つい先日、「ガールズバンドもの」としてはきわめて異形のアニメムジカ本編が大団円を迎えたので、視聴しているあいだにいろいろ思ったことなどをエピソード順に思いつくまま書き出してみます。あくまでもワタシはこう思ったていどなので、その点はご了承を。以下、サブタイトルの日本語版は拙訳、公式さんの解釈とはいっさい関係ありません。[ ]は、下敷きにした可能性のある神話伝承や雑記とか。
#1 Sub rosa./薔薇の下で;恋愛の神クピド(アモール)が母のウェヌスの情事の秘密を漏らさないよう、沈黙の神ハルポクラテスに薔薇を贈ったことに由来。転じて、「『秘密』を象徴するバラを天井に描いたり、吊るすことで、その部屋の中で話された内容の秘密厳守を求めた習慣に由来」(英オックスフォード大学出版局の X 投稿より)
降りしきる雨の中、隠そうともせず慟哭しながら歩く豊川祥子(とがわ・さきこ)と、傘を差し出そうとしてもできずに立ち尽くす幼馴染の若葉睦(わかば・むつみ)。明るかった祥子は人が変わったように表情が翳り、彼女の事情を唯一知る睦も祥子の苦境を思う同苦(compassion)のあまり、しだいに精神が壊れていく[cf. ユングの言う「夜の海の航海」、オルペウスなどの古くからある「冥府行き」伝説群]
#2 Exitus acta probat./結果がすべてを明かす;オウィディウス『名婦の書簡』第2歌の引用。「ある者はこう言った。『いますぐ彼女をアテナイへ送れ。武器を担うトラキアの支配者はほかにもおろう。結果が良ければそれで良し』」
#3 Quid faciam? /どうすればいいの? 出典不明。cf. ウルガタ訳ルカ福音書16:3の「不正な管理人」のたとえ話に、”ait autem vilicus intra se quid faciam quia dominus meus ...”(どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている…)という一節ならある。睦がいままで内面の奥底に閉じ込めていたもうひとつの人格が初めて「モーティス人形」の姿で出現。「モーティス TV ショー」≒睦の脳内で再生されるカルテジアン劇場。自分のせいでまたバンドが壊れるという極度のストレスで不眠に陥っていた睦は、差し出せなかった傘を差し出すモーティスの誘惑をついに受け入れ、巨大化したモーティスに呑みこまれる[cf. ダニエル・キイス『五番目のサリー』などが取り上げた多重人格と、その元凶となった両親のネグレクトを暗示。モーティス人形は、たとえば『サスペリア2』(1975)に登場するグロテスクな人形なども連想させる]。ステージ上でただひとり、ドラム担当の祐天寺にゃむ(地方から単身上京してショービズ世界で活動するメンバーで、「普通の感性」の持ち主)が睦の天賦の才に気づき、慄然とする
#4 Acta est fabula./芝居は終わった;初代ローマ皇帝アウグスティヌス臨終のことばとされているもの。ドアをコツコツ叩くモーティスのカットは往年のオカルト洋画そのもの[cf.『シャイニング』(1980)]。睦に嫉妬していたにゃむが、睦の多重人格に気づいた祥子の発した「睦に戻ってきてほしい」という弱音を聞いて、怒りを爆発させる
#5 Facta fugis, facienda petis./成したことから逃れ、これから成すことを追う;出典はオウィディウス『名婦の書簡』のディードーの手紙から。元 CRYCHIC(クライシック)の仲間だった長崎そよが睦の寝室に入るラストカットも、やはり '70 年代オカルト洋画『サスペリア』(1977)によく似ている[cf. 主人公のスージーが、バレエ学校院長の年取った魔女の眠る秘密の部屋に忍び込み、寝ていた魔女に気づかれ、それに驚いた拍子に背後の金属製のクジャクの調度品を床に落下させる]。
#6 Animum reges./汝、心を制すべし;“Animum rege”と s なしのほうなら、ローマの詩人ホラティウスの『書簡詩』に用例がある[cf. ロアルド・ダール『魔女がいっぱい』(評論社、2006)が『いじわるな青い魔女』の元ネタか(?)]。絵本の表紙に赤クレヨン(またしても赤…)ぐりぐり描いていた ⊗ は交通標識の通行止め。モーティスと「祥子を想う」主人格の睦との闘争の暗示。MyGO!!!!!(以下、マイゴ)のギター担当・要楽奈(かなめ・らーな)がモーティスの中で眠る主人格の睦の存在を見抜く。楽奈の「歌っているギター」を聴いて、眠っていた睦が「小さな人形」として覚醒。真相を知り衝撃を受けた祥子が、マイゴの現メンバーで元 CRYCHIC の仲間だった高松燈(たかまつ・ともり)とマイゴの事実上の発起人の千早愛音(ちはや・あのん)に問われて、思わず「CRYCHIC も睦もムジカも知らない」と3度否定する[cf. バッハ「マタイ受難曲」の「ペトロの3度の否認」]
#7 Post nubila Phoebus./雲の背後に太陽;Phoebus はギリシャ神話のアポロン。強制的に睦の家に連れて行かれた祥子は自分の犯した罪を悔い、泣き崩れる[cf. 鶏が鳴いたとき、ペトロはイエスを裏切ったことを激しく後悔して泣き崩れる]。はじめ人形だった主人格の睦の自我がだんだん大きくなり、鏡の中に閉じ込められた姿で描かれる。睦が鏡から出ようとすると、体を乗っ取ったモーティスは逆上し、鏡を割る。モーティスはどうも退行人格のようで、行動も直情的かつ幼児的。そのくせ「お塩撒いてちょうだい!」という古風な言い方は知っているのね…。鏡の中から抜け出した睦は、お百度参りよろしく睦の家に通い詰める祥子にようやく会えたものの、主導権を握ったモーティスが祥子を突き飛ばす[cf. ダブルバインド的行動]。睦のいなくなった学校の野菜園でとれた「曲がりくねったキュウリ」の差し出しの描写(睦が育てないとまっすぐで「健康な」キュウリにならない)
#8 Belua multorum es capitums./多くの頭を持った怪物;ほんらい capitum (head を意味する caput の複数属格)で終わるべきだが、不要な s が付されているのは睦の多重人格やメンバーの表の顔と裏の顔の暗示か? 出典はホラティウスの『書簡詩』(Epodi)第1巻/第1歌。ホラティウスはローマの民衆を「多くの頭を持つ怪物」と呼び、「民衆の意見と欲望は多種多様で変わりやすい。いったいわたしは何に従えばよいのか」「あるいは誰に従えばよいのか?」と続ける
#9 Ne vivam si abis./あなたが去るなら、わたしは生きられない;出典不明。アイドルデュオ sumimi のひとりで、祥子に誘われてムジカ入りした三角初華(みすみ・ういか)が、CRYCHIC 復活の噂を聞きつけ、たまたまマイゴの燈といた睦に真意をただす。祥子を守る一心で発したことばに初華は激昂し、モーティス化した睦を階段から突き飛ばす妄想に苛まれる。ムジカ復活を企てるメンバーのベース担当の八幡海鈴(やはた・うみり)が睦、祥子、初華、マイゴのメンバーと話し合っている現場にやって来たにゃむ(と、その場に居合わせたマイゴの楽奈)だけがモーティスの三文芝居を見抜く。苦境に立たされたモーティスの背後に睦の人格を象徴するギターが落下し、睦とギターを奪い合ううちに睦のほうが階下へ転落する[cf. 赤基調の一連の闘争シーンと劇場セットの建物は前出の『サスペリア』のバレエ学校「赤い館」も連想させる。睦の自室にも同じくトウシューズ(よくよく見たら正確にはバレエシューズのようです)が転がっていて、「睦ちゃんが死んじゃった! もしもし!」とパニックになったモーティスがトウシューズの受話器に必死にすがりつく。観客席で何十人もの睦が拍手しているのは、かつて存在し、いまは消滅した内面世界のさまざまな副人格の睦たちだろうか。建物セットが崩壊しつつあるのは、消えた睦たちのいる観客席側にはやくおまえも来いという暗示か?]
#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す;出典は、ローマの恋愛詩人カトゥルスの「85番」と言われる短詩の冒頭句「わたしは憎み、かつ愛す。なぜそうするのかきみは尋ねるかもしれない。自分でもわからない。ただ、そんな気持ちになるのを感じ、苦しいのだ」から[cf. ドイツの作曲家カール・オルフのカンタータ「カトゥリ・カルミナ」(=カトゥルスの歌、1943)]。初華は廃棄処分寸前の祥子のオブリヴィオニス衣装を自分のアパートに持ち帰って添い寝したり、祥子の邸宅に連れ込もうとするにゃむに抵抗するなど、ここまで隠されてきた初華の秘密があぶり出されていく。にゃむが初華を豊川邸まで連れてきて部屋に入れてもらうと、ヘッセの教養小説『デミアン』(1919)を読む祥子がいた[cf.「一つの宿命が私の上におおいかぶさっていた。それを突き破ろうとするのは無益なことだった」──『デミアン』新潮文庫版、p.53]。「アモーリス」のにゃむに「ずるくて、うらやましくて、愛してる」と言われたモーティスは、それをほかならぬ睦に言ってほしかったことに気づく。復活公演の舞台で演奏するフリをしていたモーティスだが、自分は睦なしでは生きられないと悟り、身投げする。先に落下していた主人格の睦を抱いてともに転落していく[cf. ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』のフィネガンの転落≒人類の転落とその救済]。イマジナリーフレンドに戻ったモーティスと統合した主人格の睦は、初華の歌唱に合わせるように突然ギターを奏で始める。睦はギターを歌わせることができるようになっていた[cf. Crucifix X の出だしはベートーヴェンの「月光ソナタ」1楽章冒頭+バッハ「トッカータとフーガ」BWV565 のフレーズからだろう。嬰ハ短調 ⇒ ニ短調の転調。ついでに“X”は、イエスの弟子のひとりアンデレが磔にされた十字架の姿であり、出だしの「月光ソナタ」冒頭の調号もシャープ4つの十字形 ⇒ 聖アンデレ十字]。海鈴は睦の変化を感じ、にゃむはうつむく。ムジカ復活公演の屋外広告に書かれたラテン語(auferte memoriam vestram)は、英訳すれば Take away your memory くらいの意味
#11 Te ustus amem./灰になっても愛す;出典は、ローマの恋愛詩人プロペルティウスの『哀歌』3巻 15 章(「火葬の積み薪で焼かれてもあなたひとりを愛す」)から。マイゴ最終回で、ムジカのデビューライヴ冒頭で初華が独唱したイングランド古謡「グリーンスリーヴス」(歌詞に「長い間あなたを愛していた/そばにいるだけで幸せだった」という一節がある)が再び初華自身によって歌われ、隠された彼女の過去が 20 分超のモノローグで明かされる[cf. 私生児設定で思い出すのはたとえばケルト航海譚の『メルドゥーンの航海』]。三日月が照らす小豆島の海のカット[Ave Mujica がなんで musica でないのかが不明だったが、ひとつ可能性として、もともとラテン語アルファベットは 23 文字しかなく、i=j だったことを思い出した(u ももとはなくて、中世教会ラテン語の時代は v と混用されていた。cf. Nauigatio Sancti Brendani = Navigatio Sancti Brendani)。それで表記すれば Muiica。これを分解すると m〈isumi〉+uiica でム+ウィイカ、すなわち≒三角初華と読める。ほとんど恋愛感情と言ってよいほど祥子に対する思慕が強い初華の名前に、幼くして亡くした母を思って祥子が Ave Mujica と命名したのかもしれない。もしそうだとすれば、このメタルバンドのラテン語コンセプトも世界観もすべて祥子・初華の合作ということになる*]
#12 Fluctuat nec mergitur./たゆたえども沈まず;16 世紀からあるパリ市のモットー。[cf. デルフィの神託によれば、アテナイは海に浮かぶワインを満たした革袋のように波に揉まれるが、沈むことはないという(『ラテン語名句小辞典』 研究社、2010)]。「他者の敷いたレール」という運命の歯車に抗うかどうか逡巡する祥子に突風が吹きつけ、彼女はスイス行きから逃れる[cf. 祥子が読んでいた『デミアン』の作者ヘッセは 1924 年にスイスに帰化している]。祥子が初華と再会したのはバラ園で、ここで初回のラテン語サブタイ“Sub Rosa”が回収される(2人だけの秘密の共有)。また、「おお友よ、このような調べではなく…」で開始されるベートーヴェンの「第九」終楽章的な転換、あるいはバッハの「フーガの技法」の 12度・10 度で原形主題と新主題が互いに入れ替わる転回対位法による4声二重フーガのように、ここまでの「運命の歯車」が逆転し始める。それを暗示するかのようにオープニング/エンディング曲の反転。ちょうど真ん中のエピソードの #11 を挟むように、#12 と #10 ではオープニングとエンディングが変更されている]。また「キュウリの代わりにゴーヤを育てる」に関して、ゴーヤの花言葉は「強壮」「生命力」など
13 Per aspera ad astra./艱難を経て星へ;英訳すれば Through hardships to the stars. 出典不明だが、一説には、セネカの長編詩『狂えるヘルクレス』(Hercules furens)の“ Non est ad astra mollis e terris via.”、「この大地から天へ至る道は険しい」からとも。米カンザス州のモットーに採用されるなど、ひじょうに有名な格言。ライヴハウスでのマイゴのライヴと同時進行する復活したムジカのマスカレードライヴ。演劇のモティーフは順に円卓の騎士/アーサー王伝承群、騎士叙階(剣先で騎士の肩を叩く、dub して騎士として認めること)、ラグナロク/『エッダ』や北欧神話など。そういえば公演ポスターにもラテン語で mythologia(神話)と表記されていた
最終話の演劇については、神話的でありながらそのじつメンバー個人がくぐり抜けてきた苦難(per aspera ...)そのものがカタチを変えて語り直されているだけで、それを知っているのはムジカのメンバーと「共に苦しみ」(compassionate)、「共犯者」(accomplice)となったわたしたち視聴者(目撃者、witness)で、マスカレードの観客ではない。だからわたしたちも彼女たちの共犯者という「仲間」なのだ。
初回から「月の光でかりそめの命を宿した人形たち」という舞台劇だったり、祥子が学校の音楽室のピアノで弾いていたのも「月光ソナタ」で、メンバーネームも月の湖と入江※ からとられているので、マイゴが太陽の物語だとしたら、こちらはそれに照らし出される月の物語、と言えるかもしれない。いずれにしてもモーむつ氏の内面世界の描写の多さや(終盤にきてやっとカタルシスが訪れるとはいえ)、個人的にはわたしたちの誰もが抱える普遍的でありながらきわめて個人的な問題、つまり人間がよく描きこまれた作品だと感じた。それゆえ見た目はどぎつい色彩のオカルト色満載ゴリゴリのメタルバンドの物語ながら、もしこれをアニメではなく最初から小説として発表したら、日本発の最高にロックな教養小説(ビルドゥングスロマン)になるのは間違いないと思う。「Imprisoned XII」のサビ(I say you're mine, your mine/ほら すぐそこにいるのに)でモーティスが、ボロボロに崩壊した精神世界の屋敷から身投げして、ギターを奪い合っている最中に突き落としてしまった睦をかき抱(いだ)き、涙の雫を散らしながらギターを睦に託して沈んでいく描写は、こちらも涙なしに見ることができなかった。最終話で、客席に挨拶する睦が手にした手鏡の中で微笑むモーティスを見て救われたように感じた人はきっと少なくないだろう。前編のマイゴとのバランスをぶち壊すほどの圧倒的なストーリー展開だったけれども、まだ描かれてない部分や伏線も残っているため、続編が制作(北欧ロケ ?!)されるとのことでうれしいかぎり。「なんでバンドアニメでラテン語なの?」で見始めた本作だが、『ラブライブ!』シリーズと並んでまたひとつ楽しみができた。
❋ 祥子の科白に出てくる「同じ穴のむじな」(mujina)と musica の造語の可能性も指摘されている。またヘッセの『デミアン』にはほかにも「牧師さんの教えているとおりではない、違った見方もできる、それには批判が可能だ」(ibid., p.81)、「それは、責任の声と、もう子どもではいられない、ひとり立ちになるのだという声とを宿していたので、きびしく、荒い味がした」(ibid., p. 95)とある。祥子が結成した当時の Ave Mujica は「同じ穴のむじな」とは程遠い、各メンバー間のエゴ丸出しのてんでバラバラなユニットでしかなく、そのため祥子は孤立し、結果的にバンドは解散という死を迎える(前編のマイゴは学生アマチュアバンドとしての絆が描かれていたから、最初から商業バンドとして結成された Ave Mujica とはこの点でも対照的)。しかしその後のメンバーの声と、初華を連れ帰るフェリー上での「すべてを肯定したうえで、なかったことにする」と決意したときの祥子は明らかに精神的な変容を遂げた。祥子視点で見た Ave Mujica は思春期に通過するイニシエーション装置のようなものとも言えるが、物語後半でバンド復活を望む各メンバー間にははっきりとした絆が生まれはじめていた。だから Ave Mujica というバンドはほんとうの意味でのスタートラインにここでようやく立てた、それを描くための物語(舞台装置)だったと思っている。
※ 悲しみの湖(Lacus Doloris)/死の湖(Lacus Mortis)/忘却の湖(Lacus Oblivionis)/恐怖の湖(Lacus Timoris)/愛の入江(Sinus Amoris)