2008年10月11日

「曾宮一念 油彩・淡彩素描展」

1994 年 12月に 101 歳の天寿をまっとうした洋画家・随筆家の曾宮一念氏企画展を見てきました。

 曾宮画伯のお名前をはじめて聞いたのは著書『画家は廃業』が刊行されたときで、県立美術館にも何点か作品が収められているけれども、未発表のデッサンも多く展示され、また代表作の数々も一堂に展示されるということで、この機会に見てきたというわけです。

 作品は年代順に並べられてましたが、まず目を引いたのが「冬の海 仁科」でした。1936年、というから70年以上も前の堂ヶ島・三四郎島を描いた大きな油絵。作品にはそれぞれ作者みずからものしたエッセイから取られた文章が解説として添えられてもいて、この油絵の下には、「寒気強風、歩行も危ないほどの日にありがたく冬の海を得た」とある。こういう一文を見ますと、妙にうれしい気分になりますね。自分も一度、画伯が何十年も前に写生されたおんなじ場所 ―― いまは海岸際に白亜のホテルがでんと建っている ―― に三脚立てて大型カメラで写真撮ったことがあるけれど、そのときも真冬の凍てつく西風が吹きまくっていて、そのせいか(?)シュナイダーレンズのシャッターが壊れた( 苦笑、ついでに大型カメラ用のレンズというのはレンズボードにレンズ玉がくっついていて、本体の組み立て暗箱にはそのレンズボードごと固定して撮影します。シャッターはレンズ内に組みこまれていて[ レンズシャッターという ]、そのときそいつがバカになってしまった )。上京ついでにレンズシャッターを修理してもらう破目になったこととか、つい思い出してしまった。

 今回、いろいろ作品を拝見して知ったことですが、曾宮画伯は大の雲好き、海好きの絵描きであったということ。海も、べた凪ではなくて大荒れに荒れた荒天の時化の海に心惹きつけられていたようで、ほかにも戦時中に描かれた犬吠埼燈台の絵とか、鴨川市波太( なぶと )海岸の絵とかありましたが、共通モティーフは冬の荒海でした。あとは山稜にかかる雲のおもしろい造形美をなんとかしてとらえよう、と試みた作品も、デッサンをふくめて多く出品されていました。「雲の絵描き」の異名をとるほど、雲を題材にした作品が多いことも知りました。それと、夕陽ですね。駆け出し時代は夕陽しか描かなかったと本人がしゃべっているビデオも見ましたが、夕陽と夕陽に照らされた雲、夕雲をテーマにした風景画もけっこうありました。冬の荒海、夕陽、雲。自分の好きな風景とぴたり波長が合っているみたいで、作品を眺めているうちになんだか楽しい気分になってきました。日没の海の水平線の下には、いわゆる「地上楽園」を感じさせるものがあるとか、そんな一文も添えられていましたね。たしかに西伊豆から駿河湾に沈む夕陽なんか見ていると、そんな感慨が自然と沸き起こってきます。

 荒海をテーマにした作品では、たとえば打ち寄せる砕け波 vs. 岩礁という作品群もあって、「岩と波」という作品には、凪いだ海の岩場というものは言ってみれば庭の石組みみたいなもの、量感とか質感とかでしか表現できないが、「波が荒れると、岩礁が目を覚まし、起き上がって波を蹴立てて走り出す」との添え書きが。曾宮画伯は画業のみならず文才も高く評価された人なので、作品そのものもさることながら、作者みずからの手になるこうした描写文もどれも名文ばかりで、読んでいるだけで画家が作品を描いている現場にいるかのような臨場感を感じます。上記の文、「…起き上がって波を蹴立てて走り出す」なんて、絵描きならではのすぐれた表現ですね。ものごとの本質をずばり言い当てた解説文もありました。「八ヶ岳夏雲」という 1965 年制作の作品にはこうありました。「柔らかい雲も、硬い筈の山も、同じ性格であるのに気づいた。山襞や峯は数を減らしてかまわず、波も岩も砂丘も平原も同類となった」。自分もヘボい風景写真を撮るので、こういう感覚はよくわかる。現場第一主義の画伯ならではのことばだと思いました。

 曾宮画伯は1960年代から ―― ご本人は夕焼けの見すぎではないかなんてビデオで言っていたけれども ―― 緑内障が進んで油絵の具の色まで見分けがつかなくなり、左目失明後も残った片目に映じた風景を「死神に追われるように」精力的に描いていったけれども、70 過ぎにはじめて出かけた欧州旅行のあと、1970 年ごろに画商に作品の塗り残しを指摘されたのがきっかけで筆を折る決心をした、という。翌年、完全に失明したあとは、「へなぶり」と称する短歌を書にしたためる生活に入り、101 歳で没するまでつづけていた。生涯現役、とはよく言われるけれど、その凄絶ともいえる生き様を記録した NHK 番組の録画とか見ますと、並大抵のことではとてもじゃないができないなぁ … と思った。また画伯の人となりが感じられる一文としては、亡くなるまで後半生を富士宮市で過ごしておきながら、すぐ近くの富士山を描いた作品をあまり残していないことについてこんなこと書いてありました。「富士の絵の需要が多いならどんどん描けばよいという人がいるが、それはよくない。… 富士は誰でも描ける。描けばその日に売れる。これがよくない。絵がいいから売れるのではない。そんな絵描きになってはいけない」。なので以後、富士の絵をと頼まれても「裾野の月」とか「富士五合目」とか、一部分を切り取ったような構図の絵のみ描いていたという。このへんが明治生まれの気骨の太い日本人ですね。また富士は描かない代わりに、反対側にある毛無連山という低山の絵はたくさん残っています。このへんがいかにも画伯らしいところ。

 画伯の作品は、たとえばセザンヌのサント・ヴィクトワール山を描いた一連の作品のような大胆で鮮やかな色使いがとても印象的です。とくに欧州旅行のときに描いたという一連の作品にそれが強く感じられます。とてもじゃないけど、いままさに失明しかかっている人の描いた絵とはとても思えない。このへん、画伯の生き方ともどこか重なっているのではないかとも思う。どんなときでもユーモアを忘れない。ほんとうに度量の大きな人だったんだなあと感じます。「へたな絵描いて笑いものになるより、あっさり廃業したほうがいい、それで絵描きはやめたんですよ」とこともなげに言う。でも夢中でデッサンしている自分の姿を夢に見る。「夢の中のほうがうまく描いているんですよ、これがよくしたものでね」。画伯の一見、軽妙洒脱に見える文章には、時代の波に翻弄されながらも必死に「描きたい絵」を追求していた芸術家の心の叫びが封印されている、とそんなことも感じました。とにかくそういうことをあまり表沙汰にしないタイプの芸術家なのです( 逆のほうが圧倒的に多いですが )。

 でも今回、この企画展を見てもっとも強く感じたのは、画伯が執拗に雲や波にこだわりつづけたのは、「形なき形」に真に自由な自分を投影していたからではなかったのか、ということ。刻々と姿かたちを変じる自然の造形美に、きっと何者にも束縛されない真の自由を見出していたのだろう、と。口ではあんなふうにおっしゃっていたけれども、画伯はきっと、もっともっとこうした絵を描きたかったんだろうなあということをあらためて感じたしだいです。

 画伯の描く雲、時化の海は、色使いといいフォルムといいどれも独特で、波しぶきが見ているほうにもバンバン飛んでくるような、えも言われぬ迫力に満ちています。雲だって、どんどん動いてかたちを変えている。スペインの赤茶けた色のグラデーションの風景なんか、画家の受けた強烈な印象を鑑賞者もダイレクトに感じます。とにかく自由闊達ということばがこれほど似合う洋画家というのはあんまりいないんじゃないかな、と思いました。鑑賞者はどちらかというと年配の方…が多かった気がするが、画伯の風景画作品は若い人にこそぜひ見てもらいたいと思いますね。企画展は月曜までですが、行って損はないと思いますよ。

追記。↑で書いた、レンズシャッターが壊れる直前に撮った原板をスキャンした画像が出てきたのでいちおう貼っておきます … 。

瀬浜海岸のトンボロ、1997年2月


posted by Curragh at 16:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 美術・写真関連
この記事へのコメント
突然のコメントですみません。私も曽宮一念のファンです。一念関連の記事を探していてプログに出会いました。素敵な洞察で共感しました。
Posted by haru at 2011年05月02日 12:17
haru さん

コメントありがとうございます! 

書いた当人も、ひさしぶりにこの記事を見ました … なにを書いているのか本人も関知していない記事ばかりですが、またお暇なときにでもどうぞ。
Posted by Curragh at 2011年05月03日 08:44
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