他のムジカメンバーの科白にもはっきり出ているとおり、睦は多重人格者(Multiple Personality Disorder、MPD)として描かれてます。* ストーリー全体から受ける印象としては、幼少期のネグレクトを起因とした解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder、DID)により、「睦を守るために出現したモーティス人格」(交代人格、以下モーティス)と、「ギターが大好きだが自分を肯定できない主人格の睦」(以下、ムツミ1)の2者に分裂し、その2者が物理的にひとつしかない身体を奪い合う、といった流れです(親のネグレクト、一種の虐待を受けていたことは、ムツミ1が表情に乏しく、口下手で、ギター演奏の才があるにもかかわらず肯定できずに苦しんでいる描写に暗示されている。そして現実の DID 患者のほとんどが、そうした幼少期の問題がきっかけで発症している)。
初見のときは当然、違和感のほうが強かった(そういう向きは少なくないと思うが…)。しかし何度か注意深く見ていくと、睦の内面問題を深く掘り下げていくことで、じつは各メンバーが抱えている問題も浮き彫りにする、一種のメタファーとして機能していることに気づいた。いちばんそれがよく出ていたと感じたのは「#10 Odi et amo./憎み、かつ愛す」の回。一見、女優志望の祐天寺にゃむが、自分のキャリアの前に立ちはだかる睦に抱くアンビヴァレントな感情を指しているのかと思ったが、これはそのままモーティスとムツミ1の関係にもあてはまる(し、もともと睦本人にはなんの感情も抱いていなかったはずの初華までギリシャ悲劇の仮面のごとき形相で、「私から祥ちゃん取らないで!」と憎しみを爆発させる#9の妄想カットとか)。モーティスはムツミ1が消えたら存在できない。ムツミ1を存続させるためにムジカ復活を画策するが、もともとが幼少期のイマジナリーフレンドだったお人形(モーティスのモデルについては、睦の部屋に転がっていて、#5で様子を伺いに来た元 CRYCHIC メンバーで現 MyGO!!!!! メンバー、クラスメイトでもある長崎そよが後退りしたときに踏んづけた青い髪の少女の人形ではないかという指摘がある)のため、思いどおりにいかなくなるととたんに赤ちゃん返りのような駄々をこねたり感情を爆発させたりする。愛憎相半ばしているのは物理的な他者のにゃむだけでなく、若葉睦という身体を取り合っている彼女の2つの人格でもある。
発起人の豊川祥子ほどではないにしても(初華は抱えている闇がめちゃくちゃ深いが…)、Liella!(『ラブライブ! スーパースター!!』)の澁谷かのんが「不器用さんが多すぎだよ〜、あ、ワタシもか」と言ったように、ムジカのメンバーも皆、内面に問題を抱えている子たちの集合体。2つの人格のあいだを激しく揺れ動く少女の内面描写に時間をかけたのも、メンバーが抱える問題をただ同時に語らせるのではなく、多重人格に苦しむ若葉睦の姿を通して重層/重奏的に語らせたほうがより説得力が増す(現実味が出てくる)と判断したからかもしれない。もしこれ抜きだったら、ここまで強烈な印象は残らなかったと思うし、その企ては(完全というわけではないだろうが)成功したと思う。
じつは先日、このようなスレッド投稿を見かけてひじょうに驚いた。投稿主自身が4年越しの DID の当事者で、この作品には、当事者にしかわからないような DID 特有の症状の描写が至るところに散りばめられていると絶賛している。しかもこれ制作した監督さん本人が謝意を述べているからもっと驚く。多重人格ものとくると、往年のダニエル・キイスの一連のベストセラー著作(『24人のビリー・ミリガン』など)がすぐ想起されるけれども、わたしたちが観たムジカという「かりそめの箱庭で歌い、舞う人形たちのマスカレード」は、現実の DID の症状をわかりやすく可視化した稀有なアニメ作品でもある、と評することもできる。DID の描写でとくに印象的だったのは #6、顔の右半分をムツミ1が、左半分をモーティスが支配して、それぞれ相反する表情を浮かべようと顔をひきつらせているカットでしたね。
モーむつに関する最大のナゾは、「消滅していなくなったのか?」。これについても(はっきり言ってこの手の発言じたいが異例中の異例だと思うが)監督さん自身が明かしている。監督さんが言うには([]は引用者)、
…奈落の底でもうほぼ消えている「睦」[ムツミ1に相当]と最後の邂逅だけは果たしたというシーンになります。その後ギターを弾き始めたのはもう誰だかわかりません。睦もモーティスもいない、第3の人格というわけでもない。いろんな役が入れ替わり状況に対応するだけの状態という感じです。現在のムツミは、以前、みなみがにゃむに語っていた頃の状態とも若干違っていて、役ごとに人格と呼べるものがない。…いまはそれぞれの「役」がその状況で必要になったら勝手に出てきているような感じの、つかみどころのない人になっています
…だそうです。
手鏡の中でモーちゃんとおぼしき姿が微笑んでいるカットついては、「モーティスも数ある『役』のひとつに面影を残すのみになった、というイメージ」で、「メタ構造」になっていると明言している。それでもそれを見えるように表現したのは、たんなるサービスカットを超えちゃってるんじゃないかとは思う。それまでのムツミ1と、それなしでは生きられないモーティスが、ユング心理学では無意識を表象する深い深い水の底(cf. 夜の海の航海)へと沈みつつ、互いの体のアウトラインが一体化するかのように消えていったとき、いままでのムツミ1とも違う、ほんとうの意味でありのままの、素の自分を肯定できつつある若葉睦(あるいは、その役回り)が形成されたように感じる。いま、ムツミ1と対立していた交代人格のモーティスはそれを無条件に受け入れ(無条件の愛、あるいは存在の全肯定)、「よくがんばったね」と笑顔を返すようになった、それが見えているのは若葉睦当人と、彼女の DID 問題で祥子やそよ、その他メンバーとともに「苦しみを共にしてきた」わたしたち視聴者だけだ、という理解でいいような気がする。ギターを巧みに弾いていたのは、自分の存在をあるがままに肯定できつつある、成長の階段を一歩上った現在進行形の若葉睦なのかもしれないし、監督さんが言うように、ムツミという人間の役の引き出しのひとつにすぎないのかもしれない。
#8の個室カラオケのカットで、「ムツミちゃんなんて、最初からいないよ」とすごむモーティスについては、その前のエピソードで祥子が言っていたように、ほんとうにいない、存在していないのではないと思う。あくまでもモーティス主観の発言であり、自分の目的達成のためならなんだってしそうなにゃむと同様、「自分が消えたくない」モーティスの膨れ上がるエゴ、自我がそう言わせたのだと解釈している。
ムツミ1とモーティスとの争いという視点で見返すと、動物的な直観(?)にすぐれた要楽奈の顔つきの微細な変化描写も真実味があって軽く感動を覚える。#6で「ギター、弾く…」と言って、祖母から譲り受けた年季の入ったギターを演奏しはじめると、楽奈のギターが「歌ってる…」と気づいたムツミ1が深い眠りからようやく覚醒した。覚醒後のムツミ1が1日限りの CRYCHIC で演奏し終えたとき(成り行きでそういうことになった)、楽奈がそれとなく鋭い目でムツミ1のほうを見やったのは、ムツミ1が目覚めたこと、そして自分にとって好敵手となりそうだとピンときたからだろう。
あと本題とは関係ないが、最終話の最後にかかったムジカ楽曲はいわゆる天球の音楽で、クラシック音楽好きでもあるのでつい ↓ なんかも思い出していた。
──すべて過ぎゆくものは比喩に過ぎない ……
名状しがたいことが ここで成し遂げられた
永遠に女性的なるものが われらを高みへ引き上げる
(G. マーラー「交響曲 第8番」〈千人の交響曲〉から第2部の神秘の合唱から)
* ... 『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM、全米精神医学協会刊行)、および国際疾病分類(ICD、世界保健機関刊行) による多重人格障害/解離性同一性障害の定義の一部:
@ 患者の内部に二つ以上の異なる人格が存在し、ある特定の時点にはそれらの一つが優勢となる
A これらの人格または人格状態の少なくとも2つが反復的に、その人の行動を完全に制御している
B … 1つの人格から他の人格への変化は最初の場合は通常突然に起こり、外傷的な出来事と密接な関係をもっている ── F.パトナム 他[著]、笠原敏雄 編『多重人格障害 : その精神生理学的研究』春秋社、1999