2024年02月22日

『監視資本主義』

 2007 年初頭に放映されたこちらの番組の記憶はいまも生々しい。とくに印象的だったのが、「すべてを Google に依存している」と言い放った青年。最近の買い物でさえ、Google の履歴に頼ると言うほどのヘビーユーザーで、しかも Google の広告アフィリエイト収入だけで食べていたのだから当時としてはかなりの衝撃度だった。もうひとつ、やはり澱のごとくアタマの隅にこびりついて離れないのが、Googleplex と呼ばれる Google 本社の壁面のとある落書き(?、抱負だったのかも)だった──「Google 帝国を作る」(!)

 実際、Google って何をしている会社なの? と問われて即答できる人っているんだろうか。新聞を見ても「ネット検索最大手」くらいのものだろうし、IT 専門家にしてもそれこそ十人十色で答えはバラバラになるんじゃないかと。以前、Google 幹部に取材したという内幕本も買って読んだことがあるが、イマイチ腑に落ちなかった。そして最近、その Google 傘下の YouTube で、オルガン演奏を収めた動画クリップを大きな液晶画面の TV で見ようかなと思って再生すると、フーガの演奏がいきなり途切れ、代わりにうっとうしい広告が何本も落下傘部隊のごとく出現して画面いっぱいに映し出される。

 いまやこうした IT の巨大企業は Google だけじゃありません。Facebook 改めメタ、往年の Microsoft に Apple、そして洋書屋にすぎなかったのがいまや地球最大級の通販サイトに急成長した Amazon。これらと数社を加えた大型ハイテク企業7社を総称して「マグニフィセント・セブン」と呼ぶらしい。

 MS と Apple はともかくとして、では最初の Google と後発のメタはいったい何をして利益を出しているのだろう、とギモンに思う人はいまだに多いだろうし、利益のすべてが広告料収入なはずない、といぶかる向きも少なくないと思う。

 そこでとうとう、と言うか、その長年のモヤモヤにひとつの解答だけでなく、こうした「征服者」たちへの抵抗を訴える警世の書の邦訳が 2021 年に出た。著者は米名門大学の名誉教授という肩書きで、社会心理学者。2009 年に落雷による火災で自宅が全焼し、そのとき著者を励ましてくれた最愛の夫にも先立たれるという不幸に見舞われた。30 年ほど前、台頭しつつあった情報通信デジタル技術とどう向き合えばよいかについて、地方の製紙会社の若い幹部社員に疑問を投げかけられた著者はそれ以降、一貫してこの「スマートマシン」問題の本を発表しつづけてきた。この本は、いわば集大成的なところがある。

 本文だけで 601 ページもあるたいへんな労作で、「52 人のデータ科学者」への取材も含む膨大な調査結果をもとに書き下ろされ、Google をはじめとする IT ユニコーンたちが今後どのような社会を築こうとしているのかについて精緻な考察を展開しています …… で、読後感なんですけれども、Google やメタをとくに俎上に載せて、彼らの所業を 16 世紀のスペイン人征服者の「征服の宣言」になぞらえたり、全体主義との結びつきの論考など違和感もないわけではないが、まずもって a must read な1冊である点は異論なし。ヘンリー・フォードらに代表される 20世紀の管理資本主義とはまったく別物の、最終消費者という顧客に対するサービスではなく、ほんとうの顧客(この場合は広告スポンサー企業)に対し、われわれユーザーの「行動余剰」という名の原材料を「抽出」して、それをサービスとして提供することで利益を得るという、かつて経験したことのない種類の資本主義が全世界を席巻しつつある、との主張はなるほど頷けるお話ずら、と感じたしだい(そういえばつい先日、NYC 当局が TikTok など複数の SNS 運営会社を相手取ってカリフォルニア州地裁に提訴した、との報道も見かけた。「インターネットの世界で大量の有害な情報にさらされ、若者たちの精神衛生上の危機が深まっている」と NYC 市長は訴えているが、もっともな話)。

 旧 Facebook 時代のメタがやらかした例の世界最悪と言われた個人情報漏洩事件(ケンブリッジ・アナリティカ事件)も、もちろん出てきます。もっともはじめの章で、「(本書の)目的は、この3社を批判することではない。むしろそれらは、監視資本主義の DNA を精査するためのペトリ皿なのだ」(p. 25)と断ってはいるものの、結論を述べた最終章(p.598)では政治学者のハンナ・アーレントを引用して、「監視資本主義の実態を語ろうとすると、わたしは必ず憤りを覚える。なぜなら、それらは人間の尊厳を貶めているからだ」と告白しているところからして、この本が書かれたのは監視資本主義とその親玉たちに対する激しい怒りにあるのは間違いない。どうりで最近、やたらと広告攻撃をけしかけてくるのだナ(そしてこれまた付き物の、ユーザーに不利な「使用許諾書」を一方的に押し付けてくる商法にも言及している)。

 アーレントは全体主義を論じた著作で知られているけれども、ある意味、監視資本主義(とその企業体)はそれ以上にタチが悪い。こちらが知らぬ間にそんな手合が放った刺客ならぬ常時監視(と、行動余剰の抽出とそれの無断提供)デバイスがあふれるようになり(いわゆる「モノのインターネット/IoT」製品群で、大人気のルンバも例外にあらず)、FB「ユーザーはもはやプライバシー保護を期待できない、と言い切った」メタ創業者のような監視資本家たちが提供する巣≠ノ囲い込まれた。究極的には、われわれ個人に最後に残された聖域まで強奪しようとする、と著者ズボフ女史は警告する。コレはひじょうに正鵠を射た指摘かと思う。不肖ワタシも、ポケGO に夢中の女子高生に道路に突き出されてあやうく車にはねられそうになった経験がありますし。こちとらにはさっぱり理解不能な世界ながら、ああいう顧客層って、この本で言うところの「行動修正」されちゃった人たちなんでしょうね、きっと。自戒の意味もこめて、自分までこの身を監視資本家連合に差し出さないよう、おおいに気を引き締めなくては、と決意をあらたにしたしだい。

 行動経済学だかナッジ理論( C・サンスティーンの『実践 行動経済学』の言及もあり)だかなんだか知りませんが、世の中そんなことばかりがもてはやされ、さも良いことのように喧伝されているフシがあるなか、古代ギリシャの秘儀(ミステリー)集団も顔負けの秘密主義のヴェールで事業の真の目的を覆い隠し、詭弁を弄してこちらをケムに巻いている Google やメタなどの巨大 IT 企業の実態を豊富な実例とともに暴露するこの本は、真の意味でまっすぐスジの通った良書と言ってよいでしょう。ピケティへの言及もいくつかあるけれども、この本もまた、監視資本家とその取り巻きが決まり文句のように繰り出す「不可避性」についてもしっかり批判している(cf., pp. 252−3、またはピケティ『資本とイデオロギー』のpp. 871−2)。
…… この新たな仕事の多くは、「個人化」(パーソナライゼーション)の旗の下で行われているが、それはカモフラージュであって、陰では日常生活のプライバシーに切り込む侵略的な抽出操作が進められている。(p. 20、丸括弧はルビ表記)
 ズボフ女史も繰り返し言及しているけれども、ワタシも(ほかのみなさんもそう感じていると思うが)ずっと前から、「便利なサービスをほぼロハで利用できているわれわれユーザーは、けっきょく Google という巨人の手の上でホイホイと踊らされているにすぎないのではないか」という漠然とした疑念(と不安)を抱いていたほう。なのでそのものずばり人形遣い彼らを踊らせろといった用語や見出しを見ますと、ああ、やっぱりそうなんだってストンと腑に落ちる。
3世紀以上にわたって、産業文明は人間にとって都合のいいように、自然をコントロールしてきた。その目的のために、機械によって身体の限界を超越し、克服してきた。その結果を、わたしたちはようやく理解し始めたところだ。海と空の繊細なシステムはコントロールを失い、地球は危機に瀕している。
 今、わたしたちは、わたしが情報文明と呼ぶ新しい時代の始まりにいて、それは同じ危険な傲慢さを繰り返そうとしている。…… 今回の目的は、自然(ネイチャー)を支配することではなく、人間の本質(ネイチャー)を支配することだ。(p. 590、丸括弧はルビ表記)
 また、こうした論考と主張の裏付けを、もっと巨視的な歴史から問い直しているのもこの本の書き方の特徴と言えます。とくに行動主義心理学の提唱者バラス・F・スキナーとからめて論じているのは個人的には新鮮な観点だった(スキナーは人間の自由意志を否定し、ある人がどのような行動をとりうるかについては「個人の外にある変数によって説明できる」、つまり適切な環境を与えれば適切な方向へ導くことができると主張した。彼の『自由と尊厳を超えて』という著作(1971)は当時、チョムスキーをはじめ、多方面で論争を引き起こしたことでも知られる)。

 この本では Google と同じく、行動余剰という資源を最初に発見した Apple についてはわりと好意的(?)な記述にとどめているけれども、人類の未来までもが圧倒的な知の蓄積を頼みとする監視資本主義家たちの手に握られているわれわれに残されている道は、「抵抗せよ」、そして「もうたくさんだ!」と表明することだと著者は結んでます。もうたくさんだ、just ENOUGH! …… これってずいぶん懐かしい響きがする。そう、ビル・マッキベンのこの本でした。けっきょく東洋の人間にはおなじみの「足るを知る」という中庸の道がもっとも妥当な道かと。もっともそれは監視資本主義にかぎったことじゃないですが。個人的にいちばんハラが立つのは、ふつうに辞書サイトとか表示しても、明らかなデマ・虚言広告がしれっと表示されること。PC 版なら広告ブロッカーで非表示にすることはできるが、スマホのブラウザだとうっとうしいことはなはだしい。広告を表示させる企業のアルゴリズムには、当該のバナー広告の表示基準がハナからないという、なによりの証拠です。著者ズボフ女史はこれについて、「極度の無関心の観点からは、良い目的と悪い目的は等価と見なされる」(p. 580)と書いている。シッチャカメッチャカ支離滅裂の混沌状態になろうが、利益になればそれでよし、というわけです。

追記:巻末の分厚い原注まとめページもていねいに追いながら読み進めたんですけれども、一点、第 10 章の原注(p. 112の 42)を見て FT の元記事を確認したら、どうも日本語版(p. 362)の記事公開日付が誤記のようです。ちなみにその FT 引用部分は、「今後そのゲームは小売業者やその他の者に現金を運んでくる、という見方が急速に高まっている」。あと細かいことながら、p. 598 の「同情してほしい」は、感覚的には「哀れんでほしい」の pity ではないかと愚考するものですが、どうなんでしょうか。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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