グループホーム(GH)暮らしで居宅介護というわけではないが、今年に入って感染症治療のため市立病院に入院したりといろいろありまして、それなりに老親の介護の当事者の視点を得たいま、あらためてこの作品を観ると、なんというかもう鬼気迫るものがありすぎる。沼津市民だから当然、封切られた当時に一度観ているけれども、久しぶりに映画館の大スクリーンで、バッハのヴァイオリン協奏曲(BWV 1041 第2楽章アンダンテ)が流れる冒頭シーンを観ることができのたはやはりうれしかったですね。
で、比べるのが大好きなてんびん座生まれとしては、映画化作品がこれだけすばらしい出来なのだから、下敷きとなった原作も読まねば片手落ちだ! というわけでさっそく読んでみた。そしてたちまち目からウロコがボロボロ状態になった。
原作は3つの掌編の連作というかたちで書かれている。いちばん古いのは最初の東京五輪が開催された 1964 年の作品で、最後の「雪の面」が書かれたのはいまから半世紀以上も前の 1973 年(NHK ホールのこけら落としの年)。医療やそれに関連する知識が飛躍的に向上したいまでは誰も(というか、差別用語という認識が先に立つだろうが)、「耄碌」(モウロク)だの「老耄」だのとは呼ばず、いわゆる老人性痴呆は認知症という正式な疾患名が与えられている。つまり「うちのおばあさんは年とってモウロクした」などと口にするようなことは消え、代わりに医者に診てもらうようになっている。還暦前の井上靖が生きていた '60 年代はまったくそんなことはなかった。その頃の日本社会では、老人の痴呆は老年性疾患のひとつではなく、「トシのせいで頭がおかしくなった」程度の認識でしかなかった。
…… そんな時代背景を考えてこの3編を読むと、突然、母の老いが突きつけた冷酷無情な現実を受け入れざるを得なくなった書き手とその親族の気持ちはいかばかりかと思うと同時に、あまりにも抑制の効いた筆致にもひじょうに驚かされた。ありていに言うと、老親の介護の当事者というより、そばに付き添っている看護師的な、一点の曇りもない冷徹な描写が淡々と続いていく印象の強い作品だった(映画版はぜんぜん違うから、このへんのサジ加減は原田監督のオリジナルなのだろう)。
老年性どころか、若年性の認知症まで取り沙汰されることも当たり前になりつつある昨今ながら、井上靖の綴る文章にはハっとさせられることばかり。淡々とした筆致だからつい見過ごしてしまいがちになるが、認知症の理解がまるでなかった半世紀以上も前に書かれたとはとうてい信じられない記述がほんとうに目白押しだった。
…… 母は何回でも同じ言葉を口から出す。それは丁度毀れたレコードの盤が何回でも同じ言葉を繰り返しながら回転しているのに似ていた。その頃、私たちは母が何回も同じことを繰り返すことを、母のそのことへの執心によるものと解釈していたが、その後私たちは考え方を改めていた。何か特殊な形で母の心を刺戟したものだけがレコードの盤面に記録され、記録されたとなると、あとは機械的にそれはある期間執拗に何回でも回転し続けているのである。(講談社文芸文庫版 p. 58)昭和後期を代表する文豪のひとりだから、読者の心に深く訴えかけてくるものがあるのは当然と言えば当然でしょうけれども、やっぱりいちばん心を打つのは、それを綴ったのが息子だからでしょうね。よく、「家族でしか撮れない写真」というものがあるけれども、こういう作品は息子でしか書けない/息子だから書けるものだ、と思う。
…… このように母は七十代から四十代ぐらいにかけての過去を失っていたが、その失われた部分は一面に真暗い闇に塗り込められているといったようなものではなく、霧が立ちこめているようなものであろうと思われた …… 私たち兄妹は、母のこうした自分の歩んだ人生の抹殺の仕方を、母が次第に子供の方へ向かって歩んで行くという風に解釈していた。人間年齢をとると次第に子供に返って行くと言われるが、私たちの眼には母はまさにそのようなものに見えた。母は七十八、九歳の頃から自分が歩いて来た人生を、少しずつ消しながら逆に歩み始めたのである。母は年々少しずつ若くなりつつあるのではないかと私たちには思われた。(ibid., pp. 70−71)
郷里へ帰りたいと言っている時の母の顔は、自分の家に帰りたがって、それ以外一切受けつけない幼児となんら異るところはなかった。母は小さい体全部で己が願望を表現していた。帰りたいと言っているのは口だけではなく、眼も、横顔も、背も、みんな帰りたいと言っていた。(ibid., p. 90)
私は嬰児の私を二十三歳の若い母親が探し求めて、深夜の月光の降る道を歩いている一枚の絵を瞼に描いていた。私の瞼にはもう一枚の絵があった。それは還暦を過ぎた私が八十五歳の老いた母親を探し求めて同じ道を歩いている絵であった。一枚の絵は冷めたいもので濡れ光っており、もう一枚の絵には何か凄まじいものが捺されてあった。この二枚の絵は、しかし、すぐ私の瞼の上では重なり合って一つの絵になった。そこには嬰児の私も居れば、二十三歳の母も居た。六十三歳の私も居れば、八十五歳の老姥の面を持った母も居た。明治四十年と昭和四十四年が一緒になり、その間の六十年という歳月が月光の中で収斂し、拡散していた。冷めたさも凄まじさも一つになり、鋭い月光に刺し貫かれている。(ibid., pp. 113−114)
最後に、映画版にもこの箇所の部分引用が出てきて、身内の人間が同じような状態になっている当事者のひとりとしては、やはり次の一節を引かないわけにはいかない。
私はまた、生きていた父が死から私をかばう一つの役割をしていてくれたことに、父の死後気付いた。父が生きている時は、私は父でさえまだ生きているのだからといった気持で、勿論この気持は意識されたものではないが、恐らくそうした気持が心のどこかにあったことに依って、私は自分の死というものを考えたことはなかった。ところが、父に死なれてみると、死と自分との間がふいに風通しがよくなり、すっかり見通しがきいてきて、否応なしに死の海面の一部を望まないわけには行かなくなった。次は自分の番だという気持になって来た。これは父に死なれて初めて知ったことであった。父が生きているということだけで、子供の私は父から大きくかばわれていたのである。しかし、こうしたことは父自身の与り知らぬことであり、ここには人間的なはからいも、親子の愛情の問題もなかった。これは、父と子であるという、ただそれだけの関係から生み出されて来るもので、これこそ一組の親子というものの持つ最も純粋な意味であるに違いなかった。
父親に死なれてから私は自分の死を、そう遠くない一つの事件として考えるようになった。しかし、私の場合、母親がまだ健在なので、死の海面の半分は母に依って遮られているわけで、私と死の間に置かれている屏風がすっかり取り払われるのは母が亡くなってからのことである。その時は、死は現在とはまた違った風通しのよさで私の前に立ちはだかって来る筈である。(ibid., pp. 18−19)
翻って、症状もタイプも個人によってまるで違う(症状の出方にも個性がある)認知症という疾患を、われわれはいったいどこまで理解≠オているというのだろう、という点もこの本を読んでおおいに考えさせられた。認知症という医学用語だけが独り歩きしていて、認知症ということばで括ってそれでわかった気になっているだけではないのか …… という思いを一読後に強く抱いたのも事実。介護当事者であってもなくても、ぜひ一読を勧めたい一冊。
評価:
【付記】:かなり以前にも書いたことの蒸し返しになるけれども、沼津駅南口に、1960 年代に建立された井上靖の詩碑がある。かつてないほど世界がキナ臭くなっている昨今、いま一度噛みしめるべき価値のある碑文だと思っている。
若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。愛の力以外にはない
[If there is something more powerful than atmic power, it is love ; nothing other than the power of love.]
