタイルにあわせてあることをお断りしておきます、以下同].
 いま、インターネットをめぐってはさまざまな問題があり、そうは言ってもすばらしい可能性もまだまだ未開拓のまま残されている余地はひじょうに多い、と個人的には思うけど、「移民集団にはおおぜいのギャングや悪いヤツらが交じっている。どうか引き返してくれ。これはわが国への侵略でわが軍が待ちかまえているぞ!(「讀賣新聞」サイトの訳)」といったたぐいのツイートを垂れ流し、悪いのは fake news をまき散らす CNN や NYT だ、オレはなーんも悪かない、みたいな人間が世界の超大国にしてキャンベル先生の故国のリーダーでもある現状は、先生の眼にはいったいどう映るんだろうと、そういう妄言録を見聞きするたびに思う、今日このごろ。あの人の言っていることにいちいち心酔するような人たちってちょっとゾッとするんですけど、ひとことで言えば前にも言ったけど、90 年近くも前にオルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で書いたような人々なんでしょうな(どうでもいいけど、いまの米国大統領ってどうしてこう「時計の針」をもどそうもどそうとばかりするのか? なんかもう『風と共に去りぬ』の世界にまでもどってしまいかねない危惧がある)。

*... from A Joseph Campbell Companion: Reflections on the Art of Living, selected and edited by Diane K. Osbon, Harper Collins, New York, 1991.

posted by Curragh at 01:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など
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