2022年05月02日

『暴力の人類史』

 ……の、個人的読後感です。

 じつはコレ必要に迫られてあわてて図書館で借り出したものなんですが …… なんせ上下巻合わせて千ページ超えというトンデモない本だったので、とりあえず上巻から、と思ってほぼ一日1章の分量で5日くらいで付箋貼りつつ読んだんですが、はっきり言って駄作だと感じた(ワタシは基本的に断定的な物言いはしたくない人ながら、この本に関してはそもそも時間のムダだったように感じたもので)。

 もちろん部分的には卓見というか、なるほどと思わせることも書かれてありますよ。でもそれはシェイクスピアやワイルド、カントの『永遠平和のために』、ホッブズの『リヴァイアサン』の引用や説明など(「旧約聖書の歴史的記述はフィクションである[p.14]」というのは正解)、いわば「ネタの部品取り」には最適かもしれない、という話。しかしながら、そもそもの主張(といっても、この先生の仮説)と、その裏付けでえんえんとつづく講釈とグラフや数字などの「統計データ」の扱いがかなり恣意的ないし誘導的で、「上巻でこれじゃあ、下巻までしっかり付き合う必要はなさそう」と思い至りました(苦笑)。とりあえずなんとか短めに、上下巻に分けて妄評をば(いつものことながら、下線/太字強調は引用者。なお縦書き本の数字表記はすべてアラビア数字表記に変換してある)。

上巻:1991年にアルプス山中で発見されたアイスマン「エッツィー」(この前、NHK でも再放送されてたんで観てましたが)はじつは殺害の被害者だった、というのは有名な話から始まって、その当時から比べていまはどれだけ危険/安全か、と論を起こすわけですが……ようするに、「昔はヨカッタ」的なことを平然と口走る面々に対して「んなことはない。昔の人類はいかに残虐で暴力的だったか」を力説しているような話が続く。それだけ歴史(当然ここでは西洋史だが。もっとも日本にもその手の人はゴマンといて、「江戸時代はヨカッタ」なんてこと言い出す人はいまだ後を絶たず)を知らない白人が多いのかってこっちは思ってしまいますが、それはともかく気になったのは、やたらと昔の人と過ぎし日の社会の「暴力性(とその死亡者数の多さ)」ばかりをあげつらっていること。アーサー王もののひとつ『ランスロット(ランスロ、または荷車の騎士)』などを例に挙げて、「たしかに騎士は貴婦人を守りはするが、それはほかの騎士に誘拐されないためにすぎなかった」、「今日言われるような騎士道精神とはほど遠い(pp.56−7)」と手厳しい。

 この手の本を読み慣れてないとついスルーしてしまいがちなところなんですが、では今日言われるような騎士道精神って、いったいなんなんでしょう? 中世史家がここを読んだら、きっと「それは一般の現代人が勝手にこさえた妄想」だと現下に返すんじゃないですかね。「イルカはかわいいし頭もいいから食べるな」というじつに手前勝手な屁理屈と似たかよったか(西伊豆語)で、けっきょくいまのわたしたちの(=西洋人の)物差しで書いているだけなんじゃないでしょうか。こういう書き方がためつすがめつのオンパレードです。

 だいぶ前にここでも書いたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』。たしかに当時は戦死者も多かったし、殺し方、とくに刑罰は磔刑をはじめ八つ裂きあり火あぶりあり串刺しありと、とても正視できるものじゃありませんが(そういう刑罰道具ばかりを陳列した博物館まである。pp. 247 ff)、新生児や感染症の死亡率の高さなども考えると、「暴力死」の割合が突出して高かったわけでもなかろう、と凡人は思うわけです。では、全死亡の「外生的(こういう社会学用語ってどうもムシが好かないが)」要因をカテゴライズして、「戦死」とか「リンチ」とか「殺し」で死んだ人、つまり広義の「暴力」で死んだ人がいったいどれくらいいたんだろ、って当然疑問に思うわけです。第2章にそんな疑問の答え(?)になりそうな横棒グラフがあったりしますが、いずれ研究が進めば根拠にした数字はコロコロ変わりそうな印象のほうが強い。では時代が下れば下るほどデータは正確になるのか、といえばそうでもなくて、「近代国家になると……一つの『正しい』推計を示すことは不可能だ(p.112)」。というわけで、この本では、仮説を立証するために、当然のごとくこういうテクニックが多用されることとあいなる──「もし記録に残されていない戦闘による死や、飢饉や病気による間接的な死も含めるために 20 倍にしても、依然としてその割合は1パーセントに満たない(p.113)」!!!

 第二次大戦後、ロシアのウクライナ侵攻まで(この邦訳書の原著が刊行されたのは 2011 年)70 余年、「平穏な戦後体制(この本では「長い平和」と呼んでいる)」が続いたのはなぜか、という話で著者は、「[ゲリラ、準軍組織間の戦争は]『長年にわたる憎悪』が動機になっているとされる。カラシニコフ銃を抱えたアフリカの少年というおなじみのイメージは、世界の戦争の負荷は減ったのではなく、北半球から南半球へと移動したにすぎないという印象を裏打ちしている(p.522)」と書いてます。で、「この新しい戦争には飢饉や病気がつきものであり、そのため民間人の犠牲者が数多く出ることになる。だがその犠牲者は戦死者としては数えられない場合がほとんどだ」。…… なんか前の段落で引用した記述と矛盾してませんか?? 

 こういう記述の齟齬に加え、なんでもかんでも「暴力」でひっくるめて論じているものだから、「それとコレとは違うやろ〜」ってツッコミたくなることもしばしば。下巻にはなんと「菜食主義者」増加との相関関係まで取り上げられていて、ここまでくるとため息しか出てきません。

 古代史で戦争、とくるとたいてい引き合いに出されるのが『バガヴァッド・ギーター』の、アルジュナ王子を叱責するクリシュナ神の有名なくだり。果たせるかなこの本にも出てきたんですが(オッペンハイマーの有名な捨てゼリフ? の引用もね)、それがなんとジェノサイド(!)を論じたセクションでして、クロムウェルによるアイルランドのドロヘダ虐殺と同列に扱われてて草(いまふうの言い方をしてみましたずら)。「行動の結果を恐れる気持ちと、行動の成果を望む気持ちとをすべて捨てることによって、人はこれから果たさなければならない務めを、執着心なしに果たすことができます」(ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』)。こっちの解釈のほうが言い得て妙、て気がしますがね。

 あと 19世紀末のドイツロマン主義を「(人道主義的な革命を起こした)啓蒙主義と相容れない、反知性主義」とばっさり切った考察とかイスラム世界に関するくだりとか(あくまで西洋中心の記述のため、言及箇所は本の分厚さの割にめちゃ少ない。というかコレ「索引」くらいつけろよ〜、探すのタイヘンじゃんか)、「まったく新しい暴力エンタテインメントの形態であるビデオゲームが人気を博している(p.242)」ってありますが、ワタシはむしろ見方が逆でして(女性を商品化して見せているきわどいポルノはイカンと思うが)、たとえば昨今隆盛を見せている eスポーツ。あれって考えようによっては文字どおりスポーツ、つまりかつては血みどろの殺し合い、ないし「名誉の決闘」だったものが、じつに平和的に昇華されたすばらしい競技じゃないですか。あいにくこの本を書いた先生の眼には、低俗なポルノ産業とおなじものに映ったようです。

下巻:とりあえず目についたことだけを少し。p. 230以降の「ヒトの脳の構造」の話は興味を惹かれますが、とにかくあっちこっちと記述が飛びすぎて、ついてゆくのがタイヘン。でもけっきょく結論、言いたいことはひとつなので、めんどくさいと思ったら飛ばし読みをおススメします(プロットの入り組んだ小説とちがって、この手のノンフィクションものは流れがつかみやすい)。

 菜食主義者の話(pp. 169ff)ですが、動物の肉を食べることと、長期間にわたる暴力低下傾向との相関関係……は、あるとは思うが、なんかこう「肉食は悪」みたいな印象は拭えない。もちろんそれが著者の主張ではないものの、西洋の白人の価値観を押し付けられているような感じは残る。というかそもそも次元の異なるトピックどうしを、なんでもかんでも「暴力」枠に押し込んで論じているものだから、本の厚みだけはいや増し、という感じ。

 それでも著者はとても clever(この形容詞は「頭がよい」というより、「キツネみたいにずる賢い」というニュアンスが強い。あなたは clever だと言われたら、それは褒められたのではなく、ケナされたと思ったほうがいい)な書き方をしています。上巻から下巻まで、随所に「もっとも[暴力の]減少はなだらかに起きたわけではなく、……暴力が完全にゼロになったわけでもない(上巻 p.11)」みたいな逃げ口上を用意している。ひとりだろうと全人類が吹き飛ぶ戦争だろうと、殺しは殺しではないですか、という根源的な問いに対してもしっかり答えを用意して、「逃げて」いる(下巻 p.579)。

 最後に翻訳について。訳者先生は名うてのベテランの大先生なので、最初のほうとか「Kindle 試し読み」で突き合わせたりしましたが、もちろん問題なし。むしろ勉強になる(とくにこの手のとっつきにくい本では)。ただし誤植はやや多め。これは訳者先生ではなくて、校正・校閲側の見落としのせい(pp.236−37の「フローニンゲン」と「クローニンゲン」、p.606の「徹底した」など)。それと p. 143の『ローランドの歌』って、『ロランの歌』のことですかね? 

 この本を読んでここにいる門外漢がどうにも腑に落ちてこなかったのは、けっきょくこういうことではないかと思う:
マクルーハンの本自体が、新しいメディアの作り出した問題よりむしろ印刷文化特有の問題を立証しているように見える……この本は、いかに資料過多が一貫性の欠如につながるか、さらなる証拠を与えてくれた

 引用したのはつい最近、「日本の古本屋さん」で手に入れた 30 数年も前の『印刷革命』という、「印刷術の発明によって、旧来の文字文化から新しい文字文化=活字メディアへと移行したとき、それはどんな影響をおよぼしたか」を考察したホネのある原書の邦訳本の「まえがき」なんですが、ワタシがこの大部の本に抱いたウソ偽りない読後感が、まさしくコレだった。ウクライナ情勢が日増しに緊迫度を増すなか、「戦争」という究極の暴力に関して読むのなら、こちらも先日、NHK で再放送されていたロジェ・カイヨワの『戦争論』のほうがまだよいかと思ったしだい。

評価:るんるん

posted by Curragh at 16:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 翻訳の余白に
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