べつにあの方のカタ持つわけじゃないですが、一連の騒ぎがイヤなんですよね。論点がズレまくっているというか。ここでも紹介した、スペインの思想家ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883−1955)の代表作『大衆の反逆(1930)』に出てくる記述なんかが、どうしても思い出されるのであるが ……。
個人が思い思いに意見を表明するのはもちろん問題なし。動物学者ジェラルド・ダレルが軍政下のアルゼンチンで赤ちゃんバクに振り回されるようすをユーモラスに綴ったエッセイとかも昔、読んだけれども、そのエッセイでダレルが発言したように、この国にも「意見を自由に述べる権利くらいはある」。ただし、思いつき・便乗・個人攻撃・お門違い、あるいはとくに欧米圏のメディアや人間の言ったことをなんの疑問にも思わず、無批判に額面どおり鵜呑みにして当の失言した本人を咎めているようなことはないだろうか?
・問題の発言と、進退について:欧米メディアはじめ、SNS 上でも集中砲火を浴びせられているようなところもあるにせよ、そもそもハナシ家じゃないんだし、ご自身の地位と立場、そしてこのタイミングとこのご時世をほんとうにわかっていたのなら、いくら内輪の会合の場だからって、女性を侮蔑したととられる発言は完全に「大事なときに転」んでいると思う。ただし、ヤメロヤメロと大合唱を浴びせるのは、オルテガの言う「私刑」つまりリンチではありませんか?
もし現在の与党出身者でしかも首相経験者の発言で問題だというのなら、それを生み出す腐った根っこをなんとかしないといかんのではないですか? 個人的にもっともイカンと思っているのは国会議員に定年がないこと、遊んでいても議員歳費をちゃっかり受け取れること、それとこれはとくに政権与党に当てはまるが、議員を「家業」にしていること、ようするに「世襲の禁止」をすべきだ、という3点にあると考える。この人だけを吊し上げて引きずり下ろして快哉を叫んでいるようじゃ、そういうあなたがたもやってることはたいして変わらないのではないですか? あと、問題発言を受けて聖火ランナーやボランティアを辞退する人がけっこういたとかいう話も「ちょっとなに言ってるのかよくわかんない」。問題となった発言と、聖火ランナーとして走ることやボランティアに手を挙げたこととは、ほんらい関係ないのではないですか?
Twitter なんかで今回の件をさんざん叩いた方は、今年はイヤでも国政選挙がありますから、ぜひとも有権者の義務を果たしてくださいまし。それもしないでなんだかんだ言うのは、オルテガの言う「慢心した坊っちゃん」じゃないですかね? あるいは自分で植えもしないトウゴマの木が枯れたといって嘆く預言者ヨナみたいなものかも。まずは「隗より始めよ」ですな。
・五輪を中止すべきという意見について:たしかに危険な賭けになるとは思う。世界的に予断を許さぬ状態でもあるし。ただ、いまはワクチンがあるだけでもまだ救いがある。あとはワクチン接種が間に合うかどうか。げんにいま、大坂なおみさんががんばっていて、深夜帯に中継をテレビ観戦して元気もらってる人だってけっこういるんじゃないでしょうかね? なんだかんだ言っても、いま批判している人たちも、いざ大会が決行され、たとえ無観客であったとしてもがっつりテレビで観るんじゃないでしょうかね?
・五輪ではなく、ほかにカネを回すべきという意見について:そもそもこんなの「復興五輪」じゃない、なんて言ってる人も、年末の「紅白」で例の歌を披露した子どものユニットとかは観ていると思う。その子たちだけじゃない、五輪とパラリンピックマスコットのデザインは、たしか全国の子どもたちの投票も反映されていたんじゃなかったですか? あんまりオトナのリクツだけを振りかざしていては、こうした子どもたちを傷つけることになりはしませんかね? コロナだからやるな、ではなく、なんとかして開催する方向で進めるべきだと個人的には思う。生の音楽や絵画に触れることも大切だが、おなじくらい、スポーツ競技に真摯に打ち込むアスリートの姿に触れることもまた観戦する人、とくに若い人にとって、前を向いて自身の人生をまっとうする勇気を与えてくれるんじゃないかって思う。前回のリオ五輪のとき、選手団の凱旋パレード見に行った人はけっこういませんでしたっけ?
「だれのための五輪?」というプラカードをかざして無言のプロテストをする人の映像がテレビで流れていた。冷たい言い方かもしれないが、「保育園落ちた、日本死ね」と言い放った人と精神構造が似ているのかもしれない。ご自身がよければそれでよし。ただし自分が不幸なら、すべては悪い。ここで何回か触れてきた「マイホーム主義」のひとつにしか見えない。いまの日本はたしかに問題だらけだが、それじゃ BLM に揺れる米国はどうですか? バイデンさんが新しい大統領に就任してスピーチしたのを NHK の生中継で観たとき、さすが腐っても米国だと感動すら覚えたけれども、30 年前と比べれば、いまの日本も格段に恵まれていると思う。チャンスだって増えている。かつては在宅勤務だなんて、どんな職種だってマジでそんなことできるわけがなかった。もっともセーフティーネットやベーシックインカムはもっと真剣に議論され、検討すべき課題だと思うが、やはり大切なのは「組織票」をアテにするような昭和な政治屋諸氏を落選させることでしょう。五輪に罪はないはず。コロナ対策については、さっきも書いたようにワクチンがようやく承認されたし、いまやってるテニスの大会だって無観客と観客入れとをうまく切り替えて実施されているのだし、五輪だけ中止という選択肢がほんとうに正しいのかどうか、よくよく考える必要があるのではないでしょうか?
・日本の女性参画について:今回の失言騒動の対応をめぐっては、欧州の風当たりはそうとうなものですが、ワタシとしては、その欧州で有色人種に対する差別がコロナ禍でいっきに吹き出した話とかがかなり引っかかっている。ドイツのサッカー観戦に来ていた日本人観光客に対する扱いとかはこちらの記事のような経過をたどっていたようですが、この前見たEテレの「ワンルーム☆ミュージック」という DTM 番組で紹介された、ロンドンを拠点に活躍する日本人アーティスト、リナ・サワヤマさんの受けたという壮絶な差別の話とか聞かされると、「おまえらのほうこそなんなん?」ってなるわけ。日本の女性問題のことを叩く前に、ご自分の足許も見なさいよみたいな水掛け論的になってしまうではないか。だいいち欧州の人種差別は、米国よりもさらに根が深い。ユダヤ人なんか典型的な例ですね。いや、島国の日本人こそ、そういう差別意識にもっとも疎くて、そもそも社会に差別意識があることすら意識していない。こういうのを systemic discrimination って言うんですが、たしかにこの点は日本人はおおいに反省すべきかと思う。
しかしこうも言える。そもそもだれしもなにかしらの「差別」意識は持っているもの。でも人は変われる生き物でもある。そのために意見を言い合うのはおおいにけっこうなことだと思うし、少なくとも自分の内面にそういう差別意識や差別感情があることに気づくだけでも精神的な成長になると思う。バナナマンさんが CM で言ってるでしょ? 「人間は迷う。まちがえる。だから愛おしい」って。行動経済学界隈では、行動経済学的にカンペキな人間のことをなんか「エコノ」って言うらしいけれども、そんな人なんているわけないし、べつに目指すべきでもないでしょう。大切なのは、「二度とおなじ失敗を繰り返さないこと」のほう。これだけで人はじゅうぶん、生きていけると思う。
そういえば、今年の芥川賞に決まった『推し、燃ゆ』。作者はなんと沼津市出身の女子大生だそうで、まずは御同慶の至りです。でも「推し」という言い方、通常はどこか「差別的」に用いている人もけっこういるんじゃないかって気がする。Otaku とおなじで。しかしながら思うんですけど、そういうものを持っている人のほうが、いざとなったら精神的に強いような気がする。今日、やっと作品全文が掲載された「文藝春秋」買ったので(遅 !!)、ちょっと仕事もヒマになったことだしこれから読むところなんですが、選考委員のひとりの選評がとくに心に残りましたね。
『推し、燃ゆ』の主人公は、…… わたしなどにとっては …… 正直なところ、まあ異星人のようなものである。自分の部屋に「推し」の「祭壇」を作ることが救いになる、それが生活の「背骨」になるといった心のメカニズムにしても、一応知的に理解はしても、何一つ共感するところがない。
にもかかわらず、リズム感の良い文章を読み進めて、その救いの喪失が語られ、引退した「推し」の住むマンションを主人公が未練がましく見に行くあたりまで来て、不意にじわりと目頭が熱くなってしまったのは、いったいどういうわけなのか。共感とも感情移入ともまったく無縁な心の震えに、自分でも途惑わざるをえなかった。主人公の嗜好も生活感情も世界との違和感も、ごく特殊なものでありながら、宇佐見氏の的確な筆遣いによって、どこか人間性の普遍に届いているからだろう。
こういうのもりっぱに普遍的テーマたりえる、ということの証左のような寸評だと思ったしだい。こういう「色」のついた、一見、クダラナイとさえ思われている「ことば」は、一般の人がそれと気づいてないだけでじつは人を生かすパワーが宿っていると思う。そういういわれなき差別を一方的に受けてきた「ことば」がほんらい持っている力をぞんぶんに発揮できる、そんな書き方のできる物書きというのはつくづく幸せだと思うし、こういう物語がいま、もっとも求められているのかもしれない。
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