2026年08月11日

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

 コロナ禍のときにこの邦訳書名をもじったタイトルの記事を投稿したことがあったけれども、最近某 SNS でこんな投稿を見かけた下矢印1
── い つ ま で も 書 店 が 知 の 入 口 で あ り ま す よ う に
 この投稿を見て、瞬時に思い出したのがお題の本。というわけで原書刊行が 2009 年とちと古い対談本だけど、ちっとも古さを感じさせない(どころか、「無人島に1冊だけ持っていくとしたら〜」というお決まりの質問には、間髪入れず「この本を持っていく!」と叫びたくなる1冊でもある)。

 共著者として名を挙げられているおふたり(いずれも西欧の知の巨人)が、フランスの小説家でエッセイストのジャン=フィリップ・ド・トナック(邦訳書は『ギリシア・ローマの奇人たち─風変わりな哲学入門』)の進行で大好きな書物、つまり紙の本≠テーマに博覧強記ぶりを発揮しつつ、縦横無尽・自由闊達・放送コードぎりぎりを攻める(?)対談を収録した本。きわめて痛快かつ爽快な読後感が味わえるという、まことに稀有な読書体験間違いなしの第一級の読み物なんでR。

 ウンベルト・エーコの対談相手のジャン=クロード・カリエールという人もまたすごくて、映画史に残るあの『アンダルシアの犬』(1929)の監督ルイス・ブニュエルと長年、仕事をしてきた脚本家で著述家(ジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』のノベライズも手がけている)。エーコについては、映画化されて大ヒットをとばした『薔薇の名前』で日本でもおなじみの感ありのイタリアの記号学者、中世学者、哲学者で長年、名門のボローニャ大学で教鞭をとっていた。で、このような2人が膝つき合わせて対談しているというのだから、おもしろくないはずがない。どこを引用しようかと読み進めつついつものように付箋でマークしていったらたちまち付箋だらけになるしまつ(『音楽汎論』で知られるアタナシウス・キルヒャーに関する稀覯書の話とかも出てくるし、ここでもかなり以前に触れた「Q 資料」の話も出てくる)。

 キルケゴールばりに「あれか、これか」と迷いつつも、やっぱり紙の本≠ノついて語られている箇所をいくつか引きたい。
カリエール:…… 二十世紀の音と映像の記憶が、とんでもない規模の大停電、あるいはそれ以外の何か別の経緯で消え去ってしまったとしても、私たちにはまだ本があります。本があればまだ子供に文字の読み方を教えることができます。(「耐久メディアほどはかないものはない」/ちなみにエーコは稀覯書と古書大好き人間であるのと同時に、1980 年代、まだ Windows もなかった頃から PC を所有し、使っていた人でもある)

エーコ:真の収集家は書物の所有より探求に興味を持つものです。…… 一生涯コレクションの完成に専念して、ひとたびすべてがそろったら、売ってしまうとか、図書館に寄贈してしまうとか、そういう収集家 …… をたくさん知っています。(「今日出版される本はいずれもポスト・インキュナビュラである」)
…… 出版社でもある種の傑作を突っぱねるほどの愚行を犯すことがあるという証明になるような事例は過去にもたくさんありましたよ。たしかに愚説愚行の歴史について本を書くならぜひとも特別な一章を割きたいテーマですね。(このあと、プルーストの『失われた時を求めて』やメルヴィル『白鯨』などの名作が最初は酷評されたという話が続く/「何によっても止められない自己顕示」)
…… もう一つ、我々がこれから直面していかなければならない新しいかたちの検閲があります。世界じゅうのすべての書物、すべてのデジタル媒体、すべてのアーカイブを保存してゆくのはいいんですが、文明に何かの危機が起こり、この膨大な文化遺産を保存するために選択したすべての言語が突然解読不能になったら、その遺産は失われ、二度と取り戻すことができません。(「炎による検閲」)

 ほかにも「専門家の予測がいかにアテにならないか」を語ったり(p.74 ff.)、「17 世紀の英国にいたロバート・フラッドなる錬金術師は年間数冊の本を出版していたが、出版地はアムステルダム、しかも挿絵入りで 600 ページもある大著の出版を可能にしていた当時の出版流通システムの驚異」に関するおもしろくてためになる雑学(p. 78)もてんこ盛り盛り。本文だけでゆうに 400 ページを超えるハードカバーながら判型はコンパクト(これには印刷会社の製本の巧さも一役買っていると思うが)、そして意外と重くなくて(ココ重要! 13 インチ iPad Air のほうが重いと感じる!)、カバンに突っ込んで、どこでも好きなページ(対談)から読める本でもある。エーコが言っているように、紙の本以上に「情報を持ち歩くのにこれほど効率のいい手段」(エーコ、p. 176)は依然として存在しない(もっとも、「珍説愚説礼賛」の章で2人が語っているように、世の中には噴飯ものの書籍、かつてベテラン俳優さんが暴露本をみずから書いておきながら「こんな本はダメです!」と記者会見でほざいたりしたことがあったけれども、そんなショーモナイ読み物というのは掃いて捨てるほどあるとはいえ ……)。

 ここにいる門外漢も今後、紙の本が絶滅するなんてことはないと信じている ── 縦書き漢字仮名混じりの日本語の本はとくに。Kindle 版で、たとえばエド・マクベインの警察ものミステリとか読んだりするけど、やっぱ文庫本でないとダメだわ、漫画ならまだいけるのに、なんでだろ(エーコは、「コンピューターに向かって、二時間、小説を読んでみてください。目がテニスボールみたいにぱんぱんになります」とボヤいている)? PHYSICAL BOOKS LIVE LONG AND PROSPER! 

 最後に、昨今かまびすしい超高機能な AI 到来時代を予見したかのようなエーコとカリエールのやりとりを引いておきます。
エーコ:今は、二週間かけて新しい情報処理ソフトについて何か理解したとしても、おおかた使いこなせるようになった頃には、新しいソフトが出てきて、また使い方をマスターしなければいけません。したがって、問題は失われる集団的記憶ではないのです。問題はむしろ現在の不安定さなんだと私は思います。我々が生きている現在はかつてのように穏やかではなく、たえず未来に備える努力を強いられているのです。

カリエール:…… 終わりのない学習についてのお話は、いわゆる「退職者」の人々にも通用します。どれだけのお年寄りが情報処理の知識習得を強いられてきたでしょう。この先何年それを使って生活できるのかはっきりわからないのに。私たちは終身学習刑を宣告されているのです。…… いわゆる原始社会では、変化するものは何もなく、老人は力を持っていた、というのも、老人は子や孫に知識を伝えたからです。世界がたえず革新的に変化している現代では、子供たちが親にエレクトロニクスを教えます。では、親たちは子供に何を教えるんでしょうか。(「鶏が道を横切らなくなるのには一世紀かかった」)

※ 邦訳書は親切な割り注が、読書の流れを損なわない絶妙さで付されていてそれだけでもひじょうにありがたいのだけれども、p. 89 の「私たちがみずからを思い出すための『ラ音』のようなもの」という一節になぜか割り注がなかったのは、音楽をまったく知らない読者に対してやや不親切かとは思った(オーケストラとかがチューニングを始めるときにもちいる一点A/A₄ 、つまり440 Hz のラ≠フ音のこと)。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん
posted by Curragh at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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