2021年09月30日

「個人の自由」の履き違え

 先日読んだ、元陸上選手の為末大氏が寄稿したこちらのコラム。一読して頭に浮かんだのは、ジョーゼフ・キャンベルの『生きるよすがとしての神話』という講演集に出てくる、「統合失調症──内面への旅」と「月面歩行──宇宙への旅」と題されたふたつの講演。「宇宙飛行士が特別な外的世界を体験するのに対し、アスリートは特別な内的世界を体験する。内的世界とは『心の世界』と言い換えてもいい」と為末氏は書いているけれども、両者は同じコインの裏と表、きっぱり同じものだと言い切ってよいと個人的には感じている。

 このコラムの結び近くに、「ぜひ五輪、パラリンピックを目指した日々について、アスリートたちは言葉でその体験を社会に還元してほしい」との呼びかけがある。これを見たとき、ふと、仕事柄しかたないとはいえ、COVID-19 の感染者が相次いでいる芸能関係の人も、もうすこし自身の体験について観ている側にも伝わるような努力をされたほうがよいのではと感じてしまった。もっともこれは個人のプライバシーの問題でもあり、強制はできない。しかしいまは平時ではないので、公共の福祉という観点からも積極的に啓発してもよいだろうと思うのだが、手前勝手な理屈だろうか。

 為末氏のコラムには人間心理への深い洞察があって、「『心の世界』の学びの面白いところは段階的ではないところだ。ある瞬間にひらめくように悟れば、もうそうとしか感じられなくなる」といったすこぶる示唆に富むくだりにも現れているけれども、こういう「気づき」って体得できる人にはそれができ、そうでない人はいっこうにできないというもどかしさがある(下線強調は引用者)。とくに平時ではない、いまみたいなときがそう。悟りが遅いのはしかたない。自分もそうだから。だが、ハナから耳をふさいでしまっては、せっかくすばらしいことを語り聞かせ、書きことばとして残してくれてもなんにもならないではないか。それどころか、害悪をバラまき、ひいては社会全体の混乱に拍車をかけることにもなりかねないし、げんにそういう方向に扇動する言動を平然と垂れ流している御仁もけっこういる。

 「マスクをする・しないは個人の自由」という主張もよくわからない。未知(感染症の専門家でさえ例外ではない)の疫病が世界を席巻し、その感染者が2億人を超え、死者も 400 万人を超えている。疫病はひとつの自然災害で、自然は人間が勝手にこしらえたルールや道徳などいっさいおかまいなしに暴れるもの。地球の生態系は微妙なバランスの上に成立しており、それがすこしでも崩れればとたんに平衡を失う。温暖化がかまびすしく言われるようになって久しいが、 COVID-19 のパンデミックだっておなじだ。

 将来、このような未知の病原体によるパンデミックを防ぐには、ジャレド・ダイアモンド博士が言っているように、野生生物の乱獲と市場流通を即刻やめることだろう、マラリアを媒介する蚊の絶滅を目指すのではなくて(某研究所流出説は、こちらの WP 紙の速報記事にも書いてあるように科学的な根拠はほとんどない)。欧米には歴史的背景からして、「自然をコントロールする」という発想が根強く残っている。このへんが東洋人には生理的に相容れないところ。いつぞやの「ガイア理論」もしかりです。

 ここで大切なのは、自然ではなくて、わたしたちの側の行動変容のほうでしょう。たとえば、個人の自由という概念。「あなたはほんとうの自由に耐えられるか?」という一文で結ばれたエッセイの文庫本をすぐ手に取れるところに置いて折を見て再読したりしているんですけれども、まったくもってそのとおりで、自由というのはみんなが思っているほど単純なもんじゃない。自由には必然的に責任が伴う。平時なら問題にならない行動でも、そうは済まされない場合がある。この点に関しては悪い意味での“超”個人主義が横行している欧米なんかも日本のこと言えないのですが、それでも日本には確固とした“個”というものがなく、“個”と世間様との境界線がきわめてあいまいというのも相変わらず。個人的には、ここが最大の問題だと思っている。“個”ということでは、昨今ちやほや(?)されている「Z 世代」にもおなじことが言えるだろう。彼らの符牒に「ウチら」という、なんか西伊豆語の「うちっち」みたいな造語があるそうですよ。そこなんですぞ、問題なのは。「あなた自身はどうなのか」、これがなければただの「烏合の衆」にすぎない。まず先に来るのは仲間とかみんなじゃなくて、「個人」としてどうするのか。逆ではない。

 たとえば、大規模音楽イベント。聴衆が黙って静かに耳を傾けるクラシック音楽の演奏会と、パリピな大群衆がワーワー大騒ぎするような大イベントとを同列に扱うのはどう転んでもおかしい。もちろんなんでもかんでも中止、という段階ではいまはなくなりつつあるから(ただし警戒は緩めずに)、そのへんは皆が知恵を出し合う必要があるとは思う。ただ、一個人の勝手な主張を他人にゴリ押しするのは自由でもなんでもない。米国ではあのシュワルツェネッガー氏が「自由には義務や責任が伴う。他の人を感染させ、相手が亡くなる可能性もある」という趣旨の発言して、一部からかなりのブーイングを食らったそうですが、負けるなシュワちゃん !! ですな。

posted by Curragh at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など
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