2021年04月09日

『翻訳家の書斎』

 宮脇孝雄氏、とくると、日本を代表する英米文学、とくにミステリもの翻訳の大家。当方みたいのがこんなとこで取り上げるのはオコガマシイかぎり …… とは思うのだけど、図書館でパラパラめくっていたらめっちゃおもしろかったので、古い本(1998 年刊行)ではあるけれど、文芸ものの翻訳はいかにすべきかを考える上ではずせない書だと思ったのであえて触れておきます。もっとも、いわゆる「書評」めいたことは今回はいっさいやらず、ただ個人的にツボなところのみ取り上げるにとどめておきます。

 外国語辞書の版元として有名な研究社はかつて、「一流翻訳家が手の内を開陳する」みたいな本を立て続けに出していた時期がありまして、たとえば机の上にいつも置いてある飛田茂雄先生の『翻訳の技法(1997)』もそのひとつ。でも宮脇先生のこのご本は雑誌の連載コラムをまとめたものだからか、とにかく読んで肩の凝らない、翻訳よもやま話的な本。にもかかわらず、翻訳のカンどころはしっかりおさえてあるのはさすがです。

 本を開いてまず飛び込んでくるのが、「翻訳家の書斎にある道具」という章。なんでも英米の通販商品カタログはひじょうに重宝するとか書いてありまして、一例として Mars Bar に Victor なんてのが出てくる。前者はチョコレートバー、後者はなんと! オーディオメーカーではなくて、「ネズミ捕り器」の名前だという !! 

 でも、とイマドキの人は思う。べつにこんなのそろえなくても、ググればいいじゃん !! そう。たいていの調べ物はいまや Google で(ほぼ)一発 O.K. な時代。Google、恐るべし、いろいろな方面で。いまのところ個人的にはメリットのほうがデメリットを上回っているから、いつだったかここで書いたことをもう一度引っ張り出して繰り返せば、「コンテンツプロバイダーという巨人の手の上で踊らされてるだけじゃないかって気がする」自分がいる。

 とはいえたかだか 20 数年前の翻訳の現場といまとを比較してみれば …… やはり唖然とする。原書に出てくる映画の邦題がワカラナイとくれば、昔はそれこそ国会図書館だのどこそこへ問い合わせだのとやたら手間がかかり、行きもしないのに(!)NYC の地図とか商品名事典(薄っぺらいくせして5千円はした)とか持っていて、出てくるたびに引っ張り出して調べるのがおそらくどんな翻訳者にとっても当たり前だったと思う。

 いまはラクなもんです。でも出版不況かなんだかはよくわかりませんが、最近とくに思うのが、「単価下げ」、つまりダンピング。そういえばついこの前も第一人者と呼ばれる出版翻訳者の方が赤裸々に暴露した本とかその筋では話題になってましたっけね。駆け出しのペーペーながら、中身はちょっと気になるところではある。ただ、どれだけ MT(機械翻訳)技術が進化しても、あるいは AI の支援を受けた MT が「人力」翻訳を脅かすすようになっても、それを理由に人間の翻訳者の労力を無視した労働対価を押し付けるのは出版人云々以前の、人としてどうなん? という低レベルな話になってくる。ついでに、いまはアナウンサーをはじめ、「日本語のプロ」でなければならぬ人々の日本語レベルがどんどん低下しているように思えてならない。「え? なんでこんな言い回しがダメなの?」ということもしばしば。そのうち「ゆめゆめ〜」とか「いきおい〜」も、「〜なんだ」と同様、死語の世界入りする日も近い(「〜なんだ」は、川端作品にも出てくる過去を表す述語表現)。

 気持ちが暗くなるんで宮脇先生のご本にもどると、「翻訳家の仕事」や「小説を翻訳するということ」、あと誤訳に関して書かれてある章は、戒められる思いがした。とくに、「『翻訳家』という立場は、はたで見るより危ういもので、少し手を抜くと、たんなる『翻訳支援家』になってしまう(pp.47−8)」というくだりとか。ここの一文は、宮脇先生が当時(!)、アキバの PC ショップにて数万円は下らない「翻訳支援システム」の実演販売を見て食指をそそられたときのことと絡めて書かれてあるセクションの締めくくりの文章になります。

 最後にとっておきの一文と名訳を。おなじセクションの最後に紹介された話がまたケッサクだったので、ここでも引用しておきます。
 翻訳者というのは、もっと独立した存在であり、ある面では独裁者なので、自分の責任においては何をやっても許されるのではないかと思っている。
 もちろん、先の例のように、あとあと矛盾が起こるような誤訳はまずいのだが、翻訳者がびくびくしていたのでは、いい訳文が書けるわけがない。
 私がまだ 20 そこそこのころ、敬愛するある翻訳家に初めて会ったとき、前々から疑問に思っていた点を尋ねたことがある。その人の翻訳に少女が一人出てきて、原文では別の髪型になっているのに、訳文では「ポニーテールの少女」となっていたのである。
 未熟な私は、「もしかしたら、あれは誤訳ではないでしょうか?」と尋ねた。
 するとその人は、「おれはポニーテールが好きなんだ」と答えた。
 翻訳者は独裁者であっていい、と悟ったのはそのときのことである。

 ご本にはもちろん、古今の翻訳家の訳例もいろいろ収録されていて、そこだけ読んでも楽しいんですが、思わず脱帽、参りましたと言いたくなるスゴイ名訳もありました。それが、1987 年に王国社から出ていた『不思議の国のアリス』の 'Who are You?' の訳(p.58、訳者は北村太郎氏)。なかなかこうは訳せませんよ。なにがスゴいかって、原文の持つ韻まできちんと日本語に置き換えているんですぞ。一発芸的かもしれないが、不肖ワタシはしばしうなったままじっと凝視しておりました。とりあえず使えそうな手はいつか使えるはずだから、持ち駒としてメモっておこう。

「あーた、だーれ?」

補足:音楽関連の「珍訳」についても少し触れられてました。たとえば『謎のバリエーション(苦笑)』とか(もちろんエルガーの『エニグマ変奏曲』のことじゃね)。

 日本語表現では、こんなことも指摘していました(太字強調は引用者)。
 クラシック音楽に関する文章を読んでいると、独特な言い回しが出てくることがある。気になって仕方がないのは、「手兵」という言葉である。
 たとえば、有名な指揮者が、手塩にかけて育てたオーケストラを使って、演奏会やレコーディングを行ったとき、「巨匠カラヤンが手兵ベルリン・フィルを率いて……」などと書く。
 絶大な権力を持つ指揮者を陸軍大将か何かになぞらえたくなる気持ちもわからないではないが、「手兵」というのはいかにも時代錯誤ではあるまいか。……
 …… 考えてみれば、クラシック音楽にかぎらず、外国のものをどこか仰々しく輸入紹介するのは、ついこのあいだまでの私たちの習慣だった。昔は漢語で凄んだが、近ごろはカタカナで凄んだりする(インテリ用語にそのたぐいの言葉がある)。
 「手兵」、たしかによく見ますわ。そして最後の一文、ここ最近の「反知性主義」とか「フェイクニュース」とかの不穏な動きは、ある筋から一方的に情報や価値観を押しつけられ、そのせいで割りを食ったと不満を募らせている一部「大衆」の反逆を出現させたその一端というか萌芽の要因のひとつにも感じられたしだい。いまでもそうじゃないでしょうかね、某都知事あたりの会見見てればその口から出てくるのは横文字の奔流。ご丁寧にパネルにゴシック体で大きく書かれてもいたりで。こういうのばかり見させられ、そのじつ「3密は避けて」とか言ってる張本人たちがこれまた信用ならんときている(直近のニュースでも流れてくるのはそんな情けない話ばっか)。ことばが人の心におよぼす影響を侮るなかれ。特大のブーメランとなって跳ね返ってきますよ。

posted by Curragh at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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