ジェイコブズはこの本で、「文明は、揺り戻し機能が崩壊すると回復不能になる」としたうえで、「文明崩壊後に訪れる、集団的な記憶喪失の時代」が暗黒時代であり、いままさにそれが ahead にある、というわけで、なぜいままた n 回めの「暗黒時代」が差し迫っていると言えるのか、について5つの観点から論じてます。
その5点とは順に❶ コミュニティと家族、❷ 高等教育(とくに大学)❸ 自然科学とその効果的な実践であるテクノロジーの方向性、❹ 課税とその仕方、❺ 知的プロフェッショナルの自己規制 の5本柱。これらが「倒壊の危機にさらされている」と警鐘を鳴らすためにこの本(彼女の絶筆)を書いたと巻頭で述べてます(「人種差別やはなはだしい環境破壊」「犯罪」「政治家不信と低投票率」「中産階級の激減と貧富の拡大」といったことのほうが重要視されがちだが、じつはそれこそこの本で指摘する5本柱が倒壊したゆえの結果にすぎないと主張する。また暗黒時代についてはギボンの『ローマ帝国衰亡史』や、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』の分析を取り上げている)。
そしてこれら5つの観点は一事は万事と言うごとく、すべてがつながっていて、個別に論じることはできないという強い信念のもとに書かれていて、名のある専門家≠ゥらそのへんを叩かれたりもします(自身の経験をあまりに一般化しすぎている、とか)。たしかに暗黒時代という定義も絶対的なものではなくて、かつては「暗黒の中世」なんて言われていた、とくに西欧における中世も言われているほど真っ暗じゃないんじゃね? みたいな主張もたしかにある(フェルナン・ブローデルやジャック・ル=ゴフの著作など)。それにこのテーマじたいが壮大すぎて、とても邦訳書の 30 数ページでは論じ切れんでしょう、とも思う(シュペングラーの『西洋の没落』的な大部の著作がいくつも必要かと)。あと、後半で日本とアイルランドには暗黒時代はなかった点が共通していると論じていて思わず「ほぇっ?」となった。ようするにどちらの島国も、「忘却」という5番めの「悪魔の騎士」が加わることなく、「自分たちがだれであり、なにに値するかを決して忘れ」なかったから、ということらしい(とはいえアイルランドの歴史のほうがはるかに苛烈だったのは言わずもがな)。
しかし、さすがジェイコブズ女史、とアタマを掻いたり膝を叩いたり、あるいはこの拙い駄文の最後で引用するような、背筋にツーっと寒気が走るようにいまこの時代の世界を見抜いたかのような一文があったりと、間違いなくこの本は a must read な一冊だと思う。
たとえば出だしの「家族は衰退する」の章では、米国ではクルマ社会化が進んだために家族とコミュニティという社会の基本単位が破壊されたと、GM の名前まで挙げて具体例を引いて手厳しく糾弾していたりする(日本でも、かつて作詞家の阿久悠氏が、「人びとが傲慢になったのは、自家用車を所有するようになったからだ」と述べたことがある。たしかにソレは一理ある)。
住居費のために働きにでる妻や母親が増えていく。少ない所得で住居費をまかないホームレスにならないために、まず核家族がすることは、支出を減らし娯楽に金をかけず、同じような問題を抱える友人と同居し ……、節約できる物は売り払い、裁判所命令による子どもの養育費を払わずに行方をくらました元夫を政府に頼んで探し出すことである。大学教育の問題点を論じた章と、それにつづく「放棄されたサイエンス」では、無責任な専門バカの量産機関と成り果てた大学と悪しき学歴社会をコテンパンに批判して、以前、ここで書いたオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を思わせる。
こうして節約に努めてもあまり役に立たず、世帯の必要経費は増える傾向にある。インフレだけでなく、必要経費の内容に変化が起きているからである。多くの家庭が悩む一番深刻な出費増は、自家用車である。なかでも郊外では公共交通機関が削減されたり、すっかり撤去されてしまった。
…… アメリカの郊外を数キロほどドライブしても、乗用車やトラックから降りた人や歩いている人影は見かけない。こうした人影のない風景はバージニアやカリフォルニアやマサチューセッツの郊外で経験したしトロント郊外でも目にした。(「家族は衰退する」から)
また科学はとくに生物学や医療について、システムの全体を扱うことではほとんど進歩していなかった。そして科学は個々に孤立した一部分を扱うことで、統合されたほかの部分とどのように相互に影響し合うかをほとんど把握できなくなる。このように科学が総体ではなく部分しか把握できない場合もあるのに、わたしたちは科学を過大に信頼することによって、ほかの分野ではありえないような誤りを受けいれてしまうことになる。(「放棄されたサイエンス」から)「いい加減な課税システム」と題された章では、移住先として人気が高い(いまでもそうかはわからないが …… )カナダのトロント市域を引き合いに出して、いやいやちっともそんなことはないのよとばかり具体的な事例を書きつらねていく。
2003 年にはピアノ、美術、コンピュータ、グラフィックデザインなどの課外授業は 350 課程が削減され、年金生活者や移民などのための「生涯学習」も廃止された。また学校のバスケットボールのコート、野球場からも使用量が徴収されることになった。かつて納税者や親は建設された学校に誇りを持っていたが、今では生徒ひとりあたりの教室のスペースよりも、洒落た廊下やロビーのスペースの方が広くなってしまった。このように文明の社会的資本は系統的に浪費されているのである。(「いい加減な課税システム」から)このような状況を作ったのが、当時のカナダにも出現した「ネオコン[新保守主義]と呼ばれる政策」だという(ネオコン …… 久しぶりに目にしたなこの用語)。
この本のおもしろいところは、巻末の原著者による注釈が、よくあるたぐいの無味乾燥な参考文献の羅列ではなくて、実質上、著者による本文の補足として書かれている点。たとえば 1972 年の日本の事例として、当時は個人の住宅どころか、商店も留守中に施錠せず、客が勝手に入ってきては品定めしていた、という自身の目撃談を紹介している。「こうした習慣も、泥棒を警戒して、いまではさすがに廃れたことと思う」。…… 田舎町ではどうなのかな …… 数こそ少なくなったけれども、ゼロではないでしょうね。げんに無施錠の窓や戸口から賊が闖入した、という話もときおりニュースで見聞きしますし。個人的には、半世紀以上前の日本はどこにいてもご近所さんがしっかり見て(監視して)いたから、というのが最大の抑止力になっていたのではないかと思う。また、オンタリオ州政府の吝嗇主義のせいで医療従事者が不足していたところに SARS(重症急性呼吸器症候群)のパンデミックが起こり、結果的に多くの医療従事者を感染させた失敗事例もやり玉に挙げている。
しかしなんといってもこの本を読んでいちばん驚いたのは、次の一節。エンロン事件などの、巨大な会計事務所と彼らと癒着した巨大企業の腐敗につづいて米国の政治そのものの「不誠実さ」を指摘したくだりで、ジェイコブズ氏はこう書いている(ちなみに原書が刊行されたのは第二次湾岸戦争さなかの 2004 年)。
もっともらしい否認が成功する背景には長年にわたる北アメリカの現実からの断絶があった。つまり事実に対するイメージの代用である。見た目のイメージが良ければ中身はあまり問わないという考え方である。きらめくものはすべてが黄金である。それでいい。優先するのはイメージである。これはたぶん 19 世紀後半の文学的・社会的名士たちの賛美とともに始まったのだろうが、それはさらにそれ以前からアメリカの傾向だった。誤ったイメージを作ることは北アメリカ全体でビッグビジネスとなり、アメリカ政府の主要な特徴でもある。大勢の嘘つきが雇われて、現実をあらゆる類のイメージから断ち切ろうとする。それは人間個人のイメージ化であり、法律、企業、場所、活動のイメージ化である。偏向したスポークスマンは欺瞞に満ちたイメージを作りダメージコントロールをする達人で、政治キャクペーンや問題を抱えた組織の権威あるスポークスマンになることができる。そして彼らは現実を切り捨てるだけでなく、新しい現実を作ることもできる。現実の現実とは聞く者を混乱させるかもしれないが、それこそ偏向するスポークスマンの意図である。(「自己管理できない“エリート”たち」から)ひるがえって、いまの米政権の中枢はどうでしょうか。執務室は金ピカのカーテンや調度だらけ、側近はイエスマンぞろい、fake news や untruth を垂れ流しておきながら、それを指摘する相手を fake 野郎とばかりに攻撃する大統領がげんに出現しているではありませんか。
…… ついでにその前の章に、「アメリカ人に絶えずつきまとう罪は、アメリカ以外の場所は現実には存在しないと考えている節があること」と書かれてあり、これも失笑を禁じ得なかった。
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